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> 点やルールのない没入型ゲームを挙げるかもしれないが、それはもはやゲームではなく、都合の悪いものを定義から除外すりゃそりゃどんな結論だって出せるだろ
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アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者
対偶: 芸術ならばゲームではない (スコア:1, すばらしい洞察)
> 点やルールのない没入型ゲームを挙げるかもしれないが、それはもはやゲームではなく、
都合の悪いものを定義から除外すりゃそりゃどんな結論だって出せるだろ
Re:対偶: 芸術ならばゲームではない (スコア:4, 興味深い)
ただ、この理屈を発展させるとちょっと面白い結論が見えてきます。
この人の主張する通り、勝敗の有無によってゲームであるかどうかを分けるとします。
ただ、実際の作品において勝敗の有無が全てという物は珍しく、また干渉・体験中に勝敗の概念を一切伴わない作品もまた珍しい。よって,『芸術性⇔ゲーム性』の度合いの問題で語られるべき性質のものだと私は考えます。
(以降では『ゲーム性』の語を『勝敗の有無を重視する度合い』の定義で使用します。)
例えば下のほうでもコメントされている通り、芸術作品を理解しようとする事は鑑賞活動に含まれるゲーム性と言えるでしょう。理解できたと思えた時には多少なりとも(ゲームに勝った時と同種の)喜びを伴なうでしょうし、作品をよく観察してそこから作者の意図を想像するという行為は、ゲームに勝つために行われる行動とよく似ています。
もっと極端な例で言えば、推理小説を読むときに、推理が当たるかどうかを重視しながら読めばそれはゲーム性の強い読み方だと言えるのではないでしょうか。一方で、物語として単に描写を経験するような読み方も当然できます。
このことから、同じ作品でも鑑賞・体験活動の違いによってゲーム性の度合いは異なると結論できます。
すなわち、ゲームとは、作品ではなく体験活動に付けられた名前なのだということになります。
となれば、ある作品がゲームであるか芸術であるかを論じることはあまり意味のないことなのではないでしょうか。
(ちなみに念のため言っておきますと、私はゲーム性から良し悪しを論じるつもりはありません)
Re:対偶: 芸術ならばゲームではない (スコア:1, おもしろおかしい)
当然導き出される結論として、各種コンクール類は芸術ではないということで OK ですね? 例えば、絵画のコンクール(日展etc),音楽コンクール(チャイコフスキーコンクールやらショパンコンクールやら)…
Re:対偶: 芸術ならばゲームではない (スコア:1)
で、コンクール自体はゲームだと思う。
Re: (スコア:0)
音楽でプレイヤーとリスナーの間に勝敗があったら、それは聴音のテストだ、と。
別に元ネタの人の意見を支持するわけじゃないけれど。
Re: (スコア:0)
推理小説のような作者が設定した静的な目標に対する勝敗と、対戦ゲームのような作者以外の第三の人格(といってもTVゲームでは往々にして作者が用意した仮想人格であることが多いが)によって生まれる動的な目標に対する勝敗では、その意味するところが全然違ってくる。
くだんの評論家の浅い考察がそこまで意識しているとはとうてい思えないが、おそらくは無意識的な後者に対する拒否反応がゲームは芸術ではないという主張につながっているのではないだろうか。