アカウント名:
パスワード:
科学的な方法には、科学なりの長所と限界がある。長所は中世暗黒時代からの幕開け以降、多大な利益をもたらしている。宗教による考え方にも長所と短所がある。そして宗教哲学には、2000年以上にわたって内省し知恵を究めて考え抜かれた論理がある。
知的活動の質としては、双方に上下があるわけではない。とんでもなく頭のいい科学者がいるのと同様に、すばらしい炯眼を持つ宗教者もいる(現在も)。一方で、イタイ宗教者がいるのと同様に、イタイ科学者もいる。科学も宗教も、悲劇的な犠牲者を生むことがある。
…と日々思うけどねぇ。むしろ科学的だと言うだけで盲信する方が(いわゆる)宗教的と言うか。
たとえば,なぜ死ぬのか?は解明できるだろうが,生きている「目的」については科学では「種の保存」以外の答えは得られないのではないだろうか。
だから科学だけが絶対のものとして受け入れるのは論理的でないと言ってみる(汗)
科学はそもそも根源的な理由を問う意味での「なぜ?」には答えられません。より詳細な仕組みを解明できるだけです。
一見答えてるように見えるのは「他の思いつきより”妥当性が高い”から」というのが精一杯でたいていの場合、あまり科学的ではないのが実情です。
例えば「なぜキリンの首は長いのか」という問いに「高い場所の餌を取ることができるから」というのは真の意味で「科学的な裏付け」は何もありません。全く異なる理由であのスタイルになっておきながら、たまたま運良く高い場所の餌が食えたから生き残った、のかもしれません。例え首が長くなった理由が適応進化だろうとキリンの意志だろうと異星人による遺伝子操作であろうと、科学はそのどれも(少なくとも今は)証明できませんし、それはあくまで手段であって理由の説明にはなりません。
本来「なぜ」に答えられるのは宗教と哲学くらいなのです。(実際は心理学とか精神医学とか脳科学とかも自信満々で答えちゃいそうだけど)
18世紀のプロテスタンティズムがどのように資本主義に影響を与えたかを 論じる文脈で、ヴェーバーは有名な論文の注の中で、次のように指摘しています。
ピュウリタン、洗礼派、敬虔派の信徒たちが特愛した学科は物理学であり、 それに次いで、同じ方法でもって行われる諸他の数学的=自然科学的諸学科だった。 つまり、現世の「意味」は、神の啓示の断片的な性格のために(これはカルヴァン派 的思想だ)概念的思索によってはどうしても捉ええないけれども、自然における神の 法則の経験的把捉によってその知識にまで到達しうる、と彼らは信じたのだった。 (マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫 p.250)
ここで示唆されている通り、私は、プロテスタンティズムの(特にカルヴァン派の) 職業的禁欲主義が資本主義の発展を促したように、 プロテスタンティズムの「我々は直接神と
柔軟ですばらしい功績を残した人も沢山いますが、それを大勢の象徴であるように表現するのは詭弁です。現在の宗教や教育では科学と宗教両方を教えつつやんわりと否定する現実があります。そしてそういう状況で育った子供は科学の道に進むも挫折したりと本来の宗教の目的は何ぞやという疑問が。
うーん、詭弁ですか。 アインシュタインとルメートルを例に挙げましたが、 この二人は宇宙論に対する貢献が大きく、 宇宙論の成り立ちを考える上でも宗教との関連は興味深いものがあります。 もう少し詳しく見てみましょう。
膨張する宇宙というアイデアは、必然的に、宇宙は過去に戻ると収縮していき、 やがてはある一点から宇宙が始まったという宇宙モデルを想起させます。 いまでこそビッグバン宇宙モデルは人口に膾炙していますが、 当時は、宇宙は定常的であって、過去も未来も変わりが無いというのが、 「物理的」なものの見方であると考えられていました。 アインシュタインもそう考える一人でした。 ルメートルのビッグバン理論に対する反応の文脈で、Wikipediaには次のように書かれています。
ルメートルのこの説は当時の科学界に激しい反応を引き起こした。 エディントンはルメートルの考え方を不愉快だと感じていた。 アインシュタインも彼の理論の正しさに疑いを持っていた。 (アインシュタイン自身の言葉によれば) ルメートルの理論はキリスト教の天地創造の教義を強く連想させ、 物理学の視点からは正当とは認められないものだったからである。 これを発端として、宇宙論と宗教の論争が数十年にわたって続くこととなった。 この論争の中でルメートルは常に科学と信仰を分けて考えるという立場で根本的な役割を果たす存在となった。 ( Wikipedia ジョルジュ・ルメートルの項 [wikipedia.org]より引用)
ということで、歴史的な逆説ですが、神父が提唱する「宗教的」と考えられた宇宙モデルが、 現在科学的に正統な宇宙モデルとして受容されていて、 さらにその神父が「科学と信仰を分けて考える」という立場で重要な役割を果たしたのです。 これらをひっくるめて私は「ある意味宗教的な営み」と表現しましたが、 説明不足かつ筆が走った感はあります。
最後の「本来の宗教の目的は何ぞや」という疑問は、私の手には余りますが、 独断で言わせてもらうと、宗教の目的とは 「人間の行動原理(道徳、倫理)を与えるとともに、世界の原理、生命の原理を与える」ですね。 現在は科学が世界の原理、生命の原理を追求する学問になっていますので、 宗教の昔の役割を科学が一部担っているのだと解釈しています。 しかし、宗教は「与える」ものであるのに対して、学問は「問う」ものですから、 根本的な態度の違いはあるかも知れません。 もし大学に、何か与えられるものを貰いに行こうとするのであれば、その勉強は挫折するでしょうね。
より多くのコメントがこの議論にあるかもしれませんが、JavaScriptが有効ではない環境を使用している場合、クラシックなコメントシステム(D1)に設定を変更する必要があります。
にわかな奴ほど語りたがる -- あるハッカー
不思議はない。 (スコア:1)
科学的な方法には、科学なりの長所と限界がある。長所は中世暗黒時代からの幕開け以降、多大な利益をもたらしている。
宗教による考え方にも長所と短所がある。そして宗教哲学には、2000年以上にわたって内省し知恵を究めて考え抜かれた論理がある。
知的活動の質としては、双方に上下があるわけではない。とんでもなく頭のいい科学者がいるのと同様に、すばらしい炯眼を持つ宗教者もいる(現在も)。一方で、イタイ宗教者がいるのと同様に、イタイ科学者もいる。科学も宗教も、悲劇的な犠牲者を生むことがある。
…と日々思うけどねぇ。
むしろ科学的だと言うだけで盲信する方が(いわゆる)宗教的と言うか。
科学には恐らく答えられない問題がある (スコア:0)
たとえば,なぜ死ぬのか?は解明できるだろうが,
生きている「目的」については科学では「種の保存」以外の答えは得られないのではないだろうか。
だから科学だけが絶対のものとして受け入れるのは論理的でないと言ってみる(汗)
Re: (スコア:1)
科学はそもそも根源的な理由を問う意味での「なぜ?」には答えられません。
より詳細な仕組みを解明できるだけです。
一見答えてるように見えるのは「他の思いつきより”妥当性が高い”から」というのが精一杯で
たいていの場合、あまり科学的ではないのが実情です。
例えば「なぜキリンの首は長いのか」という問いに「高い場所の餌を取ることができるから」というのは真の意味で「科学的な裏付け」は何もありません。
全く異なる理由であのスタイルになっておきながら、たまたま運良く高い場所の餌が食えたから生き残った、のかもしれません。
例え首が長くなった理由が適応進化だろうとキリンの意志だろうと異星人による遺伝子操作であろうと、科学はそのどれも(少なくとも今は)証明できませんし、それはあくまで手段であって理由の説明にはなりません。
本来「なぜ」に答えられるのは宗教と哲学くらいなのです。
(実際は心理学とか精神医学とか脳科学とかも自信満々で答えちゃいそうだけど)
Re: (スコア:4, すばらしい洞察)
18世紀のプロテスタンティズムがどのように資本主義に影響を与えたかを 論じる文脈で、ヴェーバーは有名な論文の注の中で、次のように指摘しています。
ピュウリタン、洗礼派、敬虔派の信徒たちが特愛した学科は物理学であり、 それに次いで、同じ方法でもって行われる諸他の数学的=自然科学的諸学科だった。 つまり、現世の「意味」は、神の啓示の断片的な性格のために(これはカルヴァン派 的思想だ)概念的思索によってはどうしても捉ええないけれども、自然における神の 法則の経験的把捉によってその知識にまで到達しうる、と彼らは信じたのだった。
(マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫 p.250)
ここで示唆されている通り、私は、プロテスタンティズムの(特にカルヴァン派の) 職業的禁欲主義が資本主義の発展を促したように、 プロテスタンティズムの「我々は直接神と
Re:科学には恐らく答えられない問題がある (スコア:0)
柔軟ですばらしい功績を残した人も沢山いますが、
それを大勢の象徴であるように表現するのは詭弁です。
現在の宗教や教育では科学と宗教両方を教えつつやんわりと否定する現実があります。
そしてそういう状況で育った子供は科学の道に進むも挫折したりと本来の宗教の目的は何ぞやという疑問が。
Re:科学には恐らく答えられない問題がある (スコア:2)
うーん、詭弁ですか。 アインシュタインとルメートルを例に挙げましたが、 この二人は宇宙論に対する貢献が大きく、 宇宙論の成り立ちを考える上でも宗教との関連は興味深いものがあります。 もう少し詳しく見てみましょう。
膨張する宇宙というアイデアは、必然的に、宇宙は過去に戻ると収縮していき、 やがてはある一点から宇宙が始まったという宇宙モデルを想起させます。 いまでこそビッグバン宇宙モデルは人口に膾炙していますが、 当時は、宇宙は定常的であって、過去も未来も変わりが無いというのが、 「物理的」なものの見方であると考えられていました。 アインシュタインもそう考える一人でした。 ルメートルのビッグバン理論に対する反応の文脈で、Wikipediaには次のように書かれています。
ルメートルのこの説は当時の科学界に激しい反応を引き起こした。 エディントンはルメートルの考え方を不愉快だと感じていた。 アインシュタインも彼の理論の正しさに疑いを持っていた。 (アインシュタイン自身の言葉によれば) ルメートルの理論はキリスト教の天地創造の教義を強く連想させ、 物理学の視点からは正当とは認められないものだったからである。 これを発端として、宇宙論と宗教の論争が数十年にわたって続くこととなった。 この論争の中でルメートルは常に科学と信仰を分けて考えるという立場で根本的な役割を果たす存在となった。
( Wikipedia ジョルジュ・ルメートルの項 [wikipedia.org]より引用)
ということで、歴史的な逆説ですが、神父が提唱する「宗教的」と考えられた宇宙モデルが、 現在科学的に正統な宇宙モデルとして受容されていて、 さらにその神父が「科学と信仰を分けて考える」という立場で重要な役割を果たしたのです。 これらをひっくるめて私は「ある意味宗教的な営み」と表現しましたが、 説明不足かつ筆が走った感はあります。
最後の「本来の宗教の目的は何ぞや」という疑問は、私の手には余りますが、 独断で言わせてもらうと、宗教の目的とは 「人間の行動原理(道徳、倫理)を与えるとともに、世界の原理、生命の原理を与える」ですね。 現在は科学が世界の原理、生命の原理を追求する学問になっていますので、 宗教の昔の役割を科学が一部担っているのだと解釈しています。 しかし、宗教は「与える」ものであるのに対して、学問は「問う」ものですから、 根本的な態度の違いはあるかも知れません。 もし大学に、何か与えられるものを貰いに行こうとするのであれば、その勉強は挫折するでしょうね。