アカウント名:
パスワード:
バンクシーによってシュレッダーにかけられたボロボロの作品にも1ポンドの価値もないし、それを金を払って欲しがる人もいるはずもないってことかな?まあ、アートってのは見る目が云々言う人がいるけど、「何を作ったのか」より「誰が作ったのか」に価値がつく世界だよね。
「誰が」で値が上がることがあったとして、「『誰が』に価値がつく世界だよね」とか言われても、そういうこともあるよね、としか。何が、誰が、だけじゃなく、いつ、どこで、どんな時代背景で、など何でもあるんですよ。もちろん、一見特別っぽいスペックがあっても無視されることもある(壊して値が下がった例なんかまさにソレ)。
世界大戦の時代にキャンバスを真っ黒に塗りつぶした絵に価値がついたとして、平和な時代にキャンバスを真っ黒に塗りつぶして、価値がつかなくてもフシギではない。あるいは既に有名な画家が精緻な絵から突如子供のような絵を描いた時、それはその人・時代・その人の変化に意味があるのであって、子供の描いた絵に価値がついたわけではない。
一方で、作家や時代やなんかを無視して「これキレイだな」で絵を買っても悪いことは何もない。金額は金額、価値観は価値観。それはそれ、これはこれ。
バンクシーがやっている行為自体がアートなのであって、作品そのものには価値がないと考えてるんじゃないんですかね?バンクシー本人は。だからオークションで高額な値が付いたのでシュレッダーにかけたと。で、今回の行為そのものはアートだけど、切り刻まれた作品がさらに価値が上がったことは全くばかげたこと。別作をカッターで切り刻んだ人は、それをわかったうえでやっているんだと信じたい。
作品かどうか(どこまでが作品か)とそのメッセージ性は作者に、アート性は見るヒトそれぞれに、価値は売買する人に由来や帰属するものですね。
んでバンクシーはそもそもその機構を組み込んだものを出品させたんで「高額な値が付いたので」というよりは、おっしゃるとおり「シュレッダーにかけるまでが作品」で、「そこまでをアートだと主張」しているのでしょうね。
で、「値が付くこと」は売買する側の話なんで、シュレッダーにかかった紙くずを「アーティスティックな行動の残滓」として価値を見いだすのは作者がどう言おうと勝手と言うか、バカにされたところで関係ないというか。
別作を切り刻んだ人、ってのがホントに素でそれをやったんだとしたら、「『芸能人が映画の中で着たまさにその服』が高く売れたとして、自分がそれを買って着たら高く売れると勘違いしたバカ」と同類でしょうね。
とはいえ、可能性は0ではないわけで・・・
バンクシーほどの変わり者が、世間の右往左往する連中をみて
世間「カッターで自分で切るのには価値がない!」
バン「それ高額で買うわ。これは俺も認めるアート」
世間「欲しい(よだれたらー」
とかなるんだろな。
実にくだらない世界だ。
その、実にくだらない世界だ、という感想を持たせるのがバンクシーの目的だからね。
誰が作ったのか → バカがシュレッダーで作った
元の紙が紙幣でも、そのままでは価値がつかないこれを修復すれば価値が生まれるかもしれない紙幣なら同額の新品と交換してくれるかもしれないが、新品に交換してもアートと呼べるのだろうか?絵画はどうだ?
村上隆の言うように、美術品の価値=最後に買ったやつが出した金額、なのです作品は価値を内在しないのであります
しかし美術品を売買する人は美術商であれコレクターであれ、転売を念頭に置いています4万ポンドの絵を切り刻んで高く売ろうとした人はおそらくそういう美術サークル外にいたのでしょうが、切り刻むことによってサークル員に売れなくなっただけですね将来的にはスペインの下手くそなキリスト画の修復のように、一連の騒動の一部としてまったく別の方面から高い価値(=高く売れたり観光客が目白押しになる)を持つようになるかもしれません
(#3496695)> で、「値が付くこと」は売買する側の話なんで、シュレッダーにかかった紙くずを「アーティスティックな行動の残滓」として価値を見いだすのは作者がどう言おうと勝手と言うか、バカにされたところで関係ないというか。
売買されない美術品が存在しない以上、売買されるところまで含んで芸術です(と村上は言っている)
(#3496695)ですけど、前提にて作品と芸術と価値とを置いてるんで、作者が「作品の」ワクを決めるのは勝手だけど、「芸術と感じるか否か」は見る側の範疇です、と改めて。
例えば自然にアートを感じることもあるけど、自然それ自体は売買されませんね。それを切り取った「作品」は売買されることもあるでしょうけど。もちろん、自称アーティストが世に作品を出しても売買されないこともある。「売買されない作品(≠美術品)」はあるし、「アートを感じないとされる自称芸術作品」もある。どれだけ作者がメッセージを込めたとしても、それと違う部分で評価されることもある。「売買されるところまでが芸術」なのはあくまでその人のその作品用の自称定義であって、他者がその定義に従ってアートを感じたり感じなかったりする必要はない(もちろん従ってもいいが)。
茶器のように、価値は来歴にこそ付くのだということでしょう。
優れた人が目立っているさまを見て「よし、目立とう!」と思っても仕方ないという感じで。
# ユーチューバー批判じゃないよぉ~
より多くのコメントがこの議論にあるかもしれませんが、JavaScriptが有効ではない環境を使用している場合、クラシックなコメントシステム(D1)に設定を変更する必要があります。
日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン
ボロボロになった作品には1ポンドの価値もない (スコア:2)
バンクシーによってシュレッダーにかけられたボロボロの作品にも1ポンドの価値もないし、
それを金を払って欲しがる人もいるはずもないってことかな?
まあ、アートってのは見る目が云々言う人がいるけど、「何を作ったのか」より「誰が作ったのか」に価値がつく世界だよね。
Re:ボロボロになった作品には1ポンドの価値もない (スコア:1)
「誰が」で値が上がることがあったとして、「『誰が』に価値がつく世界だよね」とか言われても、そういうこともあるよね、としか。
何が、誰が、だけじゃなく、いつ、どこで、どんな時代背景で、など何でもあるんですよ。
もちろん、一見特別っぽいスペックがあっても無視されることもある(壊して値が下がった例なんかまさにソレ)。
世界大戦の時代にキャンバスを真っ黒に塗りつぶした絵に価値がついたとして、
平和な時代にキャンバスを真っ黒に塗りつぶして、価値がつかなくてもフシギではない。
あるいは既に有名な画家が精緻な絵から突如子供のような絵を描いた時、それはその人・時代・その人の変化に意味があるのであって、子供の描いた絵に価値がついたわけではない。
一方で、作家や時代やなんかを無視して「これキレイだな」で絵を買っても悪いことは何もない。
金額は金額、価値観は価値観。それはそれ、これはこれ。
Re: (スコア:0)
バンクシーがやっている行為自体がアートなのであって、作品そのものには価値がないと考えてるんじゃないんですかね?バンクシー本人は。
だからオークションで高額な値が付いたのでシュレッダーにかけたと。
で、今回の行為そのものはアートだけど、切り刻まれた作品がさらに価値が上がったことは全くばかげたこと。
別作をカッターで切り刻んだ人は、それをわかったうえでやっているんだと信じたい。
Re: (スコア:0)
作品かどうか(どこまでが作品か)とそのメッセージ性は作者に、
アート性は見るヒトそれぞれに、
価値は売買する人に由来や帰属するものですね。
んでバンクシーはそもそもその機構を組み込んだものを出品させたんで「高額な値が付いたので」というよりは、おっしゃるとおり「シュレッダーにかけるまでが作品」で、「そこまでをアートだと主張」しているのでしょうね。
で、「値が付くこと」は売買する側の話なんで、シュレッダーにかかった紙くずを「アーティスティックな行動の残滓」として価値を見いだすのは作者がどう言おうと勝手と言うか、バカにされたところで関係ないというか。
別作を切り刻んだ人、ってのがホントに素でそれをやったんだとしたら、
「『芸能人が映画の中で着たまさにその服』が高く売れたとして、自分がそれを買って着たら高く売れると勘違いしたバカ」
と同類でしょうね。
Re: (スコア:0)
とはいえ、可能性は0ではないわけで・・・
バンクシーほどの変わり者が、世間の右往左往する連中をみて
世間「カッターで自分で切るのには価値がない!」
バン「それ高額で買うわ。これは俺も認めるアート」
世間「欲しい(よだれたらー」
とかなるんだろな。
実にくだらない世界だ。
Re: (スコア:0)
その、実にくだらない世界だ、という感想を持たせるのがバンクシーの目的だからね。
Re: (スコア:0)
誰が作ったのか → バカがシュレッダーで作った
元の紙が紙幣でも、そのままでは価値がつかない
これを修復すれば価値が生まれるかもしれない
紙幣なら同額の新品と交換してくれるかもしれないが、新品に交換してもアートと呼べるのだろうか?
絵画はどうだ?
Re: (スコア:0)
村上隆の言うように、美術品の価値=最後に買ったやつが出した金額、なのです
作品は価値を内在しないのであります
Re: (スコア:0)
しかし美術品を売買する人は美術商であれコレクターであれ、転売を念頭に置いています
4万ポンドの絵を切り刻んで高く売ろうとした人はおそらくそういう美術サークル外にいたのでしょうが、切り刻むことによってサークル員に売れなくなっただけですね
将来的にはスペインの下手くそなキリスト画の修復のように、一連の騒動の一部としてまったく別の方面から高い価値(=高く売れたり観光客が目白押しになる)を持つようになるかもしれません
(#3496695)
> で、「値が付くこと」は売買する側の話なんで、シュレッダーにかかった紙くずを「アーティスティックな行動の残滓」として価値を見いだすのは作者がどう言おうと勝手と言うか、バカにされたところで関係ないというか。
売買されない美術品が存在しない以上、売買されるところまで含んで芸術です(と村上は言っている)
Re: (スコア:0)
(#3496695)ですけど、
前提にて作品と芸術と価値とを置いてるんで、作者が「作品の」ワクを決めるのは勝手だけど、「芸術と感じるか否か」は見る側の範疇です、と改めて。
例えば自然にアートを感じることもあるけど、自然それ自体は売買されませんね。
それを切り取った「作品」は売買されることもあるでしょうけど。
もちろん、自称アーティストが世に作品を出しても売買されないこともある。
「売買されない作品(≠美術品)」はあるし、「アートを感じないとされる自称芸術作品」もある。
どれだけ作者がメッセージを込めたとしても、それと違う部分で評価されることもある。
「売買されるところまでが芸術」なのはあくまでその人のその作品用の自称定義であって、他者がその定義に従ってアートを感じたり感じなかったりする必要はない(もちろん従ってもいいが)。
Re: (スコア:0)
茶器のように、価値は来歴にこそ付くのだということでしょう。
優れた人が目立っているさまを見て「よし、目立とう!」と思っても仕方ないという感じで。
# ユーチューバー批判じゃないよぉ~