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このコメントに異を唱えるわけではありませんが、少し長く補足させてください。
八木秀次 [wikipedia.org]というと、現代ではほとんど「八木アンテナ」の発明者としてしか知られていません。しかし彼の真の業績は、多くの優れた学究機関を創設、運営したところにあります。
彼はカリスマ的なリーダーであり、多くの組織において、多くの研究者を育てました。たとえば創設間もない大阪帝国大学では、理学部物理学科の主任教授を勤めましたが、そのときの部下の一人が湯川秀樹でした。今ではほとんど知られていませんが、彼の中間子理論は、京大ではなく、この阪大時代での業績なのです。また、
655363のAC [srad.jp]です。ご返事が遅れて申し訳ありません。過分にお褒めいただき、大変恐縮です。
実は、私のコメントの内容は、事実とは異なる部分があります。その一部は、内容を短くするための意図的なものですが、意図せずしてそうなってしまった部分もあります。また、何を書き、何を残すのかということで苦心した結果、ご指摘のとおり、内容がちぐはぐになってしまったと思います。
書かなかった(書けなかった)内容の中で一番大きいのは、八木の苛烈な性格です。彼は極めて鋭い頭脳の持ち主でしたが、同時に歯に衣着せぬ舌鋒の持ち主でもあり、多くの敵を作ってしまっていました。内閣技術院総裁の総裁にも、先のコメントに書いたほど、すんなりと就任できたわけではないのです。
彼の門下生に当たる人々の中にも、八木に反感を持つ人は少なくありませんでした。おそらくその代表が湯川秀樹 [nifty.com]です。湯川は阪大に就任してかなり長い間、業績を上げることができず、湯川を抜擢した八木から激しく叱責されました。湯川の親友の朝永振一郎を引き合いに出してまでの、容赦のない叱責を受けて、湯川は必死に努力して中間子理論を生み出すのですが、その後終生、八木へのわだかまりを拭い去ることはなかった [zaidan.info]のです。
八木が戦後、世の中から早く忘れ去られたのは、湯川がノーベル賞の受賞後も、八木についてほとんどコメントしなかったことも一因であると考えられています。
やはり、思うように書けません。こういう場所で私などが短くまとめるには、八木秀次という人物は巨大過ぎるように思います。これ以上は、先にご紹介した『電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち』 [amazon.co.jp]をお読みいただくより無いように思います。申し訳ありません。
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Stay hungry, Stay foolish. -- Steven Paul Jobs
プロジェクトXにこだわらなくても・・・ (スコア:0)
別に八木・宇田アンテナがプロジェクトXで紹介されてもねぇ・・・
Re:プロジェクトXにこだわらなくても・・・ (スコア:0)
そこにドラマがあるかどうかは別物ですね。
Re:プロジェクトXにこだわらなくても・・・ (スコア:3, 参考になる)
http://homepage3.nifty.com/7M2MZT/hstry.html
1922年 (大正11年)八木秀次教授、導波器の理論を発想
1925年 (大正14年) 八木秀次、宇田新太郎 両教授、新型アンテナ発明
第二次大戦中、アメリカは爆撃機に YAGIアンテナ を装備し日本を圧倒しました。
日本は捕獲した敵の軍用機通信取扱説明書に「Yagi Array」「YAGI ANTENA」の記述を見つけます。
YAGI、ヤギとは何だろう?・・・・ 「!」・・・・始めて自国科学者の偉大さを知りました。
八木アンテナの黒歴史 (スコア:4, 興味深い)
八木アンテナは日本の誇りであると同時に、日本の愚かさの象徴でもあり
ます。自国の技術に対する評価をできない日本は、八木アンテナの素晴ら
しさを理解しようとせず、海外で高く評価されたことを知った後ではじめ
て、その素晴らしさが国内で認知されました。
この八木アンテナは広島・長崎の原爆において、非常
八木秀次は現在も過小評価されている (スコア:5, 参考になる)
このコメントに異を唱えるわけではありませんが、少し長く補足させてください。
八木秀次 [wikipedia.org]というと、現代ではほとんど「八木アンテナ」の発明者としてしか知られていません。しかし彼の真の業績は、多くの優れた学究機関を創設、運営したところにあります。
彼はカリスマ的なリーダーであり、多くの組織において、多くの研究者を育てました。たとえば創設間もない大阪帝国大学では、理学部物理学科の主任教授を勤めましたが、そのときの部下の一人が湯川秀樹でした。今ではほとんど知られていませんが、彼の中間子理論は、京大ではなく、この阪大時代での業績なのです。また、
Re:八木秀次は現在も過小評価されている (スコア:0)
>つまり、八木秀次が過小評価されていたのは当時だけではありません。
いや、当時は非常に評価されていたのでは>八木先生自身は
だからこそ、1944年に内閣技術院総裁になったわけだし、それ以前は東工大の学長(1942年就任)をしていたわけでしょ?
そういった意味で
八木の苛烈な性格などについて (スコア:0)
655363のAC [srad.jp]です。ご返事が遅れて申し訳ありません。過分にお褒めいただき、大変恐縮です。
実は、私のコメントの内容は、事実とは異なる部分があります。その一部は、内容を短くするための意図的なものですが、意図せずしてそうなってしまった部分もあります。また、何を書き、何を残すのかということで苦心した結果、ご指摘のとおり、内容がちぐはぐになってしまったと思います。
書かなかった(書けなかった)内容の中で一番大きいのは、八木の苛烈な性格です。彼は極めて鋭い頭脳の持ち主でしたが、同時に歯に衣着せぬ舌鋒の持ち主でもあり、多くの敵を作ってしまっていました。内閣技術院総裁の総裁にも、先のコメントに書いたほど、すんなりと就任できたわけではないのです。
彼の門下生に当たる人々の中にも、八木に反感を持つ人は少なくありませんでした。おそらくその代表が湯川秀樹 [nifty.com]です。湯川は阪大に就任してかなり長い間、業績を上げることができず、湯川を抜擢した八木から激しく叱責されました。湯川の親友の朝永振一郎を引き合いに出してまでの、容赦のない叱責を受けて、湯川は必死に努力して中間子理論を生み出すのですが、その後終生、八木へのわだかまりを拭い去ることはなかった [zaidan.info]のです。
八木が戦後、世の中から早く忘れ去られたのは、湯川がノーベル賞の受賞後も、八木についてほとんどコメントしなかったことも一因であると考えられています。
やはり、思うように書けません。こういう場所で私などが短くまとめるには、八木秀次という人物は巨大過ぎるように思います。これ以上は、先にご紹介した『電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち』 [amazon.co.jp]をお読みいただくより無いように思います。申し訳ありません。