それでも Mozilla に関して言えば、日本人が比較的積極的に関わっていると言えるプロジェクトの一つであることは確かだとは思います。それこそ世の中には、例えば KDE のように本流側から日本語への対応が打ち切られそうになってしまったものもあるし、それでなくたってそもそも日本人からは見向きもされないプロジェクトだって星の数ほどあるわけで。
逆に、例え日本で閉じていたとしても、あるいはライセンスだってオープンソースとは程遠いようなものであっても、いいプログラムを書ける人は日本にだってたくさんいらっしゃる。オープンソースと言うやり方は、数ある開発手法の一形態に過ぎないわけで、もしかしたら日本人にしてみれば、オープンソースと言うやり方よりももっと相応しいやり方、馴染みやすいやり方と言うものがあるのかもしれない、という考え方もできると思うんです。例えば、Blog というコミュニケーションの形態が広まっていったように (少なくとも日本では BBS というやり方よりも Blog というやり方の方が広く親しまれているように思います)、個々人が開発したプログラムを、誰かが書き換えては自分で公開して、ということが繰り返されてゆくうちに、物凄く多用な亜流のプログラムが出来上がっていって、その中のいくつかがだんだん定番化してゆく、という流れは、たとえば Wiki 系のプログラムなんか見ていても結構見受けられるなぁとか思ったりするわけです。
ローカライズ以外に何をせよというのか。 (スコア:1)
和ジラ [mozilla.gr.jp]とか見てるとそんな風に思ってしまいます。。。
かといって、日本人が国際化とか考えずに作り出したプログラムは、多くの場合あんまり国際的には注目されなかったりするし。。。
# あ
むらちより/あい/をこめて。
Re:ローカライズ以外に何をせよというのか。 (スコア:0)
それは日本人開発者のリソースをI18N/L10N以外にまわそうとしても、手が回らないのが現状だという意味ですか?
ちなみに個人的には和ジラはローカライズではなく一種のbranch(forkというと言い過ぎかな?)だと認識しています(最後の方はJLPも含まれなくなったし)し、あえて枝分かれする必要性があったのかという点にも疑問があるのですが。
Re:ローカライズ以外に何をせよというのか。 (スコア:1)
和ジラに関しては、ローカライズが目的ではないプロジェクトの代表例として例示したつもりです。和ジラの目指しているのは、基本的には Bugzilla-jp [mozilla.gr.jp] で報告されている独自のバグに対するパッチの、本家洋ジラへの吸収であったかと思うのですが、実績に乏しい辺り、まさに今回の話題にぴったりの例であると言えるんではないかと思い、例示させていただいた限りであります。
# 物凄い勘違いをしているかもしれません。。。指摘していただいた方がむしろ嬉しかったり。
むらちより/あい/をこめて。
Re:ローカライズ以外に何をせよというのか。 (スコア:2, 参考になる)
ちなみに日本人がローカライズ以外の部分で貢献した事例を一つ挙げると、Sodipodi [sodipodi.com]というベクターベースのドローエディタがあるのですが、もともとGNOME 1.xベースだったのをGtk+2ベースに移行する作業は岡充氏によるものです。
「和ジラ」失敗の理由 (スコア:1)
kazhik.mozilla.blog [livedoor.jp]
「肝心なのは日本で閉じることなく、グローバルに出て行くこと」という点に関して言えば、Bugzilla-jp [mozilla.gr.jp]から本家Bugzilla [mozilla.org]へのフィードバックは現在も行われています。和ジラは失敗例と考えていただいてかまいませんが、Bugzilla-jpは成功例だと思っています。
Re:「和ジラ」失敗の理由 (スコア:2, 興味深い)
ありがとうございます。仰る通りです。
本来であれば、本家 Bugzilla へ直接 commit してゆくべきなのでしょうが、英語でやり取りを行う自信のないおいらのような人間にとって、Bugzilla-jp のような受け皿の存在は非常にありがたいものです。
ただ、そうは思いながらも、いつのまにやら、Bugzilla-jp に書き込む前に、わざわざ本家 Bugzilla で類似する bug が見つかっていないか、確認しに行ってしまう自分がいたりして、効率悪いよなぁなんて思ってしまうこともしばしばあって。。。過去に、いくつか bug 報告したこともあったのですが、正直あんまりお役に立てていないよなぁと言う負い目もあって、このような発言になってしまった部分もあります。
オープンソース開発の場合、国際的な枠で見ようとするからか、英語を始めとする外国語でのコミュニケーションに不安を抱いているという意見が多数見受けられますが、おいらの場合はそれ以前の問題で、ネット上での、相手の顔が見えないという限定された条件でのコミュニケーションに、既に不安を感じてしまっていると言う部分があります。具体的に (そして感覚的に) 言えば、古くからコミュニティーに関わっている人が、会社で言うところの課長・部長クラスのようにエラい人に見えちゃって、それで萎縮してしまうような、そんな感じです。
# 本気度は半分ぐらいです。これを全力で同意してしまう人は、きっとプログラマーの職に着くのは無理とは言わないまでも、かなり難しいんじゃないかと思います。それでも、普段から同じ職場で顔をつき合わせて仕事している人のほうが、コミュニケーションとりやすいのは当然のことかと思います。
それでも Mozilla に関して言えば、日本人が比較的積極的に関わっていると言えるプロジェクトの一つであることは確かだとは思います。それこそ世の中には、例えば KDE のように本流側から日本語への対応が打ち切られそうになってしまったものもあるし、それでなくたってそもそも日本人からは見向きもされないプロジェクトだって星の数ほどあるわけで。
ただ、そんな現状を指差して、日本はオープンソースのガラパゴス諸島だなんて言ってしまうのも、そりゃああんまりだと思うのですよ。もちろん、積極的にオープンソースに commit している人たちからして見れば、言葉の壁がなんだ! っていう元気な気持ちも理解できないわけではありません。でもその理解は、例えばシューティングゲームができる人の気持ちを理解する、の理解と、ほぼ同じ意味合いになるでしょう。そこで弾を避ければいいじゃない、なんていわれたって、無理なモンは無理なんだし。
# だからこそ、長い時間をかけて習得し、馴染んでゆかなければならないことなのではありますが。
逆に、例え日本で閉じていたとしても、あるいはライセンスだってオープンソースとは程遠いようなものであっても、いいプログラムを書ける人は日本にだってたくさんいらっしゃる。オープンソースと言うやり方は、数ある開発手法の一形態に過ぎないわけで、もしかしたら日本人にしてみれば、オープンソースと言うやり方よりももっと相応しいやり方、馴染みやすいやり方と言うものがあるのかもしれない、という考え方もできると思うんです。例えば、Blog というコミュニケーションの形態が広まっていったように (少なくとも日本では BBS というやり方よりも Blog というやり方の方が広く親しまれているように思います)、個々人が開発したプログラムを、誰かが書き換えては自分で公開して、ということが繰り返されてゆくうちに、物凄く多用な亜流のプログラムが出来上がっていって、その中のいくつかがだんだん定番化してゆく、という流れは、たとえば Wiki 系のプログラムなんか見ていても結構見受けられるなぁとか思ったりするわけです。
オープンソースと言うやり方が定着することはなくとも、プログラムを作ると言うこと自体は、決して日本だって引けを取らないんじゃないかな、とおいらは思っています。最初からやり方を一つに絞っちゃって、そのやり方が浸透しないからって、日本だけ遅れてるみたいな言い方をしちゃうのはあまりにも暗いし、悲しいことだと思います。それならばむしろ、日本だからこそ浸透してゆくようなやり方を模索していった方が、建設的で健康的なのではないでしょうか。
# 無駄に情緒的な上にまとまりのない長文になってしまってごめんなちゃいなのです。。。
むらちより/あい/をこめて。
Re:「和ジラ」失敗の理由 (スコア:0)
日本人で本家のMozilla開発に関わっている人を僕は数人しか知りません。そして、マルチバイトのバグは放置されたまま。
> それこそ世の中には、例えば KDE のように本流側から日本語への
Re:「和ジラ」失敗の理由 (スコア:0)
釣れますか?