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日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン
猟奇ホラー+パラサイトアクションバトル (スコア:0)
田宮良子の最期のシーンはすごく心に残ってるんですけど
こういうシーンは2時間枠でうまく納められそうにないし。
単なる猟奇ホラー+パラサイトバトルメインのホラーアクションになりそうな予感が…。
同感 (スコア:1)
この間もそのまんま「パラサイト」というアメリカの異星人侵略学園ものをテレビでやってましたが、単純な侵略ものとかホラーとは
Re:同感 (スコア:1)
それがまじめにテーマを持ったホラーとして書かれてる。原点回帰だと思うんです。ホラーって古くはそういうテイストも散見されるじゃないですか。自分の存在に悩むフランケンシュタインとか。(このあたり詳しい方がいらっしゃったらツッコンで欲しいわけですが。)
Technoboseさんの主張に対する反論はすでに語りつくされているでしょうから控えますが、この漫画は、連載当時あまり強く語られることがなかった"環境問題"にそのテーマの本質を
Re:同感 (スコア:1, 参考になる)
漫画で環境問題を(かなり深く突っ込んで)描いたのは風の谷のナウシカ(連載:82-94年)などの先駆があったと思います。
(漫画を抜きにして)環境問題を論じる、ということ自体は公害問題との重なりもありますが、
その一里塚は yottanさんの指摘した京都議定書ではなく92年のリオデジャネイロの地球サミットで、
ここで地球環境問題が国家のトップが語るべき国際政治問題とな
Re:同感 (スコア:0)
そこで質問というか…、マスコミで"環境問題"と言う言葉が市民権を得たのが、ちょうど時代として重なったと記憶していたのです。指摘したかったのはそこなので、国際政治として、問題が既にあったことはご指摘にある通りなのですが、いわゆる環境問題が"環境問題"として"日本の社会の中で"扱われるようになったのはいつごろでしょうか?(大衆芸術として漫画を捕らえたか
Re:同感 (スコア:0)
漫画
Re:同感 (スコア:0)
http://imozo.leh.kagoshima-u.ac.jp/ecology/2005/kyozai/ecoedu.html
"公害"という認識と"環境問題"という認識には隔たりがあると思います。人から見て都合のいい住みやすい社会から、持続可能な発展というパラダイムシフトは"公害"という言葉の再定義に拠るところも少なくないのではないでしょうか。
そこに、命の平等性っていう根本原理を持ち込んで、環境問題をヒトを超えた問題だとはっきり示したのが、この漫画が一歩深められた点だと思います。
公害という枠組みでは、それによって"如何に恐ろしいことが起こるか"は示せても、"命の重みに差は無いから全ての命に価値があり、地球という環境ににたまたまヒトが住ませて貰ってる"みたいな意味は引っ張り出しにくいと思います。
手塚修は、"火の鳥"で彼の十八番の命という視点から"公害問題"を捕らえ環境問題という視点に近づいたと感じますが、一方で、後続のSF等は、この問題から一歩遠ざかり、"公害問題"の甚大さのみ強調されているだけな気がします。
つまり主張は、"環境問題"を始めて問題にした、のではなく、"環境問題"そのものの定義づけを与える試みをした、と考えたのです。
ご指摘の様に、出るべくして出た自然な流れかもしれませんが、環境問題のこういった本質を突いたSFは比較的少ない(と私は思います)中、ストイックに描いたというのが称えられてもいい気がするのです。
最後にそれを良くあらわしていると思われる一文を引用したいとおもいます。
何かに寄り添い・・・・・・
やがて生命(いのち)が終わるまで・・・・・・・・・・・・
岩明均 寄生獣 第十巻 最終話
Re:同感 (スコア:0)
#時代的な背景だけ。
「公害問題」から「環境問題」にシフトしたのが80年代です。
公教育における受容(初等・中等教育、あるいは高等教育機関における
環境系学部・学科の設立)は90年代初めから始まっていますが、
言い換えればその時点までである程度の議論がなされてきたからこそ
学部の設立などの形にみえる成果になっているのです。
「人間は地球の癌細胞であ
Re:同感 (スコア:0)
ガイア思想がありますが、その初版年は
「地球生命圏-ガイアの科学」(1979、ジェームズ・ラブロック)
「ガイアの時代」(1989、ジェ