アカウント名:
パスワード:
東北や北海道では部落差別のイメージが湧かないでしょうし(集落の意味で「部落」という言葉を使う地域もあるらしいです)、関東の人にとっても「歴史」ではないかと思うのですが、近畿やそれ以西の地域では現在進行で継続している問題です。
自分も大阪出身なので、小学生のときには道徳の授業で使った副読本(『にんげん』です。大阪でしか使わなかったそうです)で教わりましたし、親もどこが被差別部落なのか知っているような雰囲気でした(あえて聞きませんでしたが)。いまは四国のそれなりに大きな都市に住んでいますが、自治体の建物などには部落差別をなくそうというきれいな看板がかかっています。
グーグルの中の人は差別を助長する意図はなかった、というよりも何も考えていなかっただろうと思いますが、わざわざ波風をたてるような真似をすべきとも思わない。批判を恐れずいうと、部落差別問題には誰も手を触れずに、「歴史」にしてやるのがいちばんだと思うのですが。
集落の意味で「部落」という言葉を使う地域もあるらしいです
それが本来の意味です。もともと「特殊部落」と呼ばれていたのが被差別部落ですが、いつの間にか「部落」自体が被差別部落を意味するようになってしまいました。
所詮「言葉狩り」という感じを受けられるのは仕方ないと思っていますが数年前に東京に出てきて、(東京だけではないと思いますが)・同和教育自体があまりない(地元では3~4か月に1回はあった)・「同和教育ってなに?」って人が多いと感じました。
被差別部落出身の友人がおりますが、その友人も集落としての意味の「部落」として会話に出てきているとわかっていても頭では『「会話中の部落」=「集落」』と理解できても、地元での差別とかを思い出してしまうようです。
「部落」という言葉の使い方をやめてほしいとというのではなく、差別意識自体はなくなってほしいなぁと思うのですが、何がしかの被害やいざこざにあった際、その相手方が被差別部落出身としいっている誰かが「あいつは部落出身だからだ」といってしまうことで、そういう意識が根付いてしまうことが残念でならないです。たぶん、最近の若年層がが発する情報に対して嫌悪感を持った際「『ゆとり』かよ」とか思うのもそういう感じなのかな。
何とかしたくても、自分なんかではどうともできなくっていやな気持ちになるばかりです。
東京出身者ですが、同和教育って受けた記憶ありません。 「同和問題」って言う言葉を聞いたことはありますたが、子供の頃はそれがどういうものかは特に調べる気もなかったので知らないままでいましたね。 何で、小学校高学年ぐらいの頃、駅の近くに同和がどうのとか部落差別がどうのとかかべたべた書かれたワンボックスが一月ぐらい違法駐車していたときには、「なんだありゃ? そういやぁエセ同和がどうのとか言う話聞いたような……腐れやくざのたぐいか?」ぐらいにしか思ってませんでした。 その後同和問題がどういうものか軽く調べた後、「あれはエセ同和だったんだな」と確信したわけですが。# 私の田舎は、江戸時代大火で焼け出された人たちが移り住むまで一般人立ち入り禁止(将軍家直轄地)でした。つまり被差別部落など作りようがなかったので、同和問題などあり得なかった=そこにやってきて同和同和と騒ぐのはエセでも無ければあり得ないわけで。# 何しろ人が誰もいないから安心して中央線をまっすぐ引けたくらい。あれ、当初は甲州街道沿いに作る予定だったのが「客が鉄道で都心に取られる」と地元の反対で頓挫し、反対する人など影も形もなかった今のところに引いたんですよ。結果中央線沿線が栄え甲州街道沿いが寂れたので、あわてて引いたのが京王線。その後井の頭線が引かれたとき、三鷹まで引かれる予定だったのが「客が……」と地元商店街が反対したため吉祥寺止まり。結果どうなったかというと今の吉祥寺と三鷹の駅近辺を見れば……。人というものは過去から正しく学ぶ事ができないようで。
自分は良いおっさんですけど、同和教育の類は受けた記憶が無いですね。せいぜい地方によってはこんな差別が有るよと言われる程度でした(しかも歴史の授業で)
関東では「部落」って言葉は完全に「集落」の意味だと思って問題ないと思います。言われて見れば最近は部落って言葉が公式な文章から消えていますね。家の田舎は離島なんで流人の関係で差別が有ってもおかしくは無いんですけどその類の話も聞いたことも無いですね。
より多くのコメントがこの議論にあるかもしれませんが、JavaScriptが有効ではない環境を使用している場合、クラシックなコメントシステム(D1)に設定を変更する必要があります。
アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者
西日本の人間にとっては現在進行形 (スコア:3, 興味深い)
東北や北海道では部落差別のイメージが湧かないでしょうし(集落の意味で「部落」という言葉を使う地域もあるらしいです)、関東の人にとっても「歴史」ではないかと思うのですが、近畿やそれ以西の地域では現在進行で継続している問題です。
自分も大阪出身なので、小学生のときには道徳の授業で使った副読本(『にんげん』です。大阪でしか使わなかったそうです)で教わりましたし、親もどこが被差別部落なのか知っているような雰囲気でした(あえて聞きませんでしたが)。
いまは四国のそれなりに大きな都市に住んでいますが、自治体の建物などには部落差別をなくそうというきれいな看板がかかっています。
グーグルの中の人は差別を助長する意図はなかった、というよりも何も考えていなかっただろうと思いますが、わざわざ波風をたてるような真似をすべきとも思わない。
批判を恐れずいうと、部落差別問題には誰も手を触れずに、「歴史」にしてやるのがいちばんだと思うのですが。
Wikiって略すな (スコア:5, すばらしい洞察)
それが本来の意味です。
もともと「特殊部落」と呼ばれていたのが被差別部落ですが、いつの間にか「部落」自体が被差別部落を意味するようになってしまいました。
Re:Wikiって略すな (スコア:4, 興味深い)
ただし、学校では使わないようにとのお達しがあったのか、日教組か何かが騒いだのか知りませんが、ある時突然(たぶん 80年代後半)部落という言葉は使わずに地区という言葉を使えと強制されました。
ただし、それまで部落別*と呼ばれていたものが地区別*に変わっただけで、普段の会話では部落が使われていましたが。
所謂言葉狩りというものに嫌悪感をもつようになったのはこれがきっかけかも。
Re:Wikiって略すな (スコア:2)
所詮「言葉狩り」という感じを受けられるのは仕方ないと思っていますが
数年前に東京に出てきて、(東京だけではないと思いますが)
・同和教育自体があまりない(地元では3~4か月に1回はあった)
・「同和教育ってなに?」って人が多い
と感じました。
被差別部落出身の友人がおりますが、その友人も集落としての意味の「部落」として会話に出てきているとわかっていても
頭では『「会話中の部落」=「集落」』と理解できても、地元での差別とかを思い出してしまうようです。
「部落」という言葉の使い方をやめてほしいとというのではなく、差別意識自体はなくなってほしいなぁと思うのですが、
何がしかの被害やいざこざにあった際、その相手方が被差別部落出身としいっている誰かが
「あいつは部落出身だからだ」
といってしまうことで、そういう意識が根付いてしまうことが残念でならないです。
たぶん、最近の若年層がが発する情報に対して嫌悪感を持った際「『ゆとり』かよ」とか思うのもそういう感じなのかな。
何とかしたくても、自分なんかではどうともできなくっていやな気持ちになるばかりです。
Re:Wikiって略すな (スコア:1)
東京出身者ですが、同和教育って受けた記憶ありません。
「同和問題」って言う言葉を聞いたことはありますたが、子供の頃はそれがどういうものかは特に調べる気もなかったので知らないままでいましたね。
何で、小学校高学年ぐらいの頃、駅の近くに同和がどうのとか部落差別がどうのとかかべたべた書かれたワンボックスが一月ぐらい違法駐車していたときには、「なんだありゃ? そういやぁエセ同和がどうのとか言う話聞いたような……腐れやくざのたぐいか?」ぐらいにしか思ってませんでした。
その後同和問題がどういうものか軽く調べた後、「あれはエセ同和だったんだな」と確信したわけですが。
# 私の田舎は、江戸時代大火で焼け出された人たちが移り住むまで一般人立ち入り禁止(将軍家直轄地)でした。つまり被差別部落など作りようがなかったので、同和問題などあり得なかった=そこにやってきて同和同和と騒ぐのはエセでも無ければあり得ないわけで。
# 何しろ人が誰もいないから安心して中央線をまっすぐ引けたくらい。あれ、当初は甲州街道沿いに作る予定だったのが「客が鉄道で都心に取られる」と地元の反対で頓挫し、反対する人など影も形もなかった今のところに引いたんですよ。結果中央線沿線が栄え甲州街道沿いが寂れたので、あわてて引いたのが京王線。その後井の頭線が引かれたとき、三鷹まで引かれる予定だったのが「客が……」と地元商店街が反対したため吉祥寺止まり。結果どうなったかというと今の吉祥寺と三鷹の駅近辺を見れば……。人というものは過去から正しく学ぶ事ができないようで。
ここは自由の殿堂だ。床につばを吐こうが猫を海賊呼ばわりしようが自由だ。- A.バートラム・チャンドラー 銀河辺境シリーズより
Re:Wikiって略すな (スコア:1)
元々は学力を保証する目的で始まった教育らしいので、歴史的な経緯からも同和教育が無いことは当然の事かと思います。
差別の存在する地域では、親から子へと引き継がれる差別意識を断ち切るという意味で価値があるとは思いますが、そうで無い地域で特殊なケースに時間を割くのは反対です。 差別がいけない事というのは小学生でも分かります。もともと差別意識の無い地域では理解しにくい感覚で、一度教えれば十分です。もっと他に教えるべきことがあるでしょう。
単なる道徳教育としてでは無く差別が発生する背景を同和問題を題材として詳しく研究するのであれば価値があるとは思いますが、小学生には難しすぎますね。
詳しい説明も無く、部落という言葉の使用を止めさせたのは教師側も良く理解できなかったというのも理由の一つかと思う。
Re: (スコア:0)
自分は良いおっさんですけど、同和教育の類は受けた記憶が無いですね。
せいぜい地方によってはこんな差別が有るよと言われる程度でした
(しかも歴史の授業で)
関東では「部落」って言葉は完全に「集落」の意味だと思って
問題ないと思います。言われて見れば最近は部落って言葉が公式な文章から
消えていますね。
家の田舎は離島なんで流人の関係で差別が有ってもおかしくは無いんですけど
その類の話も聞いたことも無いですね。