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SUSE最大の問題は、昔リリースしたものの srpm ファイルが根こそぎなくなっていることです。おかげで「SUSEのxxxと、御社のyyyという製品を組で使って大丈夫ですか?」「御社のyyyと言う製品を使っていたら、SUSEでxxxというメッセージが出たのですが、これはどういう意味?」的な質問に全く答えられない。
本音を言うと『しらんがや。SUSEに聞け』と言いたいのだがそういうわけにも行かないので、SUSEのカスタマーサポートとかに電話して、どこかにコピーが残っていないかたずねるが、「すみません。それは無いですね」としか言わない。GPLv2と違うんかい、Linux は…と粘着したくなるぐらい
openSUSE というよりは SLES や Novell 社の問題のも気がしますが、結局は一緒ですかね。
>Novellに合併される際に豪快に無くしているので、おそらくその辺のタイミングで誰かが消しちゃったんだろう、と推測される。
推測せずとも サーバ履歴 [novell.co.jp]が残されているので読むと 2003-2007年にかけて消されています。理由はサーバの容量が主要因です。ただ、サポート期間が終わったとはいえ、社にマスタさえが残っていないのは意外というか疑問です。サーバのファイルを消したのならなおさら。今から思えば30GBとか100GBとかなので、マスタぐらい残せなかったものかとも思います。
元コメ主が必要とするバージョンが書いてないのでわかりませんし、「今も」必要かわかりませんが、野良でよければ 7.0 [ftp.gmd.de],
一緒と言うか、本来「ソースにアクセスできなくちゃ駄目」というライセンスで配布可能になっているものについて、ftp容量を理由に公開をやめちゃ駄目でしょう。いや、一時的な問題ならいいですよ? RedHat もサーバ構成を替える為に公開を停止したり、してますからね。でも「ずーーっと」となると。
同じ事を今の openSUSE版についてもやられないと何故いえます? openSUSEのプロジェクトが、Novellのサーバを使っていないと言うならともかく、結局公開用サーバはNovellでしょう?
GPLは、そう
これって、過去に GPL で公開したコードであるなら永久に守られなければいけないことなんでしょうか?
GPLv2の話であるとしますが(GPLv3ってどうなのか十分見ていない)、答は「はい」になります。
もっと厳密に言うならば、これを守るために「バイナリと一緒にソースコードを配布せよ。別々に渡すのは賢明ではない」としています。
.
GPL の目的は「プログラムを使っている人は、そのプログラムのソースコードを参照し、変更できる状態を常に維持する」というものです。端的な話、ソースコードだけ配布して、バイナリは配布しない、というのが理想形なんです。
でもコンパイラ
他人の日記のコメントにこれ以上書くのもなんですが…。
作者がユーザの手間を省いてあげようということでバイナリも合わせて公開していたとしても、そんなものはそのソースからコンパイルしたものだと「言っているだけのもの」なので、それを鵜呑みにしてそのまま使ったなら、それは使う側の「手抜きだ」ということでいいでしょうか?
この発想はこれまた違いますね。
手抜きとかそういう問題ではない。もうちょっと 純粋に 考えてください。
GPL の目的は、あくまでも プログラムの利用者の手元にはソースコードがあること。そして、プログラムを自由に改変できること。
バイナリが配布されてい
# 横から失礼します。
主客が転倒していますね。「バイナリが入手できたときにソースコードも入手可能だったか」は関係ありません。これはバイナリを入手した人がソースコードを入手できる時間に時限制約を条件に入れ込もうとしていますが、それは許されません。
v2/v3を問わず、GPLにそのような縛りがあるとは、にわかに信じがたいのですが……。それが事実なら、たとえソフトウェアの提供自体を中止したとしても、ずっと(著作権が切れるまで?)全バージョンのソースコードを提供し続けなければならないことになってしまいます。改変者のみならず、オリジナルの作者にすらそのような負担を強いるライセンスが成り立つとは思えません。また、これが事実なら
T.Sawamotoさんがどのようなソフトをどのような形態で配布なさっているのか/配布なさったことがあるのかは判りませんが、この問題は GPLv2 の場合第3章に集約しています。3つの条件 a, b, c があって、どれか一つを満たせばよい。
で、1つ大事な条件を。GPLはあくまでもアメリカの著作権法をベースにしていますので、著作権は自然発生しませんし、持ち主のなくなった著作物の著作権は自動消滅します。
日本語版がこちらにあるので、そちらも参照していただくとして: http://www.opensource.jp/gpl/gpl.ja.html [opensource.jp]
条件c から見ていきましょう。
対応するソースコード頒布の申し出に際して、あなたが得た
えーとですね。もっとはっきり書きますと、私はokkyさんの解釈は間違っていると考えています。ですから、okkyさんのご説明以外の、信頼に足るソースをご提示いただけないでしょうか。(失礼な物言いになってしまって申し訳ないですが)
私のソフトはGPLではなくパブリック・ドメインとして頒布しているので、今回の疑問点に私自身は今のと
裁判で判決が出ていない以上、これ以上は存在しえません。が、「私の主張が間違っている」というのならば、「その主張を裏付けるソースの提示」をしてはいかがでしょう?
「お前はグレーゾーンに立っている、だからお前は間違っている。だから私が正しい」というのは、全く意味のある主張ではありません。むしろ、「あなたの立っている足元はグレーゾーンです。そんな所で『俺が正しい』なんぞと言っている暇があったら、 ホワイトゾーンに戻って来い」と私は主張します。
ただ、T.Sawamoto さんの主張が明白に間違っているポイントがあります。
If distr
裁判で判決が出ていない以上、これ以上は存在しえません。
私は、この1文を [...] と解釈します。
上記が、私が最初に伺っていた「そのへんについてはこれまで議論がされてきていて、共通認識のようなものってできているんでしょうか?」に対する答だということでよろしいでしょうか? だとすると、『私は、この1文を「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈します。』というのも一つの解釈としてはありうる、ということにはなりませんか? # 「私は A と解釈します」ということしか根拠がないと # 「では、私は B と解釈します」という者とは # どこまでいっても平行線となってしまうと思う。 なので、元の質問に戻り「そのへんについてはこれまで議論がされてきていて、共通認識のようなものってできているんでしょうか?」ということになるわけです。 で、確かに「いついかなるときでもソースコードが入手できる」ということが理想であり、GPL の理念であったとしても、現実問題として、ディストリビュータ側の責任として「未来永劫にわたり全てのバージョンのソースコードが公開されている状態を維持する」ことを求めるのは不可能だと思うのです。かといって、ユーザがバイナリを入手しようとした際に、そのユーザが必要としているか否かなど問答無用で無理やりソースコードとセットでなければ入手できないようにしてしまう…というのも、どうかな、という気はします。 そして、「…しておくことが望ましい/べきだ」と「…しておかないと GPL 違反だ」との間には大きな開きがあると思います。 「…しておくことが望ましい/べきだ」ということをしていない Novell の企業としての姿勢に信頼が置けず、使う気にはなれない…ということならば、理解はできます。ですが、Novell は GPL に違反している…ということであるなら、その意味は全く違うものになってしまいます。 なので、個人の解釈に止まらない「GPL 違反だ」という根拠があるなら、むしろはっきりとそれをお知らせいただきたいわけです。で、openSUSE プロジェクトとして正さなければならないのであれば、正すべく働きかけたいと思うわけです。それが「あくまである個人の見解では…」だと「私はそのようには解釈していない」で話は止まってしまうだろうと。 …最後に、
GPLを選んだということは、あなたは少なくともGPLを適用したソースコードに関しては、RMSがGPLを通じて具現化した条件を是とした、という事です。
こういう言い放ち方は、Free Software の理念や精神をより多くの人に理解してもらい、賛同を得ていくうえでの妨げにはなっても、後押しにはならないと思います。こういう物言いから生まれてくるのって「狂信者」とか「GPL 汚染」とか、Free Software に対するネガティブなイメージなんじゃないかな…。
だとすると、『私は、この1文を「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈します。』というのも一つの解釈としてはありうる、ということにはなりませんか?
ありえますが、その解釈が妥当である理由を説明する義務は、そのような解釈を是としている人の義務でしょうね。
少なくとも「バイナリとソースが同時に入手できない」という事は、それらは分離された2つのファイルだ、という事です。2つのファイルを「同時に」ダウンロードする事はできません。トランザクショナル処理として規定されていませんから。
トランザクショナルに入手できない2つのファイルについては、必ずどちらかがもう一方よりあとに入手したことになる。バイナリを先に入手した場合は、ソースコードは必ず後になる。「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈するなら、こういう『どう考えてもGPLの精神に反する』Webページを使ったバイナリ配布は、GPL違反ではない、という事になる。
まず1つのページがあります。これはプログラム X に関する配布ページです。このページには2つのボタンがあります。[Xのソース] と [Xのバイナリ] と書かれたボタンで、それぞれ Xのソースファイル、Xのバイナリファイルをダウンロードできます。もちろん、3年縛りなどどこにも書かれていません。ただし、このページには細工がしてあって、片方のボタンを押すとそのファイルは入手できるのですが、それ以降このページは表示されなくなります。つまり、[Xのソース]を押すと Xのバイナリファイルは入手できなくなる。[Xのバイナリ]を押すと Xのソースファイルは入手できなくなる。あなたが[Xのバイナリ] を押した際には『ソースコードへアクセスできた』わけですから、これは GPL違反ではない。あなたが先に[Xのソース]を押さなかったのは、ユーザーの自由を行使した結果に過ぎない。
まず1つのページがあります。これはプログラム X に関する配布ページです。
このページには2つのボタンがあります。[Xのソース] と [Xのバイナリ] と書かれたボタンで、それぞれ Xのソースファイル、Xのバイナリファイルをダウンロードできます。もちろん、3年縛りなどどこにも書かれていません。
ただし、このページには細工がしてあって、片方のボタンを押すとそのファイルは入手できるのですが、それ以降このページは表示されなくなります。つまり、[Xのソース]を押すと Xのバイナリファイルは入手できなくなる。[Xのバイナリ]を押すと Xのソースファイルは入手できなくなる。
あなたが[Xのバイナリ] を押した際には『ソースコードへアクセスできた』わけですから、これは GPL違反ではない。あなたが先に[Xのソース]を押さなかったのは、ユーザーの自由を行使した結果に過ぎない。
「バイナリを入手できる時点で、同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」という解釈は、このようなインターフェースを許容しますが、このインターフェースは明らかに バイナリを入手した人のソースコード入手を阻害しています。このような状態を許容するような解釈が妥当であるとは到底思えません。
こういう言い放ち方は、Free Software の理念や精神をより多くの人に理解してもらい、賛同を得ていくうえでの妨げにはなっても、後押しにはならないと思います。
それは Open Source の人たちが使う論調ですが、とてつもなく間違った考え方です。それは理解と賛同を混同している。
理念と言うのは「賛同される」ためのものではありません。もちろん、賛同される事は良いことですが、その前に 正しく理解されることこそが重要です。
「正しく理解されたうえで反対される」のは「間違って理解されて賛同される」よりも 良い状態 といえます。
Free Software について賛同者を増やすために、誤った理解を広めるのは間違っています。Open Source の人たちの考えているような、ぐずぐずな運用がしたいなら、GPLではなく別のライセンスを作ればいい。それらの Yet Another なライセンスが、ことごとく一過性のものに終わり、厳格な GPL だけが生き残っている理由をもっときちんと理解するべきだと思います。
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あと、僕は馬鹿なことをするのは嫌いですよ (わざとやるとき以外は)。-- Larry Wall
SUSE信頼してない… (スコア:2, 興味深い)
SUSE最大の問題は、昔リリースしたものの srpm ファイルが根こそぎなくなっていることです。おかげで
「SUSEのxxxと、御社のyyyという製品を組で使って大丈夫ですか?」
「御社のyyyと言う製品を使っていたら、SUSEでxxxというメッセージが出たのですが、これはどういう意味?」
的な質問に全く答えられない。
本音を言うと『しらんがや。SUSEに聞け』と言いたいのだがそういうわけにも行かないので、SUSEのカスタマーサポートとかに電話して、どこかにコピーが残っていないかたずねるが、「すみません。それは無いですね」としか言わない。GPLv2と違うんかい、Linux は…と粘着したくなるぐらい
fjの教祖様
Re: (スコア:1, 参考になる)
openSUSE というよりは SLES や Novell 社の問題のも気がしますが、結局は一緒ですかね。
>Novellに合併される際に豪快に無くしているので、おそらくその辺のタイミングで誰かが消しちゃったんだろう、と推測される。
推測せずとも サーバ履歴 [novell.co.jp]が残されているので読むと 2003-2007年にかけて消されています。理由はサーバの容量が主要因です。ただ、サポート期間が終わったとはいえ、社にマスタさえが残っていないのは意外というか疑問です。サーバのファイルを消したのならなおさら。今から思えば30GBとか100GBとかなので、マスタぐらい残せなかったものかとも思います。
元コメ主が必要とするバージョンが書いてないのでわかりませんし、「今も」必要かわかりませんが、野良でよければ 7.0 [ftp.gmd.de],
Re: (スコア:2, 興味深い)
一緒と言うか、本来「ソースにアクセスできなくちゃ駄目」というライセンスで配布可能になっているものについて、ftp容量を理由に公開をやめちゃ駄目でしょう。いや、一時的な問題ならいいですよ? RedHat もサーバ構成を替える為に公開を停止したり、してますからね。でも「ずーーっと」となると。
同じ事を今の openSUSE版についてもやられないと何故いえます? openSUSEのプロジェクトが、Novellのサーバを使っていないと言うならともかく、結局公開用サーバはNovellでしょう?
GPLは、そう
fjの教祖様
Re: (スコア:1)
不勉強で勘違いしている部分があるかもしれませんが、おっしゃっているのは GPL の中の「あなたがソースコードを受け取るか、あるいは望めばそれを入手することが可能であるということ、... そして、以上で述べたようなことができるということがあなたに知らされるということも保証されます。」の部分ですよね?
これって、過去に GPL で公開したコードであるなら永久に守られなければいけないことなんでしょうか? 極端なことを言ってしまうと、自分が作ったプログラムを GPL で公開するなら、すべてのバー
Re: (スコア:1)
GPLv2の話であるとしますが(GPLv3ってどうなのか十分見ていない)、答は「はい」になります。
もっと厳密に言うならば、これを守るために「バイナリと一緒にソースコードを配布せよ。別々に渡すのは賢明ではない」としています。
.
GPL の目的は
「プログラムを使っている人は、そのプログラムのソースコードを参照し、変更できる状態を常に維持する」
というものです。端的な話、ソースコードだけ配布して、バイナリは配布しない、というのが理想形なんです。
でもコンパイラ
fjの教祖様
Re: (スコア:1)
まずはソースありき。バイナリはあくまでオマケだよ、ということですね。
逆を言うと、使う側の立場としては、ソースから自分でコンパイルしてバイナリを作り、それを使うべきだと。作者がユーザの手間を省いてあげようということでバイナリも合わせて公開していたとしても、そんなものはそのソースからコンパイルしたものだと「言っているだけのもの」なので、それを鵜呑みにしてそのまま使ったなら、それは使う側の「手抜きだ」ということでいいでしょうか?
…いや、別にからんでいるつもりではないんですが、そのへんを共通認識として持てていないと、誤解や不幸の元になると思うのです。
Re: (スコア:1)
他人の日記のコメントにこれ以上書くのもなんですが…。
この発想はこれまた違いますね。
手抜きとかそういう問題ではない。もうちょっと 純粋に 考えてください。
GPL の目的は、あくまでも プログラムの利用者の手元にはソースコードがあること。そして、プログラムを自由に改変できること。
バイナリが配布されてい
fjの教祖様
Re: (スコア:1)
# 横から失礼します。
v2/v3を問わず、GPLにそのような縛りがあるとは、にわかに信じがたいのですが……。
それが事実なら、たとえソフトウェアの提供自体を中止したとしても、ずっと(著作権が切れるまで?)全バージョンのソースコードを提供し続けなければならないことになってしまいます。
改変者のみならず、オリジナルの作者にすらそのような負担を強いるライセンスが成り立つとは思えません。
また、これが事実なら
Re: (スコア:1)
T.Sawamotoさんがどのようなソフトをどのような形態で配布なさっているのか/配布なさったことがあるのかは判りませんが、この問題は GPLv2 の場合第3章に集約しています。3つの条件 a, b, c があって、どれか一つを満たせばよい。
で、1つ大事な条件を。GPLはあくまでもアメリカの著作権法をベースにしていますので、著作権は自然発生しませんし、持ち主のなくなった著作物の著作権は自動消滅します。
.
日本語版がこちらにあるので、そちらも参照していただくとして:
http://www.opensource.jp/gpl/gpl.ja.html [opensource.jp]
条件c から見ていきましょう。
fjの教祖様
Re: (スコア:1)
えーとですね。もっとはっきり書きますと、私はokkyさんの解釈は間違っていると考えています。
ですから、okkyさんのご説明以外の、信頼に足るソースをご提示いただけないでしょうか。
(失礼な物言いになってしまって申し訳ないですが)
私のソフトはGPLではなくパブリック・ドメインとして頒布しているので、今回の疑問点に私自身は今のと
Re: (スコア:1)
裁判で判決が出ていない以上、これ以上は存在しえません。
が、「私の主張が間違っている」というのならば、「その主張を裏付けるソースの提示」をしてはいかがでしょう?
「お前はグレーゾーンに立っている、だからお前は間違っている。だから私が正しい」
というのは、全く意味のある主張ではありません。むしろ、
「あなたの立っている足元はグレーゾーンです。そんな所で『俺が正しい』なんぞと言っている暇があったら、
ホワイトゾーンに戻って来い」
と私は主張します。
.
ただ、T.Sawamoto さんの主張が明白に間違っているポイントがあります。
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
# どうかご勘弁ください。m(_'_)m
お伺いしていた何点かの疑問について、微妙にはぐらかされてしまっていた感があってモヤモヤしていたんですが、ようやくちょっと分かってきました。
上記が、私が最初に伺っていた「そのへんについてはこれまで議論がされてきていて、共通認識のようなものってできているんでしょうか?」に対する答だということでよろしいでしょうか?
だとすると、『私は、この1文を「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈します。』というのも一つの解釈としてはありうる、ということにはなりませんか?
# 「私は A と解釈します」ということしか根拠がないと
# 「では、私は B と解釈します」という者とは
# どこまでいっても平行線となってしまうと思う。
なので、元の質問に戻り「そのへんについてはこれまで議論がされてきていて、共通認識のようなものってできているんでしょうか?」ということになるわけです。
で、確かに「いついかなるときでもソースコードが入手できる」ということが理想であり、GPL の理念であったとしても、現実問題として、ディストリビュータ側の責任として「未来永劫にわたり全てのバージョンのソースコードが公開されている状態を維持する」ことを求めるのは不可能だと思うのです。かといって、ユーザがバイナリを入手しようとした際に、そのユーザが必要としているか否かなど問答無用で無理やりソースコードとセットでなければ入手できないようにしてしまう…というのも、どうかな、という気はします。
そして、「…しておくことが望ましい/べきだ」と「…しておかないと GPL 違反だ」との間には大きな開きがあると思います。
「…しておくことが望ましい/べきだ」ということをしていない Novell の企業としての姿勢に信頼が置けず、使う気にはなれない…ということならば、理解はできます。ですが、Novell は GPL に違反している…ということであるなら、その意味は全く違うものになってしまいます。 なので、個人の解釈に止まらない「GPL 違反だ」という根拠があるなら、むしろはっきりとそれをお知らせいただきたいわけです。で、openSUSE プロジェクトとして正さなければならないのであれば、正すべく働きかけたいと思うわけです。それが「あくまである個人の見解では…」だと「私はそのようには解釈していない」で話は止まってしまうだろうと。
…最後に、
こういう言い放ち方は、Free Software の理念や精神をより多くの人に理解してもらい、賛同を得ていくうえでの妨げにはなっても、後押しにはならないと思います。こういう物言いから生まれてくるのって「狂信者」とか「GPL 汚染」とか、Free Software に対するネガティブなイメージなんじゃないかな…。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
ありえますが、その解釈が妥当である理由を説明する義務は、そのような解釈を是としている人の義務でしょうね。
.
少なくとも「バイナリとソースが同時に入手できない」という事は、それらは分離された2つのファイルだ、という事です。2つのファイルを「同時に」ダウンロードする事はできません。トランザクショナル処理として規定されていませんから。
トランザクショナルに入手できない2つのファイルについては、必ずどちらかがもう一方よりあとに入手したことになる。バイナリを先に入手した場合は、ソースコードは必ず後になる。「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈するなら、こういう『どう考えてもGPLの精神に反する』Webページを使ったバイナリ配布は、GPL違反ではない、という事になる。
「バイナリを入手できる時点で、同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」という解釈は、このようなインターフェースを許容しますが、このインターフェースは明らかに バイナリを入手した人のソースコード入手を阻害しています。このような状態を許容するような解釈が妥当であるとは到底思えません。
.
それは Open Source の人たちが使う論調ですが、とてつもなく間違った考え方です。それは理解と賛同を混同している。
理念と言うのは「賛同される」ためのものではありません。もちろん、賛同される事は良いことですが、その前に 正しく理解されることこそが重要です。
「正しく理解されたうえで反対される」のは「間違って理解されて賛同される」よりも 良い状態 といえます。
Free Software について賛同者を増やすために、誤った理解を広めるのは間違っています。Open Source の人たちの考えているような、ぐずぐずな運用がしたいなら、GPLではなく別のライセンスを作ればいい。それらの Yet Another なライセンスが、ことごとく一過性のものに終わり、厳格な GPL だけが生き残っている理由をもっときちんと理解するべきだと思います。
fjの教祖様