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科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
>「科学はみんなが幸せになるためにある」これは絶対ウソだね。願望か宣伝の類だろう。
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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie
科学とは「判断しない」こと (スコア:4, すばらしい洞察)
科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
はてな支店 [hatena.ne.jp]
半信半疑を七信三疑へ (スコア:1, 興味深い)
一方向から見える事実も2方向(人間の目)で視ることで立体感を認識出来ますし
裏側に回ってみてみたり、上空から写真をとってみたり、
温度や質量等を計ることでソノモノ・事象が何であるか?
どうしてそこにあるのか?どうしたら作れるのか?に妥当な答えを出していくことは重要だと思います。
それは「現時点でのわかっている情報」から類推→応用する技術となり、社会の進歩に結びつくからです。
宗教に代わる「心の拠り所」として科学を持ってくるのは、苦が重すぎると思います。
科学的視点というのは「取り扱う商品を増やしているホームセンターの仕入れ基準」みたいなものだと思ってます。
みんなが使える・作れるモノ・出来ることを増やす。そのお手伝いをする。
「科学はみんなが幸せになるためにある」と何かの番組で言ってましたが、そんなことだと思ってます。
人間の言う事に絶対なんてあり得ませんし、人間に作ったモノで壊れないモノなんて出来やしませんよ。
(元材料物理系研究室所属)
Re:半信半疑を七信三疑へ (スコア:1)
>「科学はみんなが幸せになるためにある」
これは絶対ウソだね。
願望か宣伝の類だろう。
the.ACount