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ネット上で理想の自分を演じている自分も、 現実にいるキーボードを打っている自分であるわけで、 ネット上の自分が現実世界の自分に何の影響も及ぼさないと 考えるほうが、私には違和感があります。 少しでもよく見てもらいたい、その感情自体はよくわかりますが、 そう思っているのは紛れも無く現実の自分ではないですか。
ペルソナはpersonalityの語源 [geocities.jp]だそうです。 演じ続ける、とおっしゃいますが、 例えば家庭では威厳ある父親を演じ、会社では従順なる部下を演じ、 同窓会ではひょうきんなおどけ役を演じる、それは 極めて普通の事ではないでしょうか。
私が言いたいのは、ペルソナこそがその人の個性であり、 どのようなペルソナを持ち、どのようなペルソナを選んできたかということこそが その人をよく表すということです。 そして、もう分かると思いますが、ペルソナを外した真の顔なるものは、 ペルソナを選び、ペルソナを被った時点でもう存在しないのです。
「できた人物」「いいひと」を演じる、おおいに結構じゃないですか。 自分のあこがれの人、ロールモデルとなるような人の真似をするのはむしろ推奨されることですよ。 ただ、嘘はまずい。周りは騙せても自分は騙せないから、結局は破綻してしまう。 もし、「できた人物を演じる」=「嘘をつく」と考えているならば、それは違うと思いますね。 「あの人ならばどう考えるだろうか」と自分で必死で考え、 自分で答えをだせれば、それはもう自分の思考になっているはずです。 そしてそれはもう自分の個性の一部ですよ。
まず、ネット実名制移行の点。 おっしゃるように、これまで影の世界だったネットに現実の太陽の部分が 流れ込んでいるというのはそのとおりでしょうし、その流れは今後も続くでしょう。 しかし、それでネットの影の部分が無くなるかというとそれは違う気がします。 それはなぜかというと、おっしゃるとおりネットで発言している人間自体が 太陽と影の2つの部分を持ち合わせた矛盾した存在だからです。 だから、ネット実名制が広まっても、匿名で活動できる部分は残り続けると私は思います。 よって、「ネット人格」というべきものが全く失われてしまうという心配は、私には無いように思われます。
次に、ネットで無理な仮面をかぶり続けることによる「ネット人格」の「リアル人格」への侵食について。 現実の自分とは矛盾する形でしかネット上に人格を形成できなかったのだと したら、まずそれ自体が問題でしょう。 それは、現実の自分と理想の自分にギャップがあるということを示しているのでしょうが、 問題は、ギャップがあること自身ではなくて、 ギャップを埋める手段が「仮想人格の形成」であるということではないか。 ネットではそれが簡単にできると思われているのでしょうし、 顔を見せたり、実名を名乗る必要のない言論空間では実際に容易に可能でしょう。 しかし、そのような非常に任意性の強い選択こそが、 その人の個性を表すと私は考えますし、 その選択にその人自身は縛られると思いますね。 「そんなアカウントは抹消すればいいのだ」と思うかも知れませんが、 アカウント自体は抹消できても、アカウントを抹消するという選択をした自分を 消すことは出来ません。 その記憶は、そのアカウントで表現したという記憶とともに自分の中に残り続けるでしょう。
先程も言いましたが、ペルソナを選び、被った時点で、もうその仮面は顔の一部なのです。 ですから、私には「元の自分」などを論じるのはナンセンスに見える。 人間は社会とつながりをもち、教育を受け、本を読み、他人と話し、そして誰かを愛し愛される。 そういった人間として当たり前の営みをしていれば、 「私」という存在がそういったつながりあるいは流れのなかにあると自覚できれば、 「元の自分」などというものを論じるのがナンセンスと分かる、と思います。 多数の仮面を統合する自分が存在するのは確かですが、それはやはり仮面とともにあると私は考えます。
そして、ここまですべて括弧書きで論じてきましたが、「ネット人格」と「リアル人格」を 分けて論じること自体、私は違和感があります。 私はネットでの表現も社会とのつながりの一つだと思います。 それは、ネット上での発言を根拠にして恐喝や威力業務妨害の罪に問われることでも 明らかであると思われます。 それがネットであれネット以外であれ、 自由な発言にはそれなりの責任が伴うのです。例え匿名であってもです。 その意味ではネットも(あるいはHPでも) その人間が多数持っているペルソナの一つのチャンネルでしょう。 だから私には、「ネット人格」として区別する理由があまりよく理解できないのです。 それこそ我々が個性と呼ぶものであり、人格と呼ぶものではないのか。 「ネット人格」が「リアル人格」を侵食しているとしたら、 それはその「ネット人格」を作った時点ですでに侵食されているのです。 なぜならその人格を作ったのは自分自身であり、もしリアルと矛盾があるならば、 その矛盾を知っているのもまた自分だからです。 他人がその矛盾を知っているかいないかなど、些細な問題です。
重大な問題は、理想と現実にギャップがある自分自身とどう向き合ったかということです。 もちろん、その問題と向き合わず、回避するからこそ ネットでの振る舞いが「リアル人格」と分裂的になるのでしょう。 そうであったら、やはり問題の根源は、ネットが実名制かどうかなどということではなく、 個々人のこころの中にあるとしか思えない。 そのような分裂的な人間は、 ネットが実名制だろうが匿名制だろうがリアルな関係だろうが分裂的に振る舞うのではないか。 反対に自分の矛盾と向き合い、自分の人生を自分なりに納得できている人間は、 そもそもネットが匿名だろうがなんだろうが分裂的に振る舞うことはないのではないか。 そういう考えです。
最後に他人をまねる、演じるということについて。
それではまるで物まねのロボットにも思えますし、他人の思考や言動を真似ても他人の人生は歩めません。
確かに真似をしてもいいとも言いましたが、 誰かロールモデルとなるような偉い人間の真似をするということは、 究極的にはその人の真似をするということではなくなるはずです。 そのような他人のあこがれとなるような人間は必ず独自のものを持っています。 つまりその人は、誰かの真似をしていたから偉いのではなく、 自分独自の境地を開いているから偉いはずなのです。 だから、真似をしようとしたら、自分でも独自のものを持たなければならない。 それはその偉い人なり師匠なりを否定することですらあります。 臨済宗の開祖である臨済の言葉に次のようなものがあります(殺仏殺祖とも言われます)。
仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。 父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。
解釈はいろいろあるかも知れませんが、私は模範となるべき師を 乗り越えることこそが重要であると解釈しています。
演じるのが嘘をつくわけではないとしても、それは自然ではなく、真でもないと私は思います。
私は社会と関わりを持っている以上、 人間が真に自然であるということはありえないと思います。 そして演じている役自体は真ではないかもしれないが、 その役を演じている人間自体は真であると思います。
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現世の影がネット世界だったのに、ネットが現実世界の太陽になっちゃうの? (スコア:5, 参考になる)
ここ数年の実名化促進や、コメントがTwitterやFBのIDでおこなうようになってきた結果、
ネット世界のペルソナまで統合して減らしていかないといけなくなっていると思う。
つまりどんなサイトに行っても同じ自分を見せて、演じつづけないといけない可能性が増している。
そしたら、例えばFBで見せているネット上の自分が、現実の自分と解離しないために、
ひたすら現実世界でネット上の自分
Re:現世の影がネット世界だったのに、ネットが現実世界の太陽になっちゃうの? (スコア:5, すばらしい洞察)
ネット上で理想の自分を演じている自分も、 現実にいるキーボードを打っている自分であるわけで、 ネット上の自分が現実世界の自分に何の影響も及ぼさないと 考えるほうが、私には違和感があります。 少しでもよく見てもらいたい、その感情自体はよくわかりますが、 そう思っているのは紛れも無く現実の自分ではないですか。
ペルソナはpersonalityの語源 [geocities.jp]だそうです。 演じ続ける、とおっしゃいますが、 例えば家庭では威厳ある父親を演じ、会社では従順なる部下を演じ、 同窓会ではひょうきんなおどけ役を演じる、それは 極めて普通の事ではないでしょうか。
私が言いたいのは、ペルソナこそがその人の個性であり、 どのようなペルソナを持ち、どのようなペルソナを選んできたかということこそが その人をよく表すということです。 そして、もう分かると思いますが、ペルソナを外した真の顔なるものは、 ペルソナを選び、ペルソナを被った時点でもう存在しないのです。
「できた人物」「いいひと」を演じる、おおいに結構じゃないですか。 自分のあこがれの人、ロールモデルとなるような人の真似をするのはむしろ推奨されることですよ。 ただ、嘘はまずい。周りは騙せても自分は騙せないから、結局は破綻してしまう。 もし、「できた人物を演じる」=「嘘をつく」と考えているならば、それは違うと思いますね。 「あの人ならばどう考えるだろうか」と自分で必死で考え、 自分で答えをだせれば、それはもう自分の思考になっているはずです。 そしてそれはもう自分の個性の一部ですよ。
Re:現世の影がネット世界だったのに、ネットが現実世界の太陽になっちゃうの? (スコア:2)
私は、ネット人格がなんらリアル人格に影響を及ぼしはしない、と書いたつもりはありません。
このまま行けば、リアル人格がネット人格の奴隷になりやしないかと書いたんです。
つまり、自らがこさえた偽造のネット人格によって、現実生活での生き方が縛られやしないかという意味でです。
以前、「ブラウザで開いた画面の数だけ人はペルソナをかぶる」というような内容を、何かの本で見たことがあります。
それは匿名制が前提だからこそ成立するものでした。
しかし実名制が進むことで、どんなサイトに行っても同じ自分を見せないといけなくなります。
するとペルソナを使い分けていた人ほど、どこかで自分を偽らざるえなくなるはずです。
人間は矛楯した生き物です。
Aが一番好きだといいながら、実はBのほうが良いなと別のサイトで発言することも多々あり、しかも自分でそれがおかしいとも思わないことも多い。
しかし自分の矛楯は良くても、他人や友人の矛楯した意見は受け入れがたいことも時として多いのです。
(まさにこれもまた大いなる矛楯ではありますが)
そのため実名化によってペルソナが統一され、サイトごとに言ってることがバラバラだという生き方が許されなくなる可能性が出てくる。
そして実名制によって、ネットペルソナがネット社会に留まらず、現実社会にも繋がってくることは言うまでもありません。
例えば、あるときネットで不用意な発言をしてしまい、
それをすぐに訂正して謝ればいいものを、意地を張って突き通したため現実世界でも非難されたり、
あるいは現実世界でも発言どおりの生き方をしないといけなくなる可能性が出てきそうだと思うんです。
それもネットペルソナ統一による奴隷化の影響の一つでしょう。
ペルソナとは、いい人を演じたり憧れの人に近づきたいと言った目的のための仮面だけではありません。
もちろん仰るとおり、現実社会において人はいくつもの仮面をかぶって過ごしています。
しかしそれは往々にして、社会生活を円滑に進めるためのものでしょう?
取引先の人にまで友人用仮面をかぶって接したら常識を疑われます。
あくまでも節度のある仮面をかぶらないとダメです。
ですが、そのときの仮面は憧れといった要素とは無縁です。
そしてその一方で、家庭内でまで仮面を被る必要はあるのでしょうか。
他人に似せた仮面をかぶった人を、あなたは心の底から信頼できますか?
人は全く正反対の人物を理想として演じることも可能かもしれません。
ですがそれは必ずやペルソナの対にあるアニマにも大きな影響を及ぼし、生き方そのものに悪影響を及ぼすはずです。
ペルソナをかぶると言ってもそれは自分の資質や内面の延長であり、職業柄や立場上でかぶるのが殆どでしょう。
あまりに努力を要するようなものをかぶろうとすると、それに対するストレスが現れるのは明らかはず。
つまりそれは、自らから離れすぎた自分としては生きられないと言うことだと思うんです。
いくら仮面をかぶろうと、その仮面はあくまでも持ち合わせた資質や内面からの延長線上にあるんじゃないでしょうか。
ペルソナを選んで被り変えることが個性だという意見は非常に面白いと思います。
そう言う生き方もあって当然です。目から鱗でした。
ただ一方でいくら仮面をかぶろうと、基盤となる自分の顔はしっかりと残っていると私は思います。
そうでないと人格が統合できず、アイデンティティーが崩壊しちゃうじゃないですか。
仮面をかぶって他人を演じていた自分は一体誰なんだと。
他人の良いところを吸収して学んできたけど、元の自分はどれくらい残っているのかと。
他人の思考をシミュレートして、その人になりきって生きるのもステキではありますが、
それではまるで物まねのロボットにも思えますし、他人の思考や言動を真似ても他人の人生は歩めません。
自分の人生すら歩めているのかどうかも怪しいところです。
浅い付き合いなら仮面かぶりのままでも可能でしょうが、
深くなればなるほど人は素顔を見たくなるものじゃないですか。
「あの人ならどう考えるか」よりも「自分ならこう考えたい」と思う方がステキじゃないですか?
そのために他人の知識や生き方を食べて消化し、吸収して自分の素顔にするのが個性だと私は思うんです。
「演じる」とは明鏡国語辞典には、
「実人生で、本心から出たものではない役割をこなす」と書かれています。
演じるのが嘘をつくわけではないとしても、それは自然ではなく、真でもないと私は思います。
役者は演目が終われば舞台を降りないといけません。
そして家族のもとへ帰ってからも、芝居の仮面をかぶって談笑する人はいないはずです。
Re:現世の影がネット世界だったのに、ネットが現実世界の太陽になっちゃうの? (スコア:2)
まず、ネット実名制移行の点。 おっしゃるように、これまで影の世界だったネットに現実の太陽の部分が 流れ込んでいるというのはそのとおりでしょうし、その流れは今後も続くでしょう。 しかし、それでネットの影の部分が無くなるかというとそれは違う気がします。 それはなぜかというと、おっしゃるとおりネットで発言している人間自体が 太陽と影の2つの部分を持ち合わせた矛盾した存在だからです。 だから、ネット実名制が広まっても、匿名で活動できる部分は残り続けると私は思います。 よって、「ネット人格」というべきものが全く失われてしまうという心配は、私には無いように思われます。
次に、ネットで無理な仮面をかぶり続けることによる「ネット人格」の「リアル人格」への侵食について。 現実の自分とは矛盾する形でしかネット上に人格を形成できなかったのだと したら、まずそれ自体が問題でしょう。 それは、現実の自分と理想の自分にギャップがあるということを示しているのでしょうが、 問題は、ギャップがあること自身ではなくて、 ギャップを埋める手段が「仮想人格の形成」であるということではないか。 ネットではそれが簡単にできると思われているのでしょうし、 顔を見せたり、実名を名乗る必要のない言論空間では実際に容易に可能でしょう。 しかし、そのような非常に任意性の強い選択こそが、 その人の個性を表すと私は考えますし、 その選択にその人自身は縛られると思いますね。 「そんなアカウントは抹消すればいいのだ」と思うかも知れませんが、 アカウント自体は抹消できても、アカウントを抹消するという選択をした自分を 消すことは出来ません。 その記憶は、そのアカウントで表現したという記憶とともに自分の中に残り続けるでしょう。
先程も言いましたが、ペルソナを選び、被った時点で、もうその仮面は顔の一部なのです。 ですから、私には「元の自分」などを論じるのはナンセンスに見える。 人間は社会とつながりをもち、教育を受け、本を読み、他人と話し、そして誰かを愛し愛される。 そういった人間として当たり前の営みをしていれば、 「私」という存在がそういったつながりあるいは流れのなかにあると自覚できれば、 「元の自分」などというものを論じるのがナンセンスと分かる、と思います。 多数の仮面を統合する自分が存在するのは確かですが、それはやはり仮面とともにあると私は考えます。
そして、ここまですべて括弧書きで論じてきましたが、「ネット人格」と「リアル人格」を 分けて論じること自体、私は違和感があります。 私はネットでの表現も社会とのつながりの一つだと思います。 それは、ネット上での発言を根拠にして恐喝や威力業務妨害の罪に問われることでも 明らかであると思われます。 それがネットであれネット以外であれ、 自由な発言にはそれなりの責任が伴うのです。例え匿名であってもです。 その意味ではネットも(あるいはHPでも) その人間が多数持っているペルソナの一つのチャンネルでしょう。 だから私には、「ネット人格」として区別する理由があまりよく理解できないのです。 それこそ我々が個性と呼ぶものであり、人格と呼ぶものではないのか。 「ネット人格」が「リアル人格」を侵食しているとしたら、 それはその「ネット人格」を作った時点ですでに侵食されているのです。 なぜならその人格を作ったのは自分自身であり、もしリアルと矛盾があるならば、 その矛盾を知っているのもまた自分だからです。 他人がその矛盾を知っているかいないかなど、些細な問題です。
重大な問題は、理想と現実にギャップがある自分自身とどう向き合ったかということです。 もちろん、その問題と向き合わず、回避するからこそ ネットでの振る舞いが「リアル人格」と分裂的になるのでしょう。 そうであったら、やはり問題の根源は、ネットが実名制かどうかなどということではなく、 個々人のこころの中にあるとしか思えない。 そのような分裂的な人間は、 ネットが実名制だろうが匿名制だろうがリアルな関係だろうが分裂的に振る舞うのではないか。 反対に自分の矛盾と向き合い、自分の人生を自分なりに納得できている人間は、 そもそもネットが匿名だろうがなんだろうが分裂的に振る舞うことはないのではないか。 そういう考えです。
最後に他人をまねる、演じるということについて。
それではまるで物まねのロボットにも思えますし、他人の思考や言動を真似ても他人の人生は歩めません。
確かに真似をしてもいいとも言いましたが、 誰かロールモデルとなるような偉い人間の真似をするということは、 究極的にはその人の真似をするということではなくなるはずです。 そのような他人のあこがれとなるような人間は必ず独自のものを持っています。 つまりその人は、誰かの真似をしていたから偉いのではなく、 自分独自の境地を開いているから偉いはずなのです。 だから、真似をしようとしたら、自分でも独自のものを持たなければならない。 それはその偉い人なり師匠なりを否定することですらあります。 臨済宗の開祖である臨済の言葉に次のようなものがあります(殺仏殺祖とも言われます)。
仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。 父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。
解釈はいろいろあるかも知れませんが、私は模範となるべき師を 乗り越えることこそが重要であると解釈しています。
演じるのが嘘をつくわけではないとしても、それは自然ではなく、真でもないと私は思います。
私は社会と関わりを持っている以上、 人間が真に自然であるということはありえないと思います。 そして演じている役自体は真ではないかもしれないが、 その役を演じている人間自体は真であると思います。