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共感とは分かること、つまり認識することです。共感がなければ、理解できません。こう言うと言葉遊びになりますので、“神様はサイコロ遊びが大好きです”をグーグルで検索してみてください。言葉の定義がはっきりします。セイ
今晩は。私も介護現場の経験がありますが、真に必要なのは共感に耽溺する事では無く、要介護者が自身で言語化出来ない支援をヘルパーの職能として分析的に理解し提供する事で、それを計画的継続的に実施する事は冷酷でも残酷でも無く自虐は全く不要です。
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海軍に入るくらいなら海賊になった方がいい -- Steven Paul Jobs
同意できかねます (スコア:0)
共感とは分かること、つまり認識することです。共感がなければ、理解できません。こう言うと言葉遊びになりますので、“神様はサイコロ遊びが大好きです”をグーグルで検索してみてください。言葉の定義がはっきりします。セイ
Re:同意できかねます (スコア:2)
自分は今身内の介護をしているのですが、、、
身内・親族の介護を行う上において、相手に対しての「共感(相手の気持ちを思いやる気持ち)」が一番大切だとわたしは考えています。
介護される人の立場に立ち、辛さや苦悩をできるだけ取り除いてあげたいと考えるのは、人として自然な感情だと思います。そのように思いながら四六時中介護に専念しています。
しかししばしば介護の手を休め「分析的思考」をしたときに気が付くのは、自分は全く理論立てて行動できていない。ということでそれが往々にしてあります。平たく言えば「先のことを思い描いて将来設計を立てる。」ということについての思考が全く抜け落ちているのです。
また逆に、「分析的思考」(例えば、論理立てて物事を解決しようとしたり、プログラミングしたり)すると、今度は介護を必要とする人に対して、残酷に、冷徹に処理をしようと振る舞ってしまいます。
「分析的思考」とはすなわち、共感という分析的思考には不必要な感情を排除した考えだと認識させられます。
ですので、「介護をする」ならば、利己的な将来設計をすることを諦め、たとえ他人からは非論理的な振る舞いに映るとしても、被介護者の気持ちになって(ある意味信じて)行動をする意識転換が必要になります。
このように意識転換をすること、考え方を変えることは、理系技術者にとって難しいことだと思います(現にわたしは難しかった)。
しかし、人間の脳の機能として「共感」と「分析思考」は両立し得ないと分かると、少しは気が楽になりました。
介護に限らず、たとえば、カルトにのめり込む人、熱狂的に何かを好きになる人などは「分析的思考」が足りないように思いますので、この仮説はある程度正しいのではないかな。と思います。
Re: (スコア:0)
今晩は。
私も介護現場の経験がありますが、
真に必要なのは共感に耽溺する事では無く、
要介護者が自身で言語化出来ない支援をヘルパーの職能として分析的に理解し提供する事で、
それを計画的継続的に実施する事は冷酷でも残酷でも無く自虐は全く不要です。