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人生の大半の問題はスルー力で解決する -- スルー力研究専門家
1984 (スコア:2, 興味深い)
当然です。この世界と記録と歴史からすべて抹消します。
NewSpeak ではソレを表す言葉も定義されません。
Re:1984 (スコア:1)
1982年ぐらいに呼んだ時はそれなりに衝撃的だったけど、
もう2003年になっちゃったしなあ。
Re:1984 (スコア:2, 参考になる)
結構呑気ですねぇ。
「国」という領域を越えて、類似のことは多々行われている現状は見えませ
んか?「偉大なる兄弟」は実体を持つ必要はないのですよ。
あのフィクションはある局面ではすでに現実のものになってますよ。
日本じゃアメリカのイラク攻撃に反対するデモの模様なども報道にはほとん
ど載らないわけですから、「見えないものはありもしないもの」という
ロジックは生きているどころか、ますますしたたかに強固になってます。
さて・・・
ボク自身は愛煙家ですが、場は考えます。根本的には害悪ですから。
少なくとも「ここで吸うのはやめてくれ」といわれたらやめます。
どうしても吸いたくなれば、断ってから許容された場で吸います。
残った皆さんが不快な思いをしないように配慮するのは当然のことです。
吸わない事でボク自身がその場に居続ける事ができないほど不快になった
場合はそれは自分に可能な範囲で何とかするしかないです。
健康や精神の安定を確保する権利は誰にでもあります。
嫌煙家の不快の解消を尊重すると同時に、自分の不快の解消も尊重したい
と思うわけです。
「文化」と言える以上にタバコを蔓延させることで甘い汁を吸う人たちが
多い現状もあります。タバコを吸っているときの生理状態もあまり好まし
くないものです。よって、やめられるものなら辞めたいと思っています。
ただ、自分を消耗させてまでするものなのかどうか。
禁煙は何度だってできます。一度辞めてみればいいと思います。
意地を張って吸い続けるより、吸わないことでいかに精神的な苦痛を味わ
うのかを知れば、吸う人がいることで味わう苦痛と同じではないにせよ、
類似の苦しみを味わうでしょう。
他人の苦しみに対する想像力を失った時点で終わりだということです。
愛煙家を自称する人々の中に、そういった人間にとって基本的なの感覚が
麻痺したとしか思えない人が散見されるのは悲しいことです。
愛煙家の多くが「文化」と言っているものはボクにとっては半分以上は
「タバコはおしゃれなものだ」と吹聴していた当時の時代背景の反映にし
かならないと思っています。タバコに対して寛容であった時代は、
愛煙家から明らかに美味しい汁が吸えた時代です。
過去には喫煙の権利を求めて戦争すらありました。
それに踏みにじられていく人々が居ました。
いや、今だってあるわけです:
http://www.ipsnews.net/jp/01/25.html
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~tono/self/smoking.html#war
文化的な側面をいうなら、おそらく「原始的」とレッテルを
張られかねないアニミズム的な文化が原初でしょう:
http://web.sfc.keio.ac.jp/~s01727hh/tabako1.html
理解がどこまで為されているか、容易く「文化」を口にする愛煙家
にはタバコと人類がどう関わってきたかを再考していただきたい。
タバコというものは本来どこでも吸えるものではなかったし、
一種の儀式的な側面も持っていたようですが、そこにあるのは
周囲に対する「敬意」やら「尊重」が根本にあったはずです。
重商主義の中で「文化」を失ったのは愛煙家の方です。
また禁煙と愛煙の確執の歴史はすでに数世紀以上の歴史を持つものです。
それを巡って人間の世界がいかにゆがめられたか。そこで動員された
手段や戦略やたくらみがいかなるものであったか。
「文化の苦み」を多少は知るべきでしょうね。
#上記URLはあくまで参考
さて、害悪であることの大部分がもっともであると同時に、いきすぎた嫌煙
運動の幾つかは文化的な封殺につながりかねないと言う自覚がないならば、
嫌煙運動家の大部分は過去に乗せられて戦争を起こした愛煙家と同じ程度
の愚かさを繰り返す事になるのではないかと危惧します。
誰しも、当時は自分のしたことが「誤っている」とは思わないでしょう。
しかしアビーロードを裸足で歩く彼らの手からタバコが消え、それを手に
している彼らが消え、「アビーロード」という地名が消え、多くの優れた
アルバムを輩出したスタジオが消え、そこで仕事をしていたエンジニアや
プロデューサが消え、歴史が作り替えられていくかもしれません。それは
タバコの是非を問いかけるのとは別次元の話に派生します。
これだけタバコが害であると認められているにも関わらず、なぜ喫煙者は
まだ残っているのかについては歴史的な洞察が必要ですし、ヒステリック
な嫌煙運動が別な何かに利用されないかという警戒は持つべきでしょう。
お互いがそれぞれの立場を良く見直さないと、タバコを巡る確執の歴史を
重ねるだけにならんでしょう。
# 喫煙議論になると文字通り火がつくけど、こういう投稿ではID。
-- (ま)