日本語は「モラ言語」(英語などは「音節言語」。フィンランド語やギリシア語はモラ言語)で、しかも子音の数が極端に少なく、かつ、必ず開音節にしなければならないという(無駄な)制限があるために、情報伝達の効率が悪くなります。さらに、文法を論理的な部品(形態素)の組み合わせで表現するという「膠着語」であるために、さらに非効率になっています。(例えば孤立語である英語の must [məsd̥; ˈmʌst] は1音節ですが、膠着語の日本語では -a nakere ba nara nai と9音節にもなってしまいます。膠着語は論理的で応用が利き、学習しやすいのですが、語長が異常に長くなってしまうという欠点を持っています。)そのために、日本語や朝鮮語、モンゴル語、ハンガリー語等は、母音が多いのにも関らず、イタリア語のように音楽的に響かず、単位時間内に伝えられる情報量を等価にするために早口で発声せざるを得なくなり、これらの言語が「まるで機関銃を撃っているようで美しく響かない」と言われる所以となっています。日本語の情報伝達は決して高密度ではなく、スカスカなのです。
予想: 100年後に残る言語はたった一つ (スコア:0)
0111001101000110001011000011100110101101110011
# 人類?ああそんなものも居たね。
Re: (スコア:0)
いまさら最源流の二値法まで退化する理由がわからん・・・
一般的な推測のとおり、次元を含めた多値記録に進化するのが自然だと思いますよ。
Re: (スコア:1)
言語の拡散は退化の歴史。(音的に。)
母音と子音の数は、源流のアフリカ中央部ではすごく多いのだけど、日本語では母音が5,沖縄では4とも言われ、ミクロネシアかどこかの太平洋群島部では3にまで減少している。(子音も減少している。日本語の子音はかなり少ない方。)
これは、複数の言語が接触した結果、単純な方向に丸まったせいだとか言われているね。
だから、究極は母音が2個、もしかしたら1個かもしれない。(さすがにあり得なさそうだし、子音と組み合わさるから2値ではないが。)
では言語が退化したのかというと、そうではなく、複雑性は別の方法で担保している。
例えば
Re:予想: 100年後に残る言語はたった一つ (スコア:2)
言語の拡散は退化の歴史。(音的に。)
初耳です。どなたの主張ですか?
母音と子音の数は、源流のアフリカ中央部ではすごく多いのだけど、日本語では母音が5,沖縄では4とも言われ、ミクロネシアかどこかの太平洋群島部では3にまで減少している。(子音も減少している。日本語の子音はかなり少ない方。)
人類の源流はアフリカだとされていますが、現在地球上で話されている言語の起源は全くわかっておりません。
なお、言語学的に世界の言語の音素数が減少する傾向にある等と言う理論は寡聞にして聞いたことがありません。世界の言語を歴史的に追っていくと、音素の数は時代と共に増えたり、減ったりしています。類型論的にも膠着語から孤立語に、あるいは、屈折語に、さらに屈折語や孤立語から膠着語に、等のように、流転(循環)しているようです。
なお、日本語の音韻は開音節だと信じられていますが、それは日本語がモラ (mŏra)[拍]言語であり、ローマ字表記も開音節として記述されるからに過ぎず、現実に発音される日本語は /i/、/u/ 等の母音の無声化等が進行しており、実はスラヴ語並に子音連続のある言語になってしまっています。日本語がローマ字表記になれば、必ずや「発音通りに書いてみよう!」とする輩が登場し、あっと言う間に日本語が開音節言語であるという虚構は崩壊してしまうでしょう。現在の日本語は仮名文字を使うことによって、かろうじて、開音節言語であるという虚構が維持できているのです。
これは、複数の言語が接触した結果、単純な方向に丸まったせいだとか言われているね。
誰がそんなことを言っていますか? 確かに、(本当のことはわかりませんが)英語や中国語のように大量の異民族が流入してきた言語の場合は活用や曲用などの後尾や格変化形の差異が理解されず、本来屈折語や膠着語として形態素で文法的な機能を説明していたのが役に立たなくなり、後尾や活用形が捨て去られ、裸の単語を並べる語順によってのみ文法的な機能を表現するような言語(孤立語)になったという主張は聞いたことがあります。その主張は何となく説得力があるような気もしますので、そうかも知れないとは私も思いますが、これまた言語学的には証明された定説ではありません。
だから、究極は母音が2個、もしかしたら1個かもしれない。(さすがにあり得なさそうだし、子音と組み合わさるから2値ではないが。)
「普遍文法」的には母音はどの言語でも最低3つは必用であり、それらの母音は /a/、/i/、/u/ であるとされています。カフカス諸語に属するアブハズ語に母音が2つ (/a/、/ə/) しかない、いや母音は音素としては実は1つ (/ə/) しか存在せず、実際に発音される複数の母音は単に /ə/ の異音(ヴァリエーション)にしか過ぎないという主張もありますが、母音が1つ、ないし2つという言語の存在はにわかには信じられないという意見も強く、まだ決着は付いていません。いずれにせよ、この言語だけを除けば、世界の全ての言語は母音は3つ以上存在しています。(盧論上は、もし母音が2つしかない言語が存在するとすれば、弁別的特徴による対立から、それは /a/ と /i/ で、母音が1つの言語が存在するとすれば、それは /ə/ となると考えられます。)
で、この母音の数の多少は言語の進化とは全く無関係だと考えられています。時代によって増えたり、減ったりしています。
では言語が退化したのかというと、そうではなく、複雑性は別の方法で担保している。
言語は「変化」するだけで、「進化」も「退化」もしません。
例えば日本語の場合、基本的に母音と子音を1個ずつのペアとし、組み合わせの長さを一定長に保つ。
つまり、1音を固定長とし、一定のクロックと同期せて高速に送信するという方法で高密度の伝送をしている。
日本語は「モラ言語」(英語などは「音節言語」。フィンランド語やギリシア語はモラ言語)で、しかも子音の数が極端に少なく、かつ、必ず開音節にしなければならないという(無駄な)制限があるために、情報伝達の効率が悪くなります。さらに、文法を論理的な部品(形態素)の組み合わせで表現するという「膠着語」であるために、さらに非効率になっています。(例えば孤立語である英語の must [məsd̥; ˈmʌst] は1音節ですが、膠着語の日本語では -a nakere ba nara nai と9音節にもなってしまいます。膠着語は論理的で応用が利き、学習しやすいのですが、語長が異常に長くなってしまうという欠点を持っています。)そのために、日本語や朝鮮語、モンゴル語、ハンガリー語等は、母音が多いのにも関らず、イタリア語のように音楽的に響かず、単位時間内に伝えられる情報量を等価にするために早口で発声せざるを得なくなり、これらの言語が「まるで機関銃を撃っているようで美しく響かない」と言われる所以となっています。日本語の情報伝達は決して高密度ではなく、スカスカなのです。
これが中国語になると、周波数変調を採用して音の高低に意味を持たせている。
中国語は1単語が1音節と短い上に、声調という超文節的な (suprasegmental) 機能があるために、1つの音節で通常の言語の4倍の情報を区別することができます。従って、中国語はゆっくり話しても十分な情報量を伝えることができるために、音楽的に響きます。早口の(=早口に喋らざるを得ない)日本人が中国語を聞くと、ゆっくりでトロく(=馬鹿っぽく)聞こえてしまうのですが、中国語はその特性により、早口で話す必要がないのですね。
日本語でも音の高低(イントネーション)に意味があったが、これは徐々になくなりつつあるかもね。
日本語の高低アクセントは、確かに中国語の声調と同じようにピッチ(音の強弱ではなく、高低)ですが、これは機能的には英語などの強弱アクセントと同じです。
日本語(共通語)のアクセントの規則は、
① 第1音節は常に「低」で始まる。
② 第2音節以降は「高」になる。
③ n番目の音節の次の n+1 番目の音節から「低」になる場合がある。
④ 「高」から「低」に移った場合はそれ以降は全文節を通じて「低」のままである。
⑤ 「高」から「低」に移る場合、n番目の音節の直後に「アクセントの滝」ないし「アクセントの核」があると表現する。
⑥ 「アクセントの核」が第1音節にある場合には、第1音節が「高」となり、第2音節以降が「低」となる。
⑦ 「アクセントの核」がない語の場合は、第1音節が「低」で、第2音節以降は「高」になったままである。
⑧ 国語辞典等では、アクセントの核を有しない語彙の見出し語の所に「⓪」と表示する。第1アクセントの直後にアクセントの核がある場合には「①」、第2アクセントの直後にアクセントの核がある場合には「②」のように表示する。
以上のことを踏まえれば、結局、日本語のアクセントにおいて有意なのは、何番目の音節の直後にアクセントの核が来るかどうかであることがわかります。ローマ字表記の場合には、そのアクセントの核の来る直前の音節に「´」を付けるだけで日本語のアクセントは区別できるようになります。
例えば、
Hi ga noboru. _Hi ̄ga_no ̄bo ̄ru. 日が昇る
Hí wo taku.  ̄Hí_wo_ta ̄ku. 火を焚く
Hási de tabéru.  ̄Há_si_de_ta ̄bé_ru. 箸で食べる
Hasí wo wataru. _Ha ̄sí_wo_wa ̄ta ̄ru. 橋を渡る
Hasi wo aruku. _Ha ̄si ̄wo_a ̄ru ̄ku. 端を歩く
このように、日本語のアクセントは、高低ではありますが、実体は英語などの強弱アクセントと等価のものだと言うことがわかります。(中国語の声調は同一音節内で高低が変化します。)
方言がマスメディアにより混合した結果、音の高低よりも前後の文脈により意味を把握するようになった。
「方言が混合」したのではなく、NHKの全国放送の普及によって、NHK的な「共通語」が全国で方言(=地方在住者の母語)を駆逐しつつあるのだと思います。ただし、かつては NHK はアナウンサーの発声訓練を徹底的に行い、記者はあくまでもニュース原稿を書くだけで、マイクは握らなかったのですが、NHK会長の方針で臨場感を持たせるため、記者も現場からマイクを握って放送するようになり、その結果、アクセントが共通語のものとは違っていたり、「ガギグゲゴ」のような鼻濁音 [ŋ] が発音できなかったり、「サ行」の子音が標準の [s] ではなく、いわゆる“舌足らず”の [θ] で発音したりする者が目立つようになりつつあります。(なお、日本語の音韻構造の変化方向を見れば、将来的には「サ行」は [s] ではなく、[θ] で発音されるのが一般的になると予想されます。)
元々日本語のアクセントは地方ごとにバラバラで、かつ、宮城、山形、福島、栃木、茨城、千葉、八丈島、静岡、福井、長前、福岡、熊本、宮崎等では「無アクセント」ないし、「平板一型アクセント」が使われています。この「無アクセント」というのは語弊がある言い方で、要するに、全ての単語のアクセントが「⓪」であるような「定アクセント」ということです。常に語頭が「低」で、2番目以降の音節が「高」のままというタイプです。つまり、日本語のアクセントはアクセントの核の位置で意味を区別するものの、アクセントの核が無くて、共通語ではアクセントによって意味を区別している異音異義語であっても、無アクセント地域では全て同音異義語となってしまっていても、格段の不都合が生じているわけではないので、日本語においてはアクセントの機能は元々それほど重要ではなかったとも考えられます。
その結果、今度は単語の言い換えなどにより記号の衝突(同音異義語)を避ける方向に進化するだろうね。
仮に日本語がローマ字化されたりしたり、漢字が廃止されたりした場合には、アクセントの問題とは無関係に、大量の同音異義語が書記系で区別が付かなくなってしまうために、「大和言葉」が復活してくるかも知れませんね。元々、日本語の大量の同音異義語は、中国語からの借用語(漢語)を大量に日本語に輸入したために発生したものでした。元の中国語では母音と子音で発音が区別され、さらに声調でも意味が区別されていた単語も、音素の貧弱な日本語に入ると、それらが大量に中和化され、元の中国語以上に、爆発的に同音異義語が発生してしまったものでした。ですから、漢語を廃し、大和言葉を復活させれば大量の同音異義語の問題も解決されると思われます。
というわけで、もし、将来、完全2値の言語になったとしても、超高速伝送にするなどで情報量は確保されるんでしょうね。
「2値の言語」という意味が理解できません。母音が2つしかない言語という意味でしょうか? いずれにせよ、声帯と口腔と舌と鼻腔、口蓋垂等を使ったヒトの発声能力には生物学的・物理的な限界があり、「超高速伝送」(??) 等の実現は不可能でしょうね。
※2値言語(音声)を利用するようになるシチュエーションってどんなのだろね。
※S/Nが極端に悪い環境とかかねぇ…。でも周波数方向に多値化しそうだから、音声以外の通信かな。足踏み通信とか?
人間が日常的に使う自然言語がそのような形に進化することは絶対にないと思われます。情報伝達の方法として非効率過ぎるからです。