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身近な人の偉大さは半減する -- あるアレゲ人
ESR以降 (スコア:2, 興味深い)
大学の授業の一部として GNU の話は教えていました。
私が教えていた10年ぐらい前はまだ「オープンソース」という言葉はまだそれほど一般的ではなかったので「オープンソース」という言葉は使っていませんでしたが、GNUというムーブメントと、それがどんなものでなぜそういったものが出てきたのかという話をしていました。
#でも、今から思ってもやっぱり理念をきちんと明確に示しているのは「フリー」の方なんじゃないかとも思う今日この頃。
そういった関係もあって、ずっと流れを見てきましたが、Eric S. Raymond の "The Cathedral and the Bazaar" 以前と以降では日本における「コードを書いて共有しよう」文化に大きな違いが出てきているように思います。(PC系シェアウェア文化を除く)
ESR は「コードを書く人」でした。「コードを書く人」が「コードを書くよりやるべきこと」を見いだして論壇(?)に乗り出したように私には見えました。
でも、ESR以降、日本で流行ったのは「コードは書かないけど、論を書く人(書き散らす人)」なのではないかと思います。
ESR は(わたし的には偏ってるように見えますが)評論家としても、コードを書き、プロジェクトを動かす人としての裏付けが深みをあたえていますが、日本の特に Linux まわりに出没している人たちは ESR の粗悪なコピー品に過ぎないんじゃないかと思えます。
「それ、ESRのマネにもなってませんから。残念!。粗悪なコピー品斬り!」みたいな。
もちろん、コードを書くだけが全てではないのですが、コードを忘れてメタな議論だけを戦わせ、論壇気分を味わっているだけでは空しいことに気づく必要があるんじゃないかと思います。
本来の「オープンなコード」を支える人たちなら、暇があったらコードを書いたりプロジェクトを回したりしてたいはずで、論ばかり書いたりしゃべったりしてるはずないんです。
逆に、地道に「オープンなコード」を書いている人たちで、注目を集めちゃった人たちはコードを書く時間がなくなることを嘆いていたりもします。
「オープンなコード」がなければオープンソースは成り立ちません。ベースを忘れた空虚な議論だけが回っているさまはまるで実態のない狂乱のバブル経済を彷彿とさせてしまいます。
バブリーな評論家に踊らされず、フリーなコード、オープンなコードを実際に増やしたり質を高めたりすることにこそリソースを割きたいものですね。
#その点では坂村健に(誤解に基づいて)くだらない喧嘩を売って時間を浪費させたようなことこそが「コード」を書いて楽しんで、また共有することで社会にフィードバックしようという人たちの敵なんじゃないかと思います。
Re:ESR以降 (スコア:0)
これこそ、粗悪なコピー品ですよ。
Re:ESR以降 (スコア:0)
> これこそ、粗悪なコピー品ですよ。
このネタで「切腹ー!」とやろうとしたのに。。。
30分待っている間に書かれてしまった orz
それ、ESRのマネにもなってませんから。残念! (スコア:0)
そこは「風斬り!」って言わないと。
#わかる人にしかわからないネタなのでAC
Re:ESR以降 (スコア:0)
# 「オープンソース」でなくすために、ライセンス条項に「このソフ
# トウェアをオープンソースと呼んではいけません」て追加しよう、
# という冗談とも本気ともとれないことが日記の類で書かれたり……
Re:ESR以降 (スコア:0)
# 完成させてしまってあぼーんソース