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私は、いまの日本という時代性・地域性を越えて、あなたの発言は問題があると思います。 J.S.ミルは『自由について』(http://page.freett.com) [freett.com]の第2章において、私たちの理性の及ぶ範囲が相対的であることを根拠として、言論の自由は無制限にみとめるべきであり、制限を掛けることはできないと考えています。
以下私なりの解釈:
たとえ誤っている言論であっても、それが誤っているという点において議論を正しい方向性に向ける価値があるから、言論の自由は制限されるべきではありません。 「誤っている」という条件で、ある意見を発表することを規制
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
つまり、検閲は禁じられているわけですので、どんな言論であっても(たとえプライバシーを侵害するような内容であっても、卑猥な内容であっても、おどしであっても)、いちどは日の目を見る機会があります。これが言論の自由であって、一方で、言った後に逮捕されたりしないことは保障されていません。
「こういう言論はいけない(ので事前に検閲でふたをしてしまおう)」と前もって決めてしまうことができれば、一見、すごく便利なことかもしれません。たとえば、プライバシーにかかわることについては事前の検閲をOKとする、とか。
しかし、仮に検閲を導入したとして、検閲がその理念(例:プライバシーは最重要だ)の通りに行われているかどうかをチェックすることが原理的にできなくなってしまう、という問題点と、もうひとつ、その理念そのものが正しいかどうかを議論する機会さえ失われてしまうという問題点があります。
たとえいま、「この理念については、もはや議論の価値がない」というほどに強い合意が、国民全員で得られたとしても、将来誰かが新しい理由付けを考え出して「やっぱり違うんじゃないか」と言い出し、そっちのほうが正しそうだ、ということになる可能性を否定することはできませんし。
つまり、事前の検閲はどんな場合でもやっちゃいけない、といえます。
一方で、言った後のことですが、言論の自由を制限する法律がいっぱいあって、言った後に有罪になってしまう場合もあります。たとえば殺人を予告したりとか、公衆の面前で卑猥な表現をしたりとか。こういう場合でさえも、理念としては表現の自由は守られるべきだと思います。もし、現行の法律に照らせば有罪だけど実は有益な言論というものがあったとしたら、たとえ発言者が逮捕されたり有罪になったとしても、その言論はすでに日の目を見て国民の知るところとなっているわけで、法律のほうがおかしいので法律を変えよう、というふうに国民が思うかもしれません。
うまくまとまらないですが、けっきょく、憲法も法律も自分の意見も、もしかしたら間違っているかもしれないから、その場合に自由な議論を通じて修正されうる可能性を残しておく、というのが言論の自由の意図だと思っています。
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一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy
どこまで自由? (スコア:1)
自由という名のもとに何でも言って良いかというと
そうでもないと思います。
その線引きってだれでも同じ訳ではないから難しいですね。
特に国や時代によっ
Re:どこまで自由? (スコア:5, すばらしい洞察)
私は、いまの日本という時代性・地域性を越えて、あなたの発言は問題があると思います。
J.S.ミルは『自由について』(http://page.freett.com) [freett.com]の第2章において、私たちの理性の及ぶ範囲が相対的であることを根拠として、言論の自由は無制限にみとめるべきであり、制限を掛けることはできないと考えています。
以下私なりの解釈:
Re:どこまで自由? (スコア:3, 参考になる)
つまり、検閲は禁じられているわけですので、どんな言論であっても(たとえプライバシーを侵害するような内容であっても、卑猥な内容であっても、おどしであっても)、いちどは日の目を見る機会があります。これが言論の自由であって、一方で、言った後に逮捕されたりしないことは保障されていません。
「こういう言論はいけない(ので事前に検閲でふたをしてしまおう)」と前もって決めてしまうことができれば、一見、すごく便利なことかもしれません。たとえば、プライバシーにかかわることについては事前の検閲をOKとする、とか。
しかし、仮に検閲を導入したとして、検閲がその理念(例:プライバシーは最重要だ)の通りに行われているかどうかをチェックすることが原理的にできなくなってしまう、という問題点と、もうひとつ、その理念そのものが正しいかどうかを議論する機会さえ失われてしまうという問題点があります。
たとえいま、「この理念については、もはや議論の価値がない」というほどに強い合意が、国民全員で得られたとしても、将来誰かが新しい理由付けを考え出して「やっぱり違うんじゃないか」と言い出し、そっちのほうが正しそうだ、ということになる可能性を否定することはできませんし。
つまり、事前の検閲はどんな場合でもやっちゃいけない、といえます。
一方で、言った後のことですが、言論の自由を制限する法律がいっぱいあって、言った後に有罪になってしまう場合もあります。たとえば殺人を予告したりとか、公衆の面前で卑猥な表現をしたりとか。こういう場合でさえも、理念としては表現の自由は守られるべきだと思います。もし、現行の法律に照らせば有罪だけど実は有益な言論というものがあったとしたら、たとえ発言者が逮捕されたり有罪になったとしても、その言論はすでに日の目を見て国民の知るところとなっているわけで、法律のほうがおかしいので法律を変えよう、というふうに国民が思うかもしれません。
うまくまとまらないですが、けっきょく、憲法も法律も自分の意見も、もしかしたら間違っているかもしれないから、その場合に自由な議論を通じて修正されうる可能性を残しておく、というのが言論の自由の意図だと思っています。
Re:どこまで自由? (スコア:0)
憲法第12条ってのがあって、「国民は、これを濫用してはならない」と自由に対して規制をかけているのだね。
必ずしも無制限じゃない。
国家は「公共の福祉に反する物」に対しては規制をかけなきゃいけない立場にあるから、
例えば2ちゃんの犯罪予告なんかは逮捕されちゃうわけです。
問題は「何が公共の福祉に反するか?」ということ。
ところが、誰もが納得できる明確な答えってのが今現在ありません。
司