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私は悩みをリストアップし始めたが、そのあまりの長さにいやけがさし、何も考えないことにした。-- Robert C. Pike
微視的視点で手を入れないという選択 (スコア:2, すばらしい洞察)
それは、菌が慣れてきて耐性を獲得するという意味ではない。
平時から極稀に耐性を持つ菌は突然変異で生まれている。
抗生物質のない環境下では「抗生物質に耐性がある」ことは生存競争で優位に
働かないのと、その性質を獲得した突然変異は同時に何らかの不都合(エネルギー
効率が悪いとか)を生じさせることが多いので、淘汰されて生き残れない。
ところが、抗生物質がある環境下では、「何らかの不都合」のデメリットは
無視できるくらい小さいものになる。そうすると、耐性菌だけが残り、競争相手の
いなくなった環境で
Re:微視的視点で手を入れないという選択 (スコア:1)
今回、検査の対象になっているBRCA1ですが、これ自身は癌遺伝子ではありません。そうではなくて癌抑制遺伝子です。
元の文章から読み取りにくいのかもしれませんが、BRCA1が変異して本来の機能を失ってしまっており、それによって乳がん発症のリスクが高まるということです。
#あくまで「高リスクとなる」に留まるのは、がんの発症には、いわゆる「多段階発がんモデル」で説明されるように、
#複数の抗がん機能の欠損が積み重なる必要があるためで、そのどこか一つのステップが先天的に進行してるので高リスクになる。
そういう観点から言うと、BRCA1の変異を「遺伝的多様性」と結びつけて解釈するのが妥当かどうかについては、ちょっと疑問は残ると言わねばなりません。例えばこれが、生存に必須の遺伝子において、その機能を欠損させるような変異がある場合などには、その胎児は出産前に自然流産になるでしょう。しかしBRCA1は*そこまで*重要な遺伝子ではないため、変異があっても生まれてはくるし、結果的にそれが一種の先天異常みたいになる、という具合。
遺伝的多様性、ということから言いますと、別に「機能を失うこと」が重要なのではなくて、「多様であること、そのもの」の方がクリティカルなわけでして、機能欠損した変異型BRCA1でなくとも、遺伝子多型により、機能的に正常な変異型BRCA1でいいので、とにかくバリエーションが多い方がいい、ということもありえます。もちろん、その機能中心になるような部分がクリティカルに働くケースもあるので、まぁどっちとも言えない部分はあるというか……結局のところ「遺伝的多様性のために重要」も「それほど重要でない」も、どっちにしても今の段階では根拠がなく、想像にすぎない話になっちゃいますけどね。
それから、まぁ完全にオフトピですが、マラリアの治療法については現在は「確立された」と見なすのはよろしくないです。ワクチンも作製できず、治療薬にしてもすでにクロロキン耐性マラリアが世界的に蔓延している状況です。現在、もっとも警戒すべき感染症の一つだと言っても過言ではありません。
まとめてお返事(長文) (スコア:1)
主題は、タレコミ最後に書かれた本家コメントに感じた違和と、それに対する反論です。
サブジェクトにも書いた通り、ミクロな視点の話しかしていないつもりです。
この手の話にミクロな視点からのアプローチをした場合、基本的に、「親の視点」が基準である
ことは注意すべきで、忘れてはならないと思うのです。
選択権があるのは親です。親がどう思うのか。親がどうするのか。そういう文脈で語られるものです。
さて。
確率的に百万人に一人に発症する病気があるとして、それが当たった子を持つ親は「どうして
うちの子だけが」と思います。当然、回避できるものならしたいと考えるでしょう。
その回避するための手法の一つが着床前診断です。
存在することができなかった兄弟なんかどうでもいいんです。だって生まれてないどころか、
人の形にすらなってないじゃないですか。死産、流産ならともかく、排除された胚は、明らかに、
実感としては、最初の子供ではありません。
実感できるという人は、受精卵が吸収されてしまったり、着床することができず妊娠不成立と
なった場合も子供が死んだと感じる奇特な人なのでしょう。
実感と、宗教的倫理的にすっきりしないことは別の話であり、また、法的に受精卵は人なのか
どうかという論議ともやはり別の話です。
百万人に一人の疾病を回避する選択をした親がいたとして。
回避した結果生まれてきた子供は、一億人に一人のより重度な別の障害をかかえていたとしたら
どうでしょうか。
それが、百万人に一人の疾病が発症していたならおきない障害だったとしたら。
「失敗した」「前の方が良かった」と思ってしまうのではないでしょうか。
そういう事態だっておきうる。
明確なメリットを取り、未知のリスクを目をつぶるというなら、わかった上で目をつぶるべき。
「そんなことは起き得ない」「仮におきてもベストな選択をした」といえるというのであれば、
やればいいと思う。
もし考えていなかったならば、考えるべきだ。
それが親としての、選択権を握った人間としての責任なんじゃないでしょうかね。
その結果、あえて「スクリーニングをしないであるがままを受け入れる」選択はあっても
いいんじゃないでしょうか。
胸を張って、子供にそういえばよろしい。
これら一般化した話を踏まえたうえで。
「乳がんを受け入れようとかがんを選べとは言えない」というのは、「がんのリスクを減らした」
と子供に言いたい、そのほうが気分がいい、という主張に過ぎません。
ならば、そう主張した彼(彼女)は、一億人に一人に当たってしまった目の前の子供に対して、
なんというのでしょうか、
今回の話に限っていえば、当該遺伝的変異を持っていれば感染しない致死的な伝染病が将来
発生しないとは限りません。耐性菌と抗生物質の関係です。
その状況に直面したときに、子供に向かって何というのでしょうか。
自分の子供に良かれと思ってやったことが、子供を苦しめる結果にはならないのか?
親が行った選択に起因する問題が発生したとき、それを親自身が受け入れられるのか?
巨視的には大差ないだとか、目の前の子供を守りたいという壮大な対立軸とはまた別に、
ミクロな視点の一般的な感情論よりもほんの少しロジカル位置に、別の議論すべき軸が
あるのではないでしょうか。
そしてこっちのほうが、親と子の立ち位置として、より重要なんじゃないかと思うのです。
論旨はそういうことです。
# このへんまで書いてからごっそり削ったので、いまいち謎な耐性菌の話が残った、と。
# マラリア治療法の確立は言いすぎでしたね。極端な例→ちょっと現実っぽい例→一般化
# と話を展開する際の推敲ミスです。適当に読み替えてください。
Re: (スコア:0)
> なった場合も子供が死んだと感じる奇特な人なのでしょう。
自分の感覚と異なる人間は奇特だとよ。何様だよ。
> 実感と、宗教的倫理的にすっきりしないことは別の話であり、また、法的に受精卵は人なのか
> どうかという論議ともやはり別の話です。
誰が法律論をしていたんですかね。
あなたは法律で禁止されていなければ人を殺してもOKと考えるタイプなんでしょうね。
そして、人を殺してもOKだから法律で禁止すべきではない、というトートロジーを唱えて悦に入る。
Re:まとめてお返事(長文) (スコア:1)
受精しても、半分くらいは不成立になるという話も聞きます。
着床できなかった受精卵は、体内に取り込まれて吸収されてしまったり、次の月経で体外に
排出されてしまうため、ほとんどの場合、受精していた事実に気づきません。
月経のあるなしに関係なく日常的に妊娠検査薬を試しているとか、不妊治療をしていたとか、
そういう場合でもなければ、気づく機会自体ないのです。
気づいていないことを「実感」できるものでしょうか。
存在を知らなかったにもかからわず、子供が死んだと「実感」できるだなどというのは、
奇特としかいいようがありません。
# 着床できないまま育って、塊が出ることもあるようですが、そういう認識できるものは
# とりあえず脇においてます。気づいているからこそ、本質的に流産とは違うものである
# にもかかわらず「化学的流産」という呼び方をするぐらいですので。
# 気づいたか、気づいていないかは、重要なポイントです。
# 後段については、「宗教とか倫理とか法律の話はしてない」と宣言している部分を逆の
# 意味に取られても困るのですがね。ミクロな話をしてるとサブジェクトに書いてるのに
# 「巨視的には大差ない」とか反論が来たから、今度は本文中に明示しただけなのですが。
Re: (スコア:0)
>発生しないとは限りません。耐性菌と抗生物質の関係です。
>その状況に直面したときに、子供に向かって何というのでしょうか。
架空の将来を仮定するロジックを使うのであれば、逆のことだってなんだって言えてしまいます。
逆に、当該遺伝的変異をトリガとして、該当変異を持っている人だけが罹患する致死的な疾患が将来発生しないとも限りません。
その子供が乳がんの上に、さらに別の疾患の二重苦を背負う羽目になったとき、子供に向かって何と言うのでしょうか?
未
Re:まとめてお返事(長文) (スコア:1)
ただ、例示された逆の状況は、ちょっと違います。
「知るか知らないか」の選択がまずあって、「手を入れるか入れないか」の選択が次にあります。
「特定遺伝子の有無を確認し、あれば排除する」に対応するのは、「特定遺伝子の有無を確認しない」です。
「特定遺伝子の有無を確認し、あっても排除しない」という選択肢を選んだ親がいれば、おっしゃるとおりです。
# 胎児の性別判定なんかは、確認するが手は入れない例になるかもしれません。
# 遺伝子発現前なら、排除されてしまうのかも知れませんが……。
遺伝子の確認をせずに、乳がんの上にさらに別の疾患を負った場合には、こう言えばいいと思います。
「あるがまま受け入れよ」
選ばれた子と選ばれなかった子は別ものというロジックは、この見解の後ろ盾になりうるでしょう。
「そのほうが気分がいい」は別にエゴだと思っていません(論理的に無意味とは思っていますが)。
子供視点では「選ばれた子」のロジックで、生まれるか生まれないかの二択しかないので受け入れるしかない。
選択を決断をするのは親。結果を受け入れるのは親。
良いと思って何かをした結果、期待以上の効果があったときは喜んで受け入れるでしょう。
良いと思って何かをした結果、裏目が出たときは素直に受け入れられるでしょうか。
受け入れたくなくても、それは許されないことなのですが。
ご指摘の通り、「遺伝的疾患リスクが高い場合」は手を入れてもいいというのが英国の一般認識であるといえます。
今回の例のように明らかに高いリスクがあるものを排除することは、合理的だと判断されるでしょう。
# 法は「社会はこうあるべき」という社会的圧力によって作られるものなので、合理的だからこそ合法。
それに対し、巨視的な視点から批判することはしてはいけないと思います。
百人に一人の「一人」に該当した人にとっては、微視的な視点しかありえません。
一人の人間は、確率に収束するほど子をもうけません。
さて、最初に書いた二段階の選択ですが、「知ったならば手をうちたい」というのは自然な感情です。
タレコミに書かれた本家コメは、「がんを選べ」と言っています。
知らなければ「確率通りにがん(のリスク)が当たった」だけで別に選んではいないのですが、
この論調では、知らないことを「子供のリスクを残しかねない悪行」とでもいいかねない気がします。
「知れることは全て知るべき、手を入れれるものは全て手をいれるべき」の行き着くところは、
それこそ遺伝子に起因するものは容姿まで含めてデザインするデザイナーベイビーです。
確認をしなかった親に対する批判は、それはそれで何か間違ってると思うのです。
私が主張する対立軸で得られるのは、「確認をしない」ことの微視的正当性です。
同様に「確認をして手を入れる」ことへの巨視的批判に対する疑義です。
Re: (スコア:0)
>タレコミに書かれた本家コメは、「がんを選べ」と言っています。
>知らなければ「確率通りにがん(のリスク)が当たった」だけで別に選んではいないのですが、
>この論調では、知らないことを「子供のリスクを残しかねない悪行」とでもいいかねない気がします。
それは「がんを選べ」の翻訳部分を深読みしすぎかと。原文は、
>But who am I to tell this family to go ahead and accept brest cancer? Can you look t