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私はプログラマです。1040 formに私の職業としてそう書いています -- Ken Thompson
微視的視点で手を入れないという選択 (スコア:2, すばらしい洞察)
それは、菌が慣れてきて耐性を獲得するという意味ではない。
平時から極稀に耐性を持つ菌は突然変異で生まれている。
抗生物質のない環境下では「抗生物質に耐性がある」ことは生存競争で優位に
働かないのと、その性質を獲得した突然変異は同時に何らかの不都合(エネルギー
効率が悪いとか)を生じさせることが多いので、淘汰されて生き残れない。
ところが、抗生物質がある環境下では、「何らかの不都合」のデメリットは
無視できるくらい小さいものになる。そうすると、耐性菌だけが残り、競争相手の
いなくなった環境で
Re: (スコア:1)
今回、検査の対象になっているBRCA1ですが、これ自身は癌遺伝子ではありません。そうではなくて癌抑制遺伝子です。
元の文章から読み取りにくいのかもしれませんが、BRCA1が変異して本来の機能を失ってしまっており、それによって乳がん発症のリスクが高まるということです。
#あくまで「高リスクとなる」に留まるのは、がんの発症には、いわゆる「多段階発がんモデル」で説明されるように、
#複数の抗がん機能の欠損が積み重なる必要があるためで、そのどこか一つのステップが先天的
まとめてお返事(長文) (スコア:1)
主題は、タレコミ最後に書かれた本家コメントに感じた違和と、それに対する反論です。
サブジェクトにも書いた通り、ミクロな視点の話しかしていないつもりです。
この手の話にミクロな視点からのアプローチをした場合、基本的に、「親の視点」が基準である
ことは注意すべきで、忘れてはならないと思うのです。
選択権があるのは親です。親がどう思うのか。親がどうするのか。そういう文脈で語られるものです。
さて。
確率的に百万人に一人に発症する病気があるとして、それが当たった子を持つ親は「どうして
うちの子だけが」と思います。当然
Re: (スコア:0)
>発生しないとは限りません。耐性菌と抗生物質の関係です。
>その状況に直面したときに、子供に向かって何というのでしょうか。
架空の将来を仮定するロジックを使うのであれば、逆のことだってなんだって言えてしまいます。
逆に、当該遺伝的変異をトリガとして、該当変異を持っている人だけが罹患する致死的な疾患が将来発生しないとも限りません。
その子供が乳がんの上に、さらに別の疾患の二重苦を背負う羽目になったとき、子供に向かって何と言うのでしょうか?
未
Re:まとめてお返事(長文) (スコア:1)
ただ、例示された逆の状況は、ちょっと違います。
「知るか知らないか」の選択がまずあって、「手を入れるか入れないか」の選択が次にあります。
「特定遺伝子の有無を確認し、あれば排除する」に対応するのは、「特定遺伝子の有無を確認しない」です。
「特定遺伝子の有無を確認し、あっても排除しない」という選択肢を選んだ親がいれば、おっしゃるとおりです。
# 胎児の性別判定なんかは、確認するが手は入れない例になるかもしれません。
# 遺伝子発現前なら、排除されてしまうのかも知れませんが……。
遺伝子の確認をせずに、乳がんの上にさらに別の疾患を負った場合には、こう言えばいいと思います。
「あるがまま受け入れよ」
選ばれた子と選ばれなかった子は別ものというロジックは、この見解の後ろ盾になりうるでしょう。
「そのほうが気分がいい」は別にエゴだと思っていません(論理的に無意味とは思っていますが)。
子供視点では「選ばれた子」のロジックで、生まれるか生まれないかの二択しかないので受け入れるしかない。
選択を決断をするのは親。結果を受け入れるのは親。
良いと思って何かをした結果、期待以上の効果があったときは喜んで受け入れるでしょう。
良いと思って何かをした結果、裏目が出たときは素直に受け入れられるでしょうか。
受け入れたくなくても、それは許されないことなのですが。
ご指摘の通り、「遺伝的疾患リスクが高い場合」は手を入れてもいいというのが英国の一般認識であるといえます。
今回の例のように明らかに高いリスクがあるものを排除することは、合理的だと判断されるでしょう。
# 法は「社会はこうあるべき」という社会的圧力によって作られるものなので、合理的だからこそ合法。
それに対し、巨視的な視点から批判することはしてはいけないと思います。
百人に一人の「一人」に該当した人にとっては、微視的な視点しかありえません。
一人の人間は、確率に収束するほど子をもうけません。
さて、最初に書いた二段階の選択ですが、「知ったならば手をうちたい」というのは自然な感情です。
タレコミに書かれた本家コメは、「がんを選べ」と言っています。
知らなければ「確率通りにがん(のリスク)が当たった」だけで別に選んではいないのですが、
この論調では、知らないことを「子供のリスクを残しかねない悪行」とでもいいかねない気がします。
「知れることは全て知るべき、手を入れれるものは全て手をいれるべき」の行き着くところは、
それこそ遺伝子に起因するものは容姿まで含めてデザインするデザイナーベイビーです。
確認をしなかった親に対する批判は、それはそれで何か間違ってると思うのです。
私が主張する対立軸で得られるのは、「確認をしない」ことの微視的正当性です。
同様に「確認をして手を入れる」ことへの巨視的批判に対する疑義です。
Re: (スコア:0)
>タレコミに書かれた本家コメは、「がんを選べ」と言っています。
>知らなければ「確率通りにがん(のリスク)が当たった」だけで別に選んではいないのですが、
>この論調では、知らないことを「子供のリスクを残しかねない悪行」とでもいいかねない気がします。
それは「がんを選べ」の翻訳部分を深読みしすぎかと。原文は、
>But who am I to tell this family to go ahead and accept brest cancer? Can you look t