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ソースを見ろ -- ある4桁UID
疑似科学を疑似科学としてどれだけの国民が誰の助けも受けずに認識できるのか? (スコア:1)
あろう事か国会という公の場で喧伝した時のように、
もしかして、この手の教育が全国津々浦々で集団的にでも行われていると考えているのでしょうか?
そもそも、この手の本を読んだら、一般国民の多くはそのまま信じてしまうのではないですか。
教師がそれら一般国民と同じようにこの事を信じ、それを道徳の授業で取り上げるに至ったとして、それを果たしてどれだけの人が非難できましょうか。
果たしてどれだけの人が、教師を含めた周りの人々に疑似科学を疑似科学であると認識させるために努力をしているのでしょうか。
疑似科学を信じている人たちを見つけたとき、我々テクノロジーの世界の住人がすべきことは、質問攻めにして答えに嘆息することでは決してないはずです。
教育叩きがここ数年の風潮とはいえ、いくら何でもここまで議論をねじ曲げるのは/.らしからぬことかと。
Re:疑似科学を疑似科学としてどれだけの国民が誰の助けも受けずに認識できるのか? (スコア:1)
人に教えるのが仕事だぞ。
正しい知識を持っていなくてどうするんだよ...。
Re:疑似科学を疑似科学としてどれだけの国民が誰の助けも受けずに認識できるのか? (スコア:1)
「運動会で一斉に手を繋いでゴール」という行為が全国津々浦々で行われているわけでは無かろうと考えるより、「運動会で一斉に手を繋いでゴール」という行為が全国津々浦々で行われている、と考える方が大衆心理にとって"心地が良い"という事があると思います。"円周率が3になる"という件の報道も似ている所がありますよね。誰かが自分の常識に反した、愚かな行為をしていると聞くのは耳に馴染みやすいですからね、逆作用として自分がどれだけ正しいかを確信させてくれる効果というのが動機なんでしょう。
>そもそも、この手の本を読んだら、一般国民の多くはそのまま信じてしまうのではないですか。
>教師がそれら一般国民と同じようにこの事を信じ、それを道徳の授業で取り上げるに至ったとして、それを果たしてどれだけの人が非難できましょうか。
この部分は反論が他の人から行われそうですが、私は賛同します。例えば、wikipediaについて自分が一定以上の知識を持っている分野のエントリについてかなりいい加減なことが書かれていると感じることが時折あります。それ故wikipediaに書かれていることは、あまり信用できないと思うことは少なくないですけれど、元々自分の知識のない分野については、それが正しいのかどうかは首をかしげたくなることもあっても、それを一定の真実として受け入れるということは、多かれ少なかれ私自身もやっていると思う。そういった誤解や愚かさというのは、それに気づいた時点で出来る限り自ら調べるという態度を身につける以上のことは出来ないのでないかと思います。