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立花隆が「知のソフトウェア」で KJ 法を評して言った「頭の回転の鈍い人が、集団で物を考えるのには向いている」に私も同意しています。紙にわざわざ書き出してそれを並びかえるという作業をなんでわざわざしなければいけないのか、それがとうとう理解できなかった。
が、発想法は人それぞれなので、KJ 法がいいという人がいることは、それはそれでまったくいいのですが、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。しかもそいつら、そのツール結局自分達で使ってないんだ。なんというか、研究ネタに困ったら KJ 法を移植する、という文化が一部にはあるらしい。それだけ見ても、KJ 法のありがたみがわかるってもんだよね、とこれは行き過ぎた皮肉。多くの人が現に KJ 法は役に立つとしておりますから (e.g. 上野千鶴子)、世の中に大きな影響を与えた故人には、敬意を表します。
#似たような位置づけにあるのが、「デザインパターン」。
KJ法はどうだか知りませんが、建築の方のパターンは集団での思考の道具としては似たような特性でしょうね。どちらもあまり興味がないのでよく調べていませんが……。
で、翻ってソフトウェアの方のパターンは、当たり前のノウハウを当たり前に共有するための記法です。もし「デザインパターンに書かれていることは当たり前で何も新しくない」という印象を持たれても、それが本来の姿です。パターンに書かれているのは「解法」ではなく「用法」なのですから、解法が斬新でないことを批判しても何にもならなかったり。
建築のパターンの方こそが、ソフトウェアのパターンのモデルだと聞いたことがあります。本質的な話ではないですが、歴史的には。
# 死ぬほどオプトピですいません。
都市計画という課題に対して、関わる人々の価値観や思いを、語彙(各パターン)の組み合わせによる物語として記述し構成する……ってコンセプトでやっているのが建築の方パターン。その形式だけを持ってきてノウハウ(ここでは「どういう状況で、どういう問題にどうアプローチするとうまくいく」という知識)の記述・共有に使っているのがソフトウェアのパターンです。
元コメントでKJ法に似ていると書いたのは、建築のパターンのアプローチです。
ただ両者は似ているようで結構違っていて、建築の方のパターンではプロジェクトに関わる人々がパターンを構築することで都市計画という"物語"を共有する、ということが目標で、そのプロジェクトで通用すれば良いので再利用はあまり考えていません。別プロジェクトではまた別のパターンが生み出されたりします。対してソフトウェアのパターンは、知識の記述と再利用に重点が置かれています。ソフトウェアの方では、さらに形式化を進めようと、UMLやその他の記法を使って厳密に表現するアプローチもあります。
違いは記述形式にも現れていまして、建築の方のパターンは原則として散文形式(一部「*** (thereforeを意味します)」といった区切りやパターンの名前などの構造はあります)なのに対して、ソフトウェアのパターンの記述ははっきりと項目分けされているのが特徴です。もちろんBeckのアナリシスパターンのように建築のパターンに近い形式をとるなどの例外はあります。
このようにパターンを考える人々の中でも立ち位置に結構な広がりがありまして、パターンを協働の道具立てと見なす立場を取る人から、単なる知識の記述手段と見なす人まで様々で、相手がどのような立場なのか知っておかないと話が混乱する原因になったりします(苦笑)。なお、「パターン言語」「生成的」「対称の破れ」といった用語を多用する場合は前者に属する方とみてよいと思います。
親コメント含めて、本日発売になった江渡浩一郎著「パターン、Wiki、XP 〜時を超えた創造の原則」をぜひ読んでください。手元にまだ届いていないのですが江渡さんの普段の話の内容からして、多分その辺は詳しく書いてある筈です。
おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、また「デザインパターン」がどのように「パターンランゲージ」を矮小化して解釈しているか、についても書いてあるんじゃないかと。
都市計画専攻です。
おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、
これは、江渡氏から聞かれた内容でしょうか。それともあなたのコメントでしょうか。
パターンランゲージは、日本では幕張ベイタウン以降のUR物件、川越一番街や京都祇園町などでも使われて成功していると言えるかと思います。真鶴町でも導入されましたが、これは微妙な例です。イギリスではCABEの取組みがパターンランゲージに基づいていますし、アメリカのSeasideなどもその部類でしょう。「失敗した」というより、いま広まりつつある、というのが正しいのではないでしょうか。
広まりつつあるなら結構なことですが、それでは何故普及が遅々としたのか、そしてアレグザンダーのコンセプトがそれらの事例で本当にすべて活かされているのかが焦点となるでしょう。
パターンランゲージのコンセプトは、単に都市計画のデザインカタログではなく、施主と建築家との対話を、設計段階から施工を終えるまでずっと維持すること、ワークショップの併設、建築許認可のあり方についてなど、細々としたことまで提案されています。
しかし、真鶴町の事例なんかはまさしく、「心地よい都市のデザインカタログ」としてしか使われていなかったと認識しています。日本だと他に小規模にアレグザンダーの弟子達が採用している以外に、アレグザンダーのコンセプトをフルに活用した例で、これというものを聞きません。(いや、耳目を集めないくらいに普及しているのか? この辺は当方のリサーチ不足)
つまり、パターンランゲージの価値は、デザインカタログとしてのところにあった、というのが、30年経た現在の結論なんじゃないかなぁと思っている訳です。何人かの建築家の方とお話してみましたが、だいたいそんなところに落ち着くんですよね。他の部分、たとえば今でいうアジャイルプロセスに近い、漸次的改善については、導入できている例は少ないでしょう。中銀カプセルタワーが失敗したのと同様、コンセプトととしてはすごく魅力的なんだけど、現在の社会の実像にあった実装がとても難しいんではないかなぁ。(このへん勉強したのがいかんせん昔なので、最近の事例を知りません。「そんなことはない!!」ということであればとっても嬉しいので、ぜひぜひ参考文献など教えてください)
もっとも、そもそも本当にユーザーは自分で自分の住む家を設計するべきなのか、設計したいと思っているのか、そこからが疑問なんですけどね。これはデザインパターンにも当てはまる疑問なんですが、ユーザーが正しい解を知っているという前提は疑ってかかるべきではないでしょうか。ドン・ノーマンがユーザー中心デザインの舵を切らざるをえなかったことを認めたのも、そのあたりがきっかけでしょう。
これはあなたの意見ですよね?だいたいわかりました。
つまり、パターンランゲージの価値は、デザインカタログとしてのところにあった、というのが、30年経た現在の結論なんじゃないかなぁと思っている訳です。何人かの建築家の方とお話してみましたが、だいたいそんなところに落ち着くんですよね。パターンランゲージの本質は、建築の専門家以外の人に言語をもたらす、というものですから、建築家には評判はよくないんですよ。都市計画の観点からすると、コルビュジエ大好きな建築家に対抗する手段としてパターンランゲージがある訳ですから。
パターンランゲージが流行って
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KJ法にはいい思い出がない (スコア:3, 参考になる)
立花隆が「知のソフトウェア」で KJ 法を評して言った「頭の回転の鈍い人が、集団で物を考えるのには向いている」に私も同意しています。紙にわざわざ書き出してそれを並びかえるという作業をなんでわざわざしなければいけないのか、それがとうとう理解できなかった。
が、発想法は人それぞれなので、KJ 法がいいという人がいることは、それはそれでまったくいいのですが、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。しかもそいつら、そのツール結局自分達で使ってないんだ。なんというか、研究ネタに困ったら KJ 法を移植する、という文化が一部にはあるらしい。それだけ見ても、KJ 法のありがたみがわかるってもんだよね、とこれは行き過ぎた皮肉。多くの人が現に KJ 法は役に立つとしておりますから (e.g. 上野千鶴子)、世の中に大きな影響を与えた故人には、敬意を表します。
#似たような位置づけにあるのが、「デザインパターン」。
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:1)
KJ法はどうだか知りませんが、建築の方のパターンは集団での思考の道具としては似たような特性でしょうね。どちらもあまり興味がないのでよく調べていませんが……。
で、翻ってソフトウェアの方のパターンは、当たり前のノウハウを当たり前に共有するための記法です。もし「デザインパターンに書かれていることは当たり前で何も新しくない」という印象を持たれても、それが本来の姿です。パターンに書かれているのは「解法」ではなく「用法」なのですから、解法が斬新でないことを批判しても何にもならなかったり。
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:1)
建築のパターンの方こそが、ソフトウェアのパターンのモデルだと聞いたことがあります。
本質的な話ではないですが、歴史的には。
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:1)
# 死ぬほどオプトピですいません。
都市計画という課題に対して、関わる人々の価値観や思いを、語彙(各パターン)の組み合わせによる物語として記述し構成する……ってコンセプトでやっているのが建築の方パターン。その形式だけを持ってきてノウハウ(ここでは「どういう状況で、どういう問題にどうアプローチするとうまくいく」という知識)の記述・共有に使っているのがソフトウェアのパターンです。
元コメントでKJ法に似ていると書いたのは、建築のパターンのアプローチです。
ただ両者は似ているようで結構違っていて、建築の方のパターンではプロジェクトに関わる人々がパターンを構築することで都市計画という"物語"を共有する、ということが目標で、そのプロジェクトで通用すれば良いので再利用はあまり考えていません。別プロジェクトではまた別のパターンが生み出されたりします。対してソフトウェアのパターンは、知識の記述と再利用に重点が置かれています。ソフトウェアの方では、さらに形式化を進めようと、UMLやその他の記法を使って厳密に表現するアプローチもあります。
違いは記述形式にも現れていまして、建築の方のパターンは原則として散文形式(一部「*** (thereforeを意味します)」といった区切りやパターンの名前などの構造はあります)なのに対して、ソフトウェアのパターンの記述ははっきりと項目分けされているのが特徴です。もちろんBeckのアナリシスパターンのように建築のパターンに近い形式をとるなどの例外はあります。
このようにパターンを考える人々の中でも立ち位置に結構な広がりがありまして、パターンを協働の道具立てと見なす立場を取る人から、単なる知識の記述手段と見なす人まで様々で、相手がどのような立場なのか知っておかないと話が混乱する原因になったりします(苦笑)。なお、「パターン言語」「生成的」「対称の破れ」といった用語を多用する場合は前者に属する方とみてよいと思います。
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:1)
親コメント含めて、本日発売になった江渡浩一郎著「パターン、Wiki、XP 〜時を超えた創造の原則」をぜひ読んでください。手元にまだ届いていないのですが江渡さんの普段の話の内容からして、多分その辺は詳しく書いてある筈です。
おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、また「デザインパターン」がどのように「パターンランゲージ」を矮小化して解釈しているか、についても書いてあるんじゃないかと。
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:2)
都市計画専攻です。
おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、
これは、江渡氏から聞かれた内容でしょうか。それともあなたのコメントでしょうか。
パターンランゲージは、日本では幕張ベイタウン以降のUR物件、川越一番街や京都祇園町などでも使われて成功していると言えるかと思います。真鶴町でも導入されましたが、これは微妙な例です。イギリスではCABEの取組みがパターンランゲージに基づいていますし、アメリカのSeasideなどもその部類でしょう。「失敗した」というより、いま広まりつつある、というのが正しいのではないでしょうか。
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:1)
広まりつつあるなら結構なことですが、それでは何故普及が遅々としたのか、そしてアレグザンダーのコンセプトがそれらの事例で本当にすべて活かされているのかが焦点となるでしょう。
パターンランゲージのコンセプトは、単に都市計画のデザインカタログではなく、施主と建築家との対話を、設計段階から施工を終えるまでずっと維持すること、ワークショップの併設、建築許認可のあり方についてなど、細々としたことまで提案されています。
しかし、真鶴町の事例なんかはまさしく、「心地よい都市のデザインカタログ」としてしか使われていなかったと認識しています。日本だと他に小規模にアレグザンダーの弟子達が採用している以外に、アレグザンダーのコンセプトをフルに活用した例で、これというものを聞きません。(いや、耳目を集めないくらいに普及しているのか? この辺は当方のリサーチ不足)
つまり、パターンランゲージの価値は、デザインカタログとしてのところにあった、というのが、30年経た現在の結論なんじゃないかなぁと思っている訳です。何人かの建築家の方とお話してみましたが、だいたいそんなところに落ち着くんですよね。他の部分、たとえば今でいうアジャイルプロセスに近い、漸次的改善については、導入できている例は少ないでしょう。中銀カプセルタワーが失敗したのと同様、コンセプトととしてはすごく魅力的なんだけど、現在の社会の実像にあった実装がとても難しいんではないかなぁ。(このへん勉強したのがいかんせん昔なので、最近の事例を知りません。「そんなことはない!!」ということであればとっても嬉しいので、ぜひぜひ参考文献など教えてください)
もっとも、そもそも本当にユーザーは自分で自分の住む家を設計するべきなのか、設計したいと思っているのか、そこからが疑問なんですけどね。これはデザインパターンにも当てはまる疑問なんですが、ユーザーが正しい解を知っているという前提は疑ってかかるべきではないでしょうか。ドン・ノーマンがユーザー中心デザインの舵を切らざるをえなかったことを認めたのも、そのあたりがきっかけでしょう。
Re: (スコア:0)
uguisu> これは、江渡氏から聞かれた内容でしょうか。それともあなたのコメントでしょうか。
つまらないことを長々と書く前に、はぐらかさずにきちんと答えて欲しいものです。
Re: (スコア:0)
これはあなたの意見ですよね?だいたいわかりました。
つまり、パターンランゲージの価値は、デザインカタログとしてのところにあった、というのが、30年経た現在の結論なんじゃないかなぁと思っている訳です。何人かの建築家の方とお話してみましたが、だいたいそんなところに落ち着くんですよね。
パターンランゲージの本質は、建築の専門家以外の人に言語をもたらす、というものですから、建築家には評判はよくないんですよ。都市計画の観点からすると、コルビュジエ大好きな建築家に対抗する手段としてパターンランゲージがある訳ですから。
パターンランゲージが流行って
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:2)
Re: (スコア:0)
スペースではなく、">"などで引用部をインデントしてはいかがでしょうか。