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無神論教の信者って事?
>「この世に科学で説明できない事象は存在しない」と信じなければ、>科学って成り立たないと思うのですよ。>それは宗教に対する盲信と、ほとんど同じようにも思えます。
>実際、科学に反する物の不在を証明することはできないですよね。>悪魔の証明になっちゃうから。
ある事象からその背後に存在する普遍的な法則を発見しようというのが科学です。だから「科学に反する物」というものは存在しません。
それは「既知の科学に反しているように見えるもの」です。
なぜ既知の科学では説明できないのだろうか、と考えるのが科学です。その存在を躍起になって否定するのは科学的態度ではありません。
たとえば、強い重力下での物体の振る舞いについて。円の一周が360度以下になるとか、時間の進み方がおかしくなるとか、そういった事象はそれまでのニュートン力学では説明できません。いわば「科学に反した」存在だったわけです。
それにたいして「ニュートン力学は特定の条件下では成立しないのではないか」というようなことを思いついたアインシュタインさんがそれを「一般相対性理論」という理論にまとめて、その現象を科学で説明できるようにしました。
このように、「科学に反した」ように見えるものも、時間をかければ必ず説明できるというのが科学の考え方で、「今の科学では説明できないけど、そのうちたぶん説明できる」という確信は、それこそ全人類が共有してもいいと思われ。
科学ってのは「御利益」が目に見えて現れるひとつの宗教体系だって習いました。科学と宗教を対置したり一方が一方を敵視することの無意味さを強調するためでしょう。
目に見える御利益(それが本当は災厄であっても)を求めるのは「技術(technology)」。「科学(science)」は利害などに関係なく、普遍的な真理を求めるのみです。←まさに宗教そのもの
純粋数学の為にそれが永遠に誰の為にも何の役にも立たないことを祈って…乾杯!
かつて(科学の一分野である)数学は宗教でしたねピタゴラス教団 [wikipedia.org]
わたしはほんとはてんさい(てんさい) けれどもあつかいぞんざい(ぞんざい) 研究資金をちょうだい(ちょうだい) 利益を約束するからちょうだい
科学が数学的表現形と等価であるならば、科学は不完全であるか矛盾している。
科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
活動に差が無いってことは、聖書に説得力を感じるのも科学論文に説得力を感じるのも、脳の認識的には大差ないってことでしょう。観測される世界、例えば生命、の起源に神を用いた説明を試みるか、化学的進化を用いた説明を試みるかも、脳の活動に大差ないかもしれませんね。
ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
> 科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。
科学は、観測された事象に対して反証可能な説明をあとづけるための手法。宗教は、観測されてないものに対して反証不可能な説明をあとづけたドグマ
そういう意味では、宗教はむしろ数学に近いかもしれません。
>科学は、観測された事象に対して反証可能な説明をあとづけるための手法。
シュレーディンガーの猫に反証可能性はないでしょう。
素粒子が重なり合わないことを証明したら反証になるんじゃない?
>科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。>説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。>そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
そうですよ。ただ、その説明は「何千年もの積み重ね」られてきたもので、相互に「事実と事実の結びつき」を確認されてきたものです。「多くの人間が考え抜いた結果、今のところは一番正しい事実に近いであろう」説明です。そして、人類はまだ「科学」以上に使い勝手の良い道具を手に入れてはいません。
>ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
沢山の壁がありますよ。そのなかでももっとも厚い壁は「科学はつねに検証を受け続けている」というところでしょう。
釈迦やキリストやムハンマド(敬称略・誕生年順)は確かに英知あふれる哲学者だったのでしょう。しかし、我々が彼らの知見を知るには彼らの弟子と、その後の解説者・解釈者といった数名から数十名の人々だけの力しか借りる事が出来ません。写本の途中で書き写し間違いがあったかもしれませんし、後の社会環境の変化により間違って認識された事もあるでしょう。でも、宗教を「信じる」人はそれを鵜呑みにするしかありません。数人の肩車、それもあまり信用できない人の肩車の上から世界を眺めるようなものです。
かたや科学は有史以来、数万数十万数百万の研究者たちが互いに発見し理論を作り批判し訂正し修正して知を集積しそれらを統合して巨大な山脈となっているのです。先人の知恵や思考は捨てられることなくその一部になり、仮に誤っていてもそれはいずれは発見され反証され修正されるのです。これによって、我々は知の巨人の肩の上に立ってはるか彼方まで見渡す事が出来るのです。
どっちを選びますか?精神的平安を得よう、というのなら別にどちらでも構わないでしょう。しかし、世界を理解しよく知ろうとするのならば、僕は科学を選びます。それも大急ぎで。
宗教的価値観による愚行を肯定するわけではないですが、若干宗教を軽んじすぎているように思えます。仏教やキリスト教、イスラム教も長年の間無数の神学者や僧たちが解釈を巡って激しい論争を繰り広げてきています。(ヒンドゥー教は宗教者の知り合いが居ないので解りませんが、おそらく同様なのではないかと)しばしばかつての宗教的価値観による誤りを認める事もあります。
他方、「宗教による権威主義」による害悪は、「科学による権威主義」と同等に害悪をもたらします。かつての理解・解釈に固執するあまり、現実問題に対して適切な対応が出来ないことがあるのは科学も宗教も同様です。また、事実解明を行うための批判的態度が科学的態度であるように、神の教えや教義にいかに忠実であり得るかに対する批判的態度も宗教的態度であり得るでしょう。
宗教家による心のあり方へのメッセージは価値中立的な科学には付与することが不可能な安寧をもたらす事もあります。世界のあり方を理解するために宗教を利用する事は適切なアプローチではないと思いますが、それ以外の問題に対する有益な面を培ってきた事は肯定すべきでしょう。
そんな哲学レベルの話しではありませんよ。ヒトの認識というもっと即物的な、大脳生理レベルでの話。ヒトが何かを信じるに足ると認識するとき、それが科学なのか宗教なのかを区別しているのかと言うことです。
例えば雪の結晶が6角形なのは広く知られていることですが、実際に顕微鏡を覗いて雪の結晶を見た人の数は、雪の結晶が6角形だと知っている人の数よりずっと少ない。大多数の人は写真を見たりすることで『6角形である』ことに十分な説得力を感じるから、自身で検証することなくそれを受け入れる。では顕微鏡を覗いたことの無い大多数の人たちは、雪が6角形だと言うことを知っているのか、6角形だと信じているのか、どっちでしょう。
自身で検証することなく説得力を基準に信じるに足るかどうか判断するなら、そこに科学と宗教の壁はあるのでしょうか。トピの元記事を読む限りでは、あまり区別されていないようではありますが。昔から「科学も宗教である」と言われていたことが大脳生理のレベルで検証された、と言うことだろうとわたしは捉えてます。
「科学も宗教である」が検証されたのでしょうか?
検証されたのは、「科学知識も宗教知識も同じ仕組み (脳構造) で処理される」と言うことだと思います。
科学的プログラムと宗教的プログラム、どちらも同じモデルのハードウェアで実行している、みたいな話でないかな。
「誤っている知識に基づいて答えを出した」時と、「正しい知識に基づいて答えを出した」時に脳の働きは違わない、事を明らかにした、と解釈する方が適切かもしれませんね。例えば、アメリカの首都を選べという選択問題に対し、正しくワシントンと記憶している人と、誤ってニューヨークだと記憶している人に選択を行わせれば、脳は同じような働きをするでしょう。他方、記憶に依存して答えを導出するときに、脳の働きが記憶の真偽に依存して異なっているのであれば、答えを導出する人間の脳の動きを観測することで、この世の全ての真偽を判定することが出来てしまいます。私は人間の脳がそのような万能機構あるはずが無いと考えており、この研究はその考えを支持するものと理解しました。
そして、この研究はあくまでの脳の働きについての研究であり、科学と宗教そのものの差異については何も語っていないと思います。著者の意図はわかりませんが、私はこの研究が宗教と科学の関係に何らかの意味を持つとは思えませんし、あえてそのような誤解を招きやすい例を持ってきた著者のセンスにいささか疑問を感じます。
例えば雪の結晶が6角形なのは広く知られていることですが、実際に顕微鏡を覗いて雪の結晶を見た人の数は、雪の結晶が6角形だと知っている人の数よりずっと少ない。
まあ肉眼でも六角形であることぐらいはわかる程度に見えますからねえ。
後付けの説明だけじゃ科学として評価されない。予言できなきゃダメさ。
> 実際、科学に反する物の不在を証明することはできないですよね。
コトが科学者本人の外であれば、それを証明する必要はありません。既知の科学(法則)に合わない現象があれば、法則の方を現象にあわせて書き換えるのが科学的態度です。従って、科学的態度が受容し得ない現象は定義上ありません。ただし、人間が理解できるか、というと別の問題です。今、全ての人間が理解できず、説明困難な現象があるからといって、科学的態度がその現象と矛盾するわけではありません。
一方、宗教的態度(科学教、と揶揄されるものを含む)は、法則(自分の理解)に合わせて現象を解釈します。ID論なんかはその最たるものですが、民間の習俗的な部分でも大くみられる態度ですので、必ずしも宗教家特有のものではないですね。
ちなみに、冒頭で少し述べましたが、科学的方法では、科学者本人が狂っているかどうかを証明することは難しいように思います。つまり、あなたが「正気」でいられるのは、宗教的観念によるものです。# そうでない、と思う方は各自SANチェックお願いします。
>「この世に科学で説明できない事象は存在しない」と信じなければ、>科学って成り立たないと思うのですよ。
には同意できないむしろ(現時点の)科学で説明できない事象の存在を否定するのは科学的な態度ではないもしろそういう綻びこそ科学の発展の原動力だと思う
まあそういう発見はレアケースで素人が持ち込む大抵の「科学で説明できない事象」情報はデマなんで科学者は相手にしないがそれは単に情報の信頼性が無視できるほど少ないからであって「この世に科学で説明できない事象は存在しない」と信じてる様では良い科学者にはなれないでしょう
まあ単なる科学の受益者の立場はまた別で彼らは科学の成果を信じてるから利用するんであってそれは「科学教」という一種の宗教と言ってよいとは思う
教義はこんな感じでしょうか。
誰か加筆よろしく。
ちょっと違うんじゃない?
初めに虚無あり。虚無の揺らぎが力となり、大きな火の力と共に世界は生まれたもうた。やがて始まりの火は収まり、そこから四つの力が生まれた。弱い力、強い力、引力、電磁力・・・すなわちフォトン、ウィークボソン、グラビトン、グルーオンである。その後、さらに様々な波動がうまれた。すなわち電子、ミュー粒子、タウ粒子、それらを総じてレプトンという。
彼らと鏡移しのように対となる者たちも生まれた。すなわち陽電子、反ミュー粒子、反タウ粒子である。
彼らはこの宇宙から姿を消した。何処に消えたのか知られていない。
#なんか科学教も色々な宗派があるような気がしてきた。
「虚無あり」←こっからもうわたしゃ理解不能ざんす。
「無いものが有る」って、平たく教えてください>エロイ人。
子供の頃は虚数もなかなか受け入れられなかったっけ。
#想像力や妄想力が足りないのは重々承知。
最初の虚無で、ルイズネタかと思いました。ごめんなさい。
#というわけでAC
スピノザは?
#ちがうか@ものいい
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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie
ん? (スコア:0)
無神論教の信者って事?
Re:ん? (スコア:3, おもしろおかしい)
Re:ん? (スコア:2, 興味深い)
科学って成り立たないと思うのですよ。
それは宗教に対する盲信と、ほとんど同じようにも思えます。
実際、科学に反する物の不在を証明することはできないですよね。
悪魔の証明になっちゃうから。
# 今まで生きてきて、科学で証明できない事象には出会ったことないですけどね。
万物を説明しようとする人の営為こそが科学 (スコア:4, すばらしい洞察)
>「この世に科学で説明できない事象は存在しない」と信じなければ、
>科学って成り立たないと思うのですよ。
>それは宗教に対する盲信と、ほとんど同じようにも思えます。
>実際、科学に反する物の不在を証明することはできないですよね。
>悪魔の証明になっちゃうから。
ある事象からその背後に存在する普遍的な法則を発見しようというのが科学です。
だから「科学に反する物」というものは存在しません。
それは
「既知の科学に反しているように見えるもの」
です。
なぜ既知の科学では説明できないのだろうか、と考えるのが科学です。
その存在を躍起になって否定するのは科学的態度ではありません。
たとえば、強い重力下での物体の振る舞いについて。
円の一周が360度以下になるとか、時間の進み方がおかしくなるとか、そういった事象はそれまでのニュートン力学では説明できません。
いわば「科学に反した」存在だったわけです。
それにたいして「ニュートン力学は特定の条件下では成立しないのではないか」というようなことを思いついたアインシュタインさんがそれを「一般相対性理論」という理論にまとめて、その現象を科学で説明できるようにしました。
このように、「科学に反した」ように見えるものも、時間をかければ必ず説明できるというのが科学の考え方で、「今の科学では説明できないけど、そのうちたぶん説明できる」という確信は、それこそ全人類が共有してもいいと思われ。
Re:ん? (スコア:2, おもしろおかしい)
科学ってのは「御利益」が目に見えて現れるひとつの宗教体系だって習いました。
科学と宗教を対置したり一方が一方を敵視することの無意味さを強調するためでしょう。
Re:ん? (スコア:3, すばらしい洞察)
目に見える御利益(それが本当は災厄であっても)を求めるのは「技術(technology)」。
「科学(science)」は利害などに関係なく、普遍的な真理を求めるのみです。←まさに宗教そのもの
Re:ん? (スコア:1)
純粋数学の為にそれが永遠に誰の為にも何の役にも立たないことを祈って…乾杯!
# 数学は科学の女王にして奴隷
Re:ん? (スコア:1)
かつて(科学の一分野である)数学は宗教でしたね
ピタゴラス教団 [wikipedia.org]
Re: (スコア:0)
ああ、それ宗教家に言わせると現世利益だから
Re: (スコア:0)
目に見える御利益(それが本当は災厄であっても)を求めるのは「技術(technology)」。
「科学(science)」は利害などに関係なく、普遍的な真理を求めるのみです。←まさに宗教そのもの
Re: (スコア:0)
誰に習ったのか知らないけど、まともな宗教には基本的に現世利益はないですよ。
もしかして、科学はカルトだったのか!
Re:ん? (スコア:1)
科学が数学的表現形と等価であるならば、科学は不完全であるか矛盾している。
1を聞いて0を知れ!
Re:ん? (スコア:1)
> 科学って成り立たないと思うのですよ。
「科学で説明できない事象は存在しないと信じる」必要はなくて、
「科学で説明できない(とされている)事象があったら、証明できる方法がないか考えてみよう」
というのが科学的態度だと思います。
それこそが「反証」というものですよね?
Re: (スコア:0)
> というのが科学的態度だと思います。
> それこそが「反証」というものですよね?
違います。反証は仮説に対して科学の枠組み内で行います。
Re:ん? (スコア:1)
不完全定理があるから、論理学体系ではこれは成り立たないような気がするが、
私のゲーデル理解はどうも不完全らしいので、自信なし。
# 無知の知 (主張のみでは、対象を決定できない。) ATLANTiS.
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:0)
科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。
説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。
そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
活動に差が無いってことは、聖書に説得力を感じるのも科学論文に説得力を感じるのも、脳の認識的には大差ないってことでしょう。
観測される世界、例えば生命、の起源に神を用いた説明を試みるか、化学的進化を用いた説明を試みるかも、脳の活動に大差ないかもしれませんね。
ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
Re:ん? (スコア:1)
> 科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。
科学は、観測された事象に対して反証可能な説明をあとづけるための手法。
宗教は、観測されてないものに対して反証不可能な説明をあとづけたドグマ
Re:ん? (スコア:1)
そういう意味では、宗教はむしろ数学に近いかもしれません。
1を聞いて0を知れ!
Re: (スコア:0)
>科学は、観測された事象に対して反証可能な説明をあとづけるための手法。
シュレーディンガーの猫に反証可能性はないでしょう。
Re:ん? (スコア:1)
素粒子が重なり合わないことを証明したら反証になるんじゃない?
相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1, すばらしい洞察)
>科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。
>説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。
>そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
そうですよ。ただ、その説明は「何千年もの積み重ね」られてきたもので、相互に「事実と事実の結びつき」を確認されてきたものです。
「多くの人間が考え抜いた結果、今のところは一番正しい事実に近いであろう」説明です。
そして、人類はまだ「科学」以上に使い勝手の良い道具を手に入れてはいません。
>ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
沢山の壁がありますよ。
そのなかでももっとも厚い壁は「科学はつねに検証を受け続けている」というところでしょう。
釈迦やキリストやムハンマド(敬称略・誕生年順)は確かに英知あふれる哲学者だったのでしょう。
しかし、我々が彼らの知見を知るには彼らの弟子と、その後の解説者・解釈者といった数名から数十名の人々だけの力しか借りる事が出来ません。
写本の途中で書き写し間違いがあったかもしれませんし、後の社会環境の変化により間違って認識された事もあるでしょう。
でも、宗教を「信じる」人はそれを鵜呑みにするしかありません。
数人の肩車、それもあまり信用できない人の肩車の上から世界を眺めるようなものです。
かたや科学は有史以来、数万数十万数百万の研究者たちが互いに発見し理論を作り批判し訂正し修正して知を集積しそれらを統合して巨大な山脈となっているのです。
先人の知恵や思考は捨てられることなくその一部になり、仮に誤っていてもそれはいずれは発見され反証され修正されるのです。
これによって、我々は知の巨人の肩の上に立ってはるか彼方まで見渡す事が出来るのです。
どっちを選びますか?
精神的平安を得よう、というのなら別にどちらでも構わないでしょう。
しかし、世界を理解しよく知ろうとするのならば、僕は科学を選びます。それも大急ぎで。
Re:相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1)
宗教的価値観による愚行を肯定するわけではないですが、若干宗教を軽んじすぎているように思えます。
仏教やキリスト教、イスラム教も長年の間無数の神学者や僧たちが解釈を巡って激しい論争を繰り広げてきています。(ヒンドゥー教は宗教者の知り合いが居ないので解りませんが、おそらく同様なのではないかと)
しばしばかつての宗教的価値観による誤りを認める事もあります。
他方、「宗教による権威主義」による害悪は、「科学による権威主義」と同等に害悪をもたらします。
かつての理解・解釈に固執するあまり、現実問題に対して適切な対応が出来ないことがあるのは科学も宗教も同様です。
また、事実解明を行うための批判的態度が科学的態度であるように、神の教えや教義にいかに忠実であり得るかに対する批判的態度も宗教的態度であり得るでしょう。
宗教家による心のあり方へのメッセージは価値中立的な科学には付与することが不可能な安寧をもたらす事もあります。
世界のあり方を理解するために宗教を利用する事は適切なアプローチではないと思いますが、それ以外の問題に対する有益な面を培ってきた事は肯定すべきでしょう。
Re: (スコア:0)
そんな哲学レベルの話しではありませんよ。ヒトの認識というもっと即物的な、大脳生理レベルでの話。
ヒトが何かを信じるに足ると認識するとき、それが科学なのか宗教なのかを区別しているのかと言うことです。
例えば雪の結晶が6角形なのは広く知られていることですが、実際に顕微鏡を覗いて雪の結晶を見た人の数は、雪の結晶が6角形だと知っている人の数よりずっと少ない。
大多数の人は写真を見たりすることで『6角形である』ことに十分な説得力を感じるから、自身で検証することなくそれを受け入れる。
では顕微鏡を覗いたことの無い大多数の人たちは、雪が6角形だと言うことを知っているのか、6角形だと信じているのか、どっちでしょう。
自身で検証することなく説得力を基準に信じるに足るかどうか判断するなら、そこに科学と宗教の壁はあるのでしょうか。
トピの元記事を読む限りでは、あまり区別されていないようではありますが。
昔から「科学も宗教である」と言われていたことが大脳生理のレベルで検証された、と言うことだろうとわたしは捉えてます。
Re:相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1)
「科学も宗教である」が検証されたのでしょうか?
検証されたのは、「科学知識も宗教知識も同じ仕組み (脳構造) で処理される」と言うことだと思います。
科学的プログラムと宗教的プログラム、どちらも同じモデルのハードウェアで実行している、みたいな話でないかな。
の
Re:相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1)
「誤っている知識に基づいて答えを出した」時と、「正しい知識に基づいて答えを出した」時に脳の働きは違わない、事を明らかにした、と解釈する方が適切かもしれませんね。
例えば、アメリカの首都を選べという選択問題に対し、正しくワシントンと記憶している人と、誤ってニューヨークだと記憶している人に選択を行わせれば、脳は同じような働きをするでしょう。
他方、記憶に依存して答えを導出するときに、脳の働きが記憶の真偽に依存して異なっているのであれば、答えを導出する人間の脳の動きを観測することで、この世の全ての真偽を判定することが出来てしまいます。
私は人間の脳がそのような万能機構あるはずが無いと考えており、この研究はその考えを支持するものと理解しました。
そして、この研究はあくまでの脳の働きについての研究であり、科学と宗教そのものの差異については何も語っていないと思います。
著者の意図はわかりませんが、私はこの研究が宗教と科学の関係に何らかの意味を持つとは思えませんし、あえてそのような誤解を招きやすい例を持ってきた著者のセンスにいささか疑問を感じます。
Re: (スコア:0)
まあ肉眼でも六角形であることぐらいはわかる程度に見えますからねえ。
Re:ん? (スコア:1)
後付けの説明だけじゃ科学として評価されない。予言できなきゃダメさ。
the.ACount
Re: (スコア:0)
> 実際、科学に反する物の不在を証明することはできないですよね。
コトが科学者本人の外であれば、それを証明する必要はありません。既知の科学(法則)に合わない現象があれば、法則の方を現象にあわせて書き換えるのが科学的態度です。従って、科学的態度が受容し得ない現象は定義上ありません。ただし、人間が理解できるか、というと別の問題です。今、全ての人間が理解できず、説明困難な現象があるからといって、科学的態度がその現象と矛盾するわけではありません。
一方、宗教的態度(科学教、と揶揄されるものを含む)は、法則(自分の理解)に合わせて現象を解釈します。ID論なんかはその最たるものですが、民間の習俗的な部分でも大くみられる態度ですので、必ずしも宗教家特有のものではないですね。
ちなみに、冒頭で少し述べましたが、科学的方法では、科学者本人が狂っているかどうかを証明することは難しいように思います。つまり、あなたが「正気」でいられるのは、宗教的観念によるものです。
# そうでない、と思う方は各自SANチェックお願いします。
Re: (スコア:0)
あまり科学を勉強したことがない人 → 世の中のことはすべて科学 or 宗教で説明できると思っている.
つまり,親コメがおっしゃっているのは科学ではなく,宗教と同じレベルの科学教です.
よく科学を勉強した人 → 世の中は謎だらけだと思っている.
科学は信じる者を救いません.科学とは疑うものです.
現代科学がどれだけ不完全で危ういものかということを,理解しているのが科学者です.
その不完全の荒探しをしているのが研究者です.不完全な所をなんとか見つけないと,彼らはご飯が食べられないので困ります.
科学万能主義等という言葉とほど遠い位置にあるのが,科学の実際の日常です.
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:0)
>「この世に科学で説明できない事象は存在しない」と信じなければ、
>科学って成り立たないと思うのですよ。
には同意できない
むしろ(現時点の)科学で説明できない事象の存在を否定するのは科学的な態度ではない
もしろそういう綻びこそ科学の発展の原動力だと思う
まあそういう発見はレアケースで
素人が持ち込む大抵の「科学で説明できない事象」情報はデマなんで
科学者は相手にしないがそれは単に情報の信頼性が無視できるほど少ないからであって
「この世に科学で説明できない事象は存在しない」と信じてる様では
良い科学者にはなれないでしょう
まあ単なる科学の受益者の立場はまた別で
彼らは科学の成果を信じてるから利用するんであって
それは「科学教」という一種の宗教と言ってよいとは思う
Re:ん? (スコア:1)
教義はこんな感じでしょうか。
誰か加筆よろしく。
言ってないことに反論するなよ
Re:ん? (スコア:1)
ちょっと違うんじゃない?
初めに虚無あり。
虚無の揺らぎが力となり、大きな火の力と共に世界は生まれたもうた。
やがて始まりの火は収まり、そこから四つの力が生まれた。
弱い力、強い力、引力、電磁力・・・すなわちフォトン、ウィークボソン、グラビトン、グルーオンである。
その後、さらに様々な波動がうまれた。
すなわち電子、ミュー粒子、タウ粒子、それらを総じてレプトンという。
彼らと鏡移しのように対となる者たちも生まれた。
すなわち陽電子、反ミュー粒子、反タウ粒子である。
彼らはこの宇宙から姿を消した。何処に消えたのか知られていない。
#なんか科学教も色々な宗派があるような気がしてきた。
Re:ん? (スコア:1)
「虚無あり」←こっからもうわたしゃ理解不能ざんす。
「無いものが有る」って、平たく教えてください>エロイ人。
子供の頃は虚数もなかなか受け入れられなかったっけ。
#想像力や妄想力が足りないのは重々承知。
Re:ん? (スコア:1)
ドウシテオレハ、ココニイルンダ!
Re: (スコア:0)
最初の虚無で、ルイズネタかと思いました。ごめんなさい。
#というわけでAC
Re:ん? (スコア:1)
スピノザは?
#ちがうか@ものいい