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科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
というか、そもそも「信じる」ってどういう意味?
何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。そのためには、それを「正しい」と考えるための自分の世界の中のルールというものが必要になる(再帰的になるかも?)。そのとき、それは科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、そんなことは関係ない。必要なのは、その人にとっての真実であることだけだから。自分の中のルールが、所謂自然科学の法則に従うかどうかなんてのはわからないし。
所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。論理的であるかどうか?
>所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。
科学と宗教が異なる事が最大の違いです。科学は現実世界との整合を求める論理からなる体系ですが、宗教はそうではありません。
この文脈では"信じる"と"受け入れる"の違いは問題にならないでしょう。人間が外部から得た情報を納得して受け入れるという意味では同じです。
>何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。科学では判断の基準とか真実とかは自分の中にあるわけではありません。理論と現実を比較して理論が現実を説明できているかを見ているだけです。
実際のところ、人にとって客観的な現実とかは別にどうでもいいもので、自分が現実だと思うものだけが真実の現実だよね。「理論」が、「自分にとっての現実」を説明できたとしたら、それは、客観的に科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、効力は同じでしょ。
客観的な現実と整合する理論の利点の一つは、それを現実の世界に適用または応用できる事です。その点で科学と宗教の効力は異なります。
そのため、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは普遍化できる考え方ではないと思います。客観的な現実に即した考え方は他者と共有できるため、単なる「自分が現実だと思うもの」よりも他者にとっての価値が高くなるからです。
「自分にとっての現実」を説明できれば他者は関係ないというのでは、自己中心的ではないかと思いますね。
そういう意味じゃなく、「自分にとっての現実」以外は認識できない、と言ってるんだけどね。「他者は関係ない」のではなく、本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ、ということ。
「自分にとっての現実」以外の事も間接的には認識できる事もあるわけで、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」と、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは直接には結びつきません。むしろ、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」からこそ「客観的な現実」とか「科学」とかに価値があるわけですね。
s/「客観的な現実」/「客観的だと思う現実」/
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科学とは「判断しない」こと (スコア:4, すばらしい洞察)
科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
はてな支店 [hatena.ne.jp]
Re: (スコア:0)
というか、そもそも「信じる」ってどういう意味?
何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。
そのためには、それを「正しい」と考えるための自分の世界の中のルールというものが必要になる(再帰的になるかも?)。
そのとき、それは科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、そんなことは関係ない。必要なのは、その人にとっての真実であることだけだから。
自分の中のルールが、所謂自然科学の法則に従うかどうかなんてのはわからないし。
所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。論理的であるかどうか?
Re: (スコア:1)
>所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。
科学と宗教が異なる事が最大の違いです。
科学は現実世界との整合を求める論理からなる体系ですが、宗教はそうではありません。
この文脈では"信じる"と"受け入れる"の違いは問題にならないでしょう。
人間が外部から得た情報を納得して受け入れるという意味では同じです。
>何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。
科学では判断の基準とか真実とかは自分の中にあるわけではありません。
理論と現実を比較して理論が現実を説明できているかを見ているだけです。
Re: (スコア:0)
実際のところ、人にとって客観的な現実とかは別にどうでもいいもので、自分が現実だと思うものだけが真実の現実だよね。
「理論」が、「自分にとっての現実」を説明できたとしたら、それは、客観的に科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、効力は同じでしょ。
Re: (スコア:1)
客観的な現実と整合する理論の利点の一つは、それを現実の世界に適用または応用できる事です。
その点で科学と宗教の効力は異なります。
そのため、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは普遍化できる考え方ではないと思います。
客観的な現実に即した考え方は他者と共有できるため、単なる「自分が現実だと思うもの」よりも他者にとっての価値が高くなるからです。
「自分にとっての現実」を説明できれば他者は関係ないというのでは、自己中心的ではないかと思いますね。
Re: (スコア:0)
そういう意味じゃなく、「自分にとっての現実」以外は認識できない、と言ってるんだけどね。
「他者は関係ない」のではなく、本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ、ということ。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
「自分にとっての現実」以外の事も間接的には認識できる事もあるわけで、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」と、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは直接には結びつきません。
むしろ、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」からこそ「客観的な現実」とか「科学」とかに価値があるわけですね。
Re: (スコア:0)
s/「客観的な現実」/「客観的だと思う現実」/