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写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。 コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
般若心経でも聖書でもコーランでも正法眼蔵でも何でもいいですが、 本当にただ意味も分からず、純粋に作業としてコピーしているだけなら、 それは宗教とは言わないと思います。写経には苦行としての意味合いもあるのかもしれませんが、 そこには経典の意味の読み取りが必要であるし、自分なりの読み替えが必要かもしれない。 やはり経典から宇宙の真理なり人生の意味なり道徳の真実なりを読み取って初めて宗教的となる、と。
そして、これだけ印刷技術、情報技術が発達している今日にあって、 宗教が「情報の複写」に依存しているというのは信じがたい。 それが今日でも本当ならば、あらゆる宗教があまねく流布していてもおかしくないです。 必要なのは何がしかの宗教的体験であり、人生が組み替えられる何かであり、 頭を殴られるような衝撃でしょう。 それはすでに情報の摂取とは別種の経験ではないか。
個人的には情報のコピーという形式だけを信奉すると言われても、それを宗教とは認め難いです。
>コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。コピー機や印刷機は宗教的な装置とは言いがたいのには同意だが、
「印刷機の発明により聖書のコストが下がり、貧困層にも聖書が普及するようになった」みたいな話を昔聞いたことを思い出した。
写経が重要だったのは、そうしないと聖書などの書籍を生産し、入手する方法がなかったからというのも大きいと思う。
仏教で「他力本願」と言われる物は、何も考えず「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるとする。唱えることが出来ないなら「書き写す」でも「書いたものを回す」でも可。何も考えずに情報のコピーだけで宗教が成り立ってる。むしろ、コピーだけするってのは「何も考えない」ための手段だと思うけどね。直接に「何も考えない」を追求すると禅宗。
「情報のコピーは宗教ではない」という認識は、あなた(あるいはスウェーデンの裁判官)の宗教観に基づく認識ですよね。
私の宗教観からすると、情報をコピーすること、情報を共有すること、っていうのは生命活動の根本たる生殖と同一視しうる行為です。複写という行為そのものに極めて崇高な宗教的意味があると私は考えます。
私のように才能もなく魔法使い街道まっしぐらな人間には、新たな生命も、新たな作品も生み出す事ができないのです。そのような人間にとって、自分の好きな情報(作品)を複写する行為は、自分という存在を文化的な意味で後世に残しうる数少ない活動なのです。
私の好きなものをコピーして人に伝えるという行為は、文化的自己の生殖活動であり、「『コピーして配布する』という宗教行為」そのものの布教活動でもあるわけです。
すなわち「複写し共有する」という活動は、宗教活動の本質であり、生命活動の本質なのです。
ここまで言っても、あなたは「やはりコピーは宗教とはいえない」と仰るかもしれませんが、私はそれでもかまいません。なぜなら私は誰がなんと言おうと、コピー行為が神聖な行為であると信じて疑うことはないからです。
ここでちょっと著作権の話は置いておきましょう。
t_mrc-ctさんが仰るのは、コピー自体に興味があるのではなく、 好きな作品を他人に紹介したいのではないですか。 それは、オタク的な意味合いの布教であり、 宗教的な布教とかなり近い意味があるのではないですか。
ここで、「好きな作品を布教する」というのと、 「コピー自体が神聖である」というとでは、かなり意味が違うと思います。 つまり前者はコピーは手段であるのに対して後者はコピー自体が目的であるということです。 私は前者だったら理解できるのですが、後者は理解出来ないのです。
そして、ここからが本当に言いたいことですが、 私にはなにをいじけているのか分からない。 あなたはこうやって私の文章を読み、意味を理解し、 文章を書き込み、私に思いを伝えている。 意味のあるコミュニケーションを達成している。 少なくとも私はあなたの文章を読んで理解したし、こうやって返信するために 自分の時間を使っている。一体それ以上の何を望むというのでしょうか。
あなたの書いた文章は、あなたが著作権を持つ、世界に一つの創造物ですよ。 それは誰にも揺るがしがたい事実ではないのですか。 「電車男」の例を引くまでもなく、ある意味では2chが文学であるように、 このスラドだって文学ですよ。 他人が書いた文章を読み、理解し、自分で考えて、文字を書く、 それは昔から連綿と行われてきた、人間にしかできない、文化的活動なのではないのですか。 そうやって偉大な文学者たちや宗教者たちは、聖典を創り上げていったのではないのですか。
ちょっと熱くなりすぎたのでここら辺で終りにします。 参考文献として 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」 [amazon.co.jp]を挙げます。 機会があったら読んでみてください。
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。現在我々が認知しうる知能は情報の交換・共有を必要としますし、情報の交換・共有はその過程として情報の変換と複製を含みます。
言ってみれば情報の複製は人間のあり方を規定する上で非常に重要な行為なわけです。
例えばですが「人間とは情報を言語として文字として複製することにより進歩してきた特別な存在である。人間にとって生きる事とは、すなわち情報の複製を行う事に他ならない。さぁ、知的生命体であらんとする者たちよ、情報を複製するが良い」的な教義が定義されていたら、それは宗教なのではないかと思うのです。無論、複製を共有や交換と読み替えても、人間を知的生命体や文明や文化で読み替えても、宗教の根幹をなす哲学としては成立すると思います。
# 自分で書いてて、こういう宗教なら入信しても良いかもとか思ってしまった。
あなたが納得できる生命の定義なんて話はしてません。話を逸らさないように。
それらの行為のどの段階に「知的生命たる所以」を認めるかってのは宗教の宗派の違いに過ぎませんよ。別の宗教として「情報の複製こそ生命の本質である」って宗教も定義可能です。要は情報の扱いと生命や知性などの扱いに関連を認めさえすれば、その段階の一部である情報の複製も宗教の要となりうるってだけの話です。
知性や生命の本質をどう定義するかの話は「経典を読むなり説教を聞くなりして、 自分の中に世界観や生死観を構築すること」に該当します。あなたの返した話はキリスト教が進化論を否定するのと同じです。あなたの宗教の教義と私が即興で作った宗教の教義が衝突しているだけの話で、ここで教義を摺り合わせる必要はありません。
むしろ「あなたにとっての生命の定義」という非常に宗教的な価値観と衝突した以上、それこそがあなたと相容れない宗教である証明の様な物です。
うーん、あんまり話逸らしたつもりはなかったんですがねぇ。 むしろ「話がいい感じに深まってきたなあ」 なんて思いながら反論したつもりだったんですどね。
まず誤解を恐れず、結論を非常に短縮して申しますと、 「人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれる。だから、 人生は無意味だし真実など存在しないと言っている宗教は、存在自体が矛盾である」です。
確かに「情報の複製こそが生命の本質である。それこそが生命だ」 という世界観もありうるでしょう。 しかしその世界観からは、宗教は生まれてこない、と思うのです。 まず、話を戻して生命や知的生命の定義の話からしたいと思います。まずあなたは
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。
と書いた。これは私も同意するのです。だからこそ、知的生命とは何か、あるいは人間とは何か は宗教を考える上で重要な問いですし、生物とは何かも重要だと思うのです。 だから私はここにはこだわりたい。 あなたは「情報の複製こそが生命の本質である。」 という意味のことを書いた。それは部分的には同意します。 ですが、私はコンピューターウイルスは生命とは認めていませんし、 ウイルスも生命とは認めていません。 それは現在生物学で一般的な 生命の定義 [wikipedia.org]に、私も同意するからです。一応引用しておきましょう。
だから、生命を定義する上で、「情報を複製する存在」だけでは 足りないと思うし、知的生命を定義するには私はもっと高度なものを要求します。 人間は、世界を認識し、自分という存在を認識し、意味を認識し、情報を解釈できる。 だからこそ知的生命であると。 そしてさらに宗教的な人は、世界に、自分に何かの意味を求める。
だからこそ宗教が必要になると思うのです。 先の「情報の複製こそ生命の本質である」という世界観は、 私には我々一人ひとりの存在は無意味だ、と言っているように聞こえます。 それはそれで立派な哲学かもしれません。
しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。 私にはその世界観は諦観とニヒリズムの表現に見える。 「世界や生物に意味などない。まして人間の存在に意味など存在しない。 道徳的な真実など存在しない」 と言っているように聞こえる。 真実が存在しないなら、個人の立場があるだけではないか? だったら原理的には客観的に正しい議論をしながら他人を説得するなんて言うのは、 主張している内容に真っ向から反対しているのではないのか? それは自己矛盾ではないのか?
人は誰もが認識するべき真実や人生の意味に に出会うからこそ、布教するのではないのか。 もしそれが存在しないと思うなら、他人の世界観、生命観に何を言う必要があるのか。 神でも大日如来でも涼宮ハルヒでも好き勝手なものを信じればいいではないか。
その態度は、私には「宗教的」とは程遠く見えるのです。 だからそんな宗教は存在しない、と思うのです。
いやーだいぶ認識が深まりました。 ここまで議論に付き合ってくださってありがとうございます。
ACで発言するとリプライが付いても気が付かないから駄目ですね。
> 人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれるそうでしょうか?道徳観の共有を目的とする側面も大きいと思いますし(有る意味で宗教=道徳となる事さえある)、真理の追究の側面を持たないまま宗教が共有される事もあります。日本人で明示的な信仰を持たない人は神道系に基づく宗教観をもつことが少なくないですが、そういった未整理の神道では真理の追究など関係ありません。・・・情報の複製教が道徳観の共有を含むかは知りませんが
> しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。たしか
対象のデータなりの16進ダンプリストとフォーマット規格書を傍らに眺めながらバイナリーエディタで入力していくとしたら、それは写経に近いと言えるのでしょうか...
# "マイコン" 時代?
意味もわからず字を写す行為に写経として意味が無いようにただダンプを入力するだけでは写経に近いとは言えないでしょう。
その16進ダンプを打ちながらニーモニックを読み取ったりグラフィックスを展開できてはじめて写経と言えるでしょう。
>写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
チベット仏教にはマニ車(転経器)なんていう宗教用具もあるくらいなんで、コピー機が宗教的な装置たりえないという即断は出来ないと思う。
wikipediaの マニ車の項 [wikipedia.org]によれば、
回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。
となっていて、マニ車はコピー機みたいなものではなくて、 手で回転させるものだと思うんですが、違うんですかね。 そこは譲ってマニ車がコピー機のような何かだとして、 書いてあるのがマントラではなくて「おいしいチャーハンの作り方」とか 「アフェリエイトで月100万円稼ぐ方法」とか 「今年の夏の愛されワンピ」みたいな内容だったとして、 果たしてそのような情報のコピーを宗教とよべるのか? というのが問いですね。
文字や言語が宗教的かという問いは即断しがたいが、 コピー機が宗教的かという問いに、私は自信をもってNoと言える。 しかし、人間が何か宗教的意図をもって経典をコピー機でコピーしていたら、 それは宗教的です。当たり前ですが。
マニ車 [wikipedia.org]の聖地小樽へは一度行ってみたいと思ってるんですけどねぇ。こっちのマニ車はコピーを許さない思想が作り出したものだと言えましょう。
#現金が信仰の対象であるとも言える
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私はプログラマです。1040 formに私の職業としてそう書いています -- Ken Thompson
写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:4, すばらしい洞察)
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:3, 興味深い)
写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。 コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
般若心経でも聖書でもコーランでも正法眼蔵でも何でもいいですが、 本当にただ意味も分からず、純粋に作業としてコピーしているだけなら、 それは宗教とは言わないと思います。写経には苦行としての意味合いもあるのかもしれませんが、 そこには経典の意味の読み取りが必要であるし、自分なりの読み替えが必要かもしれない。 やはり経典から宇宙の真理なり人生の意味なり道徳の真実なりを読み取って初めて宗教的となる、と。
そして、これだけ印刷技術、情報技術が発達している今日にあって、 宗教が「情報の複写」に依存しているというのは信じがたい。 それが今日でも本当ならば、あらゆる宗教があまねく流布していてもおかしくないです。 必要なのは何がしかの宗教的体験であり、人生が組み替えられる何かであり、 頭を殴られるような衝撃でしょう。 それはすでに情報の摂取とは別種の経験ではないか。
個人的には情報のコピーという形式だけを信奉すると言われても、それを宗教とは認め難いです。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:3, すばらしい洞察)
>コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
コピー機や印刷機は宗教的な装置とは言いがたいのには同意だが、
「印刷機の発明により聖書のコストが下がり、貧困層にも聖書が普及するようになった」
みたいな話を昔聞いたことを思い出した。
写経が重要だったのは、そうしないと聖書などの書籍を生産し、入手する
方法がなかったからというのも大きいと思う。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:1)
仏教で「他力本願」と言われる物は、何も考えず「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるとする。
唱えることが出来ないなら「書き写す」でも「書いたものを回す」でも可。
何も考えずに情報のコピーだけで宗教が成り立ってる。
むしろ、コピーだけするってのは「何も考えない」ための手段だと思うけどね。
直接に「何も考えない」を追求すると禅宗。
the.ACount
Re: (スコア:0)
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:3, 興味深い)
では論点を明確にするために、独断的に直感的にいいます。
宗教とは、世界観であり、生死観である。
それは情報そのものではなくて、情報の読み方を与えるものである。
ある人にとって「どこどこで日食が起こった」という情報は、 単に太陽、月、地球が一直線になっただけかもしれないし、 他の誰かにとっては世界の終りを示す事象かもしれない。
情報の摂取は、宗教観や価値観の変更にはならない。
それはすでに規定された読み方に従って情報を解釈することだから。
生まれた時から宗教と共にある人は、親や周りの人から宗教観、世界観を受け継いでる。
経典を読み、解釈することは、宗教観、世界観の変更につながる。
それは情報の摂取とは別の経験である。
よって、情報のコピーそれ自体は宗教的ではない。単なる作業である。
必要なのは経典を読むなり説教を聞くなりして、 自分の中に世界観や生死観を構築することである。
そのようなある種の哲学がないものは宗教ではない。
従ってこのトピのスウェーデン当局の判断は正しい。
まあかなり独断と偏見にまみれててアレですが、言いたいことはこんなことです。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:1)
「情報のコピーは宗教ではない」という認識は、あなた(あるいはスウェーデンの裁判官)の宗教観に基づく認識ですよね。
私の宗教観からすると、情報をコピーすること、情報を共有すること、っていうのは生命活動の根本たる生殖と同一視しうる行為です。複写という行為そのものに極めて崇高な宗教的意味があると私は考えます。
私のように才能もなく魔法使い街道まっしぐらな人間には、新たな生命も、新たな作品も生み出す事ができないのです。そのような人間にとって、自分の好きな情報(作品)を複写する行為は、自分という存在を文化的な意味で後世に残しうる数少ない活動なのです。
私の好きなものをコピーして人に伝えるという行為は、文化的自己の生殖活動であり、「『コピーして配布する』という宗教行為」そのものの布教活動でもあるわけです。
すなわち「複写し共有する」という活動は、宗教活動の本質であり、生命活動の本質なのです。
ここまで言っても、あなたは「やはりコピーは宗教とはいえない」と仰るかもしれませんが、私はそれでもかまいません。なぜなら私は誰がなんと言おうと、コピー行為が神聖な行為であると信じて疑うことはないからです。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
ここでちょっと著作権の話は置いておきましょう。
t_mrc-ctさんが仰るのは、コピー自体に興味があるのではなく、 好きな作品を他人に紹介したいのではないですか。 それは、オタク的な意味合いの布教であり、 宗教的な布教とかなり近い意味があるのではないですか。
ここで、「好きな作品を布教する」というのと、 「コピー自体が神聖である」というとでは、かなり意味が違うと思います。 つまり前者はコピーは手段であるのに対して後者はコピー自体が目的であるということです。 私は前者だったら理解できるのですが、後者は理解出来ないのです。
そして、ここからが本当に言いたいことですが、 私にはなにをいじけているのか分からない。 あなたはこうやって私の文章を読み、意味を理解し、 文章を書き込み、私に思いを伝えている。 意味のあるコミュニケーションを達成している。 少なくとも私はあなたの文章を読んで理解したし、こうやって返信するために 自分の時間を使っている。一体それ以上の何を望むというのでしょうか。
あなたの書いた文章は、あなたが著作権を持つ、世界に一つの創造物ですよ。 それは誰にも揺るがしがたい事実ではないのですか。 「電車男」の例を引くまでもなく、ある意味では2chが文学であるように、 このスラドだって文学ですよ。 他人が書いた文章を読み、理解し、自分で考えて、文字を書く、 それは昔から連綿と行われてきた、人間にしかできない、文化的活動なのではないのですか。 そうやって偉大な文学者たちや宗教者たちは、聖典を創り上げていったのではないのですか。
ちょっと熱くなりすぎたのでここら辺で終りにします。 参考文献として 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」 [amazon.co.jp]を挙げます。 機会があったら読んでみてください。
Re: (スコア:0)
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。
現在我々が認知しうる知能は情報の交換・共有を必要としますし、情報の交換・共有はその過程として情報の変換と複製を含みます。
言ってみれば情報の複製は人間のあり方を規定する上で非常に重要な行為なわけです。
例えばですが
「人間とは情報を言語として文字として複製することにより進歩してきた特別な存在である。人間にとって生きる事とは、すなわち情報の複製を行う事に他ならない。さぁ、知的生命体であらんとする者たちよ、情報を複製するが良い」
的な教義が定義されていたら、それは宗教なのではないかと思うのです。
無論、複製を共有や交換と読み替えても、人間を知的生命体や文明や文化で読み替えても、宗教の根幹をなす哲学としては成立すると思います。
# 自分で書いてて、こういう宗教なら入信しても良いかもとか思ってしまった。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
Re: (スコア:0)
あなたが納得できる生命の定義なんて話はしてません。話を逸らさないように。
それらの行為のどの段階に「知的生命たる所以」を認めるかってのは宗教の宗派の違いに過ぎませんよ。
別の宗教として「情報の複製こそ生命の本質である」って宗教も定義可能です。
要は情報の扱いと生命や知性などの扱いに関連を認めさえすれば、その段階の一部である情報の複製も宗教の要となりうるってだけの話です。
知性や生命の本質をどう定義するかの話は「経典を読むなり説教を聞くなりして、 自分の中に世界観や生死観を構築すること」に該当します。
あなたの返した話はキリスト教が進化論を否定するのと同じです。
あなたの宗教の教義と私が即興で作った宗教の教義が衝突しているだけの話で、ここで教義を摺り合わせる必要はありません。
むしろ「あなたにとっての生命の定義」という非常に宗教的な価値観と衝突した以上、それこそがあなたと相容れない宗教である証明の様な物です。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
うーん、あんまり話逸らしたつもりはなかったんですがねぇ。 むしろ「話がいい感じに深まってきたなあ」 なんて思いながら反論したつもりだったんですどね。
まず誤解を恐れず、結論を非常に短縮して申しますと、
「人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれる。だから、 人生は無意味だし真実など存在しないと言っている宗教は、存在自体が矛盾である」です。
確かに「情報の複製こそが生命の本質である。それこそが生命だ」 という世界観もありうるでしょう。 しかしその世界観からは、宗教は生まれてこない、と思うのです。 まず、話を戻して生命や知的生命の定義の話からしたいと思います。まずあなたは
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。
と書いた。これは私も同意するのです。だからこそ、知的生命とは何か、あるいは人間とは何か は宗教を考える上で重要な問いですし、生物とは何かも重要だと思うのです。 だから私はここにはこだわりたい。 あなたは「情報の複製こそが生命の本質である。」 という意味のことを書いた。それは部分的には同意します。 ですが、私はコンピューターウイルスは生命とは認めていませんし、 ウイルスも生命とは認めていません。 それは現在生物学で一般的な 生命の定義 [wikipedia.org]に、私も同意するからです。一応引用しておきましょう。
だから、生命を定義する上で、「情報を複製する存在」だけでは 足りないと思うし、知的生命を定義するには私はもっと高度なものを要求します。 人間は、世界を認識し、自分という存在を認識し、意味を認識し、情報を解釈できる。 だからこそ知的生命であると。 そしてさらに宗教的な人は、世界に、自分に何かの意味を求める。
だからこそ宗教が必要になると思うのです。 先の「情報の複製こそ生命の本質である」という世界観は、 私には我々一人ひとりの存在は無意味だ、と言っているように聞こえます。 それはそれで立派な哲学かもしれません。
しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。 私にはその世界観は諦観とニヒリズムの表現に見える。 「世界や生物に意味などない。まして人間の存在に意味など存在しない。 道徳的な真実など存在しない」 と言っているように聞こえる。 真実が存在しないなら、個人の立場があるだけではないか? だったら原理的には客観的に正しい議論をしながら他人を説得するなんて言うのは、 主張している内容に真っ向から反対しているのではないのか? それは自己矛盾ではないのか?
人は誰もが認識するべき真実や人生の意味に に出会うからこそ、布教するのではないのか。 もしそれが存在しないと思うなら、他人の世界観、生命観に何を言う必要があるのか。 神でも大日如来でも涼宮ハルヒでも好き勝手なものを信じればいいではないか。
その態度は、私には「宗教的」とは程遠く見えるのです。
だからそんな宗教は存在しない、と思うのです。
いやーだいぶ認識が深まりました。 ここまで議論に付き合ってくださってありがとうございます。
Re: (スコア:0)
ACで発言するとリプライが付いても気が付かないから駄目ですね。
> 人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれる
そうでしょうか?
道徳観の共有を目的とする側面も大きいと思いますし(有る意味で宗教=道徳となる事さえある)、真理の追究の側面を持たないまま宗教が共有される事もあります。
日本人で明示的な信仰を持たない人は神道系に基づく宗教観をもつことが少なくないですが、そういった未整理の神道では真理の追究など関係ありません。
・・・情報の複製教が道徳観の共有を含むかは知りませんが
> しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。
たしか
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
ありがとうございました。
Re: (スコア:0)
対象のデータなりの16進ダンプリストとフォーマット規格書を
傍らに眺めながらバイナリーエディタで入力していくとしたら、
それは写経に近いと言えるのでしょうか...
# "マイコン" 時代?
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
====================================
重力オチになってない……ごめんなさいごめんなさい
fj.jokes出身:
Re: (スコア:0)
意味もわからず字を写す行為に写経として意味が無いように
ただダンプを入力するだけでは写経に近いとは言えないでしょう。
その16進ダンプを打ちながらニーモニックを読み取ったり
グラフィックスを展開できてはじめて写経と言えるでしょう。
Re: (スコア:0)
>写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
チベット仏教にはマニ車(転経器)なんていう宗教用具もあるくらいなんで、コピー機が宗教的な装置たりえないという即断は出来ないと思う。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
wikipediaの マニ車の項 [wikipedia.org]によれば、
回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。
となっていて、マニ車はコピー機みたいなものではなくて、 手で回転させるものだと思うんですが、違うんですかね。 そこは譲ってマニ車がコピー機のような何かだとして、 書いてあるのがマントラではなくて「おいしいチャーハンの作り方」とか 「アフェリエイトで月100万円稼ぐ方法」とか 「今年の夏の愛されワンピ」みたいな内容だったとして、 果たしてそのような情報のコピーを宗教とよべるのか? というのが問いですね。
文字や言語が宗教的かという問いは即断しがたいが、 コピー機が宗教的かという問いに、私は自信をもってNoと言える。 しかし、人間が何か宗教的意図をもって経典をコピー機でコピーしていたら、 それは宗教的です。当たり前ですが。
Re: (スコア:0)
マニ車 [wikipedia.org]の聖地小樽へは一度行ってみたいと思ってるんですけどねぇ。
こっちのマニ車はコピーを許さない思想が作り出したものだと言えましょう。
#現金が信仰の対象であるとも言える