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ただし、ソースははてブ
はてブの良いところは人気コメント [hatena.ne.jp]を見れば、方向性がわかり易い。
大学が政府の統制から自由であるのは政府の意思によって学問が歪められないためであり、「国がカネだしてるんだから言うこと聞け」ってのはつまり学問の自由の死を意味するわけだがそこんとこ理解してんの?
独立行政法人だっていって金減らしたの忘れたか
いよいよ日本の「大学の自治」も死に向かいつつあるようだ。口先ではグローバル化を煽りながら、実際にやっているのはそれに逆行して優秀な研究者を追い出すようなことばかりだからバカげている。
「学問の自由」や「大学の自治」は、「挙国一致」する人間を組織的に育成しては民主主義の根幹が成り立たないという反省から生まれた。当然今の政権からは許容しがたいだろうな。
学校に好きにさせるというのは不安もあろうが、自由を許容する必要があるのが民主主義のコストというものだろう。
制度によらず、社会の中に存在している組織は秩序を守り、社会の利益発展に寄与するよう努力するべきだし、税金が投入されてるなら行動によって税金を投入されるに相応しい組織であることを証明、主張する必要性がある。社会が変容しても我関せずを貫きたいなら、いつか税金投入を打ちきられたり、反社会的組織と見なされるリスクを負う覚悟で臨んでもらいたい。それも嫌なら象牙の塔に籠って霞を食って生きてくれ。
> 社会の中に存在している組織は秩序を守り、社会の利益発展に寄与するよう努力するべき社会にとって、何が利益なのか利益ではないのか、何が正しくて何が正しくないのかは、その空間と時間を共有する限りなかなか本当のことの判断がつきません。今、社会にとって利益がある、社会にとって正しいと思っていることは、そうであるかもしれないし、そうではないかもしれません。だから、それが正しいことであろうと、正しくないことであろうと、将来にわたって対応していくためには、多様性を維持するしかないのだと思います。今の価値判断では、どうしょうもないこと、ゴミのようなこと、役にたたないこと、社会の利益にならないこと、あるいは社会に反することであろうと、それは多様性を維持するための必要経費として、「うまく」保持していく必要があると思います。
しかし、お金がなければどうしようもない。> いつか税金投入を打ちきられたり、反社会的組織と見なされるリスクを負う覚悟で臨んでもらいたい。確かにそのとおりなので、戦前の旧帝大は広大な森林を持って林業経営をして巨額の収益をあげていました。資金という後ろ盾があったので、大手をふってはできなかっただろうけど国とは独立したことがあるていどはできたのでしょう。だから、戦後、社会の価値観が180度変わってもすさまじい発展ができたのだと思います。また、キリスト教圏では寄付が習慣というか教義として根付いているので、大学が独自の寄付金で国とは独立したこともできます。ところが、現在の日本ではもはや演習林も大学病院も収益を上げることはできず、寄付という資金源もありませんので、国から独立したことはできません。多様性を保持するという意味で現在の大学の状況としては戦前の状態よりかなり悪く、考え方も研究もだんだんモノカルチャーな雰囲気になって多様性もなくなりつつあるように思います。今度日本に何か大きな価値観の転換があったとき、日本という国がその価値観の転換に対応できるのかどうか不安になります。
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犯人は巨人ファンでA型で眼鏡をかけている -- あるハッカー
国立と思想の自由 (スコア:0)
ただし、ソースははてブ
Re: (スコア:3)
はてブの良いところは人気コメント [hatena.ne.jp]を見れば、方向性がわかり易い。
大学が政府の統制から自由であるのは政府の意思によって学問が歪められないためであり、「国がカネだしてるんだから言うこと聞け」ってのはつまり学問の自由の死を意味するわけだがそこんとこ理解してんの?
独立行政法人だっていって金減らしたの忘れたか
いよいよ日本の「大学の自治」も死に向かいつつあるようだ。口先ではグローバル化を煽りながら、実際にやっているのはそれに逆行して優秀な研究者を追い出すようなことばかりだからバカげている。
Re: (スコア:3, すばらしい洞察)
「学問の自由」や「大学の自治」は、「挙国一致」する人間を組織的に育成しては民主主義の根幹が成り立たないという反省から生まれた。当然今の政権からは許容しがたいだろうな。
学校に好きにさせるというのは不安もあろうが、自由を許容する必要があるのが民主主義のコストというものだろう。
Re: (スコア:-1)
制度によらず、社会の中に存在している組織は秩序を守り、社会の利益発展に寄与するよう努力するべきだし、
税金が投入されてるなら行動によって税金を投入されるに相応しい組織であることを証明、主張する必要性がある。
社会が変容しても我関せずを貫きたいなら、いつか税金投入を打ちきられたり、反社会的組織と見なされるリスクを負う覚悟で臨んでもらいたい。
それも嫌なら象牙の塔に籠って霞を食って生きてくれ。
Re:国立と思想の自由 (スコア:2)
> 社会の中に存在している組織は秩序を守り、社会の利益発展に寄与するよう努力するべき
社会にとって、何が利益なのか利益ではないのか、何が正しくて何が正しくないのかは、その空間と時間を共有する限りなかなか本当のことの判断がつきません。
今、社会にとって利益がある、社会にとって正しいと思っていることは、そうであるかもしれないし、そうではないかもしれません。
だから、それが正しいことであろうと、正しくないことであろうと、将来にわたって対応していくためには、多様性を維持するしかないのだと思います。今の価値判断では、どうしょうもないこと、ゴミのようなこと、役にたたないこと、社会の利益にならないこと、あるいは社会に反することであろうと、それは多様性を維持するための必要経費として、「うまく」保持していく必要があると思います。
しかし、お金がなければどうしようもない。
> いつか税金投入を打ちきられたり、反社会的組織と見なされるリスクを負う覚悟で臨んでもらいたい。
確かにそのとおりなので、戦前の旧帝大は広大な森林を持って林業経営をして巨額の収益をあげていました。資金という後ろ盾があったので、大手をふってはできなかっただろうけど国とは独立したことがあるていどはできたのでしょう。だから、戦後、社会の価値観が180度変わってもすさまじい発展ができたのだと思います。また、キリスト教圏では寄付が習慣というか教義として根付いているので、大学が独自の寄付金で国とは独立したこともできます。
ところが、現在の日本ではもはや演習林も大学病院も収益を上げることはできず、寄付という資金源もありませんので、国から独立したことはできません。多様性を保持するという意味で現在の大学の状況としては戦前の状態よりかなり悪く、考え方も研究もだんだんモノカルチャーな雰囲気になって多様性もなくなりつつあるように思います。
今度日本に何か大きな価値観の転換があったとき、日本という国がその価値観の転換に対応できるのかどうか不安になります。