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今回の件の是非は兎も角、Wikipediaの掲げる「中立性」は手段なのか、目的なのか、いまいち判らない
たとえば、明確に自身に関する嘘が書かれていても、それが(悪魔の証明的な意味で)嘘だと証明ができなければ、その記述が消せないのなその記述に「信頼できる情報源」とやらがなければ誰かが消してくれる【かもしれない】けど、それが例えばタブロイド紙や、あるいは平気で誤報をかます新聞だったりすると、もはや覆すのは困難になる
ケースバイケースとはいえ、形而上学的な「中立性」に拘るあまり、実質的な中立性・正確性を捨ててるようにも見えて、いまいち釈然としない感じはあるかな
そもそもwikipediaは「真実」を掲載する媒体じゃないから、嘘だと証明なんてする必要はない。他の媒体を出典として情報をまとめているだけなんだから、自身のサイトなりSNSなりで否定コメント書けば、誰かが「本人は否定している」という情報として書き足してくれるでしょ。
真実を最優先しないにせよ、真実でないと開き直るようになったら、辞典として何の価値があるんだよ。
それを検証するのもwikipediaプロジェクトの目的だったような。当初から「正確さは保証できないけど、(一定のガイドラインの下で)不特定多数の手で百科事典を作ってみよう」ってスタンスだよね。
ソースという権威に頼る以上は、真実かじゃなくて尤もらしいにしかならないかと
「真実」の捉え方が違う。
「〇〇新聞によれば××である」という情報が本当であれば、実際に「××である」かどうかはwikipediaは考慮しない、ということ。
では、「○○さんについて○○さん本人が××だと言っている」というのも事実であり、wikipediaに掲載してもいいのでは?
××自体が事実かどうかは別の議論として…。
「信頼できる情報源であるAさん」が「Bさん」に言及するのであれば、わざわざそうする必要(価値)があったということで特筆性の担保になるけどBさんがBさんのことを言うだけの内容に特筆性はない。だから掲載基準を満たさない。
考慮しますよ。というか、そういうのは節に継ぎ足されるのでそれだけで記事を作ることは絶対にありえない。でなければ「聖教新聞によれば××である」とか「ムー(雑誌)によれば××である」とかいくらでも言えますからね?
よく誤解されていますが、ソースを信用しているのはWikipediaではなく執筆者なので、他の執筆者に混ぜっ返されることは非常によくあります。そういう思い込みで事実と真実を混同しないでください。
辞典として何の価値があるんだよ。
それは、アンサイクロペディアに対してdisってる?
しかし、ネット情報の真偽では、真実・事実の情報より嘘の情報の方が早く広く伝播するからな。本人に関する虚偽情報がwikipediaに掲載されても、本人が修正できないというのはちょっとやりすぎじゃないだろうか。全ての人がブログやツイッターをやってるわけでもないし。
それを認めたら、本人が気に入らない内容を改変し放題になっちゃうだろ。
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アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者
中立性は目的か手段か (スコア:2, 興味深い)
今回の件の是非は兎も角、Wikipediaの掲げる「中立性」は手段なのか、目的なのか、いまいち判らない
たとえば、明確に自身に関する嘘が書かれていても、それが(悪魔の証明的な意味で)嘘だと証明ができなければ、その記述が消せないのな
その記述に「信頼できる情報源」とやらがなければ誰かが消してくれる【かもしれない】けど、それが例えばタブロイド紙や、あるいは平気で誤報をかます新聞だったりすると、もはや覆すのは困難になる
ケースバイケースとはいえ、形而上学的な「中立性」に拘るあまり、実質的な中立性・正確性を捨ててるようにも見えて、いまいち釈然としない感じはあるかな
Re:中立性は目的か手段か (スコア:4, 参考になる)
そもそもwikipediaは「真実」を掲載する媒体じゃないから、嘘だと証明なんてする必要はない。
他の媒体を出典として情報をまとめているだけなんだから、自身のサイトなりSNSなりで否定コメント書けば、誰かが「本人は否定している」という情報として書き足してくれるでしょ。
Re:中立性は目的か手段か (スコア:2)
Re: (スコア:0)
真実を最優先しないにせよ、真実でないと開き直るようになったら、辞典として何の価値があるんだよ。
Re:中立性は目的か手段か (スコア:1)
それを検証するのもwikipediaプロジェクトの目的だったような。
当初から「正確さは保証できないけど、(一定のガイドラインの下で)不特定多数の手で百科事典を作ってみよう」ってスタンスだよね。
うじゃうじゃ
Re: (スコア:0)
ソースという権威に頼る以上は、真実かじゃなくて尤もらしいにしかならないかと
Re: (スコア:0)
「真実」の捉え方が違う。
「〇〇新聞によれば××である」という情報が本当であれば、
実際に「××である」かどうかはwikipediaは考慮しない、
ということ。
Re: (スコア:0)
では、「○○さんについて○○さん本人が××だと言っている」というのも事実であり、
wikipediaに掲載してもいいのでは?
××自体が事実かどうかは別の議論として…。
Re: (スコア:0)
「信頼できる情報源であるAさん」が「Bさん」に言及するのであれば、
わざわざそうする必要(価値)があったということで特筆性の担保になるけど
BさんがBさんのことを言うだけの内容に特筆性はない。だから掲載基準を満たさない。
Re: (スコア:0)
考慮しますよ。というか、そういうのは節に継ぎ足されるのでそれだけで記事を作ることは絶対にありえない。
でなければ「聖教新聞によれば××である」とか「ムー(雑誌)によれば××である」とかいくらでも言えますからね?
よく誤解されていますが、ソースを信用しているのはWikipediaではなく執筆者なので、他の執筆者に混ぜっ返されることは非常によくあります。
そういう思い込みで事実と真実を混同しないでください。
Re: (スコア:0)
それは、アンサイクロペディアに対してdisってる?
Re: (スコア:0)
しかし、ネット情報の真偽では、真実・事実の情報より嘘の情報の方が早く広く伝播するからな。
本人に関する虚偽情報がwikipediaに掲載されても、本人が修正できないというのはちょっとやりすぎじゃないだろうか。
全ての人がブログやツイッターをやってるわけでもないし。
Re:中立性は目的か手段か (スコア:2)
それを認めたら、本人が気に入らない内容を改変し放題になっちゃうだろ。