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だが、くだんの板橋高校を今年卒業した男子生徒はこう言い切る。 「『国歌斉唱』の時に座ったら、来賓の都議会議員が『信念がない者は立ちなさい』と大声を上げました。まるで僕らが考えなしみたいに言われて腹が立った。前日に担任の先生は『立っても立たなくてもいい自由がある』と言いましたが、先生に言われたから座ったなんてことは絶対ない」
この言葉が事実なら、校長から「立つように」と強く指導されている上で、(校長に「処分される」といわれている)教師から「立つも座るも自由だ」といわれて、それでもなお「先生にいわれて座ったわけでない」と生徒は言っています。ならば、座ったのはあくまで生徒自身の思想・信条でしょう。 まず確認したいんですが、生徒自身の意思として座ったままであった、このことについては、あなたは「非常識」とは別に、思想信条の自由の(生徒としての)表現として認めますか? その上で、この生徒の行動には「立つ立たないは自由」とした教師の思想・信条は懲罰の対象となるほどに反映されているとお考えですか? 最後に
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物事のやり方は一つではない -- Perlな人
民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
しかしながら、単に「決まったから従え」だけでは衆愚といわれてしまう、ということを(あえて?)無視しているようにも読めてしまいます。
> 反対者がいる政策は一切実現できない、と言うのでは、何も行えません。
だからといって、一度決まったことなら反対の声をあげることさえ許されない(「強制」というのはそういうことでしょ?)、というのはそれこそ衆愚の典型といえるのではないかと。衆愚ではないというのならば、
> 次にそれを修正する機会
がくる可能性を残しておくのは「多数者」の責任でしょう。
どう発音するのか、それが問題だ。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
という話はしていませんね。
反対意見を述べることは自由。ただ、一度決定した事項には従わなければならない。
> 憲法にある思想信条の自由との間に「矛盾」がある、と考える人がいるからこそおきたものです。
であれば、それを民主的に訂正しなければなりません。
それまでは、悪法といえども法なので、従わなければなりません。
> ただ起立せずに歌わないのが妨害といえる「ほどのこと」なのか、裁判で判断すべきでしょう。
そんな大そうな問題ではありません。
どの国の国歌であっても、演奏中には起立するし
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
この「従わなければ」という部分こそが問題なんです。決定事項そのものが間違っている、という可能性を無視しています。間違った「決定」に従うべきや否や、というのが「矛盾」です。
悪法といえども法ではありますが、それに従わなければならないのは、「法理的に他の法制と矛盾がない」場合です。矛盾がある、と判断できる場合は、そのどちらに従ってももう一方を無視することになるんじゃないですか?
少なくとも、卒業式での君が代起立を「強制」され、それが憲法と矛盾している、と
どう発音するのか、それが問題だ。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
はて、だれがその間違いを認定するのでしょう?
基本的には、民主主義国家においては、国民=有権者ということになります。
ただ、現実的には、国民の選挙によって選ばれた議員からなる議会ということになりますね。
では、その「間違い」を定めたのは一体誰でしょう?これも議会ですね。
その辺りに矛盾は感じませんか?
国旗・国歌法案やその運用が憲法に違反しているか否か、というのはある意味解釈次第というところがあります。
絶対に間違いだ、と言える性質のものではないでしょう。
だとすると、最終的にはやはり、
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
> はて、だれがその間違いを認定するのでしょう?
最終的な認定は(既に書いていますが)裁判所になるでしょう。ただし、裁判所が積極的に矛盾を指摘するわけではなく、矛盾があると「認識」した人が裁判という形でその認識を客観的(? 民主的、といったほうがいいのかな?)な認定とするべく判断を仰ぐことになります。
> 基本的には、民主主義国家においては、国民=有権者ということになります。
> ただ、現実的には、国民の選挙によって選ばれた議員からなる議会ということになります
どう発音するのか、それが問題だ。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
では、その裁判所の権威は何によって支えられているでしょうか?
民主政体である日本では、最高裁判官を国民が選ぶことになっていますね。
やはり、最終的には有権者です。
有権者が選んだ議会の間違いは、基本的には議会で訂正されるものです。
そうでなければ、有権者がよしとした裁判官が判断するのです。
しかしそれは、極限定的なものです。
> そして、「間違ってるのかどうかはっきりしろ!」と言う声に答えて判断するのが裁判所では?
明らかに違憲とされるものに関しては判断を下せるでしょうが、そうでないものに関してはそうではありません。
国旗・国歌法案やその運用に関しては、おそらく後者に属するでしょう。
というか、あなたはどうだと思ってるんですか?
> # 極論だというのは認識していますが、適当な話が思いつかんかった・・・
極論過ぎです。下手な比喩は議論の邪魔です。適当でないと思ったのなら、最初から取り下げるべきでしょう。
> だからこそ、多数者には常に「間違っているのかも」と言う自戒を持つ「べきだ」、という主張です。
> # 少数者にはそもそも己の主張を通す権利を多数決で否決されている以上、間違いを犯すための権力もありません。
多数派と少数派が固定されていると思い込んでませんか?
多数派と少数派が固定的でない、と知っていれば、
間違っているかも、という自戒は、多数派であるか少数派であるかに全く無関係に持っておくべきだ、となるでしょう。
> いかなる実力行使も出来ません。
ウソですね。実際には、実力行使に出る少数派もいます。
実際、国旗・国歌法案ができても、国旗や国歌に対して適当な敬意を払うという、極常識的なことすらしない人がいますね。
裁判所がこの法律や運用が違憲であるという判断も下していないのに、です。
第一、本当に少数派なのか、あるいはまったく権力を持たない、などと言える様な弱者なのかすら定かではありません。
> が、現実の目標を立てるための重要な指針としては必要ではないでしょうか。
共産主義者も似たようなことを言っていましたね。
理想は大切です。しかし、高すぎる理想は現実の政治の指針にはなりません。
ついでなので言っておきますが、民主主義の理想を追求するなら、共産主義に行き着かざるを得ません。
> と同じだと思いますが。
あなたはいったい、何に向かって反論していたんですか?
まあ、いいですが、私は現実主義者であって、少数を切り捨てる政治の現実を、理想によって糊塗したりはしません。
その点は断固として立場が違います。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
> 国旗・国歌法案やその運用に関しては、おそらく後者に属するでしょう。
> というか、あなたはどうだと思ってるんですか?
儂の意見がどうかであなたの意見が変わるとも思えませんが、表明してみるならば、法案そのものについては、国旗は認めますが国歌は正直「どうだろう」と思っています。また、運用はそれこそ「どの」運用かで変わりますが、都教委の指導はやや行きすぎと思います。もちろん、法律として成立している以上、誰がなんといおうが「君が代」は国歌です。ただ、なぜそれが国歌なのか、国歌に敬意を持つということはどういうことなのか、その手順を飛ばして「儀式だから」ということで起立を強制するのはどうでしょう。
もっとも、この考えに欠陥があるのはわかっています。
儂のような人間が「国歌に敬意を払いつつそれに否定的な信条を保つ」にはどうすればいいかを提示できていない点です。
それが提示できるようになるまで、儂はおそらくぶつくさいいながら国歌を歌うでしょう。日本という国そのものに敬意を払いつつ。
> 極論過ぎです。下手な比喩は議論の邪魔です。適当でないと思ったのなら、最初から取り下げるべきでしょう。
確かにそうでした。調子に乗りすぎたようです。
> 多数派と少数派が固定されていると思い込んでませんか?
集団としては確かに不定形ですが、ある問題にたいして、(おもにメディアの報道による)社会の大勢と個々人のとる態度を比較し、個々人が「今、自分が多数派/少数派である」と感じることは出来るでしょう。
まあ、その場合も少数者が(少数であることにかかわりなく)「間違っているかも」という自戒は確かに必要です。この点は儂の不見識でした。
> > いかなる実力行使も出来ません。
> ウソですね。実際には、実力行使に出る少数派もいます。
実力行使=無政府状態、と書いたつもりでしたが、言われてみれば確かに不適切ですね。訂正します。
> > が、現実の目標を立てるための重要な指針としては必要ではないでしょうか。
> 共産主義者も似たようなことを言っていましたね。
まあ、大体感づいているとは思いますが儂はなんちゃってサヨですから。「なんちゃって」なんで、論がしっかりしていない分、あなたには延々益体のない議論を吹っかけてしまったわけで、申し訳ありません。
> あなたはいったい、何に向かって反論していたんですか?
しいて言うなら「現実主義過ぎる物言い」です。儂の身近には添えう言う考えをする個人が少ないせいか、あなたの物言いには異様な違和感を感じていました。その違和感はどこから来て、どういう差異なのかを知りたい、というのが発端です。
だから、今回の議論ではっきりと
> その点は断固として立場が違います。
というのがわかったのは儂にとっては勉強になりました。儂のわがままな(そして幼稚な)議論にお付き合い頂いたことは、大変感謝しております。
また、そのせいであなたに不快な思いと余計な手間をかけさせてしまったことについてはお詫びいたします。
どう発音するのか、それが問題だ。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
あなたが国旗や国歌に対して持つ感想など、ここでは問題ではありません。
問題は、これが民主的に制定されたことを認めるかどうか、
それと、この法案が上位の法律、例えば憲法と矛盾するかどうかなのでは?
> ただ、なぜそれが国歌なのか、国歌に敬意を持つということはどういうことなのか、
歴史と伝統がそれを支えているからです。それ以外に客観的な理由などないでしょう。
ところであなたは、『ラ・マルセイエーズ』や『星条旗よ永遠なれ』
『Ee Mungu Nguvu Yetu(Oh God of All Creation)』が
何故それぞれの国の国歌であるかが解らなければ敬意を持たないというのでしょうか?
あるいは、それらの国歌に敬意を持つということが解らないというのでしょうか?
解るのであれば、何も問題はないはずです。
解らないとしたら、そういう教育を受けてきていないからでしょうね。
そういう教育は、学校で行うべきかもしれませんね。
国旗や国歌に敬意を払うというのは、人に会ったら挨拶をする、という程度のマナーの問題です。
例えば、「目上の人に『おはようございます』と丁寧に挨拶するのは、俺様の思想・信条に反する」といって、
子供にもそう教育する教師がいても構わない、という問題ではないのと同じで、
教師の思想・信条がどうあるか、ということが反映されていい問題ではありません。
> まあ、大体感づいているとは思いますが儂はなんちゃってサヨですから。
いいえ。民主主義者はすべて左翼ですよ。そうでない民主主義者は不誠実です。
> また、そのせいであなたに不快な思いと余計な手間をかけさせてしまったことについてはお詫びいたします。
不快であれば、わざわざ手間をかけたりしません。その点はお気になさらぬよう。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
それは認めます。
> それと、この法案が上位の法律、例えば憲法と矛盾するかどうかなのでは?
矛盾するのではないか、と思います。
まず、歴史と伝統でいえば、日の丸は確か室町時代に既に対外貿易の際使われていたとどこかで読んだ記憶があります。その後も、対外貿易において日本をあらわす旗として使われたらしいので、歴史・伝統の問題はないでしょう。
対して、君が代のほうはもともとは古今集の歌であり、賀歌としてその後も詠まれていたようですが、国の歌としてさだめられたのは明治です。日の丸ほどの(国の象徴としての)歴史はありません。
また、日の丸は「日出づる処」の国の意匠としても十分ですが、君が代の歌詞は普通に読めば「君」は天皇ですし、「君が代」は「天皇の治める御代」でしょう。
戦前は天皇主権ですから明治憲法との整合性は取れていますが、戦後の現行憲法では天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」というあいまいな存在です。主権者でも国家元首でもありません(日本の元首は誰か、というのは諸説あるらしいですが、刑事県法で明記された元首条文が現憲法では削除されていることから、元首は特に規定されていないと考えいます)。
先の歌詞の解釈と合わせると、元首ではない天皇の御代を寿ぐ歌が果たして国民主権・民主主義の現・日本国の歌として適当かどうか。そんな疑念の表明として、
> > ただ、なぜそれが国歌なのか
と書いたんですが、単純な疑問ととられてしまったようです(書き方が悪かったですね)。
また、他国の国歌については、あまり確かに背景を理解していませんが、だからこそ否定的な意見をもっていません。だから「とりあえず」敬意を持っています。もし否定的な背景があり、それを知ったなら、将来否定的に捉えることもあるでしょう。
> > 国歌に敬意を持つということはどういうことなのか、
と書いたのは、それを具体的な形として表すのは果たして「起立して斉唱」と言う形だけなのか、その形は強制されるべきなのか、ということです。椅子に座ったまま心をこめて歌ったところで、個人の敬う気持ちそのものは変わらないのではないですか?
それを「非常識だから」というだけで否定していいんでしょうか?
> そういう教育は、学校で行うべきかもしれませんね。
既に「愛国心」教育は始まっているではありませんか? 国旗国歌の「強制」はその表れです。
先に「都教委の指導は行きすぎではないか」と書いたのは、それが「形」の強制だけ先走ってしまい、肝心の「国を愛する心」とは何かという地道で大切な教育が置き去りにされていないか危惧した上でのものです。
> 例えば、「目上の人に『おはようございます』と丁寧に挨拶するのは、俺様の思想・信条に反する」といって、
> 子供にもそう教育する教師がいても構わない、という問題ではないのと同じで、
そういった教師がいたことも事実ですし、そんな人についての処分は妥当でしょう。
ただし、それが全てではありません。儂がこの問題を意識しだしたのは、2004年春の都立高校での騒動ですが、生徒も都教委から起立するようにとの指導が来ていることを知っていたでしょうし、ここにあるように [university.main.jp]「校長が「君たちがしっかり歌わないと、先生方が処分を受けかねない」と生徒たちに言った」ということからも、起立斉唱の指導はなされています。
また、ほかの記事 [mainichi.co.jp]にはこうあります。
この言葉が事実なら、校長から「立つように」と強く指導されている上で、(校長に「処分される」といわれている)教師から「立つも座るも自由だ」といわれて、それでもなお「先生にいわれて座ったわけでない」と生徒は言っています。ならば、座ったのはあくまで生徒自身の思想・信条でしょう。
まず確認したいんですが、生徒自身の意思として座ったままであった、このことについては、あなたは「非常識」とは別に、思想信条の自由の(生徒としての)表現として認めますか?
その上で、この生徒の行動には「立つ立たないは自由」とした教師の思想・信条は懲罰の対象となるほどに反映されているとお考えですか?
最後に
どう発音するのか、それが問題だ。
Re:民主主義と衆愚の違いでは? (スコア:1)
仮に『君が代』の「君」が天皇陛下を指すとしましょう。陛下は「国と国民統合の象徴」なのですから、陛下を寿ぐことは、「国と国民統合」を寿ぐことです。どこが憲法に反するというのでしょう。少なくとも、誰もが憲法に反すると断言するような性質のものではありません。だとすれば、それは裁判所が違憲判断を行うようなものでもない、ということです。
結局、『君が代』に反対するのであれば、それは選挙を通して頑張るしかなく、議会でそれが覆されるまでは、『君が代』に敬意を持って接しなければならない、ということです。
> もし否定的な背景があり、それを知ったなら、将来否定的に捉えることもあるでしょう。
繰り返しますが、あなたの個人的な感想など、ここでは問題ではありません。
> その形は強制されるべきなのか、ということです。
定型は、定型なりの意味があります。
> それを「非常識だから」というだけで否定していいんでしょうか?
ほとんどすべての場合、否定してしまって問題ありません。非常識が許されるのは、非常識であってもなお、その価値が認められる人だけです。そして、ほとんどすべての人は、そんなに特別な人ではありません。
私は現実主義者なので、個性の尊重などという美しい理想で、現実を糊塗したりはしません。
> 既に「愛国心」教育は始まっているではありませんか?
私は愛国心など問題にはしていませんよ。
> ならば、座ったのはあくまで生徒自身の思想・信条でしょう。
そんな下らない事を、思想・信条と呼ぶべきではありません。単に礼儀知らずです。生徒の多くが礼儀知らずであれば、彼らを指導した先生の指導力が疑われますし、評価が下がるのは当たり前です。
個人的に国旗・国歌が嫌いでも、自分の思想・信条に合わなくてもそれはそれで自由です。しかし、国旗・国歌法案は民主的に制定され、国旗・国歌は憲法に反するとは言えません。民主的に制定されたものである以上、自分の思想・信条とは別に、国旗・国歌を認めなければなりません。それが民主主義だからです。民主主義者なら、そうすべきです。
もしあなたが、非民主主義者なのであれば、それはそれで構いません。しかし、そんな人が現憲法を根拠に国旗・国歌を否定すべきではありません。
もし民主主義者であってなおかつ、礼儀知らずな態度を採る高校生がいれば、その思い上がりをたしなめるのが大人の役割です。お前にそれほどの価値はあるのか、と。お前は一体何を成したから自分に価値を認めろ、といっているのか、と。