ほとんどのディストリビューションは検証用として alpha、beta、RC などのバイナリ ISO イメージを公開していると思うのですが、それって基本的にはその時点の開発ブランチにある最新版を突っ込んであるもので、公開時点では収録されているパッケージのソースは入手できたとしても、パッケージは日々刻々と更新されていってしまい、特にソースだけを収録したような ISO イメージとかも同時に公開しておかないと、遺失してしまうのではないかと思うのです。でも、そこまで配慮して配布しているディストリビューションって、どのくらいあるんでしょうか? ましてや、それを永久に保存し、いつでも入手できるように維持しているディストリビューションってあるんでしょうか?
If distribution of executable or object code is made by offering access to copy from a designated place, then offering equivalent access to copy the source code from the same place counts as distribution of the source code, even though third parties are not compelled to copy the source along with the object code.
Accompany it with the complete corresponding machine-readable source code, which must be distributed under the terms of Sections 1 and 2 above on a medium customarily used for software interchange;
それはともかく、okkyさんの解釈で疑問を感じるのは、3項後半の段落に関してです。 ここでは"counts as distribution of the source code"と書かれており、八田氏は「ソースコード頒布の条件を満たしているものとする」と訳されてますが、むしろ「ソースコード頒布と見なす」とすべきかと思います。 つまり、この時点で利用者に対して頒布は行っており、それを受け取らなかったのは利用者側の選択だと私は解釈します。 (また、この段落自体、GPLv3では6dに格上げされています)
If distribution of executable or object code is made by offering access to copy from a designated place, then offering equivalent access to copy the source code from the same place counts as distribution of the source code, even though third parties are not compelled to copy the source along with the object code.
という部分ですが、「counts as distribution of the source code」をどう解釈しようが、これが「source code の distribution と等価と見なす」と言っていることに変わりはありません。こんな所をいくらいじくっても何も出てこない。なので、ここの解釈をめぐって「だから~」と言うのは、何の根拠にもなりはしません。フォーカスがずれてる。
.
問題は どうしたときに source code の distribution と等価と見なすか、という条件の方です。
If
( distribution of executable or object code is made by offering access to copy from a designated place) then
if ( offering equivalent access to copy the source code from the same place ) then
"counts as distribution of the source code"
という構造です。この場合大事なのは2つのif 文があって、その中でも条件として2つ目、
offering equivalent access to copy the source code from the same place
I'm not a lawyer, so this isn't legal advice. It isn't an official Open Source Initiative opinion, either. It's just my expression of what Open Source authors expect of people who use their software. If you want a legal opinion, you should consult a lawyer.
T.Sawamoto writes:
> I have a question about GPLv2. If I have distributed a
> software under GPLv2, will I have to continue distribution
> of its source code forever after I will have finished
> distribution of the software?
No. Look at Sections 3 a, b, and c. They are "OR" clauses, meaning that you need only do one of them. The first one (a) says that if you include the source code in your distribution, then you're done. The second one only requires you to distribute the source for three years.
> Is it true? I could not believe his/her comment. I think
> that Novell don't violate GPL because the SRPM was
> distributed while the binary was distributed. But he/she
> said that it was not enough.
SUSE信頼してない… (スコア:2, 興味深い)
SUSE最大の問題は、昔リリースしたものの srpm ファイルが根こそぎなくなっていることです。おかげで
「SUSEのxxxと、御社のyyyという製品を組で使って大丈夫ですか?」
「御社のyyyと言う製品を使っていたら、SUSEでxxxというメッセージが出たのですが、これはどういう意味?」
的な質問に全く答えられない。
本音を言うと『しらんがや。SUSEに聞け』と言いたいのだがそういうわけにも行かないので、SUSEのカスタマーサポートとかに電話して、どこかにコピーが残っていないかたずねるが、「すみません。それは無いですね」としか言わない。GPLv2と違うんかい、Linux は…と粘着したくなるぐらい
fjの教祖様
Re: (スコア:1, 参考になる)
openSUSE というよりは SLES や Novell 社の問題のも気がしますが、結局は一緒ですかね。
>Novellに合併される際に豪快に無くしているので、おそらくその辺のタイミングで誰かが消しちゃったんだろう、と推測される。
推測せずとも サーバ履歴 [novell.co.jp]が残されているので読むと 2003-2007年にかけて消されています。理由はサーバの容量が主要因です。ただ、サポート期間が終わったとはいえ、社にマスタさえが残っていないのは意外というか疑問です。サーバのファイルを消したのならなおさら。今から思えば30GBとか100GBとかなので、マスタぐらい残せなかったものかとも思います。
元コメ主が必要とするバージョンが書いてないのでわかりませんし、「今も」必要かわかりませんが、野良でよければ 7.0 [ftp.gmd.de],
Re: (スコア:2, 興味深い)
一緒と言うか、本来「ソースにアクセスできなくちゃ駄目」というライセンスで配布可能になっているものについて、ftp容量を理由に公開をやめちゃ駄目でしょう。いや、一時的な問題ならいいですよ? RedHat もサーバ構成を替える為に公開を停止したり、してますからね。でも「ずーーっと」となると。
同じ事を今の openSUSE版についてもやられないと何故いえます? openSUSEのプロジェクトが、Novellのサーバを使っていないと言うならともかく、結局公開用サーバはNovellでしょう?
GPLは、そう
fjの教祖様
Re: (スコア:1)
不勉強で勘違いしている部分があるかもしれませんが、おっしゃっているのは GPL の中の「あなたがソースコードを受け取るか、あるいは望めばそれを入手することが可能であるということ、... そして、以上で述べたようなことができるということがあなたに知らされるということも保証されます。」の部分ですよね?
これって、過去に GPL で公開したコードであるなら永久に守られなければいけないことなんでしょうか? 極端なことを言ってしまうと、自分が作ったプログラムを GPL で公開するなら、すべてのバー
Re: (スコア:1)
GPLv2の話であるとしますが(GPLv3ってどうなのか十分見ていない)、答は「はい」になります。
もっと厳密に言うならば、これを守るために「バイナリと一緒にソースコードを配布せよ。別々に渡すのは賢明ではない」としています。
.
GPL の目的は
「プログラムを使っている人は、そのプログラムのソースコードを参照し、変更できる状態を常に維持する」
というものです。端的な話、ソースコードだけ配布して、バイナリは配布しない、というのが理想形なんです。
でもコンパイラ
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
まずはソースありき。バイナリはあくまでオマケだよ、ということですね。
逆を言うと、使う側の立場としては、ソースから自分でコンパイルしてバイナリを作り、それを使うべきだと。作者がユーザの手間を省いてあげようということでバイナリも合わせて公開していたとしても、そんなものはそのソースからコンパイルしたものだと「言っているだけのもの」なので、それを鵜呑みにしてそのまま使ったなら、それは使う側の「手抜きだ」ということでいいでしょうか?
…いや、別にからんでいるつもりではないんですが、そのへんを共通認識として持てていないと、誤解や不幸の元になると思うのです。
ということからすると、話題とされている件では、まず問題となるのは、その RC 版が公開されていたときに、対応するソースが入手可能な状態であったか否か、ということですよね。もし入手可能な状態であったなら、その時点でバイナリだけしか入手しておかなかった使う側の落ち度ということで「古くなったリソースなので、公開サーバからは削除した」ということを責めるというのは言いがかりなんではないかと思います。
# その際にどう対応するかでその企業の姿勢が分かる
# ということについては全くその通りだと思いますが…。
で、問題となるのは「その時点で、またそれ以後も当該ソースが入手可能な状態になっていなかった」という場合ですよね。そのへんは確認されているんでしょうか?
もし「入手可能な状態になっていなかった」ということであるならば、それはれっきとした GPL 違反だとして、もっと強硬に「探し出してこい!」と求めるなり、場合によっては訴訟してみればいいのではないかと思うのですが、いかがでしょう?
さて、このケースがちょっと特異だな、と感じるのは、RC 版だった、という点です。おっしゃるほどSUSE だけがダメダメなんでしょうか?
ほとんどのディストリビューションは検証用として alpha、beta、RC などのバイナリ ISO イメージを公開していると思うのですが、それって基本的にはその時点の開発ブランチにある最新版を突っ込んであるもので、公開時点では収録されているパッケージのソースは入手できたとしても、パッケージは日々刻々と更新されていってしまい、特にソースだけを収録したような ISO イメージとかも同時に公開しておかないと、遺失してしまうのではないかと思うのです。でも、そこまで配慮して配布しているディストリビューションって、どのくらいあるんでしょうか? ましてや、それを永久に保存し、いつでも入手できるように維持しているディストリビューションってあるんでしょうか?
…これは、openSUSE を少しでも良くしたいと願い、微力ながらお手伝いさせていただいている身として「SUSE信頼してない」と言われてしまうことが悲しいのと、また、プロジェクトとして正していくべきことならそれはプロジェクトの共通認識としていかなければいけないな、という意味で付けさせていただいているコメントです。決してokky さんに噛みつこうとしているのではないということ、ご理解いただけると幸いです。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
他人の日記のコメントにこれ以上書くのもなんですが…。
この発想はこれまた違いますね。
手抜きとかそういう問題ではない。もうちょっと 純粋に 考えてください。
GPL の目的は、あくまでも プログラムの利用者の手元にはソースコードがあること。そして、プログラムを自由に改変できること。
バイナリが配布されていたとして、それを信じるかどうかはユーザーの勝手。ただし、ユーザーがそのプログラムを変更したくなった場合、常にソースコードが手元にあること、この一点が大事。信じなくなったからであれ、バグがあったからであれ、ユーザーが新しい機能を追加したかったからであれ、変更したくなった理由は関係ない。
.
2つめの間違いはここです。
主客が転倒していますね。
「バイナリが入手できたときにソースコードも入手可能だったか」
は関係ありません。これはバイナリを入手した人がソースコードを入手できる時間に時限制約を条件に入れ込もうとしていますが、それは許されません。
つまり、インストール用 rpm の中に実行形式のバイナリとソースコードが 両方 入っているならいつソースコードが入手不可能になったとしても問題ありません。。srpms で配布しているのでもやはり、ある時期以降入手不可能にしても構わない。でも「バイナリは手に入れた。さらなる手間をかけないとソースは手に入らない」の場合は、別途ソースが欲しいと言われたら、いつでも提供できるようにしておかなくちゃいけない。ここに時限装置は存在しません。
ここが意地悪なところです。ユーザーはソースコードをダウンロード「しなくちゃいけない」義務はありません。が、バイナリを別にして配布したら、「配布者は、ユーザーが欲しいと言ったときに、ソースコードを提供できなくてはいけない」。
また、GPLには alpha も beta もありません。公開したらそれで終わり。公開者側の意図は関係ありません。
逆に公開していない版についてはたとえ製品版でもソースコード入手を可能にする必要はありません。この良い例がGoogle です。GoogleはGPLなツールを山のように使っていますが、そのバイナリは提供していません。GoogleはGoogle所有の環境で全てを動かし、結果だけを提供しているサービスプロバイダーです。この場合、GoogleがGPLのソフトをいくら改造しても、ソースコードを開示する必要性は全くありません。
.
これは非常に良いポイントです。逆に考えてみてください。お客様がソースコードを必要としているのに、それが入手不可能だと判ったときに、相手に強く要求しないときとはどういうときか?。
SUSEに絶望して、もうあいつらの製品は使わない、次のリプレースの際にはSUSEを対象から外す、と決意したときですよね?Novell にこれ以上コストをかけるのは無駄だ、と考えたときです。
SUSEの現状を的確にあらわしていると思います。SUSEの特徴の1つに RedHat と比較して、顧客継続性が悪い(つまり、次のリプレースの際にもSUSEを…という客が少ない)事が挙げられます。
RedHat が逆に顧客継続性が良いのは、RedHatはこれらのソースコードを提供し続けるので、サポートを商売にしている…たとえば VA Linux とかの会社にお金を払えば、お客様自身はソースコードを理解できなくてもサポートを受けられる、と言うのがあります。穴が少ないので、客がSUSEに流れない。
.
駄目でしょう。
SUSEが Slackware, RedHat に続く3つ目に古い Distribution だ、という点は考慮に入れる必要があります。つまり若い Distro はまだそこまでのソースコードの蓄積はない。サーバ移行などの経験もない。一方で小さい distro の中には Sourceforge を使っているところが多い。つまり、自前で全部持っているわけではないので、負担が軽い。これらは、いかなる意味においても「実績がない」だけであって、将来どうなるかはわかりません。
一部の distro は最初からほとんど全てをソースコード付きで配布し、実行環境でリビルドして最適なバイナリにする、なんてこともしてますよね。この場合、ソースコードを入手不可能に変更したとしてもなんら問題はない。利用者側にソースコードはあったんだから。それをシステムが自動で消してしまうように作られているのでなければ、消した利用者側の責任でしかない。
ソースコードを一時的に公開しなくなることはあっても、その後復活させていない のは SUSE ぐらいしか、まだありません。
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
# 横から失礼します。
v2/v3を問わず、GPLにそのような縛りがあるとは、にわかに信じがたいのですが……。
それが事実なら、たとえソフトウェアの提供自体を中止したとしても、ずっと(著作権が切れるまで?)全バージョンのソースコードを提供し続けなければならないことになってしまいます。
改変者のみならず、オリジナルの作者にすらそのような負担を強いるライセンスが成り立つとは思えません。
また、これが事実なら、以前GPLで提供していたものを遡ってライセンス破棄することが可能になってしまいませんか?
GPLv2 [gnu.org]の中では、3項で、
とあります。(GPLv3 [gnu.org]では6項のdが相当?)
つまり、同等なアクセス手段を提供した時点で頒布とみなされるのではないでしょうか?
であれば、それを入手しなかったのは利用者側の問題であるように読めます。
実際、「容量を抑える為ソースとバイナリを分割提供した場合」と異なるものとは思えませんし、バイナリ入手時にソースコードの同時提供を強制せずとも良いようですから。
「GPLでは過去バージョンのソースをずっと提供し続ける必要がある」という解釈に何かソースがありましたら、ご提示いただけないでしょうか?
現時点はGPLを使用していないのですが、そのような縛りがあるのだとすると、将来自分の作ったソフトのライセンスにGPLを用いることに躊躇せざるを得ないので。
ぶしつけで申し訳ありませんが、お願いします。
Re: (スコア:0)
#同じく横からすいません
GPLの規約の中にバイナリとソースの配布期間を定めた規定は見つかりませんでしたが,「 GNU GPLに関して良く聞かれる質問 - GNU プロジェクト - フリーソフトウェア財団 (FSF) [gnu.org]」の中に次のようなFAQがありました。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
T.Sawamotoさんがどのようなソフトをどのような形態で配布なさっているのか/配布なさったことがあるのかは判りませんが、この問題は GPLv2 の場合第3章に集約しています。3つの条件 a, b, c があって、どれか一つを満たせばよい。
で、1つ大事な条件を。GPLはあくまでもアメリカの著作権法をベースにしていますので、著作権は自然発生しませんし、持ち主のなくなった著作物の著作権は自動消滅します。
.
日本語版がこちらにあるので、そちらも参照していただくとして:
http://www.opensource.jp/gpl/gpl.ja.html [opensource.jp]
条件c から見ていきましょう。
これは非営利目的の場合に限定される、「土下座モード」と言われた奴です。
「ソースコードはなくしました。あのソースを作ったときの全情報はこれです。これで勘弁してくだせぇ」
というものですね。営利目的でバイナリを配布した場合は、これは許されません。a, b, のどちらかを満たすか、権利を破棄するか、自らの存在を消失させるか、どれかを選べ、というわけです。
これが可能な人は大抵ソースコードを持っています。なので、多分これを利用できることはないでしょう。
.
条件bはこうです。
ようするにちゃんと書面を用意して、有効期限を切っているならば、いいよ、というものです。ただし、「Accompany it with a written offer」とあるように、これは「ファイルが添付されている」のでは駄目です。紙に印刷された(あるいは手書きでもいいですが)書類でなくてはいけません。
こんな用意のいい人は、そもそもGPLの無限適用について心配したりはしないでしょう。という事で、おそらくT.Sawamotoさんはこの条件も使えないと思います。
.
で、そうなると残る条件は条件a。
この表現を見れば判るとおり、バイナリファイルは「ソースに対する添付物」です。バイナリファイルを配布するときにどうする、と言う概念はありません。
.
エー?!それじゃ、バイナリだけ配布してた場合どうすればいいのさ。3章の最後にはこうあります。
つまり、「バイナリを得た場所からソースコードも得られるなら」許しましょう、という事です。間違えてはいけないのは、
もうバイナリは手に入らないんだからソースコードも手に入らなくなっても構わない
とは誰も言っていない、と言うこと。
.
それはあくまでも「バイナリのみの配布は善だ」という立場にたっての言葉ですよね?
なぜそんなことを信じられるんですか?
RMSは「ソースコードを伴わない配布は悪だ」という主張の持ち主です。GPLはそれを具現化するためのライセンスです。彼の目的は徹底して、ソースコードに関する自由を保護する事です。GPLを選んだということは、あなたは少なくともGPLを適用したソースコードに関しては、RMSがGPLを通じて具現化した条件を是とした、という事です。
.
私もGPLv2でいくつかのプログラムを公開していますが、スクリプト言語を使うか、ソースコードのみを公開しています。バイナリを配布するときには怖くて GPL なんぞ使えません。
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
えーとですね。もっとはっきり書きますと、私はokkyさんの解釈は間違っていると考えています。
ですから、okkyさんのご説明以外の、信頼に足るソースをご提示いただけないでしょうか。
(失礼な物言いになってしまって申し訳ないですが)
私のソフトはGPLではなくパブリック・ドメインとして頒布しているので、今回の疑問点に私自身は今のところ関係はないのですが……。(将来は分かりませんけど)
それはともかく、okkyさんの解釈で疑問を感じるのは、3項後半の段落に関してです。
ここでは"counts as distribution of the source code"と書かれており、八田氏は「ソースコード頒布の条件を満たしているものとする」と訳されてますが、むしろ「ソースコード頒布と見なす」とすべきかと思います。
つまり、この時点で利用者に対して頒布は行っており、それを受け取らなかったのは利用者側の選択だと私は解釈します。
(また、この段落自体、GPLv3では6dに格上げされています)
もちろん、私の解釈が間違いで、okkyさんが正しいということもあるかもしれません。
ですから、okkyさんの主張を裏付けるソースのご提示をお願いいたします。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
裁判で判決が出ていない以上、これ以上は存在しえません。
が、「私の主張が間違っている」というのならば、「その主張を裏付けるソースの提示」をしてはいかがでしょう?
「お前はグレーゾーンに立っている、だからお前は間違っている。だから私が正しい」
というのは、全く意味のある主張ではありません。むしろ、
「あなたの立っている足元はグレーゾーンです。そんな所で『俺が正しい』なんぞと言っている暇があったら、
ホワイトゾーンに戻って来い」
と私は主張します。
.
ただ、T.Sawamoto さんの主張が明白に間違っているポイントがあります。
という部分ですが、「counts as distribution of the source code」をどう解釈しようが、これが「source code の distribution と等価と見なす」と言っていることに変わりはありません。こんな所をいくらいじくっても何も出てこない。なので、ここの解釈をめぐって「だから~」と言うのは、何の根拠にもなりはしません。フォーカスがずれてる。
.
問題は どうしたときに source code の distribution と等価と見なすか、という条件の方です。
という構造です。この場合大事なのは2つのif 文があって、その中でも条件として2つ目、
の時勢がどうなっているか、です。
バイナリを供給しているとき だけ ソースコードを提供すればいいのか、バイナリを供給しなくなってもソースコードを提供し続けなくてはいけないのか、この1点に問題は集約されます。
.
私は、この1文を「バイナリを入手できたのと同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈します。というのは、バイナリを入手する行為が先に行われた、と言うのがこの条件での大前提だからです。ソースコードはバイナリよりもあとに入手する事になる。その際に「バイナリと同じ手法で同じところから入手できる」ためには、バイナリの入手は過去形でありソースの入手は現在形でなくてはいけない。
ということは、ソースを入手する際には、バイナリがまだそこにあるかどうかはもはや問題ではない、という事です。
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
# どうかご勘弁ください。m(_'_)m
お伺いしていた何点かの疑問について、微妙にはぐらかされてしまっていた感があってモヤモヤしていたんですが、ようやくちょっと分かってきました。
上記が、私が最初に伺っていた「そのへんについてはこれまで議論がされてきていて、共通認識のようなものってできているんでしょうか?」に対する答だということでよろしいでしょうか?
だとすると、『私は、この1文を「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈します。』というのも一つの解釈としてはありうる、ということにはなりませんか?
# 「私は A と解釈します」ということしか根拠がないと
# 「では、私は B と解釈します」という者とは
# どこまでいっても平行線となってしまうと思う。
なので、元の質問に戻り「そのへんについてはこれまで議論がされてきていて、共通認識のようなものってできているんでしょうか?」ということになるわけです。
で、確かに「いついかなるときでもソースコードが入手できる」ということが理想であり、GPL の理念であったとしても、現実問題として、ディストリビュータ側の責任として「未来永劫にわたり全てのバージョンのソースコードが公開されている状態を維持する」ことを求めるのは不可能だと思うのです。かといって、ユーザがバイナリを入手しようとした際に、そのユーザが必要としているか否かなど問答無用で無理やりソースコードとセットでなければ入手できないようにしてしまう…というのも、どうかな、という気はします。
そして、「…しておくことが望ましい/べきだ」と「…しておかないと GPL 違反だ」との間には大きな開きがあると思います。
「…しておくことが望ましい/べきだ」ということをしていない Novell の企業としての姿勢に信頼が置けず、使う気にはなれない…ということならば、理解はできます。ですが、Novell は GPL に違反している…ということであるなら、その意味は全く違うものになってしまいます。 なので、個人の解釈に止まらない「GPL 違反だ」という根拠があるなら、むしろはっきりとそれをお知らせいただきたいわけです。で、openSUSE プロジェクトとして正さなければならないのであれば、正すべく働きかけたいと思うわけです。それが「あくまである個人の見解では…」だと「私はそのようには解釈していない」で話は止まってしまうだろうと。
…最後に、
こういう言い放ち方は、Free Software の理念や精神をより多くの人に理解してもらい、賛同を得ていくうえでの妨げにはなっても、後押しにはならないと思います。こういう物言いから生まれてくるのって「狂信者」とか「GPL 汚染」とか、Free Software に対するネガティブなイメージなんじゃないかな…。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
お返事が遅くなってすみません。
とりあえず今回の件について、GNU、FSF、OSIに対して順次質問を投げてみました。
GNUとFSFからは今のところ回答をいただけていませんが、OSIのRuss Nelson氏からお返事をもらえましたので、以下に引用いたします。
あくまでRuss Nelson氏の見解ではありますが、永久にソースコードの頒布を続ける必要はないとのことです。
この後、GNU/FSFからお返事が来ましたら、そちらに関してもご報告させて頂きます。
なお、それ以外の情報がないかGNU等のサイトを調べたりGoogleで検索してみましたが、そもそもこの件に関して言及自体がほとんどありません。
(かろうじてスラッシュドットと2ちゃんねるで多少触れたコメントがありましたけど、あまり信頼できる情報とは言えず……)
人間の定めたライセンスに関することですから「悪魔の証明」とはもちろん違いますが、存在しないことを裏付けるのはかなり困難です。
できましたら、okkyさんの主張を裏付けるようなソースをご提示願えますでしょうか。
私の解釈は異なります。
0項に「複製や頒布、改変以外の活動はこの契約書ではカバーされない」とありますように、GPLは利用者がソース/バイナリを入手することではなく、提供者側の頒布を定めるライセンスです。従って、頒布をもって義務は果たされたと私は解釈します。
ソースとバイナリが共に頒布されたとき、ソースを入手する権利を放棄するのは、あくまで利用者側の自由です。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
それは質問が間違っていますよ。 a の条件も b の条件である「書面による期限の説明」もしていない場合である、という条件を述べていません。
そりゃフリーハンドで「これから何かを配布する場合」の事を聞けば、「ソースコードとバイナリを一緒にする」か「ちゃんと条件を明示した書類をつける」ことで無限配布の責任を逃れることができる、という答が帰ってくるに決まっています。
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
ありえますが、その解釈が妥当である理由を説明する義務は、そのような解釈を是としている人の義務でしょうね。
.
少なくとも「バイナリとソースが同時に入手できない」という事は、それらは分離された2つのファイルだ、という事です。2つのファイルを「同時に」ダウンロードする事はできません。トランザクショナル処理として規定されていませんから。
トランザクショナルに入手できない2つのファイルについては、必ずどちらかがもう一方よりあとに入手したことになる。バイナリを先に入手した場合は、ソースコードは必ず後になる。「バイナリを入手できる時点で同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」と解釈するなら、こういう『どう考えてもGPLの精神に反する』Webページを使ったバイナリ配布は、GPL違反ではない、という事になる。
「バイナリを入手できる時点で、同じ方法でソースコードへアクセスできる場合に限り」という解釈は、このようなインターフェースを許容しますが、このインターフェースは明らかに バイナリを入手した人のソースコード入手を阻害しています。このような状態を許容するような解釈が妥当であるとは到底思えません。
.
それは Open Source の人たちが使う論調ですが、とてつもなく間違った考え方です。それは理解と賛同を混同している。
理念と言うのは「賛同される」ためのものではありません。もちろん、賛同される事は良いことですが、その前に 正しく理解されることこそが重要です。
「正しく理解されたうえで反対される」のは「間違って理解されて賛同される」よりも 良い状態 といえます。
Free Software について賛同者を増やすために、誤った理解を広めるのは間違っています。Open Source の人たちの考えているような、ぐずぐずな運用がしたいなら、GPLではなく別のライセンスを作ればいい。それらの Yet Another なライセンスが、ことごとく一過性のものに終わり、厳格な GPL だけが生き残っている理由をもっときちんと理解するべきだと思います。
fjの教祖様
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
私はokkyさんが「SUSE9 RCのsrpmが入手できないのはGPL違反だ」とおっしゃっていることを説明し、それに対し"He/she is wrong."と回答を頂いています。私の質問方法にご不満があるとおっしゃるのでしたら、ご自分自身で質問をなさってください。
繰り返させて頂きます。okkyさんの主張を裏付ける根拠をご提示ください。貴方は、
とおっしゃいました。少なくとも、私からはそれなりの提示は行ったつもりです。
今度はokkyさんの番です。
Re:SUSE信頼してない… (スコア:1)
FSFボランティアのYoni Rabkin氏、そして八田氏から、個人的見解としてご回答をいただきました。
いずれも「GPLにそのような義務はない」とのことです。
(私はokkyさんのご意見に納得できていませんので、残念ながら代弁は不可能です。より踏み込んだ説明が必要ということであれば、okkyさんご自身が質問されることをお勧めします)
これまでの経緯から、okkyさんの「GPLでは(SUSE9 RCのようなケースにおいて)ソースコードを永久に頒布する義務がある」という主張は、その根拠となる出所があるわけではなく、あくまでokkyさんの独自解釈によるものであると認識させていただきます。
その上で私個人としては、「okkyさんの主張は誤解に基づくものであり、GNU/FSFはGPLにてそのような義務を課していない」と確信するにいたりました。
これはokkyさんの解釈自体を法的に否定するものではありませんが、少なくともGNU/FSFがそれを意図していないことは確実だと思われます。
以上を、現時点での私の側の結論とさせていただきます。
ご意見・反論等をお待ちしております。