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まさかな……まさか。
#それともガス抜きとでも考えてたんだろうか?
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皆さんもソースを読むときに、行と行の間を読むような気持ちで見てほしい -- あるハッカー
編集履歴を調べて逮捕とか? (スコア:4, 興味深い)
まさかな……まさか。
#それともガス抜きとでも考えてたんだろうか?
LIVE-GON(リベゴン)
Re:編集履歴を調べて逮捕とか? (スコア:3, すばらしい洞察)
誰でもが書き換えられるwikiでするべきじゃないよなあと思うんだけど、
中国政府に睨まれることを覚悟の上で、しかも
自分が決死の思いで書いたものが即あっけなくリバートされることを覚悟の上で
政治的に微妙な項目をwikipediaりたい中国人なんているのだろうか?
Re:編集履歴を調べて逮捕とか? (スコア:4, 興味深い)
ちょっと視点は違うんですが、中国人にとっては納得できるけれど、
他の国の人間から見れば客観性を欠く記事が改修されないという点
についても看過できないと思います。
中国人と付き合いがあると、彼らにはかつて栄華を極めた唐王朝や
その王族の李氏に対するイメージを自身に重ね合わせ、自らの正統
性を主張したがる癖が鼻につくことがあります。
# それはそれで微笑ましいと感じることもありますけどね ;-)
この「唐」を日本語版の Wikipediaで検索すると、以下のような記
述に当たります。
> 唐李氏は鮮卑系であるとの見方が支配的であり、(中略)現実的に
> は、大野が本来の姓(部族名)であり、李が北魏の漢化政策の時に
> 付けた姓であると見られている。
要は唐の王族の出身は元々異民族系で、混乱に乗じて漢族と同化す
る際、その系譜を漢族に求めたということなのですが、中国語版の
Wikipediaではこの部分だけがすっぽりと抜け落ちています。
# 隋もまた「どこぞの馬の骨」なんですけど、こちらは煬帝が無茶
# をしたおかげで、美化に利用されることは無いですね。
問題なのは、自分達の瑕疵となりうる事柄については敢えて載せて
いないようなフシがある点です。万一、 Wikipediaを自身の美化の
ための一道具と位置付けているのであれば、たとえアクセスが開放
されたとしても、自分達にとって都合の悪い情報は公開しないとい
う点で依然問題が残ることは否めません。
アクセスの開放も大切ですが、より求められているのは客観性の獲
得かと。
wikipediaを典拠にされても (スコア:2, すばらしい洞察)
貴殿は信じてらっしゃるようですが、それって
「自らの正統性を主張したがる癖」に近いんじゃないかなーと思います。
誰が書いたか判らないwikipedia(日本語版)の記述を典拠にして
「要は~」などと説明されても、困ります。
そのwikipediaの記述は本当に正しいのですか?
というのは、他者を不当に貶めることで自らの正統性を主張したがる癖のある日本人が
wikipediaの書き込み人の中に何人かいらっしゃるからです。もしかするとスラドの中にも。
私は、wikipediaは読み物としては面白くても、内容は全く信用すべきないし、
客観性を期待すべきでもないと考えています。おそらく何語においても。
Re:wikipediaを典拠にされても (スコア:2, 興味深い)
鋭いですね。当初はその点についても併せて言及しようと考えてい
たのですが、いかんせん親コメントから論旨がずれると思ったので
割愛したという経緯があります。
# とはいえ、意見を述べる以上は意を尽くすべきでしたね。
実のところ、この説は Wikipediaの記事に依拠しているわけではな
く、私が史学生として大学在学中に勉強した内容に基づいています。
日本語版では史書に基づいて考証した内容が掲載されており感服し
た次第ですが、中国語版の方は話の運びは同じであるにも関わらず、
一部分について言及が無いのがずっと気掛かりでした。そのため、
貴方の仰るような「貶める」という意図はありません。
> 内容は全く信用すべきでないし、客観性を期待すべきでもない
私は Wikipediaに対し、そのようには考えていません。
素人が関わる以上は記事の信憑性に疑問符が付くのも仕方の無いこ
とではありますが、きちんとした研究の上に書かれたものに対して
は信頼を置いてもよいと思います。私が述べた「客観性」とは、研
究を行い、それを発表する上で最低限必要なものだと考えています。
# ただ、執筆者にいちいち文責を問うていたら Wikipediaがここま
# で利用されることも無かったかもしれませんね。
失礼しました (スコア:1)
「微笑ましい」とか、少し相手を小馬鹿にしている感じがしたもので。
よくないです。
>実のところ、この説は Wikipediaの記事に依拠しているわけではな
>く、私が史学生として大学在学中に勉強した内容に基づいています。
なるほど。貴殿が確かに学校で習ったとおっしゃるのなら、信用します。
貴殿は信用できます。ただ、これはスラドの仲間内でアレゲで
あるから信用できるのであって、普通は明確な典拠(研究書や解説書
の名前とか)が明示されていないと怖くて信用できないです。
今回の件でもおそらく実際は様々な学説があるのだろうと思いますし。
#出来たら典拠を教えてください。
># ただ、執筆者にいちいち文責を問うていたら Wikipediaがここま
># で利用されることも無かったかもしれませんね。
同意します。何か書くたびに論としての正確さ、すなわち典拠を求められて、
とうとう南京大虐殺論争 [wikipedia.org]の項目みたいに学説から研究史から
もーなんかすごい有様になるようでは見る気をなくしますしね。
Re:失礼しました (スコア:1)
ったことを申し訳なく思います。このような場で軽軽に使うべきで
はなかったかもしれません。
日本語版の Wikipediaを見たのですが、出典の記載が無いようです
ね。私が学んだのは随分昔のことなので俄かには思い出せないので
すが、「魏書」辺りに記述があったと思います。
Re:wikipediaを典拠にされても (スコア:0)
というのはその記述以外の知識をベースにして語っている、という
ただし書きのようなものだと思いますが。
文脈を見ればwikipediaのみを根拠とした話ではない、というのは自明かと。
まあwikiを盲信してしまう人が少なくないので、気持ちはわかりますが。
Re:編集履歴を調べて逮捕とか? (スコア:2)
>他の国の人間から見れば客観性を欠く記事が改修されないという点
>についても看過できないと思います。
特に歴史観や政治が関わってくるwikipediaの記事については、他の民族、他の国の人が納得できない記事が書かれる可能性というのは、世界中どの国のwikipediaでも同じように持っているのではないでしょうか。
wikipediaの理念というのものを考えるとき、少数のフェアな編集者によってのみ編集が行われて、その結果が記事として固定化さればそれで足りると考えているとは思えない。wikipediaという場により多数の人間がかかわり、民主的なプロセスを通して、一度書かれた記事の内容が"いまより相対的に公平になるような可能性"を重視している。その証拠として"優秀な編集者による完璧なこれ以上ない記事"が書かれたことで記事を追加編集できなくする機能というのはwikipediaには実装されていない。もちろんS/N比みたいな問題もあって、その国の民主主義の成熟度により、現在の編集者の質や記事の質も変わってくるけれど、基本的にはより多くの編集者や閲覧者が存在することによって、以前よりもっとフェアな記事が生まれる可能性というものがwikipediaを支えている。そしてこのような可能性やプロセスが有効に働く前提として、検閲やアクセス制限というものがあってはならないということが大切だと思います。
重要なのは日本のwikipediaにはアクセス制限が無く、中国のwikipedia(というかインターネット)にはアクセス制限があると言うことです。それは日本のwikipediaでは仮に現在アンフェアな内容の記事でも、公平な記事に書き換えられる"可能性がある"一方で、中国のwikipediaでは一度書かれたアンフェアな記事が放置される可能性が高くなることを意味している。
つまり仮に、中国のwikipediaよりも日本のwikipediaの方がよりフェアな記事が充実しているとすれば、問題なのは公平な視点を持った日本人編集者が多く、偏った視点を持った中国人編集者が多いからと考えるよりも、アンフェアな記事について"よりフェアな記事に編集し直さなければならない"という力が働かない仕組みになっているからだと思います。
>たとえアクセスが開放
>されたとしても、自分達にとって都合の悪い情報は公開しないとい
>う点で依然問題が残ることは否めません。
>アクセスの開放も大切ですが、より求められているのは客観性の獲得かと。
どうしても私たち日本人は、中国という国やそこで生きる人々の日頃の行動を見る限り、彼らがどれだけたくさん集まっても、wikipediaのような仕組みを本来あるべき役割が果たせるように利用できるのだろうかと疑問を持ってしまう。
けれどwikipediaの仕組みを考えたうえで、Qmart氏の言うような"客観性の獲得"を実現するためには、アクセスの解放が先に行われるべき重要なことだと思う。なぜならwikipediaの客観性を担保しているものは、少数のフェアな編集者ではなくて、より多くの編集者や閲覧者の存在によって、いまよりフェアな記事が生まれる可能性であるからと考えます。
さらに付け加えれば、中国のような民主化の遅れた国家において、wikipediaのように編集者や閲覧者を含めた参加者一人一人が、よりフェアな記事に価値を認めるという仕組みが取り入れられていくことが、国家の民主化にとって大切なことではないかと思います。