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「国内のニコ動や、海外で日本のアニメを無料で見ているやつも取り締まれ!」という意見もあれば 「著作権物は原則無料公開にして気に入った時だけ投げ銭するようにしろ」(当然、皆、気に入らないと評価しますわな) 「原則無料公開でCMつければ文句をないだろ」という意見もある。
皆の意見はばらばら。
ただ、とにかく文句を言いたい、という一点だけしか一致してない。
一連のやりとりを読みましたが、私にはexさんの主張の方が腑に落ちます。
「それを著作権法でカバーするの?」というところの話が噛み合っていないように思います。
その他にも色々と思うところはあるのですが、うまく伝える自信がないので躊躇してしまいます。
他人のものを借りて、「借りたものが制限されることが不満だ。自由に使わせろ!」「借り物でも傷つけたり汚しても良い。」というのはちょっとおかしな話だと思いませんか?
この辺のところが違和感だと思うのですが、発表してしまったものはもうコントロール不可能なんだというのが私の理解です。それを、作者が、コントロール不可能だと受け入れるか、それとも受け入られないかの違いであり、作者がどんなにいやがっても、それは結局コントロール不可能なんだと理解しています。Li-ionさんは、嫌がる作者にも配慮すべきだというコメントをしていると私は解釈しましたが、作者がいやがってもコントロール不可能なものはコントロール不可能で、著作権法ではフォローできないししてはいけないだろうと私は思います。そして現行の著作権法はそういうコントロールしてはいけないところにまで影響してしまっているところが問題なんだと思います。
評論や批評は二次創作と言えなくもないですが、それが作者の意図しないものだからといって発表を著作権によって抑えるべきでしょうか? 現状でも、作者の意図しない――言いかえれば不本意な――評論でもそれを発表する権利が評論者にあります。また、オリジナルを第一と考え、パロディをそれより劣るものと考える風潮がともすれば創作の世界にはありますが、優秀なオリジナルの作者が出来のいいパロディを作れるかというとそんなことはなくて、パロディを作る才能というのは一次創作とは関係のない独立した才能であると考えていいと思います。そういう才能は、常にパロディできるものを探し、パロディにしたいもをのパロディにするでしょう。そういうとき、元ネタの作者が寛容だったからオーケーで、狭量だったから訴えられるというような状況は、パロディという創作物にとって不幸だと思いますし、パロディを享受し、対価を払う消費者にとっても不幸です。
成人のゾーニングとか名誉毀損については、exさんのコメントにもあるように別の問題であり、また、パロディの作者が作者を偽ったりしたら今までと同じように罰せられていいと思いますが、作者やファンが不快に感じる可能性があるものは著作権法違反というのは著作権とは違うと思います。
成人のゾーニングとか名誉毀損については、exさんのコメントにもあるように別の問題であり、また、パロディの作者が作者を偽ったりしたら今までと同じように罰せられていいと思いますが、作者やファンが不快に感じる可能性があるものは著作権法違反というのは著作権とは違うと思います。 でも、それを放置するのも問題やし、別の方法で対処できるんかね? 作品によっちゃあ二次作によって作者の名誉にもかかわることもあるんよ。
よく読みましたが、やはり二つの問題をごっちゃにしているように思います。
二次創作で作者の名誉にかかわるという状況が分かりません。名誉に関わるとしたら、それが二次創作だからではなくて、不当に作者を貶めるものだからではないでしょうか?(作品を貶めるのと作者を貶めるのとは区別しています) 名誉毀損の例の挙げかたが難しいですが、例えば、二次創作の作品中に、元ネタの作者は性倒錯者といった根拠のない主張をした場合、それは別に二次創作による著作権法違反ではないですよね?
おそらく、名誉毀損でデリケートなのは芸能人をネタにした二次創作などだと思いますが、デリケートすぎるのでここでは除外していいですか? すいません。
パロディを放置するのが問題であるという理由がやはりよく分かりません。元ネタの作者やファンが不愉快だから放置するのが問題だということであれば、そういう考えの方が問題なんじゃないかと思います。どんな作品でも不愉快になる人はいます。不愉快過ぎて訴えられる芸術家もいます。けど、それは著作権の侵害なんですか? 作者を騙ったわけでもネタをパクったわけでもないですよ。
結局二次作は原作がないとできんやろ、パロディ作るちゅっても、原作に依存してるから、結局真似をして儲けようとか思ってる中・韓の人間と変わらんとちゃう?特に同人誌系は。
結局そういう考え方をあなたがしてしまうのであればしょうがないとは思います。また、そういう考え方が感情的に支配的なのは認めます。しかし、パクリとパロディは明確に区別しないといけないでしょう。パロディだったら、元ネタのファンが不愉快だからといって著作権でコントロールするものではないと思います。パロディの著作権はパロディの作者が持っていて、元の作者への敬意が関係してはいけないと思います。日本の著作権は残念なことにそうではないようですが。
また、コメントに反応しますが、作者への敬意というのであれば、パロディの作者への敬意は、今も昔もないがしろにされたままだと思います。他人の褌で相撲を取っている卑怯者といった評価ばかりです。パロディの才能を認め、評価してもいいのではないかと思います。
#ヨーロッパではパロディが文化としてきちんと評価されていると聞いたことがありますが、とりあえず日本の話に限定しておきます。
#ただ、作者も二次作をどういうものなら認めるのか、はっきり公表する責任もあると思う。
これもコメントですが、それはまさにパロディ作品に対する検閲であり、内容によって発表されるものが差別されてはいけませんよ(これは理想論であり、実際にはポルノなどは規制の対象ですが、それはまた次の問題です)。
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計算機科学者とは、壊れていないものを修理する人々のことである
どのように「時代に合わないのか」が問題 (スコア:0)
じゃあどのように時代に合わないか、どのようにすれば良いか具体論を聞いて見ると、皆バラバラどころか方向性が180度違ってたりする。
「国内のニコ動や、海外で日本のアニメを無料で見ているやつも取り締まれ!」という意見もあれば
「著作権物は原則無料公開にして気に入った時だけ投げ銭するようにしろ」(当然、皆、気に入らないと評価しますわな)
「原則無料公開でCMつければ文句をないだろ」という意見もある。
皆の意見はばらばら。
ただ、とにかく文句を言いたい、という一点だけしか一致してない。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
・著作権法は、プロの作品と想定していたが、一般大衆もネットに著作物を発表できる様になった。
=> slashdotもそう
・“複製機”が広く普及し、ほとんど無意識に利用できるようになった。著作権法を侵害したことがない人はほとんどいないだろう。
・ネットビジネスに重い足かせをはめ、日本でIT産業が発展しない
・著作人格権が強すぎて、流通を阻害している。2次創作やパロディー文化の広がりを阻む。
・従来の著作権法の枠組みは物を対象としているが、物ではないデータが流通している。
・"知財"とは逆の発想、著作物のほとんどは商業ベースに乗らないことを前提とした、コモンズの考えが現れ、成功しつつある。
私自身は、「とにかく文句を言いたい、という一点だけしか一致してない。」は訳ではなく、おおいに肯かされる。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:2, 興味深い)
二次作やパロディーなど翻案文化では、必ずしも作者が意図したものにならない、それどころか、原作のイメージを崩すものがありますね。例えば、アニメや商業漫画の性的なパロディーなどは性的な作品を作っている著者や出版社は認めると思いますが、それ以外の作品を作っている作者や、ファン(読者)にとっては迷惑ですよね。特に、出版社にとっては作品のイメージ低下や読者離れを招く結果になるのでマイナスです。(ここで、「ファンなら作者の名前位知ってるからマイナスにはならない」と思われるかもしれませんが、出所不明なものや単なる読者なら作者本人が書いたものと間違える事もあるからです。「ドラえもんの最終回」の件も小学館に学校の先生が授業で使いたいからということで連絡をしてきた事で発覚したと言う話もある位ですから。)
私は、作者の意図しない表現のある二次作が作られるのを防ぐ為に同一保持権利や翻案権があるのだと思います。
そして、イメージを損ねる二次作を制限してこそ、ファンや読者を大切にしていると言う事にならないでしょうか。特に、性的なパロディーの場合はネットでは子供でも容易に見つけられますし、画像検索サイトで良くヒットします。性的な二次作に関して言えば、そういったものが嫌いなファンや読者もいますから、そういった人たちを考慮してやるべきなんじゃないかと思います。
私は「二次作をやるな」とは言いませんが、限イメージを低下させる様なものはネットに載せないとか、個人の趣味の範囲内でやると言った事をやるのが翻案文化をより良く発展させるのではないかとおもいます。
結局は、「個人の趣味範囲での活動」と言うのが、これまで友人や知人など身近な人の間での発表や、イベントでの発表など比較的小規模だったのに対し、ネットが普及することによって全世界の人相手に出来るようになり、さらに発表の場も/.のように多くの人が見てくれる場所で簡単にできるようになり、個人の趣味の範囲が広がったということで法律的にいろいろな問題が出てきているのでしょう。また、情報の共有を容易にするネットや商業ベースを意識しないクリエーティブ・コモンズの思想が出てくるようになり、GPLの概念の様な「著作物は自由に共有できるものであるべきだ」と言う考えが商業ベースの著作物のあり方を見直すきっかけとなっているのでしょう。
// あと、民放連の前会長曰く「テレビのCMをカットするのは著作権侵害」 [srad.jp]らしい。
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Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:4, すばらしい洞察)
>そして、イメージを損ねる二次作を制限してこそ、ファンや読者を大切にしていると言う事にならないでしょうか。
二次著作に当たって、究極的に言えば、作者やそのファンを大事にする必要はないと思います。基本的に尊重されなければならないのは、作者やそのファンの感情ではなく、その二次著作に創作性があるかないかです。その創作性の中には、ある意味で原作のイメージを損ねる事によって得られるもの、というのも存在します。特に、原義的・狭義のパロディ、つまり「批評的・批判的な性質を持つ二次著作物」は、その一種といえます。
それを一概に制限するような形、つまり「作者の意図しない表現のある二次著作物が作られるのを防ぐ」という観点で、著作者の人格権が拡張されるのは、文化の発展に対して望ましい影響を与えるとは思いません。性的なものへの対応は、また別の観点から行われるべきです。未成年者のアクセスなどの対応についてなどは、特に。そこは著作権法上の観点から考えるべき視点ではないと思います。
やはりむしろ、その方向に関しては抑制的にしておいて、その作者への名誉毀損があった場合などにのみ対応できるような方向の方が望ましいのではないでしょうか。その上で、二次著作物には(少なくとも、主要な二次創作部分についての)原著作者と原作品の記述を必ず行う、という方向性へ行くべきだと考えています。
二次著作物のトレーサビリティについては、現在「あかさた」氏(「あかさたの日記」 [hatena.ne.jp])が、「コピトレ」 [copytr.net]というシステムを開発しています。こういった形でのアプローチもある、という事で。紹介のみ。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
=-=-= The Inelegance(無粋な人) =-=-=
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:2, すばらしい洞察)
望んでそこへ向かう事自体の自由は、許されてしかるべきです。それが言論の自由というものだと思います。
それに、それは創作的価値とは全然関係ない部分ですし。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
勿論、言論の自由と言うものはあるでしょうけれど、それだったら自分の創作でやればいいのではないでしょうか。
二次作は、「他人の考えた表現を借りて表現しているもの」にすぎません。それだったら、その原作者に対し敬意を払うのは当然の事であり、少なくとも原作者の名誉を傷つけたり、原作のイメージを低下させるものにならないよう考慮しなければなりません。
逆に、原作の表現をあまり利用せず、原作を良く知っている人から見て「ああ、ここはこれを基に作っているんだな。」程度のものであれば、それがどのような表現であれ規制するのは自由の保障に反するでしょう。
私が、元コメントを書いているときに思い浮かんだのが同人誌の問題でした。二次作の同人誌はあまりにも性的なものが多く、それは性的なものを好まない読者にとっては原作のイメージを低下させると言う事ですが、ネットが普及している現代では検索エンジンで多くが原作の題名を検索しただけで上位に性的な同人誌の画像のあるサイトへのリンクや画像が表示されると言う状態になっています。最近では、GoogleやMicrosoft、Yahoo!など大手はフィルタリングで見えなくしていますが、それでも画像しかおいていないサイトである場合は表示されたり、他の検索エンジンではフィルタリングがないところもありそういった画像が表示されてしまいます。また、個人のブログでもリンク先をたどれば、そういった画像が表示されるサイトにたどり着くなどといったことがあります。もちろん、性的なものだけでなく、中にはあるキャラクターをマッチョにしたものや、あるキャラクターのグロティスクな表現をしたものもあります。
こういったものは、時によっては作者不詳であったり、あるいは日本語の解らない外国人や作者の名前を良く知らない人であれば、絵の質にもよりますが、まず作者のものと思うでしょう。そういったものを見た時は、まず見た人はいい思いはしないと思います。で、原作者にそのことを言ったら「おりゃあ、知らん。」と言う対応をとられたら、結局はイメージの低下にもつながりかねないのです。
創作的価値だけを求めれば消費者(読者)や作家は損をすることが多い。逆に、創作的価値を全く認めずに「二次作禁止」とすれば原作の二次作による新たな発展は失われる。結局のところ、二次作はある程度認めると言う形がいいのだと思います。そして、作家はその線引きを明確にすべきです。
私としては、今の制度は変えずに、せっかくクリエーティブ・コモンズと言う考え方があるのだから、GPL論者のように「知は全て共有しろ」と言うのではなく、こういった「知の共有を許していないもの」と「知の共有を認めているもの」の両立が必要かと思います。そして、そのうちどちらがこれからの時代で上手く行くのかやってみると言うのがいいのではないでしょうか。「知の共有」が上手く行けば、今まで「知の共有をしない」としてきた人たちが「知の共有」をしだすかもしれません。
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Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
>二次作は、「他人の考えた表現を借りて表現しているもの」にすぎません。
>それだったら、その原作者に対し敬意を払うのは当然の事であり、少なくとも原作者の名誉を傷つけたり、
>原作のイメージを低下させるものにならないよう考慮しなければなりません。
それを、著作権法上でやるべきかどうか?
少なくとも、現行法のように「同一性保持権」のような形でやるべきかどうか、というのを疑問視しているのです。名誉毀損などで対処する、という形では何が問題になるのでしょうか。
また、何度も述べるようですが、パロディというのはすでにそれ自体が批評的・批判的表現です。この場合、元になった作品をぶち壊す事自体が「表現」なので、「自分の創作でやればいい」というのはあたりません。さらに、その中に場合によっては性的表現が発生する事もあるでしょう。それを何らかの線引きを一概にしておけるとは思えません。
つまり、名誉毀損的表現に関しては名誉毀損罪などで対応し、著作権法上ではなんらかの補助的な概念があればそれでいいと思います。また、性的表現に関してはその関連する法律で対応すればいい。ゾーニングなどについても(その賛否を含めて)同様です。
>創作的価値だけを求めれば消費者(読者)や作家は損をすることが多い。
意味が不明です。どのような「損失」をお考えですか?
性的問題については、著作権法上で扱うべき概念では無いという事を重ねて主張しておきます。
>結局のところ、二次作はある程度認めると言う形がいいのだと思います。そして、作家はその線引きを明確にすべきです。
著作者・著作権者にその判断を委ねるのは危険です。なぜなら、その作品に対する批判的な二次著作物が生まれにくくなる土壌が発生するからです。特に、その判断を(契約により)著作権者が行えるようになっている場合、著作権者……つまり出版社など、著作権を譲渡された方ですが……が金銭的損害を回避するためだけに批判的な二次著作物を押さえ込む、という展開が考えられます。彼らにとっては商売ですから、当然です。
#著作者人格権は譲渡できませんが、譲渡ではなく代理行使を行う契約を結ぶ事は可能であると考えられます。著作者人格権の非行使、という契約を結ぶ事が可能であるのと同様に、です。
やはり著作者人格権はもう少し限定されたものになるべきだと思います。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
たとえば、漫画からアニメを作る時のことを考えてみましょう。
もし、この理論を適用するならば、「二次作に関しては原作者は何も言うな」というものですから、原作者が子どもを対象にしたものとして書いた作品が、原作者が意図しないグロティスクな表現や、パンチラなどのお色気表現、あるいは原作と話もキャラクターの設定も違うものになっていたとします。また、原作のファンからアニメに対して批判が来ていたとします。
それで、原作者はアニメ製作の監督なりプロデューサなりに「私が描きたいものはこういうものではない。」と言いました。
普通なら、同一保持権を理由に原作者の描いた世界観どおりに書き直されるのですが、この理論を適用すればアニメ側が「原作者でも同一保持を理由とする法的根拠がない。んなら、勝手にやってもいいじゃん。それが、言論の自由しょ。」と反論しても原作者は何も言えませんよね。そして、同一保持を理由に契約を打ちきることもできない。こんなことがまかり通ったら、何のために著作権法があるのか。著作権法は「文化的発展」を目的としていますが、その「文化的発展」はもとになるベルヌ条約からすれば「作者の保護」を目的とした法律なのです。
また、著作権者が作った著作物は著作権者が管理できるものであって、他人がどうこうできるものではないのです。なので、二次作の作品を生まれにくくも何も、作品に対して「二次作は作られたくない。」と原作者が思うのであればそれに従うべきです。また、原作者が良いと行っているのに出版社が・・・っと言うのはおかしな話で、著作者人格権は譲渡できない、つまり原作者には出版社が仮に著作者の名の元に二次作を規制しても、人格権がないのですから原作者が二次作の規制に反対すれば著作者人格権が理由での規制はできません。複製権やその他の著作者人格権いがいの著作権の侵害で規制するのならそれはまた別の話です。
ただ、「著作者人格権の代理行使を行う契約を結ぶ」と言う選択を出きるようにすることは良いとおもいます。しかし、それも今のJASRACのようなことになる恐れがあるので現状では「二次作を規制する」のと何ら変わらないでしょう。
また、著作者人格権や情報の共有をお望みであればクリエーティブ・コモンズなどの考えの作者を支持すれば良いんじゃないかと思います。そして、その考えから生まれた作品の二次作が発展するならばそれはそれで良いと思います。著作者人格権を制限している作品が二次作を制限するために作品の発展が阻害されたのなら、それは著作者の責任であり、それに対して他人がどうこう言うべきではありません。
他人のものを借りて、「借りたものが制限されることが不満だ。自由に使わせろ!」「借り物でも傷つけたり汚しても良い。」というのはちょっとおかしな話だと思いませんか?
盗作や二次作を中心としてしまった東アジアの現状を見てください。
それに、売れている作品の二次作だけを作るようになったら、それはそれで文化の発展にならないと思います。創作や二次作、すでに世に出ている作品のアイディアをもとにして作ったものが両立してこそ文化の発展が出きるのだと思います。
二次作ばかりにたよらずに「二次作は規制されるから、新しいものをつくろう」とおもうことが大切なんだと思います。
// 個人的には、似たものすべてを盗作とするのも文化の発展からするとどうかと思いますが、「似たもの」ばかり作っていると何も発展しないのは確かです。
// 参考文献:著作権法 [e-gov.go.jp] ベルヌ条約パリ改正条約(抄) [cric.or.jp]
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Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
一連のやりとりを読みましたが、私にはexさんの主張の方が腑に落ちます。
「それを著作権法でカバーするの?」というところの話が噛み合っていないように思います。
その他にも色々と思うところはあるのですが、うまく伝える自信がないので躊躇してしまいます。
この辺のところが違和感だと思うのですが、発表してしまったものはもうコントロール不可能なんだというのが私の理解です。それを、作者が、コントロール不可能だと受け入れるか、それとも受け入られないかの違いであり、作者がどんなにいやがっても、それは結局コントロール不可能なんだと理解しています。Li-ionさんは、嫌がる作者にも配慮すべきだというコメントをしていると私は解釈しましたが、作者がいやがってもコントロール不可能なものはコントロール不可能で、著作権法ではフォローできないししてはいけないだろうと私は思います。そして現行の著作権法はそういうコントロールしてはいけないところにまで影響してしまっているところが問題なんだと思います。
評論や批評は二次創作と言えなくもないですが、それが作者の意図しないものだからといって発表を著作権によって抑えるべきでしょうか? 現状でも、作者の意図しない――言いかえれば不本意な――評論でもそれを発表する権利が評論者にあります。また、オリジナルを第一と考え、パロディをそれより劣るものと考える風潮がともすれば創作の世界にはありますが、優秀なオリジナルの作者が出来のいいパロディを作れるかというとそんなことはなくて、パロディを作る才能というのは一次創作とは関係のない独立した才能であると考えていいと思います。そういう才能は、常にパロディできるものを探し、パロディにしたいもをのパロディにするでしょう。そういうとき、元ネタの作者が寛容だったからオーケーで、狭量だったから訴えられるというような状況は、パロディという創作物にとって不幸だと思いますし、パロディを享受し、対価を払う消費者にとっても不幸です。
成人のゾーニングとか名誉毀損については、exさんのコメントにもあるように別の問題であり、また、パロディの作者が作者を偽ったりしたら今までと同じように罰せられていいと思いますが、作者やファンが不快に感じる可能性があるものは著作権法違反というのは著作権とは違うと思います。
LIVE-GON(リベゴン)
Re: (スコア:0)
でも、それを放置するのも問題やし、別の方法で対処できるんかね? 作品によっちゃあ二次作によって作者の名誉にもかかわることもあるんよ。
>評論や批評は二次創作と言えなくもないですが、それが作者の意図しないものだからといって発表を著作権によって抑えるべきでし
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
よく読みましたが、やはり二つの問題をごっちゃにしているように思います。
二次創作で作者の名誉にかかわるという状況が分かりません。名誉に関わるとしたら、それが二次創作だからではなくて、不当に作者を貶めるものだからではないでしょうか?(作品を貶めるのと作者を貶めるのとは区別しています) 名誉毀損の例の挙げかたが難しいですが、例えば、二次創作の作品中に、元ネタの作者は性倒錯者といった根拠のない主張をした場合、それは別に二次創作による著作権法違反ではないですよね?
おそらく、名誉毀損でデリケートなのは芸能人をネタにした二次創作などだと思いますが、デリケートすぎるのでここでは除外していいですか? すいません。
パロディを放置するのが問題であるという理由がやはりよく分かりません。元ネタの作者やファンが不愉快だから放置するのが問題だということであれば、そういう考えの方が問題なんじゃないかと思います。どんな作品でも不愉快になる人はいます。不愉快過ぎて訴えられる芸術家もいます。けど、それは著作権の侵害なんですか? 作者を騙ったわけでもネタをパクったわけでもないですよ。
結局そういう考え方をあなたがしてしまうのであればしょうがないとは思います。また、そういう考え方が感情的に支配的なのは認めます。しかし、パクリとパロディは明確に区別しないといけないでしょう。パロディだったら、元ネタのファンが不愉快だからといって著作権でコントロールするものではないと思います。パロディの著作権はパロディの作者が持っていて、元の作者への敬意が関係してはいけないと思います。日本の著作権は残念なことにそうではないようですが。
また、コメントに反応しますが、作者への敬意というのであれば、パロディの作者への敬意は、今も昔もないがしろにされたままだと思います。他人の褌で相撲を取っている卑怯者といった評価ばかりです。パロディの才能を認め、評価してもいいのではないかと思います。
#ヨーロッパではパロディが文化としてきちんと評価されていると聞いたことがありますが、とりあえず日本の話に限定しておきます。
これもコメントですが、それはまさにパロディ作品に対する検閲であり、内容によって発表されるものが差別されてはいけませんよ(これは理想論であり、実際にはポルノなどは規制の対象ですが、それはまた次の問題です)。
LIVE-GON(リベゴン)
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:2, 参考になる)
二次作をまったく自由に作って良いとは言いませんが、原作者がすべてをコントロールできると言う考え方はいかがかと思います。特に日本の原作者は全てをコントロールする考え方が強いようです。某有名歌手と作詞者の問題もありました。私自身は、いくら原作者でもあそこまでオリジナルを強制するのはどうかなと思います。
一度世の中に、著作物を出したなら、それが作者の意図とは異なる形で解釈されるのは避けられないことです。解釈の一つの形として、パロディ等の二次作も作られるでしょう。結局、文化の発展と言う観点から見た、裁量の問題と考えます。
ご存知の様に、ディズニーのキャラクターの多くは、グリム童話から来ていますが、性格はまったく違っています。「本当は残酷なグリム童話」と言う本もあります。そのグリム童話を子供も楽しめる物語りに変えたのはウォルトディズニーの創造性ですが、グリム兄弟は原作を傷つけられたと主張するかもしれません。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
そうなると、単に文化的善悪だけで考える訳にはいきません。文化的な発展を望むのなら「著作物の共有や二次作の作成・配布は自由に認められるべき」と言う事になるのでしょうが、経済的な観点からは「著作物共有の自由化は著作物によって生活している人にとっては利益を半減させる恐れがあり、また、二次作の作成・配布の自由化も消費者(読者、視聴者など)の著作物に対するイメージの低下を招くことになり結局は利益を半減させる恐れがある。」と言う事がいえるでしょう。
ただし、二次作といっても必ずしも悪い方になる訳ではなく、例えば今日の童話や昔話等は様々な形で作者以外の誰かが変更を加えて成り立ったものが多くあります。例えば、「シンデレラ(灰かぶり姫)」や「桃太郎」はより子供向けにする為に「シンデレラによる復讐」が消されたり、「桃太郎はおじいさんとおばあさんのこども」と言う事が「桃から生まれた」に書き換えられています。
私としては、「二次作はやりたい放題!!」と考えるのは良いものとは思いません。ただ、日本の著作者はあまりにも全てをコントロールすると言う考えが多いのは確かです。しかし、それは作者次第で結局は「どういう形であれ自分の作品が多くの人に見てもらえて、そこで見た人が新たに作品の続きを考えてくれればいい。」と言う作者もおられます。私自身もものづくりをする際に「人の為に何か役立てるもの」を考えていますので、こういう考えには同調できます。
ただ、著作者の中には「私の思ったものをそのままの形で消費者につたえたい」という方や「作者と消費者は一体の関係であらねばならず、作者は消費者の期待に答えなければならないし、消費者の作品に対するイメージを大切にしなければならない」と言う方もおられます。
私としては、「私が思ったものをそのまま伝えろ!」と言うのは行き過ぎだと思いますが、商用主義の世の中で「消費者(読者、視聴者など)の事を考えてくれる作者」は大切にしたいと思います。言ってみれば、消費者を大事にする作家と言うのは何も、二次作を全て否定するのではなく、二次作をある程度認めた上でファンの作品に対するイメージを低下させ、それが明らかに個人的な範囲をこえているもの(公的なネット上での配布など)は制限を加えると言うものの方が文化的な観点からも経済的な観点からも両立しているのではないでしょうか。
また、私は今の著作権の制度で十分だと思います。今の制度は著作者次第で著作物の流通を制御できるものです。しかし、その制度でないと困る人もいるでしょうし、制度が変われば「私の作品が悪いイメージにされるのなら公表したくない」と言う作家もでてくるでしょうし、やりたい放題の二次作に不満を覚える消費者もいるでしょうし、いろいろな弊害が生まれるかもしれません。
しかし、私はクリエーティブ・コモンズやGPLなど知的財産の共有は決して悪いものではなく、こういう意識を持った作家が多く生まれ知を共有し合い新たな文化を築く事も、それはそれでいいじゃないかと思います。
ただ、大切なのは熱狂的なGPL支持者のように「全て共有すべきだ」という主張をしない事です。結局のところ両立が大切であり、「知の共有ができる著作物」と「知の共有が制限されている著作物」の両方が存在し、互いが刺激し合って文化的な発展が出来ると言うのが良いのではと思います。
そして、最終的にどちらの方が発展するかの方が大切であり、もし、知の共有と言う考えが上手く行けば、今まで「共有を制限する」としていた人たちが「知の共有」をするようになるかもしれません。わたしは、知の共有を望むのなら、クリエーティブ・コモンズの考え方をより浸透させ多くの作家がこれに共感し「知の共有」をする作家が多く生まれるようにすことの方を第一に考えるべきだと思います。
// 著作権と言う概念が無かった昔のように、この世に生きる(生きた)全ての人が知の共有をし一つの物語が出来る世界。
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