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そんなリスクのある臓器、使いたがるかなぁ
>ALS とは筋肉を動かす神経系の障害によって筋肉を動かす信号が伝わらなくなり、次第に筋力が衰える病。筋力は衰えても知能や視力、また内臓機能は衰えることはない。
日本語読めますか?
あと、余命幾許かの人だったら、藁にもすがる思いだろうにその程度のことも想像できませんかね。明日死ぬためには今日を生きぬかなくてはいけないんですが。
>次第に筋力が衰える病。筋力は衰えても知能や視力、また内臓機能は衰えることはない。「衰えない」とは言ってるが、「その臓器や血液経由で感染する恐れがない」とは言ってないよね。(リンク先Wikipediaだと「初めて報告されたのは19世紀でありながら、原因は未だに不明である。」)今までそういう移植が行われた前例も無さそうだし、安全性は未知数なんでは。
>余命幾許かの人だったら、藁にもすがる思いだろうに馬鹿な。
患者の不安につけ込んで、効果の少ない(あるいは「ない」)治療を施すことが、医師の倫理で許されるとでも?
>>余命幾許かの人だったら、藁にもすがる思いだろうに>馬鹿な。>患者の不安につけ込んで、効果の少ない(あるいは「ない」)治療を施すことが、>医師の倫理で許されるとでも?
製薬における臨床試験は、そうですよ。それなりの数の患者が、効果があるかないかわからない薬剤を投与されそれと同数の患者が効果がないと分かっている偽薬を投与される。
末期がん患者のための抗がん剤の試験なんて過酷です。新薬で治癒する可能性が低いのはともかく、偽薬ならそのまま死ぬに決まっている患者に偽薬を投与するわけですから。
えーと、誤解を与えるといけないので。
臨床試験は全てにおいて偽薬を対象に置くとは限りません。さすがに「放置したら急激に悪化することが確実」なケースにおいて「新薬と偽薬とで対照試験を行う」ことはしません。
そういう時は「効果があると分かっている既存薬」と「新薬」とを用いて比較し、「同等以上の効果があるか」という観点で確認します。あるいは、無治療リスクを軽減させるために「元の治療+治験薬(偽薬 or 新薬)」という形で行う場合もあります。
なのでその場合の患者のリスクは「新薬が全く効かないかも」というものであって、単純に「偽薬の人は無治療」にはなりません。(新薬の副作用や、複合治療による相互作用のリスクが別途ありますが)
ちょっと考えたら過酷過ぎるよ!なんて試験は、さすがにやる前に当局(国)から止められますって。
#あと実薬と偽薬の数は同数とは限らないとか色々ありますが余談なので省略
まず、これまで、治験を最初に実行するのは米国が多いです。最近では、アジア諸国なども最初の治験対象として選択されます。
認可のハードルが相対的に低いことと、認可された場合の市場が大きいことが選択理由です。米国で認可を得るにはFDAによって定められた全ての試験を機械的に一定サンプル数行うことが要求されます。また、偽薬より優れることを示すことは、すべての治験に求められ、対照試験として必要なサンプル数は、他の投与ケースと同数です。
末期がん患者用の新薬の治験であれば、放置すれば死が確実な患者が治験対象となりこの場合、医師はランダ
FDAが他国と比べ特に強くプラセボ対照試験を要求するのは事実ですが、「全ての試験で必ず実施しなければならない」というような書き方はさすがに誤りです。また後半も誤りとまでは言えませんが若干おどろおどろしい書き方がされているように思われます。
例えば>遺伝子治療などでと化学薬剤との同時治験では全く有意性を示すことができませんので、これは避けられない試験です。こういうものは、少なくとも最初は「他の治療法では良い効果が見込めない」「現在の治療法では副作用が大きい/効果が出る可能性が高くない」患者を対象におきます。また「治療からイベント(治
病変患者の移植を倫理的として批判することを不公平だと言うために、末期がん患者用の新薬の治験の場合を提示して「そういう場合もある」と言っているのに、「そういうものばかりではない」と主張されても無意味でしょう。
治癒のみこみのない患者の臓器を摘出することと比較して、どちらが不道徳だと主張するつもりはないですが、どちらかが殺人で、どちらかが殺人ではないという結論は得られないように思います。
そもそも末期がん患者とは治癒のみこみがない患者であって、彼らが新薬治験に参加するときは「藁にもすがる」思いで参加するか、なんらかの悟りand/or開
前のコメント内でも書いているように、あなたの挙げている内容自体が間違っていると言うつもりはありません。あなたのコメントからは、あなたの意図がどうあれ読む方に偏った印象を与えるのではないかと危惧して、補足しているのです。
例えば>被験者利益を検討する場などはほとんどないと思います。何を称して「ほとんどない」と断じているのか分かりませんが、治験の内容を検討する機会は様々な方を相手として会社内外で幾度も設けられ、その中で被験者利益についてももちろん検討します。また科学的妥当性と被験者利益は一本のものさしの両端ではありません。一方を
>>被験者利益を検討する場などはほとんどないと思います。>何を称して「ほとんどない」と断じているのか分かりませんが、治験の内容を検討する機会は様々な方>を相手として会社内外で幾度も設けられ、その中で被験者利益についてももちろん検討します。>また科学的妥当性と被験者利益は一本のものさしの両端ではありません。一方をより増加させるた>めに、もう一方が必ず犠牲になる、という主張なら誤りです。
ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、そもそも被験者利益を考慮する必要はないでしょう。被験者利益と科学的
>ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、そもそも被験者利益を考慮する必要はないでしょう。
あなたの言葉における「被験者利益を損ねないのならば」という部分。そこには判断があるわけですよね。あなたの元のコメントでは、そもそも頭っからそういう判断が行われないまま、科学的妥当性や規制だけを元に計画が組まれているかのような印象を受けました。
通常、治験の計画を立てる際には、純粋な科学的妥当性や規制当局による各種規定の他、倫理面や被験者利益をも考慮して妥当性を図る検討会が実施されます。社内ではもちろんのこと、医療機関に
>>ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、そもそも被験者利益を考慮する必要はないでしょう。>>あなたの言葉における「被験者利益を損ねないのならば」という部分。そこには判断があるわけですよね。
私:科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択するなどということはあり得ません
あなた:科学的妥当性と被験者利益は一本のものさしの両端ではありません。一方をより増加させるために、もう一方が必ず犠牲になる、という主張なら誤りです。
私:ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、
>で、あなたは、どうやって科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択することがあると結論するつもりなんだい?
「科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択するなどということはあり得ません」に対する反論ですから、反証が一つあればいいんですよね。
例えば、「治験においては併用薬・併用療法を禁止した方が治験薬の有効性をはかる観点で科学的妥当性が高い」(相互作用等を排除するのが難しい)ですが、実際は被験者利益を考慮し完全に禁止することはありません。どこまで制限・禁止するかは科学的妥当性のみの判断ではなく、倫理性による判
>「科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択するなどということはあり得ません」に対する反論ですから、反証が一つあればいいんですよね。そうです、「被験者利益を選択して、科学的に妥当でない結論を得る試行をする」例をひとつだけでも上げてくれればそれで十分です。でもそんなことはあり得ないのです。命題をこうやって書き下せば、それがいかに被験者を冒涜する行為なのか分かるでしょ?あなたの言っている言葉には論理性が欠如しているんですよ。
---
>例えば、「治験においては併用薬・併用療法を禁止した方が治験薬の有効性をはかる観点で科
>そうです、「被験者利益を選択して、科学的に妥当でない結論を得る試行をする」例をひとつだけでも上げてくれればそれで十分です。でもそんなことはあり得ないのです。命題をこうやって書き下せば、それがいかに被験者を冒涜する行為なのか分かるでしょ?あなたの言っている言葉には論理性が欠如しているんですよ。
違う違う、言葉の定義範囲の問題です。目的としているところは同じなのに、互いの使っている言葉の定義範囲が異なっているのでかみ合わないのです。おそらく私が区別している「科学的妥当性」と「被験者利益」はあなたにとって「科学的妥当性」に含まれている、ということ、あなたが「科学的妥当性」という言葉について、私と比較して非常に広義に捉えているということです。また、私は常に「一つの治験のプロトコル」について話しているのですが、あなたはどうやら「最初から最後までの複数の試験の総合」について話しているようです。(ところで、あなたはなぜIRBについて言及しないのでしょうか)
あと、何度も似たようなことを書いているのですが、100:0じゃないんですからなんで被験者利益を増そうとすると科学的妥当性がゼロになっちゃうんですか。
>「治験においては併用薬・併用療法を禁止した方が治験薬の有効性をはかる観点で科学的妥当性が高い」とは限らないでしょう。化学構造、 主要な薬理作用などが類似している、既に販売されている医薬品を比較対照薬がある場合ならば、既知の薬剤との比較対照試験は合理性を持ちます。
既存薬との比較が合理性を持つことが、引用部分の反証にはなりませんよ。私はジェネリックの話はしておりませんし。下で出てくる疲労云々をここで出してくるのが妥当です。とはいえ、一つの理想状態として、他薬の存在は無いほうが目的薬の有効性評価がしやすい、という持論を曲げるつもりはありませんが。(安全性は別ですよ)(ここは被験者利益とは無関係に、科学的妥当性の話ですね)
>痛みによって患者を疲労させてしまっては、疾患の影響と痛みの影響を区別することが困難になります。
誤解があります。そんなことを話したわけではありません。他の方のため、極端に模式化した例を挙げましょう。1~5の痛みを持つ人が10人いて、既存薬で2、新薬で3減らすことが期待できるとしましょう(既存薬と新薬は相互作用なく、別のメカニズムで効くとします)。偽薬では1,2,3,4,5、既存薬の方は0,0,1,2,3、新薬の方は0,0,0,1,2、既存薬+新薬で0,0,0,0,0となります。偽薬vs新薬であれば差は明白です。一方「ベース治療を認める」とすると、既存薬vs既存薬+新薬となり、差が小さくなることが分かります。科学的により望ましいのは前者ですが、被験者利益を考えれば後者が望ましいわけです。どちらが現実に選択されるかは、(最初に排除した条件の他)それぞれの強度でも変わってくるのが分かると思います。(既存薬と新薬の差が大きいなら後者で問題ない)
そして、メカニズムがかぶるのであれば、言うまでも無くその薬剤は併用禁止にしなければ評価のしようがありません。(ここも被験者利益とは無関係、科学的妥当性の話ですね)
>当然、痛み止めのある場合と、痛み止めの無い場合は両方試行します。これは痛み止めとの複合作用があるからです。したがって、完全に禁止したら、科学的妥当性は担保できなくなります。
市販後試験とそれ以外をいっぺんに話していませんか?
薬剤間の相互作用を見る(安全性試験)ことと、薬剤の有効性を判断する(有効性試験)は、必ずしも一つの試験で全てをはかる必要はありませんよね?有効性をみるため、併用制限・禁止薬を厳しめに設定する治験中期と、様々な既存薬との相互作用をも考慮する治験終期とではプロトコルの内容も変わっていきます。
私は何もある治験薬についてⅠ相から市販後まで全てにおいて他薬を禁止しろと言っているわけではありません。(そんなのは相互作用で重大な副作用がある場合のみです)有効性を見る場合、効果が重なる薬剤は制限なり禁止なりする方が妥当な場合がある、と言っているんです。(ここは若干被験者利益が関わってきます。早期の治験で併用禁止・制限を厳しくとるのは被験者の安全性の確保のためです)
>ある選択肢を禁止したほうが科学的妥当性が担保できるなどということはあり得ません。
ある目的において、条件を絞り込んだ方が結果の評価が容易になる、ということはよくあることだと思うのですが。
>考えられるできるだけ多くの組合せを試行したほうが正しい推定に近付くというのは科学の常識です。
そのため、Ⅰ相とⅡ相とⅢ相と市販後ではそれぞれ異なった条件で試験を行います。より前の相では制限は厳しくなるのが一般的です。
>そして、科学的妥当性を犠牲にして被験者利益を優先するなどということはありません。
ここです。何かおかしい。「犠牲にする」って「ゼロにする」じゃないといけないんですか?また、ヘルシンキ宣言をなんだと思ってるんですか?(厳しい科学的妥当性やプラセボを要求しているのもヘルシンキ宣言ですけどね)まだ「被験者利益というのは被験者を登録するための方便で、結局は治験を成立させるためのコストの一つにすぎない」と言われたのであれば納得します。
私は別に「科学的妥当性が皆無になるほど被験者に有利な条件に変えることがある」と言っているのではありません。例えば、有効性評価として服薬量と効果の直線関係を調べる試験があります。このとき、その治験薬の効果は15mgで出始め、35mgあたりで頭打ちになるとします(ただし未だ確認されておりません)。副作用は20mgから出始め、40mgでは生命の危険が予想されるとしましょう(こちらは以前の安全性試験からの推定です)。副作用がなければ、0,20,40(あるいはもっと上)といった用量で試験を行うことが望ましい。ですが40mgは被験者にとって危険があることがわかっています。そこで、「この試験では」0,15,30あたりを設定用量として行ったりするわけです。
これを、「被験者に危険があるということは科学的事実。よってそれを考慮するのは科学的に妥当だ」と言うのがあなたの主張なのでしょう。私はそこを「科学的妥当性を犠牲にして被験者利益を考慮する」と呼んでいるんです。このケースにおいて、「絶対40mgでこの試験を行わなければFDAは許可しない」というのであれば、それは現状をあまりに無視した主張です。
ある化合物のヒトの致死量を知る最も科学的に確実な手段は「ヒトに死ぬまで投与する」ですが、それは(少なくとも治験としては)「倫理的に」許されませんよね。#類似する光景が末期疾患への治験/治療で見られることは否定しませんが、決してイコールではありません。
補足、というか訂正です。
齟齬があるのは定義範囲じゃなくて定義そのものですね。
「科学的妥当性を犠牲にして」というのを、合格点が60/100点の設定で「59点以下にする」と捉えるのか、「100点を狙うわけではない」と捉えるのか、ですれ違っていたのかと。その意味であれば、「科学的妥当性を犠牲にして被験者利益を考慮する」というケースはあり得ないということに同意します。
#ただし「治験において被験者利益を考慮することがほとんどない」という元々の話に同意はしませんが。#あらゆる臨床試験は、治験審査委員会(IRB)にて(試験の実施可能性や医学的妥当性の他に)被験者の人権や倫理性、安全性に問題がないか審議することが要求されています。#ここでは被験者のことは無視し、コストと規制のみと科学的妥当性のみを判断基準とする、などということはありません。(「IRBは規制要件の内の一つだ」と言われるのかな)
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目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない -- Eric Raymond
倫理は別として (スコア:0)
そんなリスクのある臓器、使いたがるかなぁ
Re: (スコア:0)
>ALS とは筋肉を動かす神経系の障害によって筋肉を動かす信号が伝わらなくなり、次第に筋力が衰える病。筋力は衰えても知能や視力、また内臓機能は衰えることはない。
日本語読めますか?
あと、余命幾許かの人だったら、藁にもすがる思いだろうに
その程度のことも想像できませんかね。
明日死ぬためには今日を生きぬかなくてはいけないんですが。
Re: (スコア:1)
>次第に筋力が衰える病。筋力は衰えても知能や視力、また内臓機能は衰えることはない。
「衰えない」とは言ってるが、「その臓器や血液経由で感染する恐れがない」とは言ってないよね。
(リンク先Wikipediaだと「初めて報告されたのは19世紀でありながら、原因は未だに不明である。」)
今までそういう移植が行われた前例も無さそうだし、安全性は未知数なんでは。
>余命幾許かの人だったら、藁にもすがる思いだろうに
馬鹿な。
患者の不安につけ込んで、効果の少ない(あるいは「ない」)治療を施すことが、
医師の倫理で許されるとでも?
Re: (スコア:1, 参考になる)
>>余命幾許かの人だったら、藁にもすがる思いだろうに
>馬鹿な。
>患者の不安につけ込んで、効果の少ない(あるいは「ない」)治療を施すことが、
>医師の倫理で許されるとでも?
製薬における臨床試験は、そうですよ。
それなりの数の患者が、効果があるかないかわからない薬剤を投与され
それと同数の患者が効果がないと分かっている偽薬を投与される。
末期がん患者のための抗がん剤の試験なんて過酷です。
新薬で治癒する可能性が低いのはともかく、偽薬ならそのまま死ぬに決まっている患者に
偽薬を投与するわけですから。
Re: (スコア:4, 参考になる)
えーと、誤解を与えるといけないので。
臨床試験は全てにおいて偽薬を対象に置くとは限りません。
さすがに「放置したら急激に悪化することが確実」なケースにおいて「新薬と偽薬とで対照試験を行う」ことはしません。
そういう時は「効果があると分かっている既存薬」と「新薬」とを用いて比較し、「同等以上の効果があるか」という観点で確認します。
あるいは、無治療リスクを軽減させるために「元の治療+治験薬(偽薬 or 新薬)」という形で行う場合もあります。
なのでその場合の患者のリスクは「新薬が全く効かないかも」というものであって、単純に「偽薬の人は無治療」にはなりません。
(新薬の副作用や、複合治療による相互作用のリスクが別途ありますが)
ちょっと考えたら過酷過ぎるよ!なんて試験は、さすがにやる前に当局(国)から止められますって。
#あと実薬と偽薬の数は同数とは限らないとか色々ありますが余談なので省略
Re: (スコア:1, 参考になる)
まず、これまで、治験を最初に実行するのは米国が多いです。最近では、
アジア諸国なども最初の治験対象として選択されます。
認可のハードルが相対的に低いことと、認可された場合の市場が大きいことが選択理由です。
米国で認可を得るにはFDAによって定められた全ての試験を機械的に一定サンプル数
行うことが要求されます。また、偽薬より優れることを示すことは、すべての治験に求め
られ、対照試験として必要なサンプル数は、他の投与ケースと同数です。
末期がん患者用の新薬の治験であれば、放置すれば死が確実な患者が治験対象となり
この場合、医師はランダ
Re: (スコア:1)
FDAが他国と比べ特に強くプラセボ対照試験を要求するのは事実ですが、「全ての試験で必ず実施しなければならない」というような書き方はさすがに誤りです。
また後半も誤りとまでは言えませんが若干おどろおどろしい書き方がされているように思われます。
例えば
>遺伝子治療などでと化学薬剤との同時治験では全く有意性を示すことができませんので、これは避けられない試験です。
こういうものは、少なくとも最初は「他の治療法では良い効果が見込めない」「現在の治療法では副作用が大きい/効果が出る可能性が高くない」患者を対象におきます。
また「治療からイベント(治
Re: (スコア:0)
病変患者の移植を倫理的として批判することを不公平だと言うために、末期がん患者用の新薬の治験の場合を提示して「そういう場合もある」と言っているのに、「そういうものばかりではない」と主張されても無意味でしょう。
治癒のみこみのない患者の臓器を摘出することと比較して、どちらが不道徳だと主張するつもりはないですが、どちらかが殺人で、どちらかが殺人ではないという結論は得られないように思います。
そもそも末期がん患者とは治癒のみこみがない患者であって、彼らが新薬治験に参加するときは「藁にもすがる」思いで参加するか、なんらかの悟りand/or開
Re: (スコア:1)
前のコメント内でも書いているように、あなたの挙げている内容自体が間違っていると言うつもりはありません。
あなたのコメントからは、あなたの意図がどうあれ読む方に偏った印象を与えるのではないかと危惧して、補足しているのです。
例えば
>被験者利益を検討する場などはほとんどないと思います。
何を称して「ほとんどない」と断じているのか分かりませんが、治験の内容を検討する機会は様々な方を相手として会社内外で幾度も設けられ、その中で被験者利益についてももちろん検討します。
また科学的妥当性と被験者利益は一本のものさしの両端ではありません。一方を
Re: (スコア:0)
>>被験者利益を検討する場などはほとんどないと思います。
>何を称して「ほとんどない」と断じているのか分かりませんが、治験の内容を検討する機会は様々な方
>を相手として会社内外で幾度も設けられ、その中で被験者利益についてももちろん検討します。
>また科学的妥当性と被験者利益は一本のものさしの両端ではありません。一方をより増加させるた
>めに、もう一方が必ず犠牲になる、という主張なら誤りです。
ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、そもそも被験者利益を考慮する必要はないでしょう。被験者利益と科学的
Re: (スコア:1)
>ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、そもそも被験者利益を考慮する必要はないでしょう。
あなたの言葉における「被験者利益を損ねないのならば」という部分。そこには判断があるわけですよね。
あなたの元のコメントでは、そもそも頭っからそういう判断が行われないまま、科学的妥当性や規制だけを元に計画が組まれているかのような印象を受けました。
通常、治験の計画を立てる際には、純粋な科学的妥当性や規制当局による各種規定の他、倫理面や被験者利益をも考慮して妥当性を図る検討会が実施されます。
社内ではもちろんのこと、医療機関に
Re: (スコア:0)
>>ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、そもそも被験者利益を考慮する必要はないでしょう。
>>あなたの言葉における「被験者利益を損ねないのならば」という部分。そこには判断があるわけですよね。
私:
科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択するなどということはあり得ません
あなた:
科学的妥当性と被験者利益は一本のものさしの両端ではありません。一方をより増加させるために、もう一方が必ず犠牲になる、という主張なら誤りです。
私:
ある統計的事実を実証するために、被験者利益を損ねないのならば、
Re: (スコア:1)
>で、あなたは、どうやって科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択することがあると結論するつもりなんだい?
「科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択するなどということはあり得ません」に対する反論ですから、反証が一つあればいいんですよね。
例えば、「治験においては併用薬・併用療法を禁止した方が治験薬の有効性をはかる観点で科学的妥当性が高い」(相互作用等を排除するのが難しい)ですが、
実際は被験者利益を考慮し完全に禁止することはありません。
どこまで制限・禁止するかは科学的妥当性のみの判断ではなく、倫理性による判
Re: (スコア:0)
>「科学的妥当性を犠牲にして、被験者利益を選択するなどということはあり得ません」に対する反論ですから、反証が一つあればいいんですよね。
そうです、「被験者利益を選択して、科学的に妥当でない結論を得る試行をする」例をひとつだけでも上げてくれればそれで十分です。でもそんなことはあり得ないのです。命題をこうやって書き下せば、それがいかに被験者を冒涜する行為なのか分かるでしょ?あなたの言っている言葉には論理性が欠如しているんですよ。
---
>例えば、「治験においては併用薬・併用療法を禁止した方が治験薬の有効性をはかる観点で科
Re:倫理は別として (スコア:1)
>そうです、「被験者利益を選択して、科学的に妥当でない結論を得る試行をする」例をひとつだけでも上げてくれればそれで十分です。でもそんなことはあり得ないのです。命題をこうやって書き下せば、それがいかに被験者を冒涜する行為なのか分かるでしょ?あなたの言っている言葉には論理性が欠如しているんですよ。
違う違う、言葉の定義範囲の問題です。目的としているところは同じなのに、互いの使っている言葉の定義範囲が異なっているのでかみ合わないのです。
おそらく私が区別している「科学的妥当性」と「被験者利益」はあなたにとって「科学的妥当性」に含まれている、ということ、
あなたが「科学的妥当性」という言葉について、私と比較して非常に広義に捉えているということです。
また、私は常に「一つの治験のプロトコル」について話しているのですが、あなたはどうやら「最初から最後までの複数の試験の総合」について話しているようです。
(ところで、あなたはなぜIRBについて言及しないのでしょうか)
あと、何度も似たようなことを書いているのですが、100:0じゃないんですからなんで被験者利益を増そうとすると科学的妥当性がゼロになっちゃうんですか。
>「治験においては併用薬・併用療法を禁止した方が治験薬の有効性をはかる観点で科学的妥当性が高い」とは限らないでしょう。化学構造、 主要な薬理作用などが類似している、既に販売されている医薬品を比較対照薬がある場合ならば、既知の薬剤との比較対照試験は合理性を持ちます。
既存薬との比較が合理性を持つことが、引用部分の反証にはなりませんよ。私はジェネリックの話はしておりませんし。
下で出てくる疲労云々をここで出してくるのが妥当です。
とはいえ、一つの理想状態として、他薬の存在は無いほうが目的薬の有効性評価がしやすい、という持論を曲げるつもりはありませんが。(安全性は別ですよ)
(ここは被験者利益とは無関係に、科学的妥当性の話ですね)
>痛みによって患者を疲労させてしまっては、疾患の影響と痛みの影響を区別することが困難になります。
誤解があります。そんなことを話したわけではありません。他の方のため、極端に模式化した例を挙げましょう。
1~5の痛みを持つ人が10人いて、既存薬で2、新薬で3減らすことが期待できるとしましょう(既存薬と新薬は相互作用なく、別のメカニズムで効くとします)。
偽薬では1,2,3,4,5、既存薬の方は0,0,1,2,3、新薬の方は0,0,0,1,2、既存薬+新薬で0,0,0,0,0となります。
偽薬vs新薬であれば差は明白です。一方「ベース治療を認める」とすると、既存薬vs既存薬+新薬となり、差が小さくなることが分かります。
科学的により望ましいのは前者ですが、被験者利益を考えれば後者が望ましいわけです。
どちらが現実に選択されるかは、(最初に排除した条件の他)それぞれの強度でも変わってくるのが分かると思います。(既存薬と新薬の差が大きいなら後者で問題ない)
そして、メカニズムがかぶるのであれば、言うまでも無くその薬剤は併用禁止にしなければ評価のしようがありません。
(ここも被験者利益とは無関係、科学的妥当性の話ですね)
>当然、痛み止めのある場合と、痛み止めの無い場合は両方試行します。これは痛み止めとの複合作用があるからです。したがって、完全に禁止したら、科学的妥当性は担保できなくなります。
市販後試験とそれ以外をいっぺんに話していませんか?
薬剤間の相互作用を見る(安全性試験)ことと、薬剤の有効性を判断する(有効性試験)は、必ずしも一つの試験で全てをはかる必要はありませんよね?
有効性をみるため、併用制限・禁止薬を厳しめに設定する治験中期と、様々な既存薬との相互作用をも考慮する治験終期とではプロトコルの内容も変わっていきます。
私は何もある治験薬についてⅠ相から市販後まで全てにおいて他薬を禁止しろと言っているわけではありません。(そんなのは相互作用で重大な副作用がある場合のみです)
有効性を見る場合、効果が重なる薬剤は制限なり禁止なりする方が妥当な場合がある、と言っているんです。
(ここは若干被験者利益が関わってきます。早期の治験で併用禁止・制限を厳しくとるのは被験者の安全性の確保のためです)
>ある選択肢を禁止したほうが科学的妥当性が担保できるなどということはあり得ません。
ある目的において、条件を絞り込んだ方が結果の評価が容易になる、ということはよくあることだと思うのですが。
>考えられるできるだけ多くの組合せを試行したほうが正しい推定に近付くというのは科学の常識です。
そのため、Ⅰ相とⅡ相とⅢ相と市販後ではそれぞれ異なった条件で試験を行います。より前の相では制限は厳しくなるのが一般的です。
>そして、科学的妥当性を犠牲にして被験者利益を優先するなどということはありません。
ここです。何かおかしい。「犠牲にする」って「ゼロにする」じゃないといけないんですか?
また、ヘルシンキ宣言をなんだと思ってるんですか?(厳しい科学的妥当性やプラセボを要求しているのもヘルシンキ宣言ですけどね)
まだ「被験者利益というのは被験者を登録するための方便で、結局は治験を成立させるためのコストの一つにすぎない」と言われたのであれば納得します。
私は別に「科学的妥当性が皆無になるほど被験者に有利な条件に変えることがある」と言っているのではありません。
例えば、有効性評価として服薬量と効果の直線関係を調べる試験があります。
このとき、その治験薬の効果は15mgで出始め、35mgあたりで頭打ちになるとします(ただし未だ確認されておりません)。
副作用は20mgから出始め、40mgでは生命の危険が予想されるとしましょう(こちらは以前の安全性試験からの推定です)。
副作用がなければ、0,20,40(あるいはもっと上)といった用量で試験を行うことが望ましい。
ですが40mgは被験者にとって危険があることがわかっています。そこで、「この試験では」0,15,30あたりを設定用量として行ったりするわけです。
これを、「被験者に危険があるということは科学的事実。よってそれを考慮するのは科学的に妥当だ」と言うのがあなたの主張なのでしょう。
私はそこを「科学的妥当性を犠牲にして被験者利益を考慮する」と呼んでいるんです。
このケースにおいて、「絶対40mgでこの試験を行わなければFDAは許可しない」というのであれば、それは現状をあまりに無視した主張です。
ある化合物のヒトの致死量を知る最も科学的に確実な手段は「ヒトに死ぬまで投与する」ですが、それは(少なくとも治験としては)「倫理的に」許されませんよね。
#類似する光景が末期疾患への治験/治療で見られることは否定しませんが、決してイコールではありません。
Re:倫理は別として (スコア:1)
補足、というか訂正です。
齟齬があるのは定義範囲じゃなくて定義そのものですね。
「科学的妥当性を犠牲にして」というのを、合格点が60/100点の設定で「59点以下にする」と捉えるのか、「100点を狙うわけではない」と捉えるのか、ですれ違っていたのかと。
その意味であれば、「科学的妥当性を犠牲にして被験者利益を考慮する」というケースはあり得ないということに同意します。
#ただし「治験において被験者利益を考慮することがほとんどない」という元々の話に同意はしませんが。
#あらゆる臨床試験は、治験審査委員会(IRB)にて(試験の実施可能性や医学的妥当性の他に)被験者の人権や倫理性、安全性に問題がないか審議することが要求されています。
#ここでは被験者のことは無視し、コストと規制のみと科学的妥当性のみを判断基準とする、などということはありません。(「IRBは規制要件の内の一つだ」と言われるのかな)