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数学

taro-nishinoの日記: エルゼヴィアに対するボイコットが速度を速める

日記 by taro-nishino

前回紹介した"ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー"の前置きの中でガゥワーズ卿のエルゼヴィアに対するボイコット、いわゆる"知識の代償"と呼ばれる運動にほんの少しだけ言及しました。あまり詳しく書かなかったのは、この運動が有名で、おそらく日本でもかなりの人が知っていると思っていたからです。私の友人共は研究者なのだから当然知っていますが、知り合いと言うだけであまり交流のない人の中にはこの運動のことを全く知らない人がいて、逆にニューズになってましたかと訊かれました。この人は年齢もかなり若いけれども、全くサイエンスに興味が無く、つまり文系出身なのですが、ニューズは日本のミーディア経由でないと何も知らないようでした。一昔前にガラパゴス携帯がどうのこうのと世間では揶揄されてましたが、人までガラパゴス化しているようでは話になりません。携帯がガラパゴスであろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいことであって、知的財産をめぐる運動は理系文系を問わず何人も関心を持っているのが当たり前だと思うのですが、日本の現状はそうではないようです。
"知識の代償"運動は知的財産をめぐる運動の流れの中の一つだと考えていいでしょう。この運動の言いだしっぺであるガゥワーズ卿がリーダでよかったと私は思います。ガゥワーズ卿は数学の業績が立派すぎるだけではなく、いわゆるオーガナイザとしても優れた人だと思います。それが証拠にThe Princeton Companion to Mathematics(PCM)を所持している人は執筆者一覧を見て下さい。ほぼ全員が世界的に著名な数学者ばかりです。こういうことは編集者であるガゥワーズ卿が卓越した人でなければ出来ないことなんです。これに引き換え、日本で出版されている各数学辞典の執筆陣はほぼ日本国内限定の著名さしか持ち合わせていません。これは下辺な私ごとき者でさえ分かる事実です。それは仕方がないことなんです。何故ならばほぼ日本人限定向けの辞典だからです。仮に世界的に著名な外国人数学者に原稿依頼出来たとしても誰かが日本語に翻訳する必要があり、編集陣に負担を強いることになりかねません。もっと言えば、そもそも編集陣がそんな依頼を出来るほど実力と人脈を持っているとは考えにくいです。
さて前置きはこれくらいにしておきます。今回紹介するのは上述した若い人達を考慮し、NATURE誌に載っていたドキュメンタリ風のニューズ記事"Elsevier boycott gathers pace"です。この私訳を以下に載せておきます。

エルゼヴィアに対するボイコットが速度を速める
2012年2月9日 John Whitfield

科学界の反対者達は商業出版社から自由になる方法を熟慮している

ティモシ・ガゥワーズは何百人の数学者と他の研究者達が、アムステルダムを拠点とする学術出版の大手であるエルゼヴィアと関係を持たないとする公開誓約にガゥワーズともに参加することに驚き、喜んでいる。
しかし、彼はエルゼヴィアから重大な回答を期待していない。"ボイコットの目標はエルゼヴィアにそのやり方を変えさせることではなく、むしろ数学コミュニティにおいて私達の行動方法を変えることであり、そのようにして主要な商業出版社から自由になることだ"と彼は言う。
これは突然に発生するのではない。"私達が土台を築き、いくつかの難しい移植を差し込んでいる間に、事が少し静かになることが必須なのかも知れない"。
前例がある。すなわち、以前のそんなボイコットと抵抗のうちで最も継続している遺産は、既存出版社の大荒野ではなく、むしろ出版するための新しい場所と方法の創始である。
英国ケィンブリッジ大学の数学者であり、数学の最高の栄誉であるフィールズ賞の受賞者のガゥワーズは1月21日のブログポストでボイコットを宣言した。彼は以下をあげた: エルゼヴィアの高い価格。ジャーナルを束にしている商い慣習(それを一部の人達は彼等が既に購読しているジャーナルの購読への欲しくない強制ライブラリと考えている)。そしてResearch Works Act(RWA)[訳注: こういう法律を意気揚々と提出する政治家の頭の中を訳者は疑いたくなります。知的財産というものは人類すべてが平等に共有してこそ意義があるのであって、企業等が制限や禁止することを可能にすることは知的財産の意義を半減させることにつながるのは子供でも分かることであり、よほど企業等からの団体献金の旨味を忘れられないのでしょう。もちろんクレディトは大事です。発明発見した人達を何らかの形で報いることと企業の利益は本来無関係であるはずなんです]のような米国法律に対する支持。RWAは政府機関が予算をつけた研究成果を公開リポジトリに置くことの条件を禁止するだろう。エルゼヴィアはそんな商い慣習を犯している唯一の出版社ではないが、最も質の悪い違反者だとガゥワーズは言う。

拡がる支持
抵抗が始まった以降、4,800人を超えるすべての分野からの研究者達が合流している。約20%が数学者達だ。活動の最初の突発の後、嘆願書は毎日約200の新しい署名者を引き付けている。2月8日、ガゥワーズと国際数学連合の総裁イングリッド・ドブシーを含む33人の数学者達はエルゼヴィアの商い慣習に対する彼等の異議の詳細を述べている続報の声明を発表した。
エルゼヴィア忌避は数学者達にとってやっかいではないだろう。"エルゼヴィアは数学においてあまり有力なジャーナルを持っていない"とキャリフォーニャ[訳注: 普通のカタカナ表記では呆れてものも言えないカリフォルニアです]大学バークリィ校のトポロジストであるRob Kirbyは言う。だが、エルゼヴィアの生物学と医学のジャーナルはCellThe Lancetのような大物を含み、それらの分野におけるボイコットはエルゼヴィアにとっては大きな打撃であり、署名者達にとっては大きな犠牲となるであろう。現時点で、約900人の生物学または医学にいると宣言している人達が誓約に署名している。
ガゥワーズの不平は"事実として間違っている"とエルゼヴィアのユーニヴァーサルアクセス部長のAlicia Wiseは言う。彼女は英国オクスフォードを拠点としている。エルゼヴィアの記事のダウンロゥド価格は10年前の5分の1だと彼女は言う。そしてジャーナルの束は決して強制ではなく、アクセスを拡大している。つまり、"大きな束が取られている時に、利用のほぼ40%が以前には購読されていなかった表題を見つける"とWiseは言う。
"私達のRWAに対する支持は、不必要で潜在的に有害な政府法律が査読付き出版システムの安定性を密かに害する可能性があることの懸念により影響を受けた"。彼女は付け加えて"そうは言っても、この争点周辺の法律と議員への圧力かけの変わらぬ循環を縮小することが私達の心からの願いだ"と言う。

非営利出版
2000年から2001年に、論文をオゥプンリポジトリに置くことを拒否した出版社との関係を断つと誓う類似の嘆願書が30,000人の署名者を引き付けた。何人の署名者がその誓約を守ったのかについて正確な数字は無いが、殆どが守らなかったとキャリフォーニャ大学バークリィ校の遺伝学者であり、その運動のリーダの一人であるマイケル・エイセンは言う。
それは期待外れだが理解出来たとエイセンは言う。"基本的にどの出版社も回答しなかった。だから著者達に選ぶべきオプションの制限付きパレットがもたされた。私達の数人が固執したが、殆どが本当にやり遂げることが可能ではないと思う立場にいた"。
運動はエイセンと他の人達にPublic Library of Science[訳注: いわゆるPLOSのこと]、すなわち購読予約のジャーナルに対する代わりの手段であるオゥプンアクセスを与えるためにキャリフォーニャ州サンフランシスコゥを拠点とする出版ヴェンチャの設立を促した。
数学においては類似の前例がある。1997年にKirbyは価格の高さを抗議するオゥプンレターをエルゼヴィアに書いた。彼が受けた支持は彼と数人の同僚達を彼等自身のジャーナル、すなわちGeometry and Topologyを始めるよう奮起させた。"コミュニティからの多くの支持のおかげで、その分野でトップ10のジャーナルの一つになっている"と彼は言う。
そのヴェンチャはバークリィを拠点とする非営利会社Mathematical Sciences Publishersを生んだ。Mathematical Sciences Publishersは今や7つの低価格なジャーナルを発行している。Kirbyは他の研究者達も良質な非営利ジャーナルを創ることに注意を集中すべきだと考える。
ガゥワーズは、例えばarXivプレプリントサーヴァに投稿された論文へのリンクだけから成るジャーナルを創るような更に過激なアイディアを持っている。出版はもはや論文のタイプセットまたは配布を必要としないと彼は言う。主な目立つ問題はジャーナルが審査作業と評価授与の中で果たしている役割を複製または置換える方法だ。
"そのアイディアが行き過ぎているだろうと思うかなり多くの数学者達がおそらくいる"と彼は言う。この段階で、ボイコットの一貫性と非排他性を維持することは将来のポリシーを固めることよりももっと重要だとガゥワーズは信じている。

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数学

taro-nishinoの日記: ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー

日記 by taro-nishino

今回紹介するのは前回紹介した"書評 The Princeton Companion to Mathematics"で書評対象となったThe Princeton Companion to Mathematics(PCM)の主任編集者であるティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー記事"Interview with Sir Timothy Gowers"(PDF)です。ガゥワーズ卿と言えば、2012年にブログで出版社エルゼヴィアのボイコットを呼びかけたことは皆さんもご存じでしょう。これを最初に聞いた時、私は失礼ながらガゥワーズ卿は気骨のある人だなと感心しました。何故ならナイト称号を授けられるような人がそんな運動を起こすなど誰が想像したでしょうか。ですからそれ以来、私は卿のブログの愛読者になりました。そしてPCMにもよりいっそうの親しみを覚えました。
前置きはこれくらいにして、ガゥワーズ卿へのインタビュー記事の私訳を以下に載せておきます。非常に短いのですぐに読めます。
次いでながら、前回同様に英語のカタカナ表記を少しでも改善しようと思ったのですが、中途半端に終わったことを白状しなければなりません。最大の要因はいわゆるダークLをどう表記するかです。例えばジャーナルではなくてジャーノゥの方がはるかに近いのですが、そう表記しても読む人が分からなければ意味がありません。同様にスキルもスキォゥなのですが、これも読む人が分からないだろうと理由で断念しました。他にも断念した表記は多々あります。

[追記: 2019年2月21日]
上述したエルゼヴィアのボイコットについては"エルゼヴィアに対するボイコットが速度を速める"をご覧ください。

ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー
2016年10月

Diaz-Lopez : いつ数学者になると分かったのですか?
ガゥワーズ: ブリツン[訳注: 日本には"ブリテン"という馬鹿じゃなかろうかと思うほど脳天気なカタカナ表記がありますが、ここでは少しでも改善するために、この表記を選びました。もっと正確に言えば、英語を話せる人なら知っているように、"ツ"は実際には発音せず、その舌の状態で/n/音を発します。つまり鼻から空気が抜ける音です。ここではその音を"ツン"と表記しました。その他にも以降、通常のカタカナ表記とは異なるものがあることをご了解ください]における教育システムによって助長されられ徐々に増して行ったプロセスだった。ブリツンではかなり早期に専門が分かれる。16歳で私は既に数学と物理だけをやっていた。そして大学へ行き、一つの学科を選ばなければならなかったが、その学科は明らかに数学だった。後で、純粋または応用のどちらかを専門に選ぶ機会があった時、純粋が私のやりたかったことなのが私にとって明らかだったし、各段階で私は次の段階へ到着したかった。だから、もし貴方がそのプロセスをその時に続ければ、帰納法により結局貴方は数学者になる。
Diaz-Lopez : 誰かが勇気づけたか、または奮い立たせたのですか?
ガゥワーズ: 特に優れた小学校の先生がいた。その人は私達が5歳の時にπについて語った。そして、次の小学校へ行った時、校長の細君がケンブリッジの数学の院生だったが、彼女も私達が習うとされている事柄をずっと超えている事柄を語った。小学校の後、再び私は、その職に対して必要以上の学歴だったかも知れない人を経験した。その人は数学においてケンブリッジのキングズ・コリッジのフェロゥだったが、学校教育へ転身し、非常に心を奮い立させる人だった。最後に、私がケンブリッジに行った時、私の勉強の監督者はベラ・バラバシだった。彼は次に私の研究の指導教官となり、非常に心を奮い立たせる数学者でもあった。
Diaz-Lopez : どのように貴方の研究を大学院生に述べるのですか?
ガゥワーズ: 私が主に研究している分野は加法的組合せ論だ。初等的命題を持つ問題は初等的手法を使って取組めるから私は組合せ論に引かれている。ここで言う初等的手法とは、始めるため文献読みに2年間を費やす必要が無いものを私は意味している。しかし、手法が余りにも初等的過ぎる時は好きでないから、いくつかのツールを持つことが私は好きだ。もっとはっきり言えば、たとえよく知られているツールを私が再発見していても、自分自身でツールを発見した幻影を持つことが好きだ。解析学、数論、群論のような分野と交叉する組合せ論、すなわち(私が呼ぶところの)不純組合せ論を私も好きだ。
Diaz-Lopez : 何の定理を貴方は最も誇りに思いますか?
ガゥワーズ: セメレディ定理の量的限界。それは既存の定理の新しい証明を与えているのに過ぎないから貴方は奇妙に思うかも知れないが、限界は新しかったから新側面が存在する。導入された手法は新しかったし、他の事柄の数に対してかなり好結果を生むことが判明した。興味深い発展に案内した。
Diaz-Lopez : 大学院生達に何のアドヴァイスを持ってますか?
ガゥワーズ: いつもアクティヴであれ。例えば貴方が難しい問題を考えようと頑張っていて、行き詰っていると感じるならば、多くの問いを発し、行き詰っている理由を分析しようと努めよ。他の問題に切り替えるかどうかすら考えよ。しかし、貴方がそれをやり続けているならば決して何もしないだろうから、あまり早すぎないように。最も重要な事柄の一つはどんどん問い続けることであり、貴方が解答出来て興味深い、または他の問いに貴方が答えるのを助ける一部を見つけるだろう。私のベストな成果の一部は、解決しようと努めた一つの問題には不成功だったが、他のものを私に解決させた展開しているしているアイディアだ。
もう一つのアドヴァイスは、たとえ知られている結果だと分かっていても証明することに興味を持つくらい数学的に好奇心を持ち続けることだ。貴方が自分自身で何とか証明出来れば本当に理解することになるのだから、何かが知られていることかどうか解決するために文献をあまり急いで見てはならない。だから考え続けよ。貴方が自分で考え、アイディアを持ち、発生させ、学び続けるならば、結果は来始めるだろう。
Diaz-Lopez : 2016年の共同数学ミーティングにおいて貴方のトークの一つの間に、我々は人々に研究方法を教えることを考えるべきだと貴方は言いました。貴方が誰かに研究方法を教えられる方法がありますか? もしあれば、どのようにしますか?
ガゥワーズ: 私は強く存在すると信じるが、今すぐにその信念を正当化出来ない。それは漠然と持っている計画だ。私は研究プロセスをやって来ている間に、研究プロセスについてずいぶんと考えている。これは部分的には、していることを絶えず分析しているならば、それをより良く、またはもっと早く出来る方法を考えられるので、やる方がいいからである。ある段階でいくつかのアイディアを論文に書くように努めたいが、ただ今のところ十分に整理された形でそれらを持っていない。だから、私は研究方法を説明する十分な努力を払っていないと他人を非難する罪を犯しているが、ある段階で研究方法に関して何かをするための覚悟としてそれを持っている。
Diaz-Lopez : 貴方はまた自動証明のアイディアに言及しました。その議題についての貴方の見解は何であり、何を達成しようと目論んでいるのですか?
ガゥワーズ: それは先程の質問と非常に関係がある。人間がどのように証明を見つけるかについて深く考えるベストな方法の一つは、証明発見のプロセスをどのように自動化するかを考えることだからだ。証明を見つける方法をコンピュータに教えられるならば、たぶん人にそれを説明出来る。人間相手には当然のこととして思える小さな事柄がたくさんあってコンピュータはもっと助けを必要とするのだから、コンピュータ相手にはもっと困難かも知れない。
私がやりたい主なことはモハン・ガネーシャリンガムと私が言うところの人間偏重指向自動定理証明[訳注: 原文にはextreme human oriented automatic theorem-provingとあり、未だに適切な訳語がついていないと思います。ここではこの訳語を仮に充てました。異議のある人は私にではなく、怠惰で周回遅れの日本の数学界、情報科学界、あるいは哲学界等、関連する学界に正々堂々と文句をお願いいたします]である。それは人間がするであろうやり方の種類でコンピュータに定理を証明させることから成っている。すなわち、正しい何かにたまたま出くわすまで大規模検索をするばかりでなく、人間がしばしばするトップダウンなアプロゥチを伴う検索プロセスも行う。そんなアプロゥチにおいて、貴方はどのようにそれが働くのかについて漠然としたプランを持ち、詳細を入れようと努める。いくつかの事柄が上手く働き、他の事柄が働かない。そして貴方はそれらを修正しなければならなず、等々。コンピュータ上で働くそれ全体を得ることは明らかにとても野心的な目標だ。私達が現在して来ていることは数学の特定の部分的分野においてかなり容易な事柄(それが本当に私達の興味をかき立てることだからではなく、何かを始めなくてはならないので)をしようと努めている。
私が望むことは2つの活動があるだろうことだ。つまり、研究方法を人間に説明する展望から研究プロセスについて一生懸命に考えることと、コンピュータに最も洗練された事柄を出来るようにさせるボトムアップなプロセスだ。ある時点でそれらの2つが中央で出会ってほしい。それでコンピュータは易しい事柄をやり、易しい事柄がもっと難しい事柄をやる方法に関するアドヴァイスの種類を得て、それらはその時からアドヴァイス通りに行動するだろう。それは確かに長期な計画だ。
Diaz-Lopez : いつこれが達成されると思いますか?
ガゥワーズ: それは最終目標として考慮することに依存する。今の時点で、賢い学部学生達が一時間内で解ける問題をコンピュータに解かせる根本的な障害を私は分からないが、多くの作業であり、その作業がいつ為され、何人の人々によるのか明らかではない。10年から20年の間に、一定だが十分に役立つ不定な事柄を満足出来る程度に出来るコンピュータを持てることを私は望む。例えば、一つの分野において貴方は研究しているとする。その時に貴方にとって一定と思える何かが、違う分野における誰かにとって極端に不定に見えるかも知れない。数学の全分野において一定な事柄を出来るコンピュータを持つことは非常に助かるだろう。特に、私がまさに記述した人間指向なやり方でそれが働くならば手助けになる。
Diaz-Lopez : 貴方はマシーンがいつか(数学者としての)私達に取って代わるだろうと思っていますか?
ガゥワーズ: それは漸次なプロセスになるだろう。人々は彼等の研究を手伝うために(私達が既にしているように)ますますコンピュータを使い始めるだろうし、各々の新しいステップは私達の研究生活をより容易にするだろう。例えば、私達がインターネットを持たなかった時を振り返って考えてみよ。プレプリントを入手することがいかに困難だったか。それで研究が徐々に容易になるならば、各々の新しい変化は事柄を証明するのに多大な思考を費やす必要が全く無くなるまでには進んで受入れられるだろう。その時点で貴方は問えると私は思う。つまり、私達は非常に価値あるスキルを失うのか? その答えを私は分からないし、それは問題となるだろう。他方、人が電卓の使用を考えているとしよう。私は電卓を持たないで育ち、長い割り算をする方法を学んだが、今大体において私が一つの大きな数をもう一つの数で割る必要があるとするなら、私は正確にそれをする方法を知っているが、電卓を使うことで長い時間を節約出来る。それは素晴らしいシステムのように思える。私達が人々に数学を教え続けるであろうシステムを持てるだろうが、人々に教えることについて私達はもっと慎重に考えるかも知れない。だから証明を見つけるために私達がコンピュータを使用する時に、何が起きているのか分かっているだろう。それはあまり正直な質問[訳注: つまり、前述の"私達は非常に価値あるスキルを失うのか?"のこと]ではないが、概して私は数学の時代が有限かも知れないという考えに屈託が無いし、その時になれば私達はやるべき他の事柄を見つけるだろう。
Diaz-Lopez : 貴方はジャーナルシステムを改革する必要があると言っています。最近、貴方はarXivオゥヴァレイジャーナルDiscrete Analysisを創りました。このプロジェクトについてもっと言えますか?
ガゥワーズ: Discrete Analysisは満足出来る程度に広く意図されているが、編集者達の関心と言う意味で広い。その関心は加法的組合せ論、解析的数論、そしてその他の関連分野だ。私達は非常に低コストでジャーナルを運営している。私達の年間コストは伝統的な出版社のうちの一社における一つの論文に対する論文掲載代金と比較出来るだろうと私は見積もった。君が述べたようにDiscrete AnalysisarXivオゥヴァレイジャーナルであり、私達が発行する論文はarXiv上で生きていることを意味する。読者達と著者達には代金が発生しない。私はこれが他の人々に対して同様のことをするための促進となることを望んでいる。現行の発表システムが崩壊して来ていない理由の一部は代替的な世間一般の給仕が存在しないことであり、Discrete Analysisは始めるべき多くの異なる試みの一つだ。
Diaz-Lopez : 何か最後にコメントがあれば?
ガゥワーズ: 私達が数学をただ今伝えているやり方がベストな方法であると必ずしも受取るな。

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数学

taro-nishinoの日記: 書評 The Princeton Companion to Mathematics 4

日記 by taro-nishino

1998年にベルリンで開催された国際数学者会議においてフィールズ賞を受賞したウィリヤム・ティモシ・ガゥワーズ卿を主任編集者とするThe Princeton Companion to Mathematics(以降PCMと略称します)を所持している人も多いと思います。私はもちろん所持していますが、2008年にプリストン大学出版から刊行された当初は購入しようとは思ってなくて、米国の知人達から強く勧められたことと、今回紹介する書評記事を読んでから2010年頃に購入したと記憶しています。何故しばらく躊躇したかと言うと、岩波の数学辞典を持っており、それで不満を持たなかったことも一つの要因です。米国の知人の一人が、PCMはいわゆる辞典の類ではなく、読んで楽しい参考書または手引書であり、これを辞典と称するならば調べるためのものではなく、読む辞典だと強く主張していたことを憶えています。購入してから分かったのですが、調べるためと言うよりもぱらぱらとめくって適当なところを目にすると、そのまま没頭して読んでいることが多いです。日本のくだらない大衆向けの数学読み物よりも遥かに面白いです。日本でも2015年になってやっと"プリンストン 数学大全"と題して和訳が出版されたようですが、私は原書をお勧めします。理由として第一に、概して和訳本よりも原書の方が値段が安いからです(例外もありますが)。第二に、昨今大学教育においても英語ライティングを教える必要性が議論されていたように思いますが、その前に学生達が読んで読みまくって多くのイディオム等を既に習得してなければ、英語ライティングだけを教えても意味が無いからです。幸いにしてPCMの英文は平易で非常に参考になり、大げさに言えばどの英文も名文だと思います(ガゥワーズ卿を始めとする編集者達が書いているのですから当たり前ですし、もし寄稿者が下手な英文を書いたら卿から草稿を突き返されたでしょう)。そういう意味で約7年も遅れて和訳本を出す意義を私は理解出来ません。
ここで話しは変わりますが、私はGowersをガゥワーズとカタカナ表記しました。日本では不思議なことにガワーズもしくはガウアーズという表記が流布しています。Gowersの発音記号は/ˈɡaʊ.ərz/なのですが、母音/ʊ/と母音/ə/が連続しているのでリエイズンによってその間に子音/w/が挿入されます。従って、ガウアーズという表記は馬鹿じゃなかろうかと思うほど全く話になりません。問題はガワーズという表記ですが、英国の知人の一人が多少なりともカタカナを知っており、母音/ʊ/は母音/u/よりも弱い音だけれども全く発音しないかのようなガワーズよりもガゥワーズの方が近いのではないかと言ってました。よって私が選んだ表記はガゥワーズです。次いでながら私はウィリアムではなくウィリヤムと表記してます。Williamは母音iと母音aが連続しているので子音y(発音記号で言えば/j/)が挿入されます。たとえ発音記号に明示されてなくてもリエイズンにより子音wや子音yが自然に挿入されることは当たり前の常識です。更にスペルに子音rがなくてもrが発音される時があります。例えばlaw and orderが典型です。つまり/ɔː/で終わる単語に続いて/ə/等の母音で始まる単語が来た場合に間に/r/が挿入されます。これをカタカナ表記するとローランドーダという感じです。ここでラはもちろん/rə/です。次いでながら米国ではandのdが完全にリダクションされ、lawの/lɔː/が /lɑː/に変化してラーノーダという感じです。ここでラーはもちろん /lɑː/です。これらのことも常識です。
もちろん英語をカタカナ表記することは不可能だということ(例えば/la/と/ra/のどちらを「ラ」と表記するのかを考えれば、不可能であることは明らかでしょう)は十分承知していますが、tunnelをタノゥならまだしも、無神経にも平気でトンネルと表記して日本語化させてしまった日本人の馬鹿さ加減を指摘することも無意味ではありますまい。
さて前置きはこれくらいにして、今回紹介するのは上でも述べた通りPCMの書評記事"Book Review The Princeton Companion to Mathematics"(PDF)です。PCMは一巻と言えども非常に分量が多いので、AMS Notices編集部は5人の一流数学者に書評を依頼したのですが、私が特に驚いたのがサイモン・ドナルドソン卿も書評しているからです。
ともかくも、その私訳を以下に載せておきます。これを読んでPCM(もちろん原書の方)を手に取る日本の読者が増えたら幸いです。なお私訳において普通の日本人のカタカナ英語表記(はっきり言って完全に間違っています)とは違う表記が多々あることをご理解ください。もちろん前述したように英語をカタカナ表記することは不可能ですが、現行の表記の無神経さに服従するよりは多少は増しかも知れません。
最後に今年の1月11日にマイケル・アティーヤ卿が急逝されたことは皆さんもご存じでしょう。89歳のご高齢だったとは言え、最近見た動画ではお元気そうだったので訃報を聞いて驚きました。しかし、アティーヤ卿の生涯現役数学者たらんという精神はリーマン予想に関する論文の合否とは関係なく後世に受け継がれるであろうと思います。そして私はアティーヤ卿がPCMに書かれた若い数学者達へのアドヴァイスを何回も読み返しております。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。

[追記: 2019年2月18日]
ガゥワーズ卿については非常に短いインタビュー記事ですが、"ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー"をご覧ください。

書評 The Princeton Companion to Mathematics

2009年11月

編集者の注意: この異常に広範囲に渡る巻をリヴュするために、Noticesはその分野でエキスパートであるのみならず、数学について広い知識を持つ5人の著名数学者を招待した。彼等のリポートはアルファベット順で提示されている。
                              ―アンディ・マディド

ブライアン・バーチィ
これは極めて野心的な本であり、美しい事柄に満ちている。その本を私は枕元の卓上に置いておきたいが、余りにも大部なので卓を継ぎ足すことでしか可能でないだろう。ティモシ・ガゥワーズと彼の副編集者達は、まずまず十分な利用出来る量の数学の解説を与えようと目論んでいる。特に、大学生は数学の本質を理解することに役立ち、見込みのある大学院生は何のトピックスを研究すべきか決めることに役立ち、確立した数学者は同僚達がやっていることを知ることに役立つはずである。
記事の多くが編集者達自身で書かれているが、殆どは編集者達が採用した協力者達の莫大なチームによって書かれている。序論の中で、ガゥワーズは利用しやすさの重要性を強調し、著者達が彼等の記事を改訂することを厭わないことに敬意を表している。つまり、彼が分からなければ、それを変えるように頼んだ。彼は非常に機転をきかしたに違いない! 私がサンプルした記事のほぼすべてが素晴らしく、利用しやすいばかりでなく、読むのが楽しく、そして多くの見解が本の活気さに加わっている。本は読者に最前線の知識(当然のことながら、それらは殆どが近づきにくい)を示そうとはしていないが、至る所に道しるべがある。私見では、本は非常に成功しているが、向上心に燃える研究学生はこれは百科事典でなく手引書であって、研究にとっていくつかの重要なトピックスが触れられてさえいないことを注意すべきである。
本の全体図は8つの部分からなる古典的"アーチ"である。その中心はPart IVであり、任意だが意味ある線型順で数学の26"分科"の解説を含んでいる。これは同僚達が何をしているかを学ぶ所である! 第一分科(バリー・メイザーによる"代数的数論")はたまたま私が最もよく知るものだった。彼は類体論(Part Vでその解説がある)はもちろんのこと、p-進数に軽く触れてとどまっている。彼の簡単な例はその分野の本質を見事に伝えているが、彼にちょっと深く行って欲しかったと私は思う。もちろん記事を非常に楽しんだし、バリーのような素晴らしい書き手によって上手く書かれ、人が良く知っているものを読むことはいいことだ。私が第二分科(アンドリュー・グランヴィルによる"解析的数論")に進んだ時、著述はまだ素晴らしく楽しみ続けた。しかし、私が良く知っている解析的数論の部分は主として多項方程式に関する一方で、アンドリュー・グランヴィルの記事は素数概念を中心としており、ウェアリングの問題(それは後で言及されており、特に伝記的なPart VIの中で)について何もない。もっと深刻なのは、超越数論とディオファントス近似も見当たらないようだ。たとえ数学を26分科に分けて利用しやすいように保っていても、それらの分科は膨大なままであり、欠落は存在し始める! "計算数論"、"代数幾何学"、"数論幾何学"、"代数的トポロジー"(特に素晴らしい章だ)。だが、私は難しいと分かり始めていた。私は殆ど知らないIV.25の"危険現象の確率モデル"へと飛んだが、私の知っていることを楽しませたし、ゴードン・スレイドは私を失望させなかった。
本の残りついてはどうか? Part Iは数学の真髄と数学の言葉への編集者の序論だ。それは初心者学生を対象としているが、その簡潔な例は私達が完全に学べられる諸点を示している。Part IIは現代数学がどこから来ているのか説明しており、特に実質的な歴史的記事を含んでいる。Part IIIは一見ごった煮の何かに思えるが、重要だがどの分科にも便宜的に収まらないために、どこへ行くにも必要な断片を含んでいる。容易な参照のためにアルファベット順に編成されているので、参考するのに驚くほど満足する。本の好意的偏りは数学の問題と結果に存在し、それはPart IVにおいて分科に分割するやり方だ。しかし、概念と手法も重要であり、同じやり方で分割されていない。それに応じて、重要な手法とテクニックはPart IIIに記述があり、時には拡張記事にある。コホモロジーが軽くあしらわれていることに私は注意する。価値があって普及しているテクニックだが、魅力的に書くのは難しいかも知れない。
Part IIIとは対照的に、Part V("定理と問題")はより一層美人コンテストのつもりだ。私は4番目の位置を占めていることが嬉しい(アルファベット順にもかかわらず)[訳注: ちょっとこの文章はすぐ後に出て来るB-S-D予想のことを全く知らない人にとって分かりにくい思うのでちょっと補足します。ブライアン・バーチィ博士の英字名はBryan Birchであり、バーチィ博士はB-S-D予想を立てた一人として姓名の頭文字のBとして連名しているからです]。つまり、弱形式のみだけれどもB-S-D予想が明確かつ簡明に記述されている。再度、これは手引書であり、百科事典ではない! ミレニアム問題は置いといて、この部はいくつかの素晴らしいものを含んでいる。私のような数論学者にとってV.27以降の節は楽しい。(この手引書においてガゥワーズは非常に気前よく数論を扱っている!) 最終時点でヴェイユ予想に関するオッサーマンの記事は予想をきちんと仕上げている。
本は偉大な数学者達の人生と業績を含む部分、"数学の影響"と題された部分、最後に"最終展望"と題された部分で締めくくる。"数学の影響"は様々な数学の応用で始めているが、特にドブシーによるウェイブレットに関する、フランク・ケリーによる通信量に関する、スーダンによる符号化に関する、コックスによる暗号に関する信頼出来る記事を含んでいる。これらに続いて音楽に関する、芸術に関する記事がある。"最終展望"は思考を引き起こすつもりの5つのエッセイを含み、確かにそうしている。そして最終において若い数学者に対するアティーヤ、バラバシ、コンヌ、ダサ・マクダフ、ピーター・サルナックからのアドヴァイスの手紙がある。
要約すれば、本は実にすぐれている。若い学生に数学の本質に関する良いアイデアを与えるだろう本を私は知らない。これが私の同僚達がしていることを私に語るだろう唯一の本であると確信している。この巻において同様に重要な異なる分野が同等に扱われていないかも知れないので(中には欠けているものすらあるかも知れない)、見込みのある大学院生が研究トピックの選択に対するガイドとして、この本を取るはずだとは少し自信が持てない。だが、彼又は彼女はきっと最終部を読むはずだ。最後にあらさがしコメントを。出版社は少なくとも3巻のライブラリ版の刊行を考えるべきだ。ただ今の重い巻の背が過度の使用から壊れるかも知れぬと心配している。

サイモン・ドナルドソン
序文からの2つの抜粋が本の本質の良い全体図を伝えている。

"手引書は読者に対して21世紀の始めに数学者達が把握している重大で典型的なアイディアの例を簡潔に示すことを目指している"。
"手引書は百科事典ではない。...本は人間の伴侶に似ており、一般的に共有されていないかも知れないトピックスについて知識と考え方に欠落を備わっている"。

本は異なる有望な読者層向けにかなり異なる種類の教材を含む8つの部を持つ。大ざっぱに教材は3つのクラスに分かれるだろう。

(1) Scientific Americanの記事または市民数学講座と類似の、一般読者層対象の教材
(2) 学部生の数学レベルの教材
(3) 多少AMS Bulletinの記事のスタイルで、プロ数学者達対象の解説記事

多くの異なる著者達からの寄稿があるが、本はガゥワーズの明確なヴィジョンが行き渡っており、彼は大量の教材を書いている。
先へ進めると、本の中心はPart IVであり、それぞれが約15ページの26"数学分科"の解説から成っている。例えば"代数的数論"(メイザー)、"微分トポロジー"(タウビズ)、"偏微分方程式"(Klainerman)、"極値的および確率的な組合せ論"(AlonとKrivelevich)。これらは大ざっぱに上記の(2)–(3)レベルだ。これらの記事のうちで最も成功しているものは優れていて、どこか他の所では見つけにくいであろう概観と考察を与えている。私が特に好んだ記事の2つは"偏微分方程式"(そんな小さな紙面の中でそんな大きな議題と取り組んでいるから)と"表現論"(グロノウスキー)だ。"表現論"は初等理論から高度なトピックスまで移っているが、全体的なまとまりを伝えている。最初の2つの記事、"代数的数論"と"解析的数論"(グランヴィル)は少なくともこの読者[訳注: つまりドナルドソン卿ご自身のこと]にとって非常に有益で興味深く、スタイルにおいて著しい差異を例証している。第1のものは、その議題における多くの基本的なアイデア(イデアル類群と一意分解のように)を証明のアウトラインをつけて説明している一方で、第2のものは結果と興味深い未解決問題を述べることに専念している。どちらのアプローチも上手く行っており、その議題にとって正しいものだろう。Part IVのこれらの記事のそれぞれが参考文献の短いリストで終わっている。
本のPart IIIは99個の"数学概念"についての更に短い記事(1ページまたは2ページ)で成り立っている。そのレベルとスタイルは非常に一様ではない。3つのアルファベット順に隣接する記事のサンプルは対照的なアプローチを伝えている。

"オイラー及びナヴィエ–ストークス方程式"(フェファーマン)
方程式の命題と長年既存する問題の議論、弱及び強形式の差異、そして現代的な結果。とうとう"我々はちっぽけな粘性が多量のエナジーを消費する理由を理解する必要がある"という考察に至る。

"イクスパンダ"(ヴィグダーソン)
定義(n-頂点を持つグラフは、すべてのmn/2とm頂点の全集合Sに対してSとその補集合の間に最小cn辺が存在するならば、cイクスパンダである)。

"指数及び対数函数"(ガゥワーズ)
これはずっと初等レベル向けである。すなわちaが整数、有理数、または無理数の時に2 a を定義する問題。冪級数または(1+x/n) n の極限として証明のアウトラインをつけて定義される指数函数。対数函数と複素変数への拡張。

再度、これらは違うやり方ですべて優れている。最初の2つは上記の(2)–(3)レベルにおいて簡潔で考察のある言及となるだろうし、3つ目はだいたい学部初年または高校高学年あたりの標準的な教材をテキスト本に埋められている時よりも消化しやすいだろうやり方で上手くまとめている。異なる記事の間に包括的な相互参照がある。Part IIIにおいては他のソースへの参照が殆ど無く、もっとあれば役立つだろう(例えば、読者がリッチフロゥに関してもっと見つけるかも知れない、上で議論した"イクスパンダ"に関するオリジナルな研究記事とソース)。
Parts IIIとIVはこれでお終い。Part Iの"序論"(76ページ、ガゥワーズにより書かれている)は現代数学の一般的な記述として独立しているだろう。その議論は、他にもいろいろある中で例えば"数学に重要なのは何か?"、"基本的な数学定義"、代数学、幾何学、解析学を特徴づける異なる思考の方法、証明で使用される形式及び非形式言語、"数学論文に何を見つけるか?"を含んでいる。これは数学研究に人生をかけるかを熟考している学部生にとって非常に価値がある。Part IIは7つの中身の濃い歴史的記事から成っている。Part Vは短い記事から成っており、いくぶんPart IIIに似ているが、特定の結果と問題に注目している("数論の基本定理"から"ポアンカレ予想"まで再度広範囲に渡っている)。Part VIは再度歴史的で96人の数学者達の簡単な伝記であり、Part VIII("最終展望")は一般的で、時にはより哲学的なトピックスに関する様々なエッセイから成っている。
Part VII("数学の影響")は特別に言及する価値がある。序文で述べられているように本の中心焦点はpure mathematicsであるが、応用に対する共感を持っている。Part VIIは更に詳しく応用に的を絞り、その範囲は非常に選択的にならざるを得ない一方で、その記事は特に興味深い。おそらくプロ純粋数学者達にとって最も有益だ。ここで"応用"は広く解釈されるべきだ。すなわち、記事は"ウェイブレット"、"医学統計"、"数学と音楽"を含む。
本の中でカバーされていないことに関して不満を言うのは簡単だが、そんな批判は上で引用した百科事典ではないということによって大方跳ね返される。微分幾何学に関しては殆ど無い。様々な外観におけるコホモロジーの広い議論(確かに20世紀数学の主発展の一つ)を見つけようと望んでいたが、失望した。"21世紀の始めに数学者達が把握している"際立ったアイデアとして、量子場理論についてもっと調べていれば面白く話題になっていたであろう("鏡対称性"と"頂点作用素代数"という表題の下でこれの適用範囲があるけれども)。定義の中がもう少し正式であれば概して私は喜んだであろう、等々。だが、これは本をもっと百科事典にし、もっと標準的にして、そして独自性を減らすだろう。
全体として、この本は著者達が感謝されるに値する非常に大きな偉業である。どこか他の所では見ない分量、豊富な教材を含み、多くの異なる経歴の読者達に楽しまれるだろう。

Gil Kalai
称賛
この本は科学としての、芸術としての、力強いツールとしての、そして人間活動としての数学の多面性の異常に豊富な記述である。
数学の人間面は一般歴史的な章と個々の数学者達についての小さな章の中のみならず、しばしば数学の領域に充てられた章と概念、問題、そして結果に充てられた章の中にも演じることになる。例えば次の素晴らしい引用を取ろう。すなわち、"ボーチャーズはV 1と共形場理論のカイヤラル代数の間の形式的類似にショックを受けた"(頂点作用素に関する章からのムーンシャイン予想の証明のストーリー p. 549)。発見の最初の瞬間の素晴らしい感覚とそれが作った喜びを理解するために、これらのオブジェクトを完全に理解する必要は無い。人間風味で描かれた、数学における決定的瞬間のもう一つの例は以下だ。"ゲルハルト・フライはそんな曲線は非常に異常かも知れないので志村-谷山-ヴェイユ予想と矛盾するかも知れぬと理解した"("フェルマーの最終定理"の章から、p. 692)[訳注: あの有名な予想を志村予想ではなく、志村-谷山-ヴェイユ予想と呼ぶのはラングランズ・プログラムでの呼び方が強い影響力を持っているからだと思いますが、その他にもPCMが2008年9月8日に刊行されていることと、予想の呼称に異議を唱えている志村五郎博士の自伝的著作The Map of My Lifeも2008年11月5日に刊行されており、同時期だったことは不幸です。谷山氏はモデュラ性を全く予想してなかったのですが、氏の名前は不幸な亡くなり方(自殺)を悼む意味合いもあるので日本人的感覚でまだ理解出来ますが、少なくともヴェイユの名は無関係なので取り除くべきでしょう。志村博士のいろいろな業績を基礎にしてラングランズ博士はあのプログラムを立てたのにもかかわらず、志村博士の神経を逆撫ですることばかりやっていると訳者は考えます] おお、よろしい!
異なる著者達が分野、概念、または定理を示すための異なるやり方は数学への異なる個人的アプローチを鮮明にする。
本の自己信任は純粋数学に制限される一方で、応用数学の非常に強い魂がある。数学の最も古くて強い関係は物理学に対してと、それを通して他の精密科学と工学に対してだ。実際、本の大部分で物理学が強く感じられる。私見では次に来るのが統計学だ。読者は統計と確率の重要さを感じるだろう(そして、もっと好きになるだろう)。最適化とアルゴリズムも本の中で十分説明されている。この本の中で登場する数学の哲学と哲学の中の数学に関する強い協調を見ることは普通でなく、これは最も歓迎される。
本はとても豊富だが、それでも上手くやっている。実際、稀なる偉業だ!

批判
火星への人間使節団を描く映画の中で、そこへ着いたばかりの3人の宇宙飛行士達の誇り高き家族達は宇宙飛行士達へ話しかけようとしていた。彼等は挨拶し、光速のため90秒応答を待たねばならないだろうと言われた。いったんこれらの90秒が過ぎ、映画が科学に義理を果たすと会話は何の妨害も無いのに行ったり来たりし続けた。これは数学的発表を自己完結にしようと努めることの共通する問題(そして共通する不成功な解決)に似ている。この本において、数学的努力に対する大きな入門の章は全体として素晴らしいが、数学の主要分野を記述するいくつかの章は同種類の小さな入門的な章を必要とするらしい。本は実のところ自己完結でないし、自己完結であるはずがない。
それに加えて、The Princeton Companion to Mathematics(PCM)のような大きな百科事典タイプの本を読むことは、この膨大な森林の中の林で貴方の小さなコーナーが如何に小さいかを認識するので、落胆させることになり得る。慰めになるものは科学と数学のフラクタル[訳注: フラクタルはどの部分を取っても自己相似な図形のことを意味します]な性質だ。小さなコーナーにおける小さな発見、概念、または定理が大きな全体像に対して大きな差を作れる。数学の価値のみならず、価値としての数学(PCMが強く擁護する考えだ)にも注意を払うことから更にもっと慰めが来る。
本は2.6キログラムだが、余りにも重たすぎる。寄稿者達が彼等の章を彼等のホゥムペィジに載せ、将来の版が複数巻に分割されることを私は望む。

アドヴァイス
本には若い数学者達に対する複数のアドヴァイスがあるが、中年と老年の数学者達に対するアドヴァイスの章が際立って欠けている。ベラ・バラバシが彼の素晴らしいアドヴァイスの中でG. H. ハーディを引用している。ハーディは醜い数学のための恒久的な場所が世界には無いと書いた。ハーディがこのフレィズを書いた時、説明すべきと彼が感じた術語は"醜い"だった(そして彼は数学における美しさが意味することを詳しく述べた)が、最近ではおそらく術語"恒久的"を説明する更に多くの困難がある。ハーディの空想的な格言を規範的アドヴァイスとしてあまり認められないし、バラバシの続編、すなわち熱意の無い数学者達のための場所が世界には無いということもあまり認められない。貴方が良い補題と定理を証明する、または数学探求で他の進歩を作るならば、数学に対する熱意の合計は貴方次第である。私達の前の本が示しているように数学と数学者達は多くの種類に登場し、ああ! おそらく恒久的でないけれども、すべての人のための場所が世界にはある。

よくある良い補題
ポール・エルデシュがウルフ賞を受賞した時、"私が良い補題を得られるなら―百個のメダルのためにそれを与えないだろう"と言った(エルデシュはハンガリーの詩人ヤーノシュ・アラニが書いたことを言換えていた。アラニは"私が良い眠りを得られるなら―百個のメダルのためにそれを与えないだろう"と書いた)。ヨースタ・ミッタク=レフラーはもう一つの取り組み方を持っていたようだ。彼の時代の他の数学者よりも数学を促進する(ハーディが彼について述べたように)ことは補題を証明する誘惑をたまに避けることを要求した。数学と数学コミュニティに対する貢献もいろいろなやり方で登場し、この本は数学の構造基盤を豊かにする大胆不敵で成功の企てだ。読者に数学と数学者達に関する豊かで役立つソースを提供する。本はティム・ガゥワーズ、ジューン・バロウ・グリーン、イムレ・リーダー、そして他の多くの貢献者達が誇れる、そして私達すべてが楽しめる偉業である。

リチャード・ケニオン
この本は何なのか? すぐに言うのは簡単ではない。パッと見て人々が思うかも知れない数学のウキペディアの印刷版の類ではない。数学の百科事典でもない。公式または積分または数学術語の定義の一覧表は見当たらない。この意味で"完璧"ではない。もっとはっきり言えば、必ずしも特定の議題を勉強するための良いリゾースでもない。
本は何なのかの部はむしろ数学は何なのかの記述であり、一般人は理解しやすい。私がしていることを説明する手段として15歳の私にそれを読むように渡したい衝動に駆られている。それは数学の歴史を含んでいる。つまり主要数学者達、定理、定義、そして証明の簡潔な年代順の配列。
数学は何なのかのもう一つの部(そして職業数学者としての私にとって、これが部だ)は(少なくとも理想世界において)数学者が知るべき事実/エッセイ/アイディアのコレクションだ。それは私の教養の部分でない数学の部分をもう少し学びたい時に拾い読みすべきものだ。ここに専門家達(!)―これは私の数学仲間と同僚を意味している―によって理解しやすいのみならず、ざっくばらんに近づきやすい術語で書かれた数学の様々な議題に関するエッセイがある。私はその記事を拾い読みし、アイディアの新しい宝を露出させながら本を通して非常に楽しんだ。正直言えば、短い記事は素晴らしいが、時には、まぁ、もどかしいほど短い。それらのいくつかはもう少し深く行って欲しかった! だが、これは本が役目を果たしている兆候かも知れない。つまり、外へ出てどこか他の所でもっと情報得るようになるほど十分に読者を議題に興味を持たせている。
短い記事のもう一つの良い面はそれらが自由形式で依頼されていたことだ。つまり著者達は(おそらく)何を言うべきか厳密な方針を与えられていなかった。結果として、例えばバリー・メイザーによって書かれた代数的数論に関する記事は議題における基礎事項をカヴァーしながら補題と定理が巻き散らかされた定義の冷たいリストではない。むしろ数学者としてのバリー・メイザーの興味をかき立てているもの、すなわち耳より情報、事実、そして定義の話だ。それは基礎から始まり、高校の代数問題を動機づけしながら、(ほとんど)現代数論の真剣だが興奮させる問題まで引張っている。全体プログラムを楽しく、面白く、そして興味深くさせているのは、この個人好みに合わせている風味である。
貴方すなわち読者への私のアドヴァイスは本を買い、ランダムにペィジを開け、読み、楽しみ、そして啓発されることだ。

アンガス・マッキンタイア
序文は純粋数学の論理主義者的"定義"を与えているバートランド・ラッセルの有名な引用から始まる。

純粋数学は形式'pならばq'のすべての命題のクラスである。ここでpqは一つまたはそれより多い変数を含んでいる命題であり、2つの命題において同じであり、論理定数を除いてpqも何らかの定数を含まない。そして論理定数はすべて次に述べることに基づいて定義可能な概念である。すなわち、"ならば"、術語が属するクラスに対するその術語の関係、"~するような"の概念、関係の概念、そして上記で述べた形式の命題の一般概念に含まれるであろう更なる概念。これらに加えて、数学はそれが考えている命題の構成要素ではない概念を使用する。すなわち、真実という概念だ。

The Princeton Companion to Mathematicsはラッセルの定義が書き落としているすべての事柄について説明することによって見事に反撃している。その意図は魅力的で近づきやすいやり方で現代的な純粋数学のアイディアの大きくて代表的なサンプルを示すことであり、そのサンプルの殆どが私達の時代の数学者達を引き付けているものだ。Companionから私はアインシュタインの言葉"結局、最高の数学的天才は多くの傑出した頭脳の共同研究によって発見されていることを単独で発見出来ない"を学んだ。Companionはその意図をそんな共同制作、熟達した控えめな編集により達成している。非旅行者のための短い遠足から探検(最も経験し熟達した数学者達を報いることになるだろう)まで広い範囲の数学旅行を可能にしている。
起源と先駆者達から始めよう。歴史的なセクションはベルのMen of Mathematics[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"ですが、老婆心から申し上げるとウソばかり書かれています。エリック・テンプル・ベルという人は数学史家のように事実を調べて書いたのではないことが明らかです。それだけならまだしもウソまででっち上げています。米国の知人から言わせるとベルの本が権威を誇った時期に、つまり第二次世界大戦前及び最中に少年期を過ごした人ならまだしも、戦後においては有害図書だと言ってました。それなのにもかかわらず、日本では現代でも未だにその日本語訳を有難く読んで胸を熱くさせている青少年がいるかと思うと呆れてしまいます。古今東西を問わず、この種の無神経サイエンスライター(そして、その著書を喜んで翻訳する人も含めて)が皆さんが思っている以上に多いことも残念ながら事実です](多くの若者達の目を開かせたことで有名な作品)の低俗ドラマが無い一方で、学識の典拠があり、最も長い記事の質を高めている。亡くなった数学者達とブルバキの一つの96個の短い科学的伝記がある。96個の記事はピタゴラスで始まり、アブラハム・ロビンソンで終わっている。96個の記事の中で論理学を研究した人が多い(名声の主な権利がどこか他にある人も含めて18人を数えた)ことに私は少し驚いた。
私は本の中をあちらこちら歩き回った。啓発的なセクション"最終展望"に早く行くことを勧める。トニー・ガーディナーとマイケル・ハリスの寄稿に私は心を引かれた。私にとって彼等が共通に持っていることは数学の"具体的な事柄"(または"雑多")の重要視であり、他と違う人間活動の進化だ。
ガーディナーの"問題解決の芸術"は大変面白い一連の引用(多くは馴染みだが、不朽の力を持つ)の周りのあちこちで立てられている。彼は大部分が未踏の知的世界の探求の暗喩を追求している。大部分が未踏の知的世界において偉大な発見は"小さい中の数学"の具体的知識に根底を置いている。数学は工芸であり、そこにおいて重大な洞察は変わらぬ修練を通してのみ得られる。工芸において子供達を上手く始めさせることに彼は特別な関心を持っているが、彼の言っていることの多くが私達の終わることのない修行期間のすべての段階で的を射ている。問題解決の理論の専門用語に関して喜ばしい懐疑的な見解、真面目な初等数学の重要視と時間を減らす"改革"の非難がある。"最終展望"の最後から2番目の副セクションにアティーヤ、バラバシ、コンヌ、マクダフ、そしてサルナック(各々人を奮い立させる、私達の工芸の名人だ)の現代の研究世界に入ろうと意図する若い数学者達に対する賢明でかなり特殊なアドヴァイスがある。アティーヤの忘れらないフレィズがある。すなわち、"数学研究の本当に創造的な側面すべてが証明段階に先立つ"。
ハリスの題名は"'何故数学なのか?' 君は問うかも知れない"であり、私が考えたいのは数学のアイディアについて彼が言っていることである。彼の重要視は数学のアイディアと経験についてだ。ここにいくつかの彼のフレィズがある。

"数学の基本単位は概念であって、証明ではない"。
"証明の目的は概念を照らすことである"。
"最も無慈悲な資金援助機関でさえ、質問'何故経験なのか'に応答を要求する程まだポゥストヒューマンではない"。

早期にあげたラッセルの引用と極端な対照に注目せよ。数学的アイディア(それらは盗まれるか、または考慮に入れられる可能性がある!)の客観性に関する説得力のある説明と数学の基礎となっている公然の直感の肯定のため、私はペィジ973–975を賞賛する。Companionそれ自体がハリスが書いていることを十分に強固している。証明が無いが、素晴らしいアイディア(しばしば物理学にリンクされる)がある。私、そして他の非常に多くの人がそうだと思うが、ランダムに選ばれた記事に行けて、"真意"を得られることは確かに公然の直感を裏付ける。本の故意に柔軟な構造(始めから終わりまで読むことに殆ど意味が無い)は数学の組織の深い神秘感を伝えている。証明の欠如を残念がる人々はProofs from the Book[訳注: マーティン・アイグナー、ギュンター・ツィーグラー両博士による有名な本。日本では"天書の証明"として和訳が出ていますが、題名からして拙いです。奇をてらったつもりでしょうが、日本には「天書」という奈良時代の歴史書が実在するのです。これは翻訳者の無知をさらけ出していることになります。と言うか、これくらい本の英語は中高生でも軽く読めるはず(数学的内容の理解はともかくも)なので知性と教養がある人には原書をお勧めします]へ向かうかも知れない。私達の殆どが両方から学ぶだろう。
Part IとIIはプロフェショナルによって最も飛ばされやすいが、上手く書かれており、初心者達にとって不可欠だ。
Part IIIは雑多な今日の概念を示している。それらがアルファベット順に登場することは私の喜びに影響しなかった。
Part IV "数学の分科"は最も重要で複雑なアイディアへ導く。私は記事すべてを読んだが、それらすべてを楽しんだと正直に言える。ここで新しい議題がどのように進化して来ているか、他がどのように予見しないやり方でリンクされて来ているかを見る。この本が50年前をどのように見たであろうか想像してみよ[訳注: この書評が2009年であることをお忘れなく。以下の記述は現在の2019年から見れば的外れなものもあります]。計算数論は殆ど無い、暗号理論は殆ど無い、ほぼ無い数論幾何、非常に無い幾何学群理論、非常に少ない力学系、フラクタルは無い、ウェイブレットは無い、計算複雑性は無い、鏡対称性は無い、有限単純群の分類は無い、ヴェイユ予想の証明は無い、ラングランズ・プログラムは無い、頂点作用素代数は無い、非常に異なって、そしてもっと断片化された組合わせ論、ストキャスティクスから他の数学世界へのリンクは殆ど無い、集合論における強制は無い、Q上楕円曲線のモデュラ性は無い、ハミルトンとペレルマンのスタイルにおけるリッチフロゥは無い。このようにして私達はCompanionが多くの改訂を経るだろうことを望み、後世代にとって豊富なリゾースである(私達にとってそうであるように)であろうことを望まなければならない。
私は他の書評者達に2つの懸念を伝えた。現代数学にとても普及しているアイディアとして、トタロの素晴らしい記事の中の3ペィジを除いてコホモロジーがかなり小さい扱いを受けている。改訂版においてもっと多くを望める。非常に難解で、長い歴史があり、Companionのすべての読者達が容易に問題を理解出来る、かなり異なる議題が私にとって無視されているように思われる。すなわち、超越理論。
PDEに関する記事は私を非常に満足させた。代数学的または論理学的好みの人々とって、学部課程の公式レベルをずっと超えてPDEの理解を広げる要求を見事に広く証明している。Companionを読みながら私はずっと大きい全体像に気がついた。Klainermanを引用する。"ラプラス方程式、熱方程式、波方程式、ディラック方程式、KdV方程式、マックスウェル方程式、ヤン–ミルズ方程式、アインシュタイン方程式(これらはもともと特定の物理学的状況で導入されたのだが)のような方程式が幾何学、トポロジー、代数学、組合わせ論のような分野に深い応用を持っていることがどのように判明したかを人は畏敬の念で見る"。
Mutatis mutandis[訳注: これはラテン語で"変更すべきところは変更する"という意味です。このラテン語には全体の枠組みや構造等を変えないで必要箇所のみ変更するという意味合いが込められています。そして、マッキンタイア博士はこれを標語のような感じで掲げているのです]、そんな意見はこの本の中の殆どのアイディアに対して適切な反応である。

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数学

taro-nishinoの日記: 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

日記 by taro-nishino

前回紹介した"ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する"はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。
私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月のNature誌に載っていた"The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof"です。
何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落したNature誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。
その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2018年10月6日]
この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。
しかし、いろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、このワークショップは大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。
このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。

[追記: 2018年10月7日]
このNature誌の記事を読んだ海外の知人の一人は以下のことを書いて来たことを思い出します。

Were he to be conscious of Grothendieck and his school, Mochizuki should write such tremendous numbers of expository documents as EGA, SGA, and so forth. I completely agree with what Faltings meant in this article.
I have no choice but to say that it seems as if Mochizuki had a one-track mind.

私も同感です。

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

日本人数学者が彼の分野で最も重要な問題のうちの一つを解いたと主張している。困ったことに、彼が正しいのかどうか殆ど誰も分からないことだ。

2015年10月8日 Davide Castelvecchi

2012年8月30日の或る時、望月新一は静かに彼のウエブサイトに4つの論文をポストした。
論文は膨大(総計して500ページを超える)で密に記号が詰められており、10年以上の孤独な研究の絶頂だった。それらの論文はまた学界の突発的事件となる可能性を持っていた。論文の中で望月はabc予想を解いたと主張したabc予想は数論において他の誰も解決に近づかなかった27年目の問題だった。彼の証明が正しければ、今世紀で数学の最も驚異な業績となるであろうし、整数を持つ方程式の研究を完全に変革するであろう。
しかし、望月は自身の証明について騒ぎ立てなかった。その有名な数学者は日本の京都大学数理解析研究所(RIMS)で研究に従事しているが、自身の研究を世界のどの仲間にも知らせなかった。彼はただ論文をポストして、世界が見つけるのを待っているのに過ぎなかった。
おそらく論文群を最初に注目したのはRIMSで望月の同僚である玉川安騎男だった。他の研究者達と同様に彼は望月が何年間その予想について研究していて、とうとう研究を終えたことを知った。同じ日に玉川は彼の共同研究者の一人である英国ノッティンガム大学の数論学者イヴァン・フェセンコにそのニューズを電子メールで送った。フェセンコはすぐに論文群をダウンロードし読み始めた。しかし、彼はすぐに"当惑した。それらを理解することは不可能だった"と言う。
フェセンコは数論幾何学という望月の分野の何人かのトップエキスパートに電子メールした。証明の知らせは急速に拡がった。数日内に、熱のこもったおしゃべりが数学ブログやオンラインフォーラムで始まった(Nature http://doi.org/725; 2012を見よ)。だが、多くの研究者達にとって証明に関する早期の意気揚々が急速に懐疑へと変わった。すべての人々(専門分野が望月のものと最も近い人々さえも)はフェセンコと全く同じように論文群に面食らった。証明を仕上げるため望月は彼の分野でも新しい分科をこしらえたが、純粋数学の水準においてさえも驚くほど抽象的なものである。"それを見れば、未来からの、または宇宙からの論文を読んでいるのかも知れぬとちょっと思える"とウィスコンシン大学マディソン校の数論学者ジョーダン・エレンバーグは論文出現の数日後にブログで書いた。
3年間ずっと望月の証明は数学的に未決定のままである。つまり、広くコミュニティによる誤りの指摘も無く、そして認められてもいない。望月は彼の研究を理解出来るために数学の大学院生が約10年かかるだろうと見積り、フェセンコは数論幾何学のエキスパートですら約500時間かかるだろうと考えている。今のところ、証明全体を読めたと言っている数学者は4人しかいない。
望月彼自身が謎に拍車をかけている。彼は今のところ日本で日本語のみでしか研究を講義していない。英語が達者にもかかわらず、彼は他のどこでも研究についてのトークの招待を辞退している。彼はジャーナリスト達に話さない。このストーリーに対する多くのインタビューの要求が無回答だった。望月は他の数学者達からの電子メールに返事し、彼を訪問する同僚達には協力的であるが、彼の唯一の公けの入力はウエブサイトにおける散発的なポストだけである。2014年12月に彼は彼の研究を理解するためには"研究者達にとって頭脳にインストールされて長年当然だと思っている思考パターンを作動させない必要性"があると書いた。ベルギーのアントウェルペン大学の数学者Lieven Le Bruynにとって、望月の姿勢は傲慢に思えた。"それはまさに私なのか、それとも数学コミュニティに対して望月は実のところ中指を立てているのか?"と今年の始め彼はブログに書いた。
今、そのコミュニティは状況を整理しようと企てている。12月にアジアの外で証明に関する初めてのワークショップが英国オックスフォードで行われる予定だ。望月は本人自らはそこにいないが、スカイプを通してワークショップからの質問に答えても構わないそうだ。オーガナイザー達は議論がより数学者達に望月のアイデアへ馴染むための時間を投資する刺激になり、望月が有利になるように望んでいる。
最近の検証レポートの中で望月は数論幾何学に関して彼の理論の現状は"人間社会における純粋数学の現状の一種の忠実な縮小モデルを構成している"と書いた。彼が直面する、彼自身の分野へ彼の抽象的な研究を伝えるという困った状況は、全体としての数学者達がしばしば直面する、彼等の技術をより広い世界へ伝えるという難題を反映している。

初期の重要性
abc予想はabcという数式を調べる。いろいろ少し異なる別形式があるが命題は量abcの各自を割る素数に関係がある。整数は本質的に素数(素数はより小さい整数に分解出来ない)の積として一意に表現出来る。例えば、15=3×5または84=2×2×3×7。原則として、abの素因数は合計のcの素因数と関係が無い。だが、abc予想はそれらを一緒に繋ぐ。大ざっぱに言うと、abc予想は多くの小さな素数がabを割るならば、ほんの少ししかない大きな素数がcを割ると考える。
この可能性は初めて1985年にドイツでのトークの間にフランス人数学者ジョゼフ・オステルレ[訳注: ブルバキのメンバーだった人]によって特別なクラスの方程式に関する即座の所見の中で言及された。聴衆の中に、今はスイスのバーゼル大学でフェローである数論学者デイビット・マッサーがいた。彼はその予想の潜在的な重要性を理解し、後にそれをもっと一般的な形式にして世間に知らせた。今は両者にクレジットされ、しばしばオステルレ-マッサー予想として知られている。
数年後、マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大学の数学者ノアン・エルキーズはabc予想が本当であれば整数に関する方程式(それらを最初に研究した古代ギリシアの数学者ディオファントスに因んでディオファントス方程式としても知られる)の研究に計り知れない影響を持つであろうと悟った。
エルキーズはabc予想の証明が有名な未解決ディオファントス方程式の膨大なコレクションを一気に解決するだろうと分かった。それはabc予想が解のサイズに明確な限界を置くからだ。例えば、abcは方程式の解のすべてが100より以下でなければならないと示すかも知れない。それらの解を見つけるために、人がしなければならないだろうことは0から99までのすべてについて取り上げ、どれが働くか計算することであろう。対照的にabcが無ければ、取り上げるべき無限の数があるだろう。
エルキーズの研究はabc予想がディオファントス方程式の歴史における最も重要な大成果を取って代わるかも知れぬことを意味する。すなわち、米国の数学者ルイス・モーデルによって1922年に定式化された予想(膨大な数のディオファントス方程式は解を持たないか、または有限個の解しか持たないかのいずれかであると言っている)の確証。その予想は1983年にドイツ人数学者ゲルト・ファルティングスによって証明されたが、彼はその時28歳で3年以内にフィールズ賞(数学で最も熱望される賞)をその研究に対して受賞したものだった。しかし、もしabcが本当なら、どのくらいの数の解があるのか知らないで"それらを全部リスト出来る"とファルティングスは言う。
ファルティングスがモーデル予想を解決した直後、彼はニュージャージー州プリストン大学で教え始めた。そして、しばらくして彼の道は望月の道と交わった。
望月は1969年に東京で生まれたが、子供だった時に家族が米国に移ったので、彼は米国で成長期を過ごした。彼はニューハンプシャー州の一流高校に通い、まだ16歳だった時に早熟な才能はプリストンの数学部門の学部での籍を獲得した。独創的な思考で彼はすぐに伝説となり、直接に博士課程に移った。
望月を知る人々は彼を殆ど神秘的な集中力を持つ人だと言う。"学生の時からでさえ、彼はまさしく起き上がっては研究している"とオックスフォード大学の数学者Minhyong Kimは言う。彼はプリストン時代から望月を知っている。セミナーまたはコロキウムに出席の後、研究者達と学生達はよく共にビールを飲みに出かけたものだったが、望月はそうではなかった。"彼は本来内向的ではなかったが、彼の数学に非常に集中した"とKimは回想する。
ファルティングスは望月のシニア論文と学位論文の指導教官だったが、望月が抜きん出ていることを理解出来た。"彼が素晴らしい才能の人達の一人であることは明らかだった"と言う。だが、ファルティングスの学生になることは容易いことではなかったであろう。"ファルティングスは脅迫的階段のトップにいた"とKimは回想する。ファルティングスは間違いをよく攻撃したものだったし、著名な数学者達でさえ彼と話す時、神経質に咳払いしているのを聞かれた。
ファルティングスの研究は米国東海岸に沿う各大学の多くの若い数論学者達に特大な影響があった。彼の専門領域は代数幾何学だったが、代数幾何学は1950年代以降アレクサンドル・グロタンディーク(よく20世紀の最も偉大な数学者と言われている)によって高度に抽象的かつ理論的な分野に変換されていた。"グロタンディークと比べると、ファルティングスは哲学的思索に対して忍耐強くなかった"とKimは言う。彼の数学スタイルは"多くの抽象的素養を要求しただけでなく、ゴールとして非常に具体的な問題を持つ傾向があった。abcに関する望月の研究はまさにこれをしている"。

融通が利かない
博士号の後、望月はハーバードで2年間を過ごし、1994年に25歳でRIMSでの職のため生まれ故郷の日本へ戻った。長年米国で生活したけれども、"彼はいろいろとアメリカ文化に納得しなかった"とKimは言う。更にKimは付け加えて言う。異国で成長することは数学的に才能を持つ子供であることから来る孤独感を合成したのかも知れない。"私は彼が少しは苦しんだと思う"。
望月はRIMSで活躍した。RIMSは学部クラスを教えるための教員を要求しない。"彼は多くの邪魔無しで20年間自身で研究出来た"とフェセンコは言う。1996年に望月がグロタンディークによって述べられた予想を解決した時、彼の国際的評価を押し上げた。そして1998年に彼はベルリンでの国際数学者会議で招待講演を行った。すなわち、このコミュニティにおいては栄誉の殿堂入りと同義語である。
しかし、望月が尊敬を得た時ですら主流から立ち去っていた。彼の研究は高レベルの抽象的概念に到達し、彼の同僚達にとってますます不可解な論文を書いていった。2000年代の初めに彼は国際的な会合に乗り出すことを止めたが、同僚達は彼がもはや滅多に京都府を出ないと言う。"共同研究者無しに長年に渡って集中出来るためには特別な種類の愛着を必要とする"とカリフォルニア州スタンフォード大学のブライアン・コンラッドは言う。
望月は数論学者仲間達と交流を続けたが、彼等は彼が最終的にabcを狙っていることを知った。彼は殆ど競争が無かった。他の数学者達の殆どが問題を手に負えないと考えて避けていた。2012年の初めまでに望月が証明に近づいているという噂が飛んでいた。そして8月のニューズが来た。すなわち、彼はオンラインで論文群をポストした。
翌月、フェセンコが静かにおおいを取られた研究について望月と話す日本以外からの初めての人になった。フェセンコは既に玉川を訪問する予定だったので、望月にも会いに行った。望月のオフィスで二人は土曜日に会った。オフィスは近くに大文字山が見える広々とした部屋で、本と論文がきちんと整理されていた。"私の人生で会ったことのある数学者のうちで最もきちんとしたオフィス"だとフェセンコは言う。二人の数学者達は革の肘掛け椅子に座りながら、フェセンコは望月に彼の研究と次に起きるかも知れないことに関して質問を浴びせかけた。
フェセンコは望月にもう一人別の数学者、すなわちロシア人位相幾何学者グリゴリー・ペレルマンの経験に注意するよう警告したと言う。ペレルマンは100年のポアンカレ予想( Nature 427, 388; 2004を見よ)を解決した後で2003年に名声を得た。それからは退却し、ますます友人達、同僚達、外側の世界と疎遠になった。フェセンコはペレルマンを知っていたので、二人の数学者達の性格が全く異なることが分かった。ペレルマンは無様な社交性(と指の爪を伸び放題にさせていること)で有名だった一方で、望月は一般的に言葉使いが明瞭で友好的ある(研究外の生活に関して極めてプライベートであれば)と言われている。
通常、主要な証明が発表されると数学者達はその研究(通例、数ページの長さ)を読み、一般的な戦略を理解出来る。時には証明が長くもっと複雑なら、指導的専門家達が十分に調べ、それが正しいという合意に到達するのに長年経過するかも知れない。ポアンカレ予想に関するペレルマンの研究はこのようにして認められた。グロタンディークの高度に抽象的な研究の場合でさえ、彼の新しいアイデアを専門家達は馴染みの数学オブジェクトと関係づけることが出来た。一旦埃が収まれば、ジャーナルは典型的に証明を発表するのみだ。
だが、望月証明に取組んだ殆どすべての人々があっけに取られている自分達に気づいた。一部の人々は望月が新しい理論的指図を述べるために使用している広範囲にわたる(殆ど救世主的)言語に困惑した。彼は自分が創った分野を"宇宙際幾何学"とさえ呼んだ。"一般的に数学者達は非常に謙虚だ。自分達のしていることが宇宙全体の革命とは言わない"とパリのピエール・マリー・キュリー大学[訳注: 因みに言うと元パリ第6大学のこと]のオステルレは言う。彼も証明のチェックが殆ど進まなかった。
その理由は、望月の研究が以前に行われていた何事からも今まで取り除かれていることにある。彼は集合論(多くの人はベン図でお馴染み)における基礎から始めて根底から数学を再構築しようと企てている。そして、殆どの数学者達はその研究を理解すために必要な時間を投資することに明確な見返りが分からないから躊躇っている。すなわち、望月が拵えている理論的仕組みがどのように計算に使われるのか明らかでない。"私はそれらのいくつかを努力して読もうとしたが、ある段階で諦めた。彼がしていることを私は分からない"とファルティングスは言う。
フェセンコはこの一年間に渡って望月の研究を詳しく研究して来て、2014年の秋に再びRIMSへ望月を訪問し、今や証明を確認したと言う(確証していると言う他の3人の数学者達も日本において望月の傍でかなりの時間の研究を費やしている)。フェセンコが言うように、宇宙際幾何学の包括的なテーマは整数を異なる視点で調べなければならないことだ。つまり、加法には触れないで、乗法構造を柔軟で変形出来る何かと見なす。その時、円が楕円の特別な場合であることと同様に、標準の乗法は構造の族の特別な場合に過ぎないであろう。望月は自身を数学の巨人グロタンディークと比べているとフェセンコは言う。"私達は望月の研究以前の数学を持っていたが、今や私達は望月の研究以降の数学を持っている"という主張は不遜ではないとフェセンコは言う。
しかし、これまで研究を理解している少数は他の誰かにそれを説明しようと苦闘して来ている。"私が知る人でこの専門に近い人すべては非常に論理的であるが、それを伝えようとすると途端に出来なくなる"と名前を明らかにしたくない一人の数学者は言う。その状況は世界の面白いジョークをメモするライターについてのモンティ・パイソン寸劇を連想させると彼は言う。それを読む誰もが笑い転がるが、他の誰かにそれを説明出来ない。
そして、それが問題だとファルティングスは言う。"素晴らしいアイデアを持っているでは十分ではない。それを他人に説明出来なければならない"。望月が自身の研究を認めて欲しいのならもっと手を伸ばすべきだとファルティングスは言う。"人は欲するだけ風変りである権利を持つ。彼が旅行したくないなら何の義務も無い。彼が認知を欲しければ妥協しなければならない"と彼は言う。

道理の限界
望月にとって、クレイ数学研究所がオックスフォードで待望のワークショップを主催すると言った今年遅くに事が向きを変え始めたであろう。ファルティングス、Kim、フェセンコ(Kimはフェセンコと並んでオーガナイザーの一人だ)を含む、その分野の著名人達が参加を期待される。Kimは数日の講義は理論全体に触れるには十分でないだろうと言う。しかし、"ワークショップの終わりに十分な人達が証明を読む努力を払おうと納得するだろうことを望む"と彼は言う。
殆どの数学者達は何らかの解決を見るためにもっと年月を要するだろうと予期する(望月は論文群をジャーナルに提出しているが、そこでおそらくまだ検討されているのだろうと言う)。結局のところ、誰かが厭わずに研究を理解することだけではく、他人にもそれを理解しやすいようにすることを研究者達は望んでいる。問題は、その人になりたいと殆どが思わないことだ。
将来を考えると、未来の未解決問題が複雑で手に負えなくなるだろうとは思わないと研究者達は考える。エレンバーグは新しい数学分野において定理を述べるのは簡単で、証明はかなり短いと指摘する。
今問題は望月の証明がペレルマンのものがやったように承認へじりじり進んでいるのか、それとも異なる宿命を見るのかどうかである。一部の研究者達は教訓となる話をインディアナ州ウェストラファイエットのパデュー大学の定評ある数学者ルイ・ド・ブランジュのそれに見る。2004年にド・ブランジュはリーマン仮説(多くの人が数学で最も重要な未解決問題と考える)の噂されている解決を発表したが、数学者達はその主張に懐疑的なままであり、多くが彼の型にはまらな理論と特異な書き方に嫌気を起こしていると言って、証明は見えないところに行っている。
望月の研究に対しては"全てか無かではない"とエレンバーグは言う。たとえabc予想の証明が上手く行かなくても、彼の手法とアイデアは数学コミュニティを通してゆっくり染み通り、研究者達は他の目的にそれらが役立つと分かるかも知れない。"私の望月に関する知識に基づけば、それらのドキュメントの中に面白いか、または重要な数学がある可能性が非常に高い"とエレンバーグは言う。
しかし、まだ違う方向へ進むリスクがあり、"望月の研究ついて私達が忘れるなら、非常に間違っているだろうと思う。それは悲しいだろう"と彼は付け加えて言う。

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数学

taro-nishinoの日記: ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

日記 by taro-nishino

今回紹介するのはabc予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。
これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。
今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。
その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。
前置きはこれくらいにして、紹介する記事は"Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture"です。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2018年10月6日]
ここに至るまでの経緯については"数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明"を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。
このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。
このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。

[追記: 2018年10月23日]
私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。
記事に出て来るPublications of the Research Institute for Mathematical Sciences(略してPRIMS)誌は京都大学数理解析研究所(略してRIMS)が発行する数学ジャーナルです。つまり、望月新一博士は勤務先が発行する数学ジャーナルの主任編集者ということになります。RIMSから研究予算を貰い、その成果をRIMSが発行する数学ジャーナルに掲載して何が悪いのかという議論がある一方で、海外からは非常に透明性に乏しいという指摘が少なからずあります。
私も私の友人共も、そして海外の知人達も意見が同じく、望月論文が受理されたとしても掲載誌はPRIMSではない方がいいと考えています。

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

二人の数学者達は6年近く数学コミュニティを揺るがして来た証明の中心に彼等が言うところの穴を発見している。"深刻で修正不能なギャップ"を発見したというジェイコブ・スティックスとピーター・ショルツの言明にもかかわらず、望月新一は自身の証明に欠陥が無いと主張する。

2018年9月20日 Erica Klarreich

今日オンラインでポストされたレポートにおいて、ボン大学のピーター・ショルツとゲーテ大学フランクフルトのジェイコブ・スティックスは京都大学の数学者の素晴らしい才能で有名な望月新一による一連の巨大論文群の中にスティックスが言うところの"深刻で修正不能なギャップ"を記述している。2012年にポストされた望月の論文群はおそらくabc予想を証明しているとされている。abc予想は数論において最も影響が広範囲に渡る問題の一つである。
望月の証明を解明するために捧げられた多種多様のコンファレンスにもかかわらず、その根本的アイデアを把握することに数論学者達は苦闘している。望月の一連の論文群は総計して500ページを超え、見通しの悪いスタイルで書かれており、更に望月の以前の研究の500ページかそこらを後方参照している。それが、一人の数学者、スタンフォード大学のブライアン・コンラッド言うところの"無限逆行の感覚"を作っている。
証明を深く研究して来た12人から18人の数学者達が正しいと信じているとノッティンガム大学のイヴァン・フェセンコは電子メールの中で書いた。しかし、"望月系"の中の数学者達だけが証明の正しさを保証しているに過ぎないとコンラッドは昨年の12月のブログでの議論の中でコメントした。"証明が完全である自信を持っていると非公式ですら言うことを厭わない人は世間で他に誰もいない"。
それにもかかわらず、"数学者達は重大なエラーを指摘出来ないから、望月の議論について問題があると主張することを非常に嫌っている"とシカゴ大学のFrank Calegari12月にポストされたブログで書いた。
そのことは今や変わって来ている。ショルツとスティックスのレポートにおいて、彼等は望月の4つの論文の3番目の中の"系3.12"の証明の終わり近くの論法の一行が根本的に欠陥があると主張する。その系は望月の提出したabc証明の中心である。
"私はabc予想は尚も未解決だと考える。何人もそれを証明するチャンスを持っている"とショルツは言った。
ショルツとスティックスの結論は望月論文の彼等自身の研究のみならず、証明を議論するため京都大学において望月と彼の同僚である星 裕一郎を3月に一週間訪問したことにも基づいている。その訪問はショルツとスティックスの異議の本質へ煮詰めることに大いに役立ったとショルツは言った。両者は"証明が無いという結論に至った"とレポートに書いた。
しかし、会合は奇妙にも不満足な結論となった。望月は彼の議論が正しいとショルツとスティックスを説得出来ず、彼等もそれが間違っていると望月を説得出来なかった。望月は反論の中で彼自身の多くの報告と共にショルツとスティックスの報告を望月のウエブサイトに今載せている(この記事に対するコメント要求に望月と星は応じなかった)。
望月は反論の中で、ショルツとスティックスの批判を彼の研究に関する"ある根本的な誤解"のためとしている。"彼等のネガティブな姿勢は理論の何らかの欠陥を意味しない"と書いた。
望月の高名が数学者達に研究がabc予想に関する重大な試みであると思わせたことと全く同じように、ショルツとスティックスの卓越さが彼等が言わざるを得ないことに数学者達は注意を払うだろうことを保証している。たった30歳だけれどもショルツは彼の分野で急速に頂点に登り詰めている。彼は8月に数学最高の栄誉であるフィールズ賞を授与された。一方スティックスは遠アーベル幾何学として知られる分野、望月の特別な研究分野のエキスパートである。
"ピーターとジェイコブは非常に注意深く思慮深い数学者だ。彼等が持つ何らかの関心...確実に功績が明らかになる"とコンラッドは言った。

行き詰まりの原因
コンラッドが"数論において傑出した予想の一つ"と呼んでいるabc予想は想像出来る最も簡単な方程式の一つで始まる。つまり、abc。3つの数abcは正の整数と仮定し、それらは共通の素因数の共有を許されない。それで、例えば8+9=17または5+16=21は考えられるが、6+9=15は駄目だ。6、9、15はすべて3で割り切れるからである。
そんな方程式を考えると、3つの数のどれかを割る素数全体を見ることが出来る。例えば5+16=21に対して素数は5、2、3、7だ。これらを共に掛け合わせると210となり、元の方程式にある数のどれよりもずっと大きい数だ。対照的に5+27=32に対して素数は5、3、2であり、素数の積は30だ。元の方程式にある32よりも小さな数である。27と32が複数回繰り返す小さな素因数(それぞれ3と2だ)しか持たないので、その積はとても小さくなる。
他の3つ組abcについて調べ始めるなら、この2つ目のシナリオが非常に稀であることが分かるだろう。例えばabが1から100までで作れる3,044の異なる3つ組の中で、素数の積がcより小さいのはたった7つしかない。1980年代に初めて定式化されたabc予想は、この種の3つ組は滅多に起こらないという直観を集成している。
5+27=32の例に戻ってもっと詳しく述べると、32は30よりも大きいが、少しだけだ。32は302、または301.5、または301.02さえよりも小さい。301.02は約32.11である。1よりも大きい指数を取るなら、cが(素因数の積)指数よりも大きいような3つ組abcは有限個しかないことをabc予想は言っている。
"abc予想は掛け算と足し算に関する非常に初等的な命題だ"とオックスフォード大学のMinhyong Kimは言った。"以前は見たことがなかった一般的な数体系に関して、ある種の非常に基本的な構造を明らかにしているように感じる"命題だ。
そしてabc方程式の簡潔性は広範囲の他の問題が予想の支配下に入ることを意味している。例えばフェルマーの最終定理はxn yn zn という形式の方程式に関するものであり、8と9だけが連続する累乗数(8=23、9=32だから)であると言うカタラン予想は方程式xm +1=yn に関するものだ。abc予想は(ある形式において)これら2つの定理の新しい証明を提供し、関連する未解決問題の主役を解決するであろう。
予想は"いつも知られていることと知られていないことの境界に存在するらしい"とコロンビア大学のドリアン・ゴールドフェルド書いている
abc予想の証明から生じるであろう結果の豊饒さは予想を証明することが非常に困難だろうと数論学者達を確信させていた。だから2012年に望月が証明を提示したという知らせが拡がった時、多くの数論学者達は彼の研究へ熱狂的に駆け込んだが、あいにく馴染みのない言語と変わった提示方法によって妨害されることになった。定義が何ページにも続き、そして命題が同様に長い定理が続いたが、その証明がただ本質的に"これは定義から成り立つ"と言っているに過ぎなかった。
"私がエキスパートによる望月の論文の分析を(非公式に)聞く度に、レポートは不安になるほど馴染みになっている。すなわち、広範囲な自明と、それに続く正当化出来ない結論の巨大な断崖"とCalegariは12月にポストされたブログに書いた
ショルツは早期の論文読者の一人だった。数学を急速に深く吸収する彼の能力は有名で、多くの数論学者達よりも先に進み、4つの主要論文が出現した直後に、それらを彼の言う"おおざっぱに読み"終えた。ショルツは短い証明を持つ長い定理に困惑したが、それらは正しいが実体がないと思えた。2つの中途の論文では"ほとんど何も起きていない"と彼は後に書いた
そしてショルツは3番目の論文の中で系3.12に行き着いた。数学者達は通常"系"という言葉を以前のもっと重要な定理の2次的結果の定理を示すために使用する。だが、望月の系3.12の場合、それがabc証明の中核にあることに数学者達の意見は一致している。それが無ければ"証明が全く無く、重要なステップだ"とCalegariは書いた
この系が2つの中途論文において、その証明が数行よりも長い唯一の定理であり、9ページを占める。ショルツがそれらを通しで読んだ時、全くロジックを追えなかった箇所に到達した。
当時たった24歳のショルツは証明に欠陥があると考えた。しかし、彼は直接訊かれた時を除いて大抵の場合論文に関する議論の外にいた。結局、おそらく他の数学者達が論文内に彼が見落とした重要なアイデアを見つけるだろうと思った。もしくは彼等も彼が持った同じ結論に至るだろうと思った。いずれにせよ数学コミュニティが確実に事柄を整理出来るだろうと考えた。

エッシャーの階段
一方、他の数学者達は密に書かれた論文に取組んでいた。多くの数学者達は2015年末のオックスフォード大学での望月の研究に捧げられた会合に大きな期待をした。しかし、望月に近い数人の同僚が証明の主要アイデアを述べようと努めた時、"濃霧の大群"が聴衆達に降りて来たようだったと会合の直後にコンラッドはレポートに書いた。"研究を理解している人達は研究の動機を数論幾何学者達に知らせることにもっと成功する必要がある"と彼は書いた。
コンラッドのポストの数日内に彼は3人の異なる数学者達(一人はショルツ)から頼みもしない電子メールを受けたが、すべてが同じストーリーだった。彼等は特別な箇所にぶち当たるまで論文群を読んで理解出来ていた。"これらの人達の各々にとって、彼等を困らせていた証明は3.12のためのものだった"と彼は後に書いた
Kimは別の数学者越川皓永(現在は京都大学)から系3.12に関する同様の心配を聞いた。そしてスティックスも同じ箇所で途方にくれた。次第にいろいろな数論学者達がこの系が行き詰まりの原因だと気付くようになったが、議論に穴があったのか、それとも望月がもっと上手く論法を説明する必要があったのか明らかではなかった。
そして多くの数論学者達が仰天したことに、2017年末に望月の論文群が刊行のために受理されたという噂が広まった。望月自身が問題のジャーナル Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences の主任編集委員だったが、段取りをCalegariは"不透明"と見なした(そんな状況において編集委員は普通辞任するけれども)。だが、多くの数論学者達にとってもっと懸念することは論文が依然として読むに堪えないという事実だった。
"議論を理解していると主張するエキスパートは誰も(非常に多くの)戸惑っているエキスパートに説明することを成功して来ていない"とシカゴ大学のマシュー・エマートン書いた
Calegariはその状況を著名な数論学者達のアーメンの合唱に対する"完全な大失敗"として非難するブログポストを書いた。"私達は今や京都においてABCは定理であるが、それ以外のどこでも予想である馬鹿げた状況にある"とCalegariは書いた。
マスコミの問合せに対し、論文は受理されていないとPRIMSはすぐに応答した。しかし、彼等がそんなことをやっている以前に、ショルツは長い間数論学者達にプライベートで言っていたことを公に述べることを決心した。証明を取り巻く議論全体が"余りにも社会問題になっていた"と彼は判断した。"すべての人はこれが如何に証明ではないような気がするだけを語っていたが、誰も実際に'誰も証明が分からない箇所は何とここにある'と言ってなかった"。
だから、Calegariのブログポストの下のコメント欄にショルツは"系3.12の証明の中の図3.8以降のロジックを全く追えない"と書いた。彼は更に"証明を理解していると主張する数学者達はそこではもっと言わなければならないことを認めたがらない"と追記した。
京都大学での望月の同僚であり、フィールズ賞受賞者の森重文はショルツに彼と望月の間の会合を促進するという申し出を書いた。ショルツは今度はスティックスに手を差し伸べ、3月に両者は京都へ望月と星とでやっかいな証明を議論するために旅行した。
abc予想に対する望月のアプローチは問題を楕円曲線(2変数xyに関する特殊なタイプの3次方程式)に関する問題へ翻訳する。その翻訳は望月の研究よりも前によく知られており、簡単(各abc方程式をグラフがab、原点でx-軸と交わる楕円曲線に関連付ける)だが、数学者達に楕円曲線の豊かな構造を開拓させ、数論を幾何、解析、そしてその他の分野と結ぶ(この同じ翻訳はフェルマーの最終定理のアンドリュー・ワイルズの1994年の証明の心臓部にあった)。
そしてabc予想は楕円曲線に関連付けられた2つの量の間の或る不等式を証明することに煮詰まる。望月の研究はこの不等式をもう一つ別の形式へ翻訳する。その別形式は2つの集合のボリュームを比較することとして見なせるとスティックスは言った。系3.12は望月がこの新形式の証明を提示している所であり、それが正しければabc予想を証明することになるであろう。
ショルツとスティックスが述べているように、その証明は2つの集合のボリュームを実数の2つの異なるコピーの中の生き写しとして見なすことを伴う。そして、それらは実数の6つの異なるコピーの円の一部として(各コピーがどのように円に沿ってその隣物と関係するかを説明するマッピングを伴って)表現される。集合のボリュームがどのように互いと関係するかを追跡するために、一つのコピーにおけるボリューム寸法がどのように別のコピーにおける寸法と関係するかを理解する必要があるとスティックスは言った。
"2つの事柄の不等式を持っているけれど、管理しない要因によって物差しがいくぶん縮んでいるならば不等式が実際に意味することの管理を失う"とスティックスは言った。
事柄が間違っているのは議論の中のこの重要な箇所であるとショルツとスティックスは考える。望月マッピングにおいて、物差しは局所的に互いと互換性を持つ。しかし、円に沿って行くならば、別の道に沿っていたものとは異なる物差しを持つことになるとスティックスは言った。その状況はエッシャーの有名ならせん状階段と同類だと彼は言った。エッシャーのらせん状階段は登れど登れど、どういう訳かあいにく開始点よりも下に行き着く。
ボリューム寸法におけるこの非互換性は、結果の不等式が間違っている量の間のものであることを意味するとショルツとスティックスは断言する。そして、事柄を調節してボリューム寸法が大局的に互換になるならば、その時は不等式が無意味になると彼等は言う。
ショルツとスティックスは"議論が絶対に働かないやり方を特定している"とカリフォルニア大学サンディエゴの数学者キラン・ケッドラヤは言った。彼は望月の論文群を深く研究している。"だから、もし議論が正しければ何か異なること、ショルツとスティックスが述べることよりも更に難解な何かをしなければならない"。
更に難解な何かはまさに証明がやっていることだと望月は強く主張する。異なると見なすべき数学オブジェクトの間の勝手な同定を作るという間違いをショルツとスティックスはしていると彼は書いた。彼が同僚達にショルツとスティックスの異議の本質を語った時、彼の説明は"著しく満場一致の反応に遭遇した。それらの反応は、そんな明らかに誤った考え違いが起こり得たのだろうという全くの驚きと不信さえ(時には笑いの連続を伴って!)も、であった"と彼は書いた。
数学者達はショルツとスティックスの議論と望月の返答を吸収しなければならないだろう。しかし、一連の望月論文の状況とは対照的に、ショルツは彼とスティックスの異議の要旨が高度にテクニカルではないから、これが長引く経過になるはずがないと望んでいる。他の数論学者達は"私達が今週望月とやった議論を完全に理解出来たであろう"と彼は言った。
望月は全く異なって事を見ている。彼の考えでは、ショルツとスティックスの批判は"議論での数学を深く熟考する十分な時間の不足"とおそらく"馴染みの数学オブジェクトを思考する新しい方法についての深い不快感または馴染みの無さ"から生じている。
望月のabc証明に既に懐疑的な数学者達はショルツとスティックスのレポートをストーリーの終わりだと考える可能性が十分あるとKimは言った。それ以外の数学者達は新しいレポートを彼等自身で勉強したいと思うだろうし、Kim自身が着手している活動だ。"結論を下す前に、自分でもっと慎重にチェックする必要性を完全には敬遠出来ないと思う"と彼は電子メールに書いた。
過去数年間、多くの数論学者達が望月論文を理解しようとする努力を断念して来ている。しかし、もし望月または同調者達がショルツとスティックスの記述が余りにも単純(そうだと仮定して)である理由を完全で一貫性のある説明を出来るなら、"いくらかの労役の軽減と人々に再度この事柄を調べる喜びを与えることに大いに役立つかも知れない"とケッドラヤは言った。
その一方で、ショルツは"望月が本質的な改訂を行い、この主要ステップがずっと良いと説明するまで、これが証明だと考えるべきでない"と言った。個人的には"私達がabc予想の証明に近づくであろう主要なアイデアをあまり見かけなかった"と彼は言った。
この議論の結果としての成果にかかわらず、望月の議論のそんな特定部分を正確に突くことはより大きな明晰性につながるはずだとKimは言った。"ジェイコブとピーターがやったことはコミュニティにとって重要な貢献だ。何が起きても、私はレポートが明確な類の進歩になるだろうと確信している"。

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数学

taro-nishinoの日記: 存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ

日記 by taro-nishino

この"私訳"シリーズにおいて、ブルバキについてはこれまでも"ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー"、"ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー"、"ニコラ・ブルバキと共に25年間 1949年–1973年"を紹介しました。それらは前から其々ピエール・カルティエ博士、故クロード・シュヴァレー博士、故アルマン・ボレル博士といったブルバキの中にいた人の観点からのものでした。更には、ブルバキの客分でもあったマイケル・アティヤ卿(私から言わせるとほぼブルバキの準メンバーです)の"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"、数学史家John McCleary博士の"ブルバキと代数トポロジー"を紹介しました。それらはブルバキの部外者からのものですが(アティヤ卿が本当に部外者なのかどうかの議論は置いといて)、自らがブルバキを見た体験もしくは克明な調査の結果でした。
以上の記事はすべて真正面からブルバキを論じており、そこにはアミール・D・アクゼル氏のような嘘まででっち上げてエンターテインメントを作る姿勢は皆無です(アクゼル氏に限らず、例えばサイモン・シン氏はでっち上げをしないけれども、調査と数学的知識が乏しいので結局嘘になってしまっている例があります。要は著書が日本語訳されているような人達は多かれ少なかれエンターテインメント性が入っています。つまり今日の日本人[勿論、専門家を除きます]の知的レベルに合っているわけです)。それは当たり前で、ブルバキの中の人、ブルバキから招聘される人、ブルバキを学問的に調査する人のものですから面白可笑しく論じることが出来ないのです。そんなことが出来るのはブルバキと全くの接点が無い人です。つまりは何のお声もかからない、ブルバキからすればどうでもいい人です。
では、部外者であっても編集者、もしくはメディアの立場から見たブルバキを論じたものとしてクラウディア・クラーク女史の"The Author Who Never Was: Nicolas Bourbaki"(PDF)を今回紹介します。クラーク女史はAMS(米国数学会)ではメディア担当編集者であり、サイエンスライターでもあります。大学、大学院と数学を修められ、数学に関してド素人ではありません。私もいくつかクラーク女史の著書をちらと眺めたことがありますが、印象ととして知ったかぶりに難しいことを決して書かないことです。そして何よりも出来る限りの資料を読んで、曖昧さを残さない姿勢に好感を持ちました。そんな人でなければAMSでの仕事を任せられるはずがありません。
いずれにせよ、その私訳を以下に載せておきます。例のごとく、参照文献へのインデックスはそのままですが、参照文献を省略しました。

[追記: 2018年5月29日]
これを読めば、旧版和訳の復刻などは馬鹿の戯言だと思うでしょう。もし、それでも旧版和訳の復刻認可を願い出るならブルバキ代理人(おそらく現在はシュプリンガー社だと思いますが)から「はぁ?」と怪訝そうな顔をされても致し方ないです。仮にそんなことがあれば、それこそ日本が後進国であると馬鹿にされますよ。

存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ
2005年 クラウディア・クラーク

"秘密結社"。これらの言葉は最近の2つのベストセラーThe DaVinci code 1Angels & Demons 2を思い出させるかも知れない。これらの本は古代社会の物語を語っているが、彼等自身と彼等の信念を守るために数学を使ってミステリーに隠されている。もっと最近の過去を調べるともう一つ別の秘密結社を見い出すだろうが、非常に異なるものだ。
1930年代の中頃に始まり、この秘密結社は数学者達の小さなグループ―1950年代の中頃において会員数は"約12人"3と見積もられている―から構成されている。彼等は数学解説書を書いたが、"それが無ければ数学は現在あるものと全く異なっているだろう"4。典型的なメンバーはエコール・ノルマル・シュペリウールの卒業生だったが、エコール・ノルマル・シュペリウールは一般的にフランスにおける大学教育の最も権威のある機関だ5。最も生産的な時にグループは年に一巻または二巻を書いた3。メンバー達は1994年の京都賞受賞のアンドレ・ヴェイユ―彼もグループの開祖だ―のような世紀の最も偉大な数学者達6の何人かを含んでいる。だが、正式なメンバーリストは発表されていない7。そして、古いメンバーがリタイアする時3に新しいメンバーが加わるのでグループはまだ存在している。彼等は彼等自身をニコラ・ブルバキと呼ぶ。
科学的刊行における原作者問題がずっと最近に注目8を受けたので、原作者に関するブルバキモデルは特に検討することが興味深く思われる。ブルバキとして有名な、この数学者達のグループは何だったのか、そしてどのように始まったのか? 何を達成し、どのように達成したのか? この特異な原作者構造が出版業者達との交流にどのように影響したのか? そして、誰が本に対する所有権を持ち、誰が印税を受け取ったのか? それらの質問に対する答えを探すうちに私はブルバキメンバーの説明を読み、元メンバー達とブルバキと仕事して来ている出版専門家達にインタビューして来ている。

開祖達と土台
1934年暮れのパリにおいて、エコール・ノルマル・シュペリウールで教育された若い数学教授達のグループがカフェで数学解説書を書くことを議論するために会合した。彼等のうちの一人が教えているコースに対するテキストを彼等が書こうとすることは異常だった。当時のフランスの大学の数学教授達はそれほど規則正しく9やっていた。だが、彼等がすぐに追求しようと決定したゴール―そして"約3年以内"10で完成するだろうという見積り―は本当に異常だった。
彼等のゴールは"現代数学全体に対する堅実な基礎を与える"11であろうÉléments de Mathématiqueと呼ばれる数学解説を書くことだった。単数形Mathématiqueの使用は数学全体の統一12に対するブルバキの信仰を反映した。つまり、彼等は"数学のすべての分野に共通な基礎概念を明らかにする"13ことを努めた。ギリシアの数学者ユークリッドの幾何学に関する古典的解説書Elements of Geometry 7のタイトルに関する洒落は彼等の数学概念が"数学の現在の重大事を扱うために啓発的で利便的であるのみならず、これが実のところ数学の進化における究極段階、この科学のいかなる発展によっても不変のままである"14ことを意味した。その結果は"万人のため"のテキストでなく、参考図書、数学"百科事典"3、専門家達のための"ツール"10を意図した。ブルバキは殆ど仮定せず一から始め、一歩一歩残りの証明を進めたものだ。この解説書においては他の(早期の)研究のみを論及した。読者は歴史的背景を説明する節を除いて"厳密に固定された論理的順序"4で巻を読むことになっていた12。ブルバキは既存の、しばしば不正確な言語の使用を避けるために、それ自身の用語と表記を作った4。ブルバキは"応用性の最も広くて可能な領域を得るために数学の各部分を出来るだけ一般化しようと努めた"3から、読者を助けるために何らかのヒューリスティックな注意は"非常に曖昧で不正確、少数の語で正確にすることは不可能"だということで提出された草稿から"ほぼ変わらず捨てられた"。結果の巻々は非常に抽象的だと考えられた12。しかし、それらは"補遺"―読者のために"素晴らしい"練習問題を含む節も入っていた4
状況を考えればブルバキのゴールは完全に筋が通っていた。第一次世界大戦後、フランス数学は悪くなった。つまり、研究をしていたであろう数学者達の全世代の大部分が戦争の間に殺された。その世代はまたブルバキが属していた世代を教え、指導していた。結局、ブルバキの開祖の一人は彼の世代が基礎数学概念を教えられることなくエコール・ノルマル・シュペリウールを卒業していたと注記した10。そして一般的に、フランスにおける数学の既存の学習は他の国々、例えばドイツで見られる"厳密"を欠いた。ドイツは"その当時に科学を支配"していた。つまり、"部分的に第一次世界大戦後の遺恨のため、科学機関にいる人々はドイツ流の科学的方法を受け入れる用意が無かった"7。後に"開祖達"15と呼ばれる、この若い男達のグループはそれを変えたものだ。
ブルバキは"権威に反対する若い人々のグループの反抗"として始まったので、メンバー達は彼等の評判を守り、彼等の仕事に著者達の名前の長いリストを付加することを避けたかった。それ故に彼等は彼等自身にペンネームを与えることを決定した。そして匿名性は"我々は我々がこの有名な本のシリーズの著者達であること知っているのであるから、ナイト、ヒーロー、チャンピオン、最善"である精神に対する代償の小さな対価だったと1955年から1983年までブルバキのメンバーであるピエール・カルティエはコメントした。"我々はほぼ完全なものを成し遂げることに誇りを持った。それが強い報酬だった"。そして"秘密結社"に属することはおそらく魅力的で"ロマンティック"な概念だったと彼は付け加えたが、憶測の話題だった一方で会員資格は全くの秘密ではなかったけれども7。ナンシーの町のブルバキ将軍の彫像におそらく基づいてメンバー達は名前にニコラ・ブルバキを選んだ。ナンシーでは多くのメンバー達が教えていた。"ニコラ"は聖二コラによる贈り物の到来をほのめかしているのかも知れない16
これらの"贈り物"を配布する実際のペースはメンバー達が最初に見積もったよりもずっと遅かった10。例えば、4年かかって単一の章からなる最初の巻が1939年にやっと刊行された15(自己完結ユニットとして意図された、その章は典型的に200から250ページの長さであり、"本"はしばしば一巻よりも多くからなっている。例えば、代数に関するブルバキの本Ⅱは10章を持ち、一巻よりも多くが刊行された)。遅延はブルバキの作業方法に関係している。彼等の共同作業の精神で、開祖達はどのメンバーも草稿に作用することを乞われると決めたが、それは"改訂"として知られる。引退した一人のメンバーは"最初の草稿はスペシャリストによって書かれたが、後のものを誰かが書くことを乞われるかも知れない"12と報告している。典型的にメンバーは年に3回会合―1回は2週間、2回は1週間―し、書き物はすべてのメンバーに声を出して読まれた。同じ共同精神で、全員が会合―これも"会議"として知られる―の間に意見を声を出して言うことが期待されたが、概してメンバー達は同時に自分達の意見を喚く混沌とした雰囲気となった。それは書き物の書直し、または完全な却下となった。非メンバーは彼が出席した最初の会合の光景を次のように要約した。"互いとは関係なく、二つまたは三つの独り言がトップボイスで叫ばれた"12
非メンバー? そう、妻達(すべてのメンバーは男だ7)と少数の他の部外者達がゲストかつアドバイザーとして招待された9。更に開祖達は、その分野の最も現在流布している研究をするという会員資格を維持する望みを反映してブルバキのメンバーは50歳までに引退するべきことを決定した10。従って、能力を持つ新しいメンバー―モルモットまたはテンジクネズミと呼ばれる―はブルバキの会合に招待された。彼が議論に参加するなら、後ろへ招かれ、結局メンバーとされるであろう10。数人の数学者達が初期世代に合流したものだ。第二次世界大戦後の数年間に"ミドル"と呼ばれる第二世代―概して開祖達の有望な学生達―がそのようにして選ばれたものだ7
会合の混沌―そして、すべての決定は満場一致であるという条件12―を考えると、何らかを出版することはもちろんのこと、一つの版にグループが賛同出来たことは驚異であるように思えるかも知れない。各章が数回の改訂を重ね、時には中間の草稿よりもオリジナルの草稿に近くなったことは事実である。しかし、メンバー達は議論が激しければ激しいほど、より実りがあったと言ったものだ。つまり、"本当に新しく画期的なアイデアは順序立った議論からよりも対決から発生するらしいということが根底の考えだった"と1949年から1973年までブルバキのメンバーであるアルマン・ボレルはコメントした。伝えられていることによれば、メンバー達は特に熱い議論の後で"l'esprit a soufflé"―"魂が息吹く"―と述べた12
他の、おそらくもっと世俗的な仕事も草稿を刊行作品にするために要求される。非メンバーは殆どいつも秘書として雇われ、その仕事はタイピング、書簡でメンバー達に通知する、ブルバキ"会議"を準備することを含む。ブルバキのメンバー達はグループを管理する、会合中の草稿の変更をノートする、最終原稿の書き上げまたはタイピングする、出版社と取引する、出版社の最終ゲラ刷りと組み見本を校正することのような仕事を実行する。遂には少数のメンバーが長年に渡ってグループの非公式の"科学的リーダー"だと見なされ、彼等は非公式にグループの数学的焦点を指導した7。アンドレ・ヴェイユが最初のそのようなリーダーであり、第三世代"若人"15のピエール・カルティエがもう一人のリーダーだった。
殆どのメンバー達が彼等の会員資格の間の部分的または全期間にそれらの仕事をせいぜい1つまたは2つを引き受けたけれども、少数のメンバー達は特に活動的だった。彼等は開祖ジャン・デュドネを含んでおり、彼は1950年代に引退した。いくつかの章を起草することの他に7、彼は"最終原稿、練習問題、全巻(約30巻)の印刷のための準備を担当した。その全巻は彼がメンバーだった期間とそれを少し超えた間に出版された"12。彼は出版社からの校正も読んだ7。その仕事のおかげで、一貫としたスタイル―それをデュドネは"ブルバキ用に採用した"―が彼のテニュアの間に本に課せられた12
ブルバキにとって本の中の言葉の明白な重要性のため、彼等のコントロールを維持することを許す出版社と仕事する必要があった。数学ジャーナルにいくつかの論文を発表した後に4、ブルバキは非常に高名な科学出版社エルマンを選び、エルマンはブルバキの解説書に対する権利を与えられた5
カルティエの言葉では、開祖ジャン・デュドネはブルバキの最初の長期間"マネージャー"だった。その資格において、デルサルトがエルマンと最初の契約に署名し、印税を受けた7

"黄金時代": 1950年代と1960年代
1930年代半ばの後でÉlémentsに関する作品が始まったけれども、ブルバキの作品の殆どが第二次世界大戦後まで出版が始まらず、1950年代と1960年代まで本気で出版されなかったものだ。何故か? 一つには、各章を書くプロセスが既に述べたように非常に時間を要した。更にメンバー達は戦争の間に作業を続け、デルサルトがやっとのことブルバキのメンバー達―暫くの間フランスから脱出を余儀なくされたり、または隠れていなければならなかった人々を含む―との通信を維持出来たのに、一巻も印刷出来なかった7
戦後、"十分な題材が完備し、次の2年間に渡って6巻または7巻を刊行出来た"とカルティエは述べ、ブルバキは再びÉlémentsを書き、出版することに集中出来た。これが余りにも巨大な仕事だったので、戦後の新しいブルバキのメンバー達の加入があっても、メンバー達は彼等に最も興味を持たせる議題について取り組むように容易に選べた。カルティエの言葉では、皆が"食うには十分"7だった。
そして、彼等は食った! 1950年代の終わりまでに、デュドネのように特に多作なメンバー達のものを含むブルバキの作業によって、基礎的題材に関する作品―本質的に修士号の数学学生が知りたがっている題材3―は"本質的に終了"したものだ12。1950年代と1960年代―カルティエによって"ブルバキの黄金時代"と呼ばれる―を通して、多くの作品が完成し、エルマンは年に1巻または2巻を新しく刊行したものだ。ブルバキの6つの基礎本を含む30冊以上だ。それは本Ⅰ、Théorie des Ensembles(集合論)と本Ⅱ、Algèbre(代数)を含む。同時に"すべての本は版を重ねた。それらは訂正され、質を高められ、改善された"7
巻々が刊行されるにつれて、それらは非常に人気となり―売り切れて増刷の刊行を要求される―、ブルバキは強い影響を持った7。数学者ラルフ・ボアズ・ジュニアはいくつかの理由を次のように述べた。ブルバキは"以前は散らばった論文の中でのみ入手可能だったトピックスの最初の系統だった説明を与え"、そのアプローチも純粋数学者達に特にアピールした。また、"数学者達はブルバキを読むためにブルバキの用語を学ぶ必要があったので、その用語は広く知られるようになり、研究の語彙の多くを変えてしまっている"16。1955年にブルバキに合流したカルティエは戦後に刊行された最初の巻でさえ"私の世代に様々なインパクトを与えた。それは私が本当に数学を学んだところだ。それらの巻々はブルバキの名声とブルバキのパワーを確立するのに大いに役立った。私の世代はブルバキの学問的パワーに魅了された。そして、他方でブルバキのメンバー達はフランスの学問的システムの中で非常に高い地位を勝取った非常に傑出した数学者達だった"7と述べた。
1950年代の初期においてさえ、Élémentsの売上からの印税はデルサルトの税金を増やすには十分に大きかった。何かがなされる必要があった。カルティエは半分冗談で"メンバー達が印税を分割する必要があるなら、喧嘩を始めるだろう。グループの平和を守るための一番いい方法は"非営利組織になることだった。ブルバキが秘書の給与、タイプライター(そして、結局コンピュータ)、メンバー達が年3回の会合に出席する全出費を含むグループの費用のために収益が使用されることを示す必要があった。そのようにしてAssociation des Collaborateurs de Nicolas Bourbaki(ニコラ・ブルバキの協力者協会)は少なくとも名目上で総裁、会計係、秘書を命じて公式事業体になった7
1960年代半ばにエルマンは英語の版権を米国の出版社アディソン-ウェスリーに売り、翻訳本の刊行のために手はずを整えた5。翻訳はロシア語、ドイツ語、スペイン語を含む他の言語でも出版されている。
ブルバキが請負っていた別の活動に関連して彼等も少数の他の出版社と一緒に働いたものだ。つまり、1948年の始めにブルバキは有名な年3回のSéminaire Nicolas Bourbaki(ブルバキセミナー)を始めた。"これらは国際的なコンファレンス"17であり、数学者達が彼等自身の最近の研究または他の数学者の最近の研究のどちらかを発表する。ブルバキがトピックスを選び17、報告書を刊行させている。1950年代には"論文の約半数がブルバキのメンバーによって書かれた"し、彼等の数人は"彼等の発見の一部分を、または後に本の中で出現するブルバキのアイデアの予備説明をセミナーシリーズで公開した"。今日、"まだ有名なシリーズだが、ブルバキと直接の関係を持たない人々によって通常書かれている"3とカルティエは述べている。セミナーの出版社はニューヨークのW A Benjamin, Inc、シュプリンガー出版社、フランス数学会を含む18
ブルバキが影響を持つようになった間にグループは"益々ペンネームの使用に関する彼等のジョークに夢中になり、しばしば人々にニコラ・ブルバキという名前の個人が実際におり、本を書いていると説得しようとしたらしい"。ラルフ・ボアズ・ジュニアが語る一つの物語はEncyclopaedia Britannicaの中の記事で彼がブルバキを"集団ペンネーム"と呼んだ時あたりだ。ブルバキはEncyclopaediaとボアズの両方に抗議の手紙を送った。後者に対してブルバキは"惨めな虫の貴殿よ、よくも図々しく私が存在しないと言えるな?"と要求した。ブルバキの存在問題を解決するための圧力に対する反響の中で、ボアズはEncyclopaedia Britannica編集者Walter Yustをアメリカ数学会の秘書J R Klineに差し向けた。Klineはアメリカ数学会における会員資格に対するブルバキからの初期の申し込みは個人ではないという理由で却下されたと述べた。後でボアズは"私はブルバキがボアズはMathematical Reviewsの編集者達の集団ペンネームに過ぎないという噂を広めようとしたことを聞かされた"16と述べた。

方針と出版社の変更
ブルバキの成功とユーモアのある妙ちきりんな行動の真っ只中で、深刻な問題が持ち上っていた。いったん6つの基礎本が1950年代に書上げられるとブルバキは次に何を書くべきか? カルティエは"先ず第一世代は無からプロジェクトを作らなければならなかった。彼等は方法を作る必要があった。それから40年代において、方法が明らかになりブルバキはどこへ行くべきか分かった。彼のゴールは数学のための基礎を与えることだった。何を含むべきかはだいたい明らかだった。第三世代はそれを越えなければならなかった"3とコメントした。引退したメンバーのボレルは数学が"様々に育って来た"と述べた。そしてブルバキの第一世代の引退があり、次世代は一つのトピックから次へと線型的のみに進めるような伝統を疑問視出来た。いくぶんブルバキの作品により啓発されて、ブルバキがまだ取組んでいなかったトピックスに関して良い題材が今や存在した。他の重要なものに関して書くことを延期して来た一方で、これらのトッピクスについてもブルバキは書くべきなのか? "2つの傾向、2つのアプローチが出現した。1つは自治的方法、つまりブルバキの伝統的方法で広大な基礎の構築を続けること。他はもっと実用的で、たとえ最も一般的なところで徹底的には設計されていなくても、私達が処理可能と思う値打ちのあるトピックスを取り掛かること"12
長い議論の後、メンバー達は彼等を前進させる決定に到達した―"ブルバキのアプローチが有用な解説を造れるかも知れないと彼等が思った"議題を追究するための十分な土台を敷設しよう。20年間、1960年代の初期に始まり、彼等はもう2つ別の本を、更に3つ目の本の2章を書いたものだ12
ブルバキが"前線により近い特殊化されたトピックスを処理すること"を始めたように、任意のメンバーが任意のトピックについて書けるべきであるという理想を維持することはもっと困難だった。"そのルールは始めのうちは厳格だったが、もっと緩やかになった"12けれども。ブルバキも非メンバー達の時折りの援助を受けた。少数の非メンバー達の寄与はそれが本の中でクレジットされるほどに十分に重要だったが、これは典型ではなかった7。1974年から1995年までブルバキのメンバーであるベルナール・テシエは、概して非メンバー達からの任意の援助―部分的な改訂を書くこと、または練習問題を示唆することを含む―は"感謝の印も無しに、良い理由のために友好的な助け。改訂を書いている過程のメンバー達は時折りそれを或るエキスパート見せて印象を聞いたものだ"19と認められていると述べた。カルティエの言葉では"メンバー達と非メンバー達の間の境は完全には定義されていなかった"7
カバーすべき新しいトピックスに関する決定に加えて、ブルバキは"もう一度Élémentsを改訂し、少なくとも15年間手を加えられないように'最終'版を刊行する"12ことを決定した。その結果、いくつかのトピックスは"発展し、深化させた"。いくつかの証明を改善し、いくつかの練習問題が追加され、小さな巻が"ブルバキの観点で明らかに間違っているものを正す"3企てで刊行された。ブルバキはまだÉléments de Mathématiqueの部分を改訂している20
その仕事が進行していた間に、ブルバキが長年維持して来た出版社エルマン21との良い関係が1970年代の半ばに印税と翻訳権3をめぐって結局は口論となった。ブルバキとエルマンの間の長期の法廷闘争(それは1980年に終わった)の後、ブルバキは彼等の作品のすべての所有権を、また売残り又は製本されていない巻をも取り戻した7。その時点でブルバキはフランスの出版社マッソンと一緒に働いたが、マッソンはブルバキが訴訟の間に取組んで来た5巻又は6巻とエルマンから返された巻を刊行した3。シュプリンガーは英語翻訳の出版社になった。ブルバキは新しい本または既存の本の新版に対する契約を"一つ一つ"出版社達と結ぶことを好んだから、再びエルマンに"体験に基づいて全てのシリーズに対する何らかの権利を与え"ないだろう5
後にカルティエはブルバキが将来方針を定めるのに捧げた時間とエルマンとの訴訟は"グループの勢いを鈍らせた"8と述べたが、彼は次のように根拠を挙げている。ブルバキの最新の作品―187ページからなっている―は1998年に刊行されたが、たった200部しか印刷されず、どのジャーナルにもリヴュされなかった。そして、その最新作の大部分が1980年代の初期に書かれていた! 現在、ブルバキの作品のフランス出版社は無い。最後の巻が刊行された同じ年にマッソンはもうこれ以上ブルバキの作品を刊行しないことを決定した。結局、マッソンによって刊行された27巻のうち10巻のみが現在のところ入手出来る7

ブルバキは70歳になる
引退したメンバーのアルマン・ボレルは1998年に"数学とその統一の大局的ビジョンの促進、解説のスタイル、記号の選択によって、数学に永続的なインパクトを持つことはブルバキによって十分に実行された"と述べた。これの一つの小さな尺度はブルバキの用語と記号のいくつかが標準的な数学記号になっていることだ。例えば、数学のコースで"集合"を習ったことを思い出すかも知れぬように、何も含まない集合に対するシンボルは∅である。それはブルバキによってノルウェー語のアルファベットから採用された22
現在はどうか? 早くも1980年代の半ば―ブルバキが50歳に近づいていた時―に一部がブルバキが引退すべき時だ7と示唆したけれども、たとえ皆が彼は大丈夫と思っていなくても彼はまだ生きている。
2004年の最近にシュプリンガーはブルバキの巻の英語訳を刊行した。しかし、シュプリンガーの編集者Byrneは最近15年に渡るブルバキ本の売上が下落し、本の値段の上昇を引き起こしていると述べている。2005年の早期時点で最近刊行されたハードカバーの巻が€106.95だ23[訳注: 1ユーロを大体130円と考えると高価格です]。Byrneの考えでは、売上の下落はブルバキのアプローチが"過ぎ去っている時代"を象徴しているからだ。数学のテキスト本では幾何的手法と直観的アプローチが人気になっており、ブルバキが無視した議題―確率論のような―が数学において非常に重要になっている5
活動は遠い過去でのように強烈でも多作でもないけれども、ブルバキはÉléments de Mathématiqueの改訂を続けている。ちょうど今、ブルバキ秘書のViviane Le Dretは"Algèbre、第8章の新しい完全改訂版がすぐに出現しようとしており、ニコラ・ブルバキはGeneral Topologyの第11章をひたむきに書直している"と報告している。加えて、フランス国立科学研究センターのArchives de la Création Mathématique研究ユニットが約200の改訂稿をスキャンしている20
終わりにあたって、70年間ブルバキは原作者に関する興味をそそるモデルを与えて来ている。その一つ、個人達が喜んで相当な時間とエネルギーを匿名で彼等が信じる大義に仲間の熱愛者達と一緒に働き、彼等自身の数学知識を広げ、深い思考と騒々しい議論に従事しながら捧げている。ブルバキに所属することから結局は来るであろう信望が付加的恩典だった。H Petard4やJohn Rainwater24を含む他の数学者グループも匿名的に一緒に活動して来ているが、数学におけるブルバキの作品とインパクトの重要性は唯一無二に見えるし、そのままかも知れない。ミシガン大学の副学部長であり数学教授のロバート・メギンソンはそんな努力に匿名で寄贈するブルバキのメンバー達の自発性は現在の文化において起こり得ず、現在の文化では個人達が彼等の研究を認めて欲しいし、職に対する競争のために研究を認められる必要があると言った25
ブルバキは成し遂げようとしたことをやって来ているのか? カルティエの言葉では"その最初に述べられたゴール、既存数学全体に対する基礎を与えることは達成された"3。だが、それを超えて"ブルバキはその夢のすべてを実現して来なかったし、その目標のすべてに全く近づいて来なかった"とボレルはコメントした。例えば"私達はもっと本を書いていたかも知れない。もっと言えば、おそろしいほど大量の未使用題材がブルバキのアーカイブにある"12。ブルバキにとって次は何か? モティベーションが続くのか、それとも新しいモティベーションがそれ自体を提起するのか? それらと他の問いに対する答えにかかわらず、ブルバキの作品に対する関心は続く。2000年2月にPour la Science(Scientific Americanのフランス語版)がそのシリーズLes Génies de la Science(科学の天分)の第2号をブルバキに捧げた26。そして誰が知ろう、この存在しなかった数学者がいずれ"彼の"100歳誕生日を祝うかも知れない。

参照
(略)[訳注: 原文で見て下さい]

13528232 journal
数学

taro-nishinoの日記: 第三帝国における数学出版: シュプリンガー出版社とドイツ数学者協会

日記 by taro-nishino

ナチ政権下でのドイツ数学界の崩壊については、これまでも"ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学"、"フランクフルト数学セミナーの歴史について"を紹介しました。
こういう惨状に至らしめたのは言うまでもなくナチなんですが、いつの時代でもどの国でも馬鹿共は必ず出現して繁栄し、それをまた馬鹿共が支持して世論を形成するという人間社会の構造的欠陥を今更とやかく言っても始まりません。問題は数学界にいる人々が政治的難題をどう考え、どう対応し、どう行動したかなんです。当時のドイツ数学界の状況を今から考えるとまともな人は海外移住するしか方法がなかったくらい馬鹿共が権勢を誇っていました。ヒルベルトがもう少し若くて元気であれば、もう少しソフトランディングを出来たかも知れないという非常に無責任な意見がありますが、そんな仮定上の話をしても仕方がないし、もう一人の力ではどうにもならないくらい当時のドイツ数学界は腐っていました。
その腐ったドイツ数学界で有名なのが誰もが知る、あの悪名高きルートヴィヒ・ビーベルバッハです。私はいつも言うのですが、どの分野でも超一流、一流は世界規模に視線を向けるが、二流、三流以下は国内にしか視線を向けません。ビーベルバッハは典型的な二流以下の人物です。それなりの数学貢献があると言う人もいますが、それを考慮してもビーベルバッハが仕出かしたことの重大性から見れば差し引きで完全に負しか残りません。ビーベルバッハは戦後に数学界から追放され失意の中で亡くなりました。
では、ビーベルバッハ以外の人物はどうなったか。それなりの罰則を受けた人が多い中で、うまく逃げ果せた人の代表例がヴィルヘルム・ジュースです。私や私の友人共よりも若い年齢の人達は無邪気にもジュースと言えばオーバーヴォルファッハ数学研究所を設立した人くらいの認識しかありません。そんなことでいいのかということで友人共の一人と相談して今回紹介するのはヴォルケル・レンメルト博士の Mathematical Publishing in the Third Reich: Springer-Verlag and the Deutsche Mathematiker-Vereinigung です。
私がこの論文を知ったのは2010年で全く偶然でした。当時私はラインホルト・レンメルト博士のグラウエルト博士との共著論文の一つを読んでいて、ある箇所で数学的事項ではなくドイツ語の表現の仕方に違和感を覚え、こんな表現が普通なのかどうかドイツ語圏内で検索を繰り返したところ、その論文に出会いました。一瞬、あれぇレンメルト博士は数学史の研究もしていたのかと思いましたが、よく調べるとヴォルケル・レンメルト博士はラインホルト・レンメルト博士の御子息です。それからは友人共や海外の友人達に読め読めとしつこく言った思い出があります。なおラインホルト・レンメルト博士は2016年3月9日にお亡くなりになりました。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
そのヴォルケル・レンメルト博士の論文の私訳を以下に載せておきます。例のごとく、注釈欄を省いていますが、インデックスはそのままです。

[追記: 2018年2月17日]
この論文はあくまでシュプリンガー関連のみを扱っています。ビーベルバッハやジュース等は他にも悪事をやりたい放題やりました。それらの詳細は、この論文の参考文献にも載せられている同博士の Mathematicians at war: Power Struggles in Nazi Germany's Mathematical Community:Gustav Doetsch And Wilhelm Süss (PDF)が詳しいです。
私がビーベルバッハやジュース等を許せないのは、彼等は数学をやっているのではなく、ヤクザ顔負けの脅し、陰謀、ナチ政権の忖度等を何の良心の呵責もなく平気でやっており、完全に数学者ではなく政治屋です。ここで政治家と言わないのは、政治家なら政治の舞台で正々堂々とやるべきなのに、それをやっていないからです。政治屋はそこらの総会屋と変わらないレベルの低い輩と言ってもいいでしょう。

第三帝国における数学出版: シュプリンガー出版社とドイツ数学者協会
2009年 ヴォルケル・レンメルト

1937年10月、フライブルクの数学者ヴィルヘルム・ジュース(1895-1958)がDeutsche Mathematiker-Vereinigung[訳注: ドイツ数学者協会](DMV)の総裁に選ばれた。DMV委員会のメンバー、ヘルムート・ハッセ、コンラッド・ミュラー、エマニュエル・シュペルナーが1937年8月に適格な候補者を探していた時、彼等はジュース支持論があることを知った。彼がDMV業務に関心を持っていることは知られていたし、DMV委員会での傾向、言い換えれば彼等自身のものと彼の見解が一致すると思った。彼はルートヴィヒ・ビーベルバッハ(1886-1982)の学生だった。ビーベルバッハは第三帝国においてDeutsche Mathematik[訳注: ドイツ人数学]という反ユダヤ主義の人種的理論をプロパガンダし、DMVに反対な国家社会主義者の数学者達のグループを率いていた。DMV委員会はジュースが元先生をDMVと和解させること、少なくともビーベルバッハの徒党からの政治的攻撃の脅威からDMV及びその政治的見解を守ることを出来るかも知れぬと願った。更にジュースは最近ナチ党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei[訳注: 国家社会主義ドイツ労働者党])のメンバーになっていたから、教育研究省と良い関係を持っていると思われた。従って、それが1937年10月にジュースの当選を賛同した。
ジュースは次第に第三帝国においてドイツの数学コミュニティの最も有力な代表者の一人になり、ナチ当局、特に教育研究省と親密に協力した。この協力中にDMVの専門家的ポリシーは、ナチ政府のまさに核心、特にその反ユダヤ主義と反国際主義に立つ問題と密接に絡み合った。教育研究省はこれらの価値観を科学の分野に伝えることに懸命だった。このプログラムにおけるDMVの協力、特にジュースの協力は(その結果は彼等のコントロールを超えていたが)、戦争の間の彼等の有力で成功した専門家的ポリシーの必要条件だった[10]。
DMV総裁の任期中(1945年まで続いたが)、ジュースは繰返しシュプリンガー出版社と対立した。シュプリンガーはドイツの最有力科学出版社の一つだが、その数学部門は世界中の名声を持っていた。第一次世界大戦後、シュプリンガーは数学において第一級の出版プログラムを始めるために傑出した数学者達を登用した。この事業においてフェリクス・クライン、ダフィット・ヒルベルト、リチャード・クーラントがゲッティンゲンの影響を意味した。シュプリンガーのイエロー本は最も遠い所にもすぐに知られ、どの数学者も逃れられないイエロー疫病とよくほのめかされた。DMV代表者としてのジュースとフェルディナント・シュプリンガー及び彼の数学的アドバイザーのフリードリッヒ・カール・シュミット(1901-1977)の間の衝突の多くの事例は国家社会主義のもとで科学出版の独立性がどのように動揺させられたかを実例で説明するのに都合がいい。

ジュースとMathematische Zeitschrift [訳注: 数学ジャーナルという意味ですが、固有名詞なので以降そのまま表記します]
1938年3月3日、ジュースはDMV総裁としてベルリンへ行きDames博士と会った。Damesは教育研究省において数学の責任者だった。ジュースはDMV委員会のメンバー、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でこの会合について報告した1。最初ジュースとDamesは1938年9月にバーデン=バーデンで催されるDMVの年次コンファレンスの編成を議論した。それから彼等は、ユダヤ人と亡命者のDMVメンバー("Judenfrage"[訳注: ユダヤ人問題という意味ですが、固有名詞化しているので以降そのまま表記します])を対処する方法、数学出版におけるユダヤ人数学者達の影響を制限する方法についてもっと政治的に関連する問題に関して話した。これらの問題の処理に対する管理に関する重要政治課題または何らかのルールを教育研究省は直接的に厳命しなかった。それどころかジュースはDMV委員会の支持を受けて、"Judenfrage"に関するDMVポリシーをまとめることに率先した。彼の動機の中には、専門的ロビー活動の手段としてのDMVの立場がルートヴィヒ・ビーベルバッハに反対の根拠を失うだろういう懸念があった。特にビーベルバッハと彼の徒党が国家社会主義者数学者連盟(NS-Mathematikerbund)を計画していたので、彼等の計画を公認するためにユダヤ人と亡命者のDMVメンバーの問題を明確に指し示し、実質的にドイツの数学コミュニティにおける分裂を脅していたからだ。ジュースは、Damesに数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に注意を促した時、Mathematische Annalen[訳注: 数学年報という意味ですが、まさか数学界にいる人でこのジャーナルの名前すら知らない人がいるとは思えませんし、固有名詞ですから以降そのまま表記します]とMathematische Zeitschrift(MZ)、両方ともシュプリンガー出版社により刊行されているが、両誌の編集委員会の状況に関する"個人的見解"をしたことを報告している。ユダヤ人達は発表をまだ許されているはずだけれども、ドイツのジャーナルはユダヤ人達によってこれ以上代行されるべきではないと彼は述べ、この問題に関する彼の立場はDamesに明らかであると希望した。これに対してDamesはシュプリンガーに圧力をかけることを約束したが、その結果著者達はユダヤ人編集者達ともう交渉する必要はないだろう。
これはハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でジュースが言ったことだけれども、Damesとの会話の中で彼は明らかにもっと明確になっていた。数日後彼がDamesへ手紙を書いた時、彼が思うシュプリンガー出版社における編集組織に関する問題に立ち戻った。彼はリチャード・クーラントの"イエローシリーズ" Grundlehren der mathematischen Wissenschaften in EinzeldarsteLLungen[訳注: 諸例における数理科学の基礎]のための段取りを述べた。"イエローシリーズ"ではF. K. シュミットが主任編集者、ユダヤ人亡命者クーラントが"アングロサクソン領域"のための編集者だった。彼はMathematische Annalenに対しても同様な段取りがなされていると判断した。Mathematische Annalenの編集長オットー・ブルメンタルはユダヤ人だった。ジュースによればシュプリンガーは英国で共同編集者を探していた。ジュースの見解は、"ドイツの名声"のために"我々のチャンピオンであるフェリクス・クラインによって創始された、この一流ジャーナル"2に影響を持っている外国人達を阻止すべくすべての手段が使用されるべきであるだった。既に起きている実例として、彼はZentralblatt Für Mathematik und ihre Grenzgebiete[訳注: 数学及びその周辺分野のための主要ジャーナル]を指し示した。このジャーナルは今や亡命者オットー・ノイゲバウアーによってコペンハーゲンから運営されていた。
MZに関してジュースによれば、事は良好だった。しかし、彼はDamesに頼んだこと、つまり教育研究省が"イサイ・シューア教授をMZ委員会から解任するよう出版社に命じること"を思い出させた3。彼自身はMZの編集長コンラート・クノップに問題を提起するだろうと付け加えて書いた。
1938年3月1日、つまりジュースのDamesとの会合の2日前、クノップはジュースに手紙を書き、MZの諮問委員会(wissenschaftlicher Beirat)に加わるよう招聘した。それはシュプリンガーの編集委員会をアーリア化しようとするジュースの努力をいくぶん曖昧に解明している4。クノップからもっと早期の招聘があったが、MZ委員会に2人のユダヤ人メンバー、エトムント・ランダウと先に言及したイサイ・シューア(1875-1941)がいたからジュースは辞退した。イサイ・シューアはクノップ、レオン・リヒテンシュタイン、エルハルト・シュミットと一緒に1918年のMZの共同創始者だった。エトムント・ランダウが1938年2月に亡くなり、状況を変えた。クノップがジュースに説明したように、これがクノップに改めて招聘させることとなった。ジュースがDamesにシューアをMZ委員会から解任せよと要求した時に、彼が3月3日までにクノップの2度目の招聘を既に読んでいたかどうかの推測は未解明だが、DMVのハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告の中で彼はシューアの問題に言及しなかったし、クノップへの返書の中でも言及しなかった。この返書の中でDamesとの会話を説明している。だが、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告で言ったこと及びDamesへの早期の手紙のそれと違うバージョンだ。クノップに対して、数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に関して指揮を執っているのは教育研究省だったと彼はほのめかし、教育研究省からはMZ委員会からシューアの排除があるだろうと聞いたと言っている。しかし、この行動の過程を明らかに要求していたのは彼自身だったことを言及していない。クノップへの手紙の中で描かれているように、ジュースの主な関心は彼がMZ委員会に合流するならシュプリンガーに関するDMVポリシーを実施するための彼の自由度に起こり得る制約だった。クノップは彼に、これは該当しないだろうこと、シューアに関してはクノップも数学ジャーナルにユダヤ人達が公式的にこれ以上参加することは実際的ではないと考えていたので、その問題に教育研究省が手を貸すことを歓迎するだろうことを言って安心させた5
4月Reichsschrifttumskammer[訳注: 第三帝国文学院](ゲッベルスの宣伝省の一部門であり、その役割はドイツのライターと出版社をコントロールすることだった)は、Mathematische AnnalenMZの委員会にまだユダヤ人編集者達がいるのなら理由をシュプリンガーから知ることを命じた。Reichsschrifttumskammerは特に教育研究省によって作られた質問に言及した。4月の終わりまでにシューアがMZ委員会を去らねばならないだろうことは明らかだった。クノップがこれをジュースに報告した時、MZ委員会へ合流の招聘は遂に了承された。シューアの名前は1939年のMZのタイトルページに現れず、彼は同年に移住した。
だが、これがシューアへの唯一の圧力ではなかった。1938年3月末、ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーにおいて、シューアを意味する"ユダヤ人達がまだ学界委員会のメンバーだということは驚く"と言っていた。数学者テオドール・ファーレン(1869-1945)は長年ナチ党員でビーベルバッハの盟友だったから、交代を要求していた。そして、マックス・プランクは問題を処理すると約束をしていた。一週間内にシューアは委員会を辞職していた[12, p. 122]。

Zeitschriftとシュミット事件
ユダヤ人数学者達とシュプリンガー出版社の間の関係に関するジュースの報告及び1938年3月のイサイ・シューアに関する告発が彼の数学出版への介入、特にシュプリンガーを攻撃する唯一の企てではなかった。
シュプリンガーがオットー・ノイゲバウアーとリチャード・クーラントの賛助のもとでZeitschriftを刊行したことで1931年にドイツの数学査読の分野に登場していた。始めからZeitschriftはベルリンのプロイセン科学アカデミーによって刊行された伝統的なJahrbuch über die Fortschritte der Mathematik[訳注: 数学の発展年鑑]と直接に競合した。Jahrbuchは査読において絶え間の無い遅れで悪名高かった一方で、Zeitschriftはもっと効率がいいことですぐに有名になった。1939年までにJahrbuchはルートヴィヒ・ビーベルバッハの絶え間の無いイデオロギー的干渉と付き合わなければならないでいた。ビーベルバッハはアカデミーのJahrbuchのスポークスマンとして就任していた。Zeitschriftもナチの人種的かつ国家主義的ポリシーに関する問題を抱えた。編集委員会に非アーリア人メンバー達がいた。つまり、例えばイタリア人数学者トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ。彼は1938年10月に追い出されなければならなかった。その編集長である亡命者オットー・ノイゲバウアーはレヴィ=チヴィタ事件の結果として1938年11月に辞職した。その上に、ジャーナルは国際的にふさわしいのが明らかだったので、1937年12月にシュミットはZeitschriftとの協力のせいで教授職に関する交渉において一人の数学者が嫌われてしまっているとシュプリンガーに報告していた6。これらの環境を考慮に入れると、それぞれの出版社de Grnyterとシュプリンガーの間に経済的競争が無く、Jahrbuch委員会におけるビーベルバッハとシュプリンガーの間のイデオロギーの不一致が無ければ、2つのジャーナルがある種の同盟を結んでいたことは妥当であったであろう。しかし、30年代の終わりまでZeitschriftJahrbuchの融合または少なくとも協力は議論された。
1938年末、新しいジャーナルMathematical Reviewsが米国においてアメリカ数学協会によって創刊されようとしているというニューズがドイツ数学コミュニティに広がった。当然これは、ナチ党員であるか否かを問わずドイツ人数学者達と出版社各社の間に騒動となった。1939年1月ビーベルバッハはde Grnyterとシュプリンガーに融合を考えるよう促し、手順に関する詳細な提案を作製さえもした。また1939年の始め、DMV、すなわち総裁ジュースがde Grnyterとシュプリンガーに融合させるために直接の圧力をかけようと努めた[12, pp. 167ff], [9, pp. 327-333]。
シュプリンガーが1939年の1月、遅くとも1939年3月に融合のアイデアを考えたと議論されて来ている[12, p. 168-170]。しかし、シュプリンガーは彼自身のプランを本当に持っていた。それは先ず米国人達と状況を議論し、出来ればZeitschriftMathematical Reviewsの協力をもたらすことだった。
フェルディナント・シュプリンガーは1938年12月にオズワルド・ヴェブレンとMathematical Reviewsの創刊を議論し、彼の数学査読における利益のために主要数学アドバイザーのシュミットを米国に送ることを提案した[9, p. 331]。ジュースはこれを聞き知り、すぐに教育研究省のDamesに、シュプリンガーが動機についてジュースに知らせない限りシュミットに旅行許可を与えないよう迫った7。ジュースはまたDamesに省とReichsschrifttumskammerの両方の上司にシュプリンガーの計画を知らせてはどうかと言った。シュプリンガーが米国に行くシュミットのために省の許可を獲得していることをジュースが4月に知った時、Damesの上司のKummer大臣に手紙を書き、再びシュミットの旅行に強く反対した。彼はJahrbuchZeitschriftの間の競合とそれらの融合に対するDMVの関心を指し示した。シュプリンガーのMathematical Reviewsとの接触が、実際に彼等がしたように、このアイデアに反して走るだろうという恐れをジュースは述べた。議論を強化するため、彼はZeitschriftを"ユダヤ人数学者達と彼等の友達のグループ"の組織として特徴づけ、シュプリンガーがまだ移住者達、特にリチャード・クーラントと近い結びつきを持っていると強調した。従って、"シュプリンガーのスポークスマンによってドイツの大義が米国においてともかくも表現されるだろう"ことは疑わしいとした。とうとう彼はシュミットが次週に米国へ旅立つつもりだから旅行許可を無効にしてはどうかと言った8
2日後の4月29日、ジュースはベルリンのKummer大臣に事はどうなっているか訊ねるために電話をした。Kummerがシュミットは既に旅立っていることを知らせた時、ジュースは彼の知識によればシュミットは船に乗るためブレーメンに向かう途中に過ぎず、船は米国から5月1日または2日に到着するはずなので、シュミットをまだ止められることを意味していると言った。Kummerはこれを取り上げなかったが、教育研究省の彼の上司がきっぱりとシュミットに行かせることを決定していると説明した。シュミットがZeitschrift問題を議論するのみならず、米国人数学者達の中の雰囲気を評価し、可能なら彼等の気持ちを和らげることになっていたからだった。この時点でジュースは腹を立て、これはシュミットにふさわしくない仕事であり、この特別な男を送ることはわざわざ災難を招く無謀なことをしているので、シュミットにこの任務を続けさせる前に信頼すべきソースに意見を求めて省はもっと上手くやれたであろうとKummerを厳しく叱責した9
米国から戻った後、シュミットは教育研究省にZeitschriftJahrbuchの融合を妨げるならば少なくとも何人かの米国人数学者達の協力が単に確保されるであろうことを確信させた。融合はアンチドイツ宣伝を育成し、Mathematical Reviewsの創刊を促進するだろうと彼は主張した。ドイツ外でのドイツ科学文献の状況を現状よりも困難にするべきでないことを考慮すれば、ZeitschriftJahrbuchの融合は"賢明"だとは考えられないという手紙を教育研究省が1939年7月末にシュプリンガーに書いたので、省はシュミットの報告に感銘を受けたようだ10
米国でのシュミットの活動が何であれ、アメリカ数学協会委員会は1939年5月にヴェブレンにMathematical Reviewsを創始し管理する依頼を決定した[9, 332f]。この言葉はすぐにドイツ数学コミュニティに届き、Mathematical Reviewsの創刊はまだ妨げられるであろうと報告していたシュミットは奇妙な立場に追いやられた。9月22日(宣戦布告の3週間後)の手紙の中で、ジュース(彼の計画に反して動いた7月の省の決定を聞き知ったばかりだったが)はシュミットが米国からの帰国の際に間違っている情報を与えていたことを非難した。Mathematical Reviewsの創刊と戦争の勃発はずいぶんと状況を変えてしまっていると彼は説明した。結果として、ZeitschriftJahrbuchの融合に関して米国と殆どの外国の立場を考える必要はもはやないと彼は判断した11
翌日の9月23日、ジュースはシュプリンガーとde Grnyterに融合を考えるよう最終通告を出した[12, p. 223]。ジュースの行動方針はビーベルバッハとファーレンにより認められた。ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーがプレプリントジャーナルを刊行することを決めており、プレプリントジャーナルはJahrbuchの査読の遅さに対する改善策を見つけるために最も最近の査読を含むことになっているとジュースへ手紙を書いた。de Grnyterはこのプランに同意していたが、戦争とそれに続く紙不足がそれを引き延ばしていた。他方、シュプリンガーは同意していなかった。融合に対する彼の反感は7月から省の手紙によって後退していたが、ビーベルバッハによれば、その反感はずっと前に知られていた。戦争が環境を変えてしまったので、今やビーベルバッハは献身的なナチ党員Harald Geppertを編集長とする融合のアイデアを更に追求すること、そしてプレプリントジャーナルのタイトルにZeitschriftの名前を加えることを提案した12
一方シュプリンガーはジュースの最終通告(10月3日をデッドラインとして設定されていた)10月4日に回答した。彼は最終通告に結合されている質問に答えられないこと、ジュースの手紙はジュースが出版ビジネスの不十分な知識しか持っていないこと示していると説明した。省の立場が変わってしまっているのかどうか知らない限り(7月の手紙をほのめかしている)融合を議論するのを辞退した13
ジュースが教育研究省でZeitschriftJahrbuchについて話したかった時、科学的出版の数を維持するための宣伝手法として戦時中に科学ジャーナルの融合すべてを外務省が禁じていることを知らされた14。このようにZeitschriftJahrbuchの実際の融合は、戦争の勃発とMathematical Reviewsの創刊の後の新しい状況にもかかわらず、問題外だった。しかし、ビーベルバッハが提案していた線に沿ってZeitschriftJahrbuchの協力を引き起こすことを決定し、それをジュースもGeppertと議論していた。査読方針はZeitschriftに関するスピードとJahrbuchに関する完全性だった。11月15日にビーベルバッハ、Geppert、シュミット、シュプリンガー、de Gruyterの代理人はベルリンで会合し、Geppertを編集長としてベルリンに置かれる統合編集部(Generalredaktion)のもとでのZeitschriftJahrbuchの再編成に賛同することとなった[12, pp. 224-226]。それはDMV、ジュース、ビーベルバッハが願っていた融合に近かった。

数学ジャーナルの再編成
出版社としてシュプリンガーの独立性はZeitschriftとシュミット事件によってのみならず、全体として数学ジャーナルのシステムを再編成しようとするジュースの意図によっても脅かされていた。
ナチ党が政権を取ってから、ナチ党が考えたように数学ジャーナルの断片化を終わらせるため数学ジャーナルの数を減らそうという議論が既にあったが、特別なことは何もなされていなかった[3, p. 418]。特に、物理学者でノーベル賞受賞者(1919)のヨハネス・シュタルクは、1930年にナチ党に入党しフィリップ・レーナルトと共にドイツ人物理学運動を支持していたが、1933年の秋に統合編集部(Neuordnung des physikalischen Schrifltums)のもとでの物理学における科学文献の再編成を空しくも呼びかけていた[11, 329-331]。
おそらく1939年の春、ビーベルバッハは科学ジャーナルのシステムを再編成する方法(1933年のジュースのプランを大いに思い出させる)に関する詳細な提案を作り、そのコピーをジュースに送った15。彼はアイデアを実例で説明するために数学ジャーナルを選んだ。彼は、早期には断片と考えられていたもの、すなわち数学の特定分野に属する論文が5つほどのジャーナルよりも多くのジャーナルに散在し、その分野に関心を持つ科学者達にとっても役立たず、編集部にとっても役立っていないことを遺憾に思った。更に、これは個人予約が稀であるという負の経済効果を持った。ビーベルバッハの再編成に関する提案(ついでながら、それはZeitschriftJahrbuchを含んでいる)はついにDMVを監督者とする中央的にジャーナルを管理するアイデアになった。
ジュースはビーベルバッハの首唱に賛成だった。彼も1939年11月にZeitschriftJahrbuchを議論するため教育研究省でKummer大臣に会った時、数学ジャーナル作製の可能な再構築について話した16。科学ジャーナルの融合に反対の外務省の命令にもかかわらず、Kummerとジュースは新しい編成原理、すなわち数学ジャーナルは特化すべきであることを議論した。これは広く数学的多様性を持つ伝統的なジャーナル、例えばJournal für die reine und angewandte Mathematik[訳注: 純粋及び応用数学のためのジャーナル](Crelle's Journal)、Mathematische AnnalenMathematische Zeitschriftを終わらせていただろう。ビーベルバッハはCrelle's Journalは代数学と数論に、Mathematische Annalenは解析学に、Mathematische Zeitschriftは幾何学に特化してはどうかと言っていた。ジュースは即このアイデアを追求し、編集長達と交渉すると決めていた17Crelle's Journalの編集長ハッセはビーベルバッハのアイデアに共感し、"ビーベルバッハにはいつものことだが、ちょっと激しい"けれども"素晴らしくて健康的だ"と考えた。だが、言い訳して時間を稼ぐらしくプランは"実際に実現することは難しいだろう"と指摘した18
ジュースはまたMathematische Annalenの編集長ハインリヒ・ベーンケとそのジャーナルの宿命を議論した。しかし、ベーンケは"ドイツ数学ジャーナルの望ましい再編成を理論的に議論"を進んでやる心構えだったけれども、ビーベルバッハとジュースのプランにさほど熱中しなかった。彼はジュースにAnnalen委員会においてエーリッヒ・ヘッケとB. L. ファン・デル・ヴェルデンが先任であり、彼等はジュースのプランに決して同意しないだろうことを思い出せた。DMV委員会メンバーのエマニュエル・シュペルナーは個人的にプランをシュプリンガーに話したが、シュプリンガーは予想される再編成と一出版業者としての彼の独立性への干渉について議論することを拒否した19。しかし、これらの大望が何であれ、結局彼等は戦争進行の間妨害された。
ジュースとDMVの数学出版及び数学査読のアイデア、イデオロギー的背景についてもっと多くのことを述べることが出来るが、彼等は単に見解としてこれらのアイデアを持つことで満足せず、数学査読及び出版の支配力を獲得するために、それらのアイデアを積極的に追求しようと決心したことは明らかだ。これに対して、シュプリンガー出版社はユダヤ人数学者達及び国際的な数学コミュニティとの近い関係、そしてフェルディナント・シュプリンガー自身にユダヤ人先祖がいたという事実のため奇妙な立場にいた[11]。従ってDMVとジュースは大ぴっらにシュプリンガーのポリシー及び彼の代理人シュミットに反対出来ただけでなく、シュプリンガーの編集組織に関するジュースの振舞い、例えば彼の1938年のシューアへの告発、乗船するために既にブレーメンに向かっていた後で米国へ旅行中のシュミットを止めようとしたこと(この場合は不成功だが)に見られるように、やがて政権が提案することに頼れた。
DMVの専門家的ポリシーは実のところナチ国家の中核に立つ問題と密接に絡み合っていた。つまり、その反ユダヤ主義、反国際主義、自給自足経済。教育研究省の目的はこれらの問題を科学の全範囲に伝道することであった。その究極的な結果は彼等のコントロールを超えたけれども、このプログラムにおけるDMV委員会、特にジュースの協力は戦争の間彼等の影響力と彼等のポリシーの成功によって報われた[10]。

第二次世界大戦中の対立
1941年末、物理学者ヨハンネス・ラッシュ博士は2つの覚書を第三帝国研究評議会(Reichs-forschungsrat)に送った。第三帝国研究評議会はドイツの科学研究の組織を担当する政府機関だった。ラッシュはジーメンス・ウント・ハルスケ会社の技師だが、工業における物理学者達と技師達が使用するための数学参考文献の不足について不平を述べた。彼は他の国々、特に米国におけるより良い状況を指摘した[7, pp. l15f]。ラッシュの覚書はすぐに反応され、1942年の始めに第三帝国研究評議会は利害関係のある人達のために主要な数学参考文献と文献を獲得するためのプログラムを始めた。これらの作業の殆どが、それらを作製するために特別に任命されている数学者達に割当てられ、刊行プログラムはジュースに任された。ずっと前の年々にジュースは繰返し第三帝国研究評議会にもっと数学に興味を持って貰い、特に数学の特定部門を設立して貰おうと頑張っていたが、いつも空しく終わっていた。その特定部門は物理学部門を通して評議会に代表しているのに過ぎなかった。ラッシュの首唱は"第三帝国研究評議会とDMVの実際的な連絡"を引き起こす歓迎すべき機会を与えていたから、当然ジュースはこの突然のチャンスから"数学の地位のために"利益を得ようと努めた20
しかし、ジュースは第三帝国研究評議会からの公務を持たなかったけれども、それを実行するための十分な資金援助をまだ持っていなかった。彼はヘルマン・ゲーリングの強力な航空省とそのリソースの関心をプログラムに向けようと頑張ったが、問題が発生した。航空省のForschungsführung[訳注: 研究管理]において、数学に関係する問題はフライブルクの数学者グスタフ・デッチュ(1892-1977)の責任下だった。デッチュは工学の要求、特に航空産業による定式化を密接に研究したが、小規模と言えども同様の刊行プログラムを既に始めていた。彼は彼自身でラプラス変換に関する本を作業していた[10]。それにもかかわらず、彼等は1942年の9月に各々のアイデアを議論するために会合した。この会合においてジュースは最近再編成された第三帝国研究評議会から今や資金を集め終わったから、自身のプログラムを扱えるだろうと公表した。それにもかかわらず、彼等は彼等のやっていることを調整することに少なくとも賛同したが、その意味で彼等の活動は戦争の残りの年々の間共存した。ジュースのプログラムは明らかにもっと野心的なものだったし、プロジェクトの数、印刷されたモノグラフまたは戦争終結までに印刷準備完了のモノグラフの数の観点からももっと成功した[7, p. 115]。
デッチュとジュースの数学出版における張り合いは彼等の出版社の選択によって反映された。デッチュは彼自身の出版社のシュプリンガーと協力するつもりだったし、一方ジュースはベーンケの提案に従って、ゲオルク・ファイグル(1890-1945)がシュプリンガーとも交渉してくれと頼んでいたけれども、ライプツィヒにあるAkademische Verlagsgesellschaftと作業を始めた。デッチュの方では1942年10月にシュプリンガーを訪ね、シュプリンガーのいくつかのプロジェクトが彼自身のプログラムに完全になじむことを発見した。そのプログラムはウィルヘルム・マグナスによる公式集、ウィルヘルム・マグナスによる楕円函数に関する本、アルバート・ベッツによる等角写像論に関する本、ゲオルク・ファイグルとエルハルト・シュミットによる実函数による展開に関する本、Walther Meyer zur Capellenによる積分表。マグナスの公式集は1943年に出版され[4]、シュプリンガーは結局ベッツ、マグナス、Meyer zur Capellenによる本を戦後の数年に出版した[1], [5], [8]。その間に、ジュースは1944年に依頼した作品のリストにマグナスのモノグラフ[5]とファイグル/シュミットのモノグラフを含めた。後者は出版されることはなかった。
シュプリンガーの数学アドバイザーのシュミットはデッチュとジュースの間の競争をよく知っていたし、それらに関する彼の見解に非常な自信を持った。ジュースは数学出版に対する遠大なプランを全く人に話さなかったが、それはシュミットを特にシュプリンガーの出版ポリシーの独立性に関して心配させた。これらの恐れに加えて、シュミットはデッチュをジュースよりも実際的で能率的だと考えた。だから、いずれにせよ選択があるならシュミットはデッチュをシュプリンガーにとって良きパートナーだと信じた21。だが、シュミットは明らかにジュースが強い立場にあり、デッチュが彼に対抗してシュプリンガーのサポートを必要とするだろうと認めた22
1943年の始め、デッチュのForschungsführungにおける影響が劇的に減少し、ジュースが数学モノグラフの依頼の実際的な独占を獲得した[10]。詳細なトピックに関して数学者達による同時作業が戦争中には事実上不可能だった(直接の競合の可能性を否定した)という理由でシュプリンガーは数学分野での彼等の支配が崩壊するかも知れないという危険を考えた。従ってシュミットはジュースの活動に構わず戦後に可能性のある著者達と交渉することになった23。9月までにシュミットはシュプリンガーの将来についていっそう楽観的になった。航空省はウォルター・ブローデル、Gerhard Damköhler、エーベルハルト・ホップの3つの計画されたモノグラフを戦争努力に重要であると認めていた。それは著者達にそれらの研究を始めることを許可した。ジュースがヴュルツブルクでのDMV会合で刊行プログラムに関する報告をしていた時に、彼がもっぱらAkademische Verlagsgesellschaftと作業することになっているのは明らかだったようだ。シュミットはジュースのプロジェクトが戦後ほとんど存在意義を無くす印象を受けた。従ってシュミットは再びシュプリンガーに長期間その地位を防衛するために戦後のためのプランに専念するように提案した24
1938年以降ジュースの数学出版のシステムへ干渉する様々な企てはどういうわけか計画経済を引き起こそうとする試みに似た。DMVは数学での専門家的影響全体の絶対的なセンターになっていた。彼は1941年4月のゲオルク・ファイグルへの手紙の中でで、これを完全に明らかにした。すなわち"もっぱらDMVのために数学に対するすべての権利と責任を獲得する帝国主義的な目標を私は持っている"25。当然この野心的な目標は航空省でのデッチュの影響力のある地位と両立しなかった。しかし、刊行プログラムの取った進路はデッチュの悪化している勢力基盤とジュースの外見上は期待の新星の紛れもない兆候だった。1944年の2月ジュースはゲッベルスの宣伝省とシュペールの軍需省のための"数学出版に対する公式検閲官"にもなった26。これは数学作品を印刷するための申請すべてが彼の承認を必要とすることを意味し、数学出版における彼の影響はいっそう増加した。

戦後のシュプリンガーとジュース
1946年6月、ゲオルク・ファイグルの未亡人マリア・ファイグルはジュースがファイグルの本について質問して来ているとシュミットへ手紙を書いた。とりわけジュースは彼女がシュプリンガーと契約するのか知りたかった。ジュースは彼女に彼自身がモノグラフのシリーズを刊行しようとしているところであり、その中にファイグルの本が立派に含まれるだろうと言った。このシリーズはStudia Mathematicaとして実現し、ゲッティンゲンにあるVandenhoeck & Ruprechtによって刊行された。
シュミットは彼を教授職として考えているミュンスター大学に推薦状を送ることを依頼するため7月にシュプリンガーへ手紙を書いた時、マリア・ファイグルの手紙の写しを同封した。新しい戦後の政治的状況において、彼のナチ時代の態度をはっきりさせることが明らかに重要だった。シュミットは彼が1938年の末までユダヤ人数学者達と協力したことは知られており、1939年5月の彼の米国への旅行は非常に反対されたことをシュプリンガーが言及してはどうかと言った27。ミュンスター大学への推薦状の手紙の中で、フェルディナント・シュプリンガー(シュプリンガー出版社からファイグルの本をおびき出すジュースの企てに酷くいらついていた)はシュミットのアウトラインに従ったが、シュミットが当事者としてのジュースに言及しなかったのにシュプリンガーは言及した28
9月に、そのストーリーはフライブルク大学の学長に届いた。ジュースは戦後フライブルクで大いに敬意を払われており、1945年の夏に2か月間の教授職を一時停止させたばかりだったので、学長はすぐにシュプリンガーに詳細を要求した29。非ナチ化の間にジュースへクレジットされた多くの"良い行為"にもかかわらず、彼のナチとの協力の範囲が一般的にフライブルクでも数学コミュニティにおいても知られていないことが彼にとって特別に重要であり、もちろん十分だった。それらの人々の殆どがこれらの事柄をたとえ知っていたかも知れないとしても、それらを暴露することに興味を持たなかった。
シュプリンガーはフライブルク大学の学長であるアーサー・オールゲアーへ10月に返答し、1939年に米国への道中でシュミットを逮捕しようとしていたこと、教育研究省においてシュプリンガーをユダヤ人移住者達、特にリチャード・クーラントとの接触のために公然と非難したことを申し立てた。シュミットもオールゲアーへ手紙を書き、以下のことを言った。シュプリンガーの共同経営者Tönjes Langeが教育研究省から旅行許可を確保しようと頑張った時に、Kummer大臣が彼にジュースは彼がまだユダヤ人移住者達と近い関係にあるので旅行に強く反対していること、そしてジュースは自身が代わりに米国に行くのはどうかと言っていることを話した30。ジュースはシュプリンガーとシュミットが告発している彼の責任すべてを否定した。彼はフライブルク非ナチ化委員会(Selbstreinigungsausschuβ)によって尋問されたが、完全に容疑は晴れた31。1938年末のJahrbuchZeitschriftの融合の議論に先立って、教育研究省においてシュプリンガーを言及したことはないと彼は証言した。そして更にジュースはKummerをシュプリンガーの味方として特徴づけたが、従って何ら証明も無く信頼出来ない目撃者として。当然彼はDamesとの会合または1938年3月のシューアに関する公然の非難についての情報を自ら進んで申し立てしなかった。
シュプリンガーは1月末に手紙でジュースの容疑が晴れたことを知らされた。手紙に同封されたのは非ナチ化委員会の報告の写しだったが、それはシュプリンガー自身が事実をわい曲したことを暗示した。シュプリンガーはきっぱりと否認したが、彼の抗議から何も生じなかった32
戦後の年々にシュプリンガーとジュースの間の関係が改善する兆しは無かった。1946年の夏、ジュースは新しい数学ジャーナルを刊行するプランを追求した。そのジャーナルはMathematisches Forschungsinstitut Oberwolfach[訳注: オーバーヴォルファッハ数学研究所]によって編集されることになった。Mathematisches Forschungsinstitut Oberwolfachは1944年末にジュースが設立していた。シュミットとシュプリンガーは新しいジャーナルをMZに対する公然たる競合相手と考えた。ジュースが適切な出版社を探した時、友人達は彼にシュプリンガーと交渉せよとしつこく言った。ジュースは明らかにシュプリンガーと交渉したくなかった。新しいジャーナルは結局1948年にArchiv der Mathematik[訳注: 数学アーカイブ]というタイトルのもとで出現したが、カールスルーエにあるVerlag Braunによって刊行された。そして、1952年にバーゼルにあるビルクホイザーに引き継がれた。

結語
ナチドイツにおける数学と数学者達の歴史は、ビーベルバッハとDeutsche Mathematikまたはゲッチンゲンの数学的伝統の廃止によって例証される極端な状態の歴史としてよく強調される。しかし、どれほど重苦しくても、これらの現象はよく目立つ現象に過ぎない。他方、科学出版におけるシュプリンガーの独立性に対する脅威は、一般的に大衆からは見えなかったし、公式指図からの結果にもならなかった。むしろ、その脅威はナチ党と政府官僚の毎日の協力から生じた。どんなに動機づけられても、この協力はナチ官僚主義の目的と機能にとって本質的だった。この観点から、シュプリンガー出版社とジュースとDMVでの彼の同僚の間の対立のストーリーは過ぎて行く歴史的詳細の単なる珍しいコレクションではなく、数学者達の専門家的ポリシーとナチのポリシーがどのように実際に相互作用したのかを実例で説明しているのである。

参考文献
(略)

13518108 journal
数学

taro-nishinoの日記: 志村五郎博士著"The Map of My Life"より重要資料の手紙三編

日記 by taro-nishino

巷では志村博士のThe Map of My Lifeと"記憶の切繪図"が同じだと思っている人が非常に多いです。もちろん本文は英語と日本語の表現の差はあれど内容自体はほぼ同じです。逆に食い違っていたら、それこそ問題でしょう。決定的な差は付録部分にあります。The Map of My Lifeの付録には、いわゆる志村予想の背景を示す重要資料になるであろう手紙が三編も収められており、数学界にいる人はそこに注目したはずです。一方"記憶の切繪図"の付録には一般人向けに志村博士が日本語で書いたエッセイが収められています。この差は大きいと思います。何故そうなったのか、常識があればすぐに分かります。The Map of My Lifeはあの世界に冠たるシュプリンガー社本体から、"記憶の切繪図"は日本の筑摩書房から出版されています。つまり、想定している読者層が違うのです。一方が数学者達も含めた世界中の人々、他方が日本の一般人を対象にしているのです。だから本の内容全体に差が出て当たり前なんです。その決定的な差を殆どの日本人(もちろん専門家を除きます。以降いちいち断わりを入れません)は理解していません。いや、むしろ事実を直視したくないとも私には思えます。
そこで志村予想の背景を示す手紙三編を今回紹介します。何故あの予想を志村予想と呼ぶのか、そしてそう呼ぶのが一番正確であり、そう呼ばれるべきかについてはサージ・ラング博士の調査報告とも言ってよい"志村-谷山予想の或る由来"を参照して下さい。または、数学的議論抜きであれば"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"の前置き及び追記の中を読んで下さい。但し、保型形式とモジュラ形式の違いも知らない人は読んでも時間の無駄でしょう。
さて手紙三編の内訳ですが、一通がフェイドゥーン・シャヒーディ博士宛、残りの二通がリチャード・テイラー博士宛です。これらの手紙三編は現代数学史研究に欠くことの出来ない資料だと思います。実を言えば、これらの三編は部分的に先ほどの"志村-谷山予想の或る由来"で引用されています。そして、これまた嫌味に聞こえるかも知れませんが、リチャード・テイラー博士の名前も初耳の人は時間の無駄ですから以降を読まない方がいいでしょう。
これらの手紙の私訳を以下に載せておきます。なお、今回原文へのリンクは(当たり前ですが)ありません。原文に興味のある人は是非ともThe Map of My Lifeを購入して下さい。

[追記: 2018年2月3日]
The Map of My Lifeの付録にはそもそも何が収められているのか。タイトルだけを和訳せずに列挙しますと、That Conjecture、A Letter to Freydoon Shahidi、Two Letters to Richard Taylor、Response、André Weil as I Knew Himの5編です。
そのうちで最後の"André Weil as I Knew Him"については、既にこの"私訳"シリーズで紹介しており、"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"を参照して下さい。
ところで、海外の知人がThe Map of My Lifeを読み、既に日本語版である"記憶の切繪図"が出版されていることを知りました。しかし、知人はThe Map of My Lifeの付録も全部含めて志村博士が自ら日本語に書直したのが"記憶の切繪図"なのか疑問に思い、私に問い合わせて来ました。そこで、まあ本文は表現の差があれどほぼ同じだが、付録部が全く違うこと、だから本全体として別物で、全く違う本と考えるべきだと伝えました。その過程で日米の(いや、日本と世界の、と言うべきでしょうが)読者層の違い、出版社の規模等を議論しましたが、私は日本人の視野の狭さ、つまり思い込みの強さ、書くリヴュの無責任さを取り上げ以下のことを知人に書きました。日本語の壁に隠れて好き放題に喚いている卑怯者の輩の仲間に入りたくないので、私の書いたものを世界の誰もが読めるようにさらけ出しておきます。

By way of a bit of advice for the Japanese hoi polloi.
I wrote a review on "The Map of My Life" long ago. Should you be interested in my review written in Amazon Japan, please feel free to look at it.
As you know, apparently most Japanese think that "The Map of My Life" is just a translation of the Japanese edition "記憶の切繪図," which you may take as the Japanese pronunciation "Kioku no Kiri-ezu," and that so they don't in the least need to read the former. I cannot help saying that how stupid they are. Actually all the content of the former is a good deal different from that of the latter.
Now let me show you the difference between both books. First of all, the number of mathematicians appearing in the former is a good deal greater than that of the latter. Secondly, the former appends valuable documents which tell a story of the Shimura conjecture, not the Taniyama-Shimura conjecture. Note in passing that Taniyama didn't conjecture the modularity at all, more's the pity.
Besides, there are such exemplifications here and there. I guess that Professor Shimura first wrote the former in English, and that he wrote the latter in Japanese, especially for the Japanese public, omitting some of topics of the former; then it doesn't matter whether the former was really published earlier than the latter.
In short, shouldn't you be a layperson, you might want to read "The Map of My Life."
Last but not least, I'd like to write why I write even reviews of Japanese books, in English. Do you really think the people who use Amazon Japan, say, are confined to the Japanese? That is never the case. I really know some foreigners using there, if not many, though most of them live in Japan but they don't always understand Japanese.
From an international point of view, writing reviews in Japanese, especially if there's severe criticism in reviews, is obviously ugly. For example, imagine when reviewers criticize the authors of Japanese translations, and the authors don't understand Japanese at all. How far strange! To put it bluntly, such reviewers hide themselves behind what I call a Japanese language barrier. In other words, they must be cowards.
Thus you must use such languages as people of normal intelligence, worldwide understand, if you want to criticize someone. Otherwise, you aren't qualified to review.

フェイドゥーン・シャヒーディへの手紙(志村五郎博士著The Map of My Life p. 174-175)

                                 1986年9月16日
シャヒーディ様
1967年に知られていたことに関して貴方がよく分かっていないことを当然だと思うべきだったと今悟っている。だから、いろいろな事柄について私にもっと詳しく説明させて欲しい。

1962-64年に高等研究所のメンバーによって開かれたパーティーで、セールが私のところに来て、モジュラ曲線に関する私の結果(下を参照のこと)がQ上の任意の楕円曲線に適用しないから、それらの結果はそれほど良くないと言った。そんな曲線は必ずモジュラ曲線のヤコビアンの商に違いないと信じると私は応答した。セールはそこにいなかったヴェイユにこれを言った。数日後、ヴェイユは私に本当にその声明を言ったのか訊ねた。"はい、筋が通っていると思いませんか?"と私は言った。その時に彼は"両方の集合が可算だから... ..."と言ったが、彼の全集の第Ⅲ巻の450ページ目にそれをフランス語に翻訳している。
454ページ目において彼はいくぶん予想を立てる考えに反対である。この理由のため、私が予想を述べていることを直接的に言うことを避けたと私は思う。
モジュラと他の曲線について言えば、アイヒラーの1954年の論文と私の3つの論文、J. Math. Soc. Japan vol. 10 (1958), 1–28; vol. 13 (1961), 275–331; Ann. of Math. 85 (1967), 58–159.に言及させて欲しい。
これらの論文の中で、"数論的商(特にモジュラ)の曲線"のゼータ函数が解析的接続を持つことが示されている。その商に関する結果は明示的に言及されていないが、代数的対応のようにヘッケのオペレーターがQ上または妥当な数体上で定義されている事実の易しい結果である。
私がセールと話した時にこの事実を意識した。もっとはっきり言えば、多分1965年に私はそれに関してヴェイユに話した。彼の論文[1967a]の最後で彼はそれを言及している。すなわち、"志村五郎の話によれば..."。当時私は彼に、そこで言及されている曲線C´ のゼータ函数が問題中の尖点形式のメリン変換であることさえも話したが、彼はその命題を割愛した。結局、私の本の中(定理7.14と定理7.15)と同様に、私の論文J. Math. Soc. Japan 25 (1973)の中でもっと一般的な結果を発表した。
この議題に勿論ヴェイユは彼なりに貢献したが、モジュラ楕円曲線のゼータ函数に関する結果に対しても、そんな曲線がQ上のすべての楕円曲線を使い果たすだろうという基本的アイデアに対しても関係が無い。
更に疑問があれば、どうか私に知らせて欲しい。
                                      敬具
                                    志村五郎

リチャード・テイラーへの2つの手紙(志村五郎博士著The Map of My Life p. 176-181)

                                 1994年11月25日
リチャード様
私は貴方の論文"On the ℓ-adic cohomology of Siegel threefolds[訳注: ジーゲル三次元多様体のℓ-進コホモロジーについて]", Invent. math. 114 (1993), 289–310を読む楽しみを得たが、以下の私の論文を知らない印象を受けた。

Construction of class fields and zeta functions of algebraic curves[訳注: 類体と代数曲線のゼータ函数の構築], Ann. of Math. 85 (1967), 58–159.

この論文の最後の節で、代数曲線Vのゼータ及びL⁻函数が定義されており、そこにおいてVは一つのアルキメデス素数でのみに非分岐な完全実代数体上の四元数環から得られるという事実へ貴方の注意を促したい。
私はこの種の手紙を滅多に書かない(殆どない)が、ただいまの場合そうするための良き理由を私は持っている。実のところ奇妙にも、この論文はリビュー記事すべて、そして研究論文においてさえも言及されたことがない。せいぜい著者達はQ上の四元数環の場合を私が取り扱ったと言及する(それは本当だ)が、その情報だけでは誤解を招きやすい。Clozelのブルバキ論文(March 1993, No.766)が実例だ。一度誰かがリビュー記事を書くと、他の人達は自分達で歴史的研究をせずにそれに倣う。結果的に誤解は継続されるが、私が手紙を書いている理由はそれである。
従って、上記の1967年論文の少なくとも序論と関連部分を読んでくれと貴方に頼めるか? 貴方が問題の歴史的側面に興味を持つかと思う。貴方がやってくれると仮定して、ケン・リベットへの私の手紙のコピーを同封しているが、それに興味を持つと希望する。その中で私はすべてを説明したのではなかった。例えばトレース式は、すべてのQ-有理楕円曲線はモジュラであるという私の予想の背後の私のアイデアと非常に関係があった。もう一つ別の奇妙な事実がある。すなわち、誰も私が予想を立てた理由を訊ねたことがない。おそらく今それがはっきり見えるかも知れない。
                                      敬具
                                    志村五郎

                                 1994年12月12日
リチャード様
まるで私が貴方にあの問題を訊ねるよう強要しているかのようだ。ともかく、すべてのQ-有理楕円曲線はモジュラであるという予想へ私を導いたアイデアについて私が話せることがここにある。

先ず第一に、数学的オブジェクト(Q-有理楕円曲線のゼータ函数)の或る概念が、そのオブジェクトの特別な提示方法(モジュラ函数による一意化)で最もよく記述されるならば、同じタイプのオブジェクト全体が同じ方法で提示されるはずと期待することは当然だという基本的哲学がある。勿論これが間違いであることが分かるかも知れないが、人はそれを開始点として必ず取れる。しかし、そんな荒削りの哲学に加えて、そのアイデアをサポートする少なくとも2つのテクニカルな事実がある。
これらの内の最初は比較的に簡単だ。これについて私は既にアンドリュー[訳注: もちろんアンドリュー・ワイルズ博士のこと]への手紙の中に書いたので、それからの一節を引用させて欲しい。

1963年のボルダーの夏コンファレンスで私はブライアン・バーチに会った。彼はZ E (1)の意味に関する彼のアイデアを私に語った。ここでZ E Q-有理楕円曲線Eのゼータ函数だ。彼はモジュラ函数によって一意化される曲線について何も知らなかった。だから私はアイヒラーと私自身の結果を彼に説明した。更に、彼が当然Z E (1)の消滅または非消滅の問題に興味を持ったから、次の3つの事実を彼に話した。

(1) EΓ 0(N)\Hとして与えられるならば、Z E (1)は∫0 f(iy)dy(ここでfは尖点形式)の定数倍であり、従ってZ E (1)は事実上周期である。例えばN=11ならば、fの明示形式はf(iy)が必ず正だと告げており、その結果Z E (1)≠0であるが、同じことが他の場合に成立する。
(2) gがディリクレ指標によるfのねじりならば、gは高位水準の尖点形式である。
(3) 特に指標が2次ならば、gのメリン変換はEのねじりDに対してZ D を与える。Z D の函数方程式から、Z D (1)=0を満たすDの実例を得られる。

これらは易しくても彼には全く初めてだった。彼は1960年代早期の論文の中でこれを承認した。Γ 0(N)\Hが種数1の場合に関してのみ私は彼に話したと思う。私は彼にDが高位水準でヤコビアンの因子であることを話したのか? 私はそれを知っていたと思うが、おそらく(2)と(3)の他にそれに関して話さなかった。
(引用終わり)

要するにEがモジュラならば、そのねじれもモジュラである。

さて2番目の事実はもっと強い要因だ。ご存知の通り私はアーベル多様体のモジュライの多様体についてずっと研究していたが、それが私にとって多様体のゼータ函数を理解する唯一の方法だったからだ。私は最初アーベル多様体(その自己準同型多元環がQ上の不定四元数環Bを含む)の族の場合を研究(Proc. Int. Cong. M. 1958, J. Math. Soc. Japan, 1961)し、良いオイラー積を持つ良い曲線を見つけた。私は完全実数体F上の四元数環のもっと一般的な場合の調査も始めた。しかし、FQならば、そんな多元環に対するヘッケ理論はF上のオイラー積を作り、他にも、代数曲線を持つ場合において定義の自然な体はFまたはそのアーベル拡大である(Ann. of Math. 76 (1962), Osaka Math. J. 14 (1962))。従って、Q-有理オブジェクトを得るためにFQであると思わなければならなかった。Q上の除法Bから得られる、これらの曲線はモジュラでない(そして厳密に言えば、それは正しい。以降を見よ)かも知れないと私は最初思ったが、非モジュラQ-有理楕円曲線は次の理由のために得られるはずがないと分かった。アイヒラーは彼のトレース式を用いて、Bにおけるオイラー積は楕円型モジュラ形式から得られるものに既に含まれていることを示した(Acta Arith. 4 (1958))。この結果は後に清水によって一般化された(Annals 81 (1965))。いわゆるテイト予想はずっと後で明確に述べられたが、そのアイデアは谷山と私自身に知られていた。だから同じゼータ函数を持つ二つ楕円曲線は同種であると考えることは私にとって当然だった。
Bに関する、この後者の事実は私が予想を述べることに対する最も強い理由だったかも知れない。谷山は"他の特別な保型函数が必要だ"と言ったが、彼はヘッケの非モジュラ三角形関数を意図した。しかし、私はそれらが必要だと決して思わなかった(ええと、彼が正しいことが判明するかも知れない)。
除法Bから得られる曲線に関して、曲線の自然なモデルは種数1の時でさえ実数点を持たないことを私は示した(Math. Ann. 215 (1975))。そういう意味で、それらはモジュラでない。それらのヤコビ多様体は楕円曲線だけれども、それらは楕円曲線でない。このポイントはそれらの曲線の存在理由を説明しているのかも知れない。この現象に関する調査があるのかと思う。
最後に、上記の問題に関連してエピソードを記させて欲しい。1962年の夏、伊原[訳注: もちろん伊原康隆博士のこと]が私に(東京の珈琲店に私達がいる時だったと思う)2つのトレース式の間の同等性を見つけたと言った。私は上記のアイヒラーの1958年論文を気づいていたから、それを確認するため私達両者は大学図書館に行ったが、井原の結果はアイヒラーのものに含まれていることが分かった。彼は失望したと思うが、その点について私は何も憶えていない。当時彼は東京大学の大学院生だったが、私はその年の9月にプリストンに来た。彼は結局このトピックに関して博士論文を書いたが、発表しなかった。
トレース式及び関連する議題に関して、その時期のエピソードをもっと思い出せるが、それらに関してまたいつか、おそらく貴方がプリストンに来る時に話そう。
                                      敬具
                                    志村五郎

2007年に追加された注意:

1. 最後の手紙の中で、私は"ええと、彼が正しいことが判明するかも知れない"と書いた。これは予想が1994年まで完全には解決されていなかったからだ。

2. 読者は私のCollected Papers, vols. I, IVの中の記事[64e]と[89a]に対するNotesも参照されたい。それは1950年代と1960年代に私が考えていたこと、または、やっていたことに関するもう少し多くの説明を含んでいる。

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数学

taro-nishinoの日記: 我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー

日記 by taro-nishino

ユーリ・マニン博士の記事については、これまで"良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー"、"メタファとしての数学"を紹介しました。私は正直言ってマニン博士のエッセイやインタビューを読むのが好きです。現存されている数学者の中では一番私の納得することを書いています。何故なのかちょっと考えました。結構マニン博士の著書や研究論文を読んだことも一因でしょうが、失礼ながら私の感性と合うのです。感性が一致するから博士の言うことも論理的に納得するのでしょう。実際にお会いしたことがないのですが、文面から博士の人柄がにじみ出ていて、こういう大人に私もなりたいと思わせる方です。
さて今回紹介するのはマニン博士の"We do not choose mathematics as our profession, it chooses us: Interview with Yuri Manin"(PDF)です。このインタビュー記事は元々ロシアの新聞に載り、その後英訳されてAMS Noticesに転載されました。その私訳を以下に載せておきます。なお原文にある注釈を省いていますが、インデックスはそのままです。

我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー
2008年9月30日 Mikhail Gelfand[訳注: あの大数学者イズライル・ゲルファント博士とは何の関係もないと思います(もし、関係あるのなら情報求む)。なお、イズライル・ゲルファント博士の息子さんはセルゲイ・ゲルファント博士です]

Gelfand: 過去50年に数学研究のスタイルが変わって来ていますか?
マニン: 個人的に? もしくは社会的に?
Gelfand: どちらもです。
マニン: 研究に携わっている現在の人達は200年前にされていたのと同様にやっていると思う。これは部分的に、我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶからだ。そして、数学があるタイプの人達を選び、その中おいて世界中の各世代で数千人しかいない。数学が選ぶ、それらの種類の人達の印を彼等はみな携えている。
社会的組織(人がその中で数学を研究している)が変わって来ているという意味で社会的スタイルは変わって来ている。この進化は異常ではなかった。ニュートンの時代、後にはラグランジュ等の時代があったが、その時にアカデミーと大学が形成され、個人の数学的アマチュア達(彼等はかって錬金術または占星術を同じ方法で学んだ)が手紙のやり取りによって社会的構造の形成を始めた(私は古代の時期を省いている。その自然な発展はヨーロッパにおいてキリスト教の最初の百年の間に中断された)。それから科学ジャーナルが来た。これすべてが300年前に整った。20世紀の後半にはコンピューターがこの発展に寄与した。
Gelfand: しかし、ニュートンとラグランジュ、そして20世紀の後半との間に重要なことは何も変わりませんでした?
マニン: はい。この社会システムは合併された。つまり、アカデミー+大学+ジャーナル。これらは徐々に発展し、我々が現在それらを知る形を装った。例えばクレレのジャーナル(Journal of Pure and Applied Mathematics)の第一巻を取ろう。それは1826年に出現したが、まぁ現代のジャーナルと全く違わない。4次より高次の一般な代数方程式の根における解決不可能性についてのアーベルの論文がそこに載せられた。素晴らしい論文だ! クレレ編集委員会のメンバーの時、私はそれを今日でさえ大喜びで受けただろう。
最近の数十年に、社会とプロ数学者達の間のインターフェースは変わってきている。このインターフェースは今、コンピューター野郎達と彼等の周囲の人達(申請、補助金やそれと類似の事柄に関連して、我々の研究の資金調達の新方法のために我々が必要とする様々なPRの人達を含む)を抱えている。数学ではこれが奇妙に映る。つまり、貴方がしているものが何なのか、それが非常に素晴らしいことを先ず書かねばならぬ。それから後に貴方が達成し終えていることの説明を与える。
Gelfand: カントロヴィチ1の学生はカントロヴィチが中間報告の中に真顔で"定理は50パーセント証明されている"と、どのように書くかを話すのが常でした。
マニン: モスクワの数学研究所では明確なシステムがあった。私は定理(実際には、ここ一年で証明された)を証明することを計画しているとよく書いたものだった。それから私は研究を続けるための全一年を得た。
だが、これらはすべて些細なことだ。数学が我々を選ぶ限り、そしてグリゴリー・ペレルマンやアレクサンドル・グロタンディークのような人達がいる限り、我々は理想を憶えているだろう。
Gelfand: はい、数学において補助金は非常に奇妙なものです。他方、我々が補助金を得ないのなら、何か他のメカニズムがあるのでしょうか?
マニン: そうね、我々は何を必要とするのか? 人々に対して給与、研究所に対して予算。私は幸運だった、給与に対して研究したし、予算に関してはモスクワでのみならず、15年間ボンでだった。私はそこで何も悪いことがなかった。
しかし、これらの給与と予算を与える組織が商業界の言葉を採用してしまっている事実は全く別のことだ。商業界は3つの領域を悪くする。すなわち保健医療、教育、文化。ロジャー・ベーコンが"商業界の偶像"の誤った考えについて鋭く語った。数学は文化、その術語の広い意味において文化の一部であり、工業、サービス、またはその種の何かの一部ではない。
Gelfand: しかし、市場自由のやり方が沈滞につながらないでしょうし、進歩がないでしょう?
マニン: 今までは沈滞はない。
Gelfand: 数学は費用のかからない科学なので、貴方が語っていることは数学に対して可能です。
マニン: 確かに。私はいつも"何故我々は市場に出るべきなのか? (a)何もコストをかけない。そして、(b)自然資源を使い果たさないし、環境を汚さない"と言っている。我々に給与を与え、適所に我々を放りなさい。私は全く一般化して欲しくない。私はただ数学を話している。
Gelfand: 貴方はコンピューターに言及しました。コンピューターの出現以降、数学では何が変わって来ているのでしょう?
マニン: 純粋数学において何が変わって来ているのだろうか? メンタルリアリティにおける巨大規模物理実験を行う唯一の可能性が発生した。我々は最も起こりそうにもないことをトライ出来る。もっと正確に言えば、最も起こりそうにもないことではなく、オイラーがコンピューター無しでも出来たことだ。ガウスもそれらを出来た。しかし今、オイラーとガウスが出来たことをどんな数学者も机に向かって腰掛けながら出来る。だから、このプラトニックなリアリティの特徴を識別するイマジネーションを持たないならば、実験出来る。何かが何か他のものと等しいという素晴らしいアイデアが起こったならば、座って一番目の値、二番目の値、三番目、百番目を計算出来る。それのみでない。数学的頭脳を持つ人達が出現したが、彼等はコンピューター指向だ。もっと正確には、これらの種類の人達はもっと早期にもいたが、コンピューターが無く、どういうわけか何かが欠けていた。ある意味で、オイラーがたんなる数学者(彼はたんなる数学者よりももっとずっと凄いが)だったという範囲内において、オイラーはそれと似ていた。しかし、数学者オイラーはコンピューターを熱烈に好きになったであろう。そしてラマヌジャン(本当に数学を知らなかった人だった)も。また例えば、ここ研究所の私の同僚ドン・ザギエだ。彼は生まれながらの凄い頭脳を持ち、同時にその頭脳は理想的にコンピューターを使う研究に適している。コンピューターは彼がこのプラトニックリアリティを研究するのを促進している。付け加えて言うと、かなり効果的にだ。
私自身はこの種の人では全くないが、これが何に関してなのかを理解し、この件で私を助けてくれるかも知れないコラボレーターを持つことを喜んでいる。だから、これが純粋数学に対してコンピューターがやって来ていることだ。
Gelfand: 数学と理論物理学の間の関係はいかがですか? それはどのように構築されてますか?
マニン: この関係は私自身の人生の間に変わって来ている。
ニュートン、オイラー、ラグランジュ、ガウスの時代では、その関係がとても近くて同じ人達が数学と理論物理学の両方で研究した。彼等は自分自身を、より数学者だ、または、より物理学者だと思っていたかも知れぬが、彼等はまさに同じ人達だった。これは約19世紀の終わりまで続いた。20世紀は重要な違いを見せた。一般相対性理論の展開のストーリーが著しい実例だ。アインシュタインは彼が必要とする数学を知らなかったのみならず、1907年に彼自身の見事に直感的な言葉で一般相対性理論を理解し始めた時に彼は、そんな数学が存在することさえ知らなかった。量子の研究にささげた数年の後で、彼は重力に戻り、1912年に彼の友人マルセル・グロスマンに手紙を書いた: "君は私を助けねばならない、さもないと私は気が変になるだろう"。彼等の最初の論文は"A sketch of a theory of general relativity and a theory of gravity: I. Physics Part by Albert Einstein; II. Mathematics Part by Marcel Grossmann"と名付けられた。
この試みは半分成功した。彼等は正しい言葉を見つけたが、まだ正しい方程式を見つけていなかった。1915年に正しい方程式がアインシュタインとダフィット・ヒルベルトによって発見された。ヒルベルトは正しいラグランジアン密度(この問題の重要性はアインシュタインも理解出来なかったようだ)を見つけることで方程式を導いた。残念ながら歴史家が優先権に関する下らない論争を始めることを促進したのは二つの頭脳の偉大なコラボレーションだった。創造者達自身は互いの洞察を認めて感謝して寛容だった。
私にとって、このストーリーは数学と物理学が袂を分かった時期を特色づけている。この分岐は約1950年代まで続いた。物理学者達は量子力学を考えついたが、量子力学において彼等はヒルベルト空間、シュレーディンガー方程式、量子作用、不確定性原理、デルタ函数に対する必要を理解した。これは完全に新しいタイプの物理学であり、完全に新しい哲学だった。たとえどんな数学のピースを必要としても、彼等は自分達でそれらを開発した。
その間、数学者達は解析学、幾何学をやり、トポロジーと函数解析を造り始めた。世紀の始めで重要なことは、集合と無限に関するカントール、ツェルメロ、ホワイトヘッド、及びその他者らの見識を明確化、"浄化"することに努力した時に、哲学者達と論理学者達によるプレッシャーだった。いくぶん逆説的に言えば、この考えの進路は、"基礎の危機"として知られるようになったものと、いくぶん後にコンピューター科学を生成した。無数な事柄に関する情報を我々に与えられる有限言語のパラドクス―つまり、これが可能なのか? 形式言語、モデルと真実性、一貫性、(不)完全性―非常に重要な事柄が開発されたが、その時代の物理学者達が没頭している問題とは全く交わらなかった。
そして、我々に"数学的推論はマシンであり、テキストではない"と語るためにアラン・チューリングが出現した。マシン! 素晴らしい。10年間に我々はフォン・ノイマンのマシンとプログラムの分割原理(ソフトウェア)とハードウェアを持っていた。20年以上―そして、すべてが用意されていた。
世紀の最初の三分の一の間において、特別な頭脳を除いて、フォン・ノイマンは間違いなく物理学者であり数学者でもあった。20世紀で、あれ程のスケールの頭脳を持つ他の人を私は知らない。数学と物理学は並行に発展し、しばらくして互いを注目して止まった。1940年代にファインマンが素晴らしい径路積分を書いたが、物を量で表す新しい道具であり、びっくりするほど数学的な方法で効果があった。エッフェル塔のようなものを想像してみよ。数学的見解から見れば、何の基礎も無しに宙ぶらりんだ。だから、それは存在して上手く働いているが、我々が知っているものが何も無い上に立っている。この状況はまさに今日まで続いている。それから、1950年代に核力の量子場理論が出現し始め、数学的に各々の古典場は接続形式であることが判明した。それらに対する停留作用の古典方程式は微分幾何学において知られていた。ヤン-ミルズ方程式が登場し、数学者達は物理学者達を不信の目を向け始め、物理学者達も数学者達に対してそうだった。逆説的に言えば(私にとって愉快だが)、物理学者達が我々から学んだよりも我々が物理学者達からもっと学び始めた。量子場理論の助けとファインマン積分の道具一式を使って、彼等は数学的事実を次々に発見させる経験的知識に基づいたツールを開発した。これらは証明ではなく、単に発見だった。後で数学者達は腰を落ち着け、彼等の頭を空っぽにして、これらの発見を定理の形に再編成した。そして、我々の正直なマナーでこれらに証明をつける努力を始めた。これは物理学者達がしていることが実に数学的に意味があることを示している。そして物理学者達曰く、"我々はいつもそれを知っていたが、貴方がたの注意に感謝する"。しかし、一般に、結果として私達は何の問題を尋ねるべきか、何の答えを前提条件にしてよいかを物理学者達から学んだ。概して彼等は正しい。有名な物理学者で数学者でもあるフリーマン・ダイソンがギブズ講演"Missed opportunities"[訳注: "失われた機会"](1972)の中で"数学者達と物理学者達が互いと話すことを無視することによって発見の機会を失った"時の多くの場合を見事に記述している。私にとって特に印象的なのは、彼自身が"ただ数論学者ダイソンと物理学者ダイソンが互いと話していなかったので、モジュラ形式とリー代数の間の深いつながりを発見する機会を失った"という暴露だった。
それから、このまさに宙ぶらりんするエッフェル塔から輝かしい数学を作製するための唯一の才能を持つウィッテンが出現した。私はウキペディアを覗いた。1976年物理学において学位を得る前、彼が25歳だった時、彼は政治ジャーナリズムに携わることを計画していた。そして、経済学...等、彼がとうとう数学と物理学の叫びを聴くまで。
彼はそんな驚くべき内面的強靭(それがあり得ない強さと力を持つ数学を製造するが、それは物理学的考察から来ている)の達人だ。そして彼の考察の開始点は実験物理学で記述されるような物理的世界ではなく、この世界の説明のためにファインマン、ダイソン、シュウィンガ、朝永、そして他の多くの物理学者達によって開発された内面的仕組みだ。仕組みは全く数学的であるが、非常に弱い数学的基礎を持つ。それは世界を揺るがすほどのヒューリスティックな原理(全くトリビアなものではない)だが、私は再度言わなければならぬ、基礎(少なくとも我々が慣れて来ている類のもの)が無い非常に大きい構造だ。
Gelfand: そのように皆は基礎が無いことに慣れて、それを承知で生きて来ているのでしょうか、それとも基礎を作ろうと努めているのでしょうか?
マニン: なされて来た試みのどれも十分な一般性に成功していない。数学者達は我々がファインマン積分と呼んでいいものに対する、数少ない近似を作って来ている。例えばウィーナー積分。それは早くも1920年代に作られた。ブラウン運動を研究するために使用されたが、そこには厳密な数学理論がある。いくつか面白い変わり種もあるが、理論はファインマン積分の手広い応用全体をカバーするために要求されていることよりもずっと狭い。いいかい、数学理論として小さい―強さまたは力において、今日本当に偉大な数学を製造している仕組みとは比べ物にならない。
ウィッテンがその仕組みの研究を止める時、仕組みに関して何が起きるのか私は知らないが、すぐに数学世界に行き渡るだろうと私は非常に楽観的だ。ウィッテンが推測した定理、特にいわゆる位相的量子場理論(TQFT)における定理を証明することを目標とする小さな工業が起立しているが、その生産は広大であり有名だ。
実のところ、ホモトピー位相幾何学とTQFTはとても密接に発展しているので、それらが新しい基礎の言葉に変化すると私は考え始めている。
そのようなことは既に起こっている。無限に関するカントールの理論は古い数学に基礎を持たなかった。これに関して皆さんは好きなように議論出来るが、これが新しい数学、数学を考えるための新しい方法、数学を作るための新しい方法だった。結局、矛盾に関する議論にもかかわらず、カントールの世界は何の釈明もなくブルバキによって受け入れられた。論理学者達または構成主義者達が我々に押し付けた"規範的基礎"とは対照的に、ブルバキはすべての現役数学者達によって何十年ものの間に採用された"現実的基礎"を作った。
Gelfand: ロシアでブルバキについて書いている数学者達は異なる見解を持っているようです。この集合論的基礎の研究全体に関してかなり厳しい酷評家達がおり、彼等は物理学者達からのブルバキの孤立と我々のためにブルバキが開けられたであろう素晴らしい可能性を批判しています。
マニン: これに関して特別なことは何もない。彼等がブルバキを罵るという事実は、事が今日どのようになされているかを彼等が知らないことを示す。カントールが自身でやったことと全く同様に、ブルバキがやったことは歴史的ステップを取ることだった。しかし、このステップは、非常に大きい役割をした一方で、非常にシンプルだ。つまり、数学の哲学的基礎を作ることではなく、普遍的共通な数学言語を開発することだった。その数学言語は確率論学者達、位相幾何学者達、グラフ理論または函数解析または代数幾何学における専門家達による議論に使用されるだろうし、そして論理学者達による議論にも使用されるだろう。
皆さんは少数の共通初等的言葉"集合、要素、部分集合..."から始め、それから皆さんが学習する基礎構造の定義を徐々に作り上げる。つまり、"群、位相空間、形式言語..."。それらの名称は皆さん自身の用語の2番目のレイヤを形成する。3番目、4番目、または5番目のレイヤが来るかも知れないが、基礎構築ルールは共通であり、落ち着いて人々は完全に理解して互いと以下のように話せるだろう。"形式言語とは文字の集合プラス正しく形成された言葉の部分集合である。正しく形成された言葉とは用語プラス連結詞プラス数量詞プラス推論規則..."。この大局的見方から、例えばゲーデルの完全性証明不能定理(もしくは不完全性証明不能定理)[訳注: 原文は"Gödel's incompleteness theorem"です。これを、例えばゲーデルの不完全性定理と訳すのが常識となっているようです。しかし、日本人の殆ど(もちろん専門家を除きます。以下いちいち断わりを入れません)が論理的にものを考えられないので、鬼の首を取ったかのように喜ぶ馬鹿者達が必ずいます。それを少しでも減らすために、あえて前述の訳を当てました。いいかどうかは皆さんで勝手に判断して下さい]はいかなる種類のミステリーも取り除く。その定理は皆さんがそれを哲学的に調べ始めようとする時にはミステリーであるが、実のところ、ある構造は有限的に多くの生成子を持たないと述べている定理に過ぎない。ああ、神よ! そんな構造はありふれているが、考えよ、ここでもう一つある。特別な自己参照セマンティクスをこれに加える時に深遠さが出現する。その時、深遠さが数学の哲学的基礎に登場する。
だからブルバキはこれらの野郎が考えていることと全く異なることを実際にやったのだ(ここで私はフランスの数学教育におけるブルバキの影響に関する議論を省略している。社会学的疑問全体の場合と同様に、どんな観衆の間でも論争の一斉を引き起こすかも知れぬ)。
Gelfand: 数学における仮説の位置付けは何ですか? 例えばフェルマーの最終定理―近年、誰も反例を見つけようとしていません。誰もがそれを正しいし、誰かがそれを証明しようとするはずだと理解しました。そして、そんな有名な命題が、特に数論で多くあります。
マニン: ここで私は多くの素晴らしい仲間と異なる立場を取る。この議題に関して私に反対の意見を多く聞いたことがある。私が数学をどのようにイメージしているかを皆さんに説明しなければならぬ。私は感動しやすいプラトン主義者だ(合理的なものではない。プラトン主義を支持するのに合理的議論はない)。どいうわけか私にとって数学研究は発見であって発明ではない。私は自分で巨大な城または、それに類似の何かをイメージする。深い靄を通して、その輪郭を徐々に見ようと始める。そして何かを調査しようと始める。見ているものが何であるかをどのように定式化するかは、思考のタイプと見ているものの規模、そして周囲の社会的環境に依存する。
見て来たことは何かの存在または不在として定式化される。x 2y 2z 2を見よ。一つの式ですべての整数解を書き下せることは素晴らしい。ある意味で、これをディオファントスが知っていた。これをし終えた時、疑問が持ち上がる。結構だが、3乗はどうなのか? 探しに探して何もない。ふーん。何て奇妙だ。4乗の場合は?(と、もし誰かが質問すれば) ふーん。再び何もない。えーと。更に進んで何もないのか? だから2次と3次、4次等との違いを発見する。このフェルマーの最終定理の歴史、まぁ歴史の類だ。だが、例えばこれこれはそれそれと同値だ、または、これこれは決して発生しないというような問題を貴方が提起する時、良い問題か悪い問題かあらかじめ貴方は決して分からない。それが解決されるか、または、ほぼ解決されるまで決して分からない。
問題は品質を持つ。数論において、初等用語で定式化され得る多くの問題があり、フェルマーの最終定理が素晴らしい問題だったことを我々は知っている。その歴史(命題から解決まで)を通して、先験的に互いと関係が無かった事柄の主役と関係があると分かったから、素晴らしい問題だったことを知っている。そして、その解決のために、これら根本的な事柄を調査することが必要だった。問題は巨大体系の中で細部だった。
しかし、我々は他の問題、例えば完全数または双子素数に関する問題を取り上げることが出来る。無限に多くの完全数(その数の約数の和が数に等しい)があるのか? または、差が2の素数のペアが無限に多く存在するのか? 今日まで、これらの命題がフェルマーの最終定理のそれよりも価値がないように見えるから、誰もそれらの問題周辺に興味ある理論を築いていない。
Gelfand: これらは問題それ自身の概念でしょうか、それとも、ただ何らかの社会的理由のために誰も活発に調査しないのでしょうか?
マニン: プラトン主義者として、これが問題それ自身の概念だと分かっているが、問題を定式化している時には誰も認識出来ないのが概念だ。歴史的プロセスの中でそれ自身を見せる。
部分的にこの理由のため、私は問題を好まない。問題を解くことは細部を探すスキルを要求するが、それが何の細部なのか分からない。プラトン主義者として、私は完全なプログラムを好む。偉大な数学的頭脳が何かを全体として見る時、または全体として見ないが、一つの細部よりも多くの何かとして見る時にプログラムは起きる。しかし、最初は漠然として見るだけだ。
Gelfand: すなわち、一つの明瞭な細部を見る代わりに貴方は漠然と建物全体を見ます。
マニン: はい。だから靄を息で吹き飛ばし、ふさわしい望遠鏡を探すため、以前に発見された体系との類似点を探し、漠然と見ている事柄に対する言語を作る、等々。これが私がためらいがちに言うところのプログラムだ。
無限に関するカントールの理論はそんなプログラムだった。希な事件だった。直ちにプログラムであり、無限の順序があるという発見だった。そして、例えば連続体仮説(可算無限と連続体の間に何かがあるかどうか)は他の多くの問題よりも重要でないと判明して来た問題であるが、非常に刺激になった。もしカントールがこればかりを問うていたのなら、悪くなっていたであろう。その重要性は未来でのみ発見されたであろう。だが、彼は直ちにかなりのことをやった。彼は調査のプログラム全体を始めた。
モジュロpの方程式にいくつの解があるかについてのヴェイユの仮設はそんなプログラムであり、私の人生の間に有名になった。彼はすぐに著しい類似点を見た。彼が見ていたところのエリアではギャップがあったが、他のところでは全体理論、つまり(コ)ホモロジー理論があって、写像の不動点に関するレフシェッツ定理を意味した。グロタンディークの人生の半分、ピエール・ドリーニュを含むグロタンディーク周辺の多くの人達の半分が、このギャップを埋めることに捧げられた。彼等はギャップを埋め、類似点は正確になり、現代代数幾何学が生まれた。そして、結果としてずっと多くのことが発生して来ている。現代数学の言語としての集合論が後退し始め、後に来るスーパー構造全体を持つキャテゴリーが古い機能における集合を置換え始めた。
論理では、ヒルベルトのプログラム(彼はあまりにもそれを楽天的に定式化したことを除いて)があった。彼は真なすべてのことが証明出来ることを証明したかった。彼は体系の輪郭を不正確に見たが、とにかくプログラムは発展した。ゲーデル、チューリング、フォン・ノイマン、コンピューター、コンピューター科学。かなりの程度まで、これはヒルベルトの考案によるものだった。
四色問題は私にとってプログラムにつながらなかった悪い問題の実例だ。それはコンピューターを頼って証明されたので、そのことをめぐって今日まで論争がある。だが、今日まで誰も何らかの種類の十分豊かな状況に四色問題を組み込ませて来ていない事実と比べて論争は重要なことではない。だから四色問題は頭脳のトレーニングの手段に過ぎない。
これらの理由のため、私は概して問題それ自体では好きでない。しかし、プログラム内で問題が持ち上がる時―それは問題がいいものである可能性がある時であり、この細部が何の体系に属しているか前以って分かっている時だ。150年の過程の間に限られた数論学者達がリーマン仮説を非常に重要な孤立した難題として調べ続けたけれども、リーマン仮説は確かにリーマンがプログラム内で考案した問題である。その最初の解決が鈍い解析的手法を使う証明であるかも知れぬことを私は少し心配している。それは考え得る限りのすべての賞を受けるだろうし、解決は世界のすべての新聞で賞賛されるだろう。"正しい"解決はより広い状況において与えられるはずであり、我々はそれを知っているので、前述の騒動全てが誤解を招きやすいだろう。解決に対する複数のアプローチさえ我々は知っている。それにもかかわらず、最初の解決が貧弱で面白くないものであることはかなり可能だ。
Gelfand: すべての人が慣れ、明らかに正しいと決めてかかるようになったが、それから反例が見つかった仮説がありますか?
マニン: 人々が信じて長い間続いている仮説がそれから反例が見つかったことはないと思う。
Gelfand: 仮に誰かがフェルマーの最終定理に対する証明よりも反例を見つけるならば、これは世界を揺るがす事件になるでしょうか? それとも問題がいいものではないことを意味するだけになりますか?
マニン: 問題が状況の展開を活気づけたのだから、その問題はそれでもいいものであっただろう。それから、この状況の中で誰かが問題を解決する。その答えはポジティブまたはネガティブだろう。この2番目の質問は重要でない。質問の真意は重要な状況の確立を問題が促進したということだ。
仮に1960年代以前に反例が見つけられたとすれば、すべての人が頭をかいていたであろう。仮に反例が1970年代のどこかで見つけられたとすれば、その時までにフェルマーの最終定理は他の多くの予想(少しもシンプルでない。ラングランズのプログラムに関連して非常に広範囲に渡る性質を持っていた)から導かれるだろうことが明らかなっていたから、非常に興味深いが、多少台無しになっていただろう。その時までに、これらの事柄が真実であればフェルマーの最終定理もそうであることが知られていた。もちろん、仮にフェルマーの最終定理に対する反例が見つけられていたならば、これらの事柄が偽でなければならなかっただろう。そして、これは考え方に関するずっと根本的で複雑なシステムの全滅を意味したであろう。大きな関心と何が間違っているのかを把握する企てを呼び起こしたであろう、多くの体系を再構築しなければならなかったであろう、等々。それすべてが反例の発見から引き続いていたであろう。
Gelfand: 歴史上、そんなに強い反例がありましたか? おそらくゲーデルの定理? それ以前は、真であるすべての事柄を人は証明出来ると思われていました。
マニン: ヒルベルトはこれを信じていたが、他の何人がそれを信じていたのか私は知らない。しかし、これは、このプログラムを正しく調べなければならないことを示している。その最初の重要な成果は数学的状況(その中で、曖昧な哲学的なものではなく、正確な数学的問題として人は真実に関する問題と数学での証明可能性を定式化出来た)の構築だった。この探求の本質により、人は自己言及を導入しなけれならず、残りはタルスキとゲーデルに華々しく示された創意の問題となった。
プログラムの定式化の始めで、人々は何に帰結するかについて間違っている推量を作り、反例が実はこれらはエラーであることを示した。
Gelfand: 他の興味深く間違っている認識がありましたか?
マニン: 人類のイマジネーションの不足を示すものがあった。数学史上において、そんな事柄は通常反例と呼ばれず、パラドックスである。例えばバナハ-タルスキの定理を取り上げよう。ボールから始め、それを5つのピースに切り分ける、それらを再編し、一緒に元に戻す、そして最初のものと同じサイズのボールを2つ得る。この構築は我々にいろいろ語っている。例えば、一般的な集合論的アプローチの酷評家達に対しては、この見解が人をそんな所説に導くのなら、それは数学ではなく、ある種の手に負えないナンセンスであることを意味している。論理学者達に対しては、それはツェルメロの選択公理の逆説的応用の実例であり、だから選択公理を受け入れることに反対の議論である。そして、これすべてに加えて、非常に美しい幾何学だ。かって私は美術館で一般大衆のために講義をすることを頼まれ、バナハ-タルスキのパラドックスがプレゼンテーション"数学の抽象芸術"のための素晴らしい議題であると私は決心した。キーポイントは"ピース"を硬い材料オブジェクトとしてイメージしてはならないが、点の大雲としてイメージすることだった。ボールは不可分の点から成っているとイメージしなければならぬ。これらの点の部分集合を"ピース"と呼びことにする。ピースを移動させ、その向きをぐるりと変えさせることが出来る。しかし、ただ全体として、単一のオブジェクトとしてピースを移動させれば、点間の一対の距離は同じままである。だから球を硬いピースに切り分けるのではなく、5つの大雲に切り分ける。そして、これらの大雲は相互に互いへ浸透出来る。もっとはっきり言えば、それらに関して硬いものは何も無い。それらはボリューム、重さを持たず、高度に訓練されたイマジネーションの素晴らしいオブジェクトである。
何故明らかな矛盾が無いのか? 2つのボールが各々よりも多くの点を含むことは真実ではないのか? そう、無限個の点は正確に同じである。私は孫に一枚の紙の点は部屋の壁上の点と同数存在すると説明した。"紙を取ろう。お前の視野から壁が完全に消えるように紙を持つ。紙はお前の視野から壁を隠している。さて、壁上のすべての点から一条の光が来て、お前の目にたどり着くなら、紙を通り抜けるはずだ。壁上の各点は紙上の点と対応する。だから、それぞれが同数存在するはずだ"。
ここでのメッセージは、最初のボールから個々の点の粉塵を作るなら、任意サイズの、2つのボール、または3つのボール、または無限個のボールですら埋めるのに十分な点が存在するだろうということだ。移動させる、向きを変えさせる、ギャップを残さずに再編する点の雲を定義しようとする時に困難が起きる。これは数学的ペテンであり、大変美しいが、それを上手く説明したいなら、もっと時間を必要とする。
だから、それは反例でなく、トレーニングされていないイマジネーションを困惑させるパラドックスである。
そんなパラドックスの多くが古典数学と集合論的数学の間の過渡期に発見された。曲線が正方形を埋められるという定理があった。そんな事柄が多くあったし、それらは私達に大いに教えた。
多くの人々は、これは全くのファンタジーだと考えたが、新しくトレーニングされたイマジネーションは人にフーリエ級数の"逆説的"振る舞いを認めさせ、ブラウン運動を理解させ、ウェイヴレットを発明させた。そして、これらは全くファンタジーでなく、ほぼ応用数学であることが分かった。
Gelfand: それで次の20年間に何が起きるのでしょうか?
マニン: 私の考えでは、ここ300年の間に何もないのだから、画期的変革を予想しない。新しく力強い研究所が起立するたびに、どうにか数学はその性質を保った。これは私がやったことがないものであるが、講義のテーマでもある。私は最も離れた時代からコルモゴロフの複雑性までの整数のアイデアの発展を示したい。そして、これすべてが新しい数学に殆ど訴えること無く済ますことが出来る。同一のアイデアが持続している。いくつかの時代で少し変わり、その言葉の被いが変わっている。しかし、それでも完全に不変のままであり、生き続けている。何も忘れらていない。
だから私は次の20年の異常な何かを予測しない。おそらく、私が言うところの"数学の現実的基礎"の再構築が続くだろう。これを私は単に、有能で新しく直感的なツール(ファインマン経路積分、高度キャテゴリー、ホモトピー理論家の"brave new algebra"[訳注: これを後世の日本人がどう訳すのか私は興味ありますが、おそらくカタカナ表記で終わると思います]、他にも、目下のところ現役数学者達の頭脳と研究論文の中にある結果を各節目に発表する、新興の価値体系と受入れ形式も)の法典化を意味している。
数学の"現実的基礎"が通常いろいろ変わった形で明確になる時、変形バージョンの提唱者達は論争し始めるかも知れないが、それすべてが現役世代の数学者達の頭脳に存在する限り、必ず彼等が共通に持つ何かがある。だから、カントールとブルバキの後、我々が何だかんだ言っても、集合論的数学は我々の頭脳に定住している。私が最初何かを語り始める時、ブルバキ風の構造の用語(位相空間、線型空間、実数体、有限代数拡大、基本群)でそれを説明する。そうでないと私は出来ない。私が完全に新しい何かを考えているのなら、これこれの構造を持つ集合、前にこれと似ているあれやこれやと呼ばれるものがあった、もう一つ別の類似なものはこれこれと呼ばれた、だから私は少し異なる公理を採用し、それをこれこれと呼ぼうと私は言う。貴方が話し始める時、これから始める。すなわち、最初我々はカントールの離散集合から始め、それにもっと何かをブルバキのスタイルで課する。
だが、抜本的心理的な変化も起きている。近頃これらの変化は複雑な理論と定理の形を取ったが、これらを通して、古い形式と構造、例えば自然数は幾何学的な右脳オブジェクトに変わられている。
集合、つまり離散要素の雲の代わりに我々はいくつかの種類の漠然とした空間を思い描く。その空間は非常に激しく変形し、一つからもう一つ別へ写像される。その間中、特定の空間ではなく、変形までの空間のみが重要である。本当に離散オブジェクトに戻りたいのなら、我々は連続コンポーネントを見る。そのピースの形または次元さえも問題ではない。以前、これらの空間すべては位相を持つカントール空間と考えられた。それらの写像はカントール写像だったが、それらのいくつかは除外等をされるべきだったホモトピーであった。
数学者達の集団的意識の中に進行中の敗北を私は非常に強く確信する。つまり、世界の右脳的かつホモトピー的ピクチャーが基礎的直観になっており、離散集合を欲しければホモトピーまでのみに定義されている空間の連結コンポーネントの集合に渡る。
すなわち、カントールの点は連続コンポーネントまたはアトラクター等になっている(ほとんど始めから)。無限に関するカントールの問題は背景へ後退する。つまり、始めから私達のイメージは非常に無限なので、それらから有限な何かを作りたければ、もう一つ別の無限でそれらを割らなければならない。
これは我々がファインマン積分を思い描く道と平行する。最初、解釈の難題を課されている単なる象形文字だ。最初の2つ、3つ、4つの解釈の段階は全くアドホックであり、数学がクリーンな("トイモデル")他のケースとの様々なアナロジーに訴える。ある段階で、単に発散はしないが発散(有限次元だけれども)積分の項から成る形式級数を得るかも知れない。それから各項を有限にしながら人工的に正規化する。だが、級数は一般的にはそれでも発散する。だから級数の解釈を発明している。そして終に、その方法を多くの無限大の中へ押し進めて有限の答えを得る。ご褒美として、驚くべき数学的定理のシリーズを得る。私はこの中にキャテゴリー理論とホモトピー位相幾何学に基づいて現実的基礎の再構築との類似点を見る。

13507827 journal
数学

taro-nishinoの日記: B. L. ファン・デル・ヴェルデンへのインタビュー

日記 by taro-nishino

"わが父アンドレ・ヴェイユ"の前置きの中で昨年、つまり2017年に一つも"私訳"を紹介出来なかった言い訳を書きました。実はもう一つ理由があったのです。ヒルベルトとクーラントのMethoden der mathematischen Physikの読破に専念したからです。もちろん独語原書の第3版です。読み終えるのにほぼ1年を要しました。独語は私にとって第3外国語であり、しかも本の内容は私の専攻分野ではありませんので時間がかかることは覚悟の上ででした。
では、何故わざわざ苦労してまでヒルベルト-クーラントを読もうとしたのか? 理由は2つあります。先ず、何だかんだ言っても結局ヒルベルトを中心とするゲッティンゲン学派の雰囲気に私は憧れを持っているからです。現代の私達がゲッティンゲン学派の雰囲気を知ろうとするには、もう残された古典的名著を紐解く以外に方法はありません。これが一番目の理由です。当時のゲッティンゲン学派から出た本はヒルベルト-クーラントだけではなく、ファン・デル・ヴェルデンのModerne Algebraも代表的です。しかし、単純に古典を鑑賞して愛でるだけならModerne Algebraでもいいのですが、その内容は現在では学部学生が代数系の講義で勉強するであろうものばかりで、少なくとも第一巻はその範囲内に収まるはずです。従って、どの専攻分野の人でもほぼ常識になっているのです。ですから、苦労した代償に雰囲気を味わえて、知らなかったことを勉強出来る(つまり、守備範囲を広げること、もしくは視野を広げること)という条件に合致しないのです。よってヒルベルト-クーラントなんです。これが二番目の理由です。
ヒルベルト-クーラントを実際に読んだ人なら納得すると思うのですが、この本が少なくとも戦前まで物理学学徒の必読文献だったことも頷けます。それほどに苦労しても読む価値があると思います。そうでなければ、若き日のゲルファント博士がヒルベルト-クーラントを研究するはずがありません。ゲルファント博士は読んだとは言わずに研究したと言っているのです。
さてヒルベルト-クーラントの読了後、今は亡きゲッティンゲンの人々のことを思い浮かべていましたら、ここでも先ほど出ましたファン・デル・ヴェルデンの印象が私には薄いのでちょっと驚きました。ヒルベルトが病気と老齢で表舞台に立たなくなって以降、ナチス政権に対するワイル、クーラント、ネーター、ジーゲル等の行動や苦闘はすぐに思い出せるのに、ファン・デル・ヴェルデンは何をしていたのか全く憶えていないので、慌てて書棚からコンスタンス・リード女史のHilbertCourantを取り出して、パラパラとめくって目を通しましたが、ファン・デル・ヴェルデンの伝記的記述が意外なほど少なく、どうでもいい少年期のエピソードなど私でもどこかで聞いたことのあるものしか書かれていないのです。仕方が無いのでMacTutor History of Mathematics archiveの"Bartel Leendert van der Waerden"を読みましたら、ライプツィヒで安穏と暮らしていたと思いきや、全く違っていました。ドイツを出るに出られなかった(つまり、時期が遅すぎ)ファン・デル・ヴェルデンの苦悩の一方で、ナチスに占領されたオランダでは彼の父親が癌で亡くなり、母親も夫との死別後、ナチスの占領に苦悩して家の近くの湖に投身自殺しました。痛ましい限りです。
今回紹介するのは"Interview with Bartel Leendert van der Waerden"(PDF)です。このインタビュー記事の存在は以前から知ってましたが、今回のことで初めて読みました。その私訳を以下に載せておきます。なお原文にある注釈は省きましたが、インデックスはそのままです。
最後に一つだけ申し立てしたいことがあります。このインタビュー記事の中でファン・デル・ヴェルデンはヘルマン・ワイルのGruppentheorie und Quantenmechanikを難し過ぎて誰も理解しなかったと貶し、同じ趣旨の本をファン・デル・ヴェルデンが書くと、その本はよく売れて、物理学者に歓迎されたと言っています。確かに彼の言う通りワイルは数学的美しさのために書いたということは頷けますが、誰も理解しなかったというのはおそらくブラフだと思います。決してそんなことはありませんから、皆さんは誤解しないで下さい。

[追記: 2018年1月21日]
上記で意図的に"ヒルベルト-クーラント"と書きましたが、特に外国の方と話す時には、この本のことを"Courant-Hilbert"と呼んで下さい、念のため。

B. L. ファン・デル・ヴェルデンへのインタビュー
1993年5月4日 Yvonne Dold-Samplonius

Dold: ファン・デル・ヴェルデン先生、数学への興味はどのように始まったのですか? これに関して最初の思い出は何ですか?
van der Waerden: 私の父は数学教師だった。従って、この学科の本が家にあった。彼は断じて私にこれらを勉強して欲しくなかった。数学の本にのめり込むよりも外で遊ぶべきだと彼は主張した。だから彼は本を鍵をかけてしまい込み、私はそれらに触れられなかった。それが私を時折刺激した。例えば、コサイン法則から始まって三角函数のすべてを再発見した。どういうわけか私はコサインが意味することを知った。コサイン法則も知った。私の調査から、私が呼ぶところの"{1-(コサインの平方)}の平方根"という式が出現した。その時父が私を助け、これは"サイン"と呼ばれるのだと言った。当時私はアムステルダム(私はこの町で1903年2月2日に生まれた)のHogere Burger School(HBS)の生徒だった。それは初等学校に続く学校であり5年制だった。幾何学は勉強対象だったが、三角函数はそうではなかった。後のクラスで教えられるものだった。
Dold: その時期の他の"数学的"体験を語っていただけますか?
van der Waerden: 私は"ピタゴラス"と呼ばれるゲームを持っていた。それは自由に動かせるピースから成り、それを用いて正方形、長方形、または、それらを様々な方法で組み合わせることにより三角形を構築することが可能だった。私はそれをプレゼントとして受け取り、この上なく喜んでそれを遊んだ。ほとんどいつも私一人か、または父と一緒に遊んだ。私の2人の兄弟は、このタイプのゲームに全く興味を持たなかった。
Dold: 貴方の母は数学に興味があったのですか?
van der Waerden: いいえ、無かったと思う。私は母をすごく好きだった。よく私達はボートでザーンダムへ行ったが、そこに彼女は親類がいた。これらの親類も帆船を持っており、私達はよくそこで帆走に行った。
Dold: HBSの後、何があったのですか?
van der Waerden: HBSの後、私は勉強を続けた。当然、専門家に従って私は数学者にならなければならない。しかし、特別な数学教師を一人も憶えていない。だが、学校で理論を知っており、私達のために実験をする素晴らしい物理学教師がいた。しかし、私はまだ数学に熱心だった。
Dold: アムステルダム大学では誰の許で勉強したのですか?
van der Waerden: その時はブラウワーがおり、彼は最も有名だった。そしてヴァイツェンベックは不変式論を教えたが、彼はそれに関する本を書いた。しかし、マノリーに最も多くを学んだ。彼はオランダをトポロジーへ導いた数学者だった。マノリーは共産主義者で、独創的な数学者でもあった。
Dold: 貴方はこれらの人々と非専門家的な付き合いがあったのですか?
van der Waerden: マノリーは父の友人だった。父は社会民主党員だが左派だった。共産主義者達が社会民主党員達と別れた時、父は共産主義者達に親近感を覚えた。彼は多くの友人がいたが、その多くが共産主義者だった。しかし、彼は民主主義者だから社会民主労働者党にとどまった。
Dold: 貴方はブラウワーと親しい関係だったのですか?
van der Waerden: いいえ、彼はコースを教えに来たが、ラーレンに住んでいた。一週間に一度しか来なかった。普通それは許されなかっただろう、彼はアムステルダムに住むべきだった。だが、彼のために例外が作られた。
Camilla van der Waerden[訳注: ファン・デル・ヴェルデンの奥方]: 貴方、彼が貴方に静かにしてくれと頼んだ時のストーリーを話すべきよ。
van der Waerden: おお、そうだ。一度私は講義の間に質問をするため彼の邪魔をした。翌週のレッスンの前に彼の助手が来て、ブラウワーはクラスで彼にする質問を欲しくないと私に言った。彼は全くそれらを欲しくなかった。彼はいつも黒板を見ており、学生達の方に向けることは無かった。
Dold: かくて彼は解説があまり得意ではなかったようです。しかし、貴方は彼から多くを学んだでしょう?
van der Waerden: いいえ。たとえブラウワーの最も重要な研究貢献がトポロジーにおいてであっても、彼は決してトポロジーにおけるコースをせず、いつも彼の直感主義の基礎についてのみだった。彼のトポロジーにおける結果は直感主義の観点から正しくなかったので、もはや彼はそれらに確信が無いようだった。彼が以前やったことすべてを、彼の最大の生産物を、彼の哲学に従って間違いだと審判を下した。彼は非常に変わった人で、彼の哲学を愛することに夢中だった。
Dold: 貴方もトポロジーにおいて研究したことがあります。
van der Waerden: はい、マノリーからトポロジーを少し学んだ。彼は美しい論文"曲面イメージ"を書いた。彼は独創的な人だった。
Dold: そうすると貴方の勉強はどのように進行したのですか?
Camilla van der Waerden: それらの最中に彼は兵役をしていたの。
Dold: 貴方は勉強を終える前に兵役を要求されたのですか?
van der Waerden: いいえ。私はそれらを終えていたが、まだ卒業していなかった。既に必要な試験をすべて終えていた。兵役は最終試験の後まで延期された。
Dold: 貴方はブラウワー、マノリー、ヴァイツェンベックの許で最終試験を受けたのですか?
van der Waerden: いいえ、ド・フリースの許だった。ド・フリースも非常に独創的な人だった。彼は"数の幾何学"、すなわちシューベルトの数え上げ幾何学(それを彼はとても感心していた)に関するコースを行った。だが、この幾何学の基礎は駄目だった。だから、例えば数不変の原理は、幾何学的問題の解の数は随伴するパラメータが変化する時に変化しないと述べている。これが彼の主要論文だった。しかし、一つが一般的な場合から特殊な場合へ変化し、パラメータも変化すると仮定しよう。一般的な場合に対して複数の解が存在し、特殊な場合において一つの解のみ存在することがたまたま起こり得る。しかし、特殊な場合において解は重複度を入れてカウントされるべきだ。例えば、2つの円錐曲線は必ず4つの交点を持つ。それらが接する所において、そんな接点は重複点としてカウントする。これがシューベルトに不足していたことだ。彼は重複度の定義も、それを見つける方法も、それをどうやって計算するかも与えなかった。またイタリア幾何学者達は代数幾何学において注目すべき結果を得ていたが、基礎をほったらかした。従って、私は基礎を考え始めた。これに関するすべてのことを博士論文で議論した1。非常に短い時間で勉強を修了したから、私はゲッティンゲンでもう一つ別の学期を許してくれるか、そのための費用を払えるか父に尋ね、彼はいいよと言った。
Dold: 何年にこのことがあったのですか?
van der Waerden: えっと、世界大戦が終わるまでの間、1919年までHBSにいた。それから1923年にゲッティンゲンへ行き、ゲッティンゲンで私は数不変の原理を証明した。重複度の定義とそれを計算する手法を与えた。私は序論の中で次のことを書いた。"'数え上げ幾何学'と呼ばれるようになった代数幾何学の分科は今日まであまり安全とは言えない基礎に支えられている。幾何学の大部分が基づいている、シューベルトの数不変の原理はシューベルトの定式化においても、引き続く定義においても厳密ではなく、それらは欠陥もしくは不十分である"。それから私は数え上げ幾何学の厳密な基礎を与えた。私はそれを博士論文に仕上げたかったが、長すぎた。他にも、2つの言語オランダ語、ラテン語の内一つのみで博士論文は書かれるという規約があった。こうして私はドイツ語で提出を出来なかった。それで私の数え上げ幾何学の基礎をMath. Annalenに複数論文にして発表した。そして、私の博士論文として、これらのテーマの命題を証明抜きで提出した。この解決は受け入れられ、私の博士論文指導官は既に言及しているようにヘンドリック・ド・フリースだった。博士論文―えっと、日付はいつだったかな? 1926年3月24日にアムステルダム大学の大ホールにおいて私は自分の論文を擁護した。
Dold: こうして貴方はゲッティンゲンで博士論文について研究し、そのちょっと後で兵役をしなければなりませんでした。今回の間に論文について研究出来たのですか?
van der Waerden: デン・ヘルダーで海兵隊員をしている間に論文を書いた。当然、論文を議論するためにアムステルダムへ行く自由は無かったし、ほとんど自分一人で論文をやった。ゲッティンゲンでは、何よりもエミー・ネーターと知り合った。その時までになされたどんな研究よりも、彼女はずっと一般的に代数学を完全に改装してしまった。もっとはっきり言えば、彼女はゲッティンゲンにおける私の先生だった。このように私は彼女が開発していた手法を用いて私の定理を証明した。
Camilla van der Waerden: ゲッティンゲン滞在のためロックフェラー奨学金も貰った。
van der Waerden: そうそう、ゲッティンゲンで一学期後に、クーラントが私に注目し始めた。彼はエミー・ネーターの推薦をもとに私のため一年間のロックフェラー奨学金を獲得してくれた。これを使用して、私はゲッティンゲンでもう別の学期と、ハンブルクでアルティンとの一学期を勉強した。
Dold: その時にゲッティンゲンでは誰がいたのですか?
van der Waerden: 当然ヒルベルトがいたが、彼は非常に愛想がよかった。彼はよく私を家に招待したが、私の研究が彼にとって如何に興味深いか言えなかった。
Dold: 他に誰がいたのですか?
van der Waerden: フェリックス・ベルンシュタインもゲッティンゲンにいた。そして、その時"私講師"としてヘルムート・クネーザー、つまり3人のクネーザーの2番目(アドルフ・クネーザーの息子、マルティン・クネーザーの父)がいた。他では私の時代で、先ずハンズ・レヴィーとカート・フリードリヒがいて、彼等は偏微分方程式を研究しており、一緒に解の存在と一意性を証明していた。しかし、私が最も親密なのはヘルムート・クネーザーだったが、彼にブラウワーが私を紹介する手紙を書いていた。こうして始めから私は彼と親しかったし、彼から本当にトポロジーを学んだ。クネーザーと私は一緒に昼食を取るのが常だった。食事の後で彼は家に帰ったが、時折り私達は最初に軽い散歩をした。ゲッティンゲンの森をずっとぶらぶらし、彼は私に多くのことを教えた。いつも次のようだ。彼は私が完全には理解しない意見を述べ、それから私は彼が本当に言っていたことを調べるため図書館に入った。翌日に私は彼に解釈が正しいか訊いた。このように私は例えばトポロジーを学んだ。
Dold: ゲッティンゲンの高名な読書室をよく耳にします。
van der Waerden: はい、それは見事だった。自分で本を書棚から取れた。これは実にどこか他所で可能でなかった。アムステルダムでは大学図書館に入る時、最初にカタログの中を覗き、所定用紙に記入し、それを箱に置かなければならない。それから半時間して、リクエストされた本を得た。代わりにゲッティンゲンでは自分で書棚から本を得られたが、探していた本のすぐそばで、もう一つ別の興味深い本があることがよくあった。
Dold: ゲッティンゲンの雰囲気はそれらが言うように自由だったのですか?
van der Waerden: 私はそう思う。
Dold: 貴方がゲッティンゲンにいた間、その時に奥様と出会ったのですか?
van der Waerden: いいえ、それは後に起こった。私はゲッティンゲンで職を得た。
Camilla van der Waerden: しかし、貴方はゲッティンゲンからフローニンゲンへのオファーを受けた。
van der Waerden: それは次のような経緯だった。アムステルダムの公共図書館の読書ホールでバローによる解析幾何の中の記事を私は勉強していた。その本のパートⅡは不十分に証明された多くの定理(不十分に定式化されたものさえも)を含んだ。私は著者バローに手紙を書いた。私はまだ大学の学生ではなかった。まだHBSにいた。バロー(その時はフローニンゲンの教授)は職を去るならば、関係者はファン・デル・ヴェルデンを後継者としてノミネートしなければならないと言った。そして、事はそのように起こった。彼はユトレフトへ行き、関係者は私にフローニンゲンの職をオファーした。
Dold: いつフローニンゲンへ行ったのですか?
Camilla van der Waerden: 1927年か28年。それから1929年に私達は会った。
van der Waerden: 1927年だった。
Camilla van der Waerden: 同時にロストックへのオファーがあった。
van der Waerden: そうそう。
Dold: フローニンゲンでの状況はどうだったのですか? 何人学生がいたのですか? 貴方は単科大学に興味があったのですか?
van der Waerden: フローニンゲンではヴァン・デル・コルプトがいた。私は彼から多くのことを学んだが、特に漸近展開だ。私が読んだ漸近展開についての本を彼は書いた。
Dold: フローニンゲンにいた間に、代数学に関する本を書き始めたのですか?
van der Waerden: はい。それから1929年に私はゲッティンゲンの客員教授を獲得し、そこで細君と会った。
Camilla van der Waerden: 私がゲッティンゲンへ来た時、貴方はそこにいなかったが、私の兄(フランツ・レリッヒ)がいた。私は兄と生活することになり、薬局で働いた。後で、夏に貴方が客員教授として来た。そういうふうに私達は出会った。それから私達は結婚し、すべてが上手く行き、素晴らしかった。いや、非常に素晴らしかった。私達は7月に会って、9月に結婚した。それからフローニンゲンへ行った。しばらくして、私は確かに憶えているが、エミー・ネーターが電話で"ハネムーンを終える時よ。再び仕事に戻りなさい!"と言った。それから彼は仕事に戻り、一気に本を終えた。私は確かに憶えている。
Dold: 代数の基礎に関する、この本(Moderne Algebra I, Berlin, 1930)は非常な成功でした。始めからすぐに多くの読者を持ったのですか?
van der Waerden: はい、始めから。私の本Algebraに関して、経緯はこうだ。アルティンは本を書くことになっていて、私と一緒に書きたかった。第1章を書き終えて、それをアルティンに見せた。それから私は第2章を彼に送り、本の彼の担当部分の進み具合を訊いた。彼はまだ何もやっていなかった。それから彼は私と一緒に本を書くアイデアを諦めた。それにもかかわらず、本はアルティンとネーターの講義に基づいている。
Dold: どれくらいフローニンゲンにいたのですか?
van der Waerden: フローニンゲンでは2年間だ。それから私達はライプツィヒへ行った。
Camilla van der Waerden: これは1931年だった。1933年では、もう私達は行かなかっただろう。
Dold: その時、どの数学者がライプツィヒにいたのですか?
van der Waerden: ケーベがいた。
Camilla van der Waerden: 物理学者ハイゼンベルクとフント(彼等は数学者でないが)を除いて数学者達は貴方を魅了しなかった。
van der Waerden: ハイゼンベルクとフントは一緒にセミナーを持ち、私は出席した。私が物理学を学んだのは、この機会だった。アムステルダムでは物理教育が良くなかった。アムステルダムで私はファン・デル・ワールス、つまりノーベル賞受賞者ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールスの息子に習った。
Dold: これらの交流が貴方の研究に影響しましたか?
van der Waerden: 私は群論と量子力学に関する本を書いた。当時ジョン・フォン・ノイマンとウィグナーによって作られた、群論から量子力学への応用がある。ヘルマン・ワイルがGroup Theory and Quantum Mechanics(だったと思う)とタイトルされた議題に関する本を書いていた。しかし、彼の本はとても難しく誰も理解しなかった。ヘルマン・ワイルは美しさのために数学を書きたかったが、私はあまり美しいと思わなかった。このように私は量子力学における群論手法に関する新しい本を書いた。その本は物理学者達に上手く受入れられ、すぐに売り切れた。後に私はそれを英語で書き直した。今だに入手可能だ。
Dold: ハイゼンベルクとフントはライプツィヒに残りましたか?
van der Waerden: ハイゼンベルクはベルリンへ行った。
Camilla van der Waerden: ずっと後、戦争の最終年に彼はベルリンへ、更にカイザー・ヴィルヘルム研究所(現在はマックス・プランク研究所)へ行った。
Dold: 戦争の間、物事は通常に続きましたか? 学生達はいたのですか、もしくは彼等は皆徴兵されたのですか?
van der Waerden: 学生達の殆どが徴兵されたが、私は後に有名になる一人を持った。彼は中国人ウェイ・リァン・チョウ(1911–1995)だった。私達は共にパラメータを使って代数多様体を表現する手法に関する論文を書いた。すべての代数多様体には私が発明した形式が付随される。チョウは証明を与えた。これに関する共著の論文を発表した。
Dold: チョウの有名な学位論文は、この共同研究から来ているのですか?
van der Waerden: はい。私達は方程式によって代数多様体を表現する方法を見つけた。すなわち、r-次元多様体がr超平面と交叉する時、私達は交叉の点を考える。各超平面により次元は一つ減り、このようにr超平面を持つ交叉は点の有限集合だ。各点はその座標によって決定される。さて一つがr+1超平面と交叉するならば、これらのr+1超平面に対して多様体と共通する点を持つための条件が存在するだろう。これが私達に方程式をもたらし、方程式の係数はチョウ座標だ。私はアイデアを思いつき、それを言った時チョウは証明を見つけた。今やW-L. チョウは米国におり、有名な数学者だ。
Dold: チョウは貴方の最も高名な学生です。しかし、貴方は有名になった学生達を持ったことがあります。ヘルベルト・ザイフェルトはライプツィヒで貴方の学生ではなかったのですか?
van der Waerden: いいえ、ザイフェルトはライプツィヒで私の助手だった。しかし、私の学生ではなかった。私がライプツィヒへ行った時、彼は既に立派な数学者だった。彼はトポロジーについて素晴らしい本を書いた。私は後にチューリッヒで二次形式について研究する多くの学生達を持った。彼等の学位論文は私の研究の一つと共に私が発表したが、それは私とハーバート・グロスにより編纂され、題名がStudies on the Theory of Quadratic Formsだ。グロスの他にもAeberli、Germann、Benz、Demuthを思い起こす。
Dold: ライプツィヒで貴方は哲学者ガダマ3も知りました?
Camilla van der Waerden: 私達は大親友だった。実に非常に素晴らしかった。
Dold: ギリシャ数学における貴方の興味を目覚めさせたのはガダマでしたか?
van der Waerden: はい、ガダマはプラトンについて非常に研究していた。私は彼のコースを受講さえした。
Dold: これはいつだったのですか?
Camilla van der Waerden: 終戦時。彼は素晴らしいコースをやった。
Dold: そして、これが貴方のギリシャ数学への興味を増大させました?
Camilla van der Waerden: 確かなことは言えない。戦争の間、私達は科学について彼等と話さなかった。リットとガダマは両方哲学者だが、彼等とはナチズム及び、いつまで続くのかを話した。二人ともナチスでなかった。その時私達は科学について話さず、ただ、もっとはっきり言えば、いつまで続くのかだけを話した。私達はナチズムの全時代の期間に閉じ込められていた。代わって、ハイゼンベルクとフントとは政治についてではなく科学について話した。それは奇妙なことだった。
van der Waerden: ガダマはプラトンの国家篇についてのコースを行ったが、私はそれに受講した。これはナチズムの期間だった。プラトンが国家篇で示す通りにガダマは独裁者は必ず筋道の通った人に敵対し、最後に独裁者は必ず自分自身を殺すと解説した。独裁者は最初に敵を、それから友人達を、最後に自分自身を破滅させる。クラスにはナチス学生達もいたが、彼等は理解しなかった。
Camilla van der Waerden: 彼等は何も決して理解しなかった。
Dold: これが戦争の間でした。それから貴方はライプツィヒを去らねばなりませんでした?
van der Waerden: 1943年12月4日に私達は空襲で焼け出され、細君と私は子供達を連れてドレスデンへ去った。
Camilla van der Waerden: 私の兄がドレスデンにいた。しかし、私達はそこで一晩しかいなかった。
van der Waerden: 兄はフランツ・レリッヒだった。ライプツィヒからドレスデンへの旅行の間に、私達は私の学生達の一人に出会った。彼女は同じ列車に乗っていて、"ビショフスヴェルダへ私達の所へいらっしゃい。そこでは安全でしょう"と言った。ビショフスヴェルダはドレスデン近郊の小さな町だ。
Camilla van der Waerden: 私達はそこで一年、もしくは多分もう少し長くいた。1944年の終わりに私達はライプツィヒに戻った。街は度重なる空襲にさらされた。
Dold: 貴女は何かものを持ち出せたのですか?
Camilla van der Waerden: 夫は"何も持ち出す必要はない"と言った。しかし、私は秘かにナップザックの中に私達5人各自の銀食器(ナイフ、フォーク、スプーン)を入れた。後にこれがとても役立った。
Dold: それから第三帝国の陥落が来ました。
Camilla van der Waerden: 私達はオーストリア内の国で生き延びた。1945年には絶え間ない爆撃をもう受けなかった。だから私達は私の母の所へ行った。彼女はグラーツの近く、タウプリッツに住んでいた。
Dold: 貴方はそこで数学に打ち込めたのですか?
van der Waerden: いいえ、かなりの間、私は何もしなかった。
Camilla van der Waerden: そこでは食べ物を生産することが如何に困難か分かった。そこから私達はオランダへ行った。
Dold: いつオランダへ戻ったのですか?
van der Waerden: 1945年7月。タウプリッツで私達は"難民"だった。米国人達がそこにおり、私達をバスで連れ去った。
Camilla van der Waerden: 米国人達は"今や皆が生まれた国に戻る"と言った。このように私達オランダ人はオランダに戻るべきだ。ヨハンネス・ヘースタース(夫は彼からのアドバイスを求めた)はオーストリアに残った。彼はオランダに戻らなかった。
Dold: 貴方はオランダに職があったのですか?
Camilla van der Waerden: 当時私達のいる状況を説明することは不可能だ。誰もこれを想像出来ない。
van der Waerden: ユトレフトからオファーがあった。戦争中、関係者達はユトレフトに私が来たいか書いて来た。私は"今でないが、戦後に私は来るでしょう"と返事した。ナチズムの間に私がオランダに行ったならば、ナチス内務大臣から称号を受けたであろう。そして私はこれが起きて欲しくなかった。それから私達は実際バスで到着した。その間に私の両親は死に、私の父がラーレンに建てた家に私達は住んだ。
Camilla van der Waerden: 私達は金無し、何も無しで到着し、指図にも他のどこにも仕事が無いことが分かった。
van der Waerden: その時ユトレフトからの、このオファーがあった。ユトレフトには私の良友フロイデンタールがいた。書類が大臣に行ったが、ナチス時代のすべての期間において私がドイツにいたので、女王は書類に署名することを拒否した。
van der Waerden: 人は実にそれを理解出来る。後で私はそれを完全に理解した。
Dold: このように貴方は職がありませんでした。家を持っていたが、他に何も持っていません。どのように暮らしたのですか?
Camilla van der Waerden: ある日、彼が帰宅して"ひと月以上暮らすには十分だろうが、それからは残っているものは何もないだろう"と言った。
van der Waerden: 終いに、ある日フロイデンタールが電話をかけて来て、私に話をするためアムステルダムに来て欲しかった。アムステルダムへ行き、フロイデンタールは私の職をシェル[訳注: 私は正直驚いたのですが、このシェルと言うのは紛れもなく、あの世界的石油会社シェルのことです]で見つけられたと言った。"受けてくれるかい?" はい、もちろん。私はこの上なく喜んで引き受けた。
Camilla van der Waerden: だから私達は救われた。彼等は私達の知性以外のすべてを奪えると私はいつも言って来ている。そして、その通りだった。
Dold: シェルで貴方は何をしたのですか?
van der Waerden: シェルではエンジニア達が難し過ぎると思う問題を私は解いた。楽しかった。彼等は全く異なる問題を抱えていた。例えば、調整機器の最良の回路は何か? 一言で言えば、最適化の問題だ。シェルでは、もう一人別の数学者がいて、彼と一緒に最適化の問題を研究し、素晴らしい解を見つけた。
Camilla van der Waerden: 私達にとっていい時だった。しばらく、何かがかなり違った。
Dold: どれくらいシェルにいたのですか? その後何があったのですか?
van der Waerden: 1947年にボルチモアで一年を過ごした。彼等は私にいて欲しかったが、私は断り、アムステルダムを選んだ。アムステルダムは市の大学であり、そこでは女王が干渉出来なかった。調停をし、関係者達に私へのアムステルダムのオファーをさせたのはヴァン・デル・コルプトだった。
Dold: それにもかかわらず、貴方はアムステルダムにそれほど長くは残りませんでした。
Camilla van der Waerden: それがそこでは大きなトラブルを与えた。関係者達は彼のために大変な努力をして来た。彼はチューリッヒからオファーを貰ったから去った。
van der Waerden: 私達は2年アムステルダムにいた。
Camilla van der Waerden: そして、1951年に私達はチューリッヒに来た。
Dold: 貴方の残りの人生をここチューリッヒで使いましたか?
Camilla van der Waerden: 2年後、ミュンヘンからオファーがあった。1953年に私達は行けたであろう。しかし、私達の子供達が変化全体に不安になっていたので、私達は受けなかった。
Dold: その時チューリッヒで誰が同僚でしたか?
Camilla van der Waerden: フィンスラーとネヴァンリンナ。
van der Waerden: そうそう、フィンスラーとネヴァンリンナ。私達は当時たった3人の教授だった。現在、数学で7つのポストがある。チューリッヒに関して特別なことはETH[訳注: チューリッヒ工科大学のこと。因みに言うとETHは国立大学ですが、チューリッヒ大学はチューリッヒ州の管轄ですから州立大学とも言えます]もあることだ。ハインツ・ホップとベノ・エックマンがここにいた。エックマンと一緒に私は、クーラントによって始められたシリーズ"イエローシリーズ"を刊行した。これらは黄色い表紙を持つ本だ。私の代数学はそこで刊行された。エックマンと私はかなり長い間(私が彼に完全に任せるまで)編集した。
Dold: 貴方はETHの同僚達と親密だったのですか?
Camilla van der Waerden: 大変けっこうでした。彼がいつも出席するセミナーがあった。夫はETHと大学の間に区別をつけなかった。時々彼は"これらのクラスはETHで取る方がいい。それらはETHでハイレベルだ"と学生達に言った。
Dold: いつ貴方は数学史に興味を持ったのですか?
van der Waerden: 私が学生だった時、ヘンドリック・ド・フリースが数学史のコースをした時。その後、私はユークリッドといくらかのアルキメデスのものを読んだ。このように私の興味は早く始まった。ゲッティンゲン(最初に私がいた時)でノイゲバウアーの講義に出席したが、彼はギリシャ数学に関するコースをした。
Dold: ノイゲバウアーはバビロニアに関して主に研究しました。彼はギリシャ数学に関するセミナーもしたのですか?
van der Waerden: 彼はギリシャ数学に関しても講義した。当時ゲッティンゲンでノイゲバウアーは特にエジプト数学に関して研究し、それに関するクラスをした。彼の学位論文はまさにエジプト数学についてだった。これは非常に刺激になった。後に私は一度コペンハーゲンに彼を訪問し、その時彼は私にバビロニア天文学を語った。これは私にとって最も興味深かった。
Dold: いつ数学史に関する研究を始めたのですか? 貴方の本Science Awakeningが50年代の始めに出現したと私は思います。オランダにいる間に本を書いたのですか?
van der Waerden: はい。ここに(ドイツ語訳の)序論の中で"私の本、1950年にオランダ語で最初に刊行されたOntwakende Wetenschap[訳注: これはオランダ語で、"科学の目覚め"]の多くの親切な評者は本がドイツ語に翻訳されることを勧めた"と書かれている。Helga Habicht-ファン・デル・ヴェルデン、私の一番年長の娘がそれの正確で読みやすい翻訳を終えてしまっている(Erwachende Wissenschaft, Basel/Stuttgart, 1956)。第2版、増補版は1966年に出版された。
Dold: 本に対する反応は何だったのですか? Erwachende Wissenschaftに対して?
van der Waerden: まあ、広く読まれた。よく売れて、よく引用されている。多くの言語に翻訳されている。日本語、英語、ロシア語。
Dold: 数学史に関する貴方の最初の刊行はこれだったのですか?
van der Waerden: そう思う。
Camilla van der Waerden: はい、それが最初だった。
van der Waerden: その時以降、私は数学史に興味を持ち続けた。天文学史にも。それはずっと最近に私に非常な興味を持たせている。
Dold: 量子力学の歴史に興味を持ったこともありますか?
van der Waerden: いいえ、量子力学の歴史においてではない。私のSources of Quantum Mechanicsは資料本だ。
Dold: 貴方が50年代にチューリッヒへ来た時、数学史に関するコースをしたのですか?
van der Waerden: いいえ、しなかったと思う。私は数学におけるコースをしたが、天文学と数学の歴史に関する研究もした。
Dold: 私の間違いでなければ、貴方はインド数学にも熱中しました。
van der Waerden: インド数学、いいえ、インド天文学だ。インド天文学について、アーリヤバタについて私は研究した。
Dold: チューリッヒへ来て以降、何の数学について研究したのですか?
van der Waerden: ええと。私の重要な論文はMath. Zeitschriftに載った。そしてMath. Annalenには"On Algebraic Geometry"というタイトルの論文のシリーズ(ZAG): I, II, ..., XXが載った[訳注: ZAGとはZur Algebraischen Geometrieの略称]。
Camilla van der Waerden: 代数幾何学に関する、これらの論文は50年代より前よ、チューリッヒに来た時からではない。チューリッヒではもうしなかった、違う?
van der Waerden: これは間違いだ。最後の論文ZAG XXはかなり最近、1971年だ。
Dold: そのように貴方は、群論、代数学、ハイゼンベルクとフントとの共同で力学、数論(代数学の一部分だと考えられますが)、数学史を研究しました。これらはかなり異なる分野です。これらの分野のうち、どれが最も貴方を喜ばせましたか?
van der Waerden: こともあろうに、代数幾何学だよ。
Camilla van der Waerden: まさか、しかし、私の知っている限り、それは数学史よ。
van der Waerden: うんうん、そして天文学史だ。
Camilla van der Waerden: 実を言うと、これが長年彼を最も喜ばせた。
Dold: 奥様はいつも数学史に興味を持っていらっしゃるのですか? これは本当に数学よりも理解することが易しい。
Camilla van der Waerden: 私はいつも彼がもっと数学に関わったことを好んでいる。しかし、彼はそれをしなかった。歴史についてもっと時間を増やし、数学についてもっと時間を減らしなさいと私は彼に言って来ている。
Dold: 貴方達のお子様達は数学に興味があったのですか? 貴方達の娘Helgaは本(Science Awakening)をドイツ語に翻訳したのですから、彼女はいくらか興味がありました。そして、他の二人は?
van der Waerden: 断固として、いいえ。3人の誰もが興味を持たなかった。私の孫達のうち一番年少が多分いくらか持っているが、まだ早すぎて語れない。彼はたったの10歳だ。
Dold: 貴方の指導の許で、チューリッヒの研究所は大きくなりました。貴方はもっと多くのポスト獲得に成功しました。貴方が着任した時、たった3つのポストしかありませんでした。1973年、貴方が引退した時にいくつあったのですか?
van der Waerden: 多くはないと思う。しかし、うんうん、私の引退前にグロスが大学に来た。彼は一時的にETHにいた。
Dold: 貴方が引退した時、(チューリッヒ州の)教育秘書官キュンチが貴方の70歳の誕生日の機会に数学史のための研究所を図書館付きで造りました。
van der Waerden: はい、しかし、図書館の一部は私の個人的な蔵書であって、それを研究所に寄贈したんだ。
Dold: 貴方は長年この研究所で研究を続けました。
van der Waerden: はい、ノイエンシュバンダーは彼の学位論文を私と書きました。
Camilla van der Waerden: 最初彼が学位論文を貴方と書き、その時に研究所が設立された。しかし、貴方の後継者は研究所に関する何事も他のことも知りたくなかった。
van der Waerden: 研究所は私の後継者によって廃止された。
Dold: スイスでは数学史に対する興味は非常にまれです。これに対する説明を持っていますか? 本当は豊かな国です。国が何とか出来るでしょうに。
van der Waerden: はい。
Camilla van der Waerden: 現在関心を持たれている唯一の人はCostantinescuだ。彼はETHで研究し、何かを、少なくとも"私講師"によってなされるコースを組織しようと努めている。彼は学生達が大変興味を持っていることを何度も気づいている。彼がイニシアティブをとる時はいつでも、いつも多くの注目がある。しかし、彼も勝てない。
Dold: 多分、適任の人々がここにはいないのでしょう。
Camilla van der Waerden: これは確かに理由。人々が欲しいのは数学者でもある数学史家。これは多くの人にとってハンディーキャップだ。この意味で私の夫は何の困難も無かった。
Dold: 研究所が廃止された後、ここ家で研究を続けたのですか? 私は貴方が古代数学について研究していたこと、代数学の歴史、とりわけ現代代数学の歴史(その中で貴方は一部分だった)に関する本(A History of Algebra, Berlin/Heidelberg, 1985)を書き上げていることを知っています。
van der Waerden: はい。私の最新の論文は天文学についてだ。第一部はブルクハルトと書いた1968年の"The Astronomical System of the Persian Tables I"である。第二部はずっと後、1987年に刊行された。
Dold: 貴方が着任した時、ブルクハルトは既にチューリッヒにいたのですか?
van der Waerden: 私は彼とずっと前、ゲッティンゲン時代に知り合いになった。これが私達の唯一の共同論文だ。
Camilla van der Waerden: スイスの状況を知らないで私達がここへ来た時、ブルクハルトは夫の大きな助けだった。彼がここにいなかったならば! 彼は夫にすべてのことで助けアドバイスした。1951年、スイスにおける状況は全く異なった。
Dold: 天文学的システムについて研究を続けていますか?
van der Waerden: いいえ、この議題は今や終わっている。それ以降、私は何も発表していない。しかし、議題はまた私に興味を持たせる。
Dold: 貴方は他の数学史家と親しい関係にあったのですか? 例えばフロイデンタールと。
van der Waerden: はい、フロイデンタールは教授になる前にブラウワーの助手だった。
Camilla van der Waerden: 彼は私達がまだオランダにいた時に教授になった。フロイデンタールは貴方より年少なの、それとも年長なの?
van der Waerden: 彼はずっと若かった。
Camilla van der Waerden: 彼はかなり前に亡くなった。彼はずっと若かった。彼はユダヤ人だったのに、オランダで生き延びた。
Dold: ドイツの数学史家との関係は何だったのでしょうか?
Camilla van der Waerden: 私はもう一人、ヴァイトナーを言わねばならない。彼はグラーツにいた。毎年夏に私達は私の母を訪ね、毎回夫はヴァイトナーとしばらく過ごした。彼と一緒にいることが最も楽しかった。そして、他の歴史家? ライプツィヒで誰がいたのかどうか憶えていない。ライプツィヒで数学史に興味を持っている人がいたの?
van der Waerden: いない。
Camilla van der Waerden: 彼はいつも偉大で孤独な人物だった。
Dold: 貴方達が私に語って頂けたことすべてが素晴らしいです。本当に有難うございます!

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長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds

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