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13504227 journal
数学

taro-nishinoの日記: グロタンディークに関する青春の思い出

日記 by taro-nishino

前回マイケル・アティヤ卿の"私が知った時のグロタンディーク"を紹介しました。この追悼記事を私が読んだ時の印象を書くと、アティヤ卿はあくまで数学者グロタンディーク氏を話題にしたいのであって、それ以外の、例えば個人的生活等には触れたくもないという感触を受けました。アティヤ卿は"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"の中で、グロタンディーク氏の学問的に等身大の伝記は"彼を個人的に知っていた数学者により書かれることが望ましい"と書いているのですが、アティヤ卿の冷徹な追悼記事を読んで、これでもう卿がグロタンディーク氏の伝記を書くことは(年齢的にも無理でしょうが)無いと確信しました。そして、アティヤ卿はグロタンディーク氏が数学を止めた以降のことにも非常に冷淡です。そのことはセール博士もアティヤ卿と同様に冷淡ですが、まぁセール博士にすればCorrespondance Grothendieck-Serreを出したことだし、もういいだろうと言うかも知れません。
さて、今回紹介するのは同じくAMS Noticesの2016年3月号からピエール・カルティエ博士のSome Youth Recollections about Grothendieckです。これを読めば、どういう理由でグロタンディーク氏がブルバキを辞めたのか分かるはずです。巷では、特に日本においてはブルバキのÉléments de mathématiqueをキャテゴリー論に基づいて書直すべきというグロタンディーク氏の提議が拒絶されたからという説を馬鹿な輩(アミール・D. アクゼル氏の和訳本、数学に関して明らかに素人だと思われるサイエンスライターが面白おかしく書いた本等の影響?)がまことしやかに言っているようですが、全く出鱈目であることが分かります。
要はグロタンディーク氏がアンドレ・ヴェイユ博士の強烈な個性についていけなかったことが原因だったのです。ヴェイユ博士が何人に対しても辛辣で、いつも何かしら怒鳴っていた(ご自分の娘さん達に対してさえも)し、癇癪持ちであったことは有名な話であって、身近の人々は怒鳴られても聞き流していました。グロタンディーク氏はそのことを知らずにブルバキに入ったのかどうか知りませんが、たとえ知らなかったとしても子供じゃあるまいし、何故聞き流せなかったのか不思議です。それほどうぶだったと言わざるを得ません。
その私訳を以下に載せておきます。なお原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。原文にある注釈を省いていますが、インデックスはそのままです。

グロタンディークに関する青春の思い出
2016年3月 ピエール・カルティエ

グロタンディークの科学的誕生は1948年10月で20歳だった。モンペリエ大学から学士(バチェラーと同等)を受けた後、彼はパリで博士課程の奨学金を得た。この年は有名なカルタンセミナーの始まりだった。グロタンディークはそれに出席したが、あまり面白くなかった。それからナンシーへ移り、彼の有名な博士論文につながる、函数解析における研究を始めた。
私の科学的誕生は1950年10月であり、その時はエコール・ノルマル・シュペリウールで学生として受け入れられた。私は本当にすべてのことを学びたく、代数トポロジーとホモロジー代数に終生興味を持ったので、アンリ・カルタンとサミュエル・アイレンベルグに終生の友情を持った。
この期間、グロタンディークの名声はナンシーで急速に発展し、パリ(!!)においてさえ、私達は注目した。彼と私が最初に会った時を正確には憶えていないが、多分1953年くらいで或るブルバキセミナー2の機会だった。彼の研究を初めて私が知ったのはローラン・シュヴァルツを通じてだった。シュヴァルツがパリに向けてナンシーを出発した時、私達はもう別の数学的父を持った(最初はH. カルタンだ)。彼は"超函数"の発明で非常に有名であり、熱狂的な支持者達(ジャック=ルイ・リオン、ベナード・マルグランジュ、アンドレ・マルティノ、フランソワ・ブリュア、私)に函数解析を教えた。パリでの彼の最初のセミナーはグロタンディークの博士論文に費やされ、私は活発に参加し、"カーネルの理論"[訳注: もちろんカーネルには核という訳語があることを承知していますが、"核の理論"なんて洒落にもなりませんので、あえて片仮名表記にしました]とキュネット定理の位相バージョンに特に興味を覚えた。2つのかなり思いがけない展開はグロタンディークの博士論文から来た。最初、フランスにおいては複素解析函数のコホモロジー理論に最後の仕上げをするため難解な解析的手法を使うH. カルタン、ジャン=ピエール・セール、L. シュヴァルツの実りあるコラボレーションがあった。その次に、その時はソ連のゲルファントが確率論(ミンロスの定理とランダム分布)と数理物理学(量子場理論)への応用のために位相テンソル積と核型空間を使った。函数解析から代数幾何学へのグロタンディークの研究の変化をトレースすることは興味深いだろう。私はこれをいつか展開することを計画しているが、ここは相応しいところではない。
私達が親密だった時期はほぼ1955年から1961年までであり、そこではブルバキが大きな役割を果たしている。私達の最初の出会いの一つを私は鮮明に憶えており、アンリ・ポアンカレ研究所だった。グロタンディークが凸状不等式に関する特別講義をした後のブルバキセミナーで1955年の3月だった。彼は私に"もう間もなく私達の両方がブルバキに合流するだろう"と言った。私は1955年6月に規則正しくブルバキ会議に出席し始めた。グロタンディークは間もなく合流し、1956年から1960年まで積極的に出席した。1955年6月、会議の期間に読んだ最も面白い作品の一つが彼の有名なTôhoku論文[訳注: 東北大学が発刊するTôhoku Mathematical Journalに掲載された"Sur quelques points d’algèbre homologique"("ホモロジー代数のいくつかのポイントについて")のこと。何故この雑誌に発表されたのか、その経緯を知りたい人はCorrespondance Grothendieck-Serreを参照して下さい]の第一草稿だったが、彼はそこでホモロジー代数の新しい誕生を与えている。その時の、特に1955年のセールの論文"Faisceaux algébriques cohérents"[訳注: "代数的連接層"]出現の後で、主要な課題の一つは最も一般的な位相空間(特に、ハウスドルフでなく局所コンパクトでない)に対して妥当な層コホモロジーの理論を発明することだった。要求されたことは単射的分解の構築だが、誰も層に対して、それを作る方法を知らなかった3。後にグロタンディークのお気に入りの手法となったものの内で、彼は上記からの問題を解いた: 単射的分解を許すためキャテゴリーに必要な近似概念を探し、最も一般的な位相空間において層のキャテゴリーがこれらの概念を満足するか確認すること。
ブルバキに戻ろう。ターニングポイント、すなわち世代交代があった。(6シリーズの中の)いわゆる第一部は、集合論に関するすべての事柄と同型写像と構造の広く浸透した概念に基づいて、基礎にささげられた。当時第一部の刊行はかなり進行したが4、その後に何が来るべきか? 他の多くのプロジェクトの中で、幾何学―エリ・カルタン5の遺産である微分幾何学と代数幾何学の両方(シュヴァレー、ラング、サミュエル[訳注: アイレンベルグのこと]、セール、ヴェイユにとって大事だった)が要だと思われた。私達はすべての種類の多様体の統合された解説を与えたかったが、3つの競合する提案があった。すなわち、環つき空間(カルタン、セール)、"チャート"の局所キャテゴリー(アイレンベルグ)、微分学の更なる代数バージョン(ヴェイユ、ゴデメン、グロタンディーク)。最終的に受け入れられたものは無かったが、グロタンディークはそれらをすべて彼のスキーム理論に使用した。
2、3の個人的思い出を加えさせてほしい。これらブルバキの夏季会議すべてがアルプス内で行われた。最初はディー6に近いÉtablissement Thermo-résineux de Salières-les-Bains(一種の手の込んだサウナ施設)内で。それからペルヴー・ル・ポエの山の中の静かなホテル内で。私はディーでグロタンディークの遅い到着を憶えている。彼は車で一緒に向かいたいというセールとの約束を見落とし、夜行列車で向かうという私達との別の約束も見落としたが、そして間違っている列車に乗り、挙句の果てにヴァランスからディーへヒッチハイクすることとなった! セールはそれほど面白がってはいなかった。別の時に、彼は私に読むようにとドキュメントを渡したが、そのページの間に不幸なブラジル人ガールフレンドからのドイツ語で書かれた手紙があった。
私はさほど珍奇ではない出来事を憶えている。ディーの近郊、山奥にマルセル・レゴが住んでおり、彼はH. カルタンとA. ヴェイユの古い友人だった。ヴェイユの自伝はレゴを"敬けんの研究"の著者と呼び、1970年代にグロタンディークはそれらの本に繰返し言及した。レゴは数学を止めて羊を畜産したが、一種のファランステール、やがてヒッピーコミューンの波となるもののグルになった。H. カルタンの適切な説明書を持って、グロタンディークと私はグルを訪問するため長い道のりを一緒に歩いた。道中で、数学は99パーセントの労力と1パーセントの興奮であり、数学を止めて小説と詩を書きたいと彼は私に告白した。それを最後には彼はやった! これは彼の母の死の時あたりで、彼の母は作家7になりたかったことは知られている。私達の会合の一つに彼は母を連れて来たが、彼女はシャイなままだった。
1960年の夏のブルバキ会議の間に、ヴェイユとグロタンディークの間で衝突があった。微分学に関するグロタンディークのレポートを私達が読んでいる間にかなり突然に始まった。ヴェイユは誰も真剣には取らない(グロタンディークを除いて)、彼のよく知られている嫌味な注意の一つを発したが、グロタンディークは部屋を去り、数日間戻らなかった。両者は我慢出来ない性格だったし、私達は何が特に問題なのか分からなかった。S. ラングとJ. テイトの交渉手腕のある努力にもかかわらず、グロタンディークはブルバキからの自ら課した追放を再考しなかった。
1970年代におけるグロタンディークの政治的活動の長い話を私が述べるにはもっと余白を必要とするだろう。彼は反体制派の活動家達の中でもいつも異論者だった(ヴェトナム戦争を考えてみよ)。たとえ貴方の政治的ラインが彼自身のものにかなり近くても、彼は如何なる妥協も拒否したかったから、彼の側に立つことはしばしば苦痛な体験となった。そして、これは彼がいつも人生を生きるやり方だった。彼はいつも反逆者だった。

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数学

taro-nishinoの日記: 私が知った時のグロタンディーク

日記 by taro-nishino

大学の教壇に立つ友人共の話によれば、彼等が教えている(または教えた)学生達の何人かは、私のこの"私訳"シリーズを読んだことがあるそうです。たまたま友人共の一人がルベーグ積分の講義を担当した時、グロタンディーク氏が高校生から大学生にかけて自力でルベーグ積分を構築したことを学生がさも得意げに喋っていたから、どこで知ったのかを聞くと、この"私訳"シリーズを読んだことを白状したそうです。友人は私に、学生がそんなどうでもいいことにうつつを抜かすよりもルベーグ積分をしっかり勉強して、いい成績を取る方が肝要だろうと苦笑し、"私訳"シリーズに責任ありと冗談で言ってました。
確かに"私訳"シリーズにおいて、かなり昔にAllyn Jackson女史の"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その1"等で、そのようなエピソードが出て来ました。しかし、理系の人なら論理的にしっかり読んで欲しいのですが、Jackson女史はあくまでグロタンディーク氏のRécoltes et Semailles("収穫と種蒔き")に沿って筆を進めているに過ぎず、実際にそれが本当かどうかの判断を入れてないことに注意して下さい。つまり、あくまで"収穫と種蒔き"を前提にしているのです。しかし、"収穫と種蒔き"を原文で少しでも読んだことのある人なら実感出来るように、いろいろな箇所で話を盛っている可能性を捨て切れないと思います。
私はルベーグ積分のエピソードに関して、全くの嘘ではないにしても話を盛っていると思っています。理由は二つあります。グロタンディーク氏がルベーグ積分に関する論文を書いた、書いたと一方的に言っているに過ぎず、その草稿は残っておらず、ブルバキの誰がそれを読んだのかもはっきりしていません(アンドレ・ヴェイユ博士が読んでないことは断言出来ます)。巷ではアンリ・カルタン博士が読んだことにされているようですが、その割にはカルタン博士は後にその件で何も語っていませんし、グロタンディーク氏の話題に及んでも、草稿を目にしたとは不思議なくらい一言も言ってません。仮に百歩譲って、実際に草稿があったとしても、取るに足らないものだったはずです。何故なら、ルベーグと結果が同じだったとしても、グロタンディーク氏の言う通り、本当に独自のツールとフレームワークを開発して理論を構築したならば、立派にグロタンディーク積分と認知されたはずだからです。またグロタンディーク氏の最強の味方であるピエール・カルティエ博士ですら実際に草稿の存在を目にした訳ではなく、草稿を誰かが読んだらしいという又聞きに過ぎません。グロタンディーク氏は、自分の父親に関して有名アナキストだと言ったという思わせぶりの件にしてもそうですが、青少年の頃のコンプレックスは相当に根深いことを伺わせます。そんな過去のことを気にせずに、数学者になって以降にやって来た業績で十分胸を張ればいいのにと凡才の私は思います。以上が一つ目の理由です。
グロタンディーク氏は面積とは何かという疑問から出発しているのですが、ルベーグはそんなナイーブ(日本ではいいようにとらえているようですが、馬鹿、世間知らず、素朴等否定的意味合いが本当です)なことから出発してません。つまり、問題意識が違うのです。ルベーグは今日言うところの強収束定理を念頭に入れていたのです。ですから、少年グロタンディーク氏のようにナイーブではなく、プロフェッショナルの仕事としてルベーグはやったのです。両者が全く同じ結果を生んだとは正直思えません。以上が二つ目の理由です。
さて、ルベーグ積分のエピソードはこれくらいにして話は変わります。AMS Noticesの2016年3月号及び4月号にグロタンディーク氏の追悼記事があったことは皆さんもご存じでしょう。それらの中から今回はマイケル・アティヤ卿が書いたGrothendieck As I Knew Himを紹介します。なお、原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2018年1月15日]
グロタンディーク氏の"収穫と種蒔き"は伝記的記述、特に数学者になる前の記述にはかなり歪曲があります。例えば、父親、母親、異父姉の件等、家族関連はほぼ歪曲されています。これらに関しての事実はミュンスター大学名誉教授Winfried Scharlau博士の著書Wer ist Alexander Grothendieck?を参照して下さい(これは全4巻からなり、一応完成しているのは第1巻と第3巻で、今なお執筆中です)。

私が知った時のグロタンディーク
2016年3月 マイケル・アティヤ

私がグロタンディークという旋風と出会った最初は、ごく初期で1957年のボンでのごく小さなArbeitstagung[訳注: これは独逸語でワークショップの意味です。数学界では誰もが知っている名称なので、以降和訳せず、そのまま表記します]だった。毎日グロタンディークが数時間喋り、ヒルツェブルフ-リーマン-ロッホ定理(HRR)の彼の新しいK-理論一般化を詳細に述べていたことを憶えている。ドン・ザギエによれば、Arbeitstagungの議事録は4日間に渡って合計12時間彼が喋ったことを示す。それは浮き浮きとする体験だった: 輝かしいアイデア、気迫のこもった講義。その時幸いにも私は若く、グロタンディークとほぼ同年齢で、彼の偉大な結果を吸収し、結果的に拡張出来た。
今から思えば、彼は然るべき時に然るべき人だったと見ることが出来る。セールが層コホモロジーを含んで代数幾何学の新しい基礎を置き、ヒルツェブルフがチャーン類に基づく一般コホモロジー形式論を展開し、それを彼とボレルが最新式にした。多くの人にとって、HRRが何百年の代数幾何学の最高潮、頂点だと思えた。だが、グロタンディークはブルバキの力を借り、将来は普遍性とファンクター性[訳注: 関手性という無意味な訳がありますが、私見では日本数学史上最低な訳だと思っており、適当な訳が無ければファンクターとそのまま表記すればいいだけと考えます。圏だってそうです。キャテゴリーとすればいいんです。例えばhomology、cohomologyはホモロジー、コホモロジーとしているのに一貫性が無さ過ぎでしょう]が有力になるだろうと待望した。彼のK-理論の導入と展開はホモロジー代数に関する彼の熟達と名人芸にかかっており、それは凡人が踏むことを恐ろしいと思うような道を完全に制圧して貫通した。出現したもの、つまりグロタンディーク-リーマン-ロッホ定理はHRRの輝かしいファンクター化であり、証明は練習問題となってボレルとセールに任された!
彼の函数解析における初期の研究に続いて、この偉大な勝利はグロタンディークを数学者として確立し、フィールズ賞受賞(ソビエト政権に抗議して、彼は立派に1966年のモスクワ会議に出席しなかったが、そこでメダルは授与された)に繋がった。彼の新しい哲理は大勢の信奉者達を惹きつけ、彼等は私が描く力を超えて、壮大な新しいアイデアを展開した。
個人的に私にとって、次のArbeitstagungで発芽したもっと位相的なアイデアと共に彼のK-理論は結局、有名なBott周期性定理に基づいてヒルツェブルフと私が展開し、位相的K-理論となった。その後、キレンや他者のアイデアを通して、代数的K-理論がトポロジー、代数幾何学、数論を前途有望だが、気のくじけるような問題を抱えながらも深くて美しい方法でリンクする主要フレームワークとして出現した。これがグロタンディークの遺産の一部だ。
最初のArbeitstagungはまた私にとって教育的側面を持った。1959年の秋、プリストンの高等研究所において、毎土曜日の朝はボレル、セール、テイトによって詳細でテクニカルなセミナーが運営され、グロタンディーク流のスキームの代数的基礎を解説した。私は熱心な学生で、オックスフォードで短いコースを講義するため可換代数を十分に勉強した。それが最終的にイアン・マクドナルドと共著のテキスト本[訳注: Intoduction to Commutative Algebraのこと]となった。それはベストセラーではなかったが、主にサイズが薄くて値ごろであるという理由から世界中の学生に読まれた。それはまた私が可換代数のエキスパートであるという間違った印象を与えたが、それでまだ私は可換代数の扱いにくい質問をメールで受けている!
私は引き続く年々にグロタンディークとボン、パリ、その他のどこかで頻繁に会っており、私達は親しい間柄だった。彼は私の初期の論文の一つを好み、これは"アティヤ類"として知られるようになったものに基づき層理論的フレームワークの中でチャーン類を導いた。他方、彼はアティヤ-ボット不動点式をかなり取り合わなかった。アティヤ-ボット不動点式は彼の一般理論の当然な結果として、コンパクトリー群の表現の特性に対するヘルマン・ワイル式に繋がった。テクニカル的に彼は正しかったが、彼も他の誰もワイル式との関係を今まで作ったことがなかった。
私自身の研究に対する、これら2つの反応は啓発的だ。私の初期の論文は彼の一般理論の部分でなかったので彼は感銘を受けたが、アティヤ-ボットの結果(それを私はずっと重要だと考えるが)は彼の大きな仕組みの部分に過ぎず、従って驚きも興味深くもなかった。
私の思い出には記録に残しておく価値のある2つのエピソードがある。一番目はライン川で有名な客船旅行の一つで発生したが、客船旅行はボンArbeitstagungの中心だった。グロタンディークと私は上階のデッキのベンチに一緒に座っており、彼は両足を反対側のベンチに乗せた。船員が近づき、全く理性的にベンチから両足を下すよう彼に話した。グロタンディークは文字通り両靴を埋め込み、拒否した。船員は上役を連れて戻り、上役は要求を繰り返したが、グロタンディークは再度拒否した。それから、このプロセスは頂点にまでエスカレートした。船長が来て、船を停泊地まで戻すと脅したが、それは主要な国際的事件を防ぐためのヒルツェブルフの外交的スキル全体を要した。このストーリーはグロタンディークが彼の個人的生活において如何に非妥協的であるかを示し、数学における彼の妥協の無い態度と並行していると私は思う。その違いは、数学において彼は主に成功したが、実社会において彼の非妥協的性質は必然的に大失敗と悲劇となったことである。
私の2番目の個人的思い出は、グロタンディークが40歳だった時、彼は数学を止めてビジネスマンになると打ち明けたことだ。私はそれを割り引いて聞いたが、彼は至って真剣だった。もっとはっきり言えば、その年齢あたりで彼は本質的に数学を止めて、従来に無いビジネスマンになっており、狭い商業的世界ではなく、ふさわしい空想家として世界的規模の業務で運営した。不幸にも、数学の学問的世界において彼に大きく役立った才能は、より広い世界において全く不完全、または不適当だった。政治を"可能性の芸術"にする妥協性はグロタンディークにとって大嫌いなものだった。彼はシェークスピア風の型における悲劇的人物であり、彼自身の内なる弱点により未完成なヒーローだった。
グロタンディークを非常に大きい影響を持つ偉大な数学者にした非常な特徴はまた、残りの人生で彼が自分で選んだ大いに異なる役割に対しても彼を適合させなかったものだった。

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数学

taro-nishinoの日記: わが父アンドレ・ヴェイユ

日記 by taro-nishino

随分前に、代数構造もしくは代数系に関する講義を担当した友人が定期考査、多分夏休みの前か終了直後に行われる中間考査だと思いますが、以下の問題を出題したことがありました。

有理整係数の多項式は任意の素数を法とする既約多項式の因子に一意分解されることを証明せよ。

解答自体は殆ど自明で、友人も受講者全員が解答出来るであろうと見込んで出題しており、解答そのものよりも、この出題の内容の事実を講義で言及出来なかったので、こういう事実を知っておいて欲しいということで出題したようです。
ここで初学者のために解答例を書いておきます。

(解答例)
有理整数環 Z は単項イデアル環だから、任意の素数pが極大素イデアル(p)を生成する。従って、剰余環 Z /(p)は可換体であり、多項式環( Z /(p))[x]は単項イデアル環である。単項イデアル環において素因子分解の一意性が保証されているから、議題は証明された。

ごらんの通り、数学的センスも考察も何もいらないです。強いて言えば、単なるロジックの連鎖だけが必要です。しかし、友人によれば思ったほど正解率がよくなく、"素数を法とする既約多項式の因子に一意分解される"の意味を理解出来なかったのではなかろうかと言っておりました。
ここで少しばかり解説します。簡単のため、素数2を法とします。法2に関して、1次の既約多項式はx、x+1だけであり、2次の既約多項式はx2+x+1だけです。ここで、x2+1は既約じゃないのかとちょっとでも思った人は全く問題を理解していません。法2ですから2x≡0であり、x2+1≡x2+2x+1≡(x+1)2なので、既約ではありません。同様にx3+x2+x+1も既約ではありません。
では、何故こういった事実を知っておいた方がいいのか? 有理整係数の多項式の既約性を推論する時、特殊な場合(例えばアイゼンシュタインの判定法を適用出来る場合等)を除いて、一般的には低次の既約多項式で割ってみることが普通です。次数を定めても、 Z [x]が無限個なのに対して( Z /(p))[x]は有限個なのですから、その中で低次の既約多項式を考える方が楽なのは当たり前です。そして、( Z /(p))[x]で既約ならば Z [x]においても既約です。但し、( Z /(p))[x]で既約でないからと言って、 Z [x]で既約でないとは限りません。その場合は、法とする素数をいろいろ変えてみるという手段もあります。
以上のことを長々と書いたのは、定期考査の問題を解答出来た、出来なかったで終わらせずに、講義の補講的な意味合いの出題もあるから、しっかり問題を憶えておき、試験終了直後にノートに書いておくことをお勧めしたいからです。教官は学生達が思っている以上に教育的な配慮を考えているものなんです。自慢じゃありませんが、私はノートに問題を忘れない間に記入した後で、時間制限のある試験で書いた自分の解答に不満足だと思ったものについて、新たな解答をレポートに書いて先生に見てもらったことが何回もあります。それが成績に反映するなんて下心は一切ありませんでしたし、先生もそのことを最初に断っていました。ただ純粋に自分の好奇心を満足させるだけのためだったし、そのことは私の友人共皆が知っていましたから、誰も文句を言いませんでした。私のような凡才はこれくらいのことをやって当たり前なんです。なんせ周囲を見渡せば天才かと思うような人達が多くいましたから(それでも、所詮日本国内における天才度に過ぎず、世界規模で見れば大したことはありません。そのことは海外との交流を深めるといやと言うほど実感出来るはず)。
さて、話は変わります。昨年は公私共に多忙で、一時期は体調も悪く、この"私訳"シリーズにおいて一編も紹介出来ませんでした。やっと年末年始で一息ついたので、紹介するネタを探していましたら、あのアンドレ・ヴェイユ博士の御長女であるシルヴィ・ヴェイユ女史が何とAMS Noticesの一月号に寄稿しているではありませんか。これは私にはちょっと驚きでした。と言うのは、志村五郎博士の"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"の追加箇所を読んでいただければ分かる通り、志村博士とシルヴィ・ヴェイユ女史との間に良く分からない理由で不和が生じました。しかし、これはNoticesの担当編集者に責任があったことは明白です。ですから、シルヴィ女史がNoticesに寄稿することは志村博士と和解出来たのだと私は楽観しています。なお、原文は"My Father André Weil"(PDF)です。以下の私訳において原文にある注釈を省いていますが、インデックスの番号はそのままです。

わが父アンドレ・ヴェイユ
2018年1月 シルヴィ・ヴェイユ

1998年8月6日の父の死から約20年経過しているが、それでも彼は時々私を呼ぶ: "シルヴィ、ここから出してくれ、退屈だ"(彼が使う仏語の言葉はとても丁寧ではない)。
ユダヤ人の伝統に従って、アンドレは永遠に研究仲間をあてがわれたと私は確信する。この仲間とは誰なのと訊いたことがあった。"オイラー"と彼は答えて笑った。彼が私を呼び、退屈だと言う時、私は訊く: "オイラーはどうしたの? 彼も退屈なの?"
父は退屈や時間の浪費ほど恐いものはなかった。すべての瞬間が有用に、または愉快に費やされなければならなかった。父から10代の私宛の手紙をまだ持っている。彼はとてつもない計画を勧めた: エウリピデスとソフォクレスを毎晩読み、毎木曜日はルーブル美術館またはコメディ・フランセーズで、毎日曜日の午後はベートーヴェンを聞くためにサル・プレイエルで...。これらの手紙の観念主義は私を笑わせるが、15歳の私はただ楽しい時を過ごしたかったから、私が覚えた嫌な罪悪感を復活させる。
父と一緒の食事は少しストレスを感じたようだ: 私達は"面白い"トピックスの会話をすることになっていた。ジャン・ラシーヌの、あるいは、もっと良いのはウェルギリウスの数節を暗唱することは上手くいったものだった。しかし、批判を避けることは困難だった: "かわいそうな娘よ、それらはお前にラテン語の数節の正しい発音を教えているのかい?"が大抵アンドレの反応だろう。だが、彼の計画は必ずしも厳しいだけのものではなかった。サタジット・レイや黒澤明の映画を好んだ。水泳、アイススケート...を好んだ。また彼はかなり演劇を出来た(図2を見よ[訳注: このエッセイの図はすべて写真ですので、原文を見て下さい])。妹と私が子供だった時、彼は私達にモリエールのコメディを読み聞かせ、私達を喜ばせる裏声を装いながら若い純情娘を演じるのが上手かった。
多くの場合、一流数学者達の一人であるのみならず、傲慢で皮肉的で脅迫的であるという世界的評判を受けた父の許で成長することは特典だと私は感じた。あまりにも恐ろしいので博士研究員達は私に宿題を持たせ、偉大な男のムードを検査するために彼のオフィスに送り込んだものだった。彼が私に怒鳴るのを聞けば、博士研究員達は姿を消すだろう!
幼年時代の一つの思い出をとてもかぐわしくしているのはまさにアンドレの傲慢の評判である: 恐ろしく傲慢な数学者アンドレ・ヴェイユ、パジャマにさっと羽織られるレインコート、雨の中を外に出て、米国西部のどこかのみすぼらしいモーテルのぼんやり照らされた中庭を走り回り、各戸をノックして25セントを必死に物ごいする。2つの軋むベッドがある私達のひどい部屋で、母、妹と私はコインを使い果たした時、コイン式テレビを見ていた。アンドレは自身の試みが失敗し、私達は耳が不自由になっていく若くて美しいヒロインに何が起きたのか知らないこととなった。
2008年、シモーヌ・ヴェイユの100周年が近づくにつれて、彼女に関する大量の本が刊行されるだろうことが明らかになっていた。全く見知らぬ人が"お々、貴女は実に彼女に似ている!"と言いながら、私に遠慮なく近づき、触り、キスさえもしたので、私は長らく"聖者の姪"("遺品"の一種と人は言うかも知れいないが)といういかがわしい役目を演じていた。今や他の誰もが書けない本を書くべき時だった。
もちろんシモーヌはアンドレよりもずっと有名だ。大抵の人々は数学よりも哲学的、政治的、神秘的な書物を読めるか、少なくともそう思っている! そして、そうだ、多くの目には彼女は聖者だった!
しかし、アンドレのことを書かないことは不公平だと思った。特に私はいつもアンドレとシモーヌを異様な双子の組だ(図3)と見なしていたから、バランスの問題だった。

聖者であることに加えて、叔母は私の父の分身だった。彼女は彼と双子のように似ていた。私は彼女と非常に似ていたから、私にとってぞっとする分身だ。私は父の分身に似ていた1

もちろん、この類似は私達の関係に影響した。アンドレは子供達を溺愛する母親によってシモーヌがあまりにも過保護だったと思っていたから、私自身の自立を奨励した! 例えば、私が12歳だった時、祝日に親戚と合流するために私はフランスを横断旅行しなければならなかった。これは列車の乗り換えを3回含んだ。アンドレは3つの駅の駅長に手紙を書き、私に会って手助けするように頼んだ。各駅で私は駅長が私を見なかったことを確認し、自分で列車を乗り換えた。家に戻ると、私は父に話した。彼は非常に喜んだ。"私は父としての義務を果たし、お前は娘としての義務を果たした"と彼は言った。
私が本の中でしたかったことは伝記を書くことではなく、"ヴェイユの空間"を奪回、再構築することだった。はばかりながら、再び本の中から一章を引用しよう。この章のタイトルは"ユークリッドの美しさ"だ。

私はシモーヌのノートの一つを研究した:
"現代数学者の公理システム。彼等は何を探しているのか? その使い方を理解せずに彼等は数学をしている。
(アンドレに質問する: 彼が成功する時、彼は喜びを感じるのか、それとも美的歓喜なのか?)"
私はこれを読んだ...そして、突然訳も分からずに、素晴らしいと感じた。その丸かっこは小さな家族の再会を隠している。そして、その家族は私のものだ...。

私は台所における昼食を想像した。私の祖母のスペシャルな塩漬けキャベツ、リーズリングの結構なボトル、シモーヌとアンドレの会話。アンドレがたまに私に話したように、彼は妹に数学は科学でなく芸術だと話したのか? 彼が後によく書いたように、驚くほど互いに引続き、互いから生じる実験思考の喜びは数時間、いや数日さえも継続するのだから性的喜びよりも勝ると彼は彼女に話したのか?
1938年のブルバキ会議の間に取られた写真(図4)は、高揚して派手にベルを鳴らしている父を見せている。シモーヌはそこにおり、とても真剣にノートの方へ身をかがめている! この写真は私が生まれるずっと前に取られたが、私の子供時代を取り囲んだキャラクターの出演者達だった。ブルバキ集団2は熱情的で観念論的であり、ある程度まで無私であって、彼等の解説書をニコラ・ブルバキ, ナンカゴ大学(ナンシー-シカゴ)と署名していた。
だが、ブルバキ集団の無私の観念論的情熱は大声で話すこと常としていた! アルプスの小さなホテルで無名の会議があり、その時これらの紳士達が互いを怒鳴りあい、それが余りにも狂暴的なのでホテル管理人は誰かが殺されるだろうことを恐れて、憲兵隊を呼んだ。
アンドレの一番最初の情熱は数学ではなく、クローケーだったらしいことを言及しなければならぬ。これはおそらく幾何学に対する情熱となった。私の祖母セルマはユーモラスに、だが誇らしげに友人宛の手紙の中で、このシフトを宣言している。アンドレはたった7歳だった。
私はアンドレの激しい性質は伝統的な作法を除いて、彼の流儀の妨げにならなかったと思う。かって、プリストンでのコンサートの間に騒動があった。つまり、アンドレの前に座っている人が担架で運び去られた。コンサートは再開したが、人々はざわめいた。私の父は腹を立てて人々に静かにしろと要求した。一人の婦人が彼に"ねぇ、あの男は死んだのよ!"とつぶやいた。"それがどうした! モーツァルトを聞いている間に死ぬことよりも悪いことがある!"とアンドレは言い返した。そして、それがまさに彼自身の願いだった。つまり、モーツァルトを聞きながら死ぬこと。残念ながら、私はそれをアレンジ出来なかった。
1938年の楽しいブルバキ会議の翌年、第二次世界大戦が始まった。1939年11月のヘルシンキでの父の逮捕は良く知られている。その物語のロルフ・ネヴァンリンナ版はネヴァンリンナがアンドレをロシアのスパイとして射殺されることからどのように救ったかを語っている。スウェーデン、デンマーク、英国の様々な刑務所に移送された後に、軍隊徴兵に答えなかったためフランスで投獄された。
私が本を書いていた時に、文書箱の中に小さな紙の1枚を見つけた。私はすぐにそれを"家族写真"と呼んだ。4つの短い文、4つの手書き、すべてが私にとって馴染み深いもので、もっと言えば、現実の人々だ。手紙で5番目の人物が大きい天然紺色ジグザグ、つまり間違いなく刑務所監督官として登場する。1940年2月にアンドレはルーアン刑務所にいる。家族は彼に面会に来ており、担当守衛は家族の入場を拒んでいる。誰の訪問も無い。祖母セルマが度胸で説得力のある非難をするのを私は想像する。守衛は説得されて、手紙を受け取るだろう。4人はカフェに行く。刑務所からの通りにはいつもカフェがある。彼等は各々文を書く。最初に3つの青色の文が来る。つまり、セルマ、シモーヌ、そして私の母エヴェリーネ。おそらく母のペンだ。私の祖父は青色のインクで書くことを拒み、カフェからペンを借りるのだろう。彼の文は黒色のインクで書かれている。
各人が快適に見えるように、おそらくカムフラージュを感じながら笑みを浮かべようと努力したであろうから、集合写真があったであろう。これら4つの文にはカムフラージュが無い! 必然的に簡単であるけれども、各々がキャラクターに絶対的真実であり、各人がアンドレと持っている感情的な関係を見せている。セルマとエヴェリーネは愛情の表現で競い合い、シモーヌは兄が詩を書き、美しい定理を思いついていることを希望する。ベルナルトは女性陣より感情を抑えているが、彼等がアンドレとすぐに再会する喜びを持つだろうことを希望する。この紙切れから私はヴェイユ家全体を構築出来た。あたかも私がそこにいたかのように。
どのように終結したのか? 数ヶ月後、アンドレは裁判で宣告され、軍隊に行った(図5を見よ)。それから英国に退去させられた。
1994年、父は京都賞を授与された。私は日本へ彼に同伴した。日本は私にとって神秘的な所であり、妹と私が少女だった時にアンドレによって描かれた想像上の国だった。1955年の日本での滞在の後、彼は日本にとりつかれて戻った。彼は私達にお辞儀すること、箸で食事すること、小さなバスタオルを使用することを教えた。電話が鳴った時、私達はそれを取り上げるために急いで行き、もしもしと答えたものだった。"日本では自分の感情を出してはならない。無礼である。いつも笑みを浮かべるべきだ"とアンドレは説明した。私達はくすくす笑いを手で隠して礼儀正しさを実践した。私達は日本人だった。
今や私は父と一緒に京都にいた。最初の二晩、私達は贅沢なホテル(彼は軽蔑した)を出て、ホテルのメイドから勧められた控えめなレストランで夕食に出た。私達は暗い小さな通りをゆっくり下りながら、アンドレは私達が目にしていることのいくつかを説明し、コメントしたが、私の子供時代の想像上の日本に私が戻ったように感じた。
アンドレは黒澤明に会って幸せだった。"私は貴方よりも大きな利点を持つ。私は貴方の業績を愛し、崇拝出来る一方で、貴方は私の業績を愛せないし、崇拝出来ない"と彼は有名な監督に言った。何人かはこれを皮肉を込めた賛辞だと思った。彼等は間違っていた。アンドレは全く正直だった。
東京での最後の朝、私達を皇居に連れて行くタクシーを待ちながら、静寂は気が滅入り、アンドレは退屈になった。黒澤の方を振り返って"天皇は貴方の映画のようなのか?"と言った。短い沈黙があり、それから小さくお辞儀して返答が来た: "天皇は偉大な皇帝です"。
京都では絶え間無いセレモニーがあった。これらは"履行"を要求した。だが、今やアンドレは歳老いた。彼は演じることも、お辞儀もしたくなかった。彼はもはや日本人でありたくなかった。私は彼を管理していた。ときおり私が文楽の人形使いで、彼が私の人形のように感じた! 時々、美しい日本仮面、もしくは(笑いも礼儀正しくもしたくない)老いた父に対する恐ろしい赤くて金色の悪魔の仮面を手に入ればなぁと思った。
結局、彼は仮面を必要としなかった。私は京都賞の3人の受賞者の公式写真を見ている(図6)。黒澤の少しおかしそうなよそよそしい小さな笑顔、背が高く恰幅の良いアメリカ人科学者の満面の笑み。そして、2人の巨人の間に押し込まれた歳老いた小人、アンドレは最後の勝利を得ている。彼は積み重ねた手から彼の手、力強くて立派な手を引き離している。彼は自由だ!

12924250 journal
数学

taro-nishinoの日記: イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在

日記 by taro-nishino

ベクトル空間とそれに対する双対空間を考える時、それぞれの空間の要素を反変ベクトル、共変ベクトルと呼ぶことは大学教養程度の数学を学んだことのある人なら誰でも知っていることでしょう。そして、他の分野、例えば物理の相対論ではこれらの用語を当たり前のように使用しています。では、何故そのように呼ぶのか、先日近所の顔見知りの大学生達から訊かれました。私は訊かれた時に最初誤解して、訳語の不適切さを問うているのだと思い、共変がcovariantの、反変がcontravariantの和訳になってしまったので、不満はあれど歴史的に今更和訳を変えるなど無理で、諦めるしかないと慰めました。しかし、よくよく聞いてみると彼等は和訳の不適切云々を言っているのではなく、そもそものcovariantcontravariantという用語が何故充てられたのか、その経緯もしくは意味を理解していないことに気づきました。正直言って驚きました。当然何らかの講義で教官が何らかの言及をしているはずだと思ったし、たとえ聞いてなくても大学図書館にある何らかのテキスト類を隈なく調べれば分かるだろうと思ったからです。
ベクトル空間の基底を変換した時、成分表示は基底変換とは逆向きに変換することは初等事項だから皆さんもご存じでしょう。つまり、成分変換は基底変換とは反対に変化するから、(成分をベクトルと同一視する時)ベクトル空間の要素を反変ベクトルと呼ぶのでした。一方双対空間の場合、元のベクトル空間の基底変換と同じ向きに双対成分が変換することは簡単な計算でわかります。つまり、基底変換と共に変化するから、双対空間の要素を共変ベクトルと呼ぶのです。
以上の説明をしながら、仮に教官の説明がない場合やテキストに載っていない事項でも、そして教養程度の科目であっても何故学生達が仲間で議論やセミナー、もしくは共同して(欧文も含めて)文献を片っ端から当たること等をしないのか私は非常に不満に思いました。そして、自分達の教官に訊かず、顔見知りだとは言え、とうの昔に(別の大学ですが)象牙の塔を去った私に訊いて事足れりと思っている現代の学生気質を理解出来ませんでした。知識の有無を非難しているのではなく、今の学生達に何かしら違和感を覚えました。彼等と関係の無い大学で教えている友人共の一人は私の不満を聞いて、年長者(もしくは経験者)にまだ訊くだけ上等な部類だと言ってましたが。
以下、皆さんが余程の大天才でないことを前提(人類の殆どがそうだと思いますが)に書きます。数学に限らず、どんな学問でも本当に勉強したいなら、大学、大学院でしっかりと基礎訓練を受けなければなりません。よくテキスト本を独習して勉強した気になっている阿呆な輩がいますが、そんなことは誰にでも出来ることです。重要なのは本に載っていない情報、つまり耳学問が必要なんです。それだからこそ、講義やセミナーに出席することに意味があるのです。いろいろな概念に対する自分の思い違い、他者の違う視点、センスを感じさせる人の独特な感覚、時には叱責や激論など、これらは出席して初めて知ることが出来るんです。つまり、当たり前のことですが、他者との交流が無くては学問は成り立ちません。
ところで、現代数学史上最も有名なセミナーは、故イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファント博士の主催したセミナーでしょう。ロシア出身の超一流、一流数学者でゲルファントセミナーと無関係な人を私は聞いたことがないくらいです。このセミナーについてはいろいろな人が言及しているのですが、比較的最近のものではアレクサンドル・ベイリンソン博士の I. M. Gelfand and His Seminar—A Presence (PDF)があります。ベイリンソン博士の直接の指導官はユーリ・マニン博士なのですが、マニン博士自身がかってゲルファントセミナーの参加者だったのですから、師弟共々セミナー出身ということになります。非常に長い歴史を持つゲルファントセミナーの後期にベイリンソン博士は参加したのに過ぎませんが、セミナーの雰囲気とゲルファント博士の人柄を現代に伝えていて、私はよく書けていると思いました。この記事の私訳を以下に載せておきます。なお、原文の先頭に国仙和尚が死去の一年前に良寛に贈った印可の偈の有名な漢詩の英訳の一部のみを引用しているのですが、お世辞にも上手い英訳とは言いがたく、この英訳の一部のみだけを和訳したのでは意味不明だと思いましたので、元々の漢詩のすべてを書入れました。そして、訳注に読下し文も付加えました。余談ながら、漢詩を現代日本語に訳することさえ馬鹿げているのに、増して外国語に翻訳することは漢詩のみならず漢籍そのものに対する冒涜だと私は思います。漢籍を読みたいと思うのであれば、母国語が何であれ、漢文そのものを勉強せよと言いたいです。現代日本においても、かって(少なくとも戦前までは)知識階級の家庭で当たり前に行われていた子供時代からの漢籍の素読の慣習が完全に無くなり(戦後における新制高校での漢文の授業でははっきり言って何の効果もありませんし、絶対的に時間が不足しています。もっと言えば、かっての旧制高校は今の大学以上のレベルですから、新旧の知的レベルに絶対的な差があります)、常識的な漢文さえも読める人が非常に少ないことを残念に思います。

[追記: 2016年9月17日]
ゲルファント博士については他にも"I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話"が参考になるでしょう。

[追記: 2016年9月27日]
上記の前置きで、私が今の学生達は自分達で調べようという気持ちが無いのではなかろうかと指摘したことに対して、質問をして来た大学生達の一人から、では何の文献に載っているのか示さなければ私の指摘は無意味だと難癖を言って来ました。
彼等はおそらく日本の安直本(つまり、よくわかる何とかとか、やさしい何とか入門とかの類の低レベルの本です)しか見てないのでしょう。私もすべての文献を知っている訳ではありませんが(実際、そんなことは不可能です)、私の書棚にある本では少なくともヘルマン・ワイルのRaum · Zeit · Materie[空間・時間・物質]の第1章に載っています。また他にも微分幾何学やテンソル解析関連の本を見れば載っているはずです。と言うか、そもそも用語の意味が分からなければ、先ず最初に岩波などの数学辞典を調べようとしないのか本当に不思議です。

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在
2016年3月 アレクサンドル・ベイリンソン

良也如愚道転寛 騰々任運得誰看 為附山形爛藤杖 到処壁間午睡閑

1790年、大忍国仙が弟子の良寛大愚に贈った漢詩より。
[訳注: 読み下し文は以下の通り。
良也愚の如く道転た寛し
騰々任運誰か看るを得ん
為に附す山形爛藤の杖
到る処壁間午睡の閑

意味は大体以下の通りでいいでしょう(上でも述べたように現代日本語に訳すことさえも馬鹿げた行為だと思いますが)。
お前は一見愚かなように見えるが、決してそうではない。実にその悟道の境地は深く、かつ広くゆったりとしている。お前に印可の印として、山から切ってきたばかりの杖を一本与える。この杖を大切にして座禅の間はもちろんのこと、昼寝をしている時にも忘れるな]

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントの数学セミナーは毎年9月の始めに開始し、春に終了したが、その時にIM[訳注: イズライル・モイセーエヴィチ、すなわちゲルファントの名前]は"(雪解けの)小流が流れ始めている"と言ったものだった。セッションは毎月曜日にモスクワ大学の主要ビルディングの14階にある大講堂で行われ、2つのパートから成っていた。すなわち、6時に始まるプレセミナーと、本セミナー。本セミナーはIMが7時頃到着して始まり、清掃婦が退出を告げるために部屋に入る10時(その時間に階はロックされ、夜を家で過ごしたい人々は急いで降りなければならなかった)に終わった。プレセミナーの間、多くの人々が講堂の入り口付近に集まって会話し、本やあらゆる種類のテキストを交換した1。概してセミナーはIMが逸話や数学ニューズを語って始まり、その後で招待されたスピーカーによるトークが来たものだった2。しばしば終わるための時間が十分でなく、トークは続き物として継続し、その都度一から始まって先週の材料の大半をカバーし、スピーカーは徐々に消えていき、トークが何だったのか、もしくは何のはずだったのかIMによって指名された学生に置換わった。議題を理解していない、もしくは上手く説明していない(または板書が非常に小さく、声が明瞭でなければ)スピーカーはひどく叱られた3
セミナーは1943年に始まった。私はその後年を見たが、ソ連の後期に一致した。スターリンの死後、国家の構築物は縮小し、自由空間が活気に満ちた。イデオロギーはその支点を失い、デモクラシーの見せかけは簡単(候補者は同等に受け容れ難い二人ではなく、投票すべきなのは一人)であり、新聞は大概トイレットペーパーとして使用された。残るタブーは個人的商売4と起業家であり、党の場所の外側での政治活動だった。多くの人達はプーシキンの詩"ピンデモンテより"5の心構えを共有し、すべての政治的問題をともかく興味なしとした。現代的な意味での市場、この必要でない物事の絶え間ない強制栄養は存在しなかった。人は森の中に自分自身の小道を見つけるために滑走路を抜け出せた。その小道がたまたま数学であれば、IMのセミナーに必ず出会うであろう。
異質な内的音楽6があった。その雰囲気は薄く透明だった。人の息遣いの音、粉雪が降る音、窓ガラスを装飾する白霜の接触の音を聞こえたであろう。モスクワ川上流の小片に面している古代墓地を隔てた人気のない教会、深い渓谷に囲まれた木造の家々、サヨナキドリが鳴く広大なリンゴ園がある素晴らしいデャコヴォのような古い村がモスクワ境界内にまだ存在した7。詩歌は社会的評価よりはるかに現実的だった。すなわち、詩は手書きで再生され、暗記された8
1972年の秋に私はAlesha Parshinによりセミナーに連れて来られ、IMに紹介された。その時私は第二数学学校(IMは数年前そこで教えた)の最終学年だった。阿呆でいる貴重なフィーリングとそれにもかかわらず、いやむしろ、そのおかげで生活収支との均衡に関する不安定は、川の砕けた氷の上を走ることと同類で、最近までに戻っている。
モスクワ大学の数学部門の入試を失敗した後9、私は素晴らしい教育専門学校にいることに気付いた。これは一つの祝福だった。すなわち、学校に行くことまたは朝に学校を無断欠席すること、数学セミナーに行くことまたは森の中を散歩するために日中遅くに列車に乗ること10。そして、素晴らしい友人達がいた。しばらくして私は何とか大学に転入出来た。そこでのムードはいっそう陰気だったが、好成績を望まなければ、数学をやるのにとても必要な怠惰と自由の尺度を保つためにイデオロギーのクラスをすべて省略出来た11
発表されるべき私の最初の結果がたまたま同じ時(1977年の終わり)にIMがOsya Bernstein、Serezha Gelfandと共同で発見されたものに近かった。IMは私が同様の定理を得ていることを言及して彼の研究をトークした。トークの後、私はIMに近づいたが、彼は私に直ちにユーリ・イヴァノヴィチ・マニン(マニンは私の指導教授だった)のもとを去り、彼の学生になりなさいと命じた。その束縛は狂暴的だった。私は断った。私がその賞賛をユーリに話した時、彼はこれが多くの場合に発生していたことだと言った。例えば、彼自身とシャファレヴィッチに対しても。その後私はIMの影響力の外側の軌道にいたが、私達の関係はとても良かった。
卒業後、モスクワ心臓病センターの数学研究所に私は職を得た。その目的のため、高貴なVladimir Mikhailovich Alexeev(彼は研究所長だった)は大きな癌手術を受けた直ぐ後に職業委員会に来た。VM[訳注: Vladimir Mikhailovich Alexeevのこと]は1980年の12月に死んだ。問題をほっぽり出すことを良しとしない新しい所長は私を除外することに熱心だった。IMはその状況を知った後で、センターの生物学部門長に話をした。私はそこに転任させられ、私の好きなようにさせた。その閑職は大学院よりも良かった。
1970年代初めに冷戦12の強風がソ連のユダヤ人に対して他国へ移住する許可をもたらし、今から回顧すれば、我々にとってより良い場所となるはずがそうではない13というグリボエードフの警句の普遍性の証明になったものに多くの人が届け出した。友人達との別れは永久だと思われた(当時ソ連の差迫った終焉が予想されていなかったことは米国の現在がそうでないことと同じである)。Dima Kazhdan、Ilya Iosifovich Piatetski-Shapiro、そしてOsya Bernstein(モスクワにおける彼の最後の半年の間、私達は彼と楽しく数学をやっていた)が去った人達の中にいた。セミナーにおいて誰も彼等の代わりを出来なかった。
IMは人々と一緒に遊ぶことを好んだ(彼と一緒のいたずらは途方もないものでは決してなかった)14。誰かと交戦する共通の方法は相手の尊大な感覚を探求することだった。IMは滅多にゲームを負けなかった。たまたま負けたなら(相手がIM彼自身よりも意外性があることを意味した)、彼はひどく怒ったが、勝者は彼の敬意を受け、ことによると愛情さえも受けた。例えば、IMは貴方に対して待機し、そして長期間消えてくれと頼むかも知れない15。質の悪い勝利は一時間後には消えるものだった。名人の動作は異なるであろう。伝説によれば、IMはMisha Tsetlinがどのようにやっているのか見るために数時間後オフィスに戻った時、Mishaがソファでぐっすり眠っているのを見た16
IMは生命を重視した17。IMは非常に社交的な人だったけれども、内的幸福の不足によって生じる問題に対して彼は外向きの注意を払わなかった(結果として、しばしば彼は粗野だと受取られた)18。彼はそれ自体のために興味を持たせたものをやり、何らかの壮大なプロジェクトの一部としてではなかった19。セミナー(数学及び生物学20, 21のもの、そして1986年から始まるインフォマティクスに関するもの)を運営することがいつも面白かった。
そして医者達との研究があり、医師が心臓病をどのように診断するかを調べる長期間の試みだった。その試み自体が失敗22に終わった一方で、IM周辺の人々の著しい人生をもたらした多くのトップ級の医者達を含んでいた。当時私は3人の本当の名医(施しに対する謝礼を受け取れないと彼等は感じていた)を知るようになった23。私はそんな心構えが全く当然であり、一人の医師が異なる何らかをするはずがないことを学んだ24
IMは慎みの重要性を強調した25。私見ではIMの人生には2つの中心的実現があり、爆弾に関する研究の後で軍部とのつながりを断ち切ったこと(1950年代末期)26と、絶対採食主義者となったこと(1990年代半ば)27だった。両方が通常呼ばれているところの客観的思考の習慣を克服することと関係がある。つまり、他者に向かう弊害に対して注意を払わないことだ28。最初の決心が無ければ、おそらくIM周辺の世界はずっと多彩でなく、セミナーは全く違っていたであろう。菜食主義者になることはたぶん本質的である。人の心に固く結ばれた結び目を緩め、多くの事柄を明晰かつ簡単と見なす能力を復活させるかも知れない。
IMのセミナーと他の偉大な数学セミナーの一つの違いは、その開放性だった。トークは何らかの特有な議題を説明することを狙っていないし、それらがIMの現在の研究と関係もないが、むしろこれらは未来からの訪問を含むかも知れないストーリーだった。これは次のフィーリングに合っていた。すなわち、私達は科学の成果を根本的だと考えることに慣れている。時が経つにつれて不思議な状況は移り変わり、実のところ私達は世界について殆ど何も知らず、科学はたんに広大な開放性を隠す試みをしていると認識する。しかし、私達は新事実を不思議に思い吸収出来る。そして私は私達を通り抜ける風のおかげであると感謝の気持ちを感じる。
しばしばIMは彼自身を賢いと思わないと言った29。愚者が物事を見る方法は、周辺の見解が中央の見解と異なるみたいに賢者が物事を見る方法とは異なる。どの瞬間でも見方と選択の可能な方向は無限にある。愚者はそれに気づいたままだ。賢者はうまく1つまたは2つの方向に移る一方で、残る無数の次元を完全に忘れる。新しい理解または新鮮な詩は未知の次元の中へごく小さい動きから始める。それは愚者が真似出来ない行為だ。
現代数学は概念思考のユニークな推進力である。いったん正しい概念(数学的構造)とそれを扱う言語が見つかれば、まるごとの新しい世界が展開する30。だから数学者にとって、非数学的な分野、例えば生物学を理解するためのキーとして適切な言語を探す誘惑が強い。この見解はIMにとって大事だった31。それが実現しなかった一つの理由は以下のことかも知れない:
科学はいつも真実性を、あたかも外側からオブザーバーとは明らかに別個の研究対象として考えている。だが、数学的構造は内部のみから観られる本当の真実性の一部分であり、研究対象が私達の頭脳の活動と不可分だ。適切な言語がこのタイプの視力にとって特異であるかも知れない。例えば、最も皮相的なレベルを除き、動物が世界とやり取りする方法に関して科学は白紙である。動物の視力が人間のそれとは驚くほど異なるはずなので、それを知ることが真実性とは何であるかに関する私達の理解を抜本的に変えるかも知れない。適切な言語が引き起こされるのはそんな探求の中にある。私達自身を他の生物から切り離し、それらの頭上(すなわち、地球、生物、樹木が私達の所有物となり得ると想像する程度まで)に配置することを固執している限りにおいて、それは全く馬鹿げた夢である。ついでながら、この同じ欺瞞が地球破壊の運動力(私が最後にIMを見た以降、ずっと加速している)の基礎になっている。
私がこれらの行を書いている時、過去が途方もなく将来と分離しているとは思えない季節の春である。偉大なるセミナーは本質的に妖精の馬の何かを有している。バヤールはアルデンヌの森の中心に逃亡して以降、どこかでまだ生きていると言われている。
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多くの散歩、Jesse Ball、Spencer Bloch、Irene(!)[訳注: 原文に掲載されている写真を見た人なら分かるように、ベイリンソン博士は雌の猿を飼っていて、Ireneと名付けて非常に可愛がっています]とNicodemus Beilinson、Volodya Drinfeld、Dennis Gaitsgory、AnyutaとVolodya Gelfand、Senya Gindikin、Dima Kazhdan、Dima Leshchiner、Yuri Manin、Oleg Ogievetsky、Eric Shuttとの議論、書下ろせと言うSlava Gerovitchの要望、Allyn Jacksonの関心と協力が無ければ、このエッセイは存在しないだろう。彼等に深く感謝します。

注釈
1Senya Gindikin: "IMはこれらのプレセミナーの議論を非常に重要だと考えた。しかし、彼は病的に計画性が無く、たとえ彼がしたくても(例えば、重要な人々との会合のため)どこでも時間通りに到着出来ないであろう"。 伝説によれば、かって彼は科学アカデミー総裁との会合に向かう階上の途中で掃除婦と冗談を交わした。彼は決して目的の場所に着かなかった。

2Misha Shubinの講義録についてはwww.mccme.ru/gelfand/notes/を見よ。

3ときおり、このシーンは南泉と猫に関する公案に似ている。en.wikipedia.org/wiki/Nanquan_Puyuanを見よ(見たところ趙州は載っていない)。

4一つの例外がモスクワでの鳥の市場だった。そこでは週末にすべての種類の動物が売られた。かって私がドン・ザギエと一緒にそこを訪れた時、羊の毛皮のオーバーを着た顎髭の男がドンに純白のグースを売ろうとした。その男はドンが本当の紳士だと分かると言った―そうでなければ、男はドンに美しさを申し入れないであろう。純白のグースはドンのベストフレンドとなり、どこでも彼と一緒に行き、風呂も一緒にするだろうと言った。その会話のやり取りはフランス語だった。

5Nabokovの翻訳についてはhttps://ireaddeadpeople.wordpress.com/2014/11/06/alexander-pushkin-to-strollin-ones-own-wake/を見よ。

6もう一つの鎖国―江戸時代後期の日本のそれとはおそらく似ていない。モーレスも全く異なる。例えば、チェルノブイリの余波を処理した原子力の主任科学者は、おそらく原子力工業に参加したことの謝罪として自殺した(彼の上司は福島の時期に倫理を実践した)。

7デャコヴォは1980年代に除去された。最初共同墓地にある墓が掘り出され、暫くして家々は解体され燃やされた。一年以上の間一つだけが生き延びた。

8私の友人達のうち二人がマンデリシュタームの詩を暗唱した。Cf. Nabokovによる"An evening of Russian poetry"、www.sapov.ru/novoe/n00-39.htm.

9モスクワの数学施設の統治者はユダヤ人の何らかを立ち入らせないようにした。

10一年間私は殆ど毎日森を見ていた。

11正式には試験に合格するためにコースの全内容を知らなければならなかった。コムソモール[訳注: 共産党の青年組織]のリーダーの協力もあって、教師達は試験前夜に各学生に彼または彼女が質問される問題を漏らした。

12その唯一の要因は金権政治と独裁政治の不調和だった(である)。米国/ソ連の不和の残りは赤ニシン[訳注: つまり、見せかけ、偽を意味します](または、読者が好むなら、しばしばIMに引用されたKozma Proutkoffの寓話の忘れな草。英訳についてはwww.math.uchicago.edu/∼mitya/langlands/nezabudki.htmlを見よ)。

13これらの出発、夢のシミュレーションはソ連国境(どの方向にも)を越境する自由意志よる探求について殆ど共通性が無く、NabokovのGloryにあるように、またはSlava Kurilovにより指摘されたように、対外的目的が無かった。Slava Kurilovの本Alone in the Ocean、rozamira.org/lib/names/k/kurilov_s/kurilov.html(露語)。

14Spencer Bloch: "彼がパリに来てセールに会うことになった時の私のゲルファント物語を君に確かに話した。彼はオルマイユに滞在していて、IHESの人達は彼をパリにエスコートする誰かを必要だった。私が選ばれた。私達はいやと言うほど長時間列車に乗るのだから偉大なるセールに迷惑をかけないだろうと私は提案した。勿論、私は責任の微妙な思考過程を十分に把握していなかった。セールに迷惑をかけないことはゲルファントの優先権のトーテムポールがかなり低いとだけ言っておこう。私は彼のアパートに着くと、彼は茶をたてるロシア流のテクニックについて私を指導すると宣言した。だから、勿論私達は列車に乗り損ねた。しかし、20分先頃にもう一つの列車があるだろうから問題ないと私は言った。しかし、そうではなかった。茶をたてる間にエラーが起きていたとゲルファントは言い、彼のアパートに戻り、さらに茶をたてること以外に何も起きなかった。だから、勿論私達は次の列車を乗り損ねた。そして、最初にはっきりと述べたように、偉大なるセールは偉大なるゲルファントを待たねばならなかった"。

15Senya Gindikin: "もっと複雑だったと思う。IMは何ら義務を感じないし、いつもその瞬間にしたいことだけをやった。彼は故意に何かをやっていないし、暫く取り乱すはずがないと私は思う。私はここに大きな人間経験を持っている"。

16Misha Tsetlinは1966年に亡くなったが、彼のIMに対する関係はおそらく趙州の南泉に対する関係と同じだった。彼等の生理学における研究について、M. Latashの本Synergy, Oxford University Press, 2008, books.google.ru/books?id=Z45Oj8yCQMIC&pg=PA53のセクション3.1を見よ。またTsetlinに関するV. V. Ivanovの記事historyofcomputing.tripod.com/essays/CETLINM.HTM(露語)を見よ。

17そして多分、彼は醜い人間行為でさえ視力の清澄を汚さない点までその美に感心した。生命の喜びにそれほどまでにあずかれる人間を野生動物は怖がらないと私は信じる。

18他方IMは問題がリアルな時に注意を払った。例えば、酷い事故の後、Sasha ZamolodchikovとTolya Kushnirenkoの息子の命を救うための彼の協力は重要だった。

19しばしばIMはそのテーマが非常にポピュラーになった時はいつでも研究を放棄すると言った。

20Volodya Gelfand: "IMは生物学を知らなかったが、話すべき本当の専門家を必ず特定出来たし、これらの議論はしばしば生物学者達にも非常に有益だった"。

21IMは生物学に魅せられた。と言うのは、不思議をどう考えるのでさえ知らないことがそこでは非常に明らかだ。

22おそらく最初IMは医学を芸術として認識しなかった(彼にとって、数学者が定理を証明するようなやり方で解明する非数学者のプロジェクトはお笑い種であろう)。髄膜炎の診断の簡単な問題に関する研究は成功した。

23病院勤務の後で彼等を患者の家に連れて来るタクシー代を含んだ。

24与えられた人間社会がそのコアで死んでいないことの簡単な基準はその中でそんな医者の存在である。

25Dima Leshchiner: "彼のお気に入りの言い種'人は短所を持っていないが、特性だけを持つ'を思い出す。これは彼の理解の中で'慎み'の意味したことに関係すると私は思う。つまり、'慎み'は行動の品質であり、人の品質でないことだ"。

26かってIMは当時を振り返って彼の選択肢の内の研究所(例えば軍事プロジェクト扱う応用数学研究所)の所長を申し込まれ断ったと私に語った。Senya Gindikin: "彼が軍事活動を止めた経緯と理由を誰かが知っているかどうか私は知らない。その程度まで、これは彼自身によって始められた。彼は非常に慎重だった。彼は1960年頃秘密のレーニン賞を受けた"。

27VITAに対するIMのインタビューisraelmgelfand.com/talks/vita.htmlを見よ。早期にIMは猫を用いる陰惨な実験に基づく神経生理学に関する研究のシリーズを共著した。

28現在の世界の悲嘆の要因は工業技術の発展が私達のモラルの発展を超過してしまっていることであると言う陳腐な嘆きは的を射ていない。と言うのは、モラルの発展が存在しないからだ。今の共通する慎みは何千年前と同じであり、適応すれば(そして、適応する人々が殺されなければ)上手く行く。例えば、それを宗教原理として持ち(https://en.wikepedia.ag/wiki/Jainism#Doctrineを見よ)、ジャイナ教は妥当な(つまり、破壊のない)社会(存在する唯一のものかも知れない)を建造した。彼等の西洋における従兄弟達であるGood People(敵からはカタリ、"catlovers"と称される)は今日呼ばれているところの"国際化"の功績の中で抹殺された。

29医者と話す方法に関してIMが"貴女は私が馬鹿であると私に説明すべきでない。私はこれを自分自身で知っている"とOleg Ogievetskyの母を指導した時、彼は"誰も生まれつきの馬鹿である権利を廃止出来ない"と主張した。

30関連する事実は、他と違い数学において間違っている概念は次々と簡単に死ぬことだ。理解のための私達のキャパシティーは真っ先に間違いの概念を追い払う能力が無いことにより妨げられている。

31彼の京都講演israelmgelfand.com/talks/kyoto.htmlと誕生日会のトークwww.math.harvard.edu/conferences/unityofmath_2003/talks/xgelfand-royaltalk.htmlを見よ。

12645651 journal
数学

taro-nishinoの日記: ウッズホールの不動点定理の起源について

日記 by taro-nishino

前回の"ウッズホールの不動点定理の歴史"の追記で予告を書きましたが、約束通り今回紹介するのはLoring W. Tu博士の"On the Genesis of the Woods Hole Fixed Point Theorem"(PDF)です。この記事は最近私が読んだ数学関連記事の中で最も面白かった記事の一つです。つまらない記事やどうでもいいような本が氾濫する中で、これくらい面白い記事を他の数学者も書いてほしいものだと思いました。
Tu博士と言えば、故ラウル・ボット博士との共著Differential Forms in Algebraic Topology[代数トポロジーにおける微分形式]が特に有名です。この本は代数トポロジーを学ぶ時に必読と言ってもいいでしょう。もっとも、一般的な基礎トポロジーや多変数の微積分やその他の関連知識が無ければ、ちょっとしんどいかも知れませんが、例えば今回紹介する記事の数学的事項を本当に理解するためには、これくらいの本を理解出来ないようでは無理と言っても過言ではないです。
しかし、今回の記事は数学的事項を抜きにしても面白く読めるはずです。この記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2016年1月10日]
この記事を巡って、私は友人共の数人と更には海外の友人達とさえも議論をしました。日本語という言葉のバリアに守られて偉そうに論評する昨今の卑怯者の輩にはなりたくないので、全世界の人々が読めるように私がメールで友人達に書き送ったものをそのまま載せておきます。

As you know, Professor Bott passed away in 2005. So, tritely speaking, maybe Professor Shimura should have excused him earlier on. It may be hard for him to do so, however. For he apparently comes from a family of the samurai class, according to his autobiography, "The Map of My Life." He seems to have rigorous spirit in the sense that a samurai never takes back his word. I think that it has something to do with the reason he doesn't endorse even Professor Tu's article, but that it is not so much that he gets back at Bott or someone else as that his claim isn't acknowledged to be true: it is that he formulated the formula more generally for a correspondence though he now can no longer recall its detail.

ウッズホールの不動点定理の起源について
2015年10月 Loring W. Tu

ウッズホールの不動点定理は古典的なレフシェッツの不動点定理のベクトルバンドルへの遠大な拡張である。それは系として、複素多様体に対する正則レフシェッツ式、コンパクト・リー群の既約表現に対するワイル指標式を持つ。それ自体の重要性を別にして、ウッズホールの不動点定理は、多様体の解析とトポロジーの最大の見所の一つ、楕円型複体に対するアティヤ-ボットの不動点定理への前兆として数学史において重要である。代数側では、エタールコホモロジーにおけるVerdierのレフシェッツ不動点定理となった([13], [23])。実際、アティヤは1966年にフィールズ賞を授与され、表彰の言葉の一部分はアティヤが"シンガーと共同で複素多様体上の楕円作用子の指標定理を証明し"、そして"ボットと共同でレフシェッツ式に関連する不動点定理を証明した"と書いてある。これらの不動点定理の発見は、1964年にマサチューセッツの海のそばの小さな街ウッズホールでの代数幾何学に関するAMS夏期研究会にさかのぼる。時の流れと共に、どのように定理が来たかの記憶がいくぶん曖昧になっている。2001年にラウル・ボットはNotices of the AMSで発表されたインタビューで無意識に論議を点火し、論議は今日まで決着していない。
このドラマには3人の主役がいる: マイケル・アティヤ、ラウル・ボット、志村五郎―3人とも20世紀数学の巨人だ。アティヤは指標定理で有名だが、解析学、トポロジー、K-理論、数理物理学に対して手広く深い貢献をして来ている。ボットはトポロジーにおける基本的研究を通して、最近の60年間に幾何学とトポロジーにおいて大きな影響を与えた。志村は取り分け志村多様体で有名であるが、志村-谷山予想の定式化を通してフェルマーの最終定理の証明において主要な役割を果した。彼等の各々がウッズホールの不動点定理の起源の思い出を書いて来ている([1], [10], [11], [15], [16], [17])。論議は志村の正確な貢献に集中する。
ボットの全論文集の第5巻を編集している間に、私はコメントを求めるためアティヤと志村の両者に手紙を書いた。その過程で、私は或る未完の任務を発見した。時々歴史は関係者達ではなく、中立な観察者によって上手く書かれる。私は結果において何のかかわりが無く、私の目的は書かれた記録を吟味すること、関係者達にインタビューすること、互いに相違する見解をまとめることである。この報告書をNoticesに発表することでおそらく一歩近づけることを除いて、万人が入手可能な歴史的真実に辿り着くことは可能でないかも知れない。残念ながらボットはもはやいないが、大部の書き物を後に残したから、それは私の調査の基礎の一部分を形成している。全面公開のため、志村五郎はプリストンで私の学部生論文[訳注: プリストン大学では4年生は解説的な論文を書くことを求められ、正式にはシニア論文と呼ばれているそうです]の指導官、ラウル・ボットはハーバードで私の指導官の一人だったこと、両者に感謝の思いがあることを言わなければならない。

古典的レフシェッツ不動点定理
古典的レフシェッツ不動点定理は、コンパクト有向多様体Mからそれ自身への、非退化でスムーズな写像f: MMの不動点の数がfレフシェッツ数、すなわち、実コホモロジーベクトル空間Hq (M; R)上の誘導線型変換のトレースの交代和Σq(-1)q tr f * Hq (M; R)であるという美しい命題だ。ここで"非退化"はfのグラフGraph(f)がM×Mの対角集合Δに横切って出会い、交叉理論で普通のように、不動点はGraph(f)とΔの向きによって重複度±1にカウントされる。

図1.Graph(f)と対角との横断的交叉
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

例えば、f: S 2S 2が球のz-軸に関するαラジアン、0<α<2πの回転ならば、fは2つの不動点、北極と南極を持ち、各々が重複度1にカウントされる。2次元球体のコホモロジーベクトル空間Hq (S 2; R)は次元0、1、2において各々R、0、Rである。Hq (S 2; R)上の誘導写像f *が各々1(恒等写像)、0、1だから、fのレフシェッツ数は、

L(f)=1-0+1=2

であり、それが不動点の数であることはすぐ分かる(図2)。

図2.z-軸に関する球の回転は2つの不動点を持つ。回転のレフシェッツ数も2である。
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

レフシェッツ不動点定理はいくつかの素晴らしい結果を持つ。一つには、非退化零点を持つベクトル場に対するホップ指標定理をきわめて簡単に意味する。つまり、コンパクト有向多様体上のスムーズなベクトル場が非退化零点を持つならば、重複度も数えて零点の数の合計は多様体のオイラー指標である(図3)。

図3.この球上のベクトル場は各々が重複度1の2つの零点を持つ。球のオイラー指標も2である。
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

もう一つ別の結果として、多様体Mが縮小可能ならば、そのコホモロジーは正次元において消滅し、0次元においてH 0(M; R)=Rである。従って、コホモロジー上の誘導写像f *H 0において恒等写像、そうでなければ零写像だから、fのレフシェッツ数は1でなければならない。このようにレフシェッツ不動点定理は、縮小可能多様体からそれ自身へのすべてのスムーズな写像が不動点を持つことを意味する。これは円板の連続写像に対するブラウワー不動点定理のスムーズな場合の類似である。

論議
Allyn Jacksonとの2001年のNoticesインタビュー[9]の中の一箇所で、ラウル・ボットは1964年のウッズホールでのコンファレンスでマイケル・アティヤとの研究について語った。"コンファレンスの間、私達は私達の不動点定理、この新しい条件下でのレフシェッツ不動点定理を発見した。これは非常に心地良い考察だった。数論学者達は最初私達が間違っているはずだと言ったが、それから私達が正しいとなった。だから私達はそれを愉快に思った!"[9, p. 379]。編集部宛の手紙[15][訳注: これについては"ウッズホールの不動点定理の歴史"を参照して下さい]の中で、志村は発見という記述(志村予想の言及が無かった)を憤慨した。また志村は彼の予想に反対した数論学者を知らないと言い、数人の数論学者が間違ったというボットの記憶を数論学者全体をこき下ろしていると解釈して反対した。
過失を認めてボットは返書[10]を書き、うっかり志村の役割を省いたことを詫びた。不快にさせた文章を"ウッズホールでアティヤと私は、志村の予想した不動点式を楕円型の場合に一般化する方法を発見し、結局私達は擬微分手法でこの一般化を確立出来た"と喜んで置き換えるだろうと言った。論議はそこで終わらなかった。志村は治まらなかった、と言うのはボットの謝罪はきわめて微妙だったからである。実際、ボットはさらに続けて、志村に会う前に正則不動点式を研究していた印象を持っているから、志村との出会いを"意外な新事実よりも確証として"いつも憶えていたと言った。ボットの陳述は、志村のみが予想に対して貢献したのか、または彼と会う前にアティヤとボットは彼等自身の何らかのアイデアを持っていたのか疑いが持ち上がった。

図4.1970年代初期のラウル・ボットとマイケル・アティヤ
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

正則レフシェッツ不動点定理
複素多様体Mからそれ自身への正則写像f: MMは、コホモロジーベクトル空間Hq (M; )上の線型写像f * Hq (M; )を誘導する。ここでM上の正則函数の層である。fの正則レフシェッツ数L(f, )は誘導線型写像f * Hq (M; )のトレースの交代和Σq(-1)q tr f * Hq (M; )と定義される。古典的レフシェッツ数L(f)と違って、正則レフシェッツ数はもはや必ずしも整数ではなく、任意の複素数であり得る。正則レフシェッツ不動点式は、不動点からの寄与の合計として孤立非退化不動点を持つ正則自己写像の正則レフシェッツ数L(f, )を計算する:

L(f, )=Σ f(P)=P 1/det(1-J(f) P )

ここでJ(f)は任意の局所正則座標システムに関するfのヤコビ行列である。det(1-J(f) P )が不動点Pの重複度として解釈されるならば、正則レフシェッツ数もfの不動点をカウントするが、面白いことに不動点の重複度はもはや整数である必要は無い!
上記の2次元球体の例において、2次元球体は次元1の複素射影空間C P 1として複素構造を与えられる。回転写像f: C P 1C P 1は、f(z)=e zにより有限平面C内で与えられるから、不動点0でのfのヤコビ行列はe である。他の不動点z=∞で、局所座標はw=1/zであり、wで書けば、写像f

w→1/e ・1/we -iα w

だから、不動点∞でのヤコビ行列J(f)はe -iα である。コホモロジーHq (C P 1; )は0次元でCであり、定数1で生成され、他のすべての次元で0である。従って、fの正則レフシェッツ数は

L(f, )=tr f * H0 (C P 1; )=1=1/(1-e )+1/(1-e -iα )

これは、この場合における正則レフシェッツ不動点定理を証明する。
正則レフシェッツ不動点定理もいくつかの素晴らしい結果を持つ。例えば、複素代数多様体Mは、複素射影空間C P n に対して双有理ならば有理的だと言われる。つまり、有限的に多くの超曲面の外側で合成写像ghhgが恒等写像となるような有理型写像g: MC P n h: MC P n が存在する。コンパクト・スムーズ有理多様体はC P n と同じコホモロジーHq (M; )を持つ。従って、コンパクト・スムーズ有理多様体の正則自己写像の正則レフシェッツ数は1である。正則レフシェッツ不動点定理によって、コンパクト・スムーズ有理多様体のすべての正則自己写像は不動点を持っていなければならない。これは円板における古典的ブラウワー不動点定理の正則な場合の類似である。
正則レフシェッツ不動点定理は正則p-形式に一般化出来る。複素次元nの複素多様体M上で、0≦pnに対してΩ p M上で正則p-形式の層としよう。各pに対して正則レフシェッツ数を定義出来る:

L(f, Ω p )=Σ0≦pn (-1) q tr f * Hq (M; Ω p )

この正則レフシェッツ数L(f, Ω p )も不動点からの寄与の合計である。寄与の正確な形式はウッズホールの不動点定理によって与えられる。

ウッズホールでの志村の予想
幸いにも、コンファレンスの時からウッズホールの不動点定理に関する2つの独立した説明がある。つまり、ウッズホールの不動点定理セミナーに関するアティヤとボットの報告[4](それは1964年のコンファレンスで配布された)と1964年8月2-3日付けのアレクサンドル・グロタンディーク宛のジャン=ピエール・セールの手紙[18]である。アティヤ-ボット報告は刊行されて来ていないが、ボット全集の来る第5巻に収録されるだろう。
アティヤ-ボット報告では、志村予想の正確な陳述が見つかる:

Xを代数的閉体k上の非特異射影代数多様体、f: XXXのそれ自身の中への射とする。更に、EX上のベクトルバンドル、fEへのリフティングφを容認する―つまり、ベクトルバンドル写像φ: f -1(E)→Eを容認するとしよう。そんなリフティングは自然な方法で、Eの切り口の芽の局所的自由層S[訳注: 原文では違う文字なのですが、入力不可能な文字種でしたので代用しました]で係数を持つXのコホモロジーベクトル空間H *(X, S)の自己準同型(f, φ)*を定義する。従って、この自己準同型のレフシェッツ数を形成してよい:

χ(f, φ, E)=Σ q (-1) q tr {(f, φ)* Hq (X; S)}

...最後に、不動点pにおいて、リフティングφは(ファイバー)E p E f(p)の自己準同型φ p を定めるから、十分に決定されたトレースを持つことに注目せよ。
これを理解して、志村予想(今、我々はウッズホールの不動点定理と呼ぶことを提案する)は次の関係で与えられる:

χ(f, φ, E)=Σ p tr φ p /det(1-df p )

ここでpfの不動点の集合をさらう。

1964年8月2-3日付けのグロタンディーク宛のセールの手紙も本質的に同じことを言っているが、フランス語である。
状況によって、多くのレフシェッツ不動点定理がある―スムーズ写像に対して、正則写像に対して、正則形式の層に対して、ベクトルバンドルに対して、楕円型複体に対して、エタール・コホモロジーに対して。それらは正確には同じでない(あるものは他の特殊ケースであるけれども)。文献では、ウッズホールの不動点定理はベクトルバンドルに対するレフシェッツ不動点定理(それが志村が予想したことだった)を意味する共通理解があるようだ。
この観点から、2001年にボットがNoticesインタビューで言ったことは完全に正確であり正しい。つまり、彼とアティヤはウッズホールで楕円型複体に対するレフシェッツ不動点式を発見した。勿論、そのヒントはベクトルバンドルにおける志村の予想だった。ベクトルバンドルから楕円型複体へ行くためにはイマジネーションの大きな飛躍が必要だった。これのため、そして他の研究のためにアティヤはまさにフィールズ賞を受賞した。
アティヤ-ボット報告は志村予想の代数的ケースにおいて多くの出席者の集合的努力を通して証明されたことも述べている。"セール双対のグロタンディーク版の多少とも古典的な線に沿って...特にVerdier、マンフォード、ハーツホーンの奮闘"とある。セールは手紙の中でアティヤが双対と局所Extを使って志村予想の代数的証明を、ボットが微分形式を使って複素解析的証明を与えたことをグロタンディークに報告している。

アティヤとボットの承認
レフシェッツ不動点式に関する研究の多くの同時代に発表された解説の中で、アティヤとボットは志村の貢献を承認した。
1964年のハーバードノート[5]の序論の中で、アティヤとボットは"私達の主要式はアイヒラーの代数曲線に関する結果(それは、最近のウッズホールでの代数幾何学のコンファレンスの期間、志村によって私達に注意させた)も一般化している。もっとはっきり言えば、この研究はこの方向での志村予想を証明する試みからの結果だった"と書いた。
1966年のBulletinの記事の序論[6, p. 245]の中で、アティヤとボットは"複素及びリーマン幾何から古典的作用子を取ることで、複数の重要な特殊ケース(定理2, 3)を得る。これらの最初は志村によって我々に予想され、1次元に対してはアイヒラーによって証明されていた"と書いた。"これらの最初"は定理2[6, p. 247]を意味したが、それが正則ベクトルバンドルに対するレフシェッツ不動点式である。
1967年と1968年の2つのAnnals of Mathematics論文([7]と[8])の中で、序論において志村に言及しなかったけれども、レフシェッツ不動点式[8, p. 458]の下にアティヤとボットは、

要約すると、複素解析多様体Xの横断自己準同型fに対して、我々の不動点式は、
(1) L(f p, * )=Σ f(P)=P trace C p df p )/det C (1-df p )
に特殊化する。ここで、
(2) L(f p, * )=Σ(-1) q trace H p, q (f)
である。
1965年[訳注: 本当は1964年の間違い]にウッズホールでのコンファレンスの間に志村が予想したのは、この式であり、それがこの研究に対して刺激を与えた。と言うのは、曲線(4.9)はアイヒラーによって[11]の中で確立されていたからである。志村とアイヒラーはもちろん代数幾何学のフレームワークの中で考えていた。そこでは、セールとグロタンディークの双対の全理論が任意の標数上でさえも、この結果を導くことが分かった。

と書いた。
これらの説明は、既に述べた分子と分母を持つ正則不動点式に関する予想の創始者が志村だったことを明確に確立していると思われる。

志村の忘れられた予想
志村によれば([16, p. 131], [17])、ウッズホールで正則写像に対するレフシェッツ不動点式より以上のことを予想した。

図5.1996年5月の志村五郎
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

多様体Mスムーズな対応M×MにおけるMと同じ次元を持つ部分多様体である。MからMへの写像のグラフは、垂直線テストを満足する対応の特殊なケースだ。1次元のヘッケ対応に対するアイヒラーの式に当時興味を持ち、高次元へアイヒラーの式を一般化する代数的対応に対する予想を作ったと志村は言った。彼の言葉で"私の意図は高次元の場合にアイヒラーの結果を拡張することだった。従って、写像のケースのみに私が予想することは滑稽だったであろう"[17]。代数的対応が正則写像の時、志村予想は正則不動点定理に特殊化されるであろうが、これはアティヤとボットが証明したことであった。しかし、志村の回想はアティヤ-ボット報告[4]またはセールの手紙[18]のどちらかによって立証されていない。
私は文献の何らかの参考を見つけることが出来ていないけれども、スムーズ対応に対するレフシェッツ不動点定理は知られているが、代数的なケースが未解決だと志村は考えている。残念ながら、誰も代数的対応に対するレフシェッツ不動点定理の志村予想を書下していなかったようであり、志村はもはやその正確な定式化を憶えていないので、正則不動点定理とヘッケ対応に対するアイヒラー式を同時に一般化するであろう、この魅力的な予想は今や失われている。

図6.対角線と横断交叉する対応Γ
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

回想
志村に会う前にボットとアティヤが式を研究していたというボットの回想はどうしたのか? 彼特有のユーモアの自虐的センスで、ボットは[11]の中で"実際、アティヤと私が自分達自身で、この式の或るバージョンを偶然見つけたことを私は思い出しているようだ。しかし、他の人の誰もこの事実を確認出来ないのだから、私は記憶の自己権威拡大本能のせいにせざるを得ない"と書いた。アティヤ全集[1]へのコメントの中で、アティヤは1988年に"1964年の夏のウッズホールのコンファレンスで、ボットと私は正則写像に対するレフシェッツ不動点式の一般化に関する志村の予想を学んだ。大変な努力の後、何らかの楕円型作用(または、もっと一般的に言えば、何らかの楕円型複体)を保持する写像に対して、この種の一般的な式があるに違いないと私達は確信した"と書いた。更に最近、2013年にアティヤは私に電子メッセージ[2]を送り、それは"AB[アティヤとボット]が志村に会う前に既に問題を研究していたという示唆のためにボットが責められることを私は心配だ。私はこの見解を決して支持しなかった"と述べた。
ボットの回想が正しいと仮定すると、可能な説明は志村が彼の予想をコンファレンスで多くの人達に語り、それからアティヤとボットに語り、ボットの認識の無いまま、志村が正則レフシェッツ不動点式に関する予想の究極のソースとなったことである。実際、志村は[17]の中で"コンファレンスの間、私はこの予想式を思い出し、それをジョン・テイトに話した。私は彼を1958年から知っていた。それからテイトはそれをアティヤとボットに語した。結局、私は問題を彼等と議論した"と書いた。
アティヤとボットに彼等は間違っていると話した数論学者達に関する逸話について言えば、ボット達が相談した数論学者達のみを意味する時に、ボットが"数論学者達"という言葉を使ったことは残念である。と言うのは、"数論学者達"は1964年のウッズホールでの数論学者全員を意味するだろうし、その中に志村も含むからだ。この点について、アティヤは2013年に私へのメッセージ[3]の中で詳しく述べた:

私の記憶(及びラウルの記憶)の正確さを私は強く主張する。1次元における実例(虚数乗法を持つ楕円曲線と関係があったと私は思う)をチェックするために私達は確かにテイトとCasselsに質問した。彼等は戻って来て、上手く行っていないと私達に語った。しかし、私達は正しくないにしては余りにも美しいので、あくまでやり抜いた。ヘルマン・ワイル式が特殊な場合として現れることを分かっていたので、私達は更に確信するようになった。このエピソードはストーリの中で非常に重要だから私が間違えているはずがない。
残念ながらテイトもCasselsも、そのことを憶えていないが、彼等にとって憶えている価値の無い小さなストーリだった。私にとって、それは重要だった。
これを、1次元においてアイヒラーが一般HLF[holomorphic Lefschetz formula][訳注: 正則レフシェッツ式]を証明していたという志村の陳述とどのように一致させるか?
私の一番の推測は、これがモジュラー形式に登場するものであり、アイヒラーの研究すべてがこれに関係していたから、アイヒラーだけが直線バンドルが標準バンドルの冪である時の場合を研究したということだ。志村は私への電子メールの一つの中で十分に認めたが、それから見解を取消したようだった。
だから私の見解は志村が一般にHLFを予想していたかも知れない(しかし、彼がそれを書き下ろさなかったし、今や予想が何だったのか憶えていないことはいらだたしい)ということだ。だが、1次元におけるアイヒラーの研究は決定的ではなかったし、(ワイル式以前に)一般HLFに対するまともな証拠が無かった。

ジョン・テイトは2013年7月に[20]の中で"その式について志村が私に話したことを私は憶えていない。もっとはっきり言えば、コンファレンスでその式のことについては何も憶えていない。だが、49年前のことであり、特にそれらが多複素変数または楕円型PDE[訳注: 偏微分方程式]のような分野(私はさほど詳しくなかった)についてであれば、記憶は消える。何故彼が私に話したのだろうかと思う。1958年の春にパリで彼と会ったことは事実だが、私達はお互いによくは知らなかった"と書いた。また[19]の中で"楕円曲線に関する何かをチェックしてほしいとCasselsと共に頼まれた記憶が無い。そこでの話を面白くするためにラウルが何かを大げさにしていたのかも知れぬと私は思う..."と書いた。

結び
1964年以降の年月の間に、ウッズホールの不動点定理の起源における志村の重要な役割は大部分忘れられて来ている。例えば、グリフィスとハリスの広く使用されているPrinciples of Algebraic Geometry[訳注: 代数幾何学の原理]の中で正則レフシェッツ定理の議論とアティヤとボットのAnnals論文[8]への参照があるが、志村に関する言及は無く、正則不動点式に関する様々な研究記事([14], [21], [22])の中で志村に関する言及は無い。彼の予想、少なくとも正則写像に対するものが公衆の意識の中に留まらないほどに短い命だったのかも知れない。
志村の自伝[16, p. 131]の中でウッズホールの不動点定理に関して、"しかし、面白いことに彼等[アティヤとボット]は次第に私の貢献を最小にしようとした"と書いた。これが意味するアティヤとボットの側の意図的行為に関する限り、これがそうだという証拠を私は見つけられていない。2001年のボットのNoticesインタビュー(その中で彼はうっかり志村の役割を省略してしまい、それに対して後で公的に謝罪をした)を除き、ウッズホールの不動点定理に関して発表された説明のすべてにおいて、アティヤとボットは必ず志村予想を承認して来ている。遅くとも2004年、亡くなる一年前に、2001年のNoticesインタビューに対して埋め合わせるかのように、ボットはウッズホールの不動点式の歴史に関する短い記事[11]の中で"志村式"または"志村予想"を6回も述べた。私がラウル・ボットを知って30年以上に渡り、彼はいつも私にクレジットに関して寛容であるべきだと語った。
私にとって証拠の優位性は、1964年のウッズホールでのコンファレンスの間に志村及び志村のみが正則レフシェッツ不動点式に関してオリジナルな予想をし、それをアティヤとボットが証明して楕円型複体へ拡張したことを示している。代数的対応に関するもっと一般的な予想を志村がしていた可能性があるが、もはや誰も憶えていない。

後記
アティヤと志村両者がこの記事を読んでいる。アティヤは"非常に公平だと思う"と言ったが、志村は是認することを断った。

感謝、写真ソース、クレジット
(略)

文献
(略)

12639219 journal
数学

taro-nishinoの日記: ウッズホールの不動点定理の歴史

日記 by taro-nishino

志村予想と言えば、"有理数体上の楕円曲線はモジュラである"(何故、これを志村予想と呼ぶのか、そしてそう呼ぶのが一番正確であり、そう呼ばれるべきかはサージ・ラング博士の"志村-谷山予想の或る由来"を読んで下さい。これは数学なんですから、そこに日本人的な甘ったれたセンチメンタル感情の入る余地は本来無いはずなんですが、なかなか日本人素人衆[何人かの専門家も含めて?]は事実を直視しようとしません)が有名ですが、他にもウッズホールの不動点定理、今ではアティヤ-ボットの不動点定理と呼ぶ方が通りが良いようですが、それも志村予想でした。この事実も余り日本人は知りません(勿論、専門家を除いて。以降いちいち断りを入れませんから、そのつもりで)。
マイケル・アティヤ博士もラウル・ボット博士も最初の頃は志村五郎博士の貢献を認めていたのですが、いつの頃からか、特にボット博士はNotices of the American Mathematical Societyの"Interview with Raoul Bott"(PDF)で"自分達で発見した"という趣旨の尊大な発言をしてしまい、志村博士の怒りを買ってしまうことになりました。
今回紹介するのは、その経緯を語る資料として、先ず志村博士のNotices編集部宛の抗議文"History of the Woods Hole Fixed-Point Theorem"(PDF)とボット博士の"Response to Shimura's letter"(先の志村博士の抗議文とセットになっています)です。これが2001年なのですが、2008年にも志村博士は自伝的著作The Map of My Lifeで、このことに触れており、つまり怒りは治まっていなかったということなんでしょう。この部分も抜粋して追加しております。
なお次いでながら言いますが、日本語版"記憶の切繪図"とThe Map of My Lifeは内容が同じだと思っている日本人が多いです。実際は違っており、"記憶の切繪図"⊂The Map of My Lifeであり、しかも"記憶の切繪図"≠The Map of My Lifeなのです。それは当然でして、各々の出版社が片や日本の筑摩書房、一方は数学書籍で歴史があり世界に冠たるシュプリンガー社なんですから、想定している読者層が違います。日本語版はほぼ一般日本人を、英語版は世界の人々(まともな数学者も含めて)を想定しているはずですから、志村博士が著書で取上げた数学者の数や付録(実際、"André Weil As I Knew Him"等が英語版に収録されています)の量が違うのは当たり前なんです。志村博士はほぼ同時に書いたと言ってますが、私の感触では(実際の出版がどちらが早いかは別にして)先に英語版を脱稿しており、その後で適当に題材を切捨てながら日本語版を書き上げたのではなかろうかと推測します。
いずれにせよ、志村博士の抗議文等を以下に載せておきます。

[追記: 2016年1月6日]
志村博士の怒りが治まらなかった理由の一番の要因として、私が推測するのは、ボット博士の謝罪文の内容が曖昧なところがあるからだと思います。あれだけ長々と経緯を書きながら、一体どういう形のものを志村博士から示唆されたのか、肝心な点が非常に曖昧です。わざわざフロイトまで持ち出して、自己釈明の羅列を書いたと言われても致し方が無いと私は思いました。それでは志村博士が納得しなかったのも当然でしょう。
以上のことも含めて、プリストン大学の学部学生の時にシニア論文(プリストン大学では今でも4年生が解説的な論文を提出することになっています)の指導官が志村博士、そしてハーバード大学院生の時の指導官がボット博士だったLoring W. Tu博士が昨年の10月に報告書をまとめていますので、次回以降に紹介する予定です(私は気まぐれなので確約はしませんが)。

[追記: 2016年1月10日]
上記の追記で述べたLoring W. Tu博士の報告書については"ウッズホールの不動点定理の起源について"を見て下さい。この記事は、私が最近読んだ数学関連記事の中でも最も面白かった記事の一つです。

[追記: 2016年9月25日]
上述した志村博士のThe Map of My Lifeに付録として掲載されている"André Weil As I Knew Him"については、既に"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"として私訳を紹介しています。

[追記: 2016年10月1日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。

ウッズホールの不動点定理の歴史
2001年4月13日 志村五郎 プリストン大学

私は最近、"Interview with Raoul Bott"[訳注: ラウル・ボットへのインタビュー], Notices vol. 48, No. 4 (April 2001), p. 379.の次の一節に注目した。

"1964年にマイケル[訳注: マイケル・アティヤ卿]と私はウッズホールの代数幾何学コンファレンスで再び一緒だった...そのコンファレンスの間に、私達は私達の不動点定理、つまり新しい条件下でのレフシェッツの不動点定理を発見した"。

彼等が楕円型複体の条件で定理を証明したことを私は確かに認めることが出来るが、彼の言い草"私達が発見した"には強く反対する。それは彼等がそれを彼等自身で完全に発見したことを意味するからだ。彼の言うことは、彼とアティヤが36年前に言ったことと不一致である。
もっとはっきり言えば、"Notes on the Lefschetz fixed point theorem for elliptic complexes"[訳注: 楕円型複体に対するレフシェッツの不動点定理に関するノート], Harvard University, Fall 1964の序論の中で、彼等は次のことを書いた: "私達の主要式はアイヒラーの代数曲線に関する結果(それは、最近のウッズホールでの代数幾何学のコンファレンスの期間、志村によって私達に注意させた)も一般化している。もっとはっきり言えば、この研究はこの方向での志村予想を証明する試みからの結果だった"。
また、Bull. Amer. Math. Soc. 72 (1966), 245–250の中の彼等の記事は次の文章を含んでいる: "これら[その記事において定理2を意味する]の第一は志村によって私達に予想され、1次元に対してはアイヒラーによって証明されていた"。
彼等の論文[42](Ann. of Math. 86 (1967))に同様の承認があるかどうか私は憶えていない。おそらく、序論には無い。
非常に多くの数学者達がコンファレンスに参加し、彼等の多くが私の予想が故に定理が存在するようになったことをまだ憶えていると私は思う。"私達が発見した"という表現を彼等が受取れるかどうかと思う。
同じパラグラフが次の文章で終わっている: "数論学者達は最初私達が間違っているはずだと言ったが、それから私達が正しいとなった。だから私達はそれを愉快に思った!"。
これは完全に間違いだ。私が思い出せる限り、数論学者の誰も間違っているはずだと言わなかった。何と言っても、私がそれを正則の場合に予想し、数論学者の誰も楕円型複体に対する定式に反対するほど十分な知識が無かった。これらの文章は数論学者達(その中に私もいる)の助け無しでそれを"発見した"と言うために付け加えられたと私が言っても許されるだろう。

志村の手紙に対する返書
2001年5月14日 ラウル・ボット ハーバード大学

志村教授の指摘はよく分かり、私はインタビューでの失言を謝罪する。私が2つの不快にさせた文章を置き換える力を持つなら、喜んでそれらを以下のように置き換えるであろう:

ウッズホールでアティヤと私は、志村の予想した不動点式を楕円型の場合に一般化する方法を発見し、結局私達は擬微分手法でこの一般化を確立出来た。

私の元々の説明がどのように来たのか謎が残っている。残念ながら、この疑問に対する答えは、インタビューの最終段階で私が避けようとしたこと、すなわち関連するもう一つ別の長い話に私を巻き込む。だが、それも仕方がないし、最終草稿における元々の衝動的な説明を検閲することの失敗に対する私の罰としよう。
しかし、先ず、特に若い読者達に前以って警告する。賢明にも神は私達皆に、老齢でさえも人生を耐えられるように設計され、非常にえり好みの記憶を持つ能力を授けられている。一般に私達は最小の功績ですら憶えているが、最大の失敗を除いてすべてを忘れる傾向にある。どうか、これを以下の語りの間、心に留めてほしい。
今は私がよく分からない理由のため、マイケル・アティヤと私はコンファレンスの初期に正則不動点定理に関する実験作業を始めた。私達の実験作業が虚2次拡大におけるヘッケ対応に関係していたと私は信じる。いずれにせよ、不動点は複素数で数えられるが、それでも適当な条件下でそれらが合計して整数になるという私の困惑に関する限られた記憶を持っている。私達の計算は写像のみならず曲線における対応も扱った。いずれにせよ最終的に私達は数論学者の友人達の何人かに助言を求め、この段階の討議で予想されていた式に関する私達の計算は間違いだと最初宣告されたが、もっと慎重な分析の後で正しいことが分かった。これが私の2番目の文章で言及された出来事である。疑いもなく小さな貢献だが、私達を元気にさせ、何かに気づいていると確信させたものだった。この出来事はマイケルによって確認が取れたが、私達が相談した人達は憶えてなかった。
私の説明の次の部分はもっと胡散臭いが、それをここに認めるのであれば、私は正直ではないだろう。私達が志村とやり取りする前に、これらを、または類似の計算をやっていたと私は憶えているようだ! 私の記憶では、これらの問題に関する専門家を志村に見出して喜んだのは、そんな式に対する私達の研究の間であり、他の多くの人達によって私達がアイヒラーの研究を参考した後だった。志村は私達を打ち解けさせ、実はかなり長い間、十分一般的な形で正則不動点式の予想を立てていたことを知らせた。ここで私の記憶は、私達が彼と話す前に一般式を気づかなったことである。その時から私達は、もちろん、そしてきちんと不動点式を志村予想と呼んだが、私は主観的にいつも意外な新事実との出会いよりも確信として憶えていた。
いずれにせよ、このやり取りはなおさら私達に証明を見つけようと決心させた。この段階で、私達もレフシェッツ式がいかに完璧にヘルマン・ワイルの指標公式に合致するかを発見し、そして他の興味深い実例を見出した、と私は思う。同時に私達はこの点に関して残酷にコンファレンスで非常に多くの代数幾何学者に助言を求め、結局このトピックに捧げられた特別セミナーにおいて、代数的条件下におけるレフシェッツ式の証明がスケッチされた。この結果への非常に多くの入力の観点で、それは"ウッズホール不動点定理"と名付けられた。そのイベントで私は一種のセレモニーの主役の代理をしたと信じる。この証明は層理論的であり、内部Homと導来圏を使ったが、専門家達にとって難しいと思われなかった。
これらのテクニックは正則圏において直接応用可能ではないので、マイケルと私は、これまでの展開において演技者というよりもプロデューサだったが、この場合に注意を傾け、結局定理のもっと一般的な楕円型バージョンに注意を傾けた。
私達にとって特に忘れられない瞬間がホイットニー地所の庭園での散歩の間に起こった。その時、ディラック演算子が事情に合うことを発見した。そして、私が最初に注意したように、結局私達は本質的に擬微分手法を使って証明を作った。
最後に、ウッズホール物語の現代的説明からの志村教授の手紙中にある引用についてのコメント、それらの両方が私によって書かれたと信じる。ああ、ここで長い物語を短くカットすることに対する私の好みを再び認めなければならぬ。と言うのは、それらの説明の中にある上記のいくつかを含めるかどうか熟慮した異なる記憶があるからだが、その時とその文脈において不適当だと私には思われた。
そして、これはボットの長い、長い話だ。それは本当なのか、または私の空想の産物なのか? 時間と共に私達の記憶の"Anosov"進化の普遍的性質(それを私は最初に言及した)があるから、決めるのは難しいだろうと私は心配する。だが、真にせよそうでないにせよ、私のインタビューにおいて、名前をまったく省略してしまったことに対し、志村教授に心から遺憾を述べることで終わらせてほしい。前述の観点で、今出来ることのすべては私が"フロイト的"過失を犯してしまったことに対する彼の許しを請うことだ。

The Map of My Life p. 130-131
2008年11月 志村五郎

As I already mentioned, I participated in a conference in 1964,
which was officially called the Summer Research Institute on Algebraic
Geometry, held at Woods Hole, Massachusetts, where I had
my near-drowning experience as I narrated in Section 4. Several
months earlier I had formulated a possible new trace formula which
would generalize the Lefschetz fixed point formula. During the
conference I told this first to John Tate, and then to Michael
Atiyah and Raoul Bott. The latter two were extremely excited
about my conjectural formula, which was completely new to them.
Eventually they proved the case that concerned a map, whereas I
formulated the formula more generally for a correspondence. At
first they acknowledged that the idea was due to me. But interestingly
they gradually tried to minimize my contribution. In fact, in
2001 Bott claimed that I was not involved in the matter, and later
was forced to concede that he was wrong. However, Atiyah noted
in one of the volumes of his complete works that they learned it
from me.

既に言ったように、私は1964年にコンファレンスに参加した。そのコンファレンスは公式的に代数幾何学に関する夏期研究会と呼ばれ、マサチューセッツのウッズホールで開催されたが、第4節で話したように、そこで私は殆ど溺れそうになった。数ヶ月前、レフシェッツ不動点式を拡張するだろう新しいトレース式を私は定式化していた。コンファレンスの間、これを最初にジョン・テイト、そして次にマイケル・アティヤとラウル・ボットに話した。後者の2人は私の予想式に非常に感銘し、彼等にとって完全に新しいことだった。結局彼等は写像に関する場合を証明したが、私は対応に対してもっと一般的に定式化した。最初彼等はアイデアが私によるものと承認した。しかし、面白いことに彼等は次第に私の貢献を最小にしようとした。もっとはっきり言えば、2001年にボットは私が問題に参加していないと主張し、後で彼が間違っていたことを認めざるを得なかった。しかし、アティヤは彼の全集の巻の一つの中で、彼等は私から学んだことを特記した。

[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。

The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋

As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.

(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。

以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。

12631769 journal
数学

taro-nishinoの日記: メタファとしての数学

日記 by taro-nishino

ユーリ・マニン博士については以前、"良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー"を紹介しました。マニン博士の専門は代数幾何学、数論、数理物理学等ですが、マニン博士に限らず、ロシアの数学者は押並べて物理学に強いことに私は感心します。御存知だと思いますが、モスクワ大学の数学部門は力学・数学学部という名称を持つくらいですから、数学と物理学の乖離はあり得ないのです。しかし、日本では学部レベルでそういうことを本格的にやっている大学は無いと思います。モスクワ大学のみならず、ロシアの大学では当たり前のようにやっていると言うか、そもそも学生の意識とレベルが日本とは全然違うということでしょう。
また、マニン博士の著書の扱うテーマの範囲の広さにも驚きます。専門分野に関連するものなら驚きませんが、何と数理論理学の著書もあるのには呆れます。数理論理学等の基礎論屋さんなら兎も角も、普通の分野の人が書くのですから恐れ入ります。
私もマニン博士の著書のいくつかにお世話になりました。その内で比較的新しいものでは、セルゲイ・ゲルファント博士(あの大数学者イズライル・ゲルファント博士の御子息)との共著であるMethods of Homological algebra[ホモロジー代数の方法]があります。これは本当に素晴らしい本です。この著書のみならず、私がいくつかの著書を読んだ限りの感触で言えば、マニン博士の著書にはいわゆる駄作というものが無いのではなかろうかと思います。ですから、どの著書でもおそらく読んで損は無いでしょう。
今回紹介するのは、マニン博士の"Mathematics as Metaphor"(PDF)です。これは京都で開催された国際数学者会議での講演です。この京都会議が1990年ですから、もう25年も昔になりました。この私訳を以下に載せておきます。なお、冒頭にパスカルのパンセからの引用があるのですが、パスカルが何を言いたいのか、私には全く分かりませんでした。不勉強をお詫びします。

メタファとしての数学
1990年 ユーリ・イヴァノヴィッチ・マニン

順序。[...]私はそれが何であるかを少しばかり、そしていかに殆どの人がそれを理解していないかを知っている。人間の科学はそれを維持出来ない。セント・トーマスはそれを維持しなかった。数学はそれを維持するが、その深遠さのため役立たない。

パスカル、パンセ

序論
H. ポアンカレが1902年に本La Science et l'hypothèse[訳注: 科学と仮説]を最初に刊行した時、ベストセラーとなった。この本の第1章は数学的推論の性質に費やされてた。ポアンカレは、数学的知識がいくつかの基本的("合成的な")真理のトートロジーな変換の長いチェーンに還元され得るのか、またはもっと何かを含んでいるのかという古い哲学論争を議論した。数学の創造力は最初の仮説-定義(それらは、後で観測された世界による推論によって制約される)のおかげであると彼は主張した。
私達の時代の社会はポアンカレと同時代の人々よりも哲学的なニュアンスになおさら関心が無い。科学そのものが不人気になったと私は言いたくない。S. ワインバーグのThe first three minutes[訳注: 最初の3分間]やS. W. ホーキングのA brief history of time[訳注: 時間の簡単な歴史]のような本が何十万と売れて、広く発行されている新聞で好意的に評されている。変わって来ていることは一般的なムードだ。新しい物理理論の逆説性は、さほど劇的ではなく、より実際的に理解されている(ビジュアルアートの受け止め方が全く同じように進化したことを注目出来る。つまり、印象派の最初の展示会が一種のスピリチュアル革命だったならば、各戦後前衛派の新しい波が伝統主義の一門特性をすぐに獲得した)。
この状況において、数学の基礎的危機と無限の性質に関する、過ぎ去った日々の熱い議論はほぼ的外れで、確かに不適当に思える。学校教育またはコンピュータ新世代についての意見に対して聴衆はずっと活発に反応する。
これが、私達の科学が自然言語の特殊化された方言、その機能が特殊な場合のスピーチだと考える慎み深いエッセイをこのセクションで発表しようと決めた理由だ。これは高校と大学の教育に関する或る提案を含む。

メタファリズム
"メタファ"という言葉はここではテクニカルな意味で使用されていない。それは、James P. Carseの本Finite and Infinite Game[訳注: 有限及び無限ゲーム]からの以下の引用で最もよく表現されている:

"メタファは、人が他者に決してなれないようなアンライクに対してライクを結合することである"。
"語源において、すべての言語はメタファの性質を持つ。何をしようと意図していようが、言語のままであり、何についてであろうが絶対的にアンライクのままだからだ"。
"自然の沈黙性は言語の可能性である"。

数学をメタファと考えるならば、数学的知識の解釈は高度な創造的行為だと主張したい。或る意味で、数学は自然と人間についての小説である。人は"戦争と平和"によって教えられることを正確に語れないのと全く同様に、数学が何を教えるのか正確に語れない。教育それ自体が、この教育を再考する行為の中に水没している。
この見解は外見上、科学と工業技術計算における応用数学の由緒ある伝統に合致しない。
もっとはっきり言えば、私は数学の技術面と人道面との間の或るバランスを取り戻したいだけだ。

二つの実例
2つの重ならない議題を議論することで、数学のメタファ潜在能力を例証させてほしい。つまり、コルモゴロフ複雑性とK. Arrowによる"独裁者定理"である。

ⅰ) 自然数Nのコルモゴロフ複雑性は、Nを生成出来る最小のプログラムPの長さ、またはNの最小コードの長さである。読者は自然数をコーディングする一方法(整数値を取る部分再帰函数f(P))を想像するはずだ。コルモゴロフの定理は、そのような函数すべての中でも、次に述べるような意味で最も経済的なものが存在すると述べている。すなわち、C f (N)がf(P)=NとなるようなPの極小値ならば、C f (N)≦const. C g (N)である。ここで、const.はfgだけに依存し、Nに依存しない。
Pはその2進表記から再構成され得るのだから、Nを生成する最小のプログラムの長さK f (N)はlog2 C f (N)によって上に有界だ。この函数、もっと正確に言えば、有界被加数まで定義されている、そんな函数すべてのクラスはコルモゴロフ複雑性である。
第一に、K(N)≦log N+const.。もちろん、これは対数的長さのプログラムを生成する数を与えた位取り表記法システムの歴史的成功に見事に一致する。しかし、任意の大きな整数があって、それらのコルモゴロフ複雑性がそれらの表記の長さよりずっと小さい。例えば、K(10 N )≦K(N)+const.。一般に、大きな数を少しでも使う時、比較的小さなコルモゴロフ複雑性を持つ数だけをどうやら使うようだ。おそらく今まで数学者達によって作られてちゃんと定義されている数の最も長いπの10進分解でさえ、K([10 N π])≦log N+const.だからコルモゴロフ的に簡単である。一般に、小さなコルモゴロフ複雑性=高次の構成だ。
他方、殆どすべての整数Nはlog Nに近い複雑性を持つ。例えば、最適なfに対してf(P)=Nならば、K(P)はlog Pと同値である。そんな整数は多くの注目すべき性質を持つが、私達は通常それらと"ランダム性"を結びつける。
第二に、コルモゴロフ複雑性は、数でない離散オブジェクト、例えばロシア語または英語のテキストに対して容易に定義され得る。従って、"戦争と平和"は非常に上手く定義された複雑性を持つ。不確定は最適コーディングに結合され、小さな、まずまずのコーディングの一つを選べば、不確定は非常に小さくなるようだ。
この観点から、"戦争と平和"は高度に構成されているのか、またはランダムなオブジェクトの組合せなのか?
第三に、コルモゴロフ複雑性は計算可能函数ではない。もっと正確に言えば、fが最適ならば、C f (N)とexp(O(l))だけ異なる再帰函数G(N)は存在しない。人は計算可能函数によって複雑性を有界に出来るだけだ。
人間知識の性質に関する何らかの議論において、コルモゴロフ複雑性は心に留めておくべき非常に本質的だと思う。
私達の知識の内容が記号的に(口頭的に、デジタル的に、...)記述されている限り、保存及び処理出来る情報の分量に物理的制約がある。私達は情報圧縮の様々な方法にいつも頼っている。コルモゴロフ複雑性はそんな圧縮の効率に絶対的制約を置く。例えば、運動方程式によって記述されている物理法則を語る時、物理システムの振舞いの正確な記述は、これらの法則をコンピュータプログラムへ翻訳することにより得られる。しかし、発見し、使用出来る法則の複雑性は明らかに有界である。"初等的"システムを管理することさえ、高次の複雑性を持つ法則が無いと確信出来るのか?
この時点で、議論は全く非数学的になっており、数学的頭脳を持つ観衆の前において、ここで私は止めなければならぬ。だが、そのようなことは何らかのメタファの宿命である。

ⅱ) Arrowの独裁者定理は1950年あたりに発見された。数学的には、それは2項関係に値を持つ或る函数を記述する組合せ的命題である。直感的には、社会選択問題の形式的議論だ。集団決定に投票の個人意思の過程を管理する法律を立法者が作らなければならないと仮定しよう。問題が2つの選択肢の1つを選ぶことなら、標準的解決は投票の多数によって決めることだ。しかし、普通2つの選択肢より多くあり(資金割り当ての問題を想像せよ)、投票者達は彼等の好みに従って選択肢の順序付けを問われるかも知れない。個人的好みの何らかの集合から集団的好みを抽出するアルゴリズムは何であるべきか? Arrowはいくつかの自然で民主的な公理(例えば、すべての人がBよりAを好むなら、社会はBよりAを好む)を満足するアルゴリズムを考えた。それにもかかわらず、2つの選択肢より多くある時、解決を達成する唯一の方法は社会の一メンバーを選び("独裁者")、彼の個人的好みの順序を社会のものと同一視することだと発見した(実際には、これは後で発見されたArrowの定理のバージョンの一つである。また、有限な社会の場合に適用する。無限の場合においては、社会的決定は"ルール階層"と適切に呼ばれる超フィルタによって決められる)。

或る意味で、この定理はジャン=ジャック・ルソーの社会契約論のアイデアを例証している。
理想的な民主的選択のイメージの根本的矛盾は3人の投票者と3つの選択肢に関する以下のストーリで例証出来る。3人の騎士が十字路でコースを外れ、彼等の前に石があるというストーリだ。石の上の碑文は損失だけを予言している。すなわち、左へ行く者は刀を失うだろう、右へ行く者は馬を失うだろう、直進する者は首を失うだろう。騎士達は馬から降りて協議を始める。このストーリのロシア版では、騎士達は名前と個性を持っている。最も若く熱烈なAlyosha Popovich、最も年長で賢明なDobrynya Nikitich、そして、のろまな小作農Ilya Muromets。だからAlyoshaは馬よりも刀、彼の首よりも馬に価値を置く。Dobrynyaは彼の首に最も価値を置き、次に刀、そして次に馬。Ilyaは首、刀よりも馬を好む。
読者は、3つの個人的好みの順序が選択肢の集合における同一の巡回順序を形成していることに気づくだろう。結果として、多数決によって任意の2つの選択肢間の決定を出来るが、これらの決定の結合は矛盾になるだろう。つまり、民主的手続きは上手く順序付けられたリストを与えられない。騎士達は意思決定権をDobrynyaに署名委任する。
Arrow定理は私達が前以って知らなかった何かを告げるのだろうか? イエスだ。定理を真剣に議論する、すなわち組合せ的証明を詳しく調べる、途中で作られる様々な仮定と初等的ロジックのステップの実生活の中身を想像する、一般に、不正確な想像を数学的推論の堅固なロジックによって質を高めることを喜んでするならば、定理は私達の知らなかった何かを告げる。例えば、政策立案のいくつかのトリック、社会が一途に跳び込むいくつかの罠(ルール階層によって強制された選択肢のリストを疑問無く受入れるような。このリストの編成は全く社会意思決定の中心問題であるが)を非常に理解出来る。
この段階で、議論の主要なトピックに来ている。つまり、何が数学の講演と自然言語の講演の差を示すのか、何故パスカル主義者の"順序"が私達の特殊化された記号的活動に君臨し、本当に"深遠さのため役立たない"のか?

言語と数学
約30年前、最初の真剣な自動翻訳の試みがなされた時、数学と人類の間の交流の非常に興味深い一時期が始まった。この領域において基本的な障害は無く、処理されるべき大変な量の情報に関する技術的困難を克服することだけが残っていると信じた多くの楽観者達にとっては少なくとも、これらの最初の試みは苦痛な失敗だった。言い換えれば、翻訳は明快なコンピュータプログラムとして実装されているはずの、さほど複雑でないアルゴリズムによって原理的に実行されることを彼等は当然だと思った。
この仮定は数学的メタファの素晴らしい実例だ(実際には、脳科学で使用される一般的な"コンピュータメタファ"の特殊化である)。
このメタファは言語学者達に人間言語の語彙、意味論、語形論、文法を空前の度合いの明確さと完全さで無理やり記述させたのだから、一般に言語学者達にとって非常に好結果を生んだ。このプログラムのおかげで、いくつかの全く新しい概念とツールが発見された。
しかし、自動翻訳自体の成功は乏しかった(そして、現在なおも乏しい)。書かれた人間のスピーチは、翻訳または論理的推論(すら)として計画されたアルゴリズム的処理に対して非常に悪いインプットデータであることが明らかになった(例えば、統計的学習の題材として考慮された人間のスピーチに特別なことは何も無いから、私はこの但書きを加えている)。
この事実は人間言語の普遍的性質と考えられるし、注目に値する。先ず何よりも、人間言語の意味の範囲が余りにも広く、実世界を記述する良く整理されたメタ言語と認める程には構造化されていないという、ありきたりな説明を非常に無邪気だとして拒絶すべきだ。問題は、この範囲をたとえ小さな整数量の算数の部分集合に制限しても、まだ同じ困難に直面しなければならないことだ。もっとはっきり言えば、この困難が、算術記号と計算の基礎アルゴリズム、後に記号代数の全システムの具対化に対する決定的な理由だった。人間言語における初等算術の語彙ですら基本的に時代遅れだ。つまり、原始社会の自然な有限系列"一、二、三、無限に多い"が指数的規模で私達の"千、百万、十億、何億兆"に増える。"1989"のような比較的小さな数に対する表現は実際には10進表記の名前であって、数自体の名前ではない。
ディオファントスの半口頭的代数よりF. ビエトの代数の有利な点は新しい意味を表現出来たという事実のためではなく、比較にならない程アルゴリズム的処理(高校代数の"同等変換")をしやすいためである。
テキストとその製作者/ユーザの間の直観的かつ情緒的な結びつきの分裂、つまり科学の言葉の特徴は新しい計算自動化機能によって埋め合わされた。それらの(制限があるけれども)領域において、日常言語説教の伝統的プラトン及びアリストテレス文化より断然有能になった。それでは、何故私達の科学論文は言葉と式のまとまりのない混合としてまだ書かれているのか? 部分的には情緒的な結びつきをまだ必要だからだ。つまり、部分的にはいくつかの意味(人間価値のような)は人間言語において上手く表現されるからである。しかし、科学的スピーチの媒体としてさえ、人間言語はいくつかの固有の有利な点を持っている。すなわち、空間的かつ質的イマジネーションに訴えることで、自由度の数(次元)、極値の存在、対称性のような"構造上安定的"概念を理解することを助ける。はっきり言えば、科学のメタファ的使用を可能にする。

メタファと証明
ここで公言される見解は高校と卒業生のカリキュラムに関係すると考えることが出来る。
今世紀前半の一般的な数学教育は応用志向だった。それは実生活の問題に対して基本的な最小限を与え、大学レベルでの工業及び科学計算にスムーズな移行を与えた。プロフェッショナル数学者達の活動により、このカリキュラムの裂け目はますます言われるようになった。良く知られているように、これは米国においてニューマス[訳注: 新数学という訳にしようかなと思いましたが、私自身全然実感出来なかったので、そのままカタカナ表記しました]の形で反応を持たらし、他の国では似たプログラムを持たらした。これらのプログラムは高校数学にプロフェッショナルから借りた概念と原理を導入した。すなわち、集合論、証明の公理的方法、定義の厳格な洗練。
ニューマスは広く受入れられるようになったが、70年代及び80年代に大合唱となった抵抗の声を伴っていた。批判者達はニューマス発議者達の基本議論に賛成しなかった。認知科学と学習心理学からのデータに基づく反対に触れないで、私は数学における証明の役割の一般評価に関する議論を思い出す。
一つのポールはニコラ・ブルバキによる有名な陳述で代表される。つまり、"ギリシャ人以来,数学とはすなわち証明である"。この認識によれば、ニューマスのプログラムにおいて厳密な証明は原理問題を生じさせた。以下のことが議論された。a) 証明は数学的事実を理解することに役立つ。b) 厳密な証明は現代のプロフェッショナル数学の最も本質的な構成要素である。c) 数学は厳密性の普遍的に認識された基準を持つ。
これらの見解は大規模に批判された。例えば、Gila Hannaによる本"Rigorous Proof in Mathematics Education"[訳注: 数学教育における厳密な証明], OISE Press, Ontario 1983の中で批判された。特に、Gila Hannaは数学者達が満場一致で厳密性の基準を認めるには程遠いこと(論理主義者、形式主義者、直観主義者の間の口論に言及して)と、活動している数学者達はいつもルールを破っていると本の中で指摘した。
私の見解では、これは関係が無い。
関係することは、証明重視によって生み出されている様々な基本価値の間のアンバランスだ。証明自体が"真実"という概念の派生だ。真実の他にも多くの価値があり、中でも"活発さ"、"美しさ"、"理解し易さ"があって、それらは高校や後の教育に本質的である。これらの価値を無視するならば、教師(または大学教授)は悲惨に失敗する。残念ながら、これも広く認識されていない。ルネ・トムのカタストロフィー理論をめぐる論争の社会学的分析は、志向が形式的真実から理解することへ移ったことがそんな鋭い批評を呼んだということを示している。しかし、もちろんカタストロフィー理論は発展した数学的メタファの一つであり、そういうものとして審判されるべきだ。
教育学的に、証明は数学テキストのジャンルの一つに過ぎない。多くの異なるジャンルがある。すなわち、計算、コメントされたスケッチ、コンピュータプログラム、アルゴリズム言語の記述、または形式的定義と直観概念の間の関係の議論のような無視される類。すべてのジャンルに、それ自身の規則、特に厳密性の規則があり、それらが特別な注意を払われていなかったから法典にされないのに過ぎない。
教師の中心問題は、彼/彼女のコースの制約された範囲で様々な種類の数学的活気と基本価値の指導を示すことである。もちろん、この多様性は階層的に構成されている。ゴールは、初等的な算術と論理のリテラシーを達成することからプログラミングスキルまで、最も簡単な日常的な問題から現代科学思考の原理まで変動するかも知れない。これらのゴールの範囲において、"厳密な証明"の基準の重要視は差し支えなく本質でない位置を占めることが出来る。
しかし、そうは言っても、私の議論は決して厳密な数学推論の理想を弱めないことを強調しなければならない。この理想は数学の原理を構成する根本であり、この意味でブルバキは確かに正しい。研究の外部的オブジェクトを持たず、熱愛者達の限られたサークルの合意に基づいており、数学はゲームの厳格なルールの恒久的コントロールが無ければ発展出来ないだろう。この言葉の厳密な意味(アポロ計画における不可欠性のように)で、数学の応用性は途方も無い長さの記号操作の連続をコントロールする私達の能力のためである。
この理想の存在は、その到達不可能さよりもずっと本質的である。数学の自由(G. カントール)は鉄のように堅い必要性の限界において発展出来る。現代のコンピュータのハードウェアはこの必要性の化身である。
メタファは神々の高尚な雰囲気の中で人間が一息入れることに役立つ。

12620604 journal
数学

taro-nishinoの日記: ジョン・ナッシュと"ビューティフルマインド"

日記 by taro-nishino

先日紹介した"アーベル賞受賞者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアへのインタビュー"の前置きで、A Beautiful Mind[ビューティフルマインド]の映画を見、原書を読むことになった経緯を書きました。映画の方は所詮娯楽に過ぎないのですから、秀作であろうが駄作であろうが、そんなことはどうでもいいし、大の大人が何らかを論じるなんて馬鹿なことを私ですらしません。問題は原作の方なんです。ナッシュ博士を始めて題材にし、真面目な本であることは間違いないのですが、何だかんだ言っても所詮は一般通俗本です。こういうものをまともな数学者が読んで書評を書くのだろうか、あれば読みたいものだと思いました。
検索してみると非常に多くの書評がありましたが、先ず日本語の書評は全く話しにならないので外しました。と言うのは、書評者自身が世界に発信していないからです。世界の人々の殆どが読めない日本語のバリアーに隠れて偉そうに批判しても、それは日本国内向けのポーズに過ぎません(つまり、井の中の蛙)。世界の人々が(平均的知性の持ち主であれば)理解出来る言葉で書いてこそ発信したと言えるのです。私は海外の友人も沢山いますので、日本語の書評がいくら良くても、その思いを共有出来ません。従って、日本語の書評は無意味であり、実質無いのに等しいのです。
ナッシュ博士がノーベル経済学賞受賞者であることもあって、経済学等の、いわゆる文系の人の書評が圧倒的に多かったのですが、私はまともな数学者の書評を読みたいので外しました。そうこうしている間に、灯台下暗しとも言うべきか、あのジョン・ミルナー博士の John Nash and "A Beautiful Mind" (PDF)と出会い、正直驚きました。ミルナー博士のような数学界の巨星がいくら古い知人であるナッシュ博士を題材にしている本とは言えども、一般通俗本を読んで書評しているからです。しかし、一読して単なる書評でなく、いわばナッシュ小論とも言うべきだと思いました。この私訳を以下に載せておきます。なお、注釈は省きましたが、注釈への索引はそのままです。

ジョン・ナッシュと"ビューティフルマインド"
1998年年11月 ジョン・ミルナー

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアは17歳で彼の父親と共に最初の論文を発表した。21歳で彼の学位論文は、経済学、政治学、進化生物学のような様々な分野において、ゆっくりとした改革を新しく開いた明確で初等的な数学的アイデアを示した。次に続く9年間、数学的活動の驚くべき大波の中で、彼は幾何学と解析学において見つけられた最難問で最重要な問題を探し求め、しばしば解決した。そして神経衰弱が、小康状態のみならず断続的な入院によって中断され、苦痛で失われた30年を導いた。しかし、最近の10年間で明白な目覚めと数学への復帰が起こっている。その間に、ナッシュの研究の重要性が多くの栄誉によって認められて来ている。すなわち、フォン・ノイマン賞、計量経済学会とアメリカ芸術科学アカデミーの特別会員、米国科学アカデミーの会員、ノーベル賞での絶頂。

ビューティフルマインド
シルヴィア・ナサーの伝記、ビューティフルマインド 1は入手可能なドキュメントの研究のみならず、友人達、家族、知人達の数百のインタビューに基づいて、このストーリを慎重に細かく物語っている。実際、彼女は有能なインタビュアーであり、いくつかの場合において皆が期待するであろうことを遥に超えて資料を発掘しているようだ。1958年のフィールズ賞(ナッシュが候補者の一人だった)に対してのみならず、1994年のノーベル経済学賞に対してさえも、審議の詳細を記述している。審議は非常に議論を呼ぶので、賞の急進的な再構築と推薦委員会における完全な変更となった。概して、彼女のソースは入念に特定されるが、これらの特殊な場合において匿名のままだ。
ナサーは数学でなく経済学を学んだけれども、ナッシュの主要な研究すべてに対して、背景、大雑把な説明、詳細な文献を与えることが出来ている。また、彼の人生に役割を果す場所と人の多くの事情説明をしている(数学的命題及び適切な名前が時々少し意味不明であるが、明敏な読者は何の意味か解決出来る)。このようにカーネギー工科大学、プリストン大学、ランド・コーポレーション、MIT、高等研究所、クーラント研究所の歴史に関する素晴らしい情報を見る。また多くの有名な、そして余り知られていない数学的スターの情報も見る。議論は多くの興味深いわき道に達している。例えば、MITに関する記述はマッカーシー時代の議論と織り交ざっている一方で、ランド・コーポレーションとフォン・ノイマンに関する記述は冷戦時代の政治に対するゲーム理論の関係の議論になっている(ソ連に対して先制攻撃を主張したフォン・ノイマンはキューブリックのDr. Strangeloveの独自モデルだったのかも知れない)。
ナサーの本のどの議論も重要な倫理的ジレンマを指摘しているはずである。つまり、これは無認可の伝記であって、議題の同意または協力無しで書かれている。ナッシュの数学的活動は錯綜としている個人的生活を伴っており、ナサーはその個人的生活を非常に細かく描いている。この題材は確かに広範囲の観衆にとって興味ある(出版社の広告文で引用されているOliver Sacksは本が"並外れて感動させ、天分と総合失調症についての同情的見識に対して注目すべきだ"と書いている)。しかし、当然のことながら、そんな題材の刊行はその議題のプライバシーの徹底的な侵害を伴う。
本は彼の最初の妻であり、後に確固とした伴侶であるアリシア・ナッシュに捧げられている。アリシアの信じられない困難を通してのサポートは彼のリカバリーに明らかに主要な役割を果たして来ている。

ナッシュの科学的研究
純粋数学者達は数理科学における研究を、その数学的深遠さとそれが導入する新しい数学的アイデアと手法の規模、または長年の問題の解決の大きさに基づいて判断しがちである。このように見れば、ナッシュのノーベル賞の研究はよく知られている手法の独創的だけれども驚くべき応用ではない一方で、彼のすぐ後に来る研究ははるかに豊かで重要である。続く年月の間に、すべてのスムーズなコンパクト多様体が実代数多様体のシートとして実現されること2の証明、高度に非直観的なC 1-距離同型埋め込み定理の証明、高次元におけるもっと困難なC -距離同型埋め込み定理を証明するためのパワフルで斬新なツールの導入、偏微分方程式の基本存在定理、一意性定理、連続性定理に関する強固な始まりを作った(これらの結果の更なる議論のため、[K1]と[M]を比べよ)。
しかし、人類知識の他の分野に数学が応用される時、きわめて異なる疑問を問わなければならない。つまり、新しい研究がどの程度実世界に関する私達の理解を増すのか。このベースにおいて、ナッシュの学位論文は革命に他ならなかった([U]と同様に[N21]を比べよ)。ゲーム理論の分野はフォン・ノイマンの創作であり、モルゲンシュテルンと共同で書き上げられた(もっと早い論文はツェルメロによるもの)。ゼロ和二人ゲームに関するフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの理論は非常に十分であり、軍部が大変注目したように、戦争に対して確かに応用があった。だが、他の応用が殆ど無かった。経済理論での使用のためのn人または非ゼロ和ゲームの理論を展開する彼等の試みは実際余り芳しくなかった(ナッシュと私の両方がn人ゲームの実験的研究に参加した[N10]。私の知る限り、フォン・ノイマン-モルゲンシュテルンの"解"と実世界との間の相関性を十分に感知出来る、そんな研究は無い)。
学位論文のナッシュは、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによって研究された協力ゲーム(大雑把に言えば、これらは出席者が密室に参加出来て、互いと協定出来るゲームである)ともっと根本的な非協力ゲーム(そこでは、そんな協定は存在しない)の間の区別を始めて強調した。もっとはっきり言えば、協力の場合は、協力の可能な形式をゲームの形式構造に組み込むことで非協力の場合に還元出来る。ナッシュはまだ学部学生の間に、交渉問題に関して彼の論文[N5]で協力ゲームを始め、ある程度認められた(関係する、もっと早い研究はZeuthenによる)。この論文の一つの注目として、ナッシュはすべての協力ゲームは"ゲームに携わる機会を持つ各プレイヤーに対する有用性"を記述する値を持つはずだと予想した。そんな値は数年後Shapleyによって構築された。
しかし、主要な貢献、彼のノーベル賞につながったのは、非協力理論に対してだった。ナッシュは均衡点という基本概念を導入した。つまり、自身の戦略だけを変更することで成果を改善出来るようなプレイヤーがいないような様々なプレイヤーによる戦略の集合である(この概念に非常によく似たものが100年より前にCournotによって導入されていた)。ブラウワー不動点定理の賢明な応用によって、少なくとも一つの均衡点が存在することを彼は証明した(もっと詳しい説明のためには[OR]、[M]を見よ)。
長年に渡って、ナッシュのうわべは簡単なアイデアからの発展は経済学と政治学において根本的な変革になって来ている。ナサーは、米国政府が電磁波領域の大部分をコマーシャルユーザに安売りした時、1994年の"史上最大のオークション"を描くことでゲーム理論的アイデアの金銭的インパクトを例証している。多重巡回手順は、政府に対する支払いと各バイヤーへの購入周波数の効用を最大化するため、オークションのゲーム理論における専門家達によって慎重に設計された。結果は大成功し、100億ドルが政府に入る一方で、リソースの効率的な割り当てが保証された。対照としてニュージーランドのオークションは、そんな注意深いゲーム理論的設計が無く大失敗だった。政府は予想された収益の約15パーセントしか達成しなかったし、周波数は効率的に分配されなかった(一つのケースでは、ニュージーランドの学生が1ドルでテレビ局ライセンスを買った)。
均衡理論の全く予期されなかった一つの勝利は集団遺伝学と進化生物学への応用である。メイナード・スミスの先駆的研究を基礎にして、ゲーム理論的アイデアは今や異なる種の間の、または種内の競争に応用されている([MS]、[HS]、[W]を比べよ。この理論のもっと正確な形式はドーキンス[D1]によって普及されて、競争は個人遺伝子の間にあると考えている)。進化から経済学へアイデアの興味深い逆流もある。ビンモア([W]の中で)によれば:

ナッシュの学位論文の中のナッシュ均衡のアイデアの進化的3解釈についての所見にもかかわらず、その時の注目は、申し分なく合理的なプレイヤーによる慎重な推論の唯一実現可能な成果とする解釈にほぼ完全に集まった。...幸いにも...メイナード・スミスの本Evolution and the Theory of Games[訳注: 進化とゲーム理論]がゲーム理論家達の注意を合理性の益々手の込んだ定義から離れさせた。結局、昆虫が考えるとは全く言えるはずがなく、ゲーム理論がどうにかして適切な条件下で昆虫の行動を予測出来るならば、合理性がさほど重要であるはずがない。同時に、実験経済学の出現は人種も思考において特に優れていないという事実を痛感させた。ゲームの均衡に対する彼等の方法を見つける時、彼等はいつも試行錯誤手法を使用してそれをする。
すべての応用の中で、一つの非常に重要な帰結が強調されなけれならぬ。つまり、ナッシュと彼の後継者達によって展開されたように、均衡理論は競争の激しい条件下で起こり得ることの最も有名な記述を与えるように思われるけれども、均衡は誰に対しても必ず良い成果とは限らない。アダム・スミスの古典経済学(そこでは自由競争が最も可能性のある解となる)とは対照的に、そして古典的ダーウィン理論(そこでは自然淘汰が必ず種における改良となる4)とは対照的に、非統制競争の現実の原動力は悲惨になり得る。私達すべてが国家間の対立が軍備競争(それは関係者すべてにとって悪い)になり得ることを知っており、極端な場合全く不要な戦争になり得る。同様に進化論において、地質学的期間に渡る種内または競合する種の間の軍備競争は極度に有害になり得る5。確かに、自然淘汰が時には行き詰まり、結局絶滅に繋がるかも知れぬことは全くあり得ると思われる。ここにダーウィンに戻るマイルドに誇張されたバージョンの例がある([D3]、[D4]を比べよ)。好色な雌クジャクが必ず最も見事な尾を持つ雄クジャクを選ぶと仮定しよう。これは進化論的軍備競争になるはずであり、その間に雄達が非常に不恰好なので肉食動物から逃げられなくなるまで尾が徐々に大きくなっている。
同様の意見は経済学に当てはまる。この場合、慎重に選択された政府規制が抑制の無い競争の負の効果を調整出来て、関係者全員にとって良い成果に繋がるだろうことを人は希望する。だが、誰が慎重な選択をするのかに関する問題はもちろん政府事項であり、均衡理論にとってもっと複雑な問題に繋がる。

参考文献
(省略)

12611092 journal
数学

taro-nishinoの日記: アーベル賞受賞者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアへのインタビュー

日記 by taro-nishino

ジョン・ナッシュ博士がアーベル賞授賞式から僅か4日後の5月23日に授賞式からの帰路の途中、ニュージャージで空港から乗車したタクシーの事故により車外に投げ出され、奥様のアリシアさん共々お亡くなりなったことは皆さんも御存知でしょう。私がこの一報を聞いたのは米国の友人からで、少なくとも日本のメディアがどこも報じていない時でした。正直、最初は何かの間違いじゃないのか思いました。と言うのは、その2、3日前にアーベル賞受賞講演を聴きに行ったノルウェーの友人から様子を聞いていたからです。
その後の続報で、博士と奥様は後部座席でシートベルトをしていなかったようです。交通法規の遵守についてはさて置いといて、高齢者の人は概してシートベルトを嫌がります。シートベルトをすると窮屈なことと、彼等の若い時は運転席及び助手席は兎も角も、後部座席でのシートベルトそのものが無い時代の方が彼等にとって圧倒的に長いからです。ですから、私は遺憾だけれども無理も無いなぁと思いました。
さて、いち早い一報を知らせてくれた米国の友人は私が映画"A Beautiful Mind"を見ていないこと、また原作も読んでいないことを知って、市販パッケージのDVDとペーパバック版の原作をわざわざ買い求めて送ってくれました。つまり、映画を見るか、原作を読むかせよということです。
先にDVDを見ましたが、感心しませんでした。映画なんですから数学的なことは嘘でもでっち上げでも構わないと思いますが、ナッシュ博士を演じるラッセル・クロウが冷戦の時代に暗号解読に従事しているなんて(それが幻覚だとしても、映画ではどこまで本当なのか曖昧にしています)、これは完全に史実を逸脱していると思いました。念のため言っておきますが、ナッシュ博士は暗号解読に従事していません。そんなことが出来る神経の図太さがあれば、ナッシュ博士はリーマン予想への挑戦で精神的消耗なんかしません。原作の著者シルヴィア・ナサーさんはクレームを言わなかったのかと不思議です。
結局、映画ではアリシア夫人を演じるジェニファー・コネリーの美しさとけなげなさだけが印象に残りました。正直言って、主演が逆じゃないのかと思いました。
原作の方は資料的価値があり、初めてナッシュ博士を知る人にとって必読でしょう。ただ、著者のナサーさんは経済学畑の人で、いじわるな言い方をすれば銭になるなら何でもござれという印象を受け、映画の逸脱も承知の上だったのかも知れません。
前置きが長くなりました。今回紹介するのは、泣いても喚いても最後のナッシュ博士へのインタビュー記事"Interview with Abel Laureate John F. Nash Jr."です。最後のインタビュー記事と言いましたが、事実上の遺稿と言っていいでしょう。これは"EMS Newsletter September 2015"(PDF)に収録されており、原文を読みたい人は該当ページを探して下さい。その私訳を以下に載せておきます。なお、注釈は省きましたが、注釈への索引はそのままです。

[追記: 12月9日]
ミハイル・グロモフ博士がナッシュ博士のリーマン幾何学に関する論文を最初に読んだ時の驚きについて、"ミハイル・グロモフへのインタビュー その1"を参照して下さい。

[追記: 12月10日]
インタビューの中で、ナッシュ博士が幼少の時に読んだと言うエリック・テンプル・ベルの本"Men of Mathematics"[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"]ですが、ナッシュ博士の世代の米国人なら兎も角も(つまり、あの時代の米国ではベルの本が権威を誇っていた)、現代において、特に青少年は読むべきではないです。嘘が多く書かれているからです。例えば、集合論の開祖カントールがクロネッカーから執拗な攻撃を受けたから精神を病んだのではありません。これの詳しいことは、"ゲオルク・カントールと超限集合論闘争"が参考になるでしょう。いずれにせよ、ベルは数学史家のようにきちんと事実を調べておらず、適当に書いてます。こんな本を日本人は現代においても喜々として翻訳、出版し、それを喜んで買い求めるのですから、言葉が悪いですが、馬鹿そのものでしょう。また日本人が書く一般向けの数学者の伝記(つまり、研究書や歴史書でないもの、早い話が青少年向けの偉人伝物語の類の下らないもの)は概してベルの本を下敷きにしていますから注意して下さい。

[追記: 12月17日]
映画"ビューティフルマインド"の原作シルヴィア・ナサー女史の同タイトルの本の書評については'ジョン・ナッシュと"ビューティフルマインド"'を参考までにどうぞ。

アーベル賞受賞者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアへのインタビュー
2015年5月18日

このインタビューは2015年5月18日にオスロで行われたが、その日は授賞式の前日であり、ジョン・ナッシュと彼の妻アシリアの死となった悲劇の事故の僅か5日前だった。
ナッシュの時ならぬ死は、アーベル賞インタビューのための通常の手順、つまりインタビューされる人は最初の草稿のゲラ刷りを見て修正することを求められるが、その手順に従うことを不可能にした。従って、すべてのあり得る間違いはインタビュアーだけの責任である。


ナッシュ先生、ルイス・ニーレンバーグと共同受賞する2015年度の数学におけるアーベル賞受賞者である貴方を祝福します。アーベル賞を受けると知った時に貴方の反応は何だったのですか?
ノーベル賞の時と同様に、それに関して知らなかった。発表の前日の遅くに私は電話を受けたが、うろたえた。しかし、全く驚いたのではなかった。アーベル賞について考え続けて来たことがあった。かなり大きく、それでいて全く予測出来ない新しいカテゴリーの賞の興味深い一つの実例だ。私は事前通知を受けた。電話で翌日の朝にアーベル賞が発表されると聞かされた。私はきちんと準備した。

しかし、意外だった?
はい、意外だった。私はアーベル賞決定がいつ発表されるのかさえ知らなかった。それらを新聞で読んだことがあったが、熱心に見なかった。完全に立派な人達が選ばれていることを理解出来た。

青春と教育
数学に対して類稀なる才能を持っていることをいつ実感したのですか? 形成期に、数学を追究することを貴方に勇気づけた人達がいたのですか?
ええと私の母は学校教師だったが、英語とラテン語を教えた。私の父は電気技師だった。彼も第一次世界大戦直前に学校教師だった。
小学校に通っていた間、学校で習ったこと、つまり2桁の数字の掛算の代わりに、私は複数桁の数字で算数―足し算と掛算―をよくしていたものだった。だから、4桁と5桁の数字で勉強するようになった。それらを試し、正しい手順を見つけることに喜びを感じるだけだった。私がこれを解決出来たという事実はもちろん数学的才能の兆候だった。
そして、他の兆候もあった。幼い年齢でエリック・テンプル・ベルの本"Men of Mathematics"[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"というタイトルで今でも出版されているようです]を持っていた。私はそれを読めた。アーベルがあの本で言及されていると思うが?

はい、アーベルは言及されています。1948年、貴方が20歳の時、学生を精選するエリート大学のプリストン大学に貴方は大学院生として認可されました。プリストンでの雰囲気をどのように好きだったのですか? 非常に競争が激しかったのですか?
それは刺激だった。もちろん競争も激しく、大学院生達の静かな競争だった。彼等はテニス選手のように直接互いに競争していなかった。或る特別な理解の可能性を彼等はそれぞれ追跡していた。誰もそれについて何も言わなかったが、多少暗黙の了解だった。

ゲームとゲーム理論
初期段階で貴方はゲーム理論に興味を持ちました。プリストン大学の数学建物であるファイン・ホールの談話室において教員達と学生達の両方で広く興じられる、位相的性質を持つ独創的なゲームを貴方は考案しました。そのゲームはプリストンで"ナッシュ"と呼ばれていましたが、今日では"魔法の呪文"として知られています。なんと、デンマーク人の発明家でありデザイナーのPiet Heinが独立にこのゲームを発見しました。何故、貴方はゲームとゲーム理論に興味を持ったのですか?
ええと、以前の大学、つまりピッツバーグにあるカーネギー工科大学(今日のカーネギーメロン大学)で経済学を勉強した。私はプリストンでゲームと数理プログラミングの間の連結を研究している人達に注目した。私はいくつかアイデアがあった。すなわち、株式市場の相場師のように、一部は経済に関係し、他はゲームに関係した―それは実際ゲームである。それを正確にはっきりさせることが出来なかったが、プリストンでフォン・ノイマン1とモルゲンシュテルン2が、私の発見したn人ゲームの均衡に対する一般的な定理の特殊なケースである2人ゲームの解の証明をした。私はそれを、均衡とブラウワー不動点定理(これは素晴らしい道具だ)の位相的考えの自然なアイデアに関連させた。
正確に私がいつ何故始めたのか、または、いつフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンがあれを考えたのか、それは私の確信が無い事柄だ。後でブラウワーの定理の一般化である角谷不動点定理について調べた。私はフォン・ノイマンがそれを呼起こし、角谷3に影響を与えたことを実感しなかった。角谷はプリストンで学生だったから、位相的議論が一般に均衡を与えるだろうというアイデアにフォン・ノイマンは驚かなかった。この時に私はゲームの他の側面を研究するために理論を開発した。

今貴方は少し先走っています。数学コミュニティ以外の多くの人々は貴方が1994年にノーベル記念経済学賞を受賞したことを知っています。
あれはずっと後だった。

はい。映画"ビューティフルマインド"(その中でラッセル・クロウが貴方の役を演じています)によって、貴方がノーベル経済学賞を受賞したことを非常に多くの観衆が知ることになりました。しかし、ノーベル賞のアイデアが貴方の学位論文に含まれていることをすべての人が知っているのではありません。その学位論文は、貴方が21歳の時にプリストンで提出されました。学位論文のタイトルが"非協力ゲーム"でした。
これが素晴らしく革新的になるだろうという考えを持っていたのですか? 経済学のみならず、政治学、進化生物学のような様々な分野にも影響を持つだろうことを?

言うのは難しい。ある種の均衡があって、相反する、または相互作用するパーティがあるところではどこでも使えることは本当だ。進化論者の考えは当然これと若干匹敵する。この点において私は科学的軌道に興奮する。

しかし、学位論文が素晴らしいことを実感していた?
はい。それのもっと長いバージョンがあったが、私の学位論文指導教官によって縮小された。協力ゲームに対する材料もあったが、それは別に発表された。

学位論文を書いた時、自分でトピックを見つけたのですか、それとも指導教官がトピックを見つけることを助けたのですか?
ええと、どちらかと言うと私は自分でトピックを見つけていて、そして私のトピックの性質によって指導教官が選ばれた。

アルバート・タッカー4が貴方の指導教官でしたね?
はい。彼はフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンと一緒に共同研究したことがあった。

プリストン
貴方の勉強及び研究習慣について聞きたい。貴方はプリストンで滅多に講義に出席しなかった。何故ですか?
それは本当だ。プリストンは非常に自由だった。私が入る少し前にプリストンはN-グレードの概念を導入した。だから、例えばコースをしている教授はNの標準評価を与えたものだった。これは"ノーグレード"を意味する。だが、これは運営スタイルを変えた。ハーバードは当時そんなベースで運営していなかったと私は思う。その後ハーバードがあのように運営して来ているのかどうか知らない。プリストンはN-グレードで運営を続けて来ていて、コースを実際に取っている(グレードが与えられるコースを正式に取っている)人達の数はプリストンでは他の学校でのケースよりも少ない。

中古で多くを学ぶことは創造性と独創性を窒息させるという姿勢を取ったというのは本当ですか?
ええと、それはもっともと思える。しかし、中古とは何か?

はい、中古は何を意味するのですか?
中古とは、例えば人はアーベルから学ばないが、アーベル積分の学生である誰かから学ぶことを意味する。

もっとはっきり言えば、アーベルは数学日誌の中で、人はマスター達を学ぶべきであり、彼等の弟子達ではないと書きました。
そう、それはややその考えだ。うん、それは非常に匹敵する。

プリストンにいた間に、貴方は別々の機会にアルベルト・アインシュタインとフォン・ノイマンと交流しました。彼等はプリストン高等研究所にいた。高等研究所はプリストン大学のキャンパスの近くにあります。若い学生にとって、そんな有名人と交流することは非常に大胆不敵だったのではないですかね?
ええと、やれるだろう。それは知性的機能の考え方の中に入る。フォン・ノイマンに関して、私はブラウワー不動点定理を使ってゲーム理論の均衡定理に関する私の証明を達成したが、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンは彼等の本の中で別の事柄を使った。だが、フォン・ノイマンに連絡し、私が黒板に立った時、彼は"君は不動点定理を使ったのか?"と訊いた。"はい。ブラウワーの不動点定理を使いました"と私は言った。
私は既にかなり長い間、角谷の不動点定理を使う証明のバージョンが存在すると実感していた。角谷の不動点定理は、写像が完全な連続性を要求されないから、経済学における応用に便利である。或る連続性、いわゆる一般連続性を持っており、その場合においても不動点定理が存在する。角谷がフォン・ノイマンから啓示を受けた後にあれを証明したことを私は実感しなかった。フォン・ノイマンは、経済において相互作用するパーティを持つ経済問題へのアプローチに不動点定理を使っていた(しかし、ゲーム理論では使用しなかった)。

貴方がフォン・ノイマンと話した時、彼の反応は何だったのですか?
ええと、既に言った通り、私が彼のオフィスにいて、彼はいくつか一般的な事を言っただけだ。彼は角谷不動点定理を知っていたし、私がそれに言及しなかった(既に私はやっていた)から、私は今彼が考えていたかも知れぬことを想像出来る。彼は"もちろん、これは上手く行く"のように一般的な事を言った。それが何と素晴らしいとかについて彼はそれほど言わなかった。

貴方がアインシュタインと会い、物理学での貴方のアイデアを説明しながら彼と話した時、彼の反応はどうでしたか?
彼の助手学生達の一人がそこで彼と一緒にいた。私はあれを余り期待しなかった。私のアイデアについて説明したが、それは宇宙を通る長い旅行においてエネルギーを失う光子に関係していて、結果として赤方偏移を得る。他の人達がこのアイデアを持っていた。ずっと後で私はドイツの誰かがそれについて論文を書いたことが分かったが、直接の参照を貴方に示すことが出来ない。この現象が存在すれば、宇宙膨張の時間に対する流行の意見は弱められるだろう。もう一つ別の起源の赤方偏移が存在し得るのだから、宇宙膨張の効果と思えるもの(ドップラー赤方偏移の類)はそのようには正しく解釈出来ないだろうからだ。私は後にこれに関する数学的理論を展開した。明日のアーベル賞講義で、私は可能な解釈としてこれを示すつもりだ。
異なるタイプの時空を記述出来るだろう興味深い方程式がある。ダークマターとダークエネルギーに関するアイデアに関係するであろう特異点が存在する。それを実際に促進する人達は宇宙での質量の殆どがダークエネルギーから来ているというアイデアを促進している。だが、存在しないかも知れない。代わりの理論が存在するであろう。

2011年にアーベル賞を受賞したジョン・ミルナーは貴方が大学院生になった同じ年に一年生としてプリストンに入りました。彼は貴方が人々に根掘り葉掘り聞いて非常に未解決問題をよく知っていたという意見をしました。
プリストンにいた間、貴方は有名な未解決問題を探していたのですか?

ええと、そうだった。概して私はそうだった。ミルナーは当時私が研究するための特別な問題を調べていたことを注目していたのかも知れない。
ミルナーは彼自身で様々な目を見張らせる発見をした。例えば、7次元球面上の非標準微分可能構造。彼はまた任意の結び目が或る量の曲率を持つことを証明した。これは、他の誰か5がミルナーに知られること無しに証明してしまっていたから、実際は新しい定理ではなかったけれども。

一連の有名結果
貴方がプリストン大学でゲーム理論に関する学位論文を書いていた一方で、貴方は既に全く異なる性質の、非常に幾何学的趣きのある問題について研究していました。そして、1951年から1959年までボストンのMITのスタッフとして働いている間、この研究を続けました。貴方は実に素晴らしい結果の連なりを思い付きました。もっとはっきり言えば、この時期に貴方が得た結果は今年のアーベル賞受賞の一番の動機です。
この時期からの結果に迫る前に、2009年にアーベル賞を受賞したミハイル・グロモフを引用することで概観を与えたいと思います。6年前我々が彼にしたインタビューの中で、彼は貴方の手法が"信じられない程の独創性"を示していると語りました。更に、"私の観点から言えば、幾何学においてナッシュのやって来ていることは、経済学で彼がやって来ていることよりも、マグニチュードのオーダーで何倍も比較にならない程大きい"と言いました。
グロモフの評価に賛同しますか?

まあ、ただ好みの問題だ。それは全く苦闘だった。代数幾何学で私がやったものがあったが、それは微分幾何学(その中に細かい区別立てを持つ)に関係する。私はそこに突破口を作った。実際に代数多様体の幾何学的形状のコントロールを得ることが出来た。

それは我々の次の質問の議題になるでしょう。1951年にMITで始めた時、貴方は実代数多様体に関する論文を提出しました。MITで後に貴方の結果を利用するミハイル・アルティンを引用したいと思います。彼は"全くそんな定理を思いつくことは注目に値する"とコメントしました。
貴方が扱ったこと及びあの論文で証明したこと、どのように貴方が始めたのかを少し語っていただけますか?

私は実は時空とアインシュタイン、星の分布のアイデアに影響を受けた。そして、"星の分布の或るパターンを選べると仮定しよう。星の分布を持ち、均衡状態にある多様体(あちこちに曲がり、それ自身に加わるもの)が存在するであろうか?"と考えた。これが私の考えていたアイデアだ。最終的に、点(興味深い点)の分布が選ばれて、望ましい幾何的及び位相的方法でぐるっと回る多様体が存在するように数学的アイデアを展開した。だから、私はそれをやり、同時に、それをするための特別な一般理論を開発した。そして、それが発表された。
私が証明したことが表現されている多様体の中に幾何学的に美しくない事柄を許していたかも知れないと思うから、後に人々は表現をもっと正確にする研究を始めたが、それが他の事柄と緊密になるかも知れない。厳密には有限でないかも知れぬ。そのいくつかの部分は無限遠点に存在するかも知れない。
最終的に、他の誰か、A. H. Wallace6が問題を修復したように思えたが、そうではなかった。綻びがあった。だが、後にイタリアのトレントのAlberto Tognoli7という名前の数学者によって修復された。

もう一つ別の結果、リーマン多様体の実現に関して訊きたいと思います。大雑把に言えば、リーマン多様体は抽象的な滑らかな構造であって、その構造上で距離と角度が局所的に極めて抽象的な方法で定義されています。これらの抽象的要素が、十分に高次元のユークリッド空間における部分多様体として非常に具体的に実現され得ることを貴方は示しました。
はい、貴方が言うとおり、距離が抽象的方法で与えられるが、距離を定義するために十分だと考えられるならば、それは埋め込みによってでも達成出来るであろう。つまり、埋め込みによって誘導される距離だ。そこで私は脱線した。最初、最小レベルのスムーズ、つまりC 1級の場合を持つ多様体に対して証明した。他の人達の一部はその後をさらに追究して来ている。私はそれに関する論文を発表した。その時、オランダ人数学者Nicolaas Kuiper8がいたが、彼は何とかして埋め込み空間の次元を1つ下げることが出来た。

貴方が得た結果はさておき、多くの人達が貴方の採った手法が独創的だと語りました。例えばグロモフとジョン・コンウェイを引用させて下さい。グロモフが貴方の結果を最初に読んだ時"私はナンセンスだと思ったから、真実であるはずがなかった。しかし、真実だった。信じられなかった"。更に後で"彼は偏微分方程式の全体像を完全に変えた"と言いました。そして、コンウェイは"彼のやったことは20世紀における数学解析の最も重要なものの一つである"と言いました。ええと、非常に大したことです!
はい。

噂が伝える通り、貴方は賭けの結果として埋め込み問題の研究を始めたということは本当ですか?
賭けのようなものがあった。談話室で議論があった。談話室はMITで学部メンバーの会合場所だ。幾何学の上級メンバーの一人、Warren Ambrose9教授と私は埋め込みのアイデアを議論した。埋め込みによる距離の実現のアイデアは彼から得た。当時、これは完全に未解決問題だった。そこにはあらかじめ何も無かった。
私はそれについて研究を始めた。そして、C 1級の場合へ移った。多様体と比べて埋め込み空間の超過次元が少ししかない条件で、この場合では出来るであろうことが分かった。私は2でやったが、Kuiperは1だけでやった。だが、彼はスムーズにそれをやらなかった。これは正しかったようだ。つまり、スムーズな何かを与えられたなら、スムーズな解答を持つに違いないだろう。
しかし、数年後、私はスムーズに対する実現を作った。4つのパートを持つ論文でそれを発表した。私は今白状出来るが、間違いがある。論文が発表されてから約40年後、カリフォルニア大学の論理学者Robert M. Solovayが間違いを私に知らせた。"どうして?"と思った。私は調べ始めた。無限多様体があって、スムーズな埋め込みをしたければ、多様体をポーションに分け、各ポーションにおいて或る量の距離に対する埋め込みを持つという理由で、私はとうとう間違いを悟った。だから、皆は多様体をいくつかの、より小さい有限多様体に分けている。だが、私のやってしまったことは論理において間違っていた。うーん、どう表現すればいいかな? 私は任意の点に対する十分な局所的点を証明した。ここで任意の点は伸ばされ、一点に十分近い点を取るならば完全に微分されている。だが、2つの異なる点に対して、それらが同一の点の上に写像されることが起こり得る。だから厳密に言えば、写像は正しく埋め込まれてなかった。自己交叉の余地があった。

しかし、証明は修復された? 間違いは修復された?
ええと、私がそれを知ったのは、発表から長年の後だった。公式に注意されなくても知られていたかも知れないか、または注意されていたかも知れないが、人々はその知識を秘密10にしていたかも知れない。

貴方の結果がいかに驚きであったかをハイライトするために以下のことを差し挟んでいいですか? MITでの貴方の同僚の一人、MITで数学教授及び哲学教授でもあるGian-Carlo Rota11が"その分野の偉大なエキスパートの一人が、彼の大学院生の一人がそんな異様なアイデアを提案したなら、オフィスから追っ払っているであろうと私に語った"と言いました。
それは本当のリベラル、進歩的態度でない。

偏微分方程式
しかし、それでも貴方の証明した結果は、当時の人々が持っていたテクニックの範囲を超えているものと受止められています。
はい、そのテクニックは一般にPDE[訳注: 偏微分方程式]を研究するための新しい手法となった。

純粋にPDE論の範囲内での貴方の研究について続けさせて下さい。私達が間違ってなければ、これは1956年にニューヨークのクーラント研究所で貴方がルイス・ニーレンバーグ(彼は貴方と今年のアーベル賞を共同受賞します)とした会話の結果として生じました。彼は貴方に非線型偏微分の方程式内の主要な未解決問題について語りました。
はい、彼は私にこの問題について話した。カリフォルニア大学教授C. B. Morrey12による2次元でのいくつかの研究が以前あった。偏微分方程式の解の連続性はMorreyによって2次元において本質的であることが分かった。問題は2次元を超えると何が起きるかだった。それが私の取組むようになったものであり、イタリア人数学者de Giorgi13もそれについて取組むようになった。

しかし、当時貴方達は互いの研究を知らなかった?
はい、これについてのGiorgiの研究を知らなかったが、彼は最初にそれを解いた。

楕円の場合のみだけれども。
はい、ええと、元々は楕円の場合だったが、私は放物型方程式を含めるため、それを少し一般化した。それは非常に好都合なものとなった。放物型方程式を用いて、エントロピー概念に関係する引数を得る手法が生じた。
私は分からない。先例を議論するつもりはないが、同様のエントロピー手法がニューヨークのハミルトン教授、そしてペレルマンによって使用された。彼等は必要とする改善をコントロールするために彼等がコントロール出来るエントロピーを使っている。

そして、それはついにポアンカレ予想の証明となるものだった?
彼等のエントロピーの使用はきわめて本質的だ。ハミルトンがそれを最初に使い、そしてペレルマンはそこから取上げた。もちろん、成功を見越すことは難しい。
ペレルマンが何らかの賞を受取って来ていないのは面白いことだ。彼はフィールズ賞、またクレイのミレニアム懸賞も拒否した。ミレニアム懸賞は100万ドルの賞金がついてくる。

貴方とde Giorgiが大体同じ問題を研究した時代に戻ります。貴方の前にde Giorgiが問題を解いてしまっていたことを知った時、非常に失望しましたか?
もちろん私は失望したが、人はそれを考える他の方法を見つけようとする傾向がある。水が徐々に増え、湖が満ち溢れ、そして流出の流れがバックアップするように、別の方法で出現する。

一部の人達は、de Giorgiの研究との偶然の一致が無かったら、貴方がフィールズ賞を受賞していたかも知れないと憶測して来ています。
はい、あり得ることだ。当然のことだと思われる。de Giorgiは他の表彰を受けたけれども、彼もフィールズ賞を受賞しなかった。しかし、何らかの種類の選考機関がどのように機能するかを考えれば、これは数学ではない。選考対象のカテゴリに入っていないとはっきりしている人達によって考えられる方が良い。

貴方が1950年代に主要で実に素晴らしい発見をした時、貴方が議論出来る誰か、貴方のために相談相手として振舞う人がいたのですか?
証明に対して? ええと、ゲーム理論での証明に対しては議論する程ではない。フォン・ノイマンはテーマが持ち上げられるとすぐにそんな証明が存在するであろうと知っていた。

幾何学的結果及び貴方の他の結果はどうしましたか? 貴方が証明を議論出来る誰かがいたのですか?
ええと、Ambrose教授のように、概して幾何学に興味のある人達はいた。しかし、彼等は証明の詳細に助けとなる程ではなかった。

プリストンでスペンサー14はどうしましたか? 彼と議論しましたか?
彼はプリストンにいたし、私の一般試験委員だった。彼は私を評価したらしかった。彼は複素解析を研究していた。

プリストンまたはMITのどちらかで貴方が会って、実に感心する、尊敬する特別な数学者はいましたか?
ええと、もちろん、MITでレビンソン15教授がいる。私は彼に感心した。プリストンで私はノーマン・スティーンロッド16と話し、ソロモン・レフシェッツ17を知った。レフシェッツはプリストンで学部長だった。彼はいい数学者だった。プリストンの代数学教授エミール・アルティン18とはそんな親密な関係になかった。

リーマン仮説
貴方の人生のターニングポイントに進めさせてください。貴方は数学での未解決問題でほぼ間違い無く最も有名な問題、リーマン仮説に取組む決心をしました。これはまだ未解決です。私達が話したクレイのミレニアム懸賞問題の一つです。貴方の努力の結果として、どう精神的消耗を体験したか語っていただけますか?
ええと、私が仮説に正面攻撃をしたというのは少し噂または俗説だと思う。私は慎重だった。問題は言ってみれば反撃出来るから、或る問題に取組もうとする時に私の努力について少し慎重だ。リーマン仮説に関して、私は自分自身を現実的な学生だとは思わないが、何らかの美しく興味深い新しい側面を分かるところでは(何事においても)いくらか不用意かも知れない。
高等研究所にいたノルウェーの数学者セルバーグ教授は、さかのぼって第二次世界大戦の時に、実際に臨界線上にある零点が少なくとも或る有限な程度に存在することを証明した。それらは異なるタイプの零点として来る。一つの零点として現れる二つの零点のようなものだ。零点の何分の一かが臨界線上にあることをセルバーグは証明した。それは彼が研究所へ来る数年前だった。彼は当時いくつかの素晴らしい研究をした。
そして後に、1974年にMIT(そこに私がいた)でレビンソン教授が良い割合―1/3周辺―の零点が臨界線上にあることを証明した。当時彼は脳腫瘍を患っており、それが原因で亡くなった。そんなことが起こり得るのだ。頭脳は攻撃の許にあり得るが、しばらくの間は素晴らしい論理的思考が出来る。

非常に特殊な数学者?
貴方を知る数学者達は、貴方の数学問題に取組む姿勢を殆ど他の人達のそれとは全然違うと述べています。貴方のアプローチについて少し語れますか? 貴方のインスピレーションの源は何ですか?
ええと、唯今現在私がこれこれしかじかのやり方で研究していると議論出来ない。それはもっと標準的なやり方とは異なる。言い換えれば、私の心、経験、縁故者を使って出来ることを考えようとしている。私が努力するために何が好都合だろうか? だから私は最近の流行のノンセンスのどれもやろうとは思わない。

貴方がインタビューで以下のようなことを言ったことがあります(訂正してもいいです)。"私がもっと普通に考えていたなら、私は良い科学的アイデアを持たなかったであろう"。貴方は非常に異なった方法でものを考察しました。
ええと、それを考えることは容易だ。一数学者としての私にとってそれは真実だと思う。良い学生が学位論文をするように考えることは見合う価値が無いであろう。殆どの数学の学位論文は非常に型にはまっている。それはたくさんの研究だが、多少学位論文指導教官によってセットアップされている。十分なまでに研究をするなら学位論文は認められる。

関心と趣味
以前のアーベル賞受賞者全員に訊いて来た質問を最後にしていいですか? 数学以外に貴方の主な関心もしくは趣味は何ですか?
ええと、様々なことがある。もちろん、金融市場を注目している。これはノーベル経済学賞のふさわしい範囲の外であるが、事を考えるなら出来ることがそこにはたくさんある。大不況、つまりオバマの当選後すぐに来た危機に関して、きわめて異なる結果になるであろう、一つの決定また別の決定を出来る。経済は2009年に回復に取りかかったと私は思う。

貴方がプリストンの学生だった時、バッハの"小フーガ"を口笛で吹きながらキャンパス周辺を自転車に乗っていたことが知られています。古典音楽が好きなんですか?
はい、バッハが好きだ。

バッハ以外の好きな他の作曲家は?
ええと、聴くのが嬉しい古典作曲家はたくさんいる。例えば、モーツァルトによる素晴らしい曲を聴く時。彼等ははケテルビーや他者のような作曲家よりもずっと良い。

とても興味深いインタビューのため、私達は貴方に感謝を申したいと思います。私達の二人に加えて、これはデンマーク、ノルウェー、及びヨーロッパ数学協会を代表してです。

正式なインタビューの終了後、ジョン・ナッシュの主な現在の関心に関する非公式会話があった。彼は再度宇宙に関する熟考を言及した。刊行に関して、ナッシュはOpen Problems in Mathematics[訳注: 数学における未解決問題]と題される本について語り、それを若きギリシア人数学者Michael Th. Rassiasと共に彼は編集作業をしていた。Michael Th. Rassiasはアカデミックイヤーの間、プリストン大学で学位取得後の研究をしていた。

12585830 journal
数学

taro-nishinoの日記: ケロシンカ: ソビエト数学史におけるエピソード

日記 by taro-nishino

皆さんの中には、エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Reality[愛と数学: 隠れた真実の核心]を読んだ人もいるでしょう。私は通常、このような一般向けの科学ノンフィクション本は読まないのですが、その方面の専門家であるフレンケル博士がご自分の専攻分野について一般向けに書いているのですから、ひねくれ者の私でさえ安心して読みました。と言うのは、普通、日本に限らず海外でも科学ノンフィクションという分野ではサイエンスライターという似非権威が偉そうに書いているからです。サイエンスライターは少なくとも非専門家であるはずであり、酷い場合は科学を勉強したこともないド素人です。ですから、数学方面でも間違い(勿論、誤植等の単純ミスを除きます)が比較的多いのです。何故素人が恥知らずにも書けるのか不思議です。たとえ著者が数学者であっても専攻分野以外の数学のことを書いているならば非専門家です。従って、下辺な私でさえ簡単に間違いを見つけられる時があります。
フレンケル博士の名前はその方面の専門家ならともかくも、一般的にはLove and Mathで初めて知った人が多いと思います。実はもっと早い時期に、具体的に言えば1999年の11月のNotices of the AMSで、当時准編集者だったMark Saul氏の記事"Kerosinka: An Episode in the History of Soviet Mathematics"(PDF)にその名前が登場します。そしてLove and Mathでも、その記事が部分的に引用されています。
最近、またもや周辺から教えられたのですが、Love and Mathの日本語版がつい最近出たそうです。しかし、私の想定外(おそらくフレンケル博士もそうだと思います)のタイトルが付いていますので、ここに明記する気持ちが起こりません。日本語版を読みたい人は簡単に見つけられますのでご自分で探して下さい。
さて、Love and Mathの日本語版が出た以上、参考としてMark Saul氏の記事を紹介するのは有意義だと思いますし、既に勉強に倦んでいる大学生以上の大人はどうでもいいですが、Love and Mathの日本語版を手にするような中高生には是非とも読んで欲しいです。Mark Saul氏の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、注釈は省略していますが、注釈へのインデックスはそのままです。
ついでながら、蛇足をもう一つ。旧ソ連のユダヤ人排斥主義は初期の時からずっとあって、20世紀最高の大数学者ゲルファント博士でさえ、15歳の時に学校から追放され、とうとう正規の教育を受けずに終わりました。しかし、ゲルファント少年の才能をいち早く見抜いたコルモゴロフ博士の庇護の下で数学者への道を歩むことが出来ました。その経験はゲルファント博士が地方の青少年のため(そして表向きには言えなかったでしょうが、心底はユダヤ人学生のため)に通信教育を始めた動機でしょう。コルモゴロフからゲルファントへ、そして更に若い世代へと数学のトーチは手渡しされていきます。それが文化なんです。ですから、中高生の人には辛い事もあるでしょうが、文化の次世代の担い手なのですから勉学に励んで欲しいです。ゲルファント博士については"I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話"も参考までにどうぞ。

[追記: 12月1日]
Love and Math: The Heart of Hidden Realityや最近テレビで放送された数学ミステリー白熱教室を見る限り、フレンケル博士は"あの"予想を志村-谷山-ヴェイユ予想と呼んでいるようです。これはおそらくフレンケル博士はサージ・ラング博士の最重要ドキュメント"志村-谷山予想の或る由来"を知らないか、もしくはラングランズ・プログラムでの呼称に則ったものと思います。いずれにせよ、谷山氏の名前は追悼の意味合いもあるので兎も角として(しかし、実際にはモジュラであると予想していません。このことが特に日本人には理解されていません)、少なくともヴェイユの名前は外すべきでしょう。

[追記: 12月3日]
"あの"予想の呼称に関して、日本人に多い誤解(もちろん殆どが素人衆)は、志村博士が谷山氏の遺志を継いで"谷山の問題"から出発しているという、お涙頂戴の甘ったるいものでしょう。実際には全然違っていて、"谷山の問題"とは全く関係が無く志村博士はアイヒラーの結果を徹底的に研究しました。これは志村博士の初期からの論文を時系列に少しでも読んでいれば分かることです。そして、志村博士はモジュラで十分であると確信したのでしょう。もっとはっきり言えば、"谷山の問題"から出発したくても、(ある意味で)意味不明なのですから足がかりすらなりません。

[追記: 12月6日]
その後、もう一度Love and Mathのノート部を精査しましたら、サージ・ラング博士の"志村-谷山予想の或る由来"を文献として挙げていました。ラング博士の意向を簡単に言えば、"あの"予想にヴェイユは関係無いから、少なくともヴェイユの名を外すべきだということです。従って、文献として挙げておきながらラング博士の意向は無視されたと言ってもいいでしょう。

[追記: 12月23日]
私は日本語のバリアに隠れて偉そうに物を言う最近のネット等で見られる卑怯者の仲間には入りたくないので、エドワード・フレンケル博士に以下のことを申し上げました。
I'm just a Japanese reader who read your book, Love and Math.
What I feel frustrated with, however, is the name of the Shimura-Taniyama-Weil conjecture. It is not too much to say that notwithstanding reference to Serge Lang's article in the notes of the book, you put the kibosh on his intention: Lang's intention is that at least Weil's name should be excluded from the conjecture because Weil was irrelevant to it.
In fact, only Shimura should be given credit for the conjecture.

[追記: 2016年1月1日]
エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Realityについて、アマゾンでリヴューを書きましたので参考までにどうぞ。

ケロシンカ: ソビエト数学史におけるエピソード
1999年11月 Mark Saul

"油の分泌のように、それは神に集まる。圧倒される..."
ジェラード・マンリ・ホプキンス

西側世界では、熱心で才能のある学生にとって数学教育へのアクセスは困難でない。これは旧ソ連ではそうでなかった。数学キャリアをたどる若人達はいろいろな障害に直面した。マーケットは特にユダヤ家系の数学者達であふれ、これらの若い男女達は日常的に彼等が素晴らしい研究をしていたかも知れない、ある研究所と学部へのアクセスを禁じられた。
エディク[訳注: 後で実名が明かされますが、エドワード・フレンケル博士のこと](非常に若くして数学的才能を示していた)の場合を考える。彼はイズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントによって設立された通信教育を受けており、p-進数、ヒルベルト空間、トポロジーのようなトピックスを彼に個人指導をするための地方の数学者を探していた。地方都市に住んでいたので、エディクはソビエト数学的生命の2つの道標を利用する機会が無かった。すなわち、特別な数学学派1と数学研究サークル2。彼が高校を16歳で終えた時、ソビエト連邦でもっとも権威のあるモスクワ大学(MGU)で数学の学部試験を受けるためコロムナにある彼の家からモスクワへ旅立った。1984年だった。
"円の定義は何か?"と試験官は訊ねた。エディクは"平面で固定点から等距離の点の集合です"と答えた。"間違いだ"と試験官が言った。"平面で固定点から等距離のすべての点の集合だ"と試験官はアリスを尋問する赤の女王[訳注: ルイス・キャロルを読んだことがある人なら分かるでしょう]風に続けた。そして、通常の高校生が知っていると期待されるはずがなかったであろう、円内での反転のようなもっと難しい問題に移った。
そのストーリはお馴染みのものだ。つまり、ユダヤ人家系の学生達は他の受験者達が訊ねられる問題よりも著しく困難な問題を訊ねられたが、彼等を許可しないことが理由だった3。エディクの場合、彼のすぐれた経歴と才能のため、このプロセスは4時間より以上かかった。
試験官達はどのようにして受験者がユダヤ人であることを知ったのか? これは旧ソ連で見事に培われた技だった。旧ソ連ではユダヤ人排斥主義は表向き非合法だが、公式に実践されていた。すべてのソビエト市民は、各自が携帯する国内パスポートについて記録されている国籍をあてがわれる。ある人の両親がユダヤ人なら、その人の国籍はユダヤ人である。だが、混血の子孫はどうなる? 後期ソビエトのユダヤ人排斥主義は、南北戦争以前の南の人種法と同じくらい厳密に不文律の人種法のもとで簡単に手続きを取った。
"ユダヤ人"受験者を特定する多くの方法があった。一番簡単なのは姓名の起源だった(この手法はユダヤ人のみならず、異質な響きの名前を持つ少数民族のロシア人もかかった)。ロシア小説の読者達はもう一つ別の手法を知っている。ロシア人のミドルネームは法律及び習慣によって父親の名前から取られる。これらの父祖の名を取った名前は正式な宛名に使用され、ロシア人生活の重要な部分だ。従って、両親のフルネームを訊ね、受験者の祖父の名前を知ることはごく当たり前な手順である。これらの名前の一つがユダヤ人に響いたなら、受験者は悲運だった。
いずれにせよ、エディクはユダヤ人(もっとはっきり言えば、彼の父親はユダヤ人だが、母親はユダヤ人でなかった)であると決定され、彼の試験結果は適当に採点された。一つの解答も正しいとされなかった。MGUからの否決の後、彼と彼の家族は長たらしく通常愚鈍な上訴プロセスを選ばなかった。
面接を去る際に、エレベータでエディクは尋問者に出会った。MGUで一部の教員達がユダヤ人排斥のフィーリングを心に抱いていた一方で、その他は政治的環境によって大学学部からユダヤ人の排除に協力することを強いられた(多くのロシア人数学者達は今日まで当時の彼等の行動についてのフィーリングに苦しんで来ている)。この教員は後者の類か、またはエディクが試験結果を不服として訴えていないことを単純に喜んでいたのかも知れない。
すべての問題についてエディクを落としたばかりなのに、その試験管は奇妙にも彼を振り返り、"私は君の知識に感銘を受けた。石油化学及び天然ガス工業専門学校に応募することを勧める。そこでは君のような人達を採るよ"と言った。
エディクはこの専門学校を聞いたことがなかった。ソビエト初期時代4に創立され、多くのそんな学校と協力して、特別な産業のための技術者を作る素晴らしい仕事をやって来ていた。だが、そんな所は才能ある若い数学者の熱望の対象であるはずがなかった。何故、この専門学校か?
1968年の後、政治的環境はソビエトの大学の数学と物理学部門におけるユダヤ人排斥運動の殺到を始めた。学問が伝統的ユダヤ文化の中で保持されていた崇拝は現代においてしばしば数学での興味に変わり、その分野で多くのユダヤ人学生達がいた。この要因は、特別な学界部門からのユダヤ人学生達の排除と結合されて、これらの学生達のための数学における配置に対するマーケットを作った。モスクワと他の都市の或る専門学校は、他の大学のユダヤ人排斥思想の恩恵を受けて非常に質の高い学生達を獲得するためにマーケットに迎合し始めた。ある有能なユダヤ人数学者は時に冶金専門学校または教育学専門学校で教育を成し遂げた。他者は鉄道技師専門学校に入学したものだった。その鉄道技師専門学校のロシア語の略語はMEEDのように聞こえた。これは、"ユダヤ人ならMEEDへ行きなさい[ここでリズム配列は軽蔑的な用語を必要とする[訳注: もちろんロシア語でのリズムを言っているので、日本語に翻訳すればリズムどころか面白みさえも消えています。念のため]]"という格言につながった。そのスローガンは、敵対的な状況に対するユダヤ人学生達の唯一の防御手段であるプライドと皮肉の混合の特徴だった。
石油化学及び天然ガス工業専門学校は、MGUでのユダヤ人に対する偏見から恩恵を受けた、それらの専門学校のもう一つ学校だった。そのニックネーム、ケロシンカはこの同じプライドと皮肉を反映した。ケロシンカは石油ストーブのことであり、ローテクだが十分に逆境に反応する。その専門学校の学生達と卒業生達は"Kerosinshchiks"[訳注: これはただ単にロシア語のロシア文字を英字に置換えただけです。私のロシア語の貧弱な知識では適切な和訳を思い浮かべませんでした。御了承下さい]として有名になり、学校は数学に情熱を持つユダヤ人学生達の天国になった。
ロシアの数学コミュニティの特徴である、彼等の専攻分野に対する共有される熱狂は既に別のところで5描かれており、今までソビエトのユダヤ人達は多くの米国人達にこの雰囲気を直に体験させて来ている。ケロシンカのストーリは、情熱と政治の間の微妙な交錯の実例の一つ、数学を追求するために個人と組織が逆境にどのように反応したかの物語の一つに過ぎない。
運命はどのように、多くの才能の宝庫としてケロシンカを選んだのか? この疑問は答えるのが難しい。MGUからのユダヤ人排除の恩恵を受けている他の専門学校があったことを我々は知っている。また排他政策の制定が故意の行為であったこと、それが最初いくらかの抵抗に会ったことも我々は知っている。いくつかの専門学校にとって、新しい方針を始めることよりもユダヤ人学生達を受入れ続けることの方が容易だったのかも知れない。だが、一度その現象が増大し、ユダヤ人学生達の幹部がいたのに、何故耐えられたのか? 一、二箇所でユダヤ人学生達を監視続ける秘密警察(KGB)による陰謀の暗い偲び声がある。しかし、その動機のいくらかはもっとポジティブだったのかも知れない。つまり、専門学校の事務局は発展している素晴らしい部門を見ており、その現象を保つために出来ることをしたのかも知れない。
一度ケロシンカに入学して、エディクは高レベルの純粋数学を勉強したが、MGUの学生達程には徹底されていなかった。要するに、教科課程は石油化学工業に対する特殊な応用のために設計されていた。だから、エディクが解析、線型代数、微分方程式をよく学習していた一方で、彼のプログラムは応用数学とコンピュータサイエンスにおけるかなりの勉強も含んでいた。ケロシンカではエディクが学べない純粋数学の多くの分野があった。
彼と彼の仲間の学生達は方法を見つけ出した。MGUに入り、コースと非公式セミナーを聴講するために彼らは"フェンスをよじ登った"(文字通り: 建物はよくガードされていた)ものだった。ゲルファント、コルモゴロフ、キリーロフのような数学者達は、MGUに正式に入学していない学生達にしばしば寛容であり、または彼等をクラスに招くことすらした。エディクは特にDmitri FuchsとBoris Feiginの親切に世話になった。両者は彼等自身の時間の多くをその若い男に費やした。これらの手段はエディクと彼の友人達に微分多様体、リー群、表現論、トポロジーのような高度なトピックスを探求させることを可能にした。
ソビエト生活の奇妙な展開の中で、この非公式教育システムは以前に完全な学校を作っていた。すなわち、MGU内の夜間"大学"だ。何らかの正式な認可無しに大学の建物を使って、教授達と学生達は数時間後に集まり始め、ケロシンカや他の専門学校での講習を発展させ補う講習とセミナーを維持した。これらの講習で多くの学生達がユダヤ人だったから、学校は"ユダヤ人大学"という名前を間も無く付けられた。D. Fuchs、A. Sosinsky、A. Onitschik、B. Feigin、V. Ginzburg、A. Zelevinsky、A. Shenのような有名数学者達が非公式学校の教授達の中にいた。ユダヤ人大学は主催者の一人であるBella Muchnik Subbotovskayaの死により挫折をこうむった。彼女は教育的かつ数学的活動についてKGBに尋問された直後に疑わしい自動車事故で殺された。
これらの状況のもとで数学を追求することは相当な勇気が必要だった。とても多くの鮭が上流へ泳ぐように、何がエディクと他の者達を駆り立てて続行させたのか? 大学レベルで彼等が直面した差別が彼等の職業的人生においても続くだろうというすべての兆候があった。それでは、彼等は何故それほど徹底的に、しかも数学でのキャリアに対する見込みが殆ど無いにもかかわらず、自分達で準備するべきなのか? その答えは、ソビエトの数学文化の中心を射ており、この時代の数学史における多くの現象の説明に著しく貢献する。旧ソ連の国家統制主義的雰囲気の中で、知的分野は国家の自由でなすがままに据えられた。数学は著しい例外だった。数学は研究室または機器に依存せず、仲間のみに依存したから、政府の管理から比較的自由だった。この理由のため、活発な精神を持つ多くの若人達は他の分野よりも、この分野を追求した。米国では、多くの若人達が職業マーケットを見てキャリアを選ぶ。旧ソ連では、研究分野を選ぶ際に若人達は彼または彼女の個人的好みに従う傾向にあり、そして彼または彼女のスキルを使用して雇用を選ぶ。これはしばしば上手くいった。ケロシンカの卒業生達はいくつかの技術研究所で、また特殊な数学プログラムを持つ高校で職を見つけた。職業マーケットにおけるいくつかの余地は、また別のソビエト機関、"箱"と呼ばれる秘密調査機関によって彼等のために作られた。郵便局箱のアドレスのみ知られており、これらは軍事または国家機密の産業を扱っている研究室や学界部門だった。これらの部門の従業者は機密資料への簡単なアクセスを持っていたので、"非の打ち所が無い申請"より以下の誰も(ユダヤ人も含めて)が除外された。
しかし、政治的出来事がこれらの学生達の計画に追い付いたことを我々は知っている。ロシアのアカデミーは今や贅沢でなくとも研究するためにもっと開放されている場所であり、ソ連崩壊は世界中に数学者達をばら撒いて来ている。Kerosinshchiksのウェブページ6[訳注: 現在はウェブアドレス自体も残っていないようです]は卒業生の部分的リストを与えている。リストされている人々の半分より以上が技術分野において米国で働き、別の4分の1かそこらがイスラエルで、そしてもっと少数が他の西側諸国で働いている。リストされている卒業生の4分の1より以下が旧ソ連で働いている(この統計はウェブまたは電子メールのアクセスの困難さに多分影響されるけれども)。Kerosinshchiksの教育は彼等に大変役立っている。
そしてエディクは? 彼の本当の名前はエドワード・フレンケルであり、モスクワでの試験は彼の能力を示すことが出来なかった。多くのKerosinshchiksと同様に、彼は既に数学へ重要な寄与をしている。ケロシンカを卒業後、彼はハーバードで研究するたった3人のロシア人数学者達の一人として選ばれた。一年の研究の後、1991年に彼はそこでPh.D.を取得し、29歳でバークレーのカリフォルニア大学の学部において正教授になった。
フレンケルが有名なモスクワ数学サークルに参加する機会を持たなかった一方で、彼は妻のZvezdelina Stankova-フレンケル(彼女も才能豊かな数学者だ)のためにサポートとインスピレーションを与えている。彼女は才能ある若人のためにサンフランシスコ湾地域の数学サークルを創立した。これらのサークルのレギュラー講師陣の中には、Dmitri Fuchs彼自身のみならず、少なくとも一人のケロシンカ卒業生であるバークレーのAlexander Giventalがいる。
このストーリから我々は何を学べるのか? 数学史において非常に奇妙な名前を持つ脚注以上のものなのか? 他の国々における経験から教訓を得る際には慎重でなければならない。独創的プロセスは、我々の理解しない流儀における文化に対して高度に慎重さを要するらしい7
我々が特記出来る一つの事柄は、ソビエト数学の発展は米国とはきわめて異なる力によって導出されていることだ。米国の殆どの学問と同様に、米国の数学は主に発表によって導かれている。なるほど大学での在職権と昇進プロセスは発表する必要性で占められている。しかし、ソ連においては文化的及び政治的環境のデリケートな集まりが、数学を通しての連帯感に主として基づく数学的文化の開花を考慮に入れた。私はどこか他所で、その学科の才能ある学生達における、その影響を追跡したことがある8。ケロシンカのストーリはこの場面のもう一つ別の観点を与える。
共に数学をする喜びは旧ソ連において力強い推進力だった。この力を知ることで、例えば今まで我々の職業における進出比率が低い数学の学生達を含めるために、多分その力を利用出来る。また、いかなる学歴の出身であれ才能ある高校生及び学部学生を数学に引寄せるために、その力を利用出来る(それから多分、米国の大学の学部学生に大学院の数学研究に進むことをもっと奨励出来るだろう)。そして、若い教員達に対する思いやりは、彼等の非常に困難な生活を改善する方向へ行くかも知れぬ。
この記事の最初に引用されている言葉の中で、詩人ジェラード・マンリ・ホプキンスは、数学の楽しさよりも非常に広大なトピック、"神の偉大"について書いている。それでも、数学コミュニティは彼の言葉から学ぶかも知れない。ソビエト生活の厳しい環境の中で独創的衝動がはけ口を見つけるならば、我々も米国数学に寄与するためにその方法を見つけられるはずであろう。

著者の覚書: この記事に結実した研究に対して以下の人々の寄与を承認することは喜びである:
エドワード・フレンケル、Dmitri Fuchs、イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファント、Marina Kulakova、Leonid Levin、Maria Litvin、Yuri Litvin、Vladimir Retakh、Yuri Salkinder、Alexander Shen、Nina Shteingold

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あつくて寝られない時はhackしろ! 386BSD(98)はそうやってつくられましたよ? -- あるハッカー

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