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13607318 journal
数学

taro-nishinoの日記: 存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ

日記 by taro-nishino

この"私訳"シリーズにおいて、ブルバキについてはこれまでも"ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー"、"ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー"、"ニコラ・ブルバキと共に25年間 1949年–1973年"を紹介しました。それらは前から其々ピエール・カルティエ博士、故クロード・シュヴァレー博士、故アルマン・ボレル博士といったブルバキの中にいた人の観点からのものでした。更には、ブルバキの客分でもあったマイケル・アティヤ卿(私から言わせるとほぼブルバキの準メンバーです)の"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"、数学史家John McCleary博士の"ブルバキと代数トポロジー"を紹介しました。それらはブルバキの部外者からのものですが(アティヤ卿が本当に部外者なのかどうかの議論は置いといて)、自らがブルバキを見た体験もしくは克明な調査の結果でした。
以上の記事はすべて真正面からブルバキを論じており、そこにはアミール・D・アクゼル氏のような嘘まででっち上げてエンターテインメントを作る姿勢は皆無です(アクゼル氏に限らず、例えばサイモン・シン氏はでっち上げをしないけれども、調査と数学的知識が乏しいので結局嘘になってしまっている例があります。要は著書が日本語訳されているような人達は多かれ少なかれエンターテインメント性が入っています。つまり今日の日本人[勿論、専門家を除きます]の知的レベルに合っているわけです)。それは当たり前で、ブルバキの中の人、ブルバキから招聘される人、ブルバキを学問的に調査する人のものですから面白可笑しく論じることが出来ないのです。そんなことが出来るのはブルバキと全くの接点が無い人です。つまりは何のお声もかからない、ブルバキからすればどうでもいい人です。
では、部外者であっても編集者、もしくはメディアの立場から見たブルバキを論じたものとしてクラウディア・クラーク女史の"The Author Who Never Was: Nicolas Bourbaki"(PDF)を今回紹介します。クラーク女史はAMS(米国数学会)ではメディア担当編集者であり、サイエンスライターでもあります。大学、大学院と数学を修められ、数学に関してド素人ではありません。私もいくつかクラーク女史の著書をちらと眺めたことがありますが、印象ととして知ったかぶりに難しいことを決して書かないことです。そして何よりも出来る限りの資料を読んで、曖昧さを残さない姿勢に好感を持ちました。そんな人でなければAMSでの仕事を任せられるはずがありません。
いずれにせよ、その私訳を以下に載せておきます。例のごとく、参照文献へのインデックスはそのままですが、参照文献を省略しました。

[追記: 2018年5月29日]
これを読めば、旧版和訳の復刻などは馬鹿の戯言だと思うでしょう。もし、それでも旧版和訳の復刻認可を願い出るならブルバキ代理人(おそらく現在はシュプリンガー社だと思いますが)から「はぁ?」と怪訝そうな顔をされても致し方ないです。仮にそんなことがあれば、それこそ日本が後進国であると馬鹿にされますよ。

存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ
2005年 クラウディア・クラーク

"秘密結社"。これらの言葉は最近の2つのベストセラーThe DaVinci code 1Angels & Demons 2を思い出させるかも知れない。これらの本は古代社会の物語を語っているが、彼等自身と彼等の信念を守るために数学を使ってミステリーに隠されている。もっと最近の過去を調べるともう一つ別の秘密結社を見い出すだろうが、非常に異なるものだ。
1930年代の中頃に始まり、この秘密結社は数学者達の小さなグループ―1950年代の中頃において会員数は"約12人"3と見積もられている―から構成されている。彼等は数学解説書を書いたが、"それが無ければ数学は現在あるものと全く異なっているだろう"4。典型的なメンバーはエコール・ノルマル・シュペリウールの卒業生だったが、エコール・ノルマル・シュペリウールは一般的にフランスにおける大学教育の最も権威のある機関だ5。最も生産的な時にグループは年に一巻または二巻を書いた3。メンバー達は1994年の京都賞受賞のアンドレ・ヴェイユ―彼もグループの開祖だ―のような世紀の最も偉大な数学者達6の何人かを含んでいる。だが、正式なメンバーリストは発表されていない7。そして、古いメンバーがリタイアする時3に新しいメンバーが加わるのでグループはまだ存在している。彼等は彼等自身をニコラ・ブルバキと呼ぶ。
科学的刊行における原作者問題がずっと最近に注目8を受けたので、原作者に関するブルバキモデルは特に検討することが興味深く思われる。ブルバキとして有名な、この数学者達のグループは何だったのか、そしてどのように始まったのか? 何を達成し、どのように達成したのか? この特異な原作者構造が出版業者達との交流にどのように影響したのか? そして、誰が本に対する所有権を持ち、誰が印税を受け取ったのか? それらの質問に対する答えを探すうちに私はブルバキメンバーの説明を読み、元メンバー達とブルバキと仕事して来ている出版専門家達にインタビューして来ている。

開祖達と土台
1934年暮れのパリにおいて、エコール・ノルマル・シュペリウールで教育された若い数学教授達のグループがカフェで数学解説書を書くことを議論するために会合した。彼等のうちの一人が教えているコースに対するテキストを彼等が書こうとすることは異常だった。当時のフランスの大学の数学教授達はそれほど規則正しく9やっていた。だが、彼等がすぐに追求しようと決定したゴール―そして"約3年以内"10で完成するだろうという見積り―は本当に異常だった。
彼等のゴールは"現代数学全体に対する堅実な基礎を与える"11であろうÉléments de Mathématiqueと呼ばれる数学解説を書くことだった。単数形Mathématiqueの使用は数学全体の統一12に対するブルバキの信仰を反映した。つまり、彼等は"数学のすべての分野に共通な基礎概念を明らかにする"13ことを努めた。ギリシアの数学者ユークリッドの幾何学に関する古典的解説書Elements of Geometry 7のタイトルに関する洒落は彼等の数学概念が"数学の現在の重大事を扱うために啓発的で利便的であるのみならず、これが実のところ数学の進化における究極段階、この科学のいかなる発展によっても不変のままである"14ことを意味した。その結果は"万人のため"のテキストでなく、参考図書、数学"百科事典"3、専門家達のための"ツール"10を意図した。ブルバキは殆ど仮定せず一から始め、一歩一歩残りの証明を進めたものだ。この解説書においては他の(早期の)研究のみを論及した。読者は歴史的背景を説明する節を除いて"厳密に固定された論理的順序"4で巻を読むことになっていた12。ブルバキは既存の、しばしば不正確な言語の使用を避けるために、それ自身の用語と表記を作った4。ブルバキは"応用性の最も広くて可能な領域を得るために数学の各部分を出来るだけ一般化しようと努めた"3から、読者を助けるために何らかのヒューリスティックな注意は"非常に曖昧で不正確、少数の語で正確にすることは不可能"だということで提出された草稿から"ほぼ変わらず捨てられた"。結果の巻々は非常に抽象的だと考えられた12。しかし、それらは"補遺"―読者のために"素晴らしい"練習問題を含む節も入っていた4
状況を考えればブルバキのゴールは完全に筋が通っていた。第一次世界大戦後、フランス数学は悪くなった。つまり、研究をしていたであろう数学者達の全世代の大部分が戦争の間に殺された。その世代はまたブルバキが属していた世代を教え、指導していた。結局、ブルバキの開祖の一人は彼の世代が基礎数学概念を教えられることなくエコール・ノルマル・シュペリウールを卒業していたと注記した10。そして一般的に、フランスにおける数学の既存の学習は他の国々、例えばドイツで見られる"厳密"を欠いた。ドイツは"その当時に科学を支配"していた。つまり、"部分的に第一次世界大戦後の遺恨のため、科学機関にいる人々はドイツ流の科学的方法を受け入れる用意が無かった"7。後に"開祖達"15と呼ばれる、この若い男達のグループはそれを変えたものだ。
ブルバキは"権威に反対する若い人々のグループの反抗"として始まったので、メンバー達は彼等の評判を守り、彼等の仕事に著者達の名前の長いリストを付加することを避けたかった。それ故に彼等は彼等自身にペンネームを与えることを決定した。そして匿名性は"我々は我々がこの有名な本のシリーズの著者達であること知っているのであるから、ナイト、ヒーロー、チャンピオン、最善"である精神に対する代償の小さな対価だったと1955年から1983年までブルバキのメンバーであるピエール・カルティエはコメントした。"我々はほぼ完全なものを成し遂げることに誇りを持った。それが強い報酬だった"。そして"秘密結社"に属することはおそらく魅力的で"ロマンティック"な概念だったと彼は付け加えたが、憶測の話題だった一方で会員資格は全くの秘密ではなかったけれども7。ナンシーの町のブルバキ将軍の彫像におそらく基づいてメンバー達は名前にニコラ・ブルバキを選んだ。ナンシーでは多くのメンバー達が教えていた。"ニコラ"は聖二コラによる贈り物の到来をほのめかしているのかも知れない16
これらの"贈り物"を配布する実際のペースはメンバー達が最初に見積もったよりもずっと遅かった10。例えば、4年かかって単一の章からなる最初の巻が1939年にやっと刊行された15(自己完結ユニットとして意図された、その章は典型的に200から250ページの長さであり、"本"はしばしば一巻よりも多くからなっている。例えば、代数に関するブルバキの本Ⅱは10章を持ち、一巻よりも多くが刊行された)。遅延はブルバキの作業方法に関係している。彼等の共同作業の精神で、開祖達はどのメンバーも草稿に作用することを乞われると決めたが、それは"改訂"として知られる。引退した一人のメンバーは"最初の草稿はスペシャリストによって書かれたが、後のものを誰かが書くことを乞われるかも知れない"12と報告している。典型的にメンバーは年に3回会合―1回は2週間、2回は1週間―し、書き物はすべてのメンバーに声を出して読まれた。同じ共同精神で、全員が会合―これも"会議"として知られる―の間に意見を声を出して言うことが期待されたが、概してメンバー達は同時に自分達の意見を喚く混沌とした雰囲気となった。それは書き物の書直し、または完全な却下となった。非メンバーは彼が出席した最初の会合の光景を次のように要約した。"互いとは関係なく、二つまたは三つの独り言がトップボイスで叫ばれた"12
非メンバー? そう、妻達(すべてのメンバーは男だ7)と少数の他の部外者達がゲストかつアドバイザーとして招待された9。更に開祖達は、その分野の最も現在流布している研究をするという会員資格を維持する望みを反映してブルバキのメンバーは50歳までに引退するべきことを決定した10。従って、能力を持つ新しいメンバー―モルモットまたはテンジクネズミと呼ばれる―はブルバキの会合に招待された。彼が議論に参加するなら、後ろへ招かれ、結局メンバーとされるであろう10。数人の数学者達が初期世代に合流したものだ。第二次世界大戦後の数年間に"ミドル"と呼ばれる第二世代―概して開祖達の有望な学生達―がそのようにして選ばれたものだ7
会合の混沌―そして、すべての決定は満場一致であるという条件12―を考えると、何らかを出版することはもちろんのこと、一つの版にグループが賛同出来たことは驚異であるように思えるかも知れない。各章が数回の改訂を重ね、時には中間の草稿よりもオリジナルの草稿に近くなったことは事実である。しかし、メンバー達は議論が激しければ激しいほど、より実りがあったと言ったものだ。つまり、"本当に新しく画期的なアイデアは順序立った議論からよりも対決から発生するらしいということが根底の考えだった"と1949年から1973年までブルバキのメンバーであるアルマン・ボレルはコメントした。伝えられていることによれば、メンバー達は特に熱い議論の後で"l'esprit a soufflé"―"魂が息吹く"―と述べた12
他の、おそらくもっと世俗的な仕事も草稿を刊行作品にするために要求される。非メンバーは殆どいつも秘書として雇われ、その仕事はタイピング、書簡でメンバー達に通知する、ブルバキ"会議"を準備することを含む。ブルバキのメンバー達はグループを管理する、会合中の草稿の変更をノートする、最終原稿の書き上げまたはタイピングする、出版社と取引する、出版社の最終ゲラ刷りと組み見本を校正することのような仕事を実行する。遂には少数のメンバーが長年に渡ってグループの非公式の"科学的リーダー"だと見なされ、彼等は非公式にグループの数学的焦点を指導した7。アンドレ・ヴェイユが最初のそのようなリーダーであり、第三世代"若人"15のピエール・カルティエがもう一人のリーダーだった。
殆どのメンバー達が彼等の会員資格の間の部分的または全期間にそれらの仕事をせいぜい1つまたは2つを引き受けたけれども、少数のメンバー達は特に活動的だった。彼等は開祖ジャン・デュドネを含んでおり、彼は1950年代に引退した。いくつかの章を起草することの他に7、彼は"最終原稿、練習問題、全巻(約30巻)の印刷のための準備を担当した。その全巻は彼がメンバーだった期間とそれを少し超えた間に出版された"12。彼は出版社からの校正も読んだ7。その仕事のおかげで、一貫としたスタイル―それをデュドネは"ブルバキ用に採用した"―が彼のテニュアの間に本に課せられた12
ブルバキにとって本の中の言葉の明白な重要性のため、彼等のコントロールを維持することを許す出版社と仕事する必要があった。数学ジャーナルにいくつかの論文を発表した後に4、ブルバキは非常に高名な科学出版社エルマンを選び、エルマンはブルバキの解説書に対する権利を与えられた5
カルティエの言葉では、開祖ジャン・デュドネはブルバキの最初の長期間"マネージャー"だった。その資格において、デルサルトがエルマンと最初の契約に署名し、印税を受けた7

"黄金時代": 1950年代と1960年代
1930年代半ばの後でÉlémentsに関する作品が始まったけれども、ブルバキの作品の殆どが第二次世界大戦後まで出版が始まらず、1950年代と1960年代まで本気で出版されなかったものだ。何故か? 一つには、各章を書くプロセスが既に述べたように非常に時間を要した。更にメンバー達は戦争の間に作業を続け、デルサルトがやっとのことブルバキのメンバー達―暫くの間フランスから脱出を余儀なくされたり、または隠れていなければならなかった人々を含む―との通信を維持出来たのに、一巻も印刷出来なかった7
戦後、"十分な題材が完備し、次の2年間に渡って6巻または7巻を刊行出来た"とカルティエは述べ、ブルバキは再びÉlémentsを書き、出版することに集中出来た。これが余りにも巨大な仕事だったので、戦後の新しいブルバキのメンバー達の加入があっても、メンバー達は彼等に最も興味を持たせる議題について取り組むように容易に選べた。カルティエの言葉では、皆が"食うには十分"7だった。
そして、彼等は食った! 1950年代の終わりまでに、デュドネのように特に多作なメンバー達のものを含むブルバキの作業によって、基礎的題材に関する作品―本質的に修士号の数学学生が知りたがっている題材3―は"本質的に終了"したものだ12。1950年代と1960年代―カルティエによって"ブルバキの黄金時代"と呼ばれる―を通して、多くの作品が完成し、エルマンは年に1巻または2巻を新しく刊行したものだ。ブルバキの6つの基礎本を含む30冊以上だ。それは本Ⅰ、Théorie des Ensembles(集合論)と本Ⅱ、Algèbre(代数)を含む。同時に"すべての本は版を重ねた。それらは訂正され、質を高められ、改善された"7
巻々が刊行されるにつれて、それらは非常に人気となり―売り切れて増刷の刊行を要求される―、ブルバキは強い影響を持った7。数学者ラルフ・ボアズ・ジュニアはいくつかの理由を次のように述べた。ブルバキは"以前は散らばった論文の中でのみ入手可能だったトピックスの最初の系統だった説明を与え"、そのアプローチも純粋数学者達に特にアピールした。また、"数学者達はブルバキを読むためにブルバキの用語を学ぶ必要があったので、その用語は広く知られるようになり、研究の語彙の多くを変えてしまっている"16。1955年にブルバキに合流したカルティエは戦後に刊行された最初の巻でさえ"私の世代に様々なインパクトを与えた。それは私が本当に数学を学んだところだ。それらの巻々はブルバキの名声とブルバキのパワーを確立するのに大いに役立った。私の世代はブルバキの学問的パワーに魅了された。そして、他方でブルバキのメンバー達はフランスの学問的システムの中で非常に高い地位を勝取った非常に傑出した数学者達だった"7と述べた。
1950年代の初期においてさえ、Élémentsの売上からの印税はデルサルトの税金を増やすには十分に大きかった。何かがなされる必要があった。カルティエは半分冗談で"メンバー達が印税を分割する必要があるなら、喧嘩を始めるだろう。グループの平和を守るための一番いい方法は"非営利組織になることだった。ブルバキが秘書の給与、タイプライター(そして、結局コンピュータ)、メンバー達が年3回の会合に出席する全出費を含むグループの費用のために収益が使用されることを示す必要があった。そのようにしてAssociation des Collaborateurs de Nicolas Bourbaki(ニコラ・ブルバキの協力者協会)は少なくとも名目上で総裁、会計係、秘書を命じて公式事業体になった7
1960年代半ばにエルマンは英語の版権を米国の出版社アディソン-ウェスリーに売り、翻訳本の刊行のために手はずを整えた5。翻訳はロシア語、ドイツ語、スペイン語を含む他の言語でも出版されている。
ブルバキが請負っていた別の活動に関連して彼等も少数の他の出版社と一緒に働いたものだ。つまり、1948年の始めにブルバキは有名な年3回のSéminaire Nicolas Bourbaki(ブルバキセミナー)を始めた。"これらは国際的なコンファレンス"17であり、数学者達が彼等自身の最近の研究または他の数学者の最近の研究のどちらかを発表する。ブルバキがトピックスを選び17、報告書を刊行させている。1950年代には"論文の約半数がブルバキのメンバーによって書かれた"し、彼等の数人は"彼等の発見の一部分を、または後に本の中で出現するブルバキのアイデアの予備説明をセミナーシリーズで公開した"。今日、"まだ有名なシリーズだが、ブルバキと直接の関係を持たない人々によって通常書かれている"3とカルティエは述べている。セミナーの出版社はニューヨークのW A Benjamin, Inc、シュプリンガー出版社、フランス数学会を含む18
ブルバキが影響を持つようになった間にグループは"益々ペンネームの使用に関する彼等のジョークに夢中になり、しばしば人々にニコラ・ブルバキという名前の個人が実際におり、本を書いていると説得しようとしたらしい"。ラルフ・ボアズ・ジュニアが語る一つの物語はEncyclopaedia Britannicaの中の記事で彼がブルバキを"集団ペンネーム"と呼んだ時あたりだ。ブルバキはEncyclopaediaとボアズの両方に抗議の手紙を送った。後者に対してブルバキは"惨めな虫の貴殿よ、よくも図々しく私が存在しないと言えるな?"と要求した。ブルバキの存在問題を解決するための圧力に対する反響の中で、ボアズはEncyclopaedia Britannica編集者Walter Yustをアメリカ数学会の秘書J R Klineに差し向けた。Klineはアメリカ数学会における会員資格に対するブルバキからの初期の申し込みは個人ではないという理由で却下されたと述べた。後でボアズは"私はブルバキがボアズはMathematical Reviewsの編集者達の集団ペンネームに過ぎないという噂を広めようとしたことを聞かされた"16と述べた。

方針と出版社の変更
ブルバキの成功とユーモアのある妙ちきりんな行動の真っ只中で、深刻な問題が持ち上っていた。いったん6つの基礎本が1950年代に書上げられるとブルバキは次に何を書くべきか? カルティエは"先ず第一世代は無からプロジェクトを作らなければならなかった。彼等は方法を作る必要があった。それから40年代において、方法が明らかになりブルバキはどこへ行くべきか分かった。彼のゴールは数学のための基礎を与えることだった。何を含むべきかはだいたい明らかだった。第三世代はそれを越えなければならなかった"3とコメントした。引退したメンバーのボレルは数学が"様々に育って来た"と述べた。そしてブルバキの第一世代の引退があり、次世代は一つのトピックから次へと線型的のみに進めるような伝統を疑問視出来た。いくぶんブルバキの作品により啓発されて、ブルバキがまだ取組んでいなかったトピックスに関して良い題材が今や存在した。他の重要なものに関して書くことを延期して来た一方で、これらのトッピクスについてもブルバキは書くべきなのか? "2つの傾向、2つのアプローチが出現した。1つは自治的方法、つまりブルバキの伝統的方法で広大な基礎の構築を続けること。他はもっと実用的で、たとえ最も一般的なところで徹底的には設計されていなくても、私達が処理可能と思う値打ちのあるトピックスを取り掛かること"12
長い議論の後、メンバー達は彼等を前進させる決定に到達した―"ブルバキのアプローチが有用な解説を造れるかも知れないと彼等が思った"議題を追究するための十分な土台を敷設しよう。20年間、1960年代の初期に始まり、彼等はもう2つ別の本を、更に3つ目の本の2章を書いたものだ12
ブルバキが"前線により近い特殊化されたトピックスを処理すること"を始めたように、任意のメンバーが任意のトピックについて書けるべきであるという理想を維持することはもっと困難だった。"そのルールは始めのうちは厳格だったが、もっと緩やかになった"12けれども。ブルバキも非メンバー達の時折りの援助を受けた。少数の非メンバー達の寄与はそれが本の中でクレジットされるほどに十分に重要だったが、これは典型ではなかった7。1974年から1995年までブルバキのメンバーであるベルナール・テシエは、概して非メンバー達からの任意の援助―部分的な改訂を書くこと、または練習問題を示唆することを含む―は"感謝の印も無しに、良い理由のために友好的な助け。改訂を書いている過程のメンバー達は時折りそれを或るエキスパート見せて印象を聞いたものだ"19と認められていると述べた。カルティエの言葉では"メンバー達と非メンバー達の間の境は完全には定義されていなかった"7
カバーすべき新しいトピックスに関する決定に加えて、ブルバキは"もう一度Élémentsを改訂し、少なくとも15年間手を加えられないように'最終'版を刊行する"12ことを決定した。その結果、いくつかのトピックスは"発展し、深化させた"。いくつかの証明を改善し、いくつかの練習問題が追加され、小さな巻が"ブルバキの観点で明らかに間違っているものを正す"3企てで刊行された。ブルバキはまだÉléments de Mathématiqueの部分を改訂している20
その仕事が進行していた間に、ブルバキが長年維持して来た出版社エルマン21との良い関係が1970年代の半ばに印税と翻訳権3をめぐって結局は口論となった。ブルバキとエルマンの間の長期の法廷闘争(それは1980年に終わった)の後、ブルバキは彼等の作品のすべての所有権を、また売残り又は製本されていない巻をも取り戻した7。その時点でブルバキはフランスの出版社マッソンと一緒に働いたが、マッソンはブルバキが訴訟の間に取組んで来た5巻又は6巻とエルマンから返された巻を刊行した3。シュプリンガーは英語翻訳の出版社になった。ブルバキは新しい本または既存の本の新版に対する契約を"一つ一つ"出版社達と結ぶことを好んだから、再びエルマンに"体験に基づいて全てのシリーズに対する何らかの権利を与え"ないだろう5
後にカルティエはブルバキが将来方針を定めるのに捧げた時間とエルマンとの訴訟は"グループの勢いを鈍らせた"8と述べたが、彼は次のように根拠を挙げている。ブルバキの最新の作品―187ページからなっている―は1998年に刊行されたが、たった200部しか印刷されず、どのジャーナルにもリヴュされなかった。そして、その最新作の大部分が1980年代の初期に書かれていた! 現在、ブルバキの作品のフランス出版社は無い。最後の巻が刊行された同じ年にマッソンはもうこれ以上ブルバキの作品を刊行しないことを決定した。結局、マッソンによって刊行された27巻のうち10巻のみが現在のところ入手出来る7

ブルバキは70歳になる
引退したメンバーのアルマン・ボレルは1998年に"数学とその統一の大局的ビジョンの促進、解説のスタイル、記号の選択によって、数学に永続的なインパクトを持つことはブルバキによって十分に実行された"と述べた。これの一つの小さな尺度はブルバキの用語と記号のいくつかが標準的な数学記号になっていることだ。例えば、数学のコースで"集合"を習ったことを思い出すかも知れぬように、何も含まない集合に対するシンボルは∅である。それはブルバキによってノルウェー語のアルファベットから採用された22
現在はどうか? 早くも1980年代の半ば―ブルバキが50歳に近づいていた時―に一部がブルバキが引退すべき時だ7と示唆したけれども、たとえ皆が彼は大丈夫と思っていなくても彼はまだ生きている。
2004年の最近にシュプリンガーはブルバキの巻の英語訳を刊行した。しかし、シュプリンガーの編集者Byrneは最近15年に渡るブルバキ本の売上が下落し、本の値段の上昇を引き起こしていると述べている。2005年の早期時点で最近刊行されたハードカバーの巻が€106.95だ23[訳注: 1ユーロを大体130円と考えると高価格です]。Byrneの考えでは、売上の下落はブルバキのアプローチが"過ぎ去っている時代"を象徴しているからだ。数学のテキスト本では幾何的手法と直観的アプローチが人気になっており、ブルバキが無視した議題―確率論のような―が数学において非常に重要になっている5
活動は遠い過去でのように強烈でも多作でもないけれども、ブルバキはÉléments de Mathématiqueの改訂を続けている。ちょうど今、ブルバキ秘書のViviane Le Dretは"Algèbre、第8章の新しい完全改訂版がすぐに出現しようとしており、ニコラ・ブルバキはGeneral Topologyの第11章をひたむきに書直している"と報告している。加えて、フランス国立科学研究センターのArchives de la Création Mathématique研究ユニットが約200の改訂稿をスキャンしている20
終わりにあたって、70年間ブルバキは原作者に関する興味をそそるモデルを与えて来ている。その一つ、個人達が喜んで相当な時間とエネルギーを匿名で彼等が信じる大義に仲間の熱愛者達と一緒に働き、彼等自身の数学知識を広げ、深い思考と騒々しい議論に従事しながら捧げている。ブルバキに所属することから結局は来るであろう信望が付加的恩典だった。H Petard4やJohn Rainwater24を含む他の数学者グループも匿名的に一緒に活動して来ているが、数学におけるブルバキの作品とインパクトの重要性は唯一無二に見えるし、そのままかも知れない。ミシガン大学の副学部長であり数学教授のロバート・メギンソンはそんな努力に匿名で寄贈するブルバキのメンバー達の自発性は現在の文化において起こり得ず、現在の文化では個人達が彼等の研究を認めて欲しいし、職に対する競争のために研究を認められる必要があると言った25
ブルバキは成し遂げようとしたことをやって来ているのか? カルティエの言葉では"その最初に述べられたゴール、既存数学全体に対する基礎を与えることは達成された"3。だが、それを超えて"ブルバキはその夢のすべてを実現して来なかったし、その目標のすべてに全く近づいて来なかった"とボレルはコメントした。例えば"私達はもっと本を書いていたかも知れない。もっと言えば、おそろしいほど大量の未使用題材がブルバキのアーカイブにある"12。ブルバキにとって次は何か? モティベーションが続くのか、それとも新しいモティベーションがそれ自体を提起するのか? それらと他の問いに対する答えにかかわらず、ブルバキの作品に対する関心は続く。2000年2月にPour la Science(Scientific Americanのフランス語版)がそのシリーズLes Génies de la Science(科学の天分)の第2号をブルバキに捧げた26。そして誰が知ろう、この存在しなかった数学者がいずれ"彼の"100歳誕生日を祝うかも知れない。

参照
(略)[訳注: 原文で見て下さい]

13528232 journal
数学

taro-nishinoの日記: 第三帝国における数学出版: シュプリンガー出版社とドイツ数学者協会

日記 by taro-nishino

ナチ政権下でのドイツ数学界の崩壊については、これまでも"ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学"、"フランクフルト数学セミナーの歴史について"を紹介しました。
こういう惨状に至らしめたのは言うまでもなくナチなんですが、いつの時代でもどの国でも馬鹿共は必ず出現して繁栄し、それをまた馬鹿共が支持して世論を形成するという人間社会の構造的欠陥を今更とやかく言っても始まりません。問題は数学界にいる人々が政治的難題をどう考え、どう対応し、どう行動したかなんです。当時のドイツ数学界の状況を今から考えるとまともな人は海外移住するしか方法がなかったくらい馬鹿共が権勢を誇っていました。ヒルベルトがもう少し若くて元気であれば、もう少しソフトランディングを出来たかも知れないという非常に無責任な意見がありますが、そんな仮定上の話をしても仕方がないし、もう一人の力ではどうにもならないくらい当時のドイツ数学界は腐っていました。
その腐ったドイツ数学界で有名なのが誰もが知る、あの悪名高きルートヴィヒ・ビーベルバッハです。私はいつも言うのですが、どの分野でも超一流、一流は世界規模に視線を向けるが、二流、三流以下は国内にしか視線を向けません。ビーベルバッハは典型的な二流以下の人物です。それなりの数学貢献があると言う人もいますが、それを考慮してもビーベルバッハが仕出かしたことの重大性から見れば差し引きで完全に負しか残りません。ビーベルバッハは戦後に数学界から追放され失意の中で亡くなりました。
では、ビーベルバッハ以外の人物はどうなったか。それなりの罰則を受けた人が多い中で、うまく逃げ果せた人の代表例がヴィルヘルム・ジュースです。私や私の友人共よりも若い年齢の人達は無邪気にもジュースと言えばオーバーヴォルファッハ数学研究所を設立した人くらいの認識しかありません。そんなことでいいのかということで友人共の一人と相談して今回紹介するのはヴォルケル・レンメルト博士の Mathematical Publishing in the Third Reich: Springer-Verlag and the Deutsche Mathematiker-Vereinigung です。
私がこの論文を知ったのは2010年で全く偶然でした。当時私はラインホルト・レンメルト博士のグラウエルト博士との共著論文の一つを読んでいて、ある箇所で数学的事項ではなくドイツ語の表現の仕方に違和感を覚え、こんな表現が普通なのかどうかドイツ語圏内で検索を繰り返したところ、その論文に出会いました。一瞬、あれぇレンメルト博士は数学史の研究もしていたのかと思いましたが、よく調べるとヴォルケル・レンメルト博士はラインホルト・レンメルト博士の御子息です。それからは友人共や海外の友人達に読め読めとしつこく言った思い出があります。なおラインホルト・レンメルト博士は2016年3月9日にお亡くなりになりました。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
そのヴォルケル・レンメルト博士の論文の私訳を以下に載せておきます。例のごとく、注釈欄を省いていますが、インデックスはそのままです。

[追記: 2018年2月17日]
この論文はあくまでシュプリンガー関連のみを扱っています。ビーベルバッハやジュース等は他にも悪事をやりたい放題やりました。それらの詳細は、この論文の参考文献にも載せられている同博士の Mathematicians at war: Power Struggles in Nazi Germany's Mathematical Community:Gustav Doetsch And Wilhelm Süss (PDF)が詳しいです。
私がビーベルバッハやジュース等を許せないのは、彼等は数学をやっているのではなく、ヤクザ顔負けの脅し、陰謀、ナチ政権の忖度等を何の良心の呵責もなく平気でやっており、完全に数学者ではなく政治屋です。ここで政治家と言わないのは、政治家なら政治の舞台で正々堂々とやるべきなのに、それをやっていないからです。政治屋はそこらの総会屋と変わらないレベルの低い輩と言ってもいいでしょう。

第三帝国における数学出版: シュプリンガー出版社とドイツ数学者協会
2009年 ヴォルケル・レンメルト

1937年10月、フライブルクの数学者ヴィルヘルム・ジュース(1895-1958)がDeutsche Mathematiker-Vereinigung[訳注: ドイツ数学者協会](DMV)の総裁に選ばれた。DMV委員会のメンバー、ヘルムート・ハッセ、コンラッド・ミュラー、エマニュエル・シュペルナーが1937年8月に適格な候補者を探していた時、彼等はジュース支持論があることを知った。彼がDMV業務に関心を持っていることは知られていたし、DMV委員会での傾向、言い換えれば彼等自身のものと彼の見解が一致すると思った。彼はルートヴィヒ・ビーベルバッハ(1886-1982)の学生だった。ビーベルバッハは第三帝国においてDeutsche Mathematik[訳注: ドイツ人数学]という反ユダヤ主義の人種的理論をプロパガンダし、DMVに反対な国家社会主義者の数学者達のグループを率いていた。DMV委員会はジュースが元先生をDMVと和解させること、少なくともビーベルバッハの徒党からの政治的攻撃の脅威からDMV及びその政治的見解を守ることを出来るかも知れぬと願った。更にジュースは最近ナチ党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei[訳注: 国家社会主義ドイツ労働者党])のメンバーになっていたから、教育研究省と良い関係を持っていると思われた。従って、それが1937年10月にジュースの当選を賛同した。
ジュースは次第に第三帝国においてドイツの数学コミュニティの最も有力な代表者の一人になり、ナチ当局、特に教育研究省と親密に協力した。この協力中にDMVの専門家的ポリシーは、ナチ政府のまさに核心、特にその反ユダヤ主義と反国際主義に立つ問題と密接に絡み合った。教育研究省はこれらの価値観を科学の分野に伝えることに懸命だった。このプログラムにおけるDMVの協力、特にジュースの協力は(その結果は彼等のコントロールを超えていたが)、戦争の間の彼等の有力で成功した専門家的ポリシーの必要条件だった[10]。
DMV総裁の任期中(1945年まで続いたが)、ジュースは繰返しシュプリンガー出版社と対立した。シュプリンガーはドイツの最有力科学出版社の一つだが、その数学部門は世界中の名声を持っていた。第一次世界大戦後、シュプリンガーは数学において第一級の出版プログラムを始めるために傑出した数学者達を登用した。この事業においてフェリクス・クライン、ダフィット・ヒルベルト、リチャード・クーラントがゲッティンゲンの影響を意味した。シュプリンガーのイエロー本は最も遠い所にもすぐに知られ、どの数学者も逃れられないイエロー疫病とよくほのめかされた。DMV代表者としてのジュースとフェルディナント・シュプリンガー及び彼の数学的アドバイザーのフリードリッヒ・カール・シュミット(1901-1977)の間の衝突の多くの事例は国家社会主義のもとで科学出版の独立性がどのように動揺させられたかを実例で説明するのに都合がいい。

ジュースとMathematische Zeitschrift [訳注: 数学ジャーナルという意味ですが、固有名詞なので以降そのまま表記します]
1938年3月3日、ジュースはDMV総裁としてベルリンへ行きDames博士と会った。Damesは教育研究省において数学の責任者だった。ジュースはDMV委員会のメンバー、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でこの会合について報告した1。最初ジュースとDamesは1938年9月にバーデン=バーデンで催されるDMVの年次コンファレンスの編成を議論した。それから彼等は、ユダヤ人と亡命者のDMVメンバー("Judenfrage"[訳注: ユダヤ人問題という意味ですが、固有名詞化しているので以降そのまま表記します])を対処する方法、数学出版におけるユダヤ人数学者達の影響を制限する方法についてもっと政治的に関連する問題に関して話した。これらの問題の処理に対する管理に関する重要政治課題または何らかのルールを教育研究省は直接的に厳命しなかった。それどころかジュースはDMV委員会の支持を受けて、"Judenfrage"に関するDMVポリシーをまとめることに率先した。彼の動機の中には、専門的ロビー活動の手段としてのDMVの立場がルートヴィヒ・ビーベルバッハに反対の根拠を失うだろういう懸念があった。特にビーベルバッハと彼の徒党が国家社会主義者数学者連盟(NS-Mathematikerbund)を計画していたので、彼等の計画を公認するためにユダヤ人と亡命者のDMVメンバーの問題を明確に指し示し、実質的にドイツの数学コミュニティにおける分裂を脅していたからだ。ジュースは、Damesに数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に注意を促した時、Mathematische Annalen[訳注: 数学年報という意味ですが、まさか数学界にいる人でこのジャーナルの名前すら知らない人がいるとは思えませんし、固有名詞ですから以降そのまま表記します]とMathematische Zeitschrift(MZ)、両方ともシュプリンガー出版社により刊行されているが、両誌の編集委員会の状況に関する"個人的見解"をしたことを報告している。ユダヤ人達は発表をまだ許されているはずだけれども、ドイツのジャーナルはユダヤ人達によってこれ以上代行されるべきではないと彼は述べ、この問題に関する彼の立場はDamesに明らかであると希望した。これに対してDamesはシュプリンガーに圧力をかけることを約束したが、その結果著者達はユダヤ人編集者達ともう交渉する必要はないだろう。
これはハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でジュースが言ったことだけれども、Damesとの会話の中で彼は明らかにもっと明確になっていた。数日後彼がDamesへ手紙を書いた時、彼が思うシュプリンガー出版社における編集組織に関する問題に立ち戻った。彼はリチャード・クーラントの"イエローシリーズ" Grundlehren der mathematischen Wissenschaften in EinzeldarsteLLungen[訳注: 諸例における数理科学の基礎]のための段取りを述べた。"イエローシリーズ"ではF. K. シュミットが主任編集者、ユダヤ人亡命者クーラントが"アングロサクソン領域"のための編集者だった。彼はMathematische Annalenに対しても同様な段取りがなされていると判断した。Mathematische Annalenの編集長オットー・ブルメンタルはユダヤ人だった。ジュースによればシュプリンガーは英国で共同編集者を探していた。ジュースの見解は、"ドイツの名声"のために"我々のチャンピオンであるフェリクス・クラインによって創始された、この一流ジャーナル"2に影響を持っている外国人達を阻止すべくすべての手段が使用されるべきであるだった。既に起きている実例として、彼はZentralblatt Für Mathematik und ihre Grenzgebiete[訳注: 数学及びその周辺分野のための主要ジャーナル]を指し示した。このジャーナルは今や亡命者オットー・ノイゲバウアーによってコペンハーゲンから運営されていた。
MZに関してジュースによれば、事は良好だった。しかし、彼はDamesに頼んだこと、つまり教育研究省が"イサイ・シューア教授をMZ委員会から解任するよう出版社に命じること"を思い出させた3。彼自身はMZの編集長コンラート・クノップに問題を提起するだろうと付け加えて書いた。
1938年3月1日、つまりジュースのDamesとの会合の2日前、クノップはジュースに手紙を書き、MZの諮問委員会(wissenschaftlicher Beirat)に加わるよう招聘した。それはシュプリンガーの編集委員会をアーリア化しようとするジュースの努力をいくぶん曖昧に解明している4。クノップからもっと早期の招聘があったが、MZ委員会に2人のユダヤ人メンバー、エトムント・ランダウと先に言及したイサイ・シューア(1875-1941)がいたからジュースは辞退した。イサイ・シューアはクノップ、レオン・リヒテンシュタイン、エルハルト・シュミットと一緒に1918年のMZの共同創始者だった。エトムント・ランダウが1938年2月に亡くなり、状況を変えた。クノップがジュースに説明したように、これがクノップに改めて招聘させることとなった。ジュースがDamesにシューアをMZ委員会から解任せよと要求した時に、彼が3月3日までにクノップの2度目の招聘を既に読んでいたかどうかの推測は未解明だが、DMVのハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告の中で彼はシューアの問題に言及しなかったし、クノップへの返書の中でも言及しなかった。この返書の中でDamesとの会話を説明している。だが、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告で言ったこと及びDamesへの早期の手紙のそれと違うバージョンだ。クノップに対して、数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に関して指揮を執っているのは教育研究省だったと彼はほのめかし、教育研究省からはMZ委員会からシューアの排除があるだろうと聞いたと言っている。しかし、この行動の過程を明らかに要求していたのは彼自身だったことを言及していない。クノップへの手紙の中で描かれているように、ジュースの主な関心は彼がMZ委員会に合流するならシュプリンガーに関するDMVポリシーを実施するための彼の自由度に起こり得る制約だった。クノップは彼に、これは該当しないだろうこと、シューアに関してはクノップも数学ジャーナルにユダヤ人達が公式的にこれ以上参加することは実際的ではないと考えていたので、その問題に教育研究省が手を貸すことを歓迎するだろうことを言って安心させた5
4月Reichsschrifttumskammer[訳注: 第三帝国文学院](ゲッベルスの宣伝省の一部門であり、その役割はドイツのライターと出版社をコントロールすることだった)は、Mathematische AnnalenMZの委員会にまだユダヤ人編集者達がいるのなら理由をシュプリンガーから知ることを命じた。Reichsschrifttumskammerは特に教育研究省によって作られた質問に言及した。4月の終わりまでにシューアがMZ委員会を去らねばならないだろうことは明らかだった。クノップがこれをジュースに報告した時、MZ委員会へ合流の招聘は遂に了承された。シューアの名前は1939年のMZのタイトルページに現れず、彼は同年に移住した。
だが、これがシューアへの唯一の圧力ではなかった。1938年3月末、ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーにおいて、シューアを意味する"ユダヤ人達がまだ学界委員会のメンバーだということは驚く"と言っていた。数学者テオドール・ファーレン(1869-1945)は長年ナチ党員でビーベルバッハの盟友だったから、交代を要求していた。そして、マックス・プランクは問題を処理すると約束をしていた。一週間内にシューアは委員会を辞職していた[12, p. 122]。

Zeitschriftとシュミット事件
ユダヤ人数学者達とシュプリンガー出版社の間の関係に関するジュースの報告及び1938年3月のイサイ・シューアに関する告発が彼の数学出版への介入、特にシュプリンガーを攻撃する唯一の企てではなかった。
シュプリンガーがオットー・ノイゲバウアーとリチャード・クーラントの賛助のもとでZeitschriftを刊行したことで1931年にドイツの数学査読の分野に登場していた。始めからZeitschriftはベルリンのプロイセン科学アカデミーによって刊行された伝統的なJahrbuch über die Fortschritte der Mathematik[訳注: 数学の発展年鑑]と直接に競合した。Jahrbuchは査読において絶え間の無い遅れで悪名高かった一方で、Zeitschriftはもっと効率がいいことですぐに有名になった。1939年までにJahrbuchはルートヴィヒ・ビーベルバッハの絶え間の無いイデオロギー的干渉と付き合わなければならないでいた。ビーベルバッハはアカデミーのJahrbuchのスポークスマンとして就任していた。Zeitschriftもナチの人種的かつ国家主義的ポリシーに関する問題を抱えた。編集委員会に非アーリア人メンバー達がいた。つまり、例えばイタリア人数学者トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ。彼は1938年10月に追い出されなければならなかった。その編集長である亡命者オットー・ノイゲバウアーはレヴィ=チヴィタ事件の結果として1938年11月に辞職した。その上に、ジャーナルは国際的にふさわしいのが明らかだったので、1937年12月にシュミットはZeitschriftとの協力のせいで教授職に関する交渉において一人の数学者が嫌われてしまっているとシュプリンガーに報告していた6。これらの環境を考慮に入れると、それぞれの出版社de Grnyterとシュプリンガーの間に経済的競争が無く、Jahrbuch委員会におけるビーベルバッハとシュプリンガーの間のイデオロギーの不一致が無ければ、2つのジャーナルがある種の同盟を結んでいたことは妥当であったであろう。しかし、30年代の終わりまでZeitschriftJahrbuchの融合または少なくとも協力は議論された。
1938年末、新しいジャーナルMathematical Reviewsが米国においてアメリカ数学協会によって創刊されようとしているというニューズがドイツ数学コミュニティに広がった。当然これは、ナチ党員であるか否かを問わずドイツ人数学者達と出版社各社の間に騒動となった。1939年1月ビーベルバッハはde Grnyterとシュプリンガーに融合を考えるよう促し、手順に関する詳細な提案を作製さえもした。また1939年の始め、DMV、すなわち総裁ジュースがde Grnyterとシュプリンガーに融合させるために直接の圧力をかけようと努めた[12, pp. 167ff], [9, pp. 327-333]。
シュプリンガーが1939年の1月、遅くとも1939年3月に融合のアイデアを考えたと議論されて来ている[12, p. 168-170]。しかし、シュプリンガーは彼自身のプランを本当に持っていた。それは先ず米国人達と状況を議論し、出来ればZeitschriftMathematical Reviewsの協力をもたらすことだった。
フェルディナント・シュプリンガーは1938年12月にオズワルド・ヴェブレンとMathematical Reviewsの創刊を議論し、彼の数学査読における利益のために主要数学アドバイザーのシュミットを米国に送ることを提案した[9, p. 331]。ジュースはこれを聞き知り、すぐに教育研究省のDamesに、シュプリンガーが動機についてジュースに知らせない限りシュミットに旅行許可を与えないよう迫った7。ジュースはまたDamesに省とReichsschrifttumskammerの両方の上司にシュプリンガーの計画を知らせてはどうかと言った。シュプリンガーが米国に行くシュミットのために省の許可を獲得していることをジュースが4月に知った時、Damesの上司のKummer大臣に手紙を書き、再びシュミットの旅行に強く反対した。彼はJahrbuchZeitschriftの間の競合とそれらの融合に対するDMVの関心を指し示した。シュプリンガーのMathematical Reviewsとの接触が、実際に彼等がしたように、このアイデアに反して走るだろうという恐れをジュースは述べた。議論を強化するため、彼はZeitschriftを"ユダヤ人数学者達と彼等の友達のグループ"の組織として特徴づけ、シュプリンガーがまだ移住者達、特にリチャード・クーラントと近い結びつきを持っていると強調した。従って、"シュプリンガーのスポークスマンによってドイツの大義が米国においてともかくも表現されるだろう"ことは疑わしいとした。とうとう彼はシュミットが次週に米国へ旅立つつもりだから旅行許可を無効にしてはどうかと言った8
2日後の4月29日、ジュースはベルリンのKummer大臣に事はどうなっているか訊ねるために電話をした。Kummerがシュミットは既に旅立っていることを知らせた時、ジュースは彼の知識によればシュミットは船に乗るためブレーメンに向かう途中に過ぎず、船は米国から5月1日または2日に到着するはずなので、シュミットをまだ止められることを意味していると言った。Kummerはこれを取り上げなかったが、教育研究省の彼の上司がきっぱりとシュミットに行かせることを決定していると説明した。シュミットがZeitschrift問題を議論するのみならず、米国人数学者達の中の雰囲気を評価し、可能なら彼等の気持ちを和らげることになっていたからだった。この時点でジュースは腹を立て、これはシュミットにふさわしくない仕事であり、この特別な男を送ることはわざわざ災難を招く無謀なことをしているので、シュミットにこの任務を続けさせる前に信頼すべきソースに意見を求めて省はもっと上手くやれたであろうとKummerを厳しく叱責した9
米国から戻った後、シュミットは教育研究省にZeitschriftJahrbuchの融合を妨げるならば少なくとも何人かの米国人数学者達の協力が単に確保されるであろうことを確信させた。融合はアンチドイツ宣伝を育成し、Mathematical Reviewsの創刊を促進するだろうと彼は主張した。ドイツ外でのドイツ科学文献の状況を現状よりも困難にするべきでないことを考慮すれば、ZeitschriftJahrbuchの融合は"賢明"だとは考えられないという手紙を教育研究省が1939年7月末にシュプリンガーに書いたので、省はシュミットの報告に感銘を受けたようだ10
米国でのシュミットの活動が何であれ、アメリカ数学協会委員会は1939年5月にヴェブレンにMathematical Reviewsを創始し管理する依頼を決定した[9, 332f]。この言葉はすぐにドイツ数学コミュニティに届き、Mathematical Reviewsの創刊はまだ妨げられるであろうと報告していたシュミットは奇妙な立場に追いやられた。9月22日(宣戦布告の3週間後)の手紙の中で、ジュース(彼の計画に反して動いた7月の省の決定を聞き知ったばかりだったが)はシュミットが米国からの帰国の際に間違っている情報を与えていたことを非難した。Mathematical Reviewsの創刊と戦争の勃発はずいぶんと状況を変えてしまっていると彼は説明した。結果として、ZeitschriftJahrbuchの融合に関して米国と殆どの外国の立場を考える必要はもはやないと彼は判断した11
翌日の9月23日、ジュースはシュプリンガーとde Grnyterに融合を考えるよう最終通告を出した[12, p. 223]。ジュースの行動方針はビーベルバッハとファーレンにより認められた。ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーがプレプリントジャーナルを刊行することを決めており、プレプリントジャーナルはJahrbuchの査読の遅さに対する改善策を見つけるために最も最近の査読を含むことになっているとジュースへ手紙を書いた。de Grnyterはこのプランに同意していたが、戦争とそれに続く紙不足がそれを引き延ばしていた。他方、シュプリンガーは同意していなかった。融合に対する彼の反感は7月から省の手紙によって後退していたが、ビーベルバッハによれば、その反感はずっと前に知られていた。戦争が環境を変えてしまったので、今やビーベルバッハは献身的なナチ党員Harald Geppertを編集長とする融合のアイデアを更に追求すること、そしてプレプリントジャーナルのタイトルにZeitschriftの名前を加えることを提案した12
一方シュプリンガーはジュースの最終通告(10月3日をデッドラインとして設定されていた)10月4日に回答した。彼は最終通告に結合されている質問に答えられないこと、ジュースの手紙はジュースが出版ビジネスの不十分な知識しか持っていないこと示していると説明した。省の立場が変わってしまっているのかどうか知らない限り(7月の手紙をほのめかしている)融合を議論するのを辞退した13
ジュースが教育研究省でZeitschriftJahrbuchについて話したかった時、科学的出版の数を維持するための宣伝手法として戦時中に科学ジャーナルの融合すべてを外務省が禁じていることを知らされた14。このようにZeitschriftJahrbuchの実際の融合は、戦争の勃発とMathematical Reviewsの創刊の後の新しい状況にもかかわらず、問題外だった。しかし、ビーベルバッハが提案していた線に沿ってZeitschriftJahrbuchの協力を引き起こすことを決定し、それをジュースもGeppertと議論していた。査読方針はZeitschriftに関するスピードとJahrbuchに関する完全性だった。11月15日にビーベルバッハ、Geppert、シュミット、シュプリンガー、de Gruyterの代理人はベルリンで会合し、Geppertを編集長としてベルリンに置かれる統合編集部(Generalredaktion)のもとでのZeitschriftJahrbuchの再編成に賛同することとなった[12, pp. 224-226]。それはDMV、ジュース、ビーベルバッハが願っていた融合に近かった。

数学ジャーナルの再編成
出版社としてシュプリンガーの独立性はZeitschriftとシュミット事件によってのみならず、全体として数学ジャーナルのシステムを再編成しようとするジュースの意図によっても脅かされていた。
ナチ党が政権を取ってから、ナチ党が考えたように数学ジャーナルの断片化を終わらせるため数学ジャーナルの数を減らそうという議論が既にあったが、特別なことは何もなされていなかった[3, p. 418]。特に、物理学者でノーベル賞受賞者(1919)のヨハネス・シュタルクは、1930年にナチ党に入党しフィリップ・レーナルトと共にドイツ人物理学運動を支持していたが、1933年の秋に統合編集部(Neuordnung des physikalischen Schrifltums)のもとでの物理学における科学文献の再編成を空しくも呼びかけていた[11, 329-331]。
おそらく1939年の春、ビーベルバッハは科学ジャーナルのシステムを再編成する方法(1933年のジュースのプランを大いに思い出させる)に関する詳細な提案を作り、そのコピーをジュースに送った15。彼はアイデアを実例で説明するために数学ジャーナルを選んだ。彼は、早期には断片と考えられていたもの、すなわち数学の特定分野に属する論文が5つほどのジャーナルよりも多くのジャーナルに散在し、その分野に関心を持つ科学者達にとっても役立たず、編集部にとっても役立っていないことを遺憾に思った。更に、これは個人予約が稀であるという負の経済効果を持った。ビーベルバッハの再編成に関する提案(ついでながら、それはZeitschriftJahrbuchを含んでいる)はついにDMVを監督者とする中央的にジャーナルを管理するアイデアになった。
ジュースはビーベルバッハの首唱に賛成だった。彼も1939年11月にZeitschriftJahrbuchを議論するため教育研究省でKummer大臣に会った時、数学ジャーナル作製の可能な再構築について話した16。科学ジャーナルの融合に反対の外務省の命令にもかかわらず、Kummerとジュースは新しい編成原理、すなわち数学ジャーナルは特化すべきであることを議論した。これは広く数学的多様性を持つ伝統的なジャーナル、例えばJournal für die reine und angewandte Mathematik[訳注: 純粋及び応用数学のためのジャーナル](Crelle's Journal)、Mathematische AnnalenMathematische Zeitschriftを終わらせていただろう。ビーベルバッハはCrelle's Journalは代数学と数論に、Mathematische Annalenは解析学に、Mathematische Zeitschriftは幾何学に特化してはどうかと言っていた。ジュースは即このアイデアを追求し、編集長達と交渉すると決めていた17Crelle's Journalの編集長ハッセはビーベルバッハのアイデアに共感し、"ビーベルバッハにはいつものことだが、ちょっと激しい"けれども"素晴らしくて健康的だ"と考えた。だが、言い訳して時間を稼ぐらしくプランは"実際に実現することは難しいだろう"と指摘した18
ジュースはまたMathematische Annalenの編集長ハインリヒ・ベーンケとそのジャーナルの宿命を議論した。しかし、ベーンケは"ドイツ数学ジャーナルの望ましい再編成を理論的に議論"を進んでやる心構えだったけれども、ビーベルバッハとジュースのプランにさほど熱中しなかった。彼はジュースにAnnalen委員会においてエーリッヒ・ヘッケとB. L. ファン・デル・ヴェルデンが先任であり、彼等はジュースのプランに決して同意しないだろうことを思い出せた。DMV委員会メンバーのエマニュエル・シュペルナーは個人的にプランをシュプリンガーに話したが、シュプリンガーは予想される再編成と一出版業者としての彼の独立性への干渉について議論することを拒否した19。しかし、これらの大望が何であれ、結局彼等は戦争進行の間妨害された。
ジュースとDMVの数学出版及び数学査読のアイデア、イデオロギー的背景についてもっと多くのことを述べることが出来るが、彼等は単に見解としてこれらのアイデアを持つことで満足せず、数学査読及び出版の支配力を獲得するために、それらのアイデアを積極的に追求しようと決心したことは明らかだ。これに対して、シュプリンガー出版社はユダヤ人数学者達及び国際的な数学コミュニティとの近い関係、そしてフェルディナント・シュプリンガー自身にユダヤ人先祖がいたという事実のため奇妙な立場にいた[11]。従ってDMVとジュースは大ぴっらにシュプリンガーのポリシー及び彼の代理人シュミットに反対出来ただけでなく、シュプリンガーの編集組織に関するジュースの振舞い、例えば彼の1938年のシューアへの告発、乗船するために既にブレーメンに向かっていた後で米国へ旅行中のシュミットを止めようとしたこと(この場合は不成功だが)に見られるように、やがて政権が提案することに頼れた。
DMVの専門家的ポリシーは実のところナチ国家の中核に立つ問題と密接に絡み合っていた。つまり、その反ユダヤ主義、反国際主義、自給自足経済。教育研究省の目的はこれらの問題を科学の全範囲に伝道することであった。その究極的な結果は彼等のコントロールを超えたけれども、このプログラムにおけるDMV委員会、特にジュースの協力は戦争の間彼等の影響力と彼等のポリシーの成功によって報われた[10]。

第二次世界大戦中の対立
1941年末、物理学者ヨハンネス・ラッシュ博士は2つの覚書を第三帝国研究評議会(Reichs-forschungsrat)に送った。第三帝国研究評議会はドイツの科学研究の組織を担当する政府機関だった。ラッシュはジーメンス・ウント・ハルスケ会社の技師だが、工業における物理学者達と技師達が使用するための数学参考文献の不足について不平を述べた。彼は他の国々、特に米国におけるより良い状況を指摘した[7, pp. l15f]。ラッシュの覚書はすぐに反応され、1942年の始めに第三帝国研究評議会は利害関係のある人達のために主要な数学参考文献と文献を獲得するためのプログラムを始めた。これらの作業の殆どが、それらを作製するために特別に任命されている数学者達に割当てられ、刊行プログラムはジュースに任された。ずっと前の年々にジュースは繰返し第三帝国研究評議会にもっと数学に興味を持って貰い、特に数学の特定部門を設立して貰おうと頑張っていたが、いつも空しく終わっていた。その特定部門は物理学部門を通して評議会に代表しているのに過ぎなかった。ラッシュの首唱は"第三帝国研究評議会とDMVの実際的な連絡"を引き起こす歓迎すべき機会を与えていたから、当然ジュースはこの突然のチャンスから"数学の地位のために"利益を得ようと努めた20
しかし、ジュースは第三帝国研究評議会からの公務を持たなかったけれども、それを実行するための十分な資金援助をまだ持っていなかった。彼はヘルマン・ゲーリングの強力な航空省とそのリソースの関心をプログラムに向けようと頑張ったが、問題が発生した。航空省のForschungsführung[訳注: 研究管理]において、数学に関係する問題はフライブルクの数学者グスタフ・デッチュ(1892-1977)の責任下だった。デッチュは工学の要求、特に航空産業による定式化を密接に研究したが、小規模と言えども同様の刊行プログラムを既に始めていた。彼は彼自身でラプラス変換に関する本を作業していた[10]。それにもかかわらず、彼等は1942年の9月に各々のアイデアを議論するために会合した。この会合においてジュースは最近再編成された第三帝国研究評議会から今や資金を集め終わったから、自身のプログラムを扱えるだろうと公表した。それにもかかわらず、彼等は彼等のやっていることを調整することに少なくとも賛同したが、その意味で彼等の活動は戦争の残りの年々の間共存した。ジュースのプログラムは明らかにもっと野心的なものだったし、プロジェクトの数、印刷されたモノグラフまたは戦争終結までに印刷準備完了のモノグラフの数の観点からももっと成功した[7, p. 115]。
デッチュとジュースの数学出版における張り合いは彼等の出版社の選択によって反映された。デッチュは彼自身の出版社のシュプリンガーと協力するつもりだったし、一方ジュースはベーンケの提案に従って、ゲオルク・ファイグル(1890-1945)がシュプリンガーとも交渉してくれと頼んでいたけれども、ライプツィヒにあるAkademische Verlagsgesellschaftと作業を始めた。デッチュの方では1942年10月にシュプリンガーを訪ね、シュプリンガーのいくつかのプロジェクトが彼自身のプログラムに完全になじむことを発見した。そのプログラムはウィルヘルム・マグナスによる公式集、ウィルヘルム・マグナスによる楕円函数に関する本、アルバート・ベッツによる等角写像論に関する本、ゲオルク・ファイグルとエルハルト・シュミットによる実函数による展開に関する本、Walther Meyer zur Capellenによる積分表。マグナスの公式集は1943年に出版され[4]、シュプリンガーは結局ベッツ、マグナス、Meyer zur Capellenによる本を戦後の数年に出版した[1], [5], [8]。その間に、ジュースは1944年に依頼した作品のリストにマグナスのモノグラフ[5]とファイグル/シュミットのモノグラフを含めた。後者は出版されることはなかった。
シュプリンガーの数学アドバイザーのシュミットはデッチュとジュースの間の競争をよく知っていたし、それらに関する彼の見解に非常な自信を持った。ジュースは数学出版に対する遠大なプランを全く人に話さなかったが、それはシュミットを特にシュプリンガーの出版ポリシーの独立性に関して心配させた。これらの恐れに加えて、シュミットはデッチュをジュースよりも実際的で能率的だと考えた。だから、いずれにせよ選択があるならシュミットはデッチュをシュプリンガーにとって良きパートナーだと信じた21。だが、シュミットは明らかにジュースが強い立場にあり、デッチュが彼に対抗してシュプリンガーのサポートを必要とするだろうと認めた22
1943年の始め、デッチュのForschungsführungにおける影響が劇的に減少し、ジュースが数学モノグラフの依頼の実際的な独占を獲得した[10]。詳細なトピックに関して数学者達による同時作業が戦争中には事実上不可能だった(直接の競合の可能性を否定した)という理由でシュプリンガーは数学分野での彼等の支配が崩壊するかも知れないという危険を考えた。従ってシュミットはジュースの活動に構わず戦後に可能性のある著者達と交渉することになった23。9月までにシュミットはシュプリンガーの将来についていっそう楽観的になった。航空省はウォルター・ブローデル、Gerhard Damköhler、エーベルハルト・ホップの3つの計画されたモノグラフを戦争努力に重要であると認めていた。それは著者達にそれらの研究を始めることを許可した。ジュースがヴュルツブルクでのDMV会合で刊行プログラムに関する報告をしていた時に、彼がもっぱらAkademische Verlagsgesellschaftと作業することになっているのは明らかだったようだ。シュミットはジュースのプロジェクトが戦後ほとんど存在意義を無くす印象を受けた。従ってシュミットは再びシュプリンガーに長期間その地位を防衛するために戦後のためのプランに専念するように提案した24
1938年以降ジュースの数学出版のシステムへ干渉する様々な企てはどういうわけか計画経済を引き起こそうとする試みに似た。DMVは数学での専門家的影響全体の絶対的なセンターになっていた。彼は1941年4月のゲオルク・ファイグルへの手紙の中でで、これを完全に明らかにした。すなわち"もっぱらDMVのために数学に対するすべての権利と責任を獲得する帝国主義的な目標を私は持っている"25。当然この野心的な目標は航空省でのデッチュの影響力のある地位と両立しなかった。しかし、刊行プログラムの取った進路はデッチュの悪化している勢力基盤とジュースの外見上は期待の新星の紛れもない兆候だった。1944年の2月ジュースはゲッベルスの宣伝省とシュペールの軍需省のための"数学出版に対する公式検閲官"にもなった26。これは数学作品を印刷するための申請すべてが彼の承認を必要とすることを意味し、数学出版における彼の影響はいっそう増加した。

戦後のシュプリンガーとジュース
1946年6月、ゲオルク・ファイグルの未亡人マリア・ファイグルはジュースがファイグルの本について質問して来ているとシュミットへ手紙を書いた。とりわけジュースは彼女がシュプリンガーと契約するのか知りたかった。ジュースは彼女に彼自身がモノグラフのシリーズを刊行しようとしているところであり、その中にファイグルの本が立派に含まれるだろうと言った。このシリーズはStudia Mathematicaとして実現し、ゲッティンゲンにあるVandenhoeck & Ruprechtによって刊行された。
シュミットは彼を教授職として考えているミュンスター大学に推薦状を送ることを依頼するため7月にシュプリンガーへ手紙を書いた時、マリア・ファイグルの手紙の写しを同封した。新しい戦後の政治的状況において、彼のナチ時代の態度をはっきりさせることが明らかに重要だった。シュミットは彼が1938年の末までユダヤ人数学者達と協力したことは知られており、1939年5月の彼の米国への旅行は非常に反対されたことをシュプリンガーが言及してはどうかと言った27。ミュンスター大学への推薦状の手紙の中で、フェルディナント・シュプリンガー(シュプリンガー出版社からファイグルの本をおびき出すジュースの企てに酷くいらついていた)はシュミットのアウトラインに従ったが、シュミットが当事者としてのジュースに言及しなかったのにシュプリンガーは言及した28
9月に、そのストーリーはフライブルク大学の学長に届いた。ジュースは戦後フライブルクで大いに敬意を払われており、1945年の夏に2か月間の教授職を一時停止させたばかりだったので、学長はすぐにシュプリンガーに詳細を要求した29。非ナチ化の間にジュースへクレジットされた多くの"良い行為"にもかかわらず、彼のナチとの協力の範囲が一般的にフライブルクでも数学コミュニティにおいても知られていないことが彼にとって特別に重要であり、もちろん十分だった。それらの人々の殆どがこれらの事柄をたとえ知っていたかも知れないとしても、それらを暴露することに興味を持たなかった。
シュプリンガーはフライブルク大学の学長であるアーサー・オールゲアーへ10月に返答し、1939年に米国への道中でシュミットを逮捕しようとしていたこと、教育研究省においてシュプリンガーをユダヤ人移住者達、特にリチャード・クーラントとの接触のために公然と非難したことを申し立てた。シュミットもオールゲアーへ手紙を書き、以下のことを言った。シュプリンガーの共同経営者Tönjes Langeが教育研究省から旅行許可を確保しようと頑張った時に、Kummer大臣が彼にジュースは彼がまだユダヤ人移住者達と近い関係にあるので旅行に強く反対していること、そしてジュースは自身が代わりに米国に行くのはどうかと言っていることを話した30。ジュースはシュプリンガーとシュミットが告発している彼の責任すべてを否定した。彼はフライブルク非ナチ化委員会(Selbstreinigungsausschuβ)によって尋問されたが、完全に容疑は晴れた31。1938年末のJahrbuchZeitschriftの融合の議論に先立って、教育研究省においてシュプリンガーを言及したことはないと彼は証言した。そして更にジュースはKummerをシュプリンガーの味方として特徴づけたが、従って何ら証明も無く信頼出来ない目撃者として。当然彼はDamesとの会合または1938年3月のシューアに関する公然の非難についての情報を自ら進んで申し立てしなかった。
シュプリンガーは1月末に手紙でジュースの容疑が晴れたことを知らされた。手紙に同封されたのは非ナチ化委員会の報告の写しだったが、それはシュプリンガー自身が事実をわい曲したことを暗示した。シュプリンガーはきっぱりと否認したが、彼の抗議から何も生じなかった32
戦後の年々にシュプリンガーとジュースの間の関係が改善する兆しは無かった。1946年の夏、ジュースは新しい数学ジャーナルを刊行するプランを追求した。そのジャーナルはMathematisches Forschungsinstitut Oberwolfach[訳注: オーバーヴォルファッハ数学研究所]によって編集されることになった。Mathematisches Forschungsinstitut Oberwolfachは1944年末にジュースが設立していた。シュミットとシュプリンガーは新しいジャーナルをMZに対する公然たる競合相手と考えた。ジュースが適切な出版社を探した時、友人達は彼にシュプリンガーと交渉せよとしつこく言った。ジュースは明らかにシュプリンガーと交渉したくなかった。新しいジャーナルは結局1948年にArchiv der Mathematik[訳注: 数学アーカイブ]というタイトルのもとで出現したが、カールスルーエにあるVerlag Braunによって刊行された。そして、1952年にバーゼルにあるビルクホイザーに引き継がれた。

結語
ナチドイツにおける数学と数学者達の歴史は、ビーベルバッハとDeutsche Mathematikまたはゲッチンゲンの数学的伝統の廃止によって例証される極端な状態の歴史としてよく強調される。しかし、どれほど重苦しくても、これらの現象はよく目立つ現象に過ぎない。他方、科学出版におけるシュプリンガーの独立性に対する脅威は、一般的に大衆からは見えなかったし、公式指図からの結果にもならなかった。むしろ、その脅威はナチ党と政府官僚の毎日の協力から生じた。どんなに動機づけられても、この協力はナチ官僚主義の目的と機能にとって本質的だった。この観点から、シュプリンガー出版社とジュースとDMVでの彼の同僚の間の対立のストーリーは過ぎて行く歴史的詳細の単なる珍しいコレクションではなく、数学者達の専門家的ポリシーとナチのポリシーがどのように実際に相互作用したのかを実例で説明しているのである。

参考文献
(略)

13518108 journal
数学

taro-nishinoの日記: 志村五郎博士著"The Map of My Life"より重要資料の手紙三編

日記 by taro-nishino

巷では志村博士のThe Map of My Lifeと"記憶の切繪図"が同じだと思っている人が非常に多いです。もちろん本文は英語と日本語の表現の差はあれど内容自体はほぼ同じです。逆に食い違っていたら、それこそ問題でしょう。決定的な差は付録部分にあります。The Map of My Lifeの付録には、いわゆる志村予想の背景を示す重要資料になるであろう手紙が三編も収められており、数学界にいる人はそこに注目したはずです。一方"記憶の切繪図"の付録には一般人向けに志村博士が日本語で書いたエッセイが収められています。この差は大きいと思います。何故そうなったのか、常識があればすぐに分かります。The Map of My Lifeはあの世界に冠たるシュプリンガー社本体から、"記憶の切繪図"は日本の筑摩書房から出版されています。つまり、想定している読者層が違うのです。一方が数学者達も含めた世界中の人々、他方が日本の一般人を対象にしているのです。だから本の内容全体に差が出て当たり前なんです。その決定的な差を殆どの日本人(もちろん専門家を除きます。以降いちいち断わりを入れません)は理解していません。いや、むしろ事実を直視したくないとも私には思えます。
そこで志村予想の背景を示す手紙三編を今回紹介します。何故あの予想を志村予想と呼ぶのか、そしてそう呼ぶのが一番正確であり、そう呼ばれるべきかについてはサージ・ラング博士の調査報告とも言ってよい"志村-谷山予想の或る由来"を参照して下さい。または、数学的議論抜きであれば"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"の前置き及び追記の中を読んで下さい。但し、保型形式とモジュラ形式の違いも知らない人は読んでも時間の無駄でしょう。
さて手紙三編の内訳ですが、一通がフェイドゥーン・シャヒーディ博士宛、残りの二通がリチャード・テイラー博士宛です。これらの手紙三編は現代数学史研究に欠くことの出来ない資料だと思います。実を言えば、これらの三編は部分的に先ほどの"志村-谷山予想の或る由来"で引用されています。そして、これまた嫌味に聞こえるかも知れませんが、リチャード・テイラー博士の名前も初耳の人は時間の無駄ですから以降を読まない方がいいでしょう。
これらの手紙の私訳を以下に載せておきます。なお、今回原文へのリンクは(当たり前ですが)ありません。原文に興味のある人は是非ともThe Map of My Lifeを購入して下さい。

[追記: 2018年2月3日]
The Map of My Lifeの付録にはそもそも何が収められているのか。タイトルだけを和訳せずに列挙しますと、That Conjecture、A Letter to Freydoon Shahidi、Two Letters to Richard Taylor、Response、André Weil as I Knew Himの5編です。
そのうちで最後の"André Weil as I Knew Him"については、既にこの"私訳"シリーズで紹介しており、"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"を参照して下さい。
ところで、海外の知人がThe Map of My Lifeを読み、既に日本語版である"記憶の切繪図"が出版されていることを知りました。しかし、知人はThe Map of My Lifeの付録も全部含めて志村博士が自ら日本語に書直したのが"記憶の切繪図"なのか疑問に思い、私に問い合わせて来ました。そこで、まあ本文は表現の差があれどほぼ同じだが、付録部が全く違うこと、だから本全体として別物で、全く違う本と考えるべきだと伝えました。その過程で日米の(いや、日本と世界の、と言うべきでしょうが)読者層の違い、出版社の規模等を議論しましたが、私は日本人の視野の狭さ、つまり思い込みの強さ、書くリヴュの無責任さを取り上げ以下のことを知人に書きました。日本語の壁に隠れて好き放題に喚いている卑怯者の輩の仲間に入りたくないので、私の書いたものを世界の誰もが読めるようにさらけ出しておきます。

By way of a bit of advice for the Japanese hoi polloi.
I wrote a review on "The Map of My Life" long ago. Should you be interested in my review written in Amazon Japan, please feel free to look at it.
As you know, apparently most Japanese think that "The Map of My Life" is just a translation of the Japanese edition "記憶の切繪図," which you may take as the Japanese pronunciation "Kioku no Kiri-ezu," and that so they don't in the least need to read the former. I cannot help saying that how stupid they are. Actually all the content of the former is a good deal different from that of the latter.
Now let me show you the difference between both books. First of all, the number of mathematicians appearing in the former is a good deal greater than that of the latter. Secondly, the former appends valuable documents which tell a story of the Shimura conjecture, not the Taniyama-Shimura conjecture. Note in passing that Taniyama didn't conjecture the modularity at all, more's the pity.
Besides, there are such exemplifications here and there. I guess that Professor Shimura first wrote the former in English, and that he wrote the latter in Japanese, especially for the Japanese public, omitting some of topics of the former; then it doesn't matter whether the former was really published earlier than the latter.
In short, shouldn't you be a layperson, you might want to read "The Map of My Life."
Last but not least, I'd like to write why I write even reviews of Japanese books, in English. Do you really think the people who use Amazon Japan, say, are confined to the Japanese? That is never the case. I really know some foreigners using there, if not many, though most of them live in Japan but they don't always understand Japanese.
From an international point of view, writing reviews in Japanese, especially if there's severe criticism in reviews, is obviously ugly. For example, imagine when reviewers criticize the authors of Japanese translations, and the authors don't understand Japanese at all. How far strange! To put it bluntly, such reviewers hide themselves behind what I call a Japanese language barrier. In other words, they must be cowards.
Thus you must use such languages as people of normal intelligence, worldwide understand, if you want to criticize someone. Otherwise, you aren't qualified to review.

フェイドゥーン・シャヒーディへの手紙(志村五郎博士著The Map of My Life p. 174-175)

                                 1986年9月16日
シャヒーディ様
1967年に知られていたことに関して貴方がよく分かっていないことを当然だと思うべきだったと今悟っている。だから、いろいろな事柄について私にもっと詳しく説明させて欲しい。

1962-64年に高等研究所のメンバーによって開かれたパーティーで、セールが私のところに来て、モジュラ曲線に関する私の結果(下を参照のこと)がQ上の任意の楕円曲線に適用しないから、それらの結果はそれほど良くないと言った。そんな曲線は必ずモジュラ曲線のヤコビアンの商に違いないと信じると私は応答した。セールはそこにいなかったヴェイユにこれを言った。数日後、ヴェイユは私に本当にその声明を言ったのか訊ねた。"はい、筋が通っていると思いませんか?"と私は言った。その時に彼は"両方の集合が可算だから... ..."と言ったが、彼の全集の第Ⅲ巻の450ページ目にそれをフランス語に翻訳している。
454ページ目において彼はいくぶん予想を立てる考えに反対である。この理由のため、私が予想を述べていることを直接的に言うことを避けたと私は思う。
モジュラと他の曲線について言えば、アイヒラーの1954年の論文と私の3つの論文、J. Math. Soc. Japan vol. 10 (1958), 1–28; vol. 13 (1961), 275–331; Ann. of Math. 85 (1967), 58–159.に言及させて欲しい。
これらの論文の中で、"数論的商(特にモジュラ)の曲線"のゼータ函数が解析的接続を持つことが示されている。その商に関する結果は明示的に言及されていないが、代数的対応のようにヘッケのオペレーターがQ上または妥当な数体上で定義されている事実の易しい結果である。
私がセールと話した時にこの事実を意識した。もっとはっきり言えば、多分1965年に私はそれに関してヴェイユに話した。彼の論文[1967a]の最後で彼はそれを言及している。すなわち、"志村五郎の話によれば..."。当時私は彼に、そこで言及されている曲線C´ のゼータ函数が問題中の尖点形式のメリン変換であることさえも話したが、彼はその命題を割愛した。結局、私の本の中(定理7.14と定理7.15)と同様に、私の論文J. Math. Soc. Japan 25 (1973)の中でもっと一般的な結果を発表した。
この議題に勿論ヴェイユは彼なりに貢献したが、モジュラ楕円曲線のゼータ函数に関する結果に対しても、そんな曲線がQ上のすべての楕円曲線を使い果たすだろうという基本的アイデアに対しても関係が無い。
更に疑問があれば、どうか私に知らせて欲しい。
                                      敬具
                                    志村五郎

リチャード・テイラーへの2つの手紙(志村五郎博士著The Map of My Life p. 176-181)

                                 1994年11月25日
リチャード様
私は貴方の論文"On the ℓ-adic cohomology of Siegel threefolds[訳注: ジーゲル三次元多様体のℓ-進コホモロジーについて]", Invent. math. 114 (1993), 289–310を読む楽しみを得たが、以下の私の論文を知らない印象を受けた。

Construction of class fields and zeta functions of algebraic curves[訳注: 類体と代数曲線のゼータ函数の構築], Ann. of Math. 85 (1967), 58–159.

この論文の最後の節で、代数曲線Vのゼータ及びL⁻函数が定義されており、そこにおいてVは一つのアルキメデス素数でのみに非分岐な完全実代数体上の四元数環から得られるという事実へ貴方の注意を促したい。
私はこの種の手紙を滅多に書かない(殆どない)が、ただいまの場合そうするための良き理由を私は持っている。実のところ奇妙にも、この論文はリビュー記事すべて、そして研究論文においてさえも言及されたことがない。せいぜい著者達はQ上の四元数環の場合を私が取り扱ったと言及する(それは本当だ)が、その情報だけでは誤解を招きやすい。Clozelのブルバキ論文(March 1993, No.766)が実例だ。一度誰かがリビュー記事を書くと、他の人達は自分達で歴史的研究をせずにそれに倣う。結果的に誤解は継続されるが、私が手紙を書いている理由はそれである。
従って、上記の1967年論文の少なくとも序論と関連部分を読んでくれと貴方に頼めるか? 貴方が問題の歴史的側面に興味を持つかと思う。貴方がやってくれると仮定して、ケン・リベットへの私の手紙のコピーを同封しているが、それに興味を持つと希望する。その中で私はすべてを説明したのではなかった。例えばトレース式は、すべてのQ-有理楕円曲線はモジュラであるという私の予想の背後の私のアイデアと非常に関係があった。もう一つ別の奇妙な事実がある。すなわち、誰も私が予想を立てた理由を訊ねたことがない。おそらく今それがはっきり見えるかも知れない。
                                      敬具
                                    志村五郎

                                 1994年12月12日
リチャード様
まるで私が貴方にあの問題を訊ねるよう強要しているかのようだ。ともかく、すべてのQ-有理楕円曲線はモジュラであるという予想へ私を導いたアイデアについて私が話せることがここにある。

先ず第一に、数学的オブジェクト(Q-有理楕円曲線のゼータ函数)の或る概念が、そのオブジェクトの特別な提示方法(モジュラ函数による一意化)で最もよく記述されるならば、同じタイプのオブジェクト全体が同じ方法で提示されるはずと期待することは当然だという基本的哲学がある。勿論これが間違いであることが分かるかも知れないが、人はそれを開始点として必ず取れる。しかし、そんな荒削りの哲学に加えて、そのアイデアをサポートする少なくとも2つのテクニカルな事実がある。
これらの内の最初は比較的に簡単だ。これについて私は既にアンドリュー[訳注: もちろんアンドリュー・ワイルズ博士のこと]への手紙の中に書いたので、それからの一節を引用させて欲しい。

1963年のボルダーの夏コンファレンスで私はブライアン・バーチに会った。彼はZ E (1)の意味に関する彼のアイデアを私に語った。ここでZ E Q-有理楕円曲線Eのゼータ函数だ。彼はモジュラ函数によって一意化される曲線について何も知らなかった。だから私はアイヒラーと私自身の結果を彼に説明した。更に、彼が当然Z E (1)の消滅または非消滅の問題に興味を持ったから、次の3つの事実を彼に話した。

(1) EΓ 0(N)\Hとして与えられるならば、Z E (1)は∫0 f(iy)dy(ここでfは尖点形式)の定数倍であり、従ってZ E (1)は事実上周期である。例えばN=11ならば、fの明示形式はf(iy)が必ず正だと告げており、その結果Z E (1)≠0であるが、同じことが他の場合に成立する。
(2) gがディリクレ指標によるfのねじりならば、gは高位水準の尖点形式である。
(3) 特に指標が2次ならば、gのメリン変換はEのねじりDに対してZ D を与える。Z D の函数方程式から、Z D (1)=0を満たすDの実例を得られる。

これらは易しくても彼には全く初めてだった。彼は1960年代早期の論文の中でこれを承認した。Γ 0(N)\Hが種数1の場合に関してのみ私は彼に話したと思う。私は彼にDが高位水準でヤコビアンの因子であることを話したのか? 私はそれを知っていたと思うが、おそらく(2)と(3)の他にそれに関して話さなかった。
(引用終わり)

要するにEがモジュラならば、そのねじれもモジュラである。

さて2番目の事実はもっと強い要因だ。ご存知の通り私はアーベル多様体のモジュライの多様体についてずっと研究していたが、それが私にとって多様体のゼータ函数を理解する唯一の方法だったからだ。私は最初アーベル多様体(その自己準同型多元環がQ上の不定四元数環Bを含む)の族の場合を研究(Proc. Int. Cong. M. 1958, J. Math. Soc. Japan, 1961)し、良いオイラー積を持つ良い曲線を見つけた。私は完全実数体F上の四元数環のもっと一般的な場合の調査も始めた。しかし、FQならば、そんな多元環に対するヘッケ理論はF上のオイラー積を作り、他にも、代数曲線を持つ場合において定義の自然な体はFまたはそのアーベル拡大である(Ann. of Math. 76 (1962), Osaka Math. J. 14 (1962))。従って、Q-有理オブジェクトを得るためにFQであると思わなければならなかった。Q上の除法Bから得られる、これらの曲線はモジュラでない(そして厳密に言えば、それは正しい。以降を見よ)かも知れないと私は最初思ったが、非モジュラQ-有理楕円曲線は次の理由のために得られるはずがないと分かった。アイヒラーは彼のトレース式を用いて、Bにおけるオイラー積は楕円型モジュラ形式から得られるものに既に含まれていることを示した(Acta Arith. 4 (1958))。この結果は後に清水によって一般化された(Annals 81 (1965))。いわゆるテイト予想はずっと後で明確に述べられたが、そのアイデアは谷山と私自身に知られていた。だから同じゼータ函数を持つ二つ楕円曲線は同種であると考えることは私にとって当然だった。
Bに関する、この後者の事実は私が予想を述べることに対する最も強い理由だったかも知れない。谷山は"他の特別な保型函数が必要だ"と言ったが、彼はヘッケの非モジュラ三角形関数を意図した。しかし、私はそれらが必要だと決して思わなかった(ええと、彼が正しいことが判明するかも知れない)。
除法Bから得られる曲線に関して、曲線の自然なモデルは種数1の時でさえ実数点を持たないことを私は示した(Math. Ann. 215 (1975))。そういう意味で、それらはモジュラでない。それらのヤコビ多様体は楕円曲線だけれども、それらは楕円曲線でない。このポイントはそれらの曲線の存在理由を説明しているのかも知れない。この現象に関する調査があるのかと思う。
最後に、上記の問題に関連してエピソードを記させて欲しい。1962年の夏、伊原[訳注: もちろん伊原康隆博士のこと]が私に(東京の珈琲店に私達がいる時だったと思う)2つのトレース式の間の同等性を見つけたと言った。私は上記のアイヒラーの1958年論文を気づいていたから、それを確認するため私達両者は大学図書館に行ったが、井原の結果はアイヒラーのものに含まれていることが分かった。彼は失望したと思うが、その点について私は何も憶えていない。当時彼は東京大学の大学院生だったが、私はその年の9月にプリストンに来た。彼は結局このトピックに関して博士論文を書いたが、発表しなかった。
トレース式及び関連する議題に関して、その時期のエピソードをもっと思い出せるが、それらに関してまたいつか、おそらく貴方がプリストンに来る時に話そう。
                                      敬具
                                    志村五郎

2007年に追加された注意:

1. 最後の手紙の中で、私は"ええと、彼が正しいことが判明するかも知れない"と書いた。これは予想が1994年まで完全には解決されていなかったからだ。

2. 読者は私のCollected Papers, vols. I, IVの中の記事[64e]と[89a]に対するNotesも参照されたい。それは1950年代と1960年代に私が考えていたこと、または、やっていたことに関するもう少し多くの説明を含んでいる。

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数学

taro-nishinoの日記: 我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー

日記 by taro-nishino

ユーリ・マニン博士の記事については、これまで"良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー"、"メタファとしての数学"を紹介しました。私は正直言ってマニン博士のエッセイやインタビューを読むのが好きです。現存されている数学者の中では一番私の納得することを書いています。何故なのかちょっと考えました。結構マニン博士の著書や研究論文を読んだことも一因でしょうが、失礼ながら私の感性と合うのです。感性が一致するから博士の言うことも論理的に納得するのでしょう。実際にお会いしたことがないのですが、文面から博士の人柄がにじみ出ていて、こういう大人に私もなりたいと思わせる方です。
さて今回紹介するのはマニン博士の"We do not choose mathematics as our profession, it chooses us: Interview with Yuri Manin"(PDF)です。このインタビュー記事は元々ロシアの新聞に載り、その後英訳されてAMS Noticesに転載されました。その私訳を以下に載せておきます。なお原文にある注釈を省いていますが、インデックスはそのままです。

我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー
2008年9月30日 Mikhail Gelfand[訳注: あの大数学者イズライル・ゲルファント博士とは何の関係もないと思います(もし、関係あるのなら情報求む)。なお、イズライル・ゲルファント博士の息子さんはセルゲイ・ゲルファント博士です]

Gelfand: 過去50年に数学研究のスタイルが変わって来ていますか?
マニン: 個人的に? もしくは社会的に?
Gelfand: どちらもです。
マニン: 研究に携わっている現在の人達は200年前にされていたのと同様にやっていると思う。これは部分的に、我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶからだ。そして、数学があるタイプの人達を選び、その中おいて世界中の各世代で数千人しかいない。数学が選ぶ、それらの種類の人達の印を彼等はみな携えている。
社会的組織(人がその中で数学を研究している)が変わって来ているという意味で社会的スタイルは変わって来ている。この進化は異常ではなかった。ニュートンの時代、後にはラグランジュ等の時代があったが、その時にアカデミーと大学が形成され、個人の数学的アマチュア達(彼等はかって錬金術または占星術を同じ方法で学んだ)が手紙のやり取りによって社会的構造の形成を始めた(私は古代の時期を省いている。その自然な発展はヨーロッパにおいてキリスト教の最初の百年の間に中断された)。それから科学ジャーナルが来た。これすべてが300年前に整った。20世紀の後半にはコンピューターがこの発展に寄与した。
Gelfand: しかし、ニュートンとラグランジュ、そして20世紀の後半との間に重要なことは何も変わりませんでした?
マニン: はい。この社会システムは合併された。つまり、アカデミー+大学+ジャーナル。これらは徐々に発展し、我々が現在それらを知る形を装った。例えばクレレのジャーナル(Journal of Pure and Applied Mathematics)の第一巻を取ろう。それは1826年に出現したが、まぁ現代のジャーナルと全く違わない。4次より高次の一般な代数方程式の根における解決不可能性についてのアーベルの論文がそこに載せられた。素晴らしい論文だ! クレレ編集委員会のメンバーの時、私はそれを今日でさえ大喜びで受けただろう。
最近の数十年に、社会とプロ数学者達の間のインターフェースは変わってきている。このインターフェースは今、コンピューター野郎達と彼等の周囲の人達(申請、補助金やそれと類似の事柄に関連して、我々の研究の資金調達の新方法のために我々が必要とする様々なPRの人達を含む)を抱えている。数学ではこれが奇妙に映る。つまり、貴方がしているものが何なのか、それが非常に素晴らしいことを先ず書かねばならぬ。それから後に貴方が達成し終えていることの説明を与える。
Gelfand: カントロヴィチ1の学生はカントロヴィチが中間報告の中に真顔で"定理は50パーセント証明されている"と、どのように書くかを話すのが常でした。
マニン: モスクワの数学研究所では明確なシステムがあった。私は定理(実際には、ここ一年で証明された)を証明することを計画しているとよく書いたものだった。それから私は研究を続けるための全一年を得た。
だが、これらはすべて些細なことだ。数学が我々を選ぶ限り、そしてグリゴリー・ペレルマンやアレクサンドル・グロタンディークのような人達がいる限り、我々は理想を憶えているだろう。
Gelfand: はい、数学において補助金は非常に奇妙なものです。他方、我々が補助金を得ないのなら、何か他のメカニズムがあるのでしょうか?
マニン: そうね、我々は何を必要とするのか? 人々に対して給与、研究所に対して予算。私は幸運だった、給与に対して研究したし、予算に関してはモスクワでのみならず、15年間ボンでだった。私はそこで何も悪いことがなかった。
しかし、これらの給与と予算を与える組織が商業界の言葉を採用してしまっている事実は全く別のことだ。商業界は3つの領域を悪くする。すなわち保健医療、教育、文化。ロジャー・ベーコンが"商業界の偶像"の誤った考えについて鋭く語った。数学は文化、その術語の広い意味において文化の一部であり、工業、サービス、またはその種の何かの一部ではない。
Gelfand: しかし、市場自由のやり方が沈滞につながらないでしょうし、進歩がないでしょう?
マニン: 今までは沈滞はない。
Gelfand: 数学は費用のかからない科学なので、貴方が語っていることは数学に対して可能です。
マニン: 確かに。私はいつも"何故我々は市場に出るべきなのか? (a)何もコストをかけない。そして、(b)自然資源を使い果たさないし、環境を汚さない"と言っている。我々に給与を与え、適所に我々を放りなさい。私は全く一般化して欲しくない。私はただ数学を話している。
Gelfand: 貴方はコンピューターに言及しました。コンピューターの出現以降、数学では何が変わって来ているのでしょう?
マニン: 純粋数学において何が変わって来ているのだろうか? メンタルリアリティにおける巨大規模物理実験を行う唯一の可能性が発生した。我々は最も起こりそうにもないことをトライ出来る。もっと正確に言えば、最も起こりそうにもないことではなく、オイラーがコンピューター無しでも出来たことだ。ガウスもそれらを出来た。しかし今、オイラーとガウスが出来たことをどんな数学者も机に向かって腰掛けながら出来る。だから、このプラトニックなリアリティの特徴を識別するイマジネーションを持たないならば、実験出来る。何かが何か他のものと等しいという素晴らしいアイデアが起こったならば、座って一番目の値、二番目の値、三番目、百番目を計算出来る。それのみでない。数学的頭脳を持つ人達が出現したが、彼等はコンピューター指向だ。もっと正確には、これらの種類の人達はもっと早期にもいたが、コンピューターが無く、どういうわけか何かが欠けていた。ある意味で、オイラーがたんなる数学者(彼はたんなる数学者よりももっとずっと凄いが)だったという範囲内において、オイラーはそれと似ていた。しかし、数学者オイラーはコンピューターを熱烈に好きになったであろう。そしてラマヌジャン(本当に数学を知らなかった人だった)も。また例えば、ここ研究所の私の同僚ドン・ザギエだ。彼は生まれながらの凄い頭脳を持ち、同時にその頭脳は理想的にコンピューターを使う研究に適している。コンピューターは彼がこのプラトニックリアリティを研究するのを促進している。付け加えて言うと、かなり効果的にだ。
私自身はこの種の人では全くないが、これが何に関してなのかを理解し、この件で私を助けてくれるかも知れないコラボレーターを持つことを喜んでいる。だから、これが純粋数学に対してコンピューターがやって来ていることだ。
Gelfand: 数学と理論物理学の間の関係はいかがですか? それはどのように構築されてますか?
マニン: この関係は私自身の人生の間に変わって来ている。
ニュートン、オイラー、ラグランジュ、ガウスの時代では、その関係がとても近くて同じ人達が数学と理論物理学の両方で研究した。彼等は自分自身を、より数学者だ、または、より物理学者だと思っていたかも知れぬが、彼等はまさに同じ人達だった。これは約19世紀の終わりまで続いた。20世紀は重要な違いを見せた。一般相対性理論の展開のストーリーが著しい実例だ。アインシュタインは彼が必要とする数学を知らなかったのみならず、1907年に彼自身の見事に直感的な言葉で一般相対性理論を理解し始めた時に彼は、そんな数学が存在することさえ知らなかった。量子の研究にささげた数年の後で、彼は重力に戻り、1912年に彼の友人マルセル・グロスマンに手紙を書いた: "君は私を助けねばならない、さもないと私は気が変になるだろう"。彼等の最初の論文は"A sketch of a theory of general relativity and a theory of gravity: I. Physics Part by Albert Einstein; II. Mathematics Part by Marcel Grossmann"と名付けられた。
この試みは半分成功した。彼等は正しい言葉を見つけたが、まだ正しい方程式を見つけていなかった。1915年に正しい方程式がアインシュタインとダフィット・ヒルベルトによって発見された。ヒルベルトは正しいラグランジアン密度(この問題の重要性はアインシュタインも理解出来なかったようだ)を見つけることで方程式を導いた。残念ながら歴史家が優先権に関する下らない論争を始めることを促進したのは二つの頭脳の偉大なコラボレーションだった。創造者達自身は互いの洞察を認めて感謝して寛容だった。
私にとって、このストーリーは数学と物理学が袂を分かった時期を特色づけている。この分岐は約1950年代まで続いた。物理学者達は量子力学を考えついたが、量子力学において彼等はヒルベルト空間、シュレーディンガー方程式、量子作用、不確定性原理、デルタ函数に対する必要を理解した。これは完全に新しいタイプの物理学であり、完全に新しい哲学だった。たとえどんな数学のピースを必要としても、彼等は自分達でそれらを開発した。
その間、数学者達は解析学、幾何学をやり、トポロジーと函数解析を造り始めた。世紀の始めで重要なことは、集合と無限に関するカントール、ツェルメロ、ホワイトヘッド、及びその他者らの見識を明確化、"浄化"することに努力した時に、哲学者達と論理学者達によるプレッシャーだった。いくぶん逆説的に言えば、この考えの進路は、"基礎の危機"として知られるようになったものと、いくぶん後にコンピューター科学を生成した。無数な事柄に関する情報を我々に与えられる有限言語のパラドクス―つまり、これが可能なのか? 形式言語、モデルと真実性、一貫性、(不)完全性―非常に重要な事柄が開発されたが、その時代の物理学者達が没頭している問題とは全く交わらなかった。
そして、我々に"数学的推論はマシンであり、テキストではない"と語るためにアラン・チューリングが出現した。マシン! 素晴らしい。10年間に我々はフォン・ノイマンのマシンとプログラムの分割原理(ソフトウェア)とハードウェアを持っていた。20年以上―そして、すべてが用意されていた。
世紀の最初の三分の一の間において、特別な頭脳を除いて、フォン・ノイマンは間違いなく物理学者であり数学者でもあった。20世紀で、あれ程のスケールの頭脳を持つ他の人を私は知らない。数学と物理学は並行に発展し、しばらくして互いを注目して止まった。1940年代にファインマンが素晴らしい径路積分を書いたが、物を量で表す新しい道具であり、びっくりするほど数学的な方法で効果があった。エッフェル塔のようなものを想像してみよ。数学的見解から見れば、何の基礎も無しに宙ぶらりんだ。だから、それは存在して上手く働いているが、我々が知っているものが何も無い上に立っている。この状況はまさに今日まで続いている。それから、1950年代に核力の量子場理論が出現し始め、数学的に各々の古典場は接続形式であることが判明した。それらに対する停留作用の古典方程式は微分幾何学において知られていた。ヤン-ミルズ方程式が登場し、数学者達は物理学者達を不信の目を向け始め、物理学者達も数学者達に対してそうだった。逆説的に言えば(私にとって愉快だが)、物理学者達が我々から学んだよりも我々が物理学者達からもっと学び始めた。量子場理論の助けとファインマン積分の道具一式を使って、彼等は数学的事実を次々に発見させる経験的知識に基づいたツールを開発した。これらは証明ではなく、単に発見だった。後で数学者達は腰を落ち着け、彼等の頭を空っぽにして、これらの発見を定理の形に再編成した。そして、我々の正直なマナーでこれらに証明をつける努力を始めた。これは物理学者達がしていることが実に数学的に意味があることを示している。そして物理学者達曰く、"我々はいつもそれを知っていたが、貴方がたの注意に感謝する"。しかし、一般に、結果として私達は何の問題を尋ねるべきか、何の答えを前提条件にしてよいかを物理学者達から学んだ。概して彼等は正しい。有名な物理学者で数学者でもあるフリーマン・ダイソンがギブズ講演"Missed opportunities"[訳注: "失われた機会"](1972)の中で"数学者達と物理学者達が互いと話すことを無視することによって発見の機会を失った"時の多くの場合を見事に記述している。私にとって特に印象的なのは、彼自身が"ただ数論学者ダイソンと物理学者ダイソンが互いと話していなかったので、モジュラ形式とリー代数の間の深いつながりを発見する機会を失った"という暴露だった。
それから、このまさに宙ぶらりんするエッフェル塔から輝かしい数学を作製するための唯一の才能を持つウィッテンが出現した。私はウキペディアを覗いた。1976年物理学において学位を得る前、彼が25歳だった時、彼は政治ジャーナリズムに携わることを計画していた。そして、経済学...等、彼がとうとう数学と物理学の叫びを聴くまで。
彼はそんな驚くべき内面的強靭(それがあり得ない強さと力を持つ数学を製造するが、それは物理学的考察から来ている)の達人だ。そして彼の考察の開始点は実験物理学で記述されるような物理的世界ではなく、この世界の説明のためにファインマン、ダイソン、シュウィンガ、朝永、そして他の多くの物理学者達によって開発された内面的仕組みだ。仕組みは全く数学的であるが、非常に弱い数学的基礎を持つ。それは世界を揺るがすほどのヒューリスティックな原理(全くトリビアなものではない)だが、私は再度言わなければならぬ、基礎(少なくとも我々が慣れて来ている類のもの)が無い非常に大きい構造だ。
Gelfand: そのように皆は基礎が無いことに慣れて、それを承知で生きて来ているのでしょうか、それとも基礎を作ろうと努めているのでしょうか?
マニン: なされて来た試みのどれも十分な一般性に成功していない。数学者達は我々がファインマン積分と呼んでいいものに対する、数少ない近似を作って来ている。例えばウィーナー積分。それは早くも1920年代に作られた。ブラウン運動を研究するために使用されたが、そこには厳密な数学理論がある。いくつか面白い変わり種もあるが、理論はファインマン積分の手広い応用全体をカバーするために要求されていることよりもずっと狭い。いいかい、数学理論として小さい―強さまたは力において、今日本当に偉大な数学を製造している仕組みとは比べ物にならない。
ウィッテンがその仕組みの研究を止める時、仕組みに関して何が起きるのか私は知らないが、すぐに数学世界に行き渡るだろうと私は非常に楽観的だ。ウィッテンが推測した定理、特にいわゆる位相的量子場理論(TQFT)における定理を証明することを目標とする小さな工業が起立しているが、その生産は広大であり有名だ。
実のところ、ホモトピー位相幾何学とTQFTはとても密接に発展しているので、それらが新しい基礎の言葉に変化すると私は考え始めている。
そのようなことは既に起こっている。無限に関するカントールの理論は古い数学に基礎を持たなかった。これに関して皆さんは好きなように議論出来るが、これが新しい数学、数学を考えるための新しい方法、数学を作るための新しい方法だった。結局、矛盾に関する議論にもかかわらず、カントールの世界は何の釈明もなくブルバキによって受け入れられた。論理学者達または構成主義者達が我々に押し付けた"規範的基礎"とは対照的に、ブルバキはすべての現役数学者達によって何十年ものの間に採用された"現実的基礎"を作った。
Gelfand: ロシアでブルバキについて書いている数学者達は異なる見解を持っているようです。この集合論的基礎の研究全体に関してかなり厳しい酷評家達がおり、彼等は物理学者達からのブルバキの孤立と我々のためにブルバキが開けられたであろう素晴らしい可能性を批判しています。
マニン: これに関して特別なことは何もない。彼等がブルバキを罵るという事実は、事が今日どのようになされているかを彼等が知らないことを示す。カントールが自身でやったことと全く同様に、ブルバキがやったことは歴史的ステップを取ることだった。しかし、このステップは、非常に大きい役割をした一方で、非常にシンプルだ。つまり、数学の哲学的基礎を作ることではなく、普遍的共通な数学言語を開発することだった。その数学言語は確率論学者達、位相幾何学者達、グラフ理論または函数解析または代数幾何学における専門家達による議論に使用されるだろうし、そして論理学者達による議論にも使用されるだろう。
皆さんは少数の共通初等的言葉"集合、要素、部分集合..."から始め、それから皆さんが学習する基礎構造の定義を徐々に作り上げる。つまり、"群、位相空間、形式言語..."。それらの名称は皆さん自身の用語の2番目のレイヤを形成する。3番目、4番目、または5番目のレイヤが来るかも知れないが、基礎構築ルールは共通であり、落ち着いて人々は完全に理解して互いと以下のように話せるだろう。"形式言語とは文字の集合プラス正しく形成された言葉の部分集合である。正しく形成された言葉とは用語プラス連結詞プラス数量詞プラス推論規則..."。この大局的見方から、例えばゲーデルの完全性証明不能定理(もしくは不完全性証明不能定理)[訳注: 原文は"Gödel's incompleteness theorem"です。これを、例えばゲーデルの不完全性定理と訳すのが常識となっているようです。しかし、日本人の殆ど(もちろん専門家を除きます。以下いちいち断わりを入れません)が論理的にものを考えられないので、鬼の首を取ったかのように喜ぶ馬鹿者達が必ずいます。それを少しでも減らすために、あえて前述の訳を当てました。いいかどうかは皆さんで勝手に判断して下さい]はいかなる種類のミステリーも取り除く。その定理は皆さんがそれを哲学的に調べ始めようとする時にはミステリーであるが、実のところ、ある構造は有限的に多くの生成子を持たないと述べている定理に過ぎない。ああ、神よ! そんな構造はありふれているが、考えよ、ここでもう一つある。特別な自己参照セマンティクスをこれに加える時に深遠さが出現する。その時、深遠さが数学の哲学的基礎に登場する。
だからブルバキはこれらの野郎が考えていることと全く異なることを実際にやったのだ(ここで私はフランスの数学教育におけるブルバキの影響に関する議論を省略している。社会学的疑問全体の場合と同様に、どんな観衆の間でも論争の一斉を引き起こすかも知れぬ)。
Gelfand: 数学における仮説の位置付けは何ですか? 例えばフェルマーの最終定理―近年、誰も反例を見つけようとしていません。誰もがそれを正しいし、誰かがそれを証明しようとするはずだと理解しました。そして、そんな有名な命題が、特に数論で多くあります。
マニン: ここで私は多くの素晴らしい仲間と異なる立場を取る。この議題に関して私に反対の意見を多く聞いたことがある。私が数学をどのようにイメージしているかを皆さんに説明しなければならぬ。私は感動しやすいプラトン主義者だ(合理的なものではない。プラトン主義を支持するのに合理的議論はない)。どいうわけか私にとって数学研究は発見であって発明ではない。私は自分で巨大な城または、それに類似の何かをイメージする。深い靄を通して、その輪郭を徐々に見ようと始める。そして何かを調査しようと始める。見ているものが何であるかをどのように定式化するかは、思考のタイプと見ているものの規模、そして周囲の社会的環境に依存する。
見て来たことは何かの存在または不在として定式化される。x 2y 2z 2を見よ。一つの式ですべての整数解を書き下せることは素晴らしい。ある意味で、これをディオファントスが知っていた。これをし終えた時、疑問が持ち上がる。結構だが、3乗はどうなのか? 探しに探して何もない。ふーん。何て奇妙だ。4乗の場合は?(と、もし誰かが質問すれば) ふーん。再び何もない。えーと。更に進んで何もないのか? だから2次と3次、4次等との違いを発見する。このフェルマーの最終定理の歴史、まぁ歴史の類だ。だが、例えばこれこれはそれそれと同値だ、または、これこれは決して発生しないというような問題を貴方が提起する時、良い問題か悪い問題かあらかじめ貴方は決して分からない。それが解決されるか、または、ほぼ解決されるまで決して分からない。
問題は品質を持つ。数論において、初等用語で定式化され得る多くの問題があり、フェルマーの最終定理が素晴らしい問題だったことを我々は知っている。その歴史(命題から解決まで)を通して、先験的に互いと関係が無かった事柄の主役と関係があると分かったから、素晴らしい問題だったことを知っている。そして、その解決のために、これら根本的な事柄を調査することが必要だった。問題は巨大体系の中で細部だった。
しかし、我々は他の問題、例えば完全数または双子素数に関する問題を取り上げることが出来る。無限に多くの完全数(その数の約数の和が数に等しい)があるのか? または、差が2の素数のペアが無限に多く存在するのか? 今日まで、これらの命題がフェルマーの最終定理のそれよりも価値がないように見えるから、誰もそれらの問題周辺に興味ある理論を築いていない。
Gelfand: これらは問題それ自身の概念でしょうか、それとも、ただ何らかの社会的理由のために誰も活発に調査しないのでしょうか?
マニン: プラトン主義者として、これが問題それ自身の概念だと分かっているが、問題を定式化している時には誰も認識出来ないのが概念だ。歴史的プロセスの中でそれ自身を見せる。
部分的にこの理由のため、私は問題を好まない。問題を解くことは細部を探すスキルを要求するが、それが何の細部なのか分からない。プラトン主義者として、私は完全なプログラムを好む。偉大な数学的頭脳が何かを全体として見る時、または全体として見ないが、一つの細部よりも多くの何かとして見る時にプログラムは起きる。しかし、最初は漠然として見るだけだ。
Gelfand: すなわち、一つの明瞭な細部を見る代わりに貴方は漠然と建物全体を見ます。
マニン: はい。だから靄を息で吹き飛ばし、ふさわしい望遠鏡を探すため、以前に発見された体系との類似点を探し、漠然と見ている事柄に対する言語を作る、等々。これが私がためらいがちに言うところのプログラムだ。
無限に関するカントールの理論はそんなプログラムだった。希な事件だった。直ちにプログラムであり、無限の順序があるという発見だった。そして、例えば連続体仮説(可算無限と連続体の間に何かがあるかどうか)は他の多くの問題よりも重要でないと判明して来た問題であるが、非常に刺激になった。もしカントールがこればかりを問うていたのなら、悪くなっていたであろう。その重要性は未来でのみ発見されたであろう。だが、彼は直ちにかなりのことをやった。彼は調査のプログラム全体を始めた。
モジュロpの方程式にいくつの解があるかについてのヴェイユの仮設はそんなプログラムであり、私の人生の間に有名になった。彼はすぐに著しい類似点を見た。彼が見ていたところのエリアではギャップがあったが、他のところでは全体理論、つまり(コ)ホモロジー理論があって、写像の不動点に関するレフシェッツ定理を意味した。グロタンディークの人生の半分、ピエール・ドリーニュを含むグロタンディーク周辺の多くの人達の半分が、このギャップを埋めることに捧げられた。彼等はギャップを埋め、類似点は正確になり、現代代数幾何学が生まれた。そして、結果としてずっと多くのことが発生して来ている。現代数学の言語としての集合論が後退し始め、後に来るスーパー構造全体を持つキャテゴリーが古い機能における集合を置換え始めた。
論理では、ヒルベルトのプログラム(彼はあまりにもそれを楽天的に定式化したことを除いて)があった。彼は真なすべてのことが証明出来ることを証明したかった。彼は体系の輪郭を不正確に見たが、とにかくプログラムは発展した。ゲーデル、チューリング、フォン・ノイマン、コンピューター、コンピューター科学。かなりの程度まで、これはヒルベルトの考案によるものだった。
四色問題は私にとってプログラムにつながらなかった悪い問題の実例だ。それはコンピューターを頼って証明されたので、そのことをめぐって今日まで論争がある。だが、今日まで誰も何らかの種類の十分豊かな状況に四色問題を組み込ませて来ていない事実と比べて論争は重要なことではない。だから四色問題は頭脳のトレーニングの手段に過ぎない。
これらの理由のため、私は概して問題それ自体では好きでない。しかし、プログラム内で問題が持ち上がる時―それは問題がいいものである可能性がある時であり、この細部が何の体系に属しているか前以って分かっている時だ。150年の過程の間に限られた数論学者達がリーマン仮説を非常に重要な孤立した難題として調べ続けたけれども、リーマン仮説は確かにリーマンがプログラム内で考案した問題である。その最初の解決が鈍い解析的手法を使う証明であるかも知れぬことを私は少し心配している。それは考え得る限りのすべての賞を受けるだろうし、解決は世界のすべての新聞で賞賛されるだろう。"正しい"解決はより広い状況において与えられるはずであり、我々はそれを知っているので、前述の騒動全てが誤解を招きやすいだろう。解決に対する複数のアプローチさえ我々は知っている。それにもかかわらず、最初の解決が貧弱で面白くないものであることはかなり可能だ。
Gelfand: すべての人が慣れ、明らかに正しいと決めてかかるようになったが、それから反例が見つかった仮説がありますか?
マニン: 人々が信じて長い間続いている仮説がそれから反例が見つかったことはないと思う。
Gelfand: 仮に誰かがフェルマーの最終定理に対する証明よりも反例を見つけるならば、これは世界を揺るがす事件になるでしょうか? それとも問題がいいものではないことを意味するだけになりますか?
マニン: 問題が状況の展開を活気づけたのだから、その問題はそれでもいいものであっただろう。それから、この状況の中で誰かが問題を解決する。その答えはポジティブまたはネガティブだろう。この2番目の質問は重要でない。質問の真意は重要な状況の確立を問題が促進したということだ。
仮に1960年代以前に反例が見つけられたとすれば、すべての人が頭をかいていたであろう。仮に反例が1970年代のどこかで見つけられたとすれば、その時までにフェルマーの最終定理は他の多くの予想(少しもシンプルでない。ラングランズのプログラムに関連して非常に広範囲に渡る性質を持っていた)から導かれるだろうことが明らかなっていたから、非常に興味深いが、多少台無しになっていただろう。その時までに、これらの事柄が真実であればフェルマーの最終定理もそうであることが知られていた。もちろん、仮にフェルマーの最終定理に対する反例が見つけられていたならば、これらの事柄が偽でなければならなかっただろう。そして、これは考え方に関するずっと根本的で複雑なシステムの全滅を意味したであろう。大きな関心と何が間違っているのかを把握する企てを呼び起こしたであろう、多くの体系を再構築しなければならなかったであろう、等々。それすべてが反例の発見から引き続いていたであろう。
Gelfand: 歴史上、そんなに強い反例がありましたか? おそらくゲーデルの定理? それ以前は、真であるすべての事柄を人は証明出来ると思われていました。
マニン: ヒルベルトはこれを信じていたが、他の何人がそれを信じていたのか私は知らない。しかし、これは、このプログラムを正しく調べなければならないことを示している。その最初の重要な成果は数学的状況(その中で、曖昧な哲学的なものではなく、正確な数学的問題として人は真実に関する問題と数学での証明可能性を定式化出来た)の構築だった。この探求の本質により、人は自己言及を導入しなけれならず、残りはタルスキとゲーデルに華々しく示された創意の問題となった。
プログラムの定式化の始めで、人々は何に帰結するかについて間違っている推量を作り、反例が実はこれらはエラーであることを示した。
Gelfand: 他の興味深く間違っている認識がありましたか?
マニン: 人類のイマジネーションの不足を示すものがあった。数学史上において、そんな事柄は通常反例と呼ばれず、パラドックスである。例えばバナハ-タルスキの定理を取り上げよう。ボールから始め、それを5つのピースに切り分ける、それらを再編し、一緒に元に戻す、そして最初のものと同じサイズのボールを2つ得る。この構築は我々にいろいろ語っている。例えば、一般的な集合論的アプローチの酷評家達に対しては、この見解が人をそんな所説に導くのなら、それは数学ではなく、ある種の手に負えないナンセンスであることを意味している。論理学者達に対しては、それはツェルメロの選択公理の逆説的応用の実例であり、だから選択公理を受け入れることに反対の議論である。そして、これすべてに加えて、非常に美しい幾何学だ。かって私は美術館で一般大衆のために講義をすることを頼まれ、バナハ-タルスキのパラドックスがプレゼンテーション"数学の抽象芸術"のための素晴らしい議題であると私は決心した。キーポイントは"ピース"を硬い材料オブジェクトとしてイメージしてはならないが、点の大雲としてイメージすることだった。ボールは不可分の点から成っているとイメージしなければならぬ。これらの点の部分集合を"ピース"と呼びことにする。ピースを移動させ、その向きをぐるりと変えさせることが出来る。しかし、ただ全体として、単一のオブジェクトとしてピースを移動させれば、点間の一対の距離は同じままである。だから球を硬いピースに切り分けるのではなく、5つの大雲に切り分ける。そして、これらの大雲は相互に互いへ浸透出来る。もっとはっきり言えば、それらに関して硬いものは何も無い。それらはボリューム、重さを持たず、高度に訓練されたイマジネーションの素晴らしいオブジェクトである。
何故明らかな矛盾が無いのか? 2つのボールが各々よりも多くの点を含むことは真実ではないのか? そう、無限個の点は正確に同じである。私は孫に一枚の紙の点は部屋の壁上の点と同数存在すると説明した。"紙を取ろう。お前の視野から壁が完全に消えるように紙を持つ。紙はお前の視野から壁を隠している。さて、壁上のすべての点から一条の光が来て、お前の目にたどり着くなら、紙を通り抜けるはずだ。壁上の各点は紙上の点と対応する。だから、それぞれが同数存在するはずだ"。
ここでのメッセージは、最初のボールから個々の点の粉塵を作るなら、任意サイズの、2つのボール、または3つのボール、または無限個のボールですら埋めるのに十分な点が存在するだろうということだ。移動させる、向きを変えさせる、ギャップを残さずに再編する点の雲を定義しようとする時に困難が起きる。これは数学的ペテンであり、大変美しいが、それを上手く説明したいなら、もっと時間を必要とする。
だから、それは反例でなく、トレーニングされていないイマジネーションを困惑させるパラドックスである。
そんなパラドックスの多くが古典数学と集合論的数学の間の過渡期に発見された。曲線が正方形を埋められるという定理があった。そんな事柄が多くあったし、それらは私達に大いに教えた。
多くの人々は、これは全くのファンタジーだと考えたが、新しくトレーニングされたイマジネーションは人にフーリエ級数の"逆説的"振る舞いを認めさせ、ブラウン運動を理解させ、ウェイヴレットを発明させた。そして、これらは全くファンタジーでなく、ほぼ応用数学であることが分かった。
Gelfand: それで次の20年間に何が起きるのでしょうか?
マニン: 私の考えでは、ここ300年の間に何もないのだから、画期的変革を予想しない。新しく力強い研究所が起立するたびに、どうにか数学はその性質を保った。これは私がやったことがないものであるが、講義のテーマでもある。私は最も離れた時代からコルモゴロフの複雑性までの整数のアイデアの発展を示したい。そして、これすべてが新しい数学に殆ど訴えること無く済ますことが出来る。同一のアイデアが持続している。いくつかの時代で少し変わり、その言葉の被いが変わっている。しかし、それでも完全に不変のままであり、生き続けている。何も忘れらていない。
だから私は次の20年の異常な何かを予測しない。おそらく、私が言うところの"数学の現実的基礎"の再構築が続くだろう。これを私は単に、有能で新しく直感的なツール(ファインマン経路積分、高度キャテゴリー、ホモトピー理論家の"brave new algebra"[訳注: これを後世の日本人がどう訳すのか私は興味ありますが、おそらくカタカナ表記で終わると思います]、他にも、目下のところ現役数学者達の頭脳と研究論文の中にある結果を各節目に発表する、新興の価値体系と受入れ形式も)の法典化を意味している。
数学の"現実的基礎"が通常いろいろ変わった形で明確になる時、変形バージョンの提唱者達は論争し始めるかも知れないが、それすべてが現役世代の数学者達の頭脳に存在する限り、必ず彼等が共通に持つ何かがある。だから、カントールとブルバキの後、我々が何だかんだ言っても、集合論的数学は我々の頭脳に定住している。私が最初何かを語り始める時、ブルバキ風の構造の用語(位相空間、線型空間、実数体、有限代数拡大、基本群)でそれを説明する。そうでないと私は出来ない。私が完全に新しい何かを考えているのなら、これこれの構造を持つ集合、前にこれと似ているあれやこれやと呼ばれるものがあった、もう一つ別の類似なものはこれこれと呼ばれた、だから私は少し異なる公理を採用し、それをこれこれと呼ぼうと私は言う。貴方が話し始める時、これから始める。すなわち、最初我々はカントールの離散集合から始め、それにもっと何かをブルバキのスタイルで課する。
だが、抜本的心理的な変化も起きている。近頃これらの変化は複雑な理論と定理の形を取ったが、これらを通して、古い形式と構造、例えば自然数は幾何学的な右脳オブジェクトに変わられている。
集合、つまり離散要素の雲の代わりに我々はいくつかの種類の漠然とした空間を思い描く。その空間は非常に激しく変形し、一つからもう一つ別へ写像される。その間中、特定の空間ではなく、変形までの空間のみが重要である。本当に離散オブジェクトに戻りたいのなら、我々は連続コンポーネントを見る。そのピースの形または次元さえも問題ではない。以前、これらの空間すべては位相を持つカントール空間と考えられた。それらの写像はカントール写像だったが、それらのいくつかは除外等をされるべきだったホモトピーであった。
数学者達の集団的意識の中に進行中の敗北を私は非常に強く確信する。つまり、世界の右脳的かつホモトピー的ピクチャーが基礎的直観になっており、離散集合を欲しければホモトピーまでのみに定義されている空間の連結コンポーネントの集合に渡る。
すなわち、カントールの点は連続コンポーネントまたはアトラクター等になっている(ほとんど始めから)。無限に関するカントールの問題は背景へ後退する。つまり、始めから私達のイメージは非常に無限なので、それらから有限な何かを作りたければ、もう一つ別の無限でそれらを割らなければならない。
これは我々がファインマン積分を思い描く道と平行する。最初、解釈の難題を課されている単なる象形文字だ。最初の2つ、3つ、4つの解釈の段階は全くアドホックであり、数学がクリーンな("トイモデル")他のケースとの様々なアナロジーに訴える。ある段階で、単に発散はしないが発散(有限次元だけれども)積分の項から成る形式級数を得るかも知れない。それから各項を有限にしながら人工的に正規化する。だが、級数は一般的にはそれでも発散する。だから級数の解釈を発明している。そして終に、その方法を多くの無限大の中へ押し進めて有限の答えを得る。ご褒美として、驚くべき数学的定理のシリーズを得る。私はこの中にキャテゴリー理論とホモトピー位相幾何学に基づいて現実的基礎の再構築との類似点を見る。

13507827 journal
数学

taro-nishinoの日記: B. L. ファン・デル・ヴェルデンへのインタビュー

日記 by taro-nishino

"わが父アンドレ・ヴェイユ"の前置きの中で昨年、つまり2017年に一つも"私訳"を紹介出来なかった言い訳を書きました。実はもう一つ理由があったのです。ヒルベルトとクーラントのMethoden der mathematischen Physikの読破に専念したからです。もちろん独語原書の第3版です。読み終えるのにほぼ1年を要しました。独語は私にとって第3外国語であり、しかも本の内容は私の専攻分野ではありませんので時間がかかることは覚悟の上ででした。
では、何故わざわざ苦労してまでヒルベルト-クーラントを読もうとしたのか? 理由は2つあります。先ず、何だかんだ言っても結局ヒルベルトを中心とするゲッティンゲン学派の雰囲気に私は憧れを持っているからです。現代の私達がゲッティンゲン学派の雰囲気を知ろうとするには、もう残された古典的名著を紐解く以外に方法はありません。これが一番目の理由です。当時のゲッティンゲン学派から出た本はヒルベルト-クーラントだけではなく、ファン・デル・ヴェルデンのModerne Algebraも代表的です。しかし、単純に古典を鑑賞して愛でるだけならModerne Algebraでもいいのですが、その内容は現在では学部学生が代数系の講義で勉強するであろうものばかりで、少なくとも第一巻はその範囲内に収まるはずです。従って、どの専攻分野の人でもほぼ常識になっているのです。ですから、苦労した代償に雰囲気を味わえて、知らなかったことを勉強出来る(つまり、守備範囲を広げること、もしくは視野を広げること)という条件に合致しないのです。よってヒルベルト-クーラントなんです。これが二番目の理由です。
ヒルベルト-クーラントを実際に読んだ人なら納得すると思うのですが、この本が少なくとも戦前まで物理学学徒の必読文献だったことも頷けます。それほどに苦労しても読む価値があると思います。そうでなければ、若き日のゲルファント博士がヒルベルト-クーラントを研究するはずがありません。ゲルファント博士は読んだとは言わずに研究したと言っているのです。
さてヒルベルト-クーラントの読了後、今は亡きゲッティンゲンの人々のことを思い浮かべていましたら、ここでも先ほど出ましたファン・デル・ヴェルデンの印象が私には薄いのでちょっと驚きました。ヒルベルトが病気と老齢で表舞台に立たなくなって以降、ナチス政権に対するワイル、クーラント、ネーター、ジーゲル等の行動や苦闘はすぐに思い出せるのに、ファン・デル・ヴェルデンは何をしていたのか全く憶えていないので、慌てて書棚からコンスタンス・リード女史のHilbertCourantを取り出して、パラパラとめくって目を通しましたが、ファン・デル・ヴェルデンの伝記的記述が意外なほど少なく、どうでもいい少年期のエピソードなど私でもどこかで聞いたことのあるものしか書かれていないのです。仕方が無いのでMacTutor History of Mathematics archiveの"Bartel Leendert van der Waerden"を読みましたら、ライプツィヒで安穏と暮らしていたと思いきや、全く違っていました。ドイツを出るに出られなかった(つまり、時期が遅すぎ)ファン・デル・ヴェルデンの苦悩の一方で、ナチスに占領されたオランダでは彼の父親が癌で亡くなり、母親も夫との死別後、ナチスの占領に苦悩して家の近くの湖に投身自殺しました。痛ましい限りです。
今回紹介するのは"Interview with Bartel Leendert van der Waerden"(PDF)です。このインタビュー記事の存在は以前から知ってましたが、今回のことで初めて読みました。その私訳を以下に載せておきます。なお原文にある注釈は省きましたが、インデックスはそのままです。
最後に一つだけ申し立てしたいことがあります。このインタビュー記事の中でファン・デル・ヴェルデンはヘルマン・ワイルのGruppentheorie und Quantenmechanikを難し過ぎて誰も理解しなかったと貶し、同じ趣旨の本をファン・デル・ヴェルデンが書くと、その本はよく売れて、物理学者に歓迎されたと言っています。確かに彼の言う通りワイルは数学的美しさのために書いたということは頷けますが、誰も理解しなかったというのはおそらくブラフだと思います。決してそんなことはありませんから、皆さんは誤解しないで下さい。

[追記: 2018年1月21日]
上記で意図的に"ヒルベルト-クーラント"と書きましたが、特に外国の方と話す時には、この本のことを"Courant-Hilbert"と呼んで下さい、念のため。

B. L. ファン・デル・ヴェルデンへのインタビュー
1993年5月4日 Yvonne Dold-Samplonius

Dold: ファン・デル・ヴェルデン先生、数学への興味はどのように始まったのですか? これに関して最初の思い出は何ですか?
van der Waerden: 私の父は数学教師だった。従って、この学科の本が家にあった。彼は断じて私にこれらを勉強して欲しくなかった。数学の本にのめり込むよりも外で遊ぶべきだと彼は主張した。だから彼は本を鍵をかけてしまい込み、私はそれらに触れられなかった。それが私を時折刺激した。例えば、コサイン法則から始まって三角函数のすべてを再発見した。どういうわけか私はコサインが意味することを知った。コサイン法則も知った。私の調査から、私が呼ぶところの"{1-(コサインの平方)}の平方根"という式が出現した。その時父が私を助け、これは"サイン"と呼ばれるのだと言った。当時私はアムステルダム(私はこの町で1903年2月2日に生まれた)のHogere Burger School(HBS)の生徒だった。それは初等学校に続く学校であり5年制だった。幾何学は勉強対象だったが、三角函数はそうではなかった。後のクラスで教えられるものだった。
Dold: その時期の他の"数学的"体験を語っていただけますか?
van der Waerden: 私は"ピタゴラス"と呼ばれるゲームを持っていた。それは自由に動かせるピースから成り、それを用いて正方形、長方形、または、それらを様々な方法で組み合わせることにより三角形を構築することが可能だった。私はそれをプレゼントとして受け取り、この上なく喜んでそれを遊んだ。ほとんどいつも私一人か、または父と一緒に遊んだ。私の2人の兄弟は、このタイプのゲームに全く興味を持たなかった。
Dold: 貴方の母は数学に興味があったのですか?
van der Waerden: いいえ、無かったと思う。私は母をすごく好きだった。よく私達はボートでザーンダムへ行ったが、そこに彼女は親類がいた。これらの親類も帆船を持っており、私達はよくそこで帆走に行った。
Dold: HBSの後、何があったのですか?
van der Waerden: HBSの後、私は勉強を続けた。当然、専門家に従って私は数学者にならなければならない。しかし、特別な数学教師を一人も憶えていない。だが、学校で理論を知っており、私達のために実験をする素晴らしい物理学教師がいた。しかし、私はまだ数学に熱心だった。
Dold: アムステルダム大学では誰の許で勉強したのですか?
van der Waerden: その時はブラウワーがおり、彼は最も有名だった。そしてヴァイツェンベックは不変式論を教えたが、彼はそれに関する本を書いた。しかし、マノリーに最も多くを学んだ。彼はオランダをトポロジーへ導いた数学者だった。マノリーは共産主義者で、独創的な数学者でもあった。
Dold: 貴方はこれらの人々と非専門家的な付き合いがあったのですか?
van der Waerden: マノリーは父の友人だった。父は社会民主党員だが左派だった。共産主義者達が社会民主党員達と別れた時、父は共産主義者達に親近感を覚えた。彼は多くの友人がいたが、その多くが共産主義者だった。しかし、彼は民主主義者だから社会民主労働者党にとどまった。
Dold: 貴方はブラウワーと親しい関係だったのですか?
van der Waerden: いいえ、彼はコースを教えに来たが、ラーレンに住んでいた。一週間に一度しか来なかった。普通それは許されなかっただろう、彼はアムステルダムに住むべきだった。だが、彼のために例外が作られた。
Camilla van der Waerden[訳注: ファン・デル・ヴェルデンの奥方]: 貴方、彼が貴方に静かにしてくれと頼んだ時のストーリーを話すべきよ。
van der Waerden: おお、そうだ。一度私は講義の間に質問をするため彼の邪魔をした。翌週のレッスンの前に彼の助手が来て、ブラウワーはクラスで彼にする質問を欲しくないと私に言った。彼は全くそれらを欲しくなかった。彼はいつも黒板を見ており、学生達の方に向けることは無かった。
Dold: かくて彼は解説があまり得意ではなかったようです。しかし、貴方は彼から多くを学んだでしょう?
van der Waerden: いいえ。たとえブラウワーの最も重要な研究貢献がトポロジーにおいてであっても、彼は決してトポロジーにおけるコースをせず、いつも彼の直感主義の基礎についてのみだった。彼のトポロジーにおける結果は直感主義の観点から正しくなかったので、もはや彼はそれらに確信が無いようだった。彼が以前やったことすべてを、彼の最大の生産物を、彼の哲学に従って間違いだと審判を下した。彼は非常に変わった人で、彼の哲学を愛することに夢中だった。
Dold: 貴方もトポロジーにおいて研究したことがあります。
van der Waerden: はい、マノリーからトポロジーを少し学んだ。彼は美しい論文"曲面イメージ"を書いた。彼は独創的な人だった。
Dold: そうすると貴方の勉強はどのように進行したのですか?
Camilla van der Waerden: それらの最中に彼は兵役をしていたの。
Dold: 貴方は勉強を終える前に兵役を要求されたのですか?
van der Waerden: いいえ。私はそれらを終えていたが、まだ卒業していなかった。既に必要な試験をすべて終えていた。兵役は最終試験の後まで延期された。
Dold: 貴方はブラウワー、マノリー、ヴァイツェンベックの許で最終試験を受けたのですか?
van der Waerden: いいえ、ド・フリースの許だった。ド・フリースも非常に独創的な人だった。彼は"数の幾何学"、すなわちシューベルトの数え上げ幾何学(それを彼はとても感心していた)に関するコースを行った。だが、この幾何学の基礎は駄目だった。だから、例えば数不変の原理は、幾何学的問題の解の数は随伴するパラメータが変化する時に変化しないと述べている。これが彼の主要論文だった。しかし、一つが一般的な場合から特殊な場合へ変化し、パラメータも変化すると仮定しよう。一般的な場合に対して複数の解が存在し、特殊な場合において一つの解のみ存在することがたまたま起こり得る。しかし、特殊な場合において解は重複度を入れてカウントされるべきだ。例えば、2つの円錐曲線は必ず4つの交点を持つ。それらが接する所において、そんな接点は重複点としてカウントする。これがシューベルトに不足していたことだ。彼は重複度の定義も、それを見つける方法も、それをどうやって計算するかも与えなかった。またイタリア幾何学者達は代数幾何学において注目すべき結果を得ていたが、基礎をほったらかした。従って、私は基礎を考え始めた。これに関するすべてのことを博士論文で議論した1。非常に短い時間で勉強を修了したから、私はゲッティンゲンでもう一つ別の学期を許してくれるか、そのための費用を払えるか父に尋ね、彼はいいよと言った。
Dold: 何年にこのことがあったのですか?
van der Waerden: えっと、世界大戦が終わるまでの間、1919年までHBSにいた。それから1923年にゲッティンゲンへ行き、ゲッティンゲンで私は数不変の原理を証明した。重複度の定義とそれを計算する手法を与えた。私は序論の中で次のことを書いた。"'数え上げ幾何学'と呼ばれるようになった代数幾何学の分科は今日まであまり安全とは言えない基礎に支えられている。幾何学の大部分が基づいている、シューベルトの数不変の原理はシューベルトの定式化においても、引き続く定義においても厳密ではなく、それらは欠陥もしくは不十分である"。それから私は数え上げ幾何学の厳密な基礎を与えた。私はそれを博士論文に仕上げたかったが、長すぎた。他にも、2つの言語オランダ語、ラテン語の内一つのみで博士論文は書かれるという規約があった。こうして私はドイツ語で提出を出来なかった。それで私の数え上げ幾何学の基礎をMath. Annalenに複数論文にして発表した。そして、私の博士論文として、これらのテーマの命題を証明抜きで提出した。この解決は受け入れられ、私の博士論文指導官は既に言及しているようにヘンドリック・ド・フリースだった。博士論文―えっと、日付はいつだったかな? 1926年3月24日にアムステルダム大学の大ホールにおいて私は自分の論文を擁護した。
Dold: こうして貴方はゲッティンゲンで博士論文について研究し、そのちょっと後で兵役をしなければなりませんでした。今回の間に論文について研究出来たのですか?
van der Waerden: デン・ヘルダーで海兵隊員をしている間に論文を書いた。当然、論文を議論するためにアムステルダムへ行く自由は無かったし、ほとんど自分一人で論文をやった。ゲッティンゲンでは、何よりもエミー・ネーターと知り合った。その時までになされたどんな研究よりも、彼女はずっと一般的に代数学を完全に改装してしまった。もっとはっきり言えば、彼女はゲッティンゲンにおける私の先生だった。このように私は彼女が開発していた手法を用いて私の定理を証明した。
Camilla van der Waerden: ゲッティンゲン滞在のためロックフェラー奨学金も貰った。
van der Waerden: そうそう、ゲッティンゲンで一学期後に、クーラントが私に注目し始めた。彼はエミー・ネーターの推薦をもとに私のため一年間のロックフェラー奨学金を獲得してくれた。これを使用して、私はゲッティンゲンでもう別の学期と、ハンブルクでアルティンとの一学期を勉強した。
Dold: その時にゲッティンゲンでは誰がいたのですか?
van der Waerden: 当然ヒルベルトがいたが、彼は非常に愛想がよかった。彼はよく私を家に招待したが、私の研究が彼にとって如何に興味深いか言えなかった。
Dold: 他に誰がいたのですか?
van der Waerden: フェリックス・ベルンシュタインもゲッティンゲンにいた。そして、その時"私講師"としてヘルムート・クネーザー、つまり3人のクネーザーの2番目(アドルフ・クネーザーの息子、マルティン・クネーザーの父)がいた。他では私の時代で、先ずハンズ・レヴィーとカート・フリードリヒがいて、彼等は偏微分方程式を研究しており、一緒に解の存在と一意性を証明していた。しかし、私が最も親密なのはヘルムート・クネーザーだったが、彼にブラウワーが私を紹介する手紙を書いていた。こうして始めから私は彼と親しかったし、彼から本当にトポロジーを学んだ。クネーザーと私は一緒に昼食を取るのが常だった。食事の後で彼は家に帰ったが、時折り私達は最初に軽い散歩をした。ゲッティンゲンの森をずっとぶらぶらし、彼は私に多くのことを教えた。いつも次のようだ。彼は私が完全には理解しない意見を述べ、それから私は彼が本当に言っていたことを調べるため図書館に入った。翌日に私は彼に解釈が正しいか訊いた。このように私は例えばトポロジーを学んだ。
Dold: ゲッティンゲンの高名な読書室をよく耳にします。
van der Waerden: はい、それは見事だった。自分で本を書棚から取れた。これは実にどこか他所で可能でなかった。アムステルダムでは大学図書館に入る時、最初にカタログの中を覗き、所定用紙に記入し、それを箱に置かなければならない。それから半時間して、リクエストされた本を得た。代わりにゲッティンゲンでは自分で書棚から本を得られたが、探していた本のすぐそばで、もう一つ別の興味深い本があることがよくあった。
Dold: ゲッティンゲンの雰囲気はそれらが言うように自由だったのですか?
van der Waerden: 私はそう思う。
Dold: 貴方がゲッティンゲンにいた間、その時に奥様と出会ったのですか?
van der Waerden: いいえ、それは後に起こった。私はゲッティンゲンで職を得た。
Camilla van der Waerden: しかし、貴方はゲッティンゲンからフローニンゲンへのオファーを受けた。
van der Waerden: それは次のような経緯だった。アムステルダムの公共図書館の読書ホールでバローによる解析幾何の中の記事を私は勉強していた。その本のパートⅡは不十分に証明された多くの定理(不十分に定式化されたものさえも)を含んだ。私は著者バローに手紙を書いた。私はまだ大学の学生ではなかった。まだHBSにいた。バロー(その時はフローニンゲンの教授)は職を去るならば、関係者はファン・デル・ヴェルデンを後継者としてノミネートしなければならないと言った。そして、事はそのように起こった。彼はユトレフトへ行き、関係者は私にフローニンゲンの職をオファーした。
Dold: いつフローニンゲンへ行ったのですか?
Camilla van der Waerden: 1927年か28年。それから1929年に私達は会った。
van der Waerden: 1927年だった。
Camilla van der Waerden: 同時にロストックへのオファーがあった。
van der Waerden: そうそう。
Dold: フローニンゲンでの状況はどうだったのですか? 何人学生がいたのですか? 貴方は単科大学に興味があったのですか?
van der Waerden: フローニンゲンではヴァン・デル・コルプトがいた。私は彼から多くのことを学んだが、特に漸近展開だ。私が読んだ漸近展開についての本を彼は書いた。
Dold: フローニンゲンにいた間に、代数学に関する本を書き始めたのですか?
van der Waerden: はい。それから1929年に私はゲッティンゲンの客員教授を獲得し、そこで細君と会った。
Camilla van der Waerden: 私がゲッティンゲンへ来た時、貴方はそこにいなかったが、私の兄(フランツ・レリッヒ)がいた。私は兄と生活することになり、薬局で働いた。後で、夏に貴方が客員教授として来た。そういうふうに私達は出会った。それから私達は結婚し、すべてが上手く行き、素晴らしかった。いや、非常に素晴らしかった。私達は7月に会って、9月に結婚した。それからフローニンゲンへ行った。しばらくして、私は確かに憶えているが、エミー・ネーターが電話で"ハネムーンを終える時よ。再び仕事に戻りなさい!"と言った。それから彼は仕事に戻り、一気に本を終えた。私は確かに憶えている。
Dold: 代数の基礎に関する、この本(Moderne Algebra I, Berlin, 1930)は非常な成功でした。始めからすぐに多くの読者を持ったのですか?
van der Waerden: はい、始めから。私の本Algebraに関して、経緯はこうだ。アルティンは本を書くことになっていて、私と一緒に書きたかった。第1章を書き終えて、それをアルティンに見せた。それから私は第2章を彼に送り、本の彼の担当部分の進み具合を訊いた。彼はまだ何もやっていなかった。それから彼は私と一緒に本を書くアイデアを諦めた。それにもかかわらず、本はアルティンとネーターの講義に基づいている。
Dold: どれくらいフローニンゲンにいたのですか?
van der Waerden: フローニンゲンでは2年間だ。それから私達はライプツィヒへ行った。
Camilla van der Waerden: これは1931年だった。1933年では、もう私達は行かなかっただろう。
Dold: その時、どの数学者がライプツィヒにいたのですか?
van der Waerden: ケーベがいた。
Camilla van der Waerden: 物理学者ハイゼンベルクとフント(彼等は数学者でないが)を除いて数学者達は貴方を魅了しなかった。
van der Waerden: ハイゼンベルクとフントは一緒にセミナーを持ち、私は出席した。私が物理学を学んだのは、この機会だった。アムステルダムでは物理教育が良くなかった。アムステルダムで私はファン・デル・ワールス、つまりノーベル賞受賞者ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールスの息子に習った。
Dold: これらの交流が貴方の研究に影響しましたか?
van der Waerden: 私は群論と量子力学に関する本を書いた。当時ジョン・フォン・ノイマンとウィグナーによって作られた、群論から量子力学への応用がある。ヘルマン・ワイルがGroup Theory and Quantum Mechanics(だったと思う)とタイトルされた議題に関する本を書いていた。しかし、彼の本はとても難しく誰も理解しなかった。ヘルマン・ワイルは美しさのために数学を書きたかったが、私はあまり美しいと思わなかった。このように私は量子力学における群論手法に関する新しい本を書いた。その本は物理学者達に上手く受入れられ、すぐに売り切れた。後に私はそれを英語で書き直した。今だに入手可能だ。
Dold: ハイゼンベルクとフントはライプツィヒに残りましたか?
van der Waerden: ハイゼンベルクはベルリンへ行った。
Camilla van der Waerden: ずっと後、戦争の最終年に彼はベルリンへ、更にカイザー・ヴィルヘルム研究所(現在はマックス・プランク研究所)へ行った。
Dold: 戦争の間、物事は通常に続きましたか? 学生達はいたのですか、もしくは彼等は皆徴兵されたのですか?
van der Waerden: 学生達の殆どが徴兵されたが、私は後に有名になる一人を持った。彼は中国人ウェイ・リァン・チョウ(1911–1995)だった。私達は共にパラメータを使って代数多様体を表現する手法に関する論文を書いた。すべての代数多様体には私が発明した形式が付随される。チョウは証明を与えた。これに関する共著の論文を発表した。
Dold: チョウの有名な学位論文は、この共同研究から来ているのですか?
van der Waerden: はい。私達は方程式によって代数多様体を表現する方法を見つけた。すなわち、r-次元多様体がr超平面と交叉する時、私達は交叉の点を考える。各超平面により次元は一つ減り、このようにr超平面を持つ交叉は点の有限集合だ。各点はその座標によって決定される。さて一つがr+1超平面と交叉するならば、これらのr+1超平面に対して多様体と共通する点を持つための条件が存在するだろう。これが私達に方程式をもたらし、方程式の係数はチョウ座標だ。私はアイデアを思いつき、それを言った時チョウは証明を見つけた。今やW-L. チョウは米国におり、有名な数学者だ。
Dold: チョウは貴方の最も高名な学生です。しかし、貴方は有名になった学生達を持ったことがあります。ヘルベルト・ザイフェルトはライプツィヒで貴方の学生ではなかったのですか?
van der Waerden: いいえ、ザイフェルトはライプツィヒで私の助手だった。しかし、私の学生ではなかった。私がライプツィヒへ行った時、彼は既に立派な数学者だった。彼はトポロジーについて素晴らしい本を書いた。私は後にチューリッヒで二次形式について研究する多くの学生達を持った。彼等の学位論文は私の研究の一つと共に私が発表したが、それは私とハーバート・グロスにより編纂され、題名がStudies on the Theory of Quadratic Formsだ。グロスの他にもAeberli、Germann、Benz、Demuthを思い起こす。
Dold: ライプツィヒで貴方は哲学者ガダマ3も知りました?
Camilla van der Waerden: 私達は大親友だった。実に非常に素晴らしかった。
Dold: ギリシャ数学における貴方の興味を目覚めさせたのはガダマでしたか?
van der Waerden: はい、ガダマはプラトンについて非常に研究していた。私は彼のコースを受講さえした。
Dold: これはいつだったのですか?
Camilla van der Waerden: 終戦時。彼は素晴らしいコースをやった。
Dold: そして、これが貴方のギリシャ数学への興味を増大させました?
Camilla van der Waerden: 確かなことは言えない。戦争の間、私達は科学について彼等と話さなかった。リットとガダマは両方哲学者だが、彼等とはナチズム及び、いつまで続くのかを話した。二人ともナチスでなかった。その時私達は科学について話さず、ただ、もっとはっきり言えば、いつまで続くのかだけを話した。私達はナチズムの全時代の期間に閉じ込められていた。代わって、ハイゼンベルクとフントとは政治についてではなく科学について話した。それは奇妙なことだった。
van der Waerden: ガダマはプラトンの国家篇についてのコースを行ったが、私はそれに受講した。これはナチズムの期間だった。プラトンが国家篇で示す通りにガダマは独裁者は必ず筋道の通った人に敵対し、最後に独裁者は必ず自分自身を殺すと解説した。独裁者は最初に敵を、それから友人達を、最後に自分自身を破滅させる。クラスにはナチス学生達もいたが、彼等は理解しなかった。
Camilla van der Waerden: 彼等は何も決して理解しなかった。
Dold: これが戦争の間でした。それから貴方はライプツィヒを去らねばなりませんでした?
van der Waerden: 1943年12月4日に私達は空襲で焼け出され、細君と私は子供達を連れてドレスデンへ去った。
Camilla van der Waerden: 私の兄がドレスデンにいた。しかし、私達はそこで一晩しかいなかった。
van der Waerden: 兄はフランツ・レリッヒだった。ライプツィヒからドレスデンへの旅行の間に、私達は私の学生達の一人に出会った。彼女は同じ列車に乗っていて、"ビショフスヴェルダへ私達の所へいらっしゃい。そこでは安全でしょう"と言った。ビショフスヴェルダはドレスデン近郊の小さな町だ。
Camilla van der Waerden: 私達はそこで一年、もしくは多分もう少し長くいた。1944年の終わりに私達はライプツィヒに戻った。街は度重なる空襲にさらされた。
Dold: 貴女は何かものを持ち出せたのですか?
Camilla van der Waerden: 夫は"何も持ち出す必要はない"と言った。しかし、私は秘かにナップザックの中に私達5人各自の銀食器(ナイフ、フォーク、スプーン)を入れた。後にこれがとても役立った。
Dold: それから第三帝国の陥落が来ました。
Camilla van der Waerden: 私達はオーストリア内の国で生き延びた。1945年には絶え間ない爆撃をもう受けなかった。だから私達は私の母の所へ行った。彼女はグラーツの近く、タウプリッツに住んでいた。
Dold: 貴方はそこで数学に打ち込めたのですか?
van der Waerden: いいえ、かなりの間、私は何もしなかった。
Camilla van der Waerden: そこでは食べ物を生産することが如何に困難か分かった。そこから私達はオランダへ行った。
Dold: いつオランダへ戻ったのですか?
van der Waerden: 1945年7月。タウプリッツで私達は"難民"だった。米国人達がそこにおり、私達をバスで連れ去った。
Camilla van der Waerden: 米国人達は"今や皆が生まれた国に戻る"と言った。このように私達オランダ人はオランダに戻るべきだ。ヨハンネス・ヘースタース(夫は彼からのアドバイスを求めた)はオーストリアに残った。彼はオランダに戻らなかった。
Dold: 貴方はオランダに職があったのですか?
Camilla van der Waerden: 当時私達のいる状況を説明することは不可能だ。誰もこれを想像出来ない。
van der Waerden: ユトレフトからオファーがあった。戦争中、関係者達はユトレフトに私が来たいか書いて来た。私は"今でないが、戦後に私は来るでしょう"と返事した。ナチズムの間に私がオランダに行ったならば、ナチス内務大臣から称号を受けたであろう。そして私はこれが起きて欲しくなかった。それから私達は実際バスで到着した。その間に私の両親は死に、私の父がラーレンに建てた家に私達は住んだ。
Camilla van der Waerden: 私達は金無し、何も無しで到着し、指図にも他のどこにも仕事が無いことが分かった。
van der Waerden: その時ユトレフトからの、このオファーがあった。ユトレフトには私の良友フロイデンタールがいた。書類が大臣に行ったが、ナチス時代のすべての期間において私がドイツにいたので、女王は書類に署名することを拒否した。
van der Waerden: 人は実にそれを理解出来る。後で私はそれを完全に理解した。
Dold: このように貴方は職がありませんでした。家を持っていたが、他に何も持っていません。どのように暮らしたのですか?
Camilla van der Waerden: ある日、彼が帰宅して"ひと月以上暮らすには十分だろうが、それからは残っているものは何もないだろう"と言った。
van der Waerden: 終いに、ある日フロイデンタールが電話をかけて来て、私に話をするためアムステルダムに来て欲しかった。アムステルダムへ行き、フロイデンタールは私の職をシェル[訳注: 私は正直驚いたのですが、このシェルと言うのは紛れもなく、あの世界的石油会社シェルのことです]で見つけられたと言った。"受けてくれるかい?" はい、もちろん。私はこの上なく喜んで引き受けた。
Camilla van der Waerden: だから私達は救われた。彼等は私達の知性以外のすべてを奪えると私はいつも言って来ている。そして、その通りだった。
Dold: シェルで貴方は何をしたのですか?
van der Waerden: シェルではエンジニア達が難し過ぎると思う問題を私は解いた。楽しかった。彼等は全く異なる問題を抱えていた。例えば、調整機器の最良の回路は何か? 一言で言えば、最適化の問題だ。シェルでは、もう一人別の数学者がいて、彼と一緒に最適化の問題を研究し、素晴らしい解を見つけた。
Camilla van der Waerden: 私達にとっていい時だった。しばらく、何かがかなり違った。
Dold: どれくらいシェルにいたのですか? その後何があったのですか?
van der Waerden: 1947年にボルチモアで一年を過ごした。彼等は私にいて欲しかったが、私は断り、アムステルダムを選んだ。アムステルダムは市の大学であり、そこでは女王が干渉出来なかった。調停をし、関係者達に私へのアムステルダムのオファーをさせたのはヴァン・デル・コルプトだった。
Dold: それにもかかわらず、貴方はアムステルダムにそれほど長くは残りませんでした。
Camilla van der Waerden: それがそこでは大きなトラブルを与えた。関係者達は彼のために大変な努力をして来た。彼はチューリッヒからオファーを貰ったから去った。
van der Waerden: 私達は2年アムステルダムにいた。
Camilla van der Waerden: そして、1951年に私達はチューリッヒに来た。
Dold: 貴方の残りの人生をここチューリッヒで使いましたか?
Camilla van der Waerden: 2年後、ミュンヘンからオファーがあった。1953年に私達は行けたであろう。しかし、私達の子供達が変化全体に不安になっていたので、私達は受けなかった。
Dold: その時チューリッヒで誰が同僚でしたか?
Camilla van der Waerden: フィンスラーとネヴァンリンナ。
van der Waerden: そうそう、フィンスラーとネヴァンリンナ。私達は当時たった3人の教授だった。現在、数学で7つのポストがある。チューリッヒに関して特別なことはETH[訳注: チューリッヒ工科大学のこと。因みに言うとETHは国立大学ですが、チューリッヒ大学はチューリッヒ州の管轄ですから州立大学とも言えます]もあることだ。ハインツ・ホップとベノ・エックマンがここにいた。エックマンと一緒に私は、クーラントによって始められたシリーズ"イエローシリーズ"を刊行した。これらは黄色い表紙を持つ本だ。私の代数学はそこで刊行された。エックマンと私はかなり長い間(私が彼に完全に任せるまで)編集した。
Dold: 貴方はETHの同僚達と親密だったのですか?
Camilla van der Waerden: 大変けっこうでした。彼がいつも出席するセミナーがあった。夫はETHと大学の間に区別をつけなかった。時々彼は"これらのクラスはETHで取る方がいい。それらはETHでハイレベルだ"と学生達に言った。
Dold: いつ貴方は数学史に興味を持ったのですか?
van der Waerden: 私が学生だった時、ヘンドリック・ド・フリースが数学史のコースをした時。その後、私はユークリッドといくらかのアルキメデスのものを読んだ。このように私の興味は早く始まった。ゲッティンゲン(最初に私がいた時)でノイゲバウアーの講義に出席したが、彼はギリシャ数学に関するコースをした。
Dold: ノイゲバウアーはバビロニアに関して主に研究しました。彼はギリシャ数学に関するセミナーもしたのですか?
van der Waerden: 彼はギリシャ数学に関しても講義した。当時ゲッティンゲンでノイゲバウアーは特にエジプト数学に関して研究し、それに関するクラスをした。彼の学位論文はまさにエジプト数学についてだった。これは非常に刺激になった。後に私は一度コペンハーゲンに彼を訪問し、その時彼は私にバビロニア天文学を語った。これは私にとって最も興味深かった。
Dold: いつ数学史に関する研究を始めたのですか? 貴方の本Science Awakeningが50年代の始めに出現したと私は思います。オランダにいる間に本を書いたのですか?
van der Waerden: はい。ここに(ドイツ語訳の)序論の中で"私の本、1950年にオランダ語で最初に刊行されたOntwakende Wetenschap[訳注: これはオランダ語で、"科学の目覚め"]の多くの親切な評者は本がドイツ語に翻訳されることを勧めた"と書かれている。Helga Habicht-ファン・デル・ヴェルデン、私の一番年長の娘がそれの正確で読みやすい翻訳を終えてしまっている(Erwachende Wissenschaft, Basel/Stuttgart, 1956)。第2版、増補版は1966年に出版された。
Dold: 本に対する反応は何だったのですか? Erwachende Wissenschaftに対して?
van der Waerden: まあ、広く読まれた。よく売れて、よく引用されている。多くの言語に翻訳されている。日本語、英語、ロシア語。
Dold: 数学史に関する貴方の最初の刊行はこれだったのですか?
van der Waerden: そう思う。
Camilla van der Waerden: はい、それが最初だった。
van der Waerden: その時以降、私は数学史に興味を持ち続けた。天文学史にも。それはずっと最近に私に非常な興味を持たせている。
Dold: 量子力学の歴史に興味を持ったこともありますか?
van der Waerden: いいえ、量子力学の歴史においてではない。私のSources of Quantum Mechanicsは資料本だ。
Dold: 貴方が50年代にチューリッヒへ来た時、数学史に関するコースをしたのですか?
van der Waerden: いいえ、しなかったと思う。私は数学におけるコースをしたが、天文学と数学の歴史に関する研究もした。
Dold: 私の間違いでなければ、貴方はインド数学にも熱中しました。
van der Waerden: インド数学、いいえ、インド天文学だ。インド天文学について、アーリヤバタについて私は研究した。
Dold: チューリッヒへ来て以降、何の数学について研究したのですか?
van der Waerden: ええと。私の重要な論文はMath. Zeitschriftに載った。そしてMath. Annalenには"On Algebraic Geometry"というタイトルの論文のシリーズ(ZAG): I, II, ..., XXが載った[訳注: ZAGとはZur Algebraischen Geometrieの略称]。
Camilla van der Waerden: 代数幾何学に関する、これらの論文は50年代より前よ、チューリッヒに来た時からではない。チューリッヒではもうしなかった、違う?
van der Waerden: これは間違いだ。最後の論文ZAG XXはかなり最近、1971年だ。
Dold: そのように貴方は、群論、代数学、ハイゼンベルクとフントとの共同で力学、数論(代数学の一部分だと考えられますが)、数学史を研究しました。これらはかなり異なる分野です。これらの分野のうち、どれが最も貴方を喜ばせましたか?
van der Waerden: こともあろうに、代数幾何学だよ。
Camilla van der Waerden: まさか、しかし、私の知っている限り、それは数学史よ。
van der Waerden: うんうん、そして天文学史だ。
Camilla van der Waerden: 実を言うと、これが長年彼を最も喜ばせた。
Dold: 奥様はいつも数学史に興味を持っていらっしゃるのですか? これは本当に数学よりも理解することが易しい。
Camilla van der Waerden: 私はいつも彼がもっと数学に関わったことを好んでいる。しかし、彼はそれをしなかった。歴史についてもっと時間を増やし、数学についてもっと時間を減らしなさいと私は彼に言って来ている。
Dold: 貴方達のお子様達は数学に興味があったのですか? 貴方達の娘Helgaは本(Science Awakening)をドイツ語に翻訳したのですから、彼女はいくらか興味がありました。そして、他の二人は?
van der Waerden: 断固として、いいえ。3人の誰もが興味を持たなかった。私の孫達のうち一番年少が多分いくらか持っているが、まだ早すぎて語れない。彼はたったの10歳だ。
Dold: 貴方の指導の許で、チューリッヒの研究所は大きくなりました。貴方はもっと多くのポスト獲得に成功しました。貴方が着任した時、たった3つのポストしかありませんでした。1973年、貴方が引退した時にいくつあったのですか?
van der Waerden: 多くはないと思う。しかし、うんうん、私の引退前にグロスが大学に来た。彼は一時的にETHにいた。
Dold: 貴方が引退した時、(チューリッヒ州の)教育秘書官キュンチが貴方の70歳の誕生日の機会に数学史のための研究所を図書館付きで造りました。
van der Waerden: はい、しかし、図書館の一部は私の個人的な蔵書であって、それを研究所に寄贈したんだ。
Dold: 貴方は長年この研究所で研究を続けました。
van der Waerden: はい、ノイエンシュバンダーは彼の学位論文を私と書きました。
Camilla van der Waerden: 最初彼が学位論文を貴方と書き、その時に研究所が設立された。しかし、貴方の後継者は研究所に関する何事も他のことも知りたくなかった。
van der Waerden: 研究所は私の後継者によって廃止された。
Dold: スイスでは数学史に対する興味は非常にまれです。これに対する説明を持っていますか? 本当は豊かな国です。国が何とか出来るでしょうに。
van der Waerden: はい。
Camilla van der Waerden: 現在関心を持たれている唯一の人はCostantinescuだ。彼はETHで研究し、何かを、少なくとも"私講師"によってなされるコースを組織しようと努めている。彼は学生達が大変興味を持っていることを何度も気づいている。彼がイニシアティブをとる時はいつでも、いつも多くの注目がある。しかし、彼も勝てない。
Dold: 多分、適任の人々がここにはいないのでしょう。
Camilla van der Waerden: これは確かに理由。人々が欲しいのは数学者でもある数学史家。これは多くの人にとってハンディーキャップだ。この意味で私の夫は何の困難も無かった。
Dold: 研究所が廃止された後、ここ家で研究を続けたのですか? 私は貴方が古代数学について研究していたこと、代数学の歴史、とりわけ現代代数学の歴史(その中で貴方は一部分だった)に関する本(A History of Algebra, Berlin/Heidelberg, 1985)を書き上げていることを知っています。
van der Waerden: はい。私の最新の論文は天文学についてだ。第一部はブルクハルトと書いた1968年の"The Astronomical System of the Persian Tables I"である。第二部はずっと後、1987年に刊行された。
Dold: 貴方が着任した時、ブルクハルトは既にチューリッヒにいたのですか?
van der Waerden: 私は彼とずっと前、ゲッティンゲン時代に知り合いになった。これが私達の唯一の共同論文だ。
Camilla van der Waerden: スイスの状況を知らないで私達がここへ来た時、ブルクハルトは夫の大きな助けだった。彼がここにいなかったならば! 彼は夫にすべてのことで助けアドバイスした。1951年、スイスにおける状況は全く異なった。
Dold: 天文学的システムについて研究を続けていますか?
van der Waerden: いいえ、この議題は今や終わっている。それ以降、私は何も発表していない。しかし、議題はまた私に興味を持たせる。
Dold: 貴方は他の数学史家と親しい関係にあったのですか? 例えばフロイデンタールと。
van der Waerden: はい、フロイデンタールは教授になる前にブラウワーの助手だった。
Camilla van der Waerden: 彼は私達がまだオランダにいた時に教授になった。フロイデンタールは貴方より年少なの、それとも年長なの?
van der Waerden: 彼はずっと若かった。
Camilla van der Waerden: 彼はかなり前に亡くなった。彼はずっと若かった。彼はユダヤ人だったのに、オランダで生き延びた。
Dold: ドイツの数学史家との関係は何だったのでしょうか?
Camilla van der Waerden: 私はもう一人、ヴァイトナーを言わねばならない。彼はグラーツにいた。毎年夏に私達は私の母を訪ね、毎回夫はヴァイトナーとしばらく過ごした。彼と一緒にいることが最も楽しかった。そして、他の歴史家? ライプツィヒで誰がいたのかどうか憶えていない。ライプツィヒで数学史に興味を持っている人がいたの?
van der Waerden: いない。
Camilla van der Waerden: 彼はいつも偉大で孤独な人物だった。
Dold: 貴方達が私に語って頂けたことすべてが素晴らしいです。本当に有難うございます!

13504227 journal
数学

taro-nishinoの日記: グロタンディークに関する青春の思い出

日記 by taro-nishino

前回マイケル・アティヤ卿の"私が知った時のグロタンディーク"を紹介しました。この追悼記事を私が読んだ時の印象を書くと、アティヤ卿はあくまで数学者グロタンディーク氏を話題にしたいのであって、それ以外の、例えば個人的生活等には触れたくもないという感触を受けました。アティヤ卿は"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"の中で、グロタンディーク氏の学問的に等身大の伝記は"彼を個人的に知っていた数学者により書かれることが望ましい"と書いているのですが、アティヤ卿の冷徹な追悼記事を読んで、これでもう卿がグロタンディーク氏の伝記を書くことは(年齢的にも無理でしょうが)無いと確信しました。そして、アティヤ卿はグロタンディーク氏が数学を止めた以降のことにも非常に冷淡です。そのことはセール博士もアティヤ卿と同様に冷淡ですが、まぁセール博士にすればCorrespondance Grothendieck-Serreを出したことだし、もういいだろうと言うかも知れません。
さて、今回紹介するのは同じくAMS Noticesの2016年3月号からピエール・カルティエ博士のSome Youth Recollections about Grothendieckです。これを読めば、どういう理由でグロタンディーク氏がブルバキを辞めたのか分かるはずです。巷では、特に日本においてはブルバキのÉléments de mathématiqueをキャテゴリー論に基づいて書直すべきというグロタンディーク氏の提議が拒絶されたからという説を馬鹿な輩(アミール・D. アクゼル氏の和訳本や、数学に関して明らかに素人だと思われるサイエンスライターが面白おかしく書いた本等の影響?)がまことしやかに言っているようですが、全く出鱈目であることが分かります。
要はグロタンディーク氏がアンドレ・ヴェイユ博士の強烈な個性についていけなかったことが原因だったのです。ヴェイユ博士が何人に対しても辛辣で、いつも何かしら怒鳴っていた(ご自分の娘さん達に対してさえも)し、癇癪持ちであったことは有名な話であって、身近の人々は怒鳴られても聞き流していました。グロタンディーク氏はそのことを知らずにブルバキに入ったのかどうか知りませんが、たとえ知らなかったとしても子供じゃあるまいし、何故聞き流せなかったのか不思議です。それほどうぶだったと言わざるを得ません。
その私訳を以下に載せておきます。なお原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。原文にある注釈を省いていますが、インデックスはそのままです。

[追記: 2018年1月27日]
上記で述べたグロタンディーク氏とセール博士の文通書簡集Correspondance Grothendieck-Serreについて、その書評をジョン・テイト博士も書いています。それについては"書評 グロタンディークとセールの文通書簡"を見て下さい。

グロタンディークに関する青春の思い出
2016年3月 ピエール・カルティエ

グロタンディークの科学的誕生は1948年10月で20歳だった。モンペリエ大学から学士(バチェラーと同等)を受けた後、彼はパリで博士課程の奨学金を得た。この年は有名なカルタンセミナーの始まりだった。グロタンディークはそれに出席したが、あまり面白くなかった。それからナンシーへ移り、彼の有名な博士論文につながる、函数解析における研究を始めた。
私の科学的誕生は1950年10月であり、その時はエコール・ノルマル・シュペリウールで学生として受け入れられた。私は本当にすべてのことを学びたく、代数トポロジーとホモロジー代数に終生興味を持ったので、アンリ・カルタンとサミュエル・アイレンベルグに終生の友情を持った。
この期間、グロタンディークの名声はナンシーで急速に発展し、パリ(!!)においてさえ、私達は注目した。彼と私が最初に会った時を正確には憶えていないが、多分1953年くらいで或るブルバキセミナー2の機会だった。彼の研究を初めて私が知ったのはローラン・シュヴァルツを通じてだった。シュヴァルツがパリに向けてナンシーを出発した時、私達はもう別の数学的父を持った(最初はH. カルタンだ)。彼は"超函数"の発明で非常に有名であり、熱狂的な支持者達(ジャック=ルイ・リオン、ベナード・マルグランジュ、アンドレ・マルティノ、フランソワ・ブリュア、私)に函数解析を教えた。パリでの彼の最初のセミナーはグロタンディークの博士論文に費やされ、私は活発に参加し、"カーネルの理論"[訳注: もちろんカーネルには核という訳語があることを承知していますが、"核の理論"なんて洒落にもなりませんので、あえて片仮名表記にしました]とキュネット定理の位相バージョンに特に興味を覚えた。2つのかなり思いがけない展開はグロタンディークの博士論文から来た。最初、フランスにおいては複素解析函数のコホモロジー理論に最後の仕上げをするため難解な解析的手法を使うH. カルタン、ジャン=ピエール・セール、L. シュヴァルツの実りあるコラボレーションがあった。その次に、その時はソ連のゲルファントが確率論(ミンロスの定理とランダム分布)と数理物理学(量子場理論)への応用のために位相テンソル積と核型空間を使った。函数解析から代数幾何学へのグロタンディークの研究の変化をトレースすることは興味深いだろう。私はこれをいつか展開することを計画しているが、ここは相応しいところではない。
私達が親密だった時期はほぼ1955年から1961年までであり、そこではブルバキが大きな役割を果たしている。私達の最初の出会いの一つを私は鮮明に憶えており、アンリ・ポアンカレ研究所だった。グロタンディークが凸状不等式に関する特別講義をした後のブルバキセミナーで1955年の3月だった。彼は私に"もう間もなく私達の両方がブルバキに合流するだろう"と言った。私は1955年6月に規則正しくブルバキ会議に出席し始めた。グロタンディークは間もなく合流し、1956年から1960年まで積極的に出席した。1955年6月、会議の期間に読んだ最も面白い作品の一つが彼の有名なTôhoku論文[訳注: 東北大学が発刊するTôhoku Mathematical Journalに掲載された"Sur quelques points d’algèbre homologique"("ホモロジー代数のいくつかのポイントについて")のこと。何故この雑誌に発表されたのか、その経緯を知りたい人はCorrespondance Grothendieck-Serreを参照して下さい]の第一草稿だったが、彼はそこでホモロジー代数の新しい誕生を与えている。その時の、特に1955年のセールの論文"Faisceaux algébriques cohérents"[訳注: "代数的連接層"]出現の後で、主要な課題の一つは最も一般的な位相空間(特に、ハウスドルフでなく局所コンパクトでない)に対して妥当な層コホモロジーの理論を発明することだった。要求されたことは単射的分解の構築だが、誰も層に対して、それを作る方法を知らなかった3。後にグロタンディークのお気に入りの手法となったものの内で、彼は上記からの問題を解いた: 単射的分解を許すためキャテゴリーに必要な近似概念を探し、最も一般的な位相空間において層のキャテゴリーがこれらの概念を満足するか確認すること。
ブルバキに戻ろう。ターニングポイント、すなわち世代交代があった。(6シリーズの中の)いわゆる第一部は、集合論に関するすべての事柄と同型写像と構造の広く浸透した概念に基づいて、基礎にささげられた。当時第一部の刊行はかなり進行したが4、その後に何が来るべきか? 他の多くのプロジェクトの中で、幾何学―エリ・カルタン5の遺産である微分幾何学と代数幾何学の両方(シュヴァレー、ラング、サミュエル[訳注: アイレンベルグのこと]、セール、ヴェイユにとって大事だった)が要だと思われた。私達はすべての種類の多様体の統合された解説を与えたかったが、3つの競合する提案があった。すなわち、環つき空間(カルタン、セール)、"チャート"の局所キャテゴリー(アイレンベルグ)、微分学の更なる代数バージョン(ヴェイユ、ゴデメン、グロタンディーク)。最終的に受け入れられたものは無かったが、グロタンディークはそれらをすべて彼のスキーム理論に使用した。
2、3の個人的思い出を加えさせてほしい。これらブルバキの夏季会議すべてがアルプス内で行われた。最初はディー6に近いÉtablissement Thermo-résineux de Salières-les-Bains(一種の手の込んだサウナ施設)内で。それからペルヴー・ル・ポエの山の中の静かなホテル内で。私はディーでグロタンディークの遅い到着を憶えている。彼は車で一緒に向かいたいというセールとの約束を見落とし、夜行列車で向かうという私達との別の約束も見落としたが、そして間違っている列車に乗り、挙句の果てにヴァランスからディーへヒッチハイクすることとなった! セールはそれほど面白がってはいなかった。別の時に、彼は私に読むようにとドキュメントを渡したが、そのページの間に不幸なブラジル人ガールフレンドからのドイツ語で書かれた手紙があった。
私はさほど珍奇ではない出来事を憶えている。ディーの近郊、山奥にマルセル・レゴが住んでおり、彼はH. カルタンとA. ヴェイユの古い友人だった。ヴェイユの自伝はレゴを"敬けんの研究"の著者と呼び、1970年代にグロタンディークはそれらの本に繰返し言及した。レゴは数学を止めて羊を畜産したが、一種のファランステール、やがてヒッピーコミューンの波となるもののグルになった。H. カルタンの適切な説明書を持って、グロタンディークと私はグルを訪問するため長い道のりを一緒に歩いた。道中で、数学は99パーセントの労力と1パーセントの興奮であり、数学を止めて小説と詩を書きたいと彼は私に告白した(それを最後には彼はやった!)。これは彼の母の死の時あたりで、彼の母は作家7になりたかったことは知られている。私達の会合の一つに彼は母を連れて来たが、彼女はシャイなままだった。
1960年の夏のブルバキ会議の間に、ヴェイユとグロタンディークの間で衝突があった。微分学に関するグロタンディークのレポートを私達が読んでいる間にかなり突然に始まった。ヴェイユは誰も真剣には取らない(グロタンディークを除いて)、彼のよく知られている嫌味な注意の一つを発したが、グロタンディークは部屋を去り、数日間戻らなかった。両者は我慢出来ない性格だったし、私達は何が特に問題なのか分からなかった。S. ラングとJ. テイトの交渉手腕のある努力にもかかわらず、グロタンディークはブルバキからの自ら課した追放を再考しなかった。
1970年代におけるグロタンディークの政治的活動の長い話を私が述べるにはもっと余白を必要とするだろう。彼は反体制派の活動家達の中でもいつも異論者だった(ヴェトナム戦争を考えてみよ)。たとえ貴方の政治的ラインが彼自身のものにかなり近くても、彼は如何なる妥協も拒否したかったから、彼の側に立つことはしばしば苦痛な体験となった。そして、これは彼がいつも人生を生きるやり方だった。彼はいつも反逆者だった。

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数学

taro-nishinoの日記: 私が知った時のグロタンディーク

日記 by taro-nishino

大学の教壇に立つ友人共の話によれば、彼等が教えている(または教えた)学生達の何人かは、私のこの"私訳"シリーズを読んだことがあるそうです。たまたま友人共の一人がルベーグ積分の講義を担当した時、グロタンディーク氏が高校生から大学生にかけて自力でルベーグ積分を構築したことを学生がさも得意げに喋っていたから、どこで知ったのかを聞くと、この"私訳"シリーズを読んだことを白状したそうです。友人は私に、学生がそんなどうでもいいことにうつつを抜かすよりもルベーグ積分をしっかり勉強して、いい成績を取る方が肝要だろうと苦笑し、"私訳"シリーズに責任ありと冗談で言ってました。
確かに"私訳"シリーズにおいて、かなり昔にAllyn Jackson女史の"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その1"等で、そのようなエピソードが出て来ました。しかし、理系の人なら論理的にしっかり読んで欲しいのですが、Jackson女史はあくまでグロタンディーク氏のRécoltes et Semailles("収穫と種蒔き")に沿って筆を進めているに過ぎず、実際にそれが本当かどうかの判断を入れてないことに注意して下さい。つまり、あくまで"収穫と種蒔き"を前提にしているのです。しかし、"収穫と種蒔き"を原文で少しでも読んだことのある人なら実感出来るように、いろいろな箇所で話を盛っている可能性を捨て切れないと思います。
私はルベーグ積分のエピソードに関して、全くの嘘ではないにしても話を盛っていると思っています。理由は二つあります。グロタンディーク氏がルベーグ積分に関する論文を書いた、書いたと一方的に言っているに過ぎず、その草稿は残っておらず、ブルバキの誰がそれを読んだのかもはっきりしていません(アンドレ・ヴェイユ博士が読んでないことは断言出来ます)。巷ではアンリ・カルタン博士が読んだことにされているようですが、その割にはカルタン博士は後にその件で何も語っていませんし、グロタンディーク氏の話題に及んでも、草稿を目にしたとは不思議なくらい一言も言ってません。仮に百歩譲って、実際に草稿があったとしても、取るに足らないものだったはずです。何故なら、ルベーグと結果が同じだったとしても、グロタンディーク氏の言う通り、本当に独自のツールとフレームワークを開発して理論を構築したならば、立派にグロタンディーク積分と認知されたはずだからです。またグロタンディーク氏の最強の味方であるピエール・カルティエ博士ですら実際に草稿の存在を目にした訳ではなく、草稿を誰かが読んだらしいという又聞きに過ぎません。グロタンディーク氏は、自分の父親に関して有名アナキストだと言ったという思わせぶりの件にしてもそうですが、青少年の頃のコンプレックスは相当に根深いことを伺わせます。そんな過去のことを気にせずに、数学者になって以降にやって来た業績で十分胸を張ればいいのにと凡才の私は思います。以上が一つ目の理由です。
グロタンディーク氏は面積とは何かという疑問から出発しているのですが、ルベーグはそんなナイーブ(日本ではいいようにとらえているようですが、馬鹿、世間知らず、素朴等否定的意味合いが本当です)なことから出発してません。つまり、問題意識が違うのです。ルベーグは今日言うところの強収束定理を念頭に入れていたのです。ですから、少年グロタンディーク氏のようにナイーブではなく、プロフェッショナルの仕事としてルベーグはやったのです。両者が全く同じ結果を生んだとは正直思えません。以上が二つ目の理由です。
さて、ルベーグ積分のエピソードはこれくらいにして話は変わります。AMS Noticesの2016年3月号及び4月号にグロタンディーク氏の追悼記事があったことは皆さんもご存じでしょう。それらの中から今回はマイケル・アティヤ卿が書いたGrothendieck As I Knew Himを紹介します。なお、原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2018年1月15日]
グロタンディーク氏の"収穫と種蒔き"は伝記的記述、特に数学者になる前の記述にはかなり歪曲があります。例えば、父親、母親、異父姉の件等、家族関連はほぼ歪曲されています。これらに関しての事実はミュンスター大学名誉教授Winfried Scharlau博士の著書Wer ist Alexander Grothendieck?を参照して下さい(これは全4巻からなり、一応完成しているのは第1巻と第3巻で、今なお執筆中です)。

[追記: 2018年2月8日]
他の数学者によるグロタンディーク氏の追悼には他にもピエール・カルティエ博士の"グロタンディークに関する青春の思い出"があります。

私が知った時のグロタンディーク
2016年3月 マイケル・アティヤ

私がグロタンディークという旋風と出会った最初は、ごく初期で1957年のボンでのごく小さなArbeitstagung[訳注: これは独逸語でワークショップの意味です。数学界では誰もが知っている名称なので、以降和訳せず、そのまま表記します]だった。毎日グロタンディークが数時間喋り、ヒルツェブルフ-リーマン-ロッホ定理(HRR)の彼の新しいK-理論一般化を詳細に述べていたことを憶えている。ドン・ザギエによれば、Arbeitstagungの議事録は4日間に渡って合計12時間彼が喋ったことを示す。それは浮き浮きとする体験だった: 輝かしいアイデア、気迫のこもった講義。その時幸いにも私は若く、グロタンディークとほぼ同年齢で、彼の偉大な結果を吸収し、結果的に拡張出来た。
今から思えば、彼は然るべき時に然るべき人だったと見ることが出来る。セールが層コホモロジーを含んで代数幾何学の新しい基礎を置き、ヒルツェブルフがチャーン類に基づく一般コホモロジー形式論を展開し、それを彼とボレルが最新式にした。多くの人にとって、HRRが何百年の代数幾何学の最高潮、頂点だと思えた。だが、グロタンディークはブルバキの力を借り、将来は普遍性とファンクター性[訳注: 関手性という無意味な訳がありますが、私見では日本数学史上最低な訳だと思っており、適当な訳が無ければファンクターとそのまま表記すればいいだけと考えます。圏だってそうです。キャテゴリーとすればいいんです。例えばhomology、cohomologyはホモロジー、コホモロジーとしているのに一貫性が無さ過ぎでしょう]が有力になるだろうと待望した。彼のK-理論の導入と展開はホモロジー代数に関する彼の熟達と名人芸にかかっており、それは凡人が踏むことを恐ろしいと思うような道を完全に制圧して貫通した。出現したもの、つまりグロタンディーク-リーマン-ロッホ定理はHRRの輝かしいファンクター化であり、証明は練習問題となってボレルとセールに任された!
彼の函数解析における初期の研究に続いて、この偉大な勝利はグロタンディークを数学者として確立し、フィールズ賞受賞(ソビエト政権に抗議して、彼は立派に1966年のモスクワ会議に出席しなかったが、そこでメダルは授与された)に繋がった。彼の新しい哲理は大勢の信奉者達を惹きつけ、彼等は私が描く力を超えて、壮大な新しいアイデアを展開した。
個人的に私にとって、次のArbeitstagungで発芽したもっと位相的なアイデアと共に彼のK-理論は結局、有名なBott周期性定理に基づいてヒルツェブルフと私が展開し、位相的K-理論となった。その後、キレンや他者のアイデアを通して、代数的K-理論がトポロジー、代数幾何学、数論を前途有望だが、気のくじけるような問題を抱えながらも深くて美しい方法でリンクする主要フレームワークとして出現した。これがグロタンディークの遺産の一部だ。
最初のArbeitstagungはまた私にとって教育的側面を持った。1959年の秋、プリストンの高等研究所において、毎土曜日の朝はボレル、セール、テイトによって詳細でテクニカルなセミナーが運営され、グロタンディーク流のスキームの代数的基礎を解説した。私は熱心な学生で、オックスフォードで短いコースを講義するため可換代数を十分に勉強した。それが最終的にイアン・マクドナルドと共著のテキスト本[訳注: Intoduction to Commutative Algebraのこと]となった。それはベストセラーではなかったが、主にサイズが薄くて値ごろであるという理由から世界中の学生に読まれた。それはまた私が可換代数のエキスパートであるという間違った印象を与えたが、それでまだ私は可換代数の扱いにくい質問をメールで受けている!
私は引き続く年々にグロタンディークとボン、パリ、その他のどこかで頻繁に会っており、私達は親しい間柄だった。彼は私の初期の論文の一つを好み、これは"アティヤ類"として知られるようになったものに基づき層理論的フレームワークの中でチャーン類を導いた。他方、彼はアティヤ-ボット不動点式をかなり取り合わなかった。アティヤ-ボット不動点式は彼の一般理論の当然な結果として、コンパクトリー群の表現の特性に対するヘルマン・ワイル式に繋がった。テクニカル的に彼は正しかったが、彼も他の誰もワイル式との関係を今まで作ったことがなかった。
私自身の研究に対する、これら2つの反応は啓発的だ。私の初期の論文は彼の一般理論の部分でなかったので彼は感銘を受けたが、アティヤ-ボットの結果(それを私はずっと重要だと考えるが)は彼の大きな仕組みの部分に過ぎず、従って驚きも興味深くもなかった。
私の思い出には記録に残しておく価値のある2つのエピソードがある。一番目はライン川で有名な客船旅行の一つで発生したが、客船旅行はボンArbeitstagungの中心だった。グロタンディークと私は上階のデッキのベンチに一緒に座っており、彼は両足を反対側のベンチに乗せた。船員が近づき、全く理性的にベンチから両足を下すよう彼に話した。グロタンディークは文字通り両靴を埋め込み、拒否した。船員は上役を連れて戻り、上役は要求を繰り返したが、グロタンディークは再度拒否した。それから、このプロセスは頂点にまでエスカレートした。船長が来て、船を停泊地まで戻すと脅したが、それは主要な国際的事件を防ぐためのヒルツェブルフの外交的スキル全体を要した。このストーリーはグロタンディークが彼の個人的生活において如何に非妥協的であるかを示し、数学における彼の妥協の無い態度と並行していると私は思う。その違いは、数学において彼は主に成功したが、実社会において彼の非妥協的性質は必然的に大失敗と悲劇となったことである。
私の2番目の個人的思い出は、グロタンディークが40歳だった時、彼は数学を止めてビジネスマンになると打ち明けたことだ。私はそれを割り引いて聞いたが、彼は至って真剣だった。もっとはっきり言えば、その年齢あたりで彼は本質的に数学を止めて、従来に無いビジネスマンになっており、狭い商業的世界ではなく、ふさわしい空想家として世界的規模の業務で運営した。不幸にも、数学の学問的世界において彼に大きく役立った才能は、より広い世界において全く不完全、または不適当だった。政治を"可能性の芸術"にする妥協性はグロタンディークにとって大嫌いなものだった。彼はシェークスピア風の型における悲劇的人物であり、彼自身の内なる弱点により未完成なヒーローだった。
グロタンディークを非常に大きい影響を持つ偉大な数学者にした非常な特徴はまた、残りの人生で彼が自分で選んだ大いに異なる役割に対しても彼を適合させなかったものだった。

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数学

taro-nishinoの日記: わが父アンドレ・ヴェイユ

日記 by taro-nishino

随分前に、代数構造もしくは代数系に関する講義を担当した友人が定期考査、多分夏休みの前か終了直後に行われる中間考査だと思いますが、以下の問題を出題したことがありました。

有理整係数の多項式は任意の素数を法とする既約多項式の因子に一意分解されることを証明せよ。

解答自体は殆ど自明で、友人も受講者全員が解答出来るであろうと見込んで出題しており、解答そのものよりも、この出題の内容の事実を講義で言及出来なかったので、こういう事実を知っておいて欲しいということで出題したようです。
ここで初学者のために解答例を書いておきます。

(解答例)
有理整数環 Z は単項イデアル環だから、任意の素数pが極大素イデアル(p)を生成する。従って、剰余環 Z /(p)は可換体であり、多項式環( Z /(p))[x]は単項イデアル環である。単項イデアル環において素因子分解の一意性が保証されているから、議題は証明された。

ごらんの通り、数学的センスも考察も何もいらないです。強いて言えば、単なるロジックの連鎖だけが必要です。しかし、友人によれば思ったほど正解率がよくなく、"素数を法とする既約多項式の因子に一意分解される"の意味を理解出来なかったのではなかろうかと言っておりました。
ここで少しばかり解説します。簡単のため、素数2を法とします。法2に関して、1次の既約多項式はx、x+1だけであり、2次の既約多項式はx2+x+1だけです。ここで、x2+1は既約じゃないのかとちょっとでも思った人は全く問題を理解していません。法2ですから2x≡0であり、x2+1≡x2+2x+1≡(x+1)2なので、既約ではありません。同様にx3+x2+x+1も既約ではありません。
では、何故こういった事実を知っておいた方がいいのか? 有理整係数の多項式の既約性を推論する時、特殊な場合(例えばアイゼンシュタインの判定法を適用出来る場合等)を除いて、一般的には低次の既約多項式で割ってみることが普通です。次数を定めても、 Z [x]が無限個なのに対して( Z /(p))[x]は有限個なのですから、その中で低次の既約多項式を考える方が楽なのは当たり前です。そして、( Z /(p))[x]で既約ならば Z [x]においても既約です。但し、( Z /(p))[x]で既約でないからと言って、 Z [x]で既約でないとは限りません。その場合は、法とする素数をいろいろ変えてみるという手段もあります。
以上のことを長々と書いたのは、定期考査の問題を解答出来た、出来なかったで終わらせずに、講義の補講的な意味合いの出題もあるから、しっかり問題を憶えておき、試験終了直後にノートに書いておくことをお勧めしたいからです。教官は学生達が思っている以上に教育的な配慮を考えているものなんです。自慢じゃありませんが、私はノートに問題を忘れない間に記入した後で、時間制限のある試験で書いた自分の解答に不満足だと思ったものについて、新たな解答をレポートに書いて先生に見てもらったことが何回もあります。それが成績に反映するなんて下心は一切ありませんでしたし、先生もそのことを最初に断っていました。ただ純粋に自分の好奇心を満足させるだけのためだったし、そのことは私の友人共皆が知っていましたから、誰も文句を言いませんでした。私のような凡才はこれくらいのことをやって当たり前なんです。なんせ周囲を見渡せば天才かと思うような人達が多くいましたから(それでも、所詮日本国内における天才度に過ぎず、世界規模で見れば大したことはありません。そのことは海外との交流を深めるといやと言うほど実感出来るはず)。
さて、話は変わります。昨年は公私共に多忙で、一時期は体調も悪く、この"私訳"シリーズにおいて一編も紹介出来ませんでした。やっと年末年始で一息ついたので、紹介するネタを探していましたら、あのアンドレ・ヴェイユ博士の御長女であるシルヴィ・ヴェイユ女史が何とAMS Noticesの一月号に寄稿しているではありませんか。これは私にはちょっと驚きでした。と言うのは、志村五郎博士の"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"の追加箇所を読んでいただければ分かる通り、志村博士とシルヴィ・ヴェイユ女史との間に良く分からない理由で不和が生じました。しかし、これはNoticesの担当編集者に責任があったことは明白です。ですから、シルヴィ女史がNoticesに寄稿することは志村博士と和解出来たのだと私は楽観しています。なお、原文は"My Father André Weil"(PDF)です。以下の私訳において原文にある注釈を省いていますが、インデックスの番号はそのままです。

わが父アンドレ・ヴェイユ
2018年1月 シルヴィ・ヴェイユ

1998年8月6日の父の死から約20年経過しているが、それでも彼は時々私を呼ぶ: "シルヴィ、ここから出してくれ、退屈だ"(彼が使う仏語の言葉はとても丁寧ではない)。
ユダヤ人の伝統に従って、アンドレは永遠に研究仲間をあてがわれたと私は確信する。この仲間とは誰なのと訊いたことがあった。"オイラー"と彼は答えて笑った。彼が私を呼び、退屈だと言う時、私は訊く: "オイラーはどうしたの? 彼も退屈なの?"
父は退屈や時間の浪費ほど恐いものはなかった。すべての瞬間が有用に、または愉快に費やされなければならなかった。父から10代の私宛の手紙をまだ持っている。彼はとてつもない計画を勧めた: エウリピデスとソフォクレスを毎晩読み、毎木曜日はルーブル美術館またはコメディ・フランセーズで、毎日曜日の午後はベートーヴェンを聞くためにサル・プレイエルで...。これらの手紙の観念主義は私を笑わせるが、15歳の私はただ楽しい時を過ごしたかったから、私が覚えた嫌な罪悪感を復活させる。
父と一緒の食事は少しストレスを感じたようだ: 私達は"面白い"トピックスの会話をすることになっていた。ジャン・ラシーヌの、あるいは、もっと良いのはウェルギリウスの数節を暗唱することは上手くいったものだった。しかし、批判を避けることは困難だった: "かわいそうな娘よ、それらはお前にラテン語の数節の正しい発音を教えているのかい?"が大抵アンドレの反応だろう。だが、彼の計画は必ずしも厳しいだけのものではなかった。サタジット・レイや黒澤明の映画を好んだ。水泳、アイススケート...を好んだ。また彼はかなり演劇を出来た(図2を見よ[訳注: このエッセイの図はすべて写真ですので、原文を見て下さい])。妹と私が子供だった時、彼は私達にモリエールのコメディを読み聞かせ、私達を喜ばせる裏声を装いながら若い純情娘を演じるのが上手かった。
多くの場合、一流数学者達の一人であるのみならず、傲慢で皮肉的で脅迫的であるという世界的評判を受けた父の許で成長することは特典だと私は感じた。あまりにも恐ろしいので博士研究員達は私に宿題を持たせ、偉大な男のムードを検査するために彼のオフィスに送り込んだものだった。彼が私に怒鳴るのを聞けば、博士研究員達は姿を消すだろう!
幼年時代の一つの思い出をとてもかぐわしくしているのはまさにアンドレの傲慢の評判である: 恐ろしく傲慢な数学者アンドレ・ヴェイユ、パジャマにさっと羽織られるレインコート、雨の中を外に出て、米国西部のどこかのみすぼらしいモーテルのぼんやり照らされた中庭を走り回り、各戸をノックして25セントを必死に物ごいする。2つの軋むベッドがある私達のひどい部屋で、母、妹と私はコインを使い果たした時、コイン式テレビを見ていた。アンドレは自身の試みが失敗し、私達は耳が不自由になっていく若くて美しいヒロインに何が起きたのか知らないこととなった。
2008年、シモーヌ・ヴェイユの100周年が近づくにつれて、彼女に関する大量の本が刊行されるだろうことが明らかになっていた。全く見知らぬ人が"お々、貴女は実に彼女に似ている!"と言いながら、私に遠慮なく近づき、触り、キスさえもしたので、私は長らく"聖者の姪"("遺品"の一種と人は言うかも知れいないが)といういかがわしい役目を演じていた。今や他の誰もが書けない本を書くべき時だった。
もちろんシモーヌはアンドレよりもずっと有名だ。大抵の人々は数学よりも哲学的、政治的、神秘的な書物を読めるか、少なくともそう思っている! そして、そうだ、多くの目には彼女は聖者だった!
しかし、アンドレのことを書かないことは不公平だと思った。特に私はいつもアンドレとシモーヌを異様な双子の組だ(図3)と見なしていたから、バランスの問題だった。

聖者であることに加えて、叔母は私の父の分身だった。彼女は彼と双子のように似ていた。私は彼女と非常に似ていたから、私にとってぞっとする分身だ。私は父の分身に似ていた1

もちろん、この類似は私達の関係に影響した。アンドレは子供達を溺愛する母親によってシモーヌがあまりにも過保護だったと思っていたから、私自身の自立を奨励した! 例えば、私が12歳だった時、祝日に親戚と合流するために私はフランスを横断旅行しなければならなかった。これは列車の乗り換えを3回含んだ。アンドレは3つの駅の駅長に手紙を書き、私に会って手助けするように頼んだ。各駅で私は駅長が私を見なかったことを確認し、自分で列車を乗り換えた。家に戻ると、私は父に話した。彼は非常に喜んだ。"私は父としての義務を果たし、お前は娘としての義務を果たした"と彼は言った。
私が本の中でしたかったことは伝記を書くことではなく、"ヴェイユの空間"を奪回、再構築することだった。はばかりながら、再び本の中から一章を引用しよう。この章のタイトルは"ユークリッドの美しさ"だ。

私はシモーヌのノートの一つを研究した:
"現代数学者の公理システム。彼等は何を探しているのか? その使い方を理解せずに彼等は数学をしている。
(アンドレに質問する: 彼が成功する時、彼は喜びを感じるのか、それとも美的歓喜なのか?)"
私はこれを読んだ...そして、突然訳も分からずに、素晴らしいと感じた。その丸かっこは小さな家族の再会を隠している。そして、その家族は私のものだ...。

私は台所における昼食を想像した。私の祖母のスペシャルな塩漬けキャベツ、リーズリングの結構なボトル、シモーヌとアンドレの会話。アンドレがたまに私に話したように、彼は妹に数学は科学でなく芸術だと話したのか? 彼が後によく書いたように、驚くほど互いに引続き、互いから生じる実験思考の喜びは数時間、いや数日さえも継続するのだから性的喜びよりも勝ると彼は彼女に話したのか?
1938年のブルバキ会議の間に取られた写真(図4)は、高揚して派手にベルを鳴らしている父を見せている。シモーヌはそこにおり、とても真剣にノートの方へ身をかがめている! この写真は私が生まれるずっと前に取られたが、私の子供時代を取り囲んだキャラクターの出演者達だった。ブルバキ集団2は熱情的で観念論的であり、ある程度まで無私であって、彼等の解説書をニコラ・ブルバキ, ナンカゴ大学(ナンシー-シカゴ)と署名していた。
だが、ブルバキ集団の無私の観念論的情熱は大声で話すこと常としていた! アルプスの小さなホテルで無名の会議があり、その時これらの紳士達が互いを怒鳴りあい、それが余りにも狂暴的なのでホテル管理人は誰かが殺されるだろうことを恐れて、憲兵隊を呼んだ。
アンドレの一番最初の情熱は数学ではなく、クローケーだったらしいことを言及しなければならぬ。これはおそらく幾何学に対する情熱となった。私の祖母セルマはユーモラスに、だが誇らしげに友人宛の手紙の中で、このシフトを宣言している。アンドレはたった7歳だった。
私はアンドレの激しい性質は伝統的な作法を除いて、彼の流儀の妨げにならなかったと思う。かって、プリストンでのコンサートの間に騒動があった。つまり、アンドレの前に座っている人が担架で運び去られた。コンサートは再開したが、人々はざわめいた。私の父は腹を立てて人々に静かにしろと要求した。一人の婦人が彼に"ねぇ、あの男は死んだのよ!"とつぶやいた。"それがどうした! モーツァルトを聞いている間に死ぬことよりも悪いことがある!"とアンドレは言い返した。そして、それがまさに彼自身の願いだった。つまり、モーツァルトを聞きながら死ぬこと。残念ながら、私はそれをアレンジ出来なかった。
1938年の楽しいブルバキ会議の翌年、第二次世界大戦が始まった。1939年11月のヘルシンキでの父の逮捕は良く知られている。その物語のロルフ・ネヴァンリンナ版はネヴァンリンナがアンドレをロシアのスパイとして射殺されることからどのように救ったかを語っている。スウェーデン、デンマーク、英国の様々な刑務所に移送された後に、軍隊徴兵に答えなかったためフランスで投獄された。
私が本を書いていた時に、文書箱の中に小さな紙の1枚を見つけた。私はすぐにそれを"家族写真"と呼んだ。4つの短い文、4つの手書き、すべてが私にとって馴染み深いもので、もっと言えば、現実の人々だ。手紙で5番目の人物が大きい天然紺色ジグザグ、つまり間違いなく刑務所監督官として登場する。1940年2月にアンドレはルーアン刑務所にいる。家族は彼に面会に来ており、担当守衛は家族の入場を拒んでいる。誰の訪問も無い。祖母セルマが度胸で説得力のある非難をするのを私は想像する。守衛は説得されて、手紙を受け取るだろう。4人はカフェに行く。刑務所からの通りにはいつもカフェがある。彼等は各々文を書く。最初に3つの青色の文が来る。つまり、セルマ、シモーヌ、そして私の母エヴェリーネ。おそらく母のペンだ。私の祖父は青色のインクで書くことを拒み、カフェからペンを借りるのだろう。彼の文は黒色のインクで書かれている。
各人が快適に見えるように、おそらくカムフラージュを感じながら笑みを浮かべようと努力したであろうから、集合写真があったであろう。これら4つの文にはカムフラージュが無い! 必然的に簡単であるけれども、各々がキャラクターに絶対的真実であり、各人がアンドレと持っている感情的な関係を見せている。セルマとエヴェリーネは愛情の表現で競い合い、シモーヌは兄が詩を書き、美しい定理を思いついていることを希望する。ベルナルトは女性陣より感情を抑えているが、彼等がアンドレとすぐに再会する喜びを持つだろうことを希望する。この紙切れから私はヴェイユ家全体を構築出来た。あたかも私がそこにいたかのように。
どのように終結したのか? 数ヶ月後、アンドレは裁判で宣告され、軍隊に行った(図5を見よ)。それから英国に退去させられた。
1994年、父は京都賞を授与された。私は日本へ彼に同伴した。日本は私にとって神秘的な所であり、妹と私が少女だった時にアンドレによって描かれた想像上の国だった。1955年の日本での滞在の後、彼は日本にとりつかれて戻った。彼は私達にお辞儀すること、箸で食事すること、小さなバスタオルを使用することを教えた。電話が鳴った時、私達はそれを取り上げるために急いで行き、もしもしと答えたものだった。"日本では自分の感情を出してはならない。無礼である。いつも笑みを浮かべるべきだ"とアンドレは説明した。私達はくすくす笑いを手で隠して礼儀正しさを実践した。私達は日本人だった。
今や私は父と一緒に京都にいた。最初の二晩、私達は贅沢なホテル(彼は軽蔑した)を出て、ホテルのメイドから勧められた控えめなレストランで夕食に出た。私達は暗い小さな通りをゆっくり下りながら、アンドレは私達が目にしていることのいくつかを説明し、コメントしたが、私の子供時代の想像上の日本に私が戻ったように感じた。
アンドレは黒澤明に会って幸せだった。"私は貴方よりも大きな利点を持つ。私は貴方の業績を愛し、崇拝出来る一方で、貴方は私の業績を愛せないし、崇拝出来ない"と彼は有名な監督に言った。何人かはこれを皮肉を込めた賛辞だと思った。彼等は間違っていた。アンドレは全く正直だった。
東京での最後の朝、私達を皇居に連れて行くタクシーを待ちながら、静寂は気が滅入り、アンドレは退屈になった。黒澤の方を振り返って"天皇は貴方の映画のようなのか?"と言った。短い沈黙があり、それから小さくお辞儀して返答が来た: "天皇は偉大な皇帝です"。
京都では絶え間無いセレモニーがあった。これらは"履行"を要求した。だが、今やアンドレは歳老いた。彼は演じることも、お辞儀もしたくなかった。彼はもはや日本人でありたくなかった。私は彼を管理していた。ときおり私が文楽の人形使いで、彼が私の人形のように感じた! 時々、美しい日本仮面、もしくは(笑いも礼儀正しくもしたくない)老いた父に対する恐ろしい赤くて金色の悪魔の仮面を手に入ればなぁと思った。
結局、彼は仮面を必要としなかった。私は京都賞の3人の受賞者の公式写真を見ている(図6)。黒澤の少しおかしそうなよそよそしい小さな笑顔、背が高く恰幅の良いアメリカ人科学者の満面の笑み。そして、2人の巨人の間に押し込まれた歳老いた小人、アンドレは最後の勝利を得ている。彼は積み重ねた手から彼の手、力強くて立派な手を引き離している。彼は自由だ!

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数学

taro-nishinoの日記: イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在

日記 by taro-nishino

ベクトル空間とそれに対する双対空間を考える時、それぞれの空間の要素を反変ベクトル、共変ベクトルと呼ぶことは大学教養程度の数学を学んだことのある人なら誰でも知っていることでしょう。そして、他の分野、例えば物理の相対論ではこれらの用語を当たり前のように使用しています。では、何故そのように呼ぶのか、先日近所の顔見知りの大学生達から訊かれました。私は訊かれた時に最初誤解して、訳語の不適切さを問うているのだと思い、共変がcovariantの、反変がcontravariantの和訳になってしまったので、不満はあれど歴史的に今更和訳を変えるなど無理で、諦めるしかないと慰めました。しかし、よくよく聞いてみると彼等は和訳の不適切云々を言っているのではなく、そもそものcovariantcontravariantという用語が何故充てられたのか、その経緯もしくは意味を理解していないことに気づきました。正直言って驚きました。当然何らかの講義で教官が何らかの言及をしているはずだと思ったし、たとえ聞いてなくても大学図書館にある何らかのテキスト類を隈なく調べれば分かるだろうと思ったからです。
ベクトル空間の基底を変換した時、成分表示は基底変換とは逆向きに変換することは初等事項だから皆さんもご存じでしょう。つまり、成分変換は基底変換とは反対に変化するから、(成分をベクトルと同一視する時)ベクトル空間の要素を反変ベクトルと呼ぶのでした。一方双対空間の場合、元のベクトル空間の基底変換と同じ向きに双対成分が変換することは簡単な計算でわかります。つまり、基底変換と共に変化するから、双対空間の要素を共変ベクトルと呼ぶのです。
以上の説明をしながら、仮に教官の説明がない場合やテキストに載っていない事項でも、そして教養程度の科目であっても何故学生達が仲間で議論やセミナー、もしくは共同して(欧文も含めて)文献を片っ端から当たること等をしないのか私は非常に不満に思いました。そして、自分達の教官に訊かず、顔見知りだとは言え、とうの昔に(別の大学ですが)象牙の塔を去った私に訊いて事足れりと思っている現代の学生気質を理解出来ませんでした。知識の有無を非難しているのではなく、今の学生達に何かしら違和感を覚えました。彼等と関係の無い大学で教えている友人共の一人は私の不満を聞いて、年長者(もしくは経験者)にまだ訊くだけ上等な部類だと言ってましたが。
以下、皆さんが余程の大天才でないことを前提(人類の殆どがそうだと思いますが)に書きます。数学に限らず、どんな学問でも本当に勉強したいなら、大学、大学院でしっかりと基礎訓練を受けなければなりません。よくテキスト本を独習して勉強した気になっている阿呆な輩がいますが、そんなことは誰にでも出来ることです。重要なのは本に載っていない情報、つまり耳学問が必要なんです。それだからこそ、講義やセミナーに出席することに意味があるのです。いろいろな概念に対する自分の思い違い、他者の違う視点、センスを感じさせる人の独特な感覚、時には叱責や激論など、これらは出席して初めて知ることが出来るんです。つまり、当たり前のことですが、他者との交流が無くては学問は成り立ちません。
ところで、現代数学史上最も有名なセミナーは、故イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファント博士の主催したセミナーでしょう。ロシア出身の超一流、一流数学者でゲルファントセミナーと無関係な人を私は聞いたことがないくらいです。このセミナーについてはいろいろな人が言及しているのですが、比較的最近のものではアレクサンドル・ベイリンソン博士の I. M. Gelfand and His Seminar—A Presence (PDF)があります。ベイリンソン博士の直接の指導官はユーリ・マニン博士なのですが、マニン博士自身がかってゲルファントセミナーの参加者だったのですから、師弟共々セミナー出身ということになります。非常に長い歴史を持つゲルファントセミナーの後期にベイリンソン博士は参加したのに過ぎませんが、セミナーの雰囲気とゲルファント博士の人柄を現代に伝えていて、私はよく書けていると思いました。この記事の私訳を以下に載せておきます。なお、原文の先頭に国仙和尚が死去の一年前に良寛に贈った印可の偈の有名な漢詩の英訳の一部のみを引用しているのですが、お世辞にも上手い英訳とは言いがたく、この英訳の一部のみだけを和訳したのでは意味不明だと思いましたので、元々の漢詩のすべてを書入れました。そして、訳注に読下し文も付加えました。余談ながら、漢詩を現代日本語に訳することさえ馬鹿げているのに、増して外国語に翻訳することは漢詩のみならず漢籍そのものに対する冒涜だと私は思います。漢籍を読みたいと思うのであれば、母国語が何であれ、漢文そのものを勉強せよと言いたいです。現代日本においても、かって(少なくとも戦前までは)知識階級の家庭で当たり前に行われていた子供時代からの漢籍の素読の慣習が完全に無くなり(戦後における新制高校での漢文の授業でははっきり言って何の効果もありませんし、絶対的に時間が不足しています。もっと言えば、かっての旧制高校は今の大学以上のレベルですから、新旧の知的レベルに絶対的な差があります)、常識的な漢文さえも読める人が非常に少ないことを残念に思います。

[追記: 2016年9月17日]
ゲルファント博士については他にも"I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話"が参考になるでしょう。

[追記: 2016年9月27日]
上記の前置きで、私が今の学生達は自分達で調べようという気持ちが無いのではなかろうかと指摘したことに対して、質問をして来た大学生達の一人から、では何の文献に載っているのか示さなければ私の指摘は無意味だと難癖を言って来ました。
彼等はおそらく日本の安直本(つまり、よくわかる何とかとか、やさしい何とか入門とかの類の低レベルの本です)しか見てないのでしょう。私もすべての文献を知っている訳ではありませんが(実際、そんなことは不可能です)、私の書棚にある本では少なくともヘルマン・ワイルのRaum · Zeit · Materie[空間・時間・物質]の第1章に載っています。また他にも微分幾何学やテンソル解析関連の本を見れば載っているはずです。と言うか、そもそも用語の意味が分からなければ、先ず最初に岩波などの数学辞典を調べようとしないのか本当に不思議です。

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在
2016年3月 アレクサンドル・ベイリンソン

良也如愚道転寛 騰々任運得誰看 為附山形爛藤杖 到処壁間午睡閑

1790年、大忍国仙が弟子の良寛大愚に贈った漢詩より。
[訳注: 読み下し文は以下の通り。
良也愚の如く道転た寛し
騰々任運誰か看るを得ん
為に附す山形爛藤の杖
到る処壁間午睡の閑

意味は大体以下の通りでいいでしょう(上でも述べたように現代日本語に訳すことさえも馬鹿げた行為だと思いますが)。
お前は一見愚かなように見えるが、決してそうではない。実にその悟道の境地は深く、かつ広くゆったりとしている。お前に印可の印として、山から切ってきたばかりの杖を一本与える。この杖を大切にして座禅の間はもちろんのこと、昼寝をしている時にも忘れるな]

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントの数学セミナーは毎年9月の始めに開始し、春に終了したが、その時にIM[訳注: イズライル・モイセーエヴィチ、すなわちゲルファントの名前]は"(雪解けの)小流が流れ始めている"と言ったものだった。セッションは毎月曜日にモスクワ大学の主要ビルディングの14階にある大講堂で行われ、2つのパートから成っていた。すなわち、6時に始まるプレセミナーと、本セミナー。本セミナーはIMが7時頃到着して始まり、清掃婦が退出を告げるために部屋に入る10時(その時間に階はロックされ、夜を家で過ごしたい人々は急いで降りなければならなかった)に終わった。プレセミナーの間、多くの人々が講堂の入り口付近に集まって会話し、本やあらゆる種類のテキストを交換した1。概してセミナーはIMが逸話や数学ニューズを語って始まり、その後で招待されたスピーカーによるトークが来たものだった2。しばしば終わるための時間が十分でなく、トークは続き物として継続し、その都度一から始まって先週の材料の大半をカバーし、スピーカーは徐々に消えていき、トークが何だったのか、もしくは何のはずだったのかIMによって指名された学生に置換わった。議題を理解していない、もしくは上手く説明していない(または板書が非常に小さく、声が明瞭でなければ)スピーカーはひどく叱られた3
セミナーは1943年に始まった。私はその後年を見たが、ソ連の後期に一致した。スターリンの死後、国家の構築物は縮小し、自由空間が活気に満ちた。イデオロギーはその支点を失い、デモクラシーの見せかけは簡単(候補者は同等に受け容れ難い二人ではなく、投票すべきなのは一人)であり、新聞は大概トイレットペーパーとして使用された。残るタブーは個人的商売4と起業家であり、党の場所の外側での政治活動だった。多くの人達はプーシキンの詩"ピンデモンテより"5の心構えを共有し、すべての政治的問題をともかく興味なしとした。現代的な意味での市場、この必要でない物事の絶え間ない強制栄養は存在しなかった。人は森の中に自分自身の小道を見つけるために滑走路を抜け出せた。その小道がたまたま数学であれば、IMのセミナーに必ず出会うであろう。
異質な内的音楽6があった。その雰囲気は薄く透明だった。人の息遣いの音、粉雪が降る音、窓ガラスを装飾する白霜の接触の音を聞こえたであろう。モスクワ川上流の小片に面している古代墓地を隔てた人気のない教会、深い渓谷に囲まれた木造の家々、サヨナキドリが鳴く広大なリンゴ園がある素晴らしいデャコヴォのような古い村がモスクワ境界内にまだ存在した7。詩歌は社会的評価よりはるかに現実的だった。すなわち、詩は手書きで再生され、暗記された8
1972年の秋に私はAlesha Parshinによりセミナーに連れて来られ、IMに紹介された。その時私は第二数学学校(IMは数年前そこで教えた)の最終学年だった。阿呆でいる貴重なフィーリングとそれにもかかわらず、いやむしろ、そのおかげで生活収支との均衡に関する不安定は、川の砕けた氷の上を走ることと同類で、最近までに戻っている。
モスクワ大学の数学部門の入試を失敗した後9、私は素晴らしい教育専門学校にいることに気付いた。これは一つの祝福だった。すなわち、学校に行くことまたは朝に学校を無断欠席すること、数学セミナーに行くことまたは森の中を散歩するために日中遅くに列車に乗ること10。そして、素晴らしい友人達がいた。しばらくして私は何とか大学に転入出来た。そこでのムードはいっそう陰気だったが、好成績を望まなければ、数学をやるのにとても必要な怠惰と自由の尺度を保つためにイデオロギーのクラスをすべて省略出来た11
発表されるべき私の最初の結果がたまたま同じ時(1977年の終わり)にIMがOsya Bernstein、Serezha Gelfandと共同で発見されたものに近かった。IMは私が同様の定理を得ていることを言及して彼の研究をトークした。トークの後、私はIMに近づいたが、彼は私に直ちにユーリ・イヴァノヴィチ・マニン(マニンは私の指導教授だった)のもとを去り、彼の学生になりなさいと命じた。その束縛は狂暴的だった。私は断った。私がその賞賛をユーリに話した時、彼はこれが多くの場合に発生していたことだと言った。例えば、彼自身とシャファレヴィッチに対しても。その後私はIMの影響力の外側の軌道にいたが、私達の関係はとても良かった。
卒業後、モスクワ心臓病センターの数学研究所に私は職を得た。その目的のため、高貴なVladimir Mikhailovich Alexeev(彼は研究所長だった)は大きな癌手術を受けた直ぐ後に職業委員会に来た。VM[訳注: Vladimir Mikhailovich Alexeevのこと]は1980年の12月に死んだ。問題をほっぽり出すことを良しとしない新しい所長は私を除外することに熱心だった。IMはその状況を知った後で、センターの生物学部門長に話をした。私はそこに転任させられ、私の好きなようにさせた。その閑職は大学院よりも良かった。
1970年代初めに冷戦12の強風がソ連のユダヤ人に対して他国へ移住する許可をもたらし、今から回顧すれば、我々にとってより良い場所となるはずがそうではない13というグリボエードフの警句の普遍性の証明になったものに多くの人が届け出した。友人達との別れは永久だと思われた(当時ソ連の差迫った終焉が予想されていなかったことは米国の現在がそうでないことと同じである)。Dima Kazhdan、Ilya Iosifovich Piatetski-Shapiro、そしてOsya Bernstein(モスクワにおける彼の最後の半年の間、私達は彼と楽しく数学をやっていた)が去った人達の中にいた。セミナーにおいて誰も彼等の代わりを出来なかった。
IMは人々と一緒に遊ぶことを好んだ(彼と一緒のいたずらは途方もないものでは決してなかった)14。誰かと交戦する共通の方法は相手の尊大な感覚を探求することだった。IMは滅多にゲームを負けなかった。たまたま負けたなら(相手がIM彼自身よりも意外性があることを意味した)、彼はひどく怒ったが、勝者は彼の敬意を受け、ことによると愛情さえも受けた。例えば、IMは貴方に対して待機し、そして長期間消えてくれと頼むかも知れない15。質の悪い勝利は一時間後には消えるものだった。名人の動作は異なるであろう。伝説によれば、IMはMisha Tsetlinがどのようにやっているのか見るために数時間後オフィスに戻った時、Mishaがソファでぐっすり眠っているのを見た16
IMは生命を重視した17。IMは非常に社交的な人だったけれども、内的幸福の不足によって生じる問題に対して彼は外向きの注意を払わなかった(結果として、しばしば彼は粗野だと受取られた)18。彼はそれ自体のために興味を持たせたものをやり、何らかの壮大なプロジェクトの一部としてではなかった19。セミナー(数学及び生物学20, 21のもの、そして1986年から始まるインフォマティクスに関するもの)を運営することがいつも面白かった。
そして医者達との研究があり、医師が心臓病をどのように診断するかを調べる長期間の試みだった。その試み自体が失敗22に終わった一方で、IM周辺の人々の著しい人生をもたらした多くのトップ級の医者達を含んでいた。当時私は3人の本当の名医(施しに対する謝礼を受け取れないと彼等は感じていた)を知るようになった23。私はそんな心構えが全く当然であり、一人の医師が異なる何らかをするはずがないことを学んだ24
IMは慎みの重要性を強調した25。私見ではIMの人生には2つの中心的実現があり、爆弾に関する研究の後で軍部とのつながりを断ち切ったこと(1950年代末期)26と、絶対採食主義者となったこと(1990年代半ば)27だった。両方が通常呼ばれているところの客観的思考の習慣を克服することと関係がある。つまり、他者に向かう弊害に対して注意を払わないことだ28。最初の決心が無ければ、おそらくIM周辺の世界はずっと多彩でなく、セミナーは全く違っていたであろう。菜食主義者になることはたぶん本質的である。人の心に固く結ばれた結び目を緩め、多くの事柄を明晰かつ簡単と見なす能力を復活させるかも知れない。
IMのセミナーと他の偉大な数学セミナーの一つの違いは、その開放性だった。トークは何らかの特有な議題を説明することを狙っていないし、それらがIMの現在の研究と関係もないが、むしろこれらは未来からの訪問を含むかも知れないストーリーだった。これは次のフィーリングに合っていた。すなわち、私達は科学の成果を根本的だと考えることに慣れている。時が経つにつれて不思議な状況は移り変わり、実のところ私達は世界について殆ど何も知らず、科学はたんに広大な開放性を隠す試みをしていると認識する。しかし、私達は新事実を不思議に思い吸収出来る。そして私は私達を通り抜ける風のおかげであると感謝の気持ちを感じる。
しばしばIMは彼自身を賢いと思わないと言った29。愚者が物事を見る方法は、周辺の見解が中央の見解と異なるみたいに賢者が物事を見る方法とは異なる。どの瞬間でも見方と選択の可能な方向は無限にある。愚者はそれに気づいたままだ。賢者はうまく1つまたは2つの方向に移る一方で、残る無数の次元を完全に忘れる。新しい理解または新鮮な詩は未知の次元の中へごく小さい動きから始める。それは愚者が真似出来ない行為だ。
現代数学は概念思考のユニークな推進力である。いったん正しい概念(数学的構造)とそれを扱う言語が見つかれば、まるごとの新しい世界が展開する30。だから数学者にとって、非数学的な分野、例えば生物学を理解するためのキーとして適切な言語を探す誘惑が強い。この見解はIMにとって大事だった31。それが実現しなかった一つの理由は以下のことかも知れない:
科学はいつも真実性を、あたかも外側からオブザーバーとは明らかに別個の研究対象として考えている。だが、数学的構造は内部のみから観られる本当の真実性の一部分であり、研究対象が私達の頭脳の活動と不可分だ。適切な言語がこのタイプの視力にとって特異であるかも知れない。例えば、最も皮相的なレベルを除き、動物が世界とやり取りする方法に関して科学は白紙である。動物の視力が人間のそれとは驚くほど異なるはずなので、それを知ることが真実性とは何であるかに関する私達の理解を抜本的に変えるかも知れない。適切な言語が引き起こされるのはそんな探求の中にある。私達自身を他の生物から切り離し、それらの頭上(すなわち、地球、生物、樹木が私達の所有物となり得ると想像する程度まで)に配置することを固執している限りにおいて、それは全く馬鹿げた夢である。ついでながら、この同じ欺瞞が地球破壊の運動力(私が最後にIMを見た以降、ずっと加速している)の基礎になっている。
私がこれらの行を書いている時、過去が途方もなく将来と分離しているとは思えない季節の春である。偉大なるセミナーは本質的に妖精の馬の何かを有している。バヤールはアルデンヌの森の中心に逃亡して以降、どこかでまだ生きていると言われている。
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多くの散歩、Jesse Ball、Spencer Bloch、Irene(!)[訳注: 原文に掲載されている写真を見た人なら分かるように、ベイリンソン博士は雌の猿を飼っていて、Ireneと名付けて非常に可愛がっています]とNicodemus Beilinson、Volodya Drinfeld、Dennis Gaitsgory、AnyutaとVolodya Gelfand、Senya Gindikin、Dima Kazhdan、Dima Leshchiner、Yuri Manin、Oleg Ogievetsky、Eric Shuttとの議論、書下ろせと言うSlava Gerovitchの要望、Allyn Jacksonの関心と協力が無ければ、このエッセイは存在しないだろう。彼等に深く感謝します。

注釈
1Senya Gindikin: "IMはこれらのプレセミナーの議論を非常に重要だと考えた。しかし、彼は病的に計画性が無く、たとえ彼がしたくても(例えば、重要な人々との会合のため)どこでも時間通りに到着出来ないであろう"。 伝説によれば、かって彼は科学アカデミー総裁との会合に向かう階上の途中で掃除婦と冗談を交わした。彼は決して目的の場所に着かなかった。

2Misha Shubinの講義録についてはwww.mccme.ru/gelfand/notes/を見よ。

3ときおり、このシーンは南泉と猫に関する公案に似ている。en.wikipedia.org/wiki/Nanquan_Puyuanを見よ(見たところ趙州は載っていない)。

4一つの例外がモスクワでの鳥の市場だった。そこでは週末にすべての種類の動物が売られた。かって私がドン・ザギエと一緒にそこを訪れた時、羊の毛皮のオーバーを着た顎髭の男がドンに純白のグースを売ろうとした。その男はドンが本当の紳士だと分かると言った―そうでなければ、男はドンに美しさを申し入れないであろう。純白のグースはドンのベストフレンドとなり、どこでも彼と一緒に行き、風呂も一緒にするだろうと言った。その会話のやり取りはフランス語だった。

5Nabokovの翻訳についてはhttps://ireaddeadpeople.wordpress.com/2014/11/06/alexander-pushkin-to-strollin-ones-own-wake/を見よ。

6もう一つの鎖国―江戸時代後期の日本のそれとはおそらく似ていない。モーレスも全く異なる。例えば、チェルノブイリの余波を処理した原子力の主任科学者は、おそらく原子力工業に参加したことの謝罪として自殺した(彼の上司は福島の時期に倫理を実践した)。

7デャコヴォは1980年代に除去された。最初共同墓地にある墓が掘り出され、暫くして家々は解体され燃やされた。一年以上の間一つだけが生き延びた。

8私の友人達のうち二人がマンデリシュタームの詩を暗唱した。Cf. Nabokovによる"An evening of Russian poetry"、www.sapov.ru/novoe/n00-39.htm.

9モスクワの数学施設の統治者はユダヤ人の何らかを立ち入らせないようにした。

10一年間私は殆ど毎日森を見ていた。

11正式には試験に合格するためにコースの全内容を知らなければならなかった。コムソモール[訳注: 共産党の青年組織]のリーダーの協力もあって、教師達は試験前夜に各学生に彼または彼女が質問される問題を漏らした。

12その唯一の要因は金権政治と独裁政治の不調和だった(である)。米国/ソ連の不和の残りは赤ニシン[訳注: つまり、見せかけ、偽を意味します](または、読者が好むなら、しばしばIMに引用されたKozma Proutkoffの寓話の忘れな草。英訳についてはwww.math.uchicago.edu/∼mitya/langlands/nezabudki.htmlを見よ)。

13これらの出発、夢のシミュレーションはソ連国境(どの方向にも)を越境する自由意志よる探求について殆ど共通性が無く、NabokovのGloryにあるように、またはSlava Kurilovにより指摘されたように、対外的目的が無かった。Slava Kurilovの本Alone in the Ocean、rozamira.org/lib/names/k/kurilov_s/kurilov.html(露語)。

14Spencer Bloch: "彼がパリに来てセールに会うことになった時の私のゲルファント物語を君に確かに話した。彼はオルマイユに滞在していて、IHESの人達は彼をパリにエスコートする誰かを必要だった。私が選ばれた。私達はいやと言うほど長時間列車に乗るのだから偉大なるセールに迷惑をかけないだろうと私は提案した。勿論、私は責任の微妙な思考過程を十分に把握していなかった。セールに迷惑をかけないことはゲルファントの優先権のトーテムポールがかなり低いとだけ言っておこう。私は彼のアパートに着くと、彼は茶をたてるロシア流のテクニックについて私を指導すると宣言した。だから、勿論私達は列車に乗り損ねた。しかし、20分先頃にもう一つの列車があるだろうから問題ないと私は言った。しかし、そうではなかった。茶をたてる間にエラーが起きていたとゲルファントは言い、彼のアパートに戻り、さらに茶をたてること以外に何も起きなかった。だから、勿論私達は次の列車を乗り損ねた。そして、最初にはっきりと述べたように、偉大なるセールは偉大なるゲルファントを待たねばならなかった"。

15Senya Gindikin: "もっと複雑だったと思う。IMは何ら義務を感じないし、いつもその瞬間にしたいことだけをやった。彼は故意に何かをやっていないし、暫く取り乱すはずがないと私は思う。私はここに大きな人間経験を持っている"。

16Misha Tsetlinは1966年に亡くなったが、彼のIMに対する関係はおそらく趙州の南泉に対する関係と同じだった。彼等の生理学における研究について、M. Latashの本Synergy, Oxford University Press, 2008, books.google.ru/books?id=Z45Oj8yCQMIC&pg=PA53のセクション3.1を見よ。またTsetlinに関するV. V. Ivanovの記事historyofcomputing.tripod.com/essays/CETLINM.HTM(露語)を見よ。

17そして多分、彼は醜い人間行為でさえ視力の清澄を汚さない点までその美に感心した。生命の喜びにそれほどまでにあずかれる人間を野生動物は怖がらないと私は信じる。

18他方IMは問題がリアルな時に注意を払った。例えば、酷い事故の後、Sasha ZamolodchikovとTolya Kushnirenkoの息子の命を救うための彼の協力は重要だった。

19しばしばIMはそのテーマが非常にポピュラーになった時はいつでも研究を放棄すると言った。

20Volodya Gelfand: "IMは生物学を知らなかったが、話すべき本当の専門家を必ず特定出来たし、これらの議論はしばしば生物学者達にも非常に有益だった"。

21IMは生物学に魅せられた。と言うのは、不思議をどう考えるのでさえ知らないことがそこでは非常に明らかだ。

22おそらく最初IMは医学を芸術として認識しなかった(彼にとって、数学者が定理を証明するようなやり方で解明する非数学者のプロジェクトはお笑い種であろう)。髄膜炎の診断の簡単な問題に関する研究は成功した。

23病院勤務の後で彼等を患者の家に連れて来るタクシー代を含んだ。

24与えられた人間社会がそのコアで死んでいないことの簡単な基準はその中でそんな医者の存在である。

25Dima Leshchiner: "彼のお気に入りの言い種'人は短所を持っていないが、特性だけを持つ'を思い出す。これは彼の理解の中で'慎み'の意味したことに関係すると私は思う。つまり、'慎み'は行動の品質であり、人の品質でないことだ"。

26かってIMは当時を振り返って彼の選択肢の内の研究所(例えば軍事プロジェクト扱う応用数学研究所)の所長を申し込まれ断ったと私に語った。Senya Gindikin: "彼が軍事活動を止めた経緯と理由を誰かが知っているかどうか私は知らない。その程度まで、これは彼自身によって始められた。彼は非常に慎重だった。彼は1960年頃秘密のレーニン賞を受けた"。

27VITAに対するIMのインタビューisraelmgelfand.com/talks/vita.htmlを見よ。早期にIMは猫を用いる陰惨な実験に基づく神経生理学に関する研究のシリーズを共著した。

28現在の世界の悲嘆の要因は工業技術の発展が私達のモラルの発展を超過してしまっていることであると言う陳腐な嘆きは的を射ていない。と言うのは、モラルの発展が存在しないからだ。今の共通する慎みは何千年前と同じであり、適応すれば(そして、適応する人々が殺されなければ)上手く行く。例えば、それを宗教原理として持ち(https://en.wikepedia.ag/wiki/Jainism#Doctrineを見よ)、ジャイナ教は妥当な(つまり、破壊のない)社会(存在する唯一のものかも知れない)を建造した。彼等の西洋における従兄弟達であるGood People(敵からはカタリ、"catlovers"と称される)は今日呼ばれているところの"国際化"の功績の中で抹殺された。

29医者と話す方法に関してIMが"貴女は私が馬鹿であると私に説明すべきでない。私はこれを自分自身で知っている"とOleg Ogievetskyの母を指導した時、彼は"誰も生まれつきの馬鹿である権利を廃止出来ない"と主張した。

30関連する事実は、他と違い数学において間違っている概念は次々と簡単に死ぬことだ。理解のための私達のキャパシティーは真っ先に間違いの概念を追い払う能力が無いことにより妨げられている。

31彼の京都講演israelmgelfand.com/talks/kyoto.htmlと誕生日会のトークwww.math.harvard.edu/conferences/unityofmath_2003/talks/xgelfand-royaltalk.htmlを見よ。

12645651 journal
数学

taro-nishinoの日記: ウッズホールの不動点定理の起源について

日記 by taro-nishino

前回の"ウッズホールの不動点定理の歴史"の追記で予告を書きましたが、約束通り今回紹介するのはLoring W. Tu博士の"On the Genesis of the Woods Hole Fixed Point Theorem"(PDF)です。この記事は最近私が読んだ数学関連記事の中で最も面白かった記事の一つです。つまらない記事やどうでもいいような本が氾濫する中で、これくらい面白い記事を他の数学者も書いてほしいものだと思いました。
Tu博士と言えば、故ラウル・ボット博士との共著Differential Forms in Algebraic Topology[代数トポロジーにおける微分形式]が特に有名です。この本は代数トポロジーを学ぶ時に必読と言ってもいいでしょう。もっとも、一般的な基礎トポロジーや多変数の微積分やその他の関連知識が無ければ、ちょっとしんどいかも知れませんが、例えば今回紹介する記事の数学的事項を本当に理解するためには、これくらいの本を理解出来ないようでは無理と言っても過言ではないです。
しかし、今回の記事は数学的事項を抜きにしても面白く読めるはずです。この記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2016年1月10日]
この記事を巡って、私は友人共の数人と更には海外の友人達とさえも議論をしました。日本語という言葉のバリアに守られて偉そうに論評する昨今の卑怯者の輩にはなりたくないので、全世界の人々が読めるように私がメールで友人達に書き送ったものをそのまま載せておきます。

As you know, Professor Bott passed away in 2005. So, tritely speaking, maybe Professor Shimura should have excused him earlier on. It may be hard for him to do so, however. For he apparently comes from a family of the samurai class, according to his autobiography, "The Map of My Life." He seems to have rigorous spirit in the sense that a samurai never takes back his word. I think that it has something to do with the reason he doesn't endorse even Professor Tu's article, but that it is not so much that he gets back at Bott or someone else as that his claim isn't acknowledged to be true: it is that he formulated the formula more generally for a correspondence though he now can no longer recall its detail.

ウッズホールの不動点定理の起源について
2015年10月 Loring W. Tu

ウッズホールの不動点定理は古典的なレフシェッツの不動点定理のベクトルバンドルへの遠大な拡張である。それは系として、複素多様体に対する正則レフシェッツ式、コンパクト・リー群の既約表現に対するワイル指標式を持つ。それ自体の重要性を別にして、ウッズホールの不動点定理は、多様体の解析とトポロジーの最大の見所の一つ、楕円型複体に対するアティヤ-ボットの不動点定理への前兆として数学史において重要である。代数側では、エタールコホモロジーにおけるVerdierのレフシェッツ不動点定理となった([13], [23])。実際、アティヤは1966年にフィールズ賞を授与され、表彰の言葉の一部分はアティヤが"シンガーと共同で複素多様体上の楕円作用子の指標定理を証明し"、そして"ボットと共同でレフシェッツ式に関連する不動点定理を証明した"と書いてある。これらの不動点定理の発見は、1964年にマサチューセッツの海のそばの小さな街ウッズホールでの代数幾何学に関するAMS夏期研究会にさかのぼる。時の流れと共に、どのように定理が来たかの記憶がいくぶん曖昧になっている。2001年にラウル・ボットはNotices of the AMSで発表されたインタビューで無意識に論議を点火し、論議は今日まで決着していない。
このドラマには3人の主役がいる: マイケル・アティヤ、ラウル・ボット、志村五郎―3人とも20世紀数学の巨人だ。アティヤは指標定理で有名だが、解析学、トポロジー、K-理論、数理物理学に対して手広く深い貢献をして来ている。ボットはトポロジーにおける基本的研究を通して、最近の60年間に幾何学とトポロジーにおいて大きな影響を与えた。志村は取り分け志村多様体で有名であるが、志村-谷山予想の定式化を通してフェルマーの最終定理の証明において主要な役割を果した。彼等の各々がウッズホールの不動点定理の起源の思い出を書いて来ている([1], [10], [11], [15], [16], [17])。論議は志村の正確な貢献に集中する。
ボットの全論文集の第5巻を編集している間に、私はコメントを求めるためアティヤと志村の両者に手紙を書いた。その過程で、私は或る未完の任務を発見した。時々歴史は関係者達ではなく、中立な観察者によって上手く書かれる。私は結果において何のかかわりが無く、私の目的は書かれた記録を吟味すること、関係者達にインタビューすること、互いに相違する見解をまとめることである。この報告書をNoticesに発表することでおそらく一歩近づけることを除いて、万人が入手可能な歴史的真実に辿り着くことは可能でないかも知れない。残念ながらボットはもはやいないが、大部の書き物を後に残したから、それは私の調査の基礎の一部分を形成している。全面公開のため、志村五郎はプリストンで私の学部生論文[訳注: プリストン大学では4年生は解説的な論文を書くことを求められ、正式にはシニア論文と呼ばれているそうです]の指導官、ラウル・ボットはハーバードで私の指導官の一人だったこと、両者に感謝の思いがあることを言わなければならない。

古典的レフシェッツ不動点定理
古典的レフシェッツ不動点定理は、コンパクト有向多様体Mからそれ自身への、非退化でスムーズな写像f: MMの不動点の数がfレフシェッツ数、すなわち、実コホモロジーベクトル空間Hq (M; R)上の誘導線型変換のトレースの交代和Σq(-1)q tr f * Hq (M; R)であるという美しい命題だ。ここで"非退化"はfのグラフGraph(f)がM×Mの対角集合Δに横切って出会い、交叉理論で普通のように、不動点はGraph(f)とΔの向きによって重複度±1にカウントされる。

図1.Graph(f)と対角との横断的交叉
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

例えば、f: S 2S 2が球のz-軸に関するαラジアン、0<α<2πの回転ならば、fは2つの不動点、北極と南極を持ち、各々が重複度1にカウントされる。2次元球体のコホモロジーベクトル空間Hq (S 2; R)は次元0、1、2において各々R、0、Rである。Hq (S 2; R)上の誘導写像f *が各々1(恒等写像)、0、1だから、fのレフシェッツ数は、

L(f)=1-0+1=2

であり、それが不動点の数であることはすぐ分かる(図2)。

図2.z-軸に関する球の回転は2つの不動点を持つ。回転のレフシェッツ数も2である。
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

レフシェッツ不動点定理はいくつかの素晴らしい結果を持つ。一つには、非退化零点を持つベクトル場に対するホップ指標定理をきわめて簡単に意味する。つまり、コンパクト有向多様体上のスムーズなベクトル場が非退化零点を持つならば、重複度も数えて零点の数の合計は多様体のオイラー指標である(図3)。

図3.この球上のベクトル場は各々が重複度1の2つの零点を持つ。球のオイラー指標も2である。
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

もう一つ別の結果として、多様体Mが縮小可能ならば、そのコホモロジーは正次元において消滅し、0次元においてH 0(M; R)=Rである。従って、コホモロジー上の誘導写像f *H 0において恒等写像、そうでなければ零写像だから、fのレフシェッツ数は1でなければならない。このようにレフシェッツ不動点定理は、縮小可能多様体からそれ自身へのすべてのスムーズな写像が不動点を持つことを意味する。これは円板の連続写像に対するブラウワー不動点定理のスムーズな場合の類似である。

論議
Allyn Jacksonとの2001年のNoticesインタビュー[9]の中の一箇所で、ラウル・ボットは1964年のウッズホールでのコンファレンスでマイケル・アティヤとの研究について語った。"コンファレンスの間、私達は私達の不動点定理、この新しい条件下でのレフシェッツ不動点定理を発見した。これは非常に心地良い考察だった。数論学者達は最初私達が間違っているはずだと言ったが、それから私達が正しいとなった。だから私達はそれを愉快に思った!"[9, p. 379]。編集部宛の手紙[15][訳注: これについては"ウッズホールの不動点定理の歴史"を参照して下さい]の中で、志村は発見という記述(志村予想の言及が無かった)を憤慨した。また志村は彼の予想に反対した数論学者を知らないと言い、数人の数論学者が間違ったというボットの記憶を数論学者全体をこき下ろしていると解釈して反対した。
過失を認めてボットは返書[10]を書き、うっかり志村の役割を省いたことを詫びた。不快にさせた文章を"ウッズホールでアティヤと私は、志村の予想した不動点式を楕円型の場合に一般化する方法を発見し、結局私達は擬微分手法でこの一般化を確立出来た"と喜んで置き換えるだろうと言った。論議はそこで終わらなかった。志村は治まらなかった、と言うのはボットの謝罪はきわめて微妙だったからである。実際、ボットはさらに続けて、志村に会う前に正則不動点式を研究していた印象を持っているから、志村との出会いを"意外な新事実よりも確証として"いつも憶えていたと言った。ボットの陳述は、志村のみが予想に対して貢献したのか、または彼と会う前にアティヤとボットは彼等自身の何らかのアイデアを持っていたのか疑いが持ち上がった。

図4.1970年代初期のラウル・ボットとマイケル・アティヤ
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

正則レフシェッツ不動点定理
複素多様体Mからそれ自身への正則写像f: MMは、コホモロジーベクトル空間Hq (M; )上の線型写像f * Hq (M; )を誘導する。ここでM上の正則函数の層である。fの正則レフシェッツ数L(f, )は誘導線型写像f * Hq (M; )のトレースの交代和Σq(-1)q tr f * Hq (M; )と定義される。古典的レフシェッツ数L(f)と違って、正則レフシェッツ数はもはや必ずしも整数ではなく、任意の複素数であり得る。正則レフシェッツ不動点式は、不動点からの寄与の合計として孤立非退化不動点を持つ正則自己写像の正則レフシェッツ数L(f, )を計算する:

L(f, )=Σ f(P)=P 1/det(1-J(f) P )

ここでJ(f)は任意の局所正則座標システムに関するfのヤコビ行列である。det(1-J(f) P )が不動点Pの重複度として解釈されるならば、正則レフシェッツ数もfの不動点をカウントするが、面白いことに不動点の重複度はもはや整数である必要は無い!
上記の2次元球体の例において、2次元球体は次元1の複素射影空間C P 1として複素構造を与えられる。回転写像f: C P 1C P 1は、f(z)=e zにより有限平面C内で与えられるから、不動点0でのfのヤコビ行列はe である。他の不動点z=∞で、局所座標はw=1/zであり、wで書けば、写像f

w→1/e ・1/we -iα w

だから、不動点∞でのヤコビ行列J(f)はe -iα である。コホモロジーHq (C P 1; )は0次元でCであり、定数1で生成され、他のすべての次元で0である。従って、fの正則レフシェッツ数は

L(f, )=tr f * H0 (C P 1; )=1=1/(1-e )+1/(1-e -iα )

これは、この場合における正則レフシェッツ不動点定理を証明する。
正則レフシェッツ不動点定理もいくつかの素晴らしい結果を持つ。例えば、複素代数多様体Mは、複素射影空間C P n に対して双有理ならば有理的だと言われる。つまり、有限的に多くの超曲面の外側で合成写像ghhgが恒等写像となるような有理型写像g: MC P n h: MC P n が存在する。コンパクト・スムーズ有理多様体はC P n と同じコホモロジーHq (M; )を持つ。従って、コンパクト・スムーズ有理多様体の正則自己写像の正則レフシェッツ数は1である。正則レフシェッツ不動点定理によって、コンパクト・スムーズ有理多様体のすべての正則自己写像は不動点を持っていなければならない。これは円板における古典的ブラウワー不動点定理の正則な場合の類似である。
正則レフシェッツ不動点定理は正則p-形式に一般化出来る。複素次元nの複素多様体M上で、0≦pnに対してΩ p M上で正則p-形式の層としよう。各pに対して正則レフシェッツ数を定義出来る:

L(f, Ω p )=Σ0≦pn (-1) q tr f * Hq (M; Ω p )

この正則レフシェッツ数L(f, Ω p )も不動点からの寄与の合計である。寄与の正確な形式はウッズホールの不動点定理によって与えられる。

ウッズホールでの志村の予想
幸いにも、コンファレンスの時からウッズホールの不動点定理に関する2つの独立した説明がある。つまり、ウッズホールの不動点定理セミナーに関するアティヤとボットの報告[4](それは1964年のコンファレンスで配布された)と1964年8月2-3日付けのアレクサンドル・グロタンディーク宛のジャン=ピエール・セールの手紙[18]である。アティヤ-ボット報告は刊行されて来ていないが、ボット全集の来る第5巻に収録されるだろう。
アティヤ-ボット報告では、志村予想の正確な陳述が見つかる:

Xを代数的閉体k上の非特異射影代数多様体、f: XXXのそれ自身の中への射とする。更に、EX上のベクトルバンドル、fEへのリフティングφを容認する―つまり、ベクトルバンドル写像φ: f -1(E)→Eを容認するとしよう。そんなリフティングは自然な方法で、Eの切り口の芽の局所的自由層S[訳注: 原文では違う文字なのですが、入力不可能な文字種でしたので代用しました]で係数を持つXのコホモロジーベクトル空間H *(X, S)の自己準同型(f, φ)*を定義する。従って、この自己準同型のレフシェッツ数を形成してよい:

χ(f, φ, E)=Σ q (-1) q tr {(f, φ)* Hq (X; S)}

...最後に、不動点pにおいて、リフティングφは(ファイバー)E p E f(p)の自己準同型φ p を定めるから、十分に決定されたトレースを持つことに注目せよ。
これを理解して、志村予想(今、我々はウッズホールの不動点定理と呼ぶことを提案する)は次の関係で与えられる:

χ(f, φ, E)=Σ p tr φ p /det(1-df p )

ここでpfの不動点の集合をさらう。

1964年8月2-3日付けのグロタンディーク宛のセールの手紙も本質的に同じことを言っているが、フランス語である。
状況によって、多くのレフシェッツ不動点定理がある―スムーズ写像に対して、正則写像に対して、正則形式の層に対して、ベクトルバンドルに対して、楕円型複体に対して、エタール・コホモロジーに対して。それらは正確には同じでない(あるものは他の特殊ケースであるけれども)。文献では、ウッズホールの不動点定理はベクトルバンドルに対するレフシェッツ不動点定理(それが志村が予想したことだった)を意味する共通理解があるようだ。
この観点から、2001年にボットがNoticesインタビューで言ったことは完全に正確であり正しい。つまり、彼とアティヤはウッズホールで楕円型複体に対するレフシェッツ不動点式を発見した。勿論、そのヒントはベクトルバンドルにおける志村の予想だった。ベクトルバンドルから楕円型複体へ行くためにはイマジネーションの大きな飛躍が必要だった。これのため、そして他の研究のためにアティヤはまさにフィールズ賞を受賞した。
アティヤ-ボット報告は志村予想の代数的ケースにおいて多くの出席者の集合的努力を通して証明されたことも述べている。"セール双対のグロタンディーク版の多少とも古典的な線に沿って...特にVerdier、マンフォード、ハーツホーンの奮闘"とある。セールは手紙の中でアティヤが双対と局所Extを使って志村予想の代数的証明を、ボットが微分形式を使って複素解析的証明を与えたことをグロタンディークに報告している。

アティヤとボットの承認
レフシェッツ不動点式に関する研究の多くの同時代に発表された解説の中で、アティヤとボットは志村の貢献を承認した。
1964年のハーバードノート[5]の序論の中で、アティヤとボットは"私達の主要式はアイヒラーの代数曲線に関する結果(それは、最近のウッズホールでの代数幾何学のコンファレンスの期間、志村によって私達に注意させた)も一般化している。もっとはっきり言えば、この研究はこの方向での志村予想を証明する試みからの結果だった"と書いた。
1966年のBulletinの記事の序論[6, p. 245]の中で、アティヤとボットは"複素及びリーマン幾何から古典的作用子を取ることで、複数の重要な特殊ケース(定理2, 3)を得る。これらの最初は志村によって我々に予想され、1次元に対してはアイヒラーによって証明されていた"と書いた。"これらの最初"は定理2[6, p. 247]を意味したが、それが正則ベクトルバンドルに対するレフシェッツ不動点式である。
1967年と1968年の2つのAnnals of Mathematics論文([7]と[8])の中で、序論において志村に言及しなかったけれども、レフシェッツ不動点式[8, p. 458]の下にアティヤとボットは、

要約すると、複素解析多様体Xの横断自己準同型fに対して、我々の不動点式は、
(1) L(f p, * )=Σ f(P)=P trace C p df p )/det C (1-df p )
に特殊化する。ここで、
(2) L(f p, * )=Σ(-1) q trace H p, q (f)
である。
1965年[訳注: 本当は1964年の間違い]にウッズホールでのコンファレンスの間に志村が予想したのは、この式であり、それがこの研究に対して刺激を与えた。と言うのは、曲線(4.9)はアイヒラーによって[11]の中で確立されていたからである。志村とアイヒラーはもちろん代数幾何学のフレームワークの中で考えていた。そこでは、セールとグロタンディークの双対の全理論が任意の標数上でさえも、この結果を導くことが分かった。

と書いた。
これらの説明は、既に述べた分子と分母を持つ正則不動点式に関する予想の創始者が志村だったことを明確に確立していると思われる。

志村の忘れられた予想
志村によれば([16, p. 131], [17])、ウッズホールで正則写像に対するレフシェッツ不動点式より以上のことを予想した。

図5.1996年5月の志村五郎
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

多様体Mスムーズな対応M×MにおけるMと同じ次元を持つ部分多様体である。MからMへの写像のグラフは、垂直線テストを満足する対応の特殊なケースだ。1次元のヘッケ対応に対するアイヒラーの式に当時興味を持ち、高次元へアイヒラーの式を一般化する代数的対応に対する予想を作ったと志村は言った。彼の言葉で"私の意図は高次元の場合にアイヒラーの結果を拡張することだった。従って、写像のケースのみに私が予想することは滑稽だったであろう"[17]。代数的対応が正則写像の時、志村予想は正則不動点定理に特殊化されるであろうが、これはアティヤとボットが証明したことであった。しかし、志村の回想はアティヤ-ボット報告[4]またはセールの手紙[18]のどちらかによって立証されていない。
私は文献の何らかの参考を見つけることが出来ていないけれども、スムーズ対応に対するレフシェッツ不動点定理は知られているが、代数的なケースが未解決だと志村は考えている。残念ながら、誰も代数的対応に対するレフシェッツ不動点定理の志村予想を書下していなかったようであり、志村はもはやその正確な定式化を憶えていないので、正則不動点定理とヘッケ対応に対するアイヒラー式を同時に一般化するであろう、この魅力的な予想は今や失われている。

図6.対角線と横断交叉する対応Γ
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

回想
志村に会う前にボットとアティヤが式を研究していたというボットの回想はどうしたのか? 彼特有のユーモアの自虐的センスで、ボットは[11]の中で"実際、アティヤと私が自分達自身で、この式の或るバージョンを偶然見つけたことを私は思い出しているようだ。しかし、他の人の誰もこの事実を確認出来ないのだから、私は記憶の自己権威拡大本能のせいにせざるを得ない"と書いた。アティヤ全集[1]へのコメントの中で、アティヤは1988年に"1964年の夏のウッズホールのコンファレンスで、ボットと私は正則写像に対するレフシェッツ不動点式の一般化に関する志村の予想を学んだ。大変な努力の後、何らかの楕円型作用(または、もっと一般的に言えば、何らかの楕円型複体)を保持する写像に対して、この種の一般的な式があるに違いないと私達は確信した"と書いた。更に最近、2013年にアティヤは私に電子メッセージ[2]を送り、それは"AB[アティヤとボット]が志村に会う前に既に問題を研究していたという示唆のためにボットが責められることを私は心配だ。私はこの見解を決して支持しなかった"と述べた。
ボットの回想が正しいと仮定すると、可能な説明は志村が彼の予想をコンファレンスで多くの人達に語り、それからアティヤとボットに語り、ボットの認識の無いまま、志村が正則レフシェッツ不動点式に関する予想の究極のソースとなったことである。実際、志村は[17]の中で"コンファレンスの間、私はこの予想式を思い出し、それをジョン・テイトに話した。私は彼を1958年から知っていた。それからテイトはそれをアティヤとボットに語した。結局、私は問題を彼等と議論した"と書いた。
アティヤとボットに彼等は間違っていると話した数論学者達に関する逸話について言えば、ボット達が相談した数論学者達のみを意味する時に、ボットが"数論学者達"という言葉を使ったことは残念である。と言うのは、"数論学者達"は1964年のウッズホールでの数論学者全員を意味するだろうし、その中に志村も含むからだ。この点について、アティヤは2013年に私へのメッセージ[3]の中で詳しく述べた:

私の記憶(及びラウルの記憶)の正確さを私は強く主張する。1次元における実例(虚数乗法を持つ楕円曲線と関係があったと私は思う)をチェックするために私達は確かにテイトとCasselsに質問した。彼等は戻って来て、上手く行っていないと私達に語った。しかし、私達は正しくないにしては余りにも美しいので、あくまでやり抜いた。ヘルマン・ワイル式が特殊な場合として現れることを分かっていたので、私達は更に確信するようになった。このエピソードはストーリの中で非常に重要だから私が間違えているはずがない。
残念ながらテイトもCasselsも、そのことを憶えていないが、彼等にとって憶えている価値の無い小さなストーリだった。私にとって、それは重要だった。
これを、1次元においてアイヒラーが一般HLF[holomorphic Lefschetz formula][訳注: 正則レフシェッツ式]を証明していたという志村の陳述とどのように一致させるか?
私の一番の推測は、これがモジュラー形式に登場するものであり、アイヒラーの研究すべてがこれに関係していたから、アイヒラーだけが直線バンドルが標準バンドルの冪である時の場合を研究したということだ。志村は私への電子メールの一つの中で十分に認めたが、それから見解を取消したようだった。
だから私の見解は志村が一般にHLFを予想していたかも知れない(しかし、彼がそれを書き下ろさなかったし、今や予想が何だったのか憶えていないことはいらだたしい)ということだ。だが、1次元におけるアイヒラーの研究は決定的ではなかったし、(ワイル式以前に)一般HLFに対するまともな証拠が無かった。

ジョン・テイトは2013年7月に[20]の中で"その式について志村が私に話したことを私は憶えていない。もっとはっきり言えば、コンファレンスでその式のことについては何も憶えていない。だが、49年前のことであり、特にそれらが多複素変数または楕円型PDE[訳注: 偏微分方程式]のような分野(私はさほど詳しくなかった)についてであれば、記憶は消える。何故彼が私に話したのだろうかと思う。1958年の春にパリで彼と会ったことは事実だが、私達はお互いによくは知らなかった"と書いた。また[19]の中で"楕円曲線に関する何かをチェックしてほしいとCasselsと共に頼まれた記憶が無い。そこでの話を面白くするためにラウルが何かを大げさにしていたのかも知れぬと私は思う..."と書いた。

結び
1964年以降の年月の間に、ウッズホールの不動点定理の起源における志村の重要な役割は大部分忘れられて来ている。例えば、グリフィスとハリスの広く使用されているPrinciples of Algebraic Geometry[訳注: 代数幾何学の原理]の中で正則レフシェッツ定理の議論とアティヤとボットのAnnals論文[8]への参照があるが、志村に関する言及は無く、正則不動点式に関する様々な研究記事([14], [21], [22])の中で志村に関する言及は無い。彼の予想、少なくとも正則写像に対するものが公衆の意識の中に留まらないほどに短い命だったのかも知れない。
志村の自伝[16, p. 131]の中でウッズホールの不動点定理に関して、"しかし、面白いことに彼等[アティヤとボット]は次第に私の貢献を最小にしようとした"と書いた。これが意味するアティヤとボットの側の意図的行為に関する限り、これがそうだという証拠を私は見つけられていない。2001年のボットのNoticesインタビュー(その中で彼はうっかり志村の役割を省略してしまい、それに対して後で公的に謝罪をした)を除き、ウッズホールの不動点定理に関して発表された説明のすべてにおいて、アティヤとボットは必ず志村予想を承認して来ている。遅くとも2004年、亡くなる一年前に、2001年のNoticesインタビューに対して埋め合わせるかのように、ボットはウッズホールの不動点式の歴史に関する短い記事[11]の中で"志村式"または"志村予想"を6回も述べた。私がラウル・ボットを知って30年以上に渡り、彼はいつも私にクレジットに関して寛容であるべきだと語った。
私にとって証拠の優位性は、1964年のウッズホールでのコンファレンスの間に志村及び志村のみが正則レフシェッツ不動点式に関してオリジナルな予想をし、それをアティヤとボットが証明して楕円型複体へ拡張したことを示している。代数的対応に関するもっと一般的な予想を志村がしていた可能性があるが、もはや誰も憶えていない。

後記
アティヤと志村両者がこの記事を読んでいる。アティヤは"非常に公平だと思う"と言ったが、志村は是認することを断った。

感謝、写真ソース、クレジット
(略)

文献
(略)

typodupeerror

Stay hungry, Stay foolish. -- Steven Paul Jobs

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