ya3の日記: ソフト代は何の対価か
それにしても、やっぱり、どう考えてもソフト代って高くないかねって思う。ソフトの価格に関する様々な論議は大雑把には分かっているつもりだけど、それでも、どうしても付きまとう、この割高感はなんだろう、と。
そこで思い起こすのは、昔、どうやって音楽を聴いていたか、というあたりのこと。僕が学生の頃(つまり20年以上前の話(^^;)、LPを友人達の間でなるべく重複が無いように上手に購入し、テープにダビングしてお互い聴いたりしてた。自分が一番好きなアーティストのアルバムは、必ず自分で購入する。お互いにそうしていたと思う。で、それ以外の、まあまあ好き、とか、わりと好き、とか、どちらかといえば好き、とか、一度聴いてみてもいいかな、とかいったあたりは、誰かにコピーさせてもらう。時々そうやって聴いた中にすごく気に入るものが出てきて、そんな時は、次回以降は(あるいは遡って)そのアーティストのLPを揃えはじめたりする・・・。その頃、すごく貧乏だったけれど、でも、今感じているような種類の割高感は無かったような気がする。
あらためて思うのだが、ソフトって、本当に「個人使用」が原則なのだろうか。なんだか、実勢としても、実感としても、ある程度規模の小さいコミュニティーを単位として「使用」するのが自然なんじゃないか。
つまり、自分一人が「使用」するための対価としてソフトの価格を考えると割高に感じるんだけど、「自分、および、自分の周囲の誰か」のための価格だと考えれば、値段に不思議と納得がいくようになる・・・・、単にわり算すれば安くなるといった馬鹿馬鹿しい話をしてるんじゃなくて、ソフトの使用主体が個人に限定されることは心理的にも歴史的にも不自然なんじゃないか、主観的に身近と感じる範囲における「皆」で使っていくのが本来なんじゃないか、だから「皆」の物の値段として考えたときにこそ、納得がいくようになるんじゃなかろうかと。
ひょっとして、「個人使用が原則」という考え方も、その対極にある(コンピュータソフトウェアにおける)GNUの考え方も、それぞれ極論なのか、それとも狭い範囲(たとえば後者ならOSやライブラリ等のインフラ的な意味合いを持ったソフトウェア)のみに有効な考え方だとして受け取るのが、妥当なのかも知れない。