Oliver (4) の日記

2004 年 02 月 04 日
午後 07:40

ふおっふ

Friend or Foeの翻訳案は一夜明けて、とりあえず出揃ったようだ。これだーーーーーー、と雷にうたれたようなモノはなかったが、漠然とイメージは固まってきたような気がする。最終的に決めるのは当分先でいいので、じっくり熟成させる。同時に命名論と並行して、FoFそのものの是非と導入による/.コミュニティへの影響を議論するコメントもあった。

中には「名称を言い繕わないと使い物にならないシステム」という意見も。一見、すばらしい洞察に思えるが、これは違う。順番が逆だ。たとえ機能が同じであっても、どう表現するかで使われ方は違ってくる。Foeを「クソムシ」と訳するのと「ライバル」と訳すのでは認定する方も認定される方も受け取り方が全然違う。コメントシステム的にいえば、Friend/FanとFoe/Freakだって、そう分類された人に特定のスコアボーナス/ペナルティを設定できる同じものだ。違いはラベルのみだ。利用者が提案する名前案をみると、それぞれの提案者がどういう使い方をしたいのか伺える。最終的に導入後のFoFシステムの生きるも死ぬも名で決まるといっても過言じゃないだろう。

次に機能と導入による影響に関する考察を。FoFはふたつの側面から考えないといけない。ひとつは、自ら他人を認定する側(Friend/Foe)と、他人に認定される側(Fan/Freak)のふたつの立場があること。もうひとつはポジティブ評価(Friend/Fan)とネガティブ評価(Foe/Freak)の二種類があることだ。このふたつを2x2の4枠にすると、ちょうどFriend, Fan, Foe, Freakが入る。この上に、FoFシステムそのものが場に及ぼしうる影響と、それぞれが公開される事の是非が加わる。そこで、ひとつづつ見ていきたい。

最初はFriend。ユーザが自らの意志で認定するポジティブな人間関係だ。認定する人にしてみれば、アンテナみたいなもので、良い意味で要注目な人のコメントがより発見できやすくなる。各個人の(ガラス張りだけど)プライベートな部屋というニュアンスの強い日記には今現在もこの仕組が存在する。アンテナを公開されるのは恥しいという意見はあるようだが、機能自体に反対する強固な意見はないように思える。自分が誰かに注目していることは恥ずかしいことなのか?

次にFoe。自らが認定するネガティブな人間関係だ。プラス設定することもできるが、多くは+-ゼロでアイコンだけ表示させるか、マイナス設定だろう。認定する人にとっちゃ「killfile」機能ということだ。人間が他の人間とつき合う以上、どうしても好き嫌いはある。嫌いな人のコメントは読み飛ばすか軽く見る事ことを人は意識的/無意識的にやっている。この、どのみち脳内で行われる事をシステムが代行するのはユーザを補佐すべきシステムとしては正しいことに思える。これでコメントが表示されなくなり、議論全体の質が下がる、という懸念がでていた。はしてそうかな? いまでもしきい値によってフィルタしている人もいるし、そもそも全てのコメントを入念に読んでいない人も多い。特定の人に返事するもしないも、返事をする人の自由だ。わざわざ「嫌いだ」宣言をするほど見たくもない人に返事をする人はどれぐらいだろうか。それが不毛なフレームである可能性のほうが高いと自分は考える。また、このkillfile機能により、自分が相手を目にしたくないから嫌がらせをして場から出ていかそうとする荒しコメントを減らせやしないかとも期待している。

ここまでは自らが認定し、自分に影響がでる人間関係だ。読み手がどのみち脳内でやってることをシステムが補助する、という感じに思っていいだろう。この関係が公開されることにより、自分が注目する人が、さらにどんな人に注目しているかわかり、新しく興味深い人を発見でき、ネットワークはどんどん広がって行くという利点がある。Friend/Foe認定してアンテナみたく便利に使うかわりにシステムが要求するコストが、その情報を他のユーザーと共有することだ。つまり、それが全世界に公開されることを覚悟した上で決断してください、ということでもある。

Fan。自分の意志に関係なく、他人から下されるポジティブな評価。好意的に評価されてうれしくない人は少ないだろう。その反面、Fan欲しさにそういうコメントばかりするようになる、という懸念があった。それは悪いことではない。Friend指定するのはなにも耳に心地よい意見を連発する人ばかりではない。参考になる意見や鋭い洞察を連発する人をFriend指定することも多いだろう。そして、Fan欲しさに行き過ぎて媚びるようになれば、おのずとFanは離れていくだろう。あまりにもゴミすぎる、どのみち即座にマイナスされるような発言をそもそもしないような抑止力し、プラスされるようなコメントを推奨するモデレーションと似たようなものだ。

最後にFreak。自分の意志に関係なく、他人から下されるネガティブな評価。じつは4Fのうち、これが一番難しい。自分が嫌われたくないから、FoFそのものが不要、という意見がなんと多かったことか。コミュニティを運営している人ではなく、一個人としてならば「ならば、見るなっ」と一刀両断にしたい。コソコソと嫌われるのと、堂々と嫌い宣言されるのと、どっちがいいですか?嫌いなのにニコニコする嘘偽りの仲良しクラブな世界がいいんですか?気にしすぎる必要もないが、すこしは自分がなぜ嫌われているのか考えるいい機会ではないのか。たまには自己反芻も必要だ。実は自分の行動は単にガキなだけなのか?自分でそれがわかれば、それは大人への第一歩。自分に絶対の自信があるなら、堂々と胸を張ればいい。コミュニティ運営者としては、Freakがコミュニティに与える現実的な影響を考えなくてはいけない。嫌われたくないから、という理由で匿名コメントが増えるのか?それとも気にしすぎるあまり、堂々と意見をいわなくなる人が出てくるか。はたまた嫌われた理由を考え、そもそも嫌われて当然なマイナス指向なだけのコメントをしなくなる人がいるか。

FanとFreakは、自分の制御できないところで、他人に決められるというところがミソだ。つまり、自分が直接的に影響をあたえられないところで自分にレッテルが張られていく。本人に対しては「気にするな」「見なければいい」と言える。が、全世界に公開されるとなると、一個人に対して当人を見て判断する前に、貼られたレッテルで判断する先入感が生じるリスクはたしかにある。しかし、それは歴然とした社会的評価ではないか。隠蔽したところでどうなる? 公開されないFanとFreak情報は、開されるFriend/Foe情報から導きだせる。

コミュニティ運営者としては最終的にメリットとデメリットを天秤にかけなければならない。デメリットは確実にあるだろう。デメリットがゼロじゃないから、といって止まっていれば、進歩はありえない。メリットがデメリットを上回りそうだと判断すれば進むし、逆ならばなにか考えなければいけない。FoFの導入は基本的には決定事項だ。ただし、そのままの姿形で導入すると決まったわけではないし、細かい点はいろいろまだ流動的だ。一部情報を公開しないことにするかもしれないし、認定できる人間関係の数を大幅に絞るかもしれない。最終的に選択するラベルでシステムのニュアンスはずいぶんと変わる。ロビー活動をするなら今がチャンスだ。ただし、大勢がXといった、大声でYが叫ばれているから、というだけでは自分を動かせないだろう。ひとつはっきりしているのは、自分が自信と信念をもって導入できるものでなければ、導入しないほうがいいということだ。これは既訪問リンクの時に、改めて身に染みた。誰がYes/Noと言おうが、どれだけ議論されようが、最終的に決めるのは自分だ。その決断を背負い、対外的に示すのも自分だ。そして結果に裁かれる。だからこそ、鏡を見て、まっすぐ自分の眼を見ることのできる決断でなければいけない。もちろん、過ちだと判明すれば、それを認め、修正しなければいけないが、反対意見と肯定意見に踊らされ、右往左往してはいけない。

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計算機科学者とは、壊れていないものを修理する人々のことである

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