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>「オープンソース」という言葉自体が造語だったような気も。
「造語」であっても、全て同じように流布される訳ではありません。 たとえば「Linux」というのも造語ですが、いきなり「Linux」と言われても、全く知らない人はそれが何なのか想像もできません。 想像もできなければ、説明を探し、その意味を探ろうとします。 ですから、このケースでは、「説明を付して」「啓蒙する」というのは有効な手段です。
一方で「オープンソース」というのは「オープン」と「ソース」から合成された造語で、「オープン」「ソース」個々は意味がわかります。 それをくっつけた「オープンソース」という言葉の正確な意味はわからなくても「何となくこんな感じの意味なんだろうな~」というのは想像できる訳です。 このような「なんとなく想像できる」場合は、啓蒙によって正しい知識が流布する速度より「想像」によって誤っているかもしれない知識が流布する速度の方が上回る事が多いです。
たとえば「ホームページ」などはこの例です。 「ホーム」と「ページ」は意味がわかりますので、「ホームページ」も何となく意味がわかるような気がします。 何となく意味がわかる人が増えてくると、誤用する人も出てきます。 誤用されているのを「何となく」意味を知っている人が見て「なるほど、こういう場合も使うのか」と考えて、誤用の再生産が始まります。 こうなってしまうと「啓蒙」による修正には多大な時間がかかります。(ほぼ不可能とも言えるでしょう)
そういう点を考えれば、今回の八田氏の指摘は「誤用の再生産をさせない」という意味で重要な事ですが、いつかは誤用(というか意味の拡大)がされてしまう可能性は高いと思います。 一番有効な手段は、やはり「オープンソース」でないものに何か名前を付けて、それを流行らせる事ではないでしょうか?
昔、BBSなどにあるソフトが全部「パブリックドメイン(PDS)」と呼ばれていた時に、その誤用を防ぐために「オンラインソフト」という言葉や「シェアウェア」という言葉が作られ、それぞれそれなりに適切な言葉に落ち着いてきたという事もありました。 名前のないものは、たとえ誤りであっても何か近いものの名前で呼ばれてしまうという事もありますから、違うものには違う名前を付けるというのは有効な手段だと思います。
昔、BBSなどにあるソフトが全部「パブリックドメイン(PDS)」と呼ばれていた時に、その誤用を防ぐために「オンラインソフト」という言葉や「シェアウェア」という言葉が作られ、それぞれそれなりに適切な言葉に落ち着いてきたという事もありました。
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未知のハックに一心不乱に取り組んだ結果、私は自然の法則を変えてしまった -- あるハッカー
ただソースを公開しているだけのは (スコア:0)
こっちの呼び名に定着したものがないことが混乱に拍車をかけていることは確実だから。
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:0)
ソース付きソフトウェア
ソース付属ソフトウェア
ソース閲覧可能ソフトウェア
ソース可視ソフトウェア
うーん・・・
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:0)
なんでそうカテゴライズしたがるかなぁ?…とか思う契約社会不適合型日本人。
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:1, 興味深い)
少なくとも私は、カテゴライズのつもりじゃありません。
一般人は(ある程度コンピュータに詳しい人を含めて)大半がオープンソースの定義も意義も知りません。
以下の話はそういう一般人視点での話です。(思想とかすべて抜きで)
すると、「オープンソース」という単語を聞くとどのように認識するかというと、ソースがオープンなソフトという風に解釈するわけです。
さらに、他者が意味の違いを指摘すると無用な反発を招きます。
「俺はこう解釈したんだ!どこの誰だか知らないが勝手に一般名詞を占有するな!」と。
(ちょっと極端な例ですが、一
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:2, すばらしい洞察)
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:2, 興味深い)
別ACですが、まさにそのとおりだと思います。
私がオープンソースを知ったときには、その中身(定義)を伴わずに語だけが一人歩きしていました。(今思えば)
私は勝手に「ソースがオープン」なんだな、と解釈してたわけです。
OSI定義のオープンソースを知った後も、「勝手な定義を押し付けられても困る」という感想を抱きました。
もちろんそれは間違いなのですが、重要なのは正しいか/正しくないか ではなく、
多くの人がそう感じてしまっている という事ではないでしょうか。
私一人の問題ならば、私が単に勉強不足で
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:0)
地道に啓蒙するしかないでしょう。
付け加えたいのは、誤用していたひとは、
指摘されたら素直に修正してほしいです。
ゴネたり逆ギレするのではなく。
特に /. の読者層なんかはそうであってほしいです。
このストーリィや前のストーリィを読んだ人なら、
もうみんな正しい「オープンソース」使えますネ。
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:1, すばらしい洞察)
OSIのいう"オープンソース"は、現時点では一般的な用語ではありませんから、彼らの定義と違う使い方をしても誤用とはいえません。"啓蒙"なんて上からものを見るような言い方をしては、反発を招くだけじゃありませんか?
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:0)
「名前から自分で解釈して納得する」というやり方は危険ですし、
(出来れば複数の)専門家に問い合わせて解決するべきだと思います。
「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」とも言い
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:1, すばらしい洞察)
>「オープンソース」という言葉自体が造語だったような気も。
「造語」であっても、全て同じように流布される訳ではありません。
たとえば「Linux」というのも造語ですが、いきなり「Linux」と言われても、全く知らない人はそれが何なのか想像もできません。
想像もできなければ、説明を探し、その意味を探ろうとします。
ですから、このケースでは、「説明を付して」「啓蒙する」というのは有効な手段です。
一方で「オープンソース」というのは「オープン」と「ソース」から合成された造語で、「オープン」「ソース」個々は意味がわかります。
それをくっつけた「オープンソース」という言葉の正確な意味はわからなくても「何となくこんな感じの意味なんだろうな~」というのは想像できる訳です。
このような「なんとなく想像できる」場合は、啓蒙によって正しい知識が流布する速度より「想像」によって誤っているかもしれない知識が流布する速度の方が上回る事が多いです。
たとえば「ホームページ」などはこの例です。
「ホーム」と「ページ」は意味がわかりますので、「ホームページ」も何となく意味がわかるような気がします。
何となく意味がわかる人が増えてくると、誤用する人も出てきます。
誤用されているのを「何となく」意味を知っている人が見て「なるほど、こういう場合も使うのか」と考えて、誤用の再生産が始まります。
こうなってしまうと「啓蒙」による修正には多大な時間がかかります。(ほぼ不可能とも言えるでしょう)
そういう点を考えれば、今回の八田氏の指摘は「誤用の再生産をさせない」という意味で重要な事ですが、いつかは誤用(というか意味の拡大)がされてしまう可能性は高いと思います。
一番有効な手段は、やはり「オープンソース」でないものに何か名前を付けて、それを流行らせる事ではないでしょうか?
昔、BBSなどにあるソフトが全部「パブリックドメイン(PDS)」と呼ばれていた時に、その誤用を防ぐために「オンラインソフト」という言葉や「シェアウェア」という言葉が作られ、それぞれそれなりに適切な言葉に落ち着いてきたという事もありました。
名前のないものは、たとえ誤りであっても何か近いものの名前で呼ばれてしまうという事もありますから、違うものには違う名前を付けるというのは有効な手段だと思います。
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:1)
「オンラインソフト」や「シェアウェア」という単語が定着したのは、想像するに「タダなの?金取るの?」という多くの人の関心が集まりやすい特徴を区別するために、必要があって呼び分けられたんじゃないでしょうか。
この仮定が正しいとすると「オープンソース」と「それ以外のソース付きソフト」を区別する動機が必要になるわけですが、その区別に関心があるのは主にオープンソースソフト開発者であって…
Open Sourceというのはマーケティングの話なのだ (スコア:0)
Re:ただソースを公開しているだけのは (スコア:0)
Re:Open Sourceというのはマーケティングの話なのだ (スコア:1)
そうですね。こういう視点は有意義ですよね。
通常、マーケティング的な世界では、本当に優れていて正しいと
思えるようなものを世に出す必要は、必ずしも無いと考えます。
それよりも、現状の世情のニーズにマッチしていて、世に
受け入れられやすいものから世に問うて行くことを重視します。
そもそも、社会的運動というものは、先鋭化し過ぎて一般大衆の理解から
乖離しすぎても、頓挫してしまうものなので、どこかで、妥協や世俗化と
いう名のバランス維持操作が必要なんです。
手綱を引き速度や鋭さを抑えることで逆に普及に成功することもある。
Eric Raymondはその点を大事にしていた印象を受けます。
一方、あくまでも論理的に正しく、理想としても美しいのが
Stallmanのほうなのかもしれません。
そして、結局は、この両輪の切磋琢磨があってこその、現在の好位置ではないかと思います。
(と言ってしまう私は妥協的ですね・・)