所謂「お辞儀」論争について。
ネットでよく見かけるのだけれども「変な形の礼が広まっている」という言説がある。根拠に立脚したものから珍奇なガセネタまで様々だが一通り観た上で思うところがあったので書いてみる。
まずよく叩き台に挙げられる「手を前に組んだお辞儀」だが、これは女性に限り間違いではない。
バッグを肩に掛けている場合や洋装他下半身が広がる恐れのある服等状況に応じてこういったお辞儀をするのは正しい選択だ。ついでにいうと朝鮮式のお辞儀だというのは基本ガセだ朝鮮には元来頭を垂れる礼をとる文化は無く今能く見る型は近代以降の創作による可能性が高い。三跪九叩頭を例に挙げる人もいるがあれは「羞恥を捨てて服従する」という故事で少なくとも日本の通念としての礼ではない。
つか普通に考えて頭下げるのを屈辱だと捉えている文化で頭下げる礼が広まるわけがないだろ頭使えと思うのが本音だ。次に正しいとされている礼についてだが諸流派それぞれが形を提示しているわけだが肝要なのは「敵意がないことを表す」形だという点。
写真の小笠原流や他にもみられる両手だらりの型は着物が云々という説明が成されることが多いが元々「腰の刀に手を掛けていない・手之内に暗器や武器を持っていない」という意味合いのもので即ち武士の文化の残滓だ。
因みに私が遣う剣術では本式の礼は勿論鞘刀を右に持っての礼だが帯刀したままの略礼の場合右手の手のひらを柄の上に晒して置き左手は下げて頭を垂れるか形を執る。ソシアルダンスの礼や執事の執る礼の姿を想像してもらうと分かり易いかもしれない。ともあれこれで「一挙動で抜刀できない=斬るつもりがない」と意思表示をする訳だ。そして本当に大事なことは「礼儀とは双方向の物である」と思う点。
勿論由来の定かで無い、もしくは所謂朝鮮式の作法を本式の礼儀と教えている所はあって個人的に不愉快に思うのも本音だが、他方で「人が礼を執っている」という事実に対して難癖をつけるのは無粋であると思うのも本音。
主に西洋人の旅行者が本来であれば神仏や死んだ人間に対しての礼である両手を合わせたお辞儀をよくするがあれで不快に思う人間は少ないだろう。
少なくとも礼を執られたならそれを受け入れ礼で返すのが和魂であると思っている。長々と書いたが要は礼の型も勿論大事で間違った礼やおかしな「正しい作法」を敢えて広めたりすることはダメだが、それ以上に礼を執られたら批判せずに礼で返す精神が大事だと思っているという事だ。
特に昨今外国人が日本に来ることも日本人が海外で活躍の場を得る事も珍しく無いわけで、だからこそ形だけではなく礼の概念と込められた心を理解し表現する事が求められていると強く感じている。
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