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日記

XerographyKMの日記: 長い、中断だった。多々あるけど、とりあえず「辞めたところ」の事情を書いておく。

日記 by XerographyKM

--<富士ゼロックスにおける忌まわしい記憶>/あるエンジニアの回想

実際に当時の環境で遺した記録なので、「現状把握」です。

                ー現状把握ー

1.発症に至る環境と作業内容について   1999年1月21日に内容の擬態説明なく、カラー複写機再生ラインへ転属。転出元、転出先のいずれからもどういう作業をするか
 :何も聞かされていない。また、人選の理由、なぜエンジニアとしてそこに行くのか:
 まったく説明もない。期待されること、役割、効果についても説明なし。
 (ひるがえって検証すれば、それまでに実績を人並み以上に挙げていたこととは何も
 関連しない決定であった:単に5%の部門コスト削減とかのふれこみであったような )
  技術資産統括センターから転出するときには 「活躍を期待している」と原島/技 術資産統括センター長は明言した。原嶋、吉野(担当部長)は1998年12月に私
 を呼びつけて「今回 ARO部へ行って頂くことになりました」と言った。原島は「現 場らしいよ」とも言った。

562924 journal

XerographyKMの日記: 岩槻での開発状況は

日記 by XerographyKM
赤坂溜池の明産ビルにあった技術開発センターで密かに産声をあげた2200の
原型モデル/COCOと、「お前も来い」という今村氏の呼び出しで転出した先の
設計部で量産設計が始まった2200との大きな違いは外観とか、プラテンの機構
のほかにフューザーの変更がある。COCOではGEのクオーツランプを採用して、
まばゆいばかりの熱源でトナーを融着させていたが、新規設計の2200(のひな形)
ではリボンヒーターをエッチングで抜いて平面の発熱体とした初めてのヒーターが
採用されていた。直接に通電したヒーターがうねうねとむきだしでセラミックスの
サポーターに支持されていた。いうまでもなく、このヒーターでも熱源のみで融着
させるので、用紙が停留すれば燃えてしまう。炎をあげて燃えるとか、そこまでゆかずとも、焦げてしまう。いうなればトースターとなんら変わらない。一旦、燃えだすと
機外まで影響することを防止するために「釣り糸」を採用したメカニカルな遮断機構
を備えていた。過熱、燃焼でダクロン(釣り糸の商品名)の糸がフューズのように
融断してアルミニュームのプレートが落下し、燃焼を止める。切れたダクロンは交換
しないとフューザーを再起動できない。フューザーのエレメントリボンには、熱電対
が埋め込んであり、出力の制御はOPアンプ741/709にやらせていた。エレメントを支えるセラミックスのパーツも当初は脆く、ちょっとのショックでぽろりと
折れた。岩槻にいた半年と、設計/開発の主力が海老名の新しいプラントに移動した
あとも新規な材料は信頼性の向上に時間がかかった。このころのマシンロジックはタイマーとリレーだけで動いていた。μコントローラーもTTLのボードも登場していない。
568653 journal

XerographyKMの日記: フューザーのこと

日記 by XerographyKM
(幾日か、ブランクがあったけど)  溜池明産ビルにあった「技術開発センター」でプリプロトモデルが 誕生した2200の原型/COCOには、ヒーターエレメントが赤外線 のランプを採用していた。制御はサイリスタ。ゼロクロスなので当然、 バスーンというような遮断のノイズ波形が出る。それをオシロスコープで リサージュにして眺めていたな。今のようにヒートローラーで加熱/加圧 という方式じゃない。660とか、914などのフューザーは「ラジアント タイプ」で、トーナーの乗った用紙との間には「空間」がある。もしも用紙の 搬送に失敗すると、発火温度ぎりぎりだから、詰まった用紙は焦げることが 普通だった。火災のときのために消火器のボンベが914のドアポケットに 置いてあった。うんと古い映画には914がときどき、登場する。 COCOには660のモジュールをいくつか、流用していた。用紙搬送は グリッパーと呼ぶバーに挟み込むクリップもどきのもの。挟み方が悪いと、 斜めになったりして「ジャム」になる。660のモジュールでは光学系も 使ってあった。660では100%のサイズでなくて、グリッパでイメージが 「けられ」ないよう、ちょっとだけ縮小イメージになっていた。COCOでは、100%でイメージを投影したが、グリッパにかかる先端は転写されない。 原稿はシートだと、ローラーで給送し、露光部も静止。感光体ドラムだけが回転。 エッジの位置にあわせて用紙が送られる。書籍などの原稿は移動プラテンにのった 状態で感光体ドラムの回転と同期して水平に移動する。原稿が静止して、ミラーが スキャンする光学系よりも機構が簡易で作りやすい。ミラーをスキャンさせるのは 立ち上がり、途中ともに速度変動を押さえることが課題。記憶にある事例は、ゼロックスのレベルが「低い」の感が強いな。
569155 journal

XerographyKMの日記: Linuxworld/Tokyo

日記 by XerographyKM
Sorry,I can not key-in with Japanese by the terminal by Novell desktop in the room.I am staying here by the seaside of Ariake,Tokyo.
  Very hot and steamy in Tokyo now.Because of the June rainy weather.
  I will take some picture using a CONTAX S2 and a Hasselblad503cw.Later I will write some sentences from my home.
Bye,bye;people.Good day for all of you today and tonight.
This is C.moto you know as an enngineer of Xerography.
C U later.

、とまあ、会場にあったデモ機での<仮名漢字サーバー>呼び出しがわからなかっただけの、話です。段々とマイクロな企業は展示に参加しなくなったようだ。寂しいような
気もする。30分とちょっとを会場受付で5,000円払って入場。大手のベンダー/
+美形コンパニオンのアンケート勧誘が目立った。本当は説明の充実とか、*UNIXからの3次元CADの移行なんて期待したのだけど。会場の外ではBMWとDucatiの新中古(年式が古い)をならべて展示。アンテナがついてる車体があるけど、よく見たら、ケーブルはつながっていないよ!おいおい。シャフトドライブの二輪をまじまじと眺めたのは初めてだった。免許ないけど、メカニズムのデザインにひかれる。
569315 journal

XerographyKMの日記: 昭和44年よりも後だったかな?

日記 by XerographyKM
(連載なのだが、忙しくてMacもSATAがトラブルだったし...)
 昭和43年に転職でゼロックスに来て、1年と少しの間は後に
富士ゼロックス2200となる複写機のプリプロトの開発に参加。
 44年の後半から1年?ばかりはQAなるセクションにいた。
今でいうとQCというほうが直感でわかる。原型機COCOに採用した
現像器はパドルホイールといって、要するに「メタルの羽根車」が
回転してトーナーとキャリアの混じった「現像剤」を撹拌し、帯電
させる。と、同時に回転で跳ね上げたトーナー/キャリアの一体と
なったものを静電気をチャージされたセレニュームのフォトレセプタ
に「流し」込む。セレニュームのアモルファスな蒸着面には光学イメージの露光で明るい部分は電荷が弱くなっており、シャドウ部分は
電荷が高めに残る。その電位に応じてキャリア粒子にまぶされたトーナーが転移する。ゼログラフィーにおける現像は、静電気潜像を樹脂材料であるトーナーで顕像化することです。アナログの場合もプリンターにおける反転現像も「電位差」を利用することでは同じ。フォトレセプタの上に静電気で付着したトーナーは転写媒体の紙をはさんで
対極の転写コロトロンで逆電位により、紙へ転移する。そのあとでヒーターにより融着し、ようやく「コピー」となる。材料の変化はあれど、プロセス自体はカールソンの発明のままです。
 昭和45年になって?開発/製造/販売の事業統合で「お前も来い」と東京の杉並から部門を移籍して岩槻にあった設計部へ。呼んだのはQAにいたときのI村部長。もとはゼネラルにいた人。出頭日を遅刻したが、記憶の間違いだったのを強引に「いえ、今日です!」と押し通したよ。謝ったって、良かったのだが「強情さ」も必要なときがあるさ。9月の初めに移籍/移動。内陸部でえらく、暑いところ。真冬には、えらく寒くて洗濯物が凍る。半年の間しか、いなかったけど大変なところでしたよ。今じゃ、街道にはラブホテルが林立してるけどね。当時の個人的状況は明日、書きます。
(GFに贈るオーディオの製作、やらなきゃ(^_^) )
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XerographyKMの日記: 回想の日記/ゼロックスにいたころ 4

日記 by XerographyKM
もう、5年も前になるがゼロックス(日本だね)でエンジニアをやっていた。
エンジニアといっても、本来はメカニカルデザインなのだが、1967に高専を
卒業して地元/佐世保にいた。ほぼ1年は造船のブロック建造の下請けをやって
る企業で現場監督の見習いと後半はメカニカルデザインをやっていた。卒業して
の就職先と言っても東京オリンピックのあとの不況と国立だが新設校なので、縁
もないから円滑に就職できたわけじゃない。それでも教官の口利きで無試験だった。
いいか、悪いかはどうでもよいが。1968の7月に第二新卒よろしく、縁もないままの、ゼロックスでの中途採用に受かった。まさに運と度胸と実力勝負での転職。
 今から思うと当時はゼログラフィーの実用化の黎明期だった。なんと在学中に
学校へドイツ企業のゼログラフィック印刷を売り込みにきていた情景を覚えている。
転職先が本家のゼログラフィーに関わるところになるとはおもってもみなかったさ。
 場所は赤坂/溜池の明産ビルというところ。裏手には東芝EMIがあった。駅は
国会議事堂前。坂道を降りて近接した企業には小松製作所があった。よく、昼時に
ショウウインドウの人工ダイアモンドをのぞきこんで窓ガラスに頭をぶつけたもんだ。
仕事はいきなりの「国産化ゼログラフィーマシン開発」だった。上司は今も海老名で顧問をやってるY本さん。ついでながら試験の面接にはN垣内という「師」がやってくれた。退職する前の、ある10年間はN垣内さんと師弟の間柄で仕事をやった。自分ではY本さんとN垣内さんだけがゼロックスにおける師である。そして、二人の師にとって最高の弟子はわたしだけだと自負している。
 ゼログラフィーというのは静電気のイメージを作って、それをトーナーで現像し、トーナーを紙へ静電気で転写して固定化する技術である。国産化での開発というのは
イメージをのせるセレニュームのドラムなどはゼロックスのオリジナルを利用して、新しい(実績のない)現像器と実績のない定着器を採用するというものだった。
現像器の実験と図面の分解やら、自分のアイデアでのクリーニングメカニズム設計を担当した。さらに試作の2つのマシンを組み立てて、テストもやった。これがプロダクトコード<COCO>の仕事だった。今では有機光導電性の材料が主流だが、当時の実用材料はセレニュームの合金だけだった。CdSなど、主流にはなり得なかった材料も大学、日本の他企業では着手していたようであるが。開発はほぼ一年間を費やしてメンバーは二人が転職したり、退職でいなくなった。そして開発レポートにリーダーのY本さんとわたしの名前が記載され、グループの活動は一時的に終了する。
 このあと、製品化にむけた新しい設計チームの活動はさらに先のことだった。
以下、明日の連載に期待してください。(^^)
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一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy

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