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von_yosukeyanの日記: 信託銀行

日記 by von_yosukeyan

信託銀行の定義としては、次の三つがある。第一に、信託業を兼営している銀行で、定義的には社団法人信託協会に加入している金融機関である。第二に、信託協会加入社のうち社名(信託銀行は「行」と呼ばず「社」と呼ぶ)に「信託銀行」という呼称を使用している銀行25行を言う。第三に、歴史的な経緯から銀行の信託部から戦後分離設立、または信託会社が銀行免許を取得して信託銀行となった会社のうち、信託三業を行っている銀行をいう。一般的には、狭義の第三分類のみを信託銀行と呼ぶ

信託の歴史は、中世イギリスに遡ることができる。私有権絶対の原理が確立してなかった中世には、主に戦争で多額の負債を抱えた領主や君主が、商人や教会の保有する財産を収奪することがしばしばで、資産を子や教会に遺贈する場合でも、相続上の手続に君主が介入し財産を奪われることが多かった。このような権力による財産の収奪から逃れるために、相続時に第三者に対して財産を移転した上で、財産からの収益を子や教会に移転すると言うUseの制度が確立した。これが、後の信託(Trust)のはじまりであり、主にイングランドとイングランドの影響を強く受けた米国で発達した

わが国においては、明治維新以降法制度の点では大陸法の影響を受けたために、すぐに信託制度は輸入されなかった。民法上、公益のための財産管理は原則的に財団制度が活用されていたが、大正11年に信託法が制定され、業としての信託の規制が信託業法によって行われることになり、わが国でも本格的な信託制度がはじまった

わが国の信託制度は、専門の信託会社に信託業を独占させる限定的な法制度で、信託の対象となる信託財産も昨年まで金銭及び不動産に限定されていた。平成16年信託業法は、信託財産の範囲を知的財産など広い範囲に認め、これまで信託銀行が独占してきた信託業を弁護士や新規の信託会社の設立を容認するなど、制度的な改正が行われている

信託業は、昭和に入ると財閥系を中心にいくつかの信託会社が設立され、これが主に第三分類における信託会社の祖先になっている。一方で、信託業を兼営する銀行も多く、代表的なものとして大阪野村銀行信託部などがあった。また、明治末期に脆弱な資本市場を補完する目的で国策的な目的で設立された特殊銀行のうち、日本興業銀行や北海道拓殖銀行なども、拡大する信託市場に参入したが、設立根拠法に違反するなどの批判や、信託業界の反対もあって信託業への参入が制限される一方、資金調達手段として当初から独占的に認められていた金融債(社債の一種)の発行を拡大することによって、実質的に長期金融に参入した

信託業には、主に証券や土地などの信託管理を行う財産信託と、金銭の信託運用を行う貸付信託、株式の名義人書き換えに代表される株式代行業務の三つがある。第二分類における信託銀行は、主にこの三つを行う点が重要であるが、戦後吉田内閣の下で産業資本への円滑な長期資金の利用を目的として、都市銀行や地方銀行に代表される普通銀行と、信託銀行や旧特殊銀行から転換した長期信用銀行の業を明確に分割する長短分離政策が取られた。これに従い、戦前からあった信託会社は銀行免許を取得して信託銀行に転換する一方で、信託業を兼営していた銀行は信託部門を分離して新たに信託銀行を設立した。これが第三分類の信託銀行の元である

この第三分類の信託銀行には次のような銀行がある。旧財閥系の信託会社から転換した銀行として三井信託銀行、三菱信託銀行、住友信託銀行、安田信託銀行、日本信託銀行(旧川崎財閥)の5社がある。これに、旧普通銀行が兼営していた信託部門を分離したものとしては、三和銀行信託部及び神戸銀行系の神戸信託会社、野村證券証券代行部が分離して誕生した東洋信託銀行と、東海銀行及び第一銀行の信託部門が分離設立された中央信託銀行の2社があり、第三分類の信託銀行はこの合計7社が存在していた

この他に、第一分類の中には政府の長短分離政策に抗して、信託兼営をやめなかった銀行もある。これは、大阪野村銀行が行名変更した野村財閥系の大和銀行と、特殊銀行から普通銀行に転換した北海道拓殖銀行の2行である。拓銀に関しては、北海道経済の後進性などが考慮されたために信託兼営が認められたが、大和銀行の場合には政府による信託分離要求が強く、大和銀行が出店規制などで都銀下位に止まったのはこの影響もあると言われる。さらに、米国統治時代に、米中央銀行制度である連邦準備制度(FRS)の出資によって、沖縄領域の中央銀行兼商業銀行として設立された琉球銀行と、琉球政府銀行法に基づき設立された民間商業銀行の沖縄銀行の2行も、信託業を兼営する信託兼営行である。これに加えて、90年代の規制緩和後に信託業を兼営するようになった銀行として三井住友銀行をはじめとして20行(SMBC以外はすべて地銀)ある

第二分類の中には、90年代の金融規制緩和によって外国銀行や大手銀行及び証券会社の子会社として設立が認可された信託子銀行がある。これには、証券系として野村信託銀行と日興シティ信託銀行、日興シティ信託銀行(日興コーディアルグループとシティバンクの合弁会社)が、外銀系としてはモルガン、ドイッチェ、ステートストリート、エスジー(仏ソシエテ・ジェネラル系)、クレディスイス、バークレーズ・グローバル・インベスターズの6行がある。これに、証券系で親会社の山一証券が破綻した影響でオリックスに譲渡されたオリックス信託銀行、BNPパリバ系だったが東京都に譲渡された新銀行東京の2行があり、さらに信託子銀行として銀行系で生き残っている銀行としてあおぞら信託銀行(旧日債銀信託銀行)と、新生信託銀行(旧朝銀信託銀行)、日証金信託銀行(日本証券金融系)、農中信託銀行(農林中金系)、しんきん信託銀行(SCB系)の5社がある。さらに、年金運用財産の管理委託のために、信託銀行のさらに信託子銀行として再信託銀行(マスタートラスト)が存在し、これには日本マスタートラスト信託銀行、資産管理サービス信託銀行、日本トラスティサービス信託銀行の3社が存在する。これら第二分類の銀行が登場するのは1990年代である

さて、長短分離政策によって第一、第三分類の信託銀行は、主に信託財産管理や証券代行業務など、信託独自の業務を行う一方で、産業部門への長期資金の導入と言う歴史的任務を負った。この長期資金の供給源となったのが、金銭信託と貸付信託の二つの金融商品である

金銭信託とは、金銭を信託しこれを信託銀行が運用し金銭で配当を行う金融商品で、合同運用金銭信託とヒットの二種類が主にある。いずれも1ヶ月から1年の据え置き期間の後に引き出せることから、短期資金の運用に使用される。これに対して、貸付信託は長期の資金の信託に使用され、根拠法として貸付信託法に基づいた運用許可が必要である。信託期間は2年から5年で、ヒットと同じく予定利率の定めがある。これは割引金融債(短期)と利付金融債(長期)と同じように、運用期間の差による商品構成の違いをつけているに過ぎず、本来の信託とは異なり預金と同じように利率が表示され、預金保険とは別に元本保証規定を盛り込むことで実質的に預金保険が存在する制度だった

このような、金銭信託や貸付信託によって得られた資金は、主に鉄鋼や化学など多額の資金の長期運用として貸付が行われ、高度経済成長期の企業の資金需要に応えた。しかし、1970年代に入るとこのような資金需要は低下したために、信託銀行は新たな融資先として不動産や流通、鉄道などの分野に投資されるようになり、信託勘定そのものも規模が縮小していった。バブル期には、不動産などへの貸付が活発に行われる一方で、資金不足の商業銀行に対して預け入れられるいわゆる銀貸が横行し、信託銀行の地位低下は決定的なものとなった

90年代に入ると、不良債権の増大によって信託銀行は生き残りが厳しくなり、資産管理や証券代行などに特化する一方で、関係の深い都市銀行との連携を強めるようになった。97年、金融危機の到来によって、破綻寸前まで追い込まれた安田信託銀行は、同じ旧安田財閥系の富士銀行による救済を受け資産管理部門を分離して富士信託銀行と統合して、実質的に消滅した。以後、安田信託銀行は富士銀行の子会社として多額の不良債権を抱えた勘定と、店舗網を維持するだけの会社となり、みずほグループ誕生後には一旦は分離したみずほ信託銀行(旧第一勧業富士信託銀行)と合併し、社名をみずほアセット信託銀行からみずほ信託銀行に変更し現在に至る

やはり経営が悪化した中央信託銀行は、破綻した北海道拓殖銀行の信託部門と本州部分の店舗網を合併した後、経営破綻寸前だった三井信託銀行と経営統合して中央三井信託銀行となった。弱者連合である中央三井信託銀行は、資本に占める公的資金率がもっとも高く、破綻した長銀の買収を試みるなど、公的資金を活用した経営に転換する姿を見せていたが、旧さくら銀行系のさくら信託銀行の経営譲渡を受け、持株会社三井トラストホールディングスを結成し、傘下に三井アセット信託銀行を抱えるなど三井系の影響力が強くなっている

信託部門の規模が相対的に小さく、銀行勘定の規模だけで大和銀行に匹敵していた三菱信託銀行は、同じ三菱財閥系の東京三菱銀行と長年にわたって対立していたが、金融再編の流れを受けて東京三菱銀行との経営統合に踏み切り、東京三菱銀行が株式公開買付で子会社化していた旧川崎財閥系の日本信託銀行と、旧東京銀行系の東京銀行を吸収合併し現在に至る。しかし、現在でも商業銀行部門との確執が続いており、一体的な経営が行えない状況が継続している

旧三和銀行と、野村、日本生命の影響力が極めて強い東洋信託銀行は、三和及び東海銀行によるUFJグループに参加し、三和・東海量信託銀行を合併してUFJ信託銀行となった。いち早く、商業銀行への銀行勘定の移転や、信託銀行による資金運用を放棄して、信託専業化を図る戦略を取ったが、UFJ銀行の経営悪化に伴い、信託部門の住友信託銀行への売却と撤回を経て、三菱信託銀行との合併が決定した

はやり歴史的な経緯から、住友銀行との確執が続いていた住友信託銀行は、三井住友銀行へのグループ参加を拒否し、持株会社を結成しないまま独自の戦略を取っている。元々、規模はそれほど大きくなく、関西系金融機関特有の高収益体制と独自の戦略を持つ住友信託銀行は、不良再建の重みに苦しむ三井トラストと、同系である三井住友銀行とゆるやかな連合を結成しつつ、独自の経営を守っている。UFJ問題では、三井住友銀行への接近も見られるが、長期的には三井トラストとの合併を視野に入れつつ、公的資金の早期返済(大手銀行系では東京三菱に次いで二番目)、富裕層へのプライベートバンキング強化に動いている

傘下に信託銀行を持たない三井住友銀行は、新たに信託兼営を行い三井トラストや住友信託銀行とのゆるやかな連合を取りつつ商業銀行部門を中心とした経営を続けている。長期的には、両信託銀行との経営統合を視野に入れている

こういった信託業界の再編によって、信託銀行は従来の貸付信託や金銭信託を極限まで縮小しており、特にメガバンクの傘下に入った信託銀行は、企業への貸付や金銭・貸付信託の募集を停止して、資産管理業務などに特化する傾向を強めている。このため、信託銀行は従来のように長期資金の運用主体としてではなく、特定の業務に特化した銀行となりつつあり、信用創造機能を持った金融機関としての信託銀行は過去のものになりつつある。これに代わって力を入れているのが、富裕層に対する資産管理サービス(プライベートバンキング)や、投資信託などの運用性商品の販売、知的財産信託などファイナンススキームの提供、証券代行業務など、手数料収益中心への業務転換がほぼ終了している

これらは、長期信用銀行が長期資金の担い手としての姿を放棄し、投資銀行業務に特化するなど、やはり手数料収益中心のモデルに転換しているのと同じである。戦後の信託銀行の不幸は、国による産業政策の一旦として長短分離されたことであるが、長期資金の担い手としての任務が終了した時点で、信託本来の姿に回帰できたことが、投資銀行モデルに転換できずに破綻していった長信銀との違いであり、ある意味においては救いであったと言えるだろう。

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未知のハックに一心不乱に取り組んだ結果、私は自然の法則を変えてしまった -- あるハッカー

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