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日記

Torisugariの日記: モードとシボレー

日記 by Torisugari

巷にはファッションについて論じる本がいくらかあります。中でも目を引くのはロラン・バルトさんの『モードの体系(Système de la Mode)』で、ごくごく簡単に言うと、流行は計画的に作り出されており、世間は作り出された流行をそっくりそのまま追いかけている、という話です。このように、ファッションはまず記号論で語られます。ただ、なんと言うか、その他の記号論がよく論じるように、コミュニケーションに注目してシニフィアンとコードを体系化するのも結構ですが、「ロラン・バルトの予定調和」を掘り下げる上では、いささか方向がズレ過ぎているように思われます。予定調和は、究極的にはやっぱり金銭の話です。そういうところにうまく結び付けられないのが、一連のポストモダン・ポスト構造主義的なものが衰退していった一因なのではないでしょうか。

しかし、繰り返しになりますけれど、現実のファッション業界そのものは生臭なのですから、ファッションについて考える事自体の価値が薄れてしまった、とは言えません。むしろ、そういう意味では、ファッションの議論には不変不朽の普遍的な価値が存在するといっても過言ではないでしょう。記号論的なファッション論は「表現」を論じるために服飾を体に身につけだ状態をシニフィアンとするわけですが、「ロラン・バルトの予定調和」を考慮にれた上で考えると、ファッションは、道行く人が着ている「服装」というよりは、むしろ、店でよく売れた「服装」を本質としている、というべきです。たくさん売れた服をたくさんの人が着ているのは当たり前のことであって、服を着ている人の意図を気にする必要はさほどありません。バルトさんが論じたのは雑誌に載っている「服装(を表現する言葉)」であり、これに着ている人の意図が反映されていると考えるのは図々しすぎます。重要なのは買わせる意図と買った意図です。

記号論的ファッションと商売としてのファッションの話を結ぶ交差点にあるのが、ジャン・ボードリヤールさんの『消費社会 (La Société de consommation/The Consumer Society: Myths and Structures)』だと思います。ブランド商品の価格は、往々にして「材料費+加工時の労働力(剰余価値)」を上回り、これはカール・マルクスさんの資本論、特に使用価値(use-value)と交換価値(exchange-value)の理屈では説明できません。もちろん、需要と供給の関係を考えれば、価格の高さだけは説明できますけれども、神の見えざる手によってすぐにも供給量が増えるはずですから、価格が高止まりするのはやっぱりどこか異常な状況です。ボードリヤールさんは、この市場価格(交換価値)と有用性(使用価値)の差を埋める要素を雰囲気(`environment' and `ambience')と呼び、その雰囲気によって消費者が個性を獲得するためのコストを記号価値(sign-value)と呼びました。

ただし、ボードリヤールさんの主たる主張は、本来無限に自由な個性を持つ人間が、商品の購入によって「ある商品を購入した人」というクラスタに嵌められていく、ということです。高級な水商売の店で飲む酒の価格は一般的な使用価値より遥かに高いわけですが、それは値段(記号価値)に、使い捨ての雰囲気が含まれているからです。そして、酒を飲んだその瞬間に、使用価値としての酒も雰囲気も一挙に消費されてしまいます。この雰囲気が獲得された私の個性であるとするならば、次の客も私と同じ個性を持つことになります。水商売の場合は接客サービスを雰囲気と言い換えることも可能かもしれませんが、これが100万円のスーツならどうでしょうか?しかも、高級スーツを着て500円のサンダルを履くことはできませんから、連鎖的に全てのコストを押し上げ、もはや記号価値を生み出すことでしか賄えなくなります。すると、小指一つで見渡す限りの畑を実らせるほどの豊かさを手に入れても、それらの使用価値は使い捨ての記号価値を手に入れるためにあっという間に吸いつくされて、残りの社会の大部分は、ほとんど使用価値を伴わない記号価値をドブに捨てるように目まぐるしく消費しては生み出していく、という連鎖を延々と繰り返すシステムになり、獲得された個性を持ったはずの個人は無個性にパターン化された役割に嵌り込むことになるのです。

理論物理学や現代思想は、ある種の宗教のようなものと言えるでしょう。藁で編んだ蓑よりもヴェルサーチの外套の方が画一的であるのは確かに憂うべきことですし、今やWeb広告が提案してくる購入すらしていないラベリングに晒される現代人は、ボードリヤールさん本人よりもリアルな当事者意識をもって、その宗教に入信したくなるかもしれませんが、さしあたってファッション論を進める上では感情移入する必要は大してありません。一方で、ボードリヤールさんの意図を十分汲んでいるとは言えないかもしれませんけれど、「雰囲気」についてはもう少し拡大解釈したくなります。それは、我々が「個性的になりたい」、「他人と同じ服を着たくない」と思うその欲求と、さらには「獲得した個性を維持したい」と思う欲求が、様々な経済学的な効率性を超越して、「雰囲気」に過大な価値を与え、商品の価格を釣り上げているという指摘だからです。ココ・シャネルさんの発言に「かけがえのないものになるためには、ひととは違っていなければならない」("Pour être irremplaçable, il faut être différent")というものがあります。我々はかけがえのない(irremplaçable)人間になるために、ひとと違う商品を求め、商品の価格を釣り上げるのですが、所詮、商品は大量生産されたもので、我々には同調圧力を超えてまで人と違ってしまう勇気などなく、贖った商品によりひとと同じになって、入れ替え可能な(remplaçable)人間になるのです。

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まず始めに、名義ファッションと順序ファッションという区別を導入しておきたいと思います。

社会学的な統計にはスタンレー・スティーヴンズさんという人が導入した「名義尺度」、「順序尺度」、「間隔尺度」、「比例尺度」という4つの尺度に関する用語があって、順に情報量が多くなります。間隔尺度や比例尺度は、当然のことながら、順序をつけることができる尺度であり、言い換えると、間隔尺度データや比例尺度データは広い意味での順序尺度データの部分集合にあたる概念なので、順序の有無を基準に考えると、全てのデータは名義的か順序的かの2つに分類することができます。デジタルデータは基本的に全てが0または1の組み合わせですから数値で表現できますが、そのデータを数値で評価したいか、となるとまた別の問題で、立場によって異なります。例えば、AppleとBananaは文字列をアルファベット順に並べるという観点からは優劣があり、ascii的な評価をすれば、数値に換算できる順序尺度データです。しかし、この「順序」はあなたが夕食のデザートを注文するときにほとんど参考にならない順序です。ですから、この立場からはこれらの文字列は名義尺度データです。一方で、学校の先生が問題を解かせる子供をアルファベット順に選ぶとき、AliceとBeckyは、名前そのものがなにがしかの数量的な意味を持っています。したがって、この場合は名前が順序尺度データです。ちなみに、統計学園高等部の定義だと、名義的データと質的データは一致してしまいます(xy平面にグラフを書こうと思わなければ、そういう語釈の方が日本語として自然だとも思います)が、普通は順序尺度データも質的データだと考えるので、混乱をさけるために質的・量的という言葉は使わないことにします。

順序尺度データは、こと、「選択」となると、きわめて客観的な指標です。同じ製品が100円と80円で売っていたら、我々は迷いなく80円の方を選択しますし、その理由をわざわざ他人に説明する必要すらありません。しかし、名義尺度データ、例えば同じ商品の色違い品で赤と青があればどうでしょうか?あなたが青を選んだとして、その理由は説明しようがないかもしれませんが、とにかく、「赤」や「青」という色そのものが持つ情報以上のなにかが作用して選択が発生したはずです。それは、手前にならべられていたからとか、赤は既に持っていたからとか、家族が青を好むからとか、様々な理由があるでしょう。しかし、客観的な違いが色に集約されてしまうと、外部からその理由を追求するのは不可能になってしまいます。

上記の例は、商品同士の差が1つしかない、極めて単純なモデルでした。しかし、実際に我々が商品を選択するとき、1つの項目だけを見比べる、という事はまずありません。「400gが1000円の牛肉」というデータには、2つの順序データ(400g、1000円)と、1つの名義データ(「牛肉」)が含まれており、さらに、選好性に最も重要なデータは、2つの順序尺度(比例尺度)を計算して得られる「100gあたりの値段が250円」だと考えられます。しかしながら、「100gあたりの値段」を得たからと言って、400gや1000円といった順序データの価値が死んでしまうわけではありません。なぜなら、同じ「100gあたりの値段が250円の牛肉」であったとしても、家族構成によっては数トンに及ぶ牛肉をダメにするまえに消費しきれないでしょうし、また、価格が数億円に及べば、一般的な家計の支払い能力を超えてしまいます。さらに、そのほかにも、「牛肉にしては安い」という判断もあれば、「戒律で牛肉が食べられない」という判断もあるでしょう。それらはそれぞれが依然として選好を左右しうるデータなのです。

この中で、私が特に強調しておきたいのは、「牛肉にしては安い」という選好です。アルファベット順の例にも見たように、杓子定規に考えれば名義データでも外部的な情報を加味することで順序データに転じる場合は多々あります。「牛肉」は機械的判断では名義データですが、消費者が牛肉の値段の平均値と鶏肉の値段の平均値をよく知っている場合は、順序データとして働きます。これが、「松坂産」と「米国産」のように銘打たれていれば、消費者の心理には圧倒的な差となって現れてくる順序データです。もし、我々が食肉を提供する生産者なら、この順序データの「順位」ができるだけ若くなるよに行動すべきだと言えるのかもしれません。ただ、業界全体や消費者まで含めた社会全体にとって、この方向性が合っているか、という点については、まだまだ議論の余地があります。かつて、地元の農産物を全てブランド化するという公約を掲げている政治家がいましたが、それを全国的に推し進めると、我々をして、食品の使用価値ではなく記号価値を消費する奇怪な怪物へと変貌させることになります。それは、市場が(例えば外圧によって)破壊されるまでブレーキを踏めない記号価値付加競争の始まりであり、公約の有無にかかわらず、我々は既にその道半ばにいるのです。

大量の商品広告にさらされる現代日本人にとって、もはや全ての名義データは順序データと呼んでも差し支えはないのです。一方で、市場には不思議な現象として、名義データが違うのにほぼ同じ価格で売られている互換品があります。いろいろな順位を勘案する人間の能力の限界として、もはや「同じくらいの順位」としか思われていないグループや、知名度が低すぎて雰囲気が選好に与える影響がほぼゼロのグループだって存在するからです。そこで、順位がついていないという意味で、それらから製品を選択することを名義ファッションと呼ぶことにします。

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基本的な知識のすり合わせとして、ファッションと産業革命について触れておきたいと思います。

産業革命と一口に行っても、いろいろな意味がありますが、主な契機は紡績機・織機の発明(第一次産業革命)と電気・内燃機関の発明(第二次産業革命)です。しかし、近代工業を語る上で、それらに匹敵する重要なポイントは、「工場」と「大量生産」の発明です。前振りをあまり詳細に検討するわけにもいかないので、時系列的に並べて簡単に言うと、これらは、
  1. 工場: 工業生産の場所の集約化(工場制手工業)
  2. 第一次産業革命: 水力・馬力・蒸気機関等の動力を工業製品に転化(工場制機械工業)
  3. 第二次産業革命: 動力の陳腐化・個人所有
  4. 大量生産: 工場における徹底した分業化
という段階を踏んで発達しました。

余談として、4番目の大量生産の開始から、すでに100年ほど経過しているわけですが、次の5番目の要素には何が当てはまるのでしょうか?人によって意見は違うでしょうが、私が決めていいのなら、4番目の大量生産をフォード主義(Fordism)と言い換えて、5番目の要素としてトヨタ主義(Toyotism)、すなわちカイゼンを挙げます。といっても、トヨタ自動車がカイゼンと呼んでいる全ての項目を指すのではなく、フォード主義、すなわちトップダウンで上司が部下の仕事内容を細かく管理するやり方に対して、工員の自主的な発想で工場を変化させる手法のことを指します。労働環境の改善という言葉は、休暇のとり方や賃金を含めた福利の向上を意味しますが、カイゼンは工場と製法の変化、ひいては製品の変化のことであって、広い意味での労働環境はほとんど関係ありません。上部組織が下部組織のやることを全て仕切るという方式では生産性に無駄があったからこそ、カイゼンが生まれたんだろうと思います。

ただし、カイゼンのこうした作用が確実に効果的であるか、という点については、私もあまり自信がありません。いわゆる「リーン生産方式」や「シックスシグマ」のように、カイゼンをあえてトップダウンにしようとする試みもありますし、ボトムアップ的な効果が十分に検証されないまま理論が先行しがちになっている傾向はあると思います。ボトムアップだと「替えの効かない」技術や人材が下層で大量に誕生して、異動や馘首(リストラ)が困難になり、ひいては経営の合理化を阻む要因にもなりかねません。そもそも、従業員に権限を与えれば経営者が何もしなくても勝手に業績が上向く、というのは一種のファンタジーであって、必ず成功する類の経験則にはなりえないでしょう。カイゼンは経営者側からの働きかけで実行するわけですから、どこまでをトップダウンとして、どこからをボトムアップとするか、という線引きも曖昧です。ただ、カイゼンそのものには実績があって、単純なフォード主義よりはうまくいっている、というのが実際のところなんだと思います。

さて、今度はファッションの歴史を振り返るわけですが、fashionは多義語で原義は「作法」程度の意味なので、明確に今日的な意味でのファッション、特にその嚆矢であるオートクチュールに絞って考えてみたいと思います。

記号論的に捉えると、ファッションの勃興は、ロマン主義の絵画が衣服を描き、その絵画が出版によって大衆に広がり、ファッション雑誌ができたから、というふうに要約できるでしょう。しかし、記号としてのファッションの流布よりも前に、「糸と布が余っていた」という現実を考えなくてはなりません。つい先程見たように、産業革命は糸と布の生産力を上げることで始まりました。そのためには原料である綿の資源獲得を目指し、あるいは流通路を確保するための戦争が繰り広げられたわけですが、最後に行き着くところは糸と布のデフレーションでした。

オートクチュールのファッションショーが始まった場所はナポレオン3世の皇后のサロンであり、時期的には幕末から明治維新のころ、つまり、イギリスで第一次産業革命が完了して、第二次産業革命に差し掛かったころです。このころはまだ大量生産よりは前の時代ですから、服は全て手作りです。ですから、一見、産業革命とは縁遠いようですが、糸と布は機械製だったのです。実際、オートクチュールのファッションショーではデザイナーが生地を持ち寄り、モデルの服をどの生地でつくるかという注文をとっていました。和服でもそうですが、服を注文するときは、普通、先に生地を買って、それを仕立て屋に依頼して服にしてもらいます。オートクチュールは、完成品の服を着たモデルを見せて、その後に生地を選ばせて注文を取るという様式にした点が画期的なのですが、これは仕立屋の地位が上がったと同時に、生地屋の地位が下がったことを意味します。今まで生地に合わせて服を作っていたところが、服に合わせて生地を選ぶようになったのです。とりもなおさず、それは、生地の使用価値にデザインという雰囲気を足さないと、高級服としての地位を維持できなくなったということです。かつては、上質の布で服を作るだけで裕福だという記号価値を付されていたのに、布の質は同じでも、サロンでお披露目されたデザインでないと良い服だという記号価値が得られなくなりました。記号価値が一定期間で消却されてしまうモードの誕生です。

服に記号価値を付与するのはデザイナーかもしれませんが、その記号価値のみなもとは「去年買った服じゃみっともない」と考える消費者であって、デザイナーはその要望に唯々諾々と従うほかありません。これは、手作りが一掃されてファッションショーがプレタポルテのものになっても変わらぬ事実であって、今年服を買った人が去年の服を着ている人を見下すことによって生まれるのがモードなのです。そして、産業革命が布から始まったことと、ファッションが服から始まったことを偶然で片付けるわけにはいきません。技術の発展により供給が増大して膨れ上がった市場は、コストの低減によって凋むのが市場の摂理です。一人あたりの生産力の増大は、市場が養うべき雇用者数の減少を意味するはずなのです。しかし、その個々の使用価値の低減を相殺するかのように記号価値を膨らませる現象が生じました。我々はその現象をファッションと呼んでいるのです。

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服飾は比較的オープンな市場で、参入の障壁も他の業種に比べればさほどではありません。そこで、最後に寡占市場のファッションについて考えてみたいと思います。ここでの寡占とは、厳密に独禁法的な意味での寡占ではなく、何らかの理由により単にプレイヤーが少ない市場を指します。

先ほど私は、フォード主義の次はトヨタ主義だと述べましたが、現実にトヨタはフォードを打ち負かしたのでしょうか?いやいや、そうではありません。なぜなら、フォードを倒したのはGMで、トヨタはGMに勝って覇権を握ったからです。現実の自動車業界では、互いのビジネスモデルを模倣しあっているので、実際に差がつくのは一方が他方に遅れをとったことを悟るまでのごく短い期間に限られてしまいますが、ちょうどGMがフォードを打ち負かした瞬間というのは、非常にわかりやすいので、こういう場合の例に挙げるには最適です。

GMは1900年代に、ビュイック・モーター社として出発しました。1900〜1910年代はフォードの全盛期であり、フォード社のT型フォードは売上数もコストパフォーマンスも最高の自動車でした。この構図が変わるのは1920年代にアルフレッド・スローンさんが社長になったころです。GMはそれまで買収した自動車メーカーを再編し、ひとまとめにはせず複数の車種として売り始めました。これが、「シボレーからキャデラックまで」("From Chevrolet to Cadillac")であり、自社内の車種にあからさまな区別を設けて順序データとしたのです。

この順序データ化は、必ずしもファッションだけを意識して行われたとは言い切れません。スローンさんが実際に行ったことは、事業部制の徹底であり、予算が各事業部の利益の枠を出ないように調整することによって経営の合理化を計ったのです。つまりは、本社から支社へと権限を移譲する分権政策です。ちなみに、前述のトヨタ主義とも無関係ではなく、GMの事業部に与えられた権限をさらに下の工員まで下ろして、(ドラッカーさんが言うように)工員に経営者としての視点を与えるさらなる分権がカイゼンなのですが、ファッション論にとっては本当に無関係です。

一方で、逆に、スローンさんがファッションを意識していた証拠はたくさんあります。「全ての財布と目的にかなう車」("a car for every purse and purpose")と喧伝された、この「シボレーからキャデラックまで」戦略を、スローンさんは「パリの仕立屋の法則」("laws of Paris dressmakers")と表現しました。

GMがかなり早い段階から車の「かっこよさ」を追求する戦略をとっていたことは確かであり、豊富なカラーバリエーションを導入し、1927年にデザイナーを集めた部局(GM Design)を開設しました。ここのトップだったハーレイ・アールさんは後にGMの副社長になっており、Wikipediaは工業デザイナーが大会社の重役となった最初の例だとしています。最初かどうかはともかく、草分け的存在であることは確かでしょう。ただ、カラーバリエーション単独ではあくまでも名義ファッションであり、車の値段を押し上げる動機としては弱いと言わざるを得ません。「現在、私が乗っている自動車の色は黒だから、白も揃えたい」とは、なかなか考えないものです。ここでの「パリの仕立屋」とは、単にかっこ良さを追求する、という意味での表層的なファッションだけを指すわけではなく、むしろ、我々が今まで論じてきたようなファッションを模倣し実現させることを意味している、と考えて良いでしょう。つまりはモデルチェンジです。まさにモードが季節ごとにデザインを消費するように、GMは頻繁にモデルチェンジを繰り返しました。

我々は比較することによってしか記号価値の良し悪しを判断できないのですから、モードの場合はそれがブランド名とデザインの新しさであり、自動車の場合は車種と年次モデルなのです。記号価値によって、シボレーからキャデラックの地位が決まっているわけですが、ここで重要なのは、必ずしも全ての人がシボレーの使用価値が上がることを望んではいない、ということです。ビュイックに乗っている人は、キャデラックに負けるのは仕方がないけれど、シボレーは常に劣った車であってほしい、と考えるはずです。しかし、現実がそのようにして固定されてしまうと、シボレーを見て得られる満足は、キャデラックとすれ違うたびに不満となって跳ね返ってきます。「上がり」のキャデラックを購入するまで、延々と自らの愛車に不満をもたせようとする企み、その不満を煽る最も効率的なシステムこそがモデルチェンジです。彼のビュイックは、キャデラックは言うに及ばず、今年のビュイックにすら劣っているのですから。

車を欲しい人の数と車の生産台数が吊り合ってしまったら、製品の陳腐化が始まり、以降は数量駅な成長は望めません。すると、市場を成長させるには、いかにして記号価値を製品に持ち込むか、という勝負になります。ファッションの黎明期、この試みはオートクチュールで成功しました。そして、自動車の普及期にあって、GMはフォードをファッションで破ったのです。

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世の中には、時に消費者側の視点では理解しづらい生産者側都合の自己分割があります。例えば、ホンダは自動車の販売会社をプリモ・ベルノ・クリオといったブランドに分割していました。なぜ分割したかという細かい事情は当事者以外に知るすべがありませんが、推測だけはできます。つまり、先駆者の業績を見ると分割した方が合理的で少なくとも悪影響はないと思えたから、でしょう。それは、GMがどう成長したかという歴史認識なしには持ち得ない判断です。マイクロソフトは9x系統とNT系統を「Windows XP」で統合するにあたって、HomeエディションとProfessionalエディションにラインナップを分割しました。「Windows 7」に至っては"Home Basic"や"Home Premium"などの6段階です。需要が飽和したあとの市場の伸びしろは記号価値しかなく、記号価値を付加するには選択肢を消費者に突き付けるしかないのです。そして、自然に選択肢が生じる余地のない市場では、寡占の担い手が自らを分割して無理やり選択肢を作りだす他ありません。

これらの分割は再統合された現状から後知恵で眺めると、いかにも浅はかな考えであったかのように思われるかもしれませんし、現実に淘汰されてしまったのですから、反論も難しいところです。しかしながら、その意図自体を貶めるべきではない、と私は考えます。それは90年前に成功した試みであり、今もなお別の方面では続々と成功例を出している手法だからです。最終的には消えてしまっても、確かにそこに合理性があったのです。

物の値段を自分勝手に付ける製造業は長生きできません。市場原理から外れた状態はいつか是正されるからです。生産者が自由に行使できるのは価格ではなくラインナップ変更の権利であり、しかもそれは、状況さえ許せば価格をコントロールしうる大きな要因になります。商品を選ぶとき、ファッションセンスが発揮されるのなら、商業的な意味でのファッションとは客に商品を選ばせることです。それも、カラーバリエーションのような名義ファッションではなく、「シボレーからキャデラックまで」のような順序ファッションであることが、記号価値を釣り上げるという観点からは望ましいのです。なぜなら、客の大半はファッションセンスがないからです。もちろん、新たな製造ラインは新たな製造コストを要求することでしょう。フォード主義的に考えると、これは明らかに無駄な工程なのです。あえて、その無駄を行うものが勝つ場合があるのは、記号価値が使用価値で測り知れない所以でもあるのです。需要は鉱脈のように埋まっていますが、それを掘り尽くした後は、むしろ、こちらからレールを引くことによって生まれる予定調和である、というのが産業革命の先駆者たる糸と布が教えてくれたことなのです。

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以上の理由で、iPhoneはモデルチェンジするT型フォードですから、いずれ新しいブランドを投入するのではないか、と予想しています。

この予想に納得の行かない方は「ソフトウェアの価格設定はどうするべきか」も読んでみてください。たしか、半年くらい前にストリーミング映像の価格改定で同じ主旨の記事がスラッシュドット(jp)にあったと思うのですが、そちらは見失ってしまいました。

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