snowyの日記: デスクトップLinux雑考 7
先日、デスクトップLinuxの基本に関わる記事が2つ続いた(「一太郎/ATOK for Linux」「Turbo LinuxのWindows Mediaへの対応」)。僕にとって、どちらも非常に興味のある問題だけに、それぞれの記事から、いくつか考えを持った。そして、コメントにおいても興味深いものがいくつもあった。
個人的には、今回のTurbo LinuxのWindows Mediaへの対応は、HPのコンシューマー向けPCへのTurbo Linuxの搭載への当然の過程だと思っているが、それはさておき、コメントを見る限り、根本的な問題が未だに残っていると感じるのである。
2つの基本的な問題
デスクトップLinuxについては、まず、2種類の問題で私たちLinuxコミュニティは共通の認識を持つ必要があると思う。
需要の問題
1つ目は、需要の問題である。
デスクトップLinuxは一般的な社会で本当に必要とされているのだろうか? 必要とされるなら、それはどこだろうか?
この問題をあえて挙げるのは、今回のJust SystemやTurbo Linuxの新製品の方向性に対し、批判的な意見(#538687、etc.)を持つ人がいるからだ。そして、同様の趣旨の批判はこれまで何度も繰り返されてきた。だが、この批判の根拠にあるのは、Linuxを趣味としている私たちにとってのデスクトップLinuxの位置付けをどうするか、と言う事だ。しかし、これは、既に結論が根拠の中に現れている。趣味という主観的な価値観で、客観的なデスクトップLinuxを位置付ける事はそもそも出来ない。また、その必要もない。
しかし、今、問題となっているのは、より一般的な社会でのデスクトップLinuxの必要性だ。私たちはこれを明確に区別する認識を共有するべきだろう。この区別が出来ていないが故の議論の混乱と意見の対立が、これまでのデスクトップLinuxの方向性に影響し、結果として普及を妨げているのではないだろうか。区別が出来ていないために、置くべき重心がずれているのではないか。逆に、この区別をコミュニティ全員が共有すれば、デスクトップLinux自身と、コミュニティ内でのそれを取り巻く環境は大きく改善し、一般社会への普及も進むのではないだろうか。
そこで、改めて冒頭の問題を取り上げたい。デスクトップLinuxは一般的な社会で本当に必要とされているのだろうか? それは、必要とされる分野を見付ける事が出来れば解決する。私はその代表的で、かつ基本的な分野をすぐに挙げられる。それは教育分野だ。とりわけ、初等教育と中等教育が特徴的だ(これは、#538787でも指摘されている)。
しかし、従来、言われているフリーソフトウェアやオープンソースと、教育との相性の良さの説明には、誤った考え方があるように思う。
それは、フリーソフトウェアやオープンソースを、教育内容として、相性が良いと考える趣旨の論調だ。
何故こうした考えが多いのだろうか。私は、先程挙げた区別の欠如が、やはりここにもあると思う。フリーソフトウェアやオープンソースは、知的資産、すなわち知の在り方としては確かに素晴らしい根元的な発想だと思う。しかし、これは学問が本来備えてきた性質であり、それを大きく応用したに過ぎない。だから、具体的成果としてのフリーソフトウェアやオープンソースは、教育内容としては教えるべきではない。
つまり、フリーソフトウェアやオープンソースと、教育の相性の良さは、教育インフラとしての相性の良さに留まるべきなのだ。
教育分野に普及すれば、ビジネスなど、教育分野以外の一般社会への普及は自然に行われる。
少し前から、エンタープライズデスクトップと言う言葉がもてはやされているが、この言葉自体が、経営戦略論上のキーワードではなく業界関係者が使う宣伝上のうたい文句であるだけでなく、需要の順序に対する考察が欠けている事も分かるだろう。こうした酔狂が、デスクトップLinuxが必要とされる分野を自ら限定してしまう過ちであることは言うまでもない。
供給の問題
2つ目は、供給の問題である。
普及するにはどうすれば良いか? 普及を促進するためにはどうすれば良いか(=普及を妨げている物は何か?)?
この2つの問題は、似ているが、違う。前者は、現在不足している満たすべき条件の問題だが、後者は、これに加えて、現在蛇足している取り除かれるべき障害がある問題だからだ。
1つ目の問題である満たすべき条件は、需要の問題の項で書いた内容を見れば明らかである。デスクトップOSとしての機能を満たす事である(例えば、#539049の指摘は的確だが、一般社会の視点から見れば当たり前の事だ)。世界中で共通する事に加えて、各国、各地域、各文化、各言語に対応して、それぞれ満たすべき条件が加わる。それを不十分ながらでも現状で最も満たしているのがWindowsなら、デスクトップLinuxが結果的にWindowsに似る事は十分あり得るし、従って、批判(例えば、#538670の冒頭、#538540(これに対する#538542の反論は全く正しい)、etc.)は正当ではない。
これを言い換えよう。周知のように、教育分野には、商業主義の介入を避ける原則がある。しかし、インフラとして能力が上ならば、フリーソフトウェアやオープンソース製品が商業製品に競り負けるのは当然だ。だから、この分野におけるデスクトップLinuxは、商業製品と同様の機能を満たす事が必須なのだ。
更に、単に機能を達成する事だけでは条件は満たせない。これを満たした上での、安定した運用の実績が必要なのだ(#539009で極めて的確な指摘がされている)。例えば、ここでも教育分野を例に取ろう。Windowsが幸運だったのは、WindowsがデスクトップOSとして、それまで前例の無かった教育分野でのPCの需要が軌道に乗った時点で、ほぼ唯一の選択肢だった事だ。しかし、それ以降のデスクトップOSは、それと比較対象となるだけの信頼を得る必要がある。この信頼を得て初めてデスクトップLinuxはWindowsとの比較対象になるのだ。
2つ目の問題である、促進のための課題でも、満たすべき条件について誤った考え方がいくつかある。
その最たるものが、商用製品に対する価格面のアドバンテージに対する適切なアピールが出来ていない点だ。
フリーソフトウェアを導入する事による初期コストの大幅な低減は、運用コストも含めたコスト全体の圧縮に大きな効果を発揮する。しかし、信頼されるには、運用コストについても、実績が必要なのだ。つまり、ここでもやはり運用の実績が必要なのだ。しかし、これがまだ無い。
何故か。その大きな理由の一つが、フリーソフトウェアでの運用コストを設計するための枠組みが出来ていない事があるのではないかと思う。
本来、初期投資と運用コストは、密接に関係している。商用製品ならば、サポートという形で運用面でも当初から信頼が得られるが、フリーソフトウェア製品では、これが無い。自助努力という言葉は、Linux界内部の「ターム」でしかない。そうした歴史のため、ビジネスモデルとして初期投資と運用コストを分離するのは、オープンソースの側から見れば便利かも知れないが、一般的な社会や経済の合理性から見れば特殊なものだ。だから、例えば、運用のみをサービスとして販売すると言うビジネスモデルは、確かに成立するが、ニッチだ(その上、これから実績を作らなければならない)。
つまり、この運用コストを設計するための枠組み、と言うものも、実はオープンソースの側から提供されなければならない。こうした枠組みは、長期に渡る実際の運用を通した知識、技術、経験、(運用)教育の循環と言った物の蓄積によって作られる。ただし、注意しなければならないのは、枠組みに沿って運用を行う人のほとんどが、コンピューターに詳しくない、と言う事だ。
ところが、現状では、これがほとんど無い。よく、オープンソースにおいては、全体的にコーディングよりドキュメントにかかる比重が少ないと言われるが、これと同様の事が、フリーソフトウェアの運用の仕組みの現状に関しても言えると思う(同様の構造問題は、#539172で取り上げられたオープンソースの仮名漢字変換エンジンの開発者の偏りの問題、#538673の最終段落、などに見られる)。象徴的な例を挙げれば、特に私たちの共通の認識として変えなければならないものが、MLの過去ログを検索の有効性に対する評価だ。過去ログを検索は、一般社会の合理性の方法からすれば、実は効果が極めて低い(だから、Webの普及に伴ってNet Newsが廃れたのは当然のことだ)。開発現場では強力な手法でも、それ以外の世界では無力に等しい(厳密な論証は時間がもったいないので今回は省く)。
普及を促進するためにはどうすれば良いか、と言う問題で、もう一つ重要なのは、最初にかっこ書きで書いた「普及を妨げている物」、すなわち現在蛇足している障害を取り除く事である。
これは、コメントに挙げられている実例を引用するに止めたい。具体的に論じていくより、こうした実例を見た方が分かりやすい(そもそも、いちいち書くのはちょっと馬鹿馬鹿しい)。それは、#538781のPCヲタクの例(ただし前後は的確な考えとは言えない)、#538712のマニアの例、etc.。
この障害は、個別に改善を図る必要はないと思う。この段落の直前まで書いてきた事を具体化する過程で、相互に影響を与えつつ、改善されるものだと思うからだ。
最後に
今回書いた事の多くは、既に理解されている事かも知れない。しかし、今回も含め、今までの記事に付けられるコメントを見る限り、冒頭に書いた「区別」を始めとして、LinuxユーザーやLinuxコミュニティが、正しい認識を共有していないと思えるのだ。私たちは、まずここから出発しないといけないのである。
今回は、「私たちLinuxコミュニティ」が「共通の認識を持つ必要」のある「2種類の問題」をめぐる考えを述べるに留まってしまった。次回、今回の記事の具体的な部分(技術)に関する雑考を書きたい。また、余裕があれば、デスクトップLinuxが、一般社会の製品と趣味としての製品でどう分けられるのか、あるいは、本当に分けられるのか、と言うことをLinuxコミュニティの在り方も視野に入れて書きたい。
追記(05/20): 多忙につき、延期。
雑感です (スコア:1)
しかし個人的な意見として、学校で、家庭などで使用するPCと違うデスクトップを使用するような教育には反対です。
特に、初等教育、中等教育に導入するべきではないです。
つまらない教育はそのようにして行われるし、落ちこぼれはこのような安易な考えで作られると思うからです。
Windowsの持っている最大の財産は、Windowsを使用してきた全世界の人たちの知識と経験と成果です。
デスクトップ環境といっても他のPCと共通していなければならない。
Linuxは、UNIXのCUIやPOSIXのほぼ完全にFIXされたインターフェースを継承することが可能だったので、
UNIXからLinuxに移行することは、ユーザーインターフェースレベルではUNIXの技術者の抵抗が少ない。
その結果、Unix技術者の過去の知識と経験と成果を生かすことができる。
だからこそ、Linuxは成功する可能性が開かれているのだと思います。
同様にLinuxなどのほかのOSのデスクトップがWindowsからインターフェースを継承する作業を考えると、
これはまだまだ時間がかかるとしかいいようがないと思います。
PCのデスクトップ環境においては、ユーザーインターフェースをFIXする役割はWindowsが担っていますが、
GUIデスクトップの概念はほぼ完成されたとはいえ、アプリケーションレベルでは
ネットワークとマルチメディアを始め、ほうぼうにおいてまだまだ進化しているからです。
時間を十分にかけられなかったため、まとまってなくてすみません。
Re:雑感です (スコア:1)
そうですね、おっしゃる事は、これまで良く指摘されてきた事で、ある部分については、当たっていると思います。しかし、ここにも僕は誤った拡大解釈があると思います。
僕は、(これからもっと増える)コンピューターに詳しくない一般消費者にとって、デスクトップはもっと簡素な物で構わなくなる、と言う未来を予想できます。理由は簡単です。それは、PCと言うコンピューターの必要性がそれほど無くなるからです。Webブラウジングは、携帯電話や、情報端末機能を統合した腕時計の画面で済ませる人が多くなるでしょう。もしかしたら、喫茶店や街角で提供される、セットトップボックスのようなネット専用端末もあるかも知れない。自然言語処理の実用化で、ワープロも表計算も、今とは別のインターフェイスで入力できるようになります。ここでPCが必要になったとしても、その人にとって、PCについてのみ必要な知識は、驚くほど少ないでしょう。多分、無いと考えます。PCの前に座る人は、情報機器を使える人口の中では、少数派になるでしょう。ここに至って、もはやWindows依存を考える必要が無い事は明らかでしょう。
デスクトップLinuxは、これを意識すべきです。確かに先端的な機能は実装できません(Windowsですらできていないのですから当然です)が、しかし、できることも明らかに多い。本文の表現を用いれば、趣味で使うデスクトップLinuxでない、一般社会へのデスクトップLinuxでは、コンソールもエディタもファイルマネージャも、デスクトップから消える必要があります。その結果、おっしゃった「家庭などで使用するPCと違うデスクトップ」との差異は、LinuxとWindowsの境界は、あいまいになるのです(これ、重要。Windowsの使用の「イメージ」はいつまでも同じではないのです。これは後に述べます)。家庭と学校で違う、とは、どこがどう違うのか、そう考える背景も含めて、捉え直しても良いかも知れません。その差異は、社会や経済の原則により近い潮流からすれば、簡単に飲み込まれてしまうものかも知れません。
冒頭の誤解の指摘に戻ります。何故、このような誤った考え方が一般的なのでしょうか? それは、資産の継承、と言う考え方がLinuxの内側から外側への指向だからです。例えば、しばしば使われる「Windowsに似せる」と言う言葉は、その象徴です。おっしゃった、「学校で、家庭などで使用するPCと違うデスクトップ」も、内から外への指向ではないでしょうか? しかし、大多数の人々は、コンピューターを外から内を見るのです。
一般的な社会がPCに求める物は違う。特に初等、中等教育はこれを半ば純化した形で求めてきます。具体的に言えば、OSに依存した教育内容は省かれます。そのことを避ける原則は、コンピューターの歴史の資産とは比べ物にならない、数百年の教育の歴史の資産の結果です。これは、コンピューターの世界の人々の間では、しばしば忘れられています。
同様の事が、教育以外のことでも言えます。それは、コンピューターに詳しくない人々にとって、コンピューターの世界で蓄積されてきた資産は、技術としての資産ではない、と言う事です。それは、イメージとしての資産に過ぎません。これは区別する必要がある。イメージは大きな影響を与えますが、それは、形のない、複数の面を持つ存在です。決して、そのままでは継承されない。これが、技術の資産とは決定的に違う。これも、コンピューターの世界ではしばしば忘れられている事です。
余談ですが、経済学的観点から見れば、Windows依存は、ゆがんだ資本主義の末路、と言えなくもありません。
Re:雑感です (スコア:1)
その役割が短期間で小さくなっていくとは思えないです。
各種の専門的な役割を持ったIT機器が増加しても、
PCはそれらの何かしらの中心的な役割を担うのは続くと思うのです。
Windowsの寡占がゆがんだ資本主義の末路だというのは、
半分賛成ですが、正確な批評という観点で意見を言うと、
コンピューターの特殊事情を考慮して修正するべきところが
沢山あるというのが僕の考えです。
コンピューターの世界の発展はドッグ・イヤーと呼ばれて、
その発展のめまぐるしさだけが強調されますが、
僕に言わせれば、ある意味で、逆に完成に非常に時間がかかるものだと思います。
GUIが70年代(でしたっけ?)に提唱され、それが完成品と呼べるものに
なるのに20年はかかっています。
Microsoftの寡占という現象は、僕の考えでは、一過性のものです。
ただし、コンピューターの世界の異常な完成の遅さのために、
「一過性」が数10年という時間になってしまっていますが。
MSの生産できる価値は相対的にはだんだん小さくなり、
苦しくなっていくのは間違いのないところです。
snowyさんの意見とは、僕はその点同意していますし、
snowyさんの丁寧で根拠を明晰に述べた評論はすばらしいと思いますが、
ただし、変化は時間がかかることだと言いたいです。
それがコンピューターの特性に由来するからです。
それから、Linuxデスクトップなどは僕の意見としては、
やはり既存のソフトウェアデザインの記号的資産(イメージ的資産)を継承し
発展する方向で考えるべきということです。
以上、おおざっぱな意見ですが、他の人があまり言わないことを言っているつもりです。
下のkinnekoさんの意見へのコメントは一部snowyさんへの反論にもなっているので
参考にしてください。
Re:雑感です (スコア:1)
コンピュータを使っています。
おそらく、KDEも同じように使いこなすのではないかな。
なので、Windowsに限定した教育を強制するのは子供の柔軟性を
甘く見ているのではないかと思います。
インターフェイスの違いなんて、たいした違いじゃないですよ。
それに過去の経験というほど、まだ固まった内容がある世界でも
ないですし。
世間がふつーXPなインターフェイスになっているのにも関わらず
学校のマシンはいまだに98(SEじゃない)で半分のマシンが正常に
動作せず、それ以外もハングアップを頻繁におこし、ブラウザが
NetscapeGoledという状況のほうがおかしいです。そういうのは、
早くLinuxLiveCDなどに置き換えるほうが吉だと思います。予算な
しで出来るし。
妙な障害対応のノウハウを継承しても、そんなに意味があること
ではないように思いますよ。アプリ資産だって、OSが上がれば
Windows でも継承が可能じゃないことも多いですし。
Re:雑感です (スコア:1)
人類のPC経験の総量はすでにかなり膨大だと見るべきだと考えています。
子供がさまざまなデスクトップをあまり違いを意識することなく、
平気で使いこなすというのは興味深いことだと思っています。
おもちゃとして、安全性を考えて子供にはLinuxのデスクトップを
使わせるというのは、面白い考え方かもしれません。
しかし、例えば子供が平気で各環境を使いこなせるかということと、
それを学校教育に採用して生徒全員に強制的に使わせるかどうかはまた別で、
僕が問題にしているのはそこの違いです。後者はやはり反対です。
小学校高学年か中学1年ごろにコンピューターリテラシー入門として1年間
教育する程度の意図ならば文句はないのですが。
ところで、Linuxのデスクトップの限界は、どのようなときに顕現するか。
それは、新しいことをやりたい欲望を持ったときです。
型にはまった決まりきった使用目的で満足するならば、
作業効率に大きな違いがなければ、デスクトップなんてなんでもいいんです。
目新しいことをやりたいと思ったときに、たいていの意図にはアプリケーションとして
世界の誰かが作成しているWindowsと、そのような環境は存在しないか、
あっても導入に困難を極める場合が多いLinuxとの差がそこで現れます。
だから、子供の好奇心と応用の意欲をそぐことにつながると、僕には思えるのです。
教育効果の視点で考えた場合に、OSに依存した教育内容が省かれるのは
その通りですが、そういった教育効果だけの視点で行われる教育は、
少なくとも僕は受けたくないし、多くの人はそう思うのではないかと思います。
もう数年かけてデスクトップの使い勝手がよくなっていき、
オフィスアプリケーションの出来がよくなり、アプリケーション周りが整備されれば、
企業や官公庁での採用の有力な候補になるのではないかと思っています。
既にミュンヘン市が採用を決定したというニュースなどありましたよね。
なぜなら、使用目的が限定されていて発展性は不要だからです。
ちなみに僕自身は仕事で使用しているデスクトップはNT4.0ですが、
ストレスを感じることはあるものの、全く問題はないです。
Re:雑感です (スコア:1)
表面的すぎるのではないでしょうか。GUI Desktop や論理性な
ど、PC環境に通底する同質性で見て欲しいですね。
アプリケーションの蓄積評価でも、すでにあるアプリケーショ
ンから道具の選択を行い目的を果たすという行為は、仕事なら
そういうのもアリだと思いますが、教育では別の選択もあるの
ではないかと思います。むしろPCではない道具について学んで
ほしいと思います。それに、新しい目的を持った時に、それを
他人の道具で処理するよりは、自分の道具を作ることでより焦
点の絞られた創造ができるのではないでしょうか。好奇心と応
用という点では、既存アプリで解決というアプローチには反対
です。
Re:雑感です (スコア:1)
例えば、UNIX文化における、既存の道具を組み合わせたり自分で道具を作り工夫する
あのわくわくするような面白さは、アプリケーションを選ぶだけの
Windowsだけにしか触ふれていない場合は、なかなか味わえないものですよね。
コンピューターという道具のあの最大級の愉しみを知らない人が、
大多数であることはなんとももったいないことではあります。
だが、それはなんとしてもエリートの愉しみなのです。
それが現実だと思っています。
工夫を強制されるのは苦痛だと思う人の方がはるかに多いと考えるべきです。
自分の経験から言って、UNIXを使用する人の中で、3つ以上パイプをつなげることを
自分から進んでやり人はかなり少数派です。
よくできた新しいアプリケーションの導入が切り開いてくれる
新世界の体験は非常に鮮烈なものですよね。
コンピューターという道具の可能性が多少の苦労で一気に広がる体験こそ
初等教育には特に向いていると私は思います。