PaganBaroqueの日記: 健常を前提とした幻想と害 3
今まで逃げる事しかしなかった者は、転向を志しても、正面から問題と立ち向かい、その問題を解決し、超える事は出来ない。
その象徴が「歴史を回復」しようとした村上春樹の「ねじまき鳥」であり、母性と女性性の逡巡と葛藤を「唐突に解消」した萩尾望都の「イグアナの娘」である。
結果は火を見るよりも明かであるが。
それは、問題と闘う事を選べた者が、問題から逃げ出し、当面は(この場合、永遠と同義であるとも思われる)、完全に逃げおおせると傲慢に安閑とした態度を取り続けた事への当然の帰結である。
望むべくもないが、仮に、今までの自分の哲学や、プライド、思考といったような自我を支えているものを捨て去ったとしても、果たして既存の問題を解決し、その問題を、自らの主体を、保ち、今までの自分を無視する事なく自我を再構築し、問題を超える事ができるのだろうか。
1からやり直す、とか言う行為は自分の過ごしてきた過去や自分の精神の有り様自体も否定している事に気付かなければならない。3か月インドで過ごしただけで母性に目覚めたなどと書くのは議論にならないくらいの下衆な論理であるが、1からやり直した所で結果は同じなのである。人生はコンピュータゲームではないのである。
女性性と母性への成熟を拒否した者たち。その精神状態に留まり成長から逃避する幼形成態の典型とすら言える生活を送る人間。
その「逃避」と言う行動をブラックボックスを通して自己正当化したものの象徴は萩尾望都と栗本薫を通して見て取れる。
そして、成熟を拒否する層が確実に存在し、そう言う逃避する欲望はいつの時代にも存在していたが、その逃避を肯定しマスな文化へと押し上げてしまった。女性性と母性の持つ本性と成熟からの逃避、そして時間が経過すれば、自然と大人とよばれる存在となり、しかしその本性は幼形成態である。これは女性に限った姿でなく、厳然と明確な勢力で男性も同じ層の中に存在する。
特に生身の女性を拒否した男性達にとって、性欲のままに子供と家庭を持つに至った者達にとって、そしてそこに存在する夫婦にとって、これは免罪符として存在している。
自己責任と義務を放棄し、良い面だけを得ると言う考え方を正当化してしまった。
その価値を共有する者が集まり、集団的防衛をし、そこからマスの意見の中にも浸透させて行った。
青年期に於ける「現実を見、受け入れ、立ち向かう作業」としてカウントされる全ての種類の通過儀礼的な出来事(これは青年期に成長を促す些細な出来事でさえ含む)を経験したとしても、その痛みを背負う事なく、その痛みを見る事を拒否し、彼等がその通過儀礼の痛みから免罪されると考える精神疾患や虐待と言ったブラックボックスを、作家の表現力でもって経験したものとした。そして、本当の痛みでないものを潜在的、時には直感的に、逃避を正当化する原因として自らに与え、そのブラックボックスを保持していると言う幻想故に、痛みを免除されると考え。逃避と言う行動を自己正当化してしまった。これは極端に低い許容量を少しでもオーバーした場合発動される。無論、個人差は存在するが。
その作業は全てに於いて自己陶酔的である事は注目に値する。
そして、停滞した自分と相対しない自分。自己への甘えに甘え、依存する事へ「漠然とした」罪悪感は感じている。なぜなら、この作業を行う者であってさえ、この作業の欺瞞性には潜在的なレベルで気付かないほどには馬鹿でないからである。
そこで、彼・彼女等は外部からの強大な力に裏付けされた救済を求める。
それが停滞し、自己への甘えに依存した自我への「完全に批判の存在しない」全肯定である。(外部からの救済が叶わない場合、賛同者を集め、自己正当化に対し、舐めあい、自己正当化を自己に納得させ、傲慢に安閑を貪っている。そこでは外からの批判や成長を促す行為すら、その集まりの厚い壁が作る集団防衛に阻まれる)
強大な力に裏づけされた救済には「完全に批判の存在しない」全肯定には痛みもそれに伴う成長も存在しない。そして、そこで歪み虚構でしかない自我を傲慢に安閑と存在させる。なぜならばそこには辛い事も苦しい思い出も何も存在せず、自己の楽しい妄想だけを許容し、他の妄想は断ち切ってくれるのだから。
これが彼等の理想に近い形ではないだろうか。そもそも彼等は痛みを受けたと言う妄想を作り出し、その妄想の痛みを以て成長したと称し自己欺瞞の渦に堕ちている。
本来、全肯定とは喜怒哀楽の全て、何より否定を想起させる感情を特に包括し、痛みの実感と成長を前提として存在する。
そこには安閑としたものはなく、現実と言う荒涼な砂漠が存在している。
しかし、成長とプライドの持てる自我と現実はその向こうにしか存在しない。
その辛い道行きを「肯定した者」と供に歩まんが為の「全肯定」である。と私は考える。