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Torisugariの日記: アクセシビリティとリテラシ 1

日記 by Torisugari

私は、アクセシビリティに一家言あるような専門家ではありませんが、それでも、アクセシビリティに関しては語りたいことが山のようにあります。どれくらいかというと、多分、目次が必要になるくらいの分量です。ですが、ほとんどの人にとってはつまらないと思いますので、改めて重要だと思われる部分をここで整理してみようと思います。

まずは用語の問題があります。

「アクセシビリティ」(英語はaccessibility、略記するとa11y)は本質的にはバズワードです。まあ、その成り損ないと言った方がいいのかもしれませんが、とにかく、様々な人がそれぞれの場所で使っている多義語ですから、この単語を見たらとりあえずは眉に唾をつけるべきでしょう。詳しい語義はWikipediaなどを参照してもらうとして、その意味するところは、大きく3つに分かれると私は捉えています。1つは「広義の『アクセスしやすさ』」を意味する用例、もう1つはその「『アクセスしやすさ』を確保するためのガイドライン」に関する用例、最後は「『アクセスしやすさ』を実現するためのAPI群」に対する呼称です。まあ、あやふやな言葉の意味を分類するのは無意味かもしれませんが、少なくともこの文章はそういう構成をとっているので、その通りに順を追って紹介していきます(ちなみに、先走って言うと3番目のAPI群がこの文章のテーマです)。

広義のアクセシビリティは、たとえば、田舎のA氏の家と都会のB氏の家を比べて、「Aの家はBの家よりもアクセシビリティが低い」といったような使い方をします。いや、実際にはしませんけど、意味はこれで合っているはずです。あるいは、「手すりの付いていない坂道はアクセシビリティが低い」ですし、「パソコンのブラウザでは綺麗に表示されていても、携帯電話では表示が崩れるウェブサイトもアクセシビリティが低い」ということです。ですから、バズワード界隈(?)では「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」がかなり近いところにあって、それらを包括する概念と言えるでしょう。

つまり、アクセシビリティを向上させるという行為は、「色の見分けが難しい、足が不自由である、記憶力に自信が無い」等の身体能力に関する弱者や「使っている画面が小さい、パソコンを持ち込めない場所にいる」といった情報化社会における環境面での弱者を救済する、という点で積極的な意義を持っています。逆に言うと、アクセス方法における強者はそういった障害を苦も無く突破できているわけです。例えば、ウェブを見るときはいつでもパソコンという人は、携帯電話向けへの配慮の有無を気にせずにすむ強者ですし、手すりが無かろうが段差があろうが気にせずに登れる人も強者です。瞬間移動能力者にとってみれば、A氏の家がどんな辺鄙な場所にあっても、そこへの訪問を阻む原因とはならないはずです。

  (ガイドラインについて)

とはいえ、例え強者が世間の大多数だとしても、社会は弱者への救済を怠るべきではありません。特に、それがコストをかけずに「ちょっとしたこと」で実現できるのなら、全ての人はアクセシビリティの向上という大義を実現すべく努力を注ぐべきです。これが、2番目の意味である「『アクセスしやすさ』を確保するためのガイドライン」が存在している理由です。例えば、「歩道を作るときはなるべく段差を少なくするように心がける」といったガイドラインは全国的に実施され、また遵守されているようです。ただ、このガイドラインがきちんと機能しているのは、ガイドラインを知っているプロが歩道を発注して監督しているからです。いくらアクセシビリティ向上のためのガイドラインがきちんと定まっていても運用者が知らなければ効果がありません。

話は飛びますが、スラッシュドット・ジャパンに投稿されたコメントには、本文に「(T/O)」とだけしか書かれていないものがあります。これは「自分の言いたいことはタイトルの部分に書いた」という意味です。また、タイトルと本文を続けて読まないと意味が分からないように書かれている投稿も時々あります。例えば、タイトルが「今日の空模様は…」で本文が「とても怪しい。」となっているようなものです。これらは無作法だと私は思います。前者に関して言えば、「タイトルしかない」というのはウソです。本文があまりにも短すぎて、それをタイトル欄に書いてしまったために本文の欄が空いているわけで、実際には「タイトルがない(=無題)」と言うべきなのです。言いたいことがすなわち本文ですからね。後者に関しても、題名が題名になっていない、という点では同様で、だからこそ本来は本文であるべき文を2つにちぎってタイトルの欄と本文の欄を埋めているわけでしょう。「題名」と「本文」という言葉の意味が理解できているなら、このような投稿はしてはいけません。

ただ、この意見はあくまで私の個人的な規範に照らしてのものであり、この無作法さに関する世間的な合意が取れているわけではないことに注意する必要があります。この文章を読んでいる人の中には私に賛同してくれる人もあるかもしれませんが、上記のような投稿が実際に存在している以上、全ての人が同意しているわけではないことは明らかでしょう。そこで思わず縋りたくなるのが、「『アクセスしやすさ』を確保するためのガイドライン」です。「今日の空模様は…」+「とても怪しい。」の例でいくと、音声読み上げソフトを使ったときに、

今日の空模様は(スコア:1)Anonymous Coward : 2011年01月01日 00時00分 (#00000000)とても怪しい。

と発音されるはずなので、これが悪習であることは一目瞭然です。しかし、ちょっと待ってください。この論法は正しいのですが、この正しさはある種の背徳感に満ちた正しさでもあります。「お前の書き方はアクセシビリティが低い」という主張は、「お前の書き方が気に入らない」という主張の言い換えになってしまっているわけですからね。私がどれだけ弱者に配慮しているかを他人が把握するのが難しいからこそ、尤もらしく聞こえてしまうわけです。

しかしながら、実際のところ、音声読み上げソフトに不利な記述方法は上記の無作法以外にもたくさんあります。例えば、縦読みなどはその最たるものであり、もちろんAAなどは厳に慎むべきです。では、これらのアクセシビリティを低下させる投稿を行ってはならないのか、というのは難しい問題です。縦読みはともかく、AAは余の方法をもっては代えがたい表現です。硬い内容ならともかく、ラフな受け答えまでアクセシビリティを理由に制限すべきか、というのはよく考えなければなりません。

もとより、スラッシュドット・ジャパンは、キャッチフレーズ入りのロゴマークを、imgタグを使わずにdiv要素の背景をCSSで指定する、というおよそ考えつく最低のアクセシビリティで表示しています。編集者はHere Syndromeに侵された記事を修正せずに掲載していますし、そもそもslashdotというドメインからしてアクセシビリティを意図的に下げるために命名されたものです。略称である"/."は検索することすらできません。ただ、こういう細かい点をあげつらってもあまり意味が無いとも思います。弱者のための配慮というのは、他の分野においてもその程度には頼りないものでしょう。

2年ほど前、慶応大学(湘南藤沢キャンパス)のトップページがFlashになった際に、その件を「アクセシビリティの低下である」として弾劾したブログがありましたが、指摘している側もアクセシビリティのガイドラインに違反していました。Re:指摘側のblogも大概わかりにくい。アクセシビリティに十分配慮したサイトを作るのも難しければ、それを指摘するのだって難しいものなのです。「お前のサイトはアクセシビリティのガイドラインに違反している」というのは「お前のやり方が気に入らない」と「お前のやり方は間違っている」を兼ね備えた婉曲表現なので、つかみ合いの喧嘩に発展してもおかしくないですからね。

ただ、他のサイトを批判するときにアクセシビリティを持ち出さない方が良い、とも言えません。慶応の例ように、Flashになってしまったのを批判するときは、(上記の無作法とは違って)アクセシビリティを抜きにすると感情論しか残らないので、やはり、どこかでアクセシビリティの話題を持ち出さざるをえないでしょう。そういう時は、これまで説明してきたような事情を踏まえた上で上手くやる必要があると考える次第です。

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