davrayの日記: She Belongs to Me
日記 by
davray
「一度好きになった人のことは、嫌いにはならない。 だから、あなたのことは、ずっと好き。 たとえ、あなたとは結婚できなくても ... 」
― なあんて言われたことがあったなあ。 とても好きだった人に。 (遠い目 ... )
と、まあ、そんなことはどうでもいいとして。 私も、一度好きになった人のことを、嫌いになることはほとんどなく、いまでも好きな人ばっかり!だ。
これは、恋愛の話だけではなく、Web 上でのつながりでも、そうかもしれない。
先日、あるメールを受け取った。 二年ほど前まで定期的におとずれていた Web ページの執筆者の方から。 ひさしぶりに。
そのページはテキストが主体。 教育に関する論文から、流行、ロック、テレビ番組、松屋の牛丼に関する話題まで、さまざまな思考の奔流を垣間見ることができるのが魅力で、なんだかすごい人がいるものだなあ、と感嘆してしまい、感想メールを送ってみたところから、執筆者の方との交流がはじまったのだが。
ちょっとしたすれちがいから、メールのやり取りをしなくなって、それ以降、ページをおとずれることもなくなってしまった。
きらいになったわけでもないのに。
ただ、なんというか。 道端でほんのいっしゅん すれちがったけれど、かのじょとは、行き先がちがうのかもしれない、あるいは、別の道順をたどるべきなのかもしれない、はたまた、歩く速度がまったくちがうのだ、と思ってしまったからかもしれない。
じぶんとは考え方のちがう部分がある、じぶんには理解できない部分がある、というだけのことであって、メールでのやり取りはしなくなっても、かのじょの書く文章は好きなのだから、ページを見なくならなくても良かったのではないか ... ? 今になってみればそう思うのだが、そのときはまだ餓鬼だったので、なんとなくページをおとずれるのが億劫になってしまった。
夜更けにネットサーフィン (死語か) とやらをしながら、ふと、かのページのことを思い出して、いっしゅんページを開こうとするのだが、やはりやめておこう、と思いとどまり、ぜんぜん関係ないページを見て、忘れてしまう。 そんなことを繰り返しているうち、かのじょのことも、かのページのことも、記憶の彼方に追いやられてしまった。
それから二年のときを超えて、届けられたメール。 「ふと、*** さんのことを思い出し、お元気だろうかとメールを差し上げた次第です。」 「私のほうは、なんら変わりなく、教え、飲み、書き、バイクで走ったりなどしております。」 という内容だったのだが。
まったく変わっていなかった。 メールアドレスも、署名も、文体も。
私は、どきどきしながら、--- 文学的な表現をするなら 「そのとき davray は、ふるえる手で」 とでもいったところか? かのページ (URL も変わっていなかった!) を開いてみた。 やはり、まったく変わっていなかった。 もちろん、コンテンツは増えてはいたが、ページのデザイン、色、構成などもまったく同じだった! そのコンテンツも、相変わらずの視点で、相変わらずの文体で、書かれていた ― 。
ここまで、同じことをやりつづけているかのじょには、やはり、かなわないな、と思った。 太刀打ちできない。 かのじょは、きっと、これからも、ずっとそうなのだろう。 そう思うと、ある意味、小気味よくもある。
多少のおどろきをおぼえながら そのページを閲覧していて気がついたのは、やはりそのページが好きだ、ということか。 感嘆してメールを出してしまうくらいだから、それは、そうだ。 そう簡単にきらいにはならない。 きっと、何年経ってもずっと好きだろうと思う。
かのじょは、「どれだけの人が見ているのかは興味がないので、カウンターはつけていません」 「アクセスログも取っていません」 と言っている。 きっとその通りなのだろう。 だから、私がまたページを拝見するようになったことに、気づいていないかもしれない。
けれど、ずっと変わらずそのページが好きだという人や、いっしゅん離れたけれど、また舞い戻ってくる人もいるのだ、ということを知ったなら、きっとかのじょは、ほんのりと、よろこぶかもしれない。 と思った。
― なあんて言われたことがあったなあ。 とても好きだった人に。 (遠い目 ... )
と、まあ、そんなことはどうでもいいとして。 私も、一度好きになった人のことを、嫌いになることはほとんどなく、いまでも好きな人ばっかり!だ。
これは、恋愛の話だけではなく、Web 上でのつながりでも、そうかもしれない。
先日、あるメールを受け取った。 二年ほど前まで定期的におとずれていた Web ページの執筆者の方から。 ひさしぶりに。
そのページはテキストが主体。 教育に関する論文から、流行、ロック、テレビ番組、松屋の牛丼に関する話題まで、さまざまな思考の奔流を垣間見ることができるのが魅力で、なんだかすごい人がいるものだなあ、と感嘆してしまい、感想メールを送ってみたところから、執筆者の方との交流がはじまったのだが。
ちょっとしたすれちがいから、メールのやり取りをしなくなって、それ以降、ページをおとずれることもなくなってしまった。
きらいになったわけでもないのに。
ただ、なんというか。 道端でほんのいっしゅん すれちがったけれど、かのじょとは、行き先がちがうのかもしれない、あるいは、別の道順をたどるべきなのかもしれない、はたまた、歩く速度がまったくちがうのだ、と思ってしまったからかもしれない。
じぶんとは考え方のちがう部分がある、じぶんには理解できない部分がある、というだけのことであって、メールでのやり取りはしなくなっても、かのじょの書く文章は好きなのだから、ページを見なくならなくても良かったのではないか ... ? 今になってみればそう思うのだが、そのときはまだ餓鬼だったので、なんとなくページをおとずれるのが億劫になってしまった。
夜更けにネットサーフィン (死語か) とやらをしながら、ふと、かのページのことを思い出して、いっしゅんページを開こうとするのだが、やはりやめておこう、と思いとどまり、ぜんぜん関係ないページを見て、忘れてしまう。 そんなことを繰り返しているうち、かのじょのことも、かのページのことも、記憶の彼方に追いやられてしまった。
それから二年のときを超えて、届けられたメール。 「ふと、*** さんのことを思い出し、お元気だろうかとメールを差し上げた次第です。」 「私のほうは、なんら変わりなく、教え、飲み、書き、バイクで走ったりなどしております。」 という内容だったのだが。
まったく変わっていなかった。 メールアドレスも、署名も、文体も。
私は、どきどきしながら、--- 文学的な表現をするなら 「そのとき davray は、ふるえる手で」 とでもいったところか? かのページ (URL も変わっていなかった!) を開いてみた。 やはり、まったく変わっていなかった。 もちろん、コンテンツは増えてはいたが、ページのデザイン、色、構成などもまったく同じだった! そのコンテンツも、相変わらずの視点で、相変わらずの文体で、書かれていた ― 。
ここまで、同じことをやりつづけているかのじょには、やはり、かなわないな、と思った。 太刀打ちできない。 かのじょは、きっと、これからも、ずっとそうなのだろう。 そう思うと、ある意味、小気味よくもある。
多少のおどろきをおぼえながら そのページを閲覧していて気がついたのは、やはりそのページが好きだ、ということか。 感嘆してメールを出してしまうくらいだから、それは、そうだ。 そう簡単にきらいにはならない。 きっと、何年経ってもずっと好きだろうと思う。
かのじょは、「どれだけの人が見ているのかは興味がないので、カウンターはつけていません」 「アクセスログも取っていません」 と言っている。 きっとその通りなのだろう。 だから、私がまたページを拝見するようになったことに、気づいていないかもしれない。
けれど、ずっと変わらずそのページが好きだという人や、いっしゅん離れたけれど、また舞い戻ってくる人もいるのだ、ということを知ったなら、きっとかのじょは、ほんのりと、よろこぶかもしれない。 と思った。
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