dwifeの日記: 夏、8月
12歳の春、私は広島から神戸に戻ってきた。
1年生の間だけ通った小学校は週に1回の全校集会で欠かさず国旗掲揚を行っていた。
大声で歌わなければ怒られた。
日の丸と君が代について、校長が熱心に語っていた。
6歳だった私には理解できなかったが。
小学2年生から5年生まで通学していた小学校は、生徒数が多く規模の大きなものだった。
入学した小学校のすぐ近く、峠をひとつはさんだ距離だ。
爆心地から近い校区で被爆者の父兄(祖父母など)が多かったせいか、校風は非常にリベラルだった。
通学していた4年間、国旗が掲揚されている風景を見た覚えがない。また、君が代を斉唱させられた覚えも、それどころか校内で耳にした覚えもない。そんなことをしたら周辺住民から苦情が来るのだと聞いた。
毎年8月に平和集会と呼ばれる行事を行っていた。歌を歌い、千羽鶴を折り、被爆者の経験談を聞いた。いつもテレビ取材が入っていたのが印象的だった。風物詩のようだと。
広島で住んでいた借家は建物は古いが大きく、庭も広くて遊ぶ場所には事欠かず、友達も近所にいた。
自転車で10分ほどのところに大きな図書館があった。文化センターと呼ばれる公共施設と同じ敷地に建っていて、自習スペースや大きなソファ、子供用のプレイランドも備えた立派なものだった。
蔵書の管理が既にバーコードを利用してコンピュータ化されていたのも覚えている。
姉と貪るように通い、児童文学に限らず一般図書まで手を出していた。
その頃は1日に10冊も20冊も本を読んでいた。小学校の図書室で4冊、小学校の書庫内から2冊(あまりに大量に読む私たちを見て、司書役の教師が特別に書庫から借り出す許可を出してくれていた)、図書館から4冊。1日に最高で10冊、本を借り出せる。姉も同じだけ借り、そして二人分の本を毎日、毎日読む。
当然同じ本も繰り返し借りていたが、飽きることはなかった。
子供の頃、一番幸せだったのはあの時期かもしれない。
神戸に戻った私は、団地という無機質な場所(登れる木がない!)、疎外感(12歳の子供達は既に優越感の甘さを知っているのだ)、教育方針の違い(1年生の頃通っていた小学校とそっくりだった。違うのは中間テストと期末テストが実施されることと、スポーツ教育が異常に厳しかったことだ)というトラブルに巻き込まれ、ショックを受けていた。
だが最もダメージを受けたことは、本を借り出す場所のあまりの少なさと貧しさだった。
小学校の図書室はとても狭く、蔵書も少なく古く殆ど管理されていなかった。図書館はバスに乗らなければ行けない所に建っている小さな建物だと知った時ほど広島に帰りたいと思った時もなかっただろう。もちろん借り出す時はカードに手書きだった。本を置くのに精一杯で本を読むスペースは殆ど無かった。
今住んでいる家は、徒歩数分の場所に図書館がある。
最近蔵書検索システムが入れ替えられ、Web上からも検索できるようになった。
現在の在庫場所や予約待ちの人数もわかる。予約や他の図書館から取り寄せる為の用紙も自動で出力できる。
一般書架の中心にソファが据えられているし、ところどころに椅子が置かれてじっくり本を読むことが出来る。
ごくごく小さいけれど視聴覚スペースもある。児童文学コーナーは一般書架とは分けられ、読み聞かせが出来るスペースも設けられている。
昔読んだ本、今でも覚えている本。
そんな本を発見するとすごく幸せ。
そしてやっぱり、おもしろい。
大人になるっていいなあ、と、思ったりする。
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