m(__)mの日記: 生きろおめーら
いつものようにスラド観察スレを巡回しているとき、ふとあるスレが気になった。
そのスレは「もう人生に絶望した。自殺したい」というタイトルで、まさに「板違い」。
どうしてそれに道草しようかと思ったのかはわからない。
ただ、この85のコメントに魅入られてしまった。
私ゃAAコピペ厨に過ぎないが、たまにはこんなのも良いだろう。
以下、勝手に転載する。
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いいか>>1よ
UNIXでは、親プロセスが死ぬと子プロセスも死ぬんだ
Win32のように親プロセスが死んだりドライバを捕まえたまま永眠したりして
更に多くの不幸を産み出すこともないが、考えてもみろ
お前の子供はどうなる?いつか生まれてくるお前の子供は。
社会とは人と人のpipe(2)だ
お前のstdoutが、お前の友だちや部下や子供のstdinにpipeしてやらなければ
大きな仕事をこなすことはできない
不幸にも途中でパイプが壊れてしまうようなことがあったら
プロセスが一気に死んでしまう。
お前はいままでいったい何をしてきた?
お前のFDをselect(2)してみろ、まだ何のデータも得てないんじゃないのか?
まだ多くのデータをカーネルのバッファに残したままで
早々と諦めてタイムアウトしようとしている。
お前は単に成功を焦りすぎているんだ。FD_ZEROしたばかりだと言うのに。
DMAと言えど、実際に世の中に氾濫した人やデータがシステムバスを空けるまで
CPUが待たねばならないことを考慮すると、お前が考えているほど「世の中は
テンポよくいかない」というただそれだけのことだ。
じっくりとpollすればきっと報われる日がくる。
UNIXシステムはそれを保証してくれる。
お前のFDは、何にでもなる。ソケットにでもシリアルポートにでもなる。
その可能性を素敵なことだと考え、じっくりと方法を考えれば
諦めてshutdown -h 10をコマンドラインに打ち込み、
目を瞑って10数えるのは軽率だと気付く筈だ。お前ならな。
目を開けた時、次々と消えてゆくroot権限のプロセスを見て後悔しても遅いぞ。
勿論憂鬱な時があるのは解る。
別れた彼女に電話をかけても戻ってこない時や
EmacsがC-gを連打しても全然戻ってこない時などだ。
しかしそういう時は煙草を吸って心を落ち着けろ。コーヒーを飲んで余裕を作れ。
shutdown -h を実行せずとも、UNIXはトラブルを復旧可能なのだから。
生きてさえ入れば、いつか自分がcreat(2)にeの文字を付け足す日が来るかも知れない。
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