yasuokaの日記: 経済学者の言い訳 2
私が「QWERTYの経済」(“The Economics of QWERTY”や“QWERTYnomics”)と呼ぶような現象は、「黒板の経済」といわれるような理想論と、現実の経験が示す証拠とは必ずしも一致するとは限らず、自由市場でも失敗や間違いが起こりうるということだ。
そりゃ、自由市場でも失敗や間違いは起こりうるだろう。だが、それを「QWERTYの経済」などと名づけたのが、そもそも問題なのだ。QWERTY配列が「自由市場」の選択によって優位に立った、なんてのは、歴史的事実をちゃんと調べていないヤカラの妄想に過ぎない。
残念なことにQWERTYについての大論争は、これまでは行き過ぎた懐疑論にとどまり、より建設的な「経路依存性の経済」とその影響についての研究が進んでいない。彼らは今後もこの概念を批判することに熱中し、私がわかりやすいと判断して例に取り上げたこのQWERTYという現象の、重要な経済的意味を人々が理解することを妨げるのではないかと心配だ。
だからそれは、そもそも「例」が悪かったのだ。「自由市場の失敗」の「例」としてQWERTYを取り上げたのが、そもそも間違いだった、というだけのことだ。
QWERTYに最も批判的な人は、その歴史的な証拠に関する点にばかり焦点を当てて攻撃を繰り返し、私がQWERTYの経験から提起したかった理論的な問題を全く理解しようとしていない。
当たり前だ。Davidの論文は、QWERTYの歴史的な事実にそって「理論的な問題」を構築しておらず、むしろ「提起したかった理論的な問題」の方に合わせるためにQWERTYの歴史を無理矢理ねじまげてしまっている。そんな態度を歴史学者は許さないし、攻撃を繰り返すのは当たり前だ。経済学者の都合で勝手に歴史を歪めるのは、少なくとも私(安岡孝一)は許さない。
つまるところDavidは、QWERTYの歴史を調べたような顔をして論文を書いていながら、その実、当時の歴史など全く調査していないのが問題なのだ。例を挙げるなら、Cosmopolitan Shorthanderという19世紀末の速記・タイプライター雑誌を、Davidは『Understanding the Economics of QWERTY ― The Necessity of History』(Economic History and the Modern Economist (1986), pp.30-49)の中で参照していながら、この雑誌に全く目を通していない。論文の副題「The Necessity of History」が聞いてあきれる。「Polya urn」なんていうアヤシゲな壺の話をしてるヒマがあったら、Typewriter Trustに関する当時の雑誌記事の一つも読むべきだ。そういう手間をかけもせずに、「提起したかった理論的な問題」などと言い出すのは、調査不足の学生レポートの言い訳を聞いているようで、みっともないことこの上ない。
経済学者 (スコア:0)
しかし、彼らにとってはそんな批判こそどうでもいいのでしょう。仮にqwertyの歴史が間違っていても、「経路依存がありうる」ことを理解する手助けになれば彼らの目的は達成されるわけです。もし「経路依存がありうる」という存在命題の証明に「qwertyという実例が存在する」という事実を利用しているのであれば証明が成立しなくなりますが、「経路依存がありうる」という命題の証明自体は別に行っているわけなので彼らの議論には論理的な問題は生じません。
経済学者にしてみれば、
qwertyの(彼ら流の誤った)歴史を説明する前に、「例えばqwertyの歴史が以下のようなものだったとします」とでも断れば満足ですか?
という話になるでしょう。
経済学者も経済学者で、歴史学者の批判に対して
「QWERTYに最も批判的な人は、その歴史的な証拠に関する点にばかり焦点を当てて攻撃を繰り返し、私がQWERTYの経験から提起したかった理論的な問題を全く理解しようとしていない。」
などというのは余計なお世話ですね。間違いは間違いで認めればいいだけの話です。別にqwertyの歴史認識が間違っていても自分たちの理論それ自体が影響を受けないのなら、間違いを認めても何も困らないはずです。それを「QWERTYの経験から提起したかった理論的な問題を全く理解しようとしていない」などといって批判するのは的外れです。qwertyを歴史的に批判する歴史学者が、「QWERTYの経験から提起したかった理論的な問題」という経済学の問題に取り組んでくれるとで思っているんでしょうか。
Paul Allan Davidは「経済史学者」のはず (スコア:1)