
phasonの日記: 窒素の海に溺れて 5
"A Coherent Signature of Anthropogenic Nitrogen Deposition to Remote Watersheds of the Northern Hemisphere"
G.W. Hoktgrieve et al., Science, 334, 1545-1548 (2011).
大気中の窒素を生物が利用可能な窒素化合物へと変換するハーバー・ボッシュ法の開発は,化学の歴史においても五本の指に入るであろう偉大な研究である.「空気から肥料を作る」とも言われるこの手法は世界の農業生産に革命を起こし,試算にもよるが,ハーバー・ボッシュ法により生み出される窒素肥料無しでは,粗食を強いたとしても現在の人口の半分以下しか養うことが出来ないとも言われている.また,我々が摂取する食物中のアミノ酸(これは窒素を含む)中の窒素原子は,穀物では8割程度,肉(餌となる穀物に肥料が使われる)でも4-5割程度はハーバー・ボッシュ法により固定された大気中の窒素である.つまり,我々の体内の窒素原子は過半数がハーバー・ボッシュ法由来と思っても良い.
このように,現代農業では大量に消費される窒素肥料であるが,これが農地から大量に流出し,耕作地周辺に富栄養化などをもたらしている,という事が以前から問題となっていた.また,大量の食料が都市部にて消費されていると言うことは,大量の有機窒素化合物が糞尿として排出されていると言うことでもあり,同様に都市周辺での窒素の増加が起こっている.しかし,窒素の蓄積が問題となるのは農地や都市部だけなのであろうか?排出された窒素が分解されN2として大気に戻る前に,もっと広い範囲に広がっているのではないか?
このような疑問のもと行われたのが本研究である.アメリカ中西部,カナダ西部,アラスカ,グリーンランド,スバールバル(北極圏の島)などの未開発で自然に囲まれた湖沼を選び,そこの過去の堆積物中に含まれる窒素化合物の同位体比率を測定することで,人類の排出した窒素の影響がどの程度及んでいるのかを測定している.
実は根粒菌による自然界での窒素固定ではやや同位体選択性があるため,15Nの比率が高くなる.一方ハーバー・ボッシュ法による窒素固定では,ほぼ原料である窒素ガスの同位体比率がそのまま維持される.このため合成された窒素化合物由来の窒素が増えると,堆積物中の15Nの比率が下がるわけだ.
その結果は顕著なもので,これら人里離れた湖沼においても20世紀中頃,つまりアンモニア合成が始まったあたりから急激な15Nの低下が見られている.つまり,世界各地の農地や都市部で排出された窒素化合物は,ほぼ世界全域に拡散して降着していることが裏付けられたわけだ.また,かなりの場所で大気中の同位体比率とほとんど変わらない値にまで15Nの量が低下している.つまり,これらの場所でも,新たに堆積した有機物中の窒素の大部分が(大気中を飛んできたりした)化学肥料由来という可能性がある.
さて,これは問題となるのだろうか?
これはなかなか難しい点である.現在,全世界で化学的に固定されている窒素の量は,全世界の生態系により固定される窒素の量とほぼ同量という膨大な量となっている.つまり,今まで自然界が頑張って固定していた必須元素としての窒素が,いきなり倍になったわけであり,非常に大きな変化があってもおかしくはない.例えば現在の生態系の中には,過剰の窒素に対して非常に脆弱であることが知られているものもある(例えば熱帯雨林).これらの系では,遙か離れた農地などで使用された大量の窒素肥料由来の窒素化合物が蓄積されてくると,生態系の大幅な変化が起こる可能性がある(ただし,それが結果的にどのような状況で落ち着くのかは不明である).現状維持を目指すのであれば,これはあまり好ましくない.が,変化を許容するのであれば,悪いとは断言できない(悪いかも知れないが,良いかも知れない).
まあともかく,先進国の農業において窒素肥料が過剰に用いられてきたことは確かである.これはこれで問題で,一時的に収量は増えるものの,後に硝酸態窒素として蓄積・農地を汚染し,結果収量の減少を招いている.
(先進国ではこの問題が認識されはじめ,肥料の過剰利用を抑制する方向に動きつつある.ただし中国では急速な食料消費をまかなうため,かつての先進国と同じ過ちがより大規模に進行中である点には注意が必要.なお,日本の農家は世界的にもかなりの肥料大好きっ子であり,農地も超窒素過剰状態にある)
多すぎず少なすぎない量の適量の施肥の量,さらに外部への流出を防ぐ施肥の手法の導入などが望まれる.
(とか言っても,目先の収量のためにバンバン使われちゃうんですけどね)
NP困難問題 (スコア:2)
リンについても、生物には利用しづらい形(鉱石)のものを大量に掘り出して利用しているし、どうなんだろう…と、思いかけましたが、さすがにハーバー・ボッシュ法で供給される窒素の規模とは比較にならないほどの量でしょうか。まあ、局所的な富栄養化の問題はあるにせよ、広域的な問題として取り上げられたことはあまりない感じ。
そういえば、最近はいちいち「無リン」を謳う洗剤も見かけませんね。
Re:NP困難問題 (スコア:3, すばらしい洞察)
おっしゃる通り,リンもまた非常に問題になっている元素です.
これまた今年論文が出ているらしく(Environ. Res. Lett 6 (2011) 014009),そこでの見積もりによれば,純粋なリン換算(テラグラム単位)で以下のようになっているそうです.
(1) 工業化以前の自然界での風化作用によるリンの放出:10-15
(2) 現在での風化作用によるリンの放出:15-20
(3) 採掘したリン鉱石由来の環境中への放出:22.6
元々は,1と環境から沈殿していく分がほぼ釣り合っていたはずですので,現在の放出量(2+3)だとその2-3倍ぐらいに増えています.比率的には窒素と同じぐらい膨大ですね.
で,論文ではモデル計算を行って,現在の放出量はすでに持続可能なレベルを遙かに超えており,このレベルの排出を続けると環境汚染が著しいと指摘しています.
でまあリンのやっかいなところは,別コメでも指摘されているように鉱石の残量もまた微妙なところですよね.それも含め,現状のリン肥料を多量に使ってたれ流しにするのではなく,もっと回収して再利用する社会システムを作るべきだ,と書かれています.
多分,農業用水の下流に水処理施設作って,そこで回収するとかそういうのが想定されてるんでしょうが,問題はそういうシステムは金持ってる国でしか作れないのに,肥料ばらまいて増産したがるのは人口の急増と食事の高エネルギーかがどんどん進む発展途上国だってところですよね.どうしたもんだか.
Re:NP困難問題 (スコア:1)
あ,上のコメントで書いたリンの放出量は,1年あたりです.今までの累計ではありません.
Re:NP困難問題 (スコア:1)
文明が衰退した後の第二文明で耕地の跡が、硝石鉱山・リン鉱山になったりして。
Re:NP困難問題 (スコア:2)
まあ、たとえばグアノは海鳥のフン(海洋生物)由来だったりしますね。
そういう意味では、かつて生物圏に存在したが現在では眠っている必須元素を、人類はせっせと戻していると言うこともできます。で、それによる変化が人類にとって好ましいかどうかが、現在我々が注目するポイントであるわけです。