yasuokaの日記: 旅順要塞攻略戦における東鶏冠山の休戦 5
今日付の『タイプライターに魅せられた男たち』第152回での旅順要塞攻略戦を書くために、様々な文献を読み漁ったのだが、中でも司馬遼太郎の『坂の上の雲』がひどかった。小説だから仕方ないのかもしれないが、あまりにひどくて参考にも何にもならなかったので、『坂の上の雲』新装版第4巻(文藝春秋、2004年5月)から以下の文章を晒すことにする(pp.179-180)。
児玉は、前線に出た。この日、十二月三日である。二〇三高地の砲塁のことごとくが、沈黙していた。日本軍も、全員が銃剣をおさめ、砲は火を噴いていなかった。休戦なのである。死体収容のための休戦であった。このような目的の休戦は、この攻囲戦の期間中、しばしばおこなわれ、慣例化していた。
私(安岡孝一)の調べた限り、203高地で休戦がおこなわれた記録はない。死体収容のための休戦がおこなわれたのは東鶏冠山で、それも1904年12月2日(ロシア暦11月19日)だけである(cf. 戰塲の握手, ホトトギス, 第8卷, 第4號 (1905年1月), pp.41-43)。
ところが、児玉がこの戦場にきた十二月一日、乃木軍は休戦をロシア側へ提案した。ロシア側はそれを承認し、この日からその期間に入った。休戦期間は、四日までである。
12月1日に休戦を提案したのは、ロシア軍の方だったらしい(cf. 赤十字旗の力, 明治三十七八年戰役忠勇美譚, 下卷 (1912年3月), pp.499-500)。確かに、山の上にある要塞の攻略戦という状況を考えた場合、要塞を防御する側からの休戦提案(というか投降)は簡単なのに対して、攻撃する側からの休戦提案はかなり難しい気がする。「乃木軍は休戦をロシア側へ提案した」のなら、さて、どうやって休戦を提案したのか、ぜひ当時の記録とともに教えてほしい。
軍使 (スコア:1)
「乃木軍は休戦をロシア側へ提案した」のなら、さて、どうやって休戦を提案したのか、
歴史的事実云々ではなく、方法論だけでいうのなら、
軍使送ればいいだけの話ではないのでしょうか?
軍使の安全に関しては明治三十三年(1899年)の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約
(いわゆるハーグ陸戦条約、ただし改定前)の第三章 [jacar.go.jp]にも規定がありますし。
Re:軍使 (スコア:2)
それでは乃木軍が、ロシア軍の「地雷」をものともせず「軍使」を送った、という当時の記録をぜひぜひ。
わたくし司馬遼信者ですが (スコア:1)
あの方いかにも史実に忠実なように見せかけてますが、
しれっと嘘を織り交ぜるし、かなり偏向してますよ。
見てきたような嘘を、おもしろおかしくつくのが小説家の仕事ですし。
「参考文献」にしたのが初手から誤りかと思います。
私は信者じゃないのですが (スコア:2)
いえ、その、「初手」じゃなくて「最後に一応」と思ってチェックしたのですが…。けど、まさか日付まで合ってないとは思わなかったのです。結果としてだいぶ悩まされたので、確かに「見るんじゃなかった」でしたね。
Re:わたくし司馬遼信者ですが (スコア:1)
うーむ、それを偏向というのはどうかと。
司馬作品は最初からフィクションなのであって、話を面白く盛っているのは周知の事実でしょう。
それを持って偏向というのでしょうか。
いかにも真に迫っているから、なまじ史実だと信じてしまいやすいというのはありますけど、
NHKの大河ドラマとかと同レベルですよ。
ウィキペディアの記事に、司馬作品を参考文献にして加筆する奴がいて困る、という話を聞きますけど、
事実だと信じている人がそんなに多いんですね。