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日記

YoRの日記: そして最近の話 1

日記 by YoR

昨年末からとある開発がドはまりし、どうやら現時点では裁判沙汰にまで発展しているようである。

自分も被害者だ。メインのファームウェアの開発をやっていたのだが、どうやっても期日に間に合いそうにない。だから納期を遅らせてくれと何度も何度も頼み込んだ。しかし「期日までに動くものを納品しろ」の一点張り。
結局、納期三日前に、私は、仕事場で立ち上がることができないほどのめまいと疲労感を覚え、(軽くものを食べ、数時間休息してから)その日に早退し、次の日から休みを取った。更に言っておくと、この日まで二週間連勤だ。

それまでも心療内科に通っていたのだが、あまりのことに先生に「長期休暇の必要があるという診断書を出してください」と言った。じっさい、病院まで行くのにすら、壁伝いにたまに休みながら歩かなければならないほどの体調だったのだ。
そして二か月の休暇を取った。

今は何とかなってきているのだが、まだフル稼働は無理という状態。特に期限を短く指示されると怒気をコントロールできないほど精神が安定していない。

更におまけとして、まあ、自分ができないので他社に丸投げしたのだけど、そこも「お手上げ」してしまった。理由は、そもそもシステム的にCPUパワーが足りなくて動かないことが判明したという。
実は発注元もうすうす気がついていたとか…あのさ、それって俺に拷問加えたのと変わりなくない?

展開次第では治療費と休養中に入手可能だった賃金の補填もできないものかと考えている。この当たりの手続きはよくわかってないのでどうなるのかわからないけど。
少なくとも、あまりの要求の理不尽さと、(こちらにミスがあるのを理由として)システム変更に伴う設計変更の費用を出さないと先方が言うため、相手を裁判所に訴えることになったとさ。こちらの目算では、このような(会社に対しての)タダ働きの強制は十分刑法に引っかかるのだそうだ。まずは仕様変更費用を払うように民事訴訟を行うということらしい。

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日記

YoRの日記: ちょっと前の話

日記 by YoR

とある仕事の話。ある程度時間がたっているので、自分の記憶違いなどがあるかもしれないが、相手先などは伏せるので、読む人は「こんなことがあったのか」くらいに思ってほしい。

最初は、とあるメーカーから出されていた基板が生産停止になったため、その代替品を作ってほしいという要求だった。
その基板は、あるICをメインとして、外部からの信号に従って特定の動作をするものだ。特に用途は特定していないもので、そのメインとなるICの機能を使っただけの基板と思ってよい。また、使用環境の制限などもないので、常温の室内で使われるものと思われた。

ところが、開発の段になり、外部信号の条件と、その時の動作についての資料が先方から出てこなかった。なんどか仕様を要求したが無いとのことなので、メインICの動作は知っていたので、それから類推し、こちらで仕様を作って先方に提示し、その仕様を基に開発することで同意した。

ところが、先方から「バグがある」と報告が出てきた。こちらから提示した仕様に合わせてテストし、それにのっとっているのを確認したのだが、先方が言うには「こちらのテストとは違う動きをする」とのこと…あの、先方さん、自分の方には仕様が無かったんじゃないんですか?
こちらからは仕様を提出しそれに従っているので「それはバグではない」と反論。「動作が違うのならば仕様変更に当たる」と抗議した。しかし要領を得ない。
最後には、「じゃあ、そちらがテストしているというやり方をこちらに提示してください。それを基に仕様を作り直してプログラムを作り直しますから」ということになった。当然仕様変更である。この費用については営業の方のことなので、自分はどうなったかは知らない。

結局、そのテスト内容に合うように物を作り、無事納品したかと思うと、また「バグが出ました」という。なんでも、特定の状況で電源を立ち上げるとまともに動かないらしい。ならば電源の入れ方を直せばいいのではないか、と聞くと、実は、

「北海道の屋外で使用している」

という、これまたそれまで聞いたことのない話が出てきた。
もうこちらからは「先に言えよっ!!!!!!!」としか言いようがない。当然これも仕様変更だ。そんな条件で使うのならば、その条件に見合ったやり方で設計するしかない。

で、変更して納品してことは終わるのだが、この間の交渉の間に、先方から「じゃあ、うちがすべて悪いんですか」と憮然とした表情で発言があったそうだ。その通りである。こちらは示されていない条件や動作仕様を見通す超能力など持っていないのだから。

13252671 journal
日記

YoRの日記: 長尾町史のメモを取ってきた

日記 by YoR

ノートに写した部分のみここに書いて見る。
自分で要点のみ写したもの。
とりあえず、改訂長尾町史から、自分の祖先に関係ありそうな部分だけを書いて見る。この項は都度編集する可能性がある。

846年 讃岐永直、同永成。寒川郡の住人。明法道「二中歴」の10人中の二人。讃岐公から讃岐朝臣へ
 永直の長子は和気朝臣時人。娘は光孝天皇の更衣に上がり、その子に源旧鑑。
(10人の中には、惟宗直本、同公方があり、この子孫から島津氏が出る)
1254年 寒川郡司讃岐朝臣基光の記述有り。上記子孫か。
 1243~1252年まで、寒川郡司
1336年 基光の子、光俊が継ぐ。後見に守護細川顕氏
1344年 寒川七郎上京、また1351年その子二郎太郎が上京。
また、1344年寒川七郎、造田庄を横領
1352年 長尾右衛門尉保守が寒川二郎太郎へ年貢を納める(長尾庄)。このころ寒川二郎太郎は守護代か。
1396年 寒川出羽守元光、長尾、造田の地頭職に。この時期、守護は細川満元
1410年 寒川常文(元光)から寒川出羽守之光へ相伝し領主化の完成
1398年から1414年まで、山城国上久世庄の公文職を元光、之光が訴訟。勝つ。
この間、公文代に寒川貞光→新左衛門光康(~1485)→太郎三郎家光が相伝。
ただし、1427年公文職を解かれる。1441年には畠山氏被官遊佐氏の管理に。

細川勝元旗下で、寒川但馬守元近が勝元より偏諱をいただく。
応仁の乱に出陣。

細川京兆家の跡目争いで澄元(讃州家。阿波守護)が継いだため、讃州は植田氏(十河)以外は大内氏につく。
1507年 寒川左馬介(元家)、十河氏より昼寝城を守る
1519年 寒川氏、大内氏とともに大友討伐へ
1520年 朝鮮へ攻め込む。これは大内氏単独での行動に従う。
1532年 大鉢山と将棋山の間で、十河一存と寒川元政が戦闘。
 鴨部源次、神内左衛門、寒川側にて参戦。左衛門は一存の腕を突くが、討ち取られる。一存、傷に塩を刷り込み、藤かずらを巻いて帰陣する。こののち「鬼十河」と呼ばれる。
1575年 阿波の三好方が昼寝城を攻める。阿波南方に長曾我部氏来寇のため、三好方帰陣。
1576年 寒川氏、織田信長に帰属。
1582年 中富川の合戦に寒川丹後守元隣、同三河守光俊、同権之丞俊元出陣。元隣は討死。

大正6~7 造田村村会議員 寒川政廣。上記子孫か?私の曽祖父に当たる。

以下は寒川系図についての自分の個人的見解。
寒川氏系図には矛盾があるが、光永で終わるのが共通している。光永は元隣の息子、又は弟にあたるようだが、三河守、二郎、七郎などの別名があり、これは光俊(三河守)との混同が有り得る。元隣は信家、政国の別名が考えられるが、政国(丹後守または丹波守)が元隣の息子である可能性もある。とにかく兄弟親子が混乱している。
元政は見える系図には幼名太郎、丹後守で共通しており、政国はその弟(二郎、丹波守)、子(丹後守)、ひ孫(丹後守)に名がある。政国は元政からの偏諱と思われ、ひ孫は考えにくい。弟又は息子と考えるのが自然である。
この一族は「俊」「光」を通字としていると考えられ、嫡流が細川家から偏諱で「元」をいただいたと考えるのが自然かと思われる。
系図には、左馬頭長俊、右馬允継俊、左馬入道元恒(常隣)などがみられる。
出羽守之光の「之」は讃州家(阿波守護)細川義之の偏諱の可能性があるか。

13234720 journal
日記

YoRの日記: 曾祖父の名前

日記 by YoR

父方の曽祖父の名前は町史に載っているのでわかっていた。
母方の曽祖父(祖父に言わせると身上をつぶした人)の名前を知らなかったのて、一人で母方のお墓に参ってきて調べてみた。(ちゃんと拝んできましたよ)
そしたら、父方の曽祖父と同じ読みの「マサヒロ」。字は違うのに同じ名前だったとは。
そして何らかの町の役職をやっていたと聞いていたので、町史を眺めていたら…ありました。村会議員を一期のみ、大正時代にやっていました。
ちなみに父方の曽祖父は三代目の村長(明治時代)。

で、「マサヒロ」は父の名前と私の名前を混ぜたような名前なんですな実は。
どんな偶然なのかと。
ちなみに「ヒロ」の漢字は誰もかぶっておらず、「マサ」は二人が同じ字。
うちらは昔は知らず、江戸期には農民だったので、諱の通字などというものはないので、読みが同じなのは偶然に過ぎないのです。そもそも知ってる限りの世代で同じ字を使ってないし。
あ、父方の高祖父は虎八というようです。

13229246 journal
日記

YoRの日記: ここ数日および自分の家の系統について 1

日記 by YoR

休みを取って実家に帰省している。
いきなりタケノコ掘りに駆り出された。
母方の祖母の実家が持つ地所の竹林でとるとかで、そちらの親戚数軒との共同作業である。少なくともみな私との血縁者であるが、私がよそに出ていた期間が長かったため、ほとんど覚えてない。皆、父と母の両方に似ているという。(複雑な経緯のため、母方の親戚も父方の親戚に繋がっているのであるが…)
頭脳労働系の私に鉄と木でできた農具は重く、それでも三つほど掘ったところ疲れで気分を悪くしてしまいギブアップ。
でも、母が料理してくれたそれはやはり新鮮でおいしい。

近所や親戚や母の友人などにおすそ分けすると、田舎の物々交換でいろんなものがお返しにやってくる。これはよい面での田舎の生態系が維持されていて、労働の対価が金銭ではなく流通するシステムが生きている。

その中で、うちの一族(同じ苗字)で、一族のことを調べているという人がいたので、いろいろ話を聞いてみた。以前、名字を聞かれただけで地方銀行に入ったと人がいると書いたがその人だった。本人から聞くと実はそうではなく、学校の先生の推薦がとてもよかったからだということだった。支店長にまでなったらしい。その人は恩師の言葉に従っただけだと恩師に感謝していた。

私の苗字と同じ苗字は村に五つほどの流れがあり、そのうちの三つは江戸時代後期の系図が町史に乗っており、話を聞いた方の家はそのうちの一つだという。ほかに殿様の直臣だったため明治に士族となった家が一つあり、もう一つは殿様の分家の家臣と記録されている。
私の家の流れも五つの流れのうちの一つだといい、これらのI家は水戸の殿様の分家(高松松平家)についてきた関東にいた家であるとその人は言う。また、士族であった家の系図には桓武平氏と記載されていたとのことである。
自分としてはこれまでの情報で十分である。系図に書かれていた姓の信ぴょう性などどうでもよい。どうせ室町の終わりにはよほどの名家でない限りそんなものわからなくなっているのだから。
また、関東の桓武平氏流I氏は忠常流千葉氏の庶流であるらしいので、まあ、とりあえずそのあたりを自称することにする。だとすると、将門に近いほうの血筋なので、成田山には行けないのか…

また、このような家では同程度の家での通婚や養子が多かったとかで、近くにあるそれなりに大きなI家は、そういうのが複雑に絡み合った挙句、血統はI家で地所はY家を継いだことになっているとか。
ちなみに私の家そのものは、近年の分家なので大きくもえらくもない。

13114970 journal
日記

YoRの日記: 祖父の持っていた絵 2

日記 by YoR

祖父が持っていた絵が、今でも客間と座敷に飾ってある。
何の絵だと聞いてみたら、客間のが上海事変の時に港を砲撃した絵、座敷のが朝焼けの中の重巡足柄だという。
どうやら、足柄に乗っていた画家さんが描いたものらしい。
というか、その画家さん、「現代の浮世絵師」と呼ばれる有名な人だったらしい。十年前に亡くなっている。

一度、その人が家にやってきたことがあったのだそうだ。というのも、その絵を返してほしいと。
その当時、その人は名前が売れ出したころで、その絵は若書きの上に戦争を扱ったものだったので、世に出ると困るということで引き取りたいという話だったそうな。
でも、祖父にとっては自分の乗ってた艦の思い出なので、手元に置いておきたい。そこで、門外不出を条件にそのまま貰い受けたのだそうだ。

このままならば、いずれこの絵も私のものになる。が、私も、世に出すつもりはない。祖父の思い出としてそのまま残しておくつもりである。
まあ、ひどく痛んでいるので(何があったのかよくわからないが強引に持ち出したものらしい)売りに出したとしても値はつかないと思うけど。

13114963 journal
日記

YoRの日記: 帰省して聞いてきた自分の家のこと

日記 by YoR

自分の家の家紋と近くの神社の神紋が同じなので関係はあるのかと聞いたら、本家筋からの分家がずらーっとその神社のある山の裾に住んでいるとのこと。禰宜さんやってたこともあったとか。おーい。そういう家系なんかい。

かなり昔に、その辺りの地方銀行に同じ苗字の人が面接受けた時、
「Iです。」
「IはZ村の?」
「そうです」
で、入れたとか。凄いブランドだったんだな。今はそんなことないだろうけど。

とか言いつつ、昔村長も出した同じ苗字の家の人が夜逃げしたとかそんな話も…確かその家、唯一の士族だったよーな気がする。お殿様の直臣だったのはそこの家だけ。家老の家来も二件あったようだ(陪臣なので明治維新では平民に)。

で、その人とは別で、やはり村長やってたことのある私の曽祖父、町史に一時期上田家に養子に行ったが戻ってきた、とあったのを親に聞いてみたところ、Iの跡取りが亡くなったかして戻ってきたらしい。その代わりにその人の娘(私の祖父の姉)が上田家に嫁に行ったとか。昔は家の関係はめんどくさい。

母方の家は、よその家の土地を踏まずに墓地まで行けたという。今ある場所から考えて、かなりの広さの地主だったようだ。叔父が十六代目というが本当だろうか。家紋から言えば三宅家(父方の祖母の実家。母方の祖母の親族でもある)の方がその辺りの豪族の定紋(三階松)を使っているのだが。

うちの実家の裏にも同じ苗字の家がある。ところがそこはうちの一族ではないらしい。なのに、うちの一族の墓地に墓を作ったとかで「あそこはうちとは違うやろ」という話があるとか。というか、一体いくつの一族があるんだ。同じ墓地にある同姓で、他にも関係の不明な家が一軒あるそうな。I家は四国でもその付近にしかいないし、全部で数十軒くらいなのに、いくつかの一族に分かれているらしい。よくわからん。江戸の始めくらいに来た新参らしいんだけどなあ。

13082168 journal
日記

YoRの日記: 自分の一族の苗字や家紋

日記 by YoR

とりあえず自分は匿名としてI氏としておく。私は香川県出身なのだが、この名字は関東、特に千葉県と神奈川県に多く、その辺りの同姓は千葉氏の一族を名乗っているらしい。(北陸には斎藤氏一族の同姓があるらしい)
面白いことに、西日本にはほとんど存在せず、私の出身の地域と兵庫県の一部、そして鹿児島県の一部に固まっている。
私の地域には、江戸時代の庄屋に同姓があり、分布から考えてもその庄屋との関連が疑われる。自分の想像では、江戸時代初めごろに移り住んだ一家が庄屋となり、その縁者が名乗っているものと考えている。父に言わせれば、うちの一族はその庄屋の下の小作だったというのだ、が、明治時代には村長を出すなど地主並みの財産があったようで、父から言わせるとうちの一族が明治ごろに本家より勢力が上になったからだそうだ。(そのために、分家筋であるうちの一族の方が、本家よりも墓場の占有面積が多く、立派になったのだそうで…)
ちなみに家紋は丸に橘。この紋は非常に多く、これからルーツを探ることは不可能と思ってよい。

前の日記にも書いたように、母方は寒川氏の子孫を名乗っている。この一族は橘氏の子孫を名乗り植田氏族と呼ばれ、その中に戦国大名となった十河氏なども含まれる。
本来の由来はもっと古く、四道将軍の一人、山陽道を鎮めた吉備津彦命をその祖とする讃岐氏や綾氏の後裔とも考えられている。とすると、桃太郎の子孫ということになる。

父方の母方、つまり祖母の実家であるが、ここは三宅と言い、この名字は対岸の備前児島党などが派生したという、非常に古い名字を伝えている。ここの家紋が「三階松」で、先ほどの讃岐橘氏植田一族の定紋である。
まあ、家紋が一般に広まったのは江戸時代なので、近くの豪族にあやかったものと考えた方が正しいのかもしれない。

母方の母方は窪田といい、この家は現在でもつぶしてはならないほどの名家なのだそうだ。なんでも、戦前には近衛隊に行った人やら奥に上がった(皇居の女房になった)人がいるのだそうで。最近、血統は絶えたので養子をもらったという話を聞いた。そこまでする必要があるらしい…

私の曽祖父は村長となっているのだが、一度幼少時に「上田」家に養子に行き、その後実家に戻ったと町史に載っている。その間の経緯は不明である。(本家に聞けばわかるのかもしれないが)。苗字の漢字には意味がある場合とない場合があり、読みの方こそ本当であるという話もあるので、実は「上田」は「植田」の一族かもしれない。(この付近には十川という名字が多いのだが、これは一度戦国末期に讃岐の国主となった十河氏と同族である。昔の人は漢字にはあまりこだわっていないようだ)
もしかすると、私の家が(と言っても祖父の代に分家しているのだが)桃太郎から続く植田氏族の本家に近い筋になっていたかもしれない。

まあ、妄想である。もし本当にその解釈が正しくても、現代社会においては全く意味を持たない。私は一サラリーマンの息子であり、嫁さんももらっていない独身のオタクにすぎない。

余談であるが、父の従兄が元横綱審議委員で元東京第一弁護士会の会長という名士だとか。ここの姓は江戸時代に阿波の蜂須賀氏によってつけられたもので、かなりの希少姓であるという。その割にはその人と言い、東大卒のプロ野球選手になった人と言い、目立つ人を輩出している…

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日記

YoRの日記: 昼寝城 2

日記 by YoR

室町時代、うちの実家のあたりを支配していた豪族に寒川氏という一族がいる。
自分もその後裔の一人であるらしい。母方が子孫を名乗っているのである。本当かどうかはともかく。
その豪族が拠っていた城の名前が「昼寝城」。謂われは所説あるのだが、「昼寝してても落城しないほど険阻な城である」というのもその一つで最も有力。
その他、嘘っぽいのに、平家の落ち武者が源氏の追っ手に追われている際、あまりの疲れに木の上に登って昼寝している間に、追手が通り過ぎたのでそこに城を築いたというのを聞いたことがある。これによれば寒川氏は平家の縁者であるのだが、これは嘘っぽい。まあ、あのあたりは平家の支配下にあるので源氏勢力との争いでは平家側についていたというのは大いにあり得る。

この昼寝城が落城したことがあるという伝説がある。落ち武者に関わる悲しいお話もある。しかし、実家のある自治体が合併前にまとめた町史によれば、落城の事実はなかったのだそうだ。

けれど、この落城にかかわる話が回りまわって長曾我部氏の四国統一の端緒につながっているらしい。それを紹介する。

昼寝城は阿讃山脈の香川県側にある女体山に築かれていた。この近くには四国八十八か所の結願時である大窪寺がある。寒川氏はこの城から見下ろせる地域に勢力を張っていたと考えてよい。また、小豆島もその勢力下にあったそうだ。
さて、それを攻め落としたのは、海部氏とある。海部とは「かいふ」と読み(元総理大臣の海部氏と同じであるので、彼の先祖はこの一族であるかもしれない。ほかの同じ字の地名は「あま」「あまべ」などと読む例が多い。が、旧尾張藩士の海部氏がここを発祥とするかまでは私は調べていない。)、勢力は阿波国海部郡にあった。ここは阿波国の最南端である。
つまりである。海部氏はなぜか阿波国の弘法大師が修行したという険しい山を越え、吉野川を越え、阿讃山脈を越えて攻めてきたことになる。一応、三好氏による要請での出兵らしいのだが、それにしてもなんで一番遠いところの豪族に頼むのか謎である。船を使って、というのなら昼寝城よりも前に通る寒川氏系列の城がいくつもあるので、背後から襲ったと考えるしかない。(それなら吉野川沿いが本拠地である三好の手持ちの勢力の方が近いのに…)
さて、海部氏は昼寝城を落とし、故郷へと帰るわけであるが、ところが返ってきたときには、本拠は長曾我部元親の勢力下にあった。

というのも、これに先立って、元親の弟が有馬への湯治に行く途上を襲い、殺害したという事件がある。当然元親はこれを恨みに思い、昼寝城攻略で手薄になった海部を襲ったのである。これ以後、この地域は香宗我部氏が根拠とし、長曾我部氏による阿波攻略の拠点となったのであるという…

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日記

YoRの日記: 第二次大戦前後の私の一族

日記 by YoR

すずさんが私の母方の祖母とそれほど違わない年だという。ではそのころの私の祖父、祖母はどう暮らしていたのか。

母のいうには、私の曾祖母(母の父の母)は小作を使うのがうまかったという。つまり小作のいる地主だったことになる。事実曽祖父はかなり裕福だったらしく、吉野川沿いの街で芸者を揚げて宴会をしていたという(しかし破産して早死にした。これは祖父の証言)。また、祖母(母の母)は「学校を休んで小作料を取り立てに行くのがとても嫌だった」と言っていた。祖母も小作がいる地主の娘ということになる。
母方の祖父母は地主の家系で、しかし祖父は徴兵され南方で苦労したという。しかし無事復員し母も叔父もベビーブームのただなかに生まれた。しかし家は一度破産し、祖父は苦労して土地を取り返し、今も叔父が専業農家をやっている。破産がいつ頃だったのかわからないが、祖父が家を再興したのは戦後であるのはわかっており、土地でも一代で家を築いたとして有名だったという。
曾祖母の葬式だったのか法事だったのか、小さいときにやっていたのをうっすらと覚えている。曾祖母はそのころまで存命だったのだ。

私の父方の曽祖父は大正時代に町長をやっていた。この時点で裕福な家であることがわかる。祖父はその末の息子に当たる。一番上の兄が家を継ぎ、そのほかの兄は他家に婿養子に入った。祖父は海軍の軍人になることを志し、師範学校(教師養成学校ですな)を出て海軍に入った。このコースは優遇されていたという。そして軍艦でイギリスを訪問し、そこの店で祖母への結婚指輪を買った。祖母は私にその話を何度となくしながら指輪を見せていた。(軍艦に詳しい人ならこのエピソードから艦名はわかるだろう。艦これの提督ならすぐに出てくるのでは?)
祖父は怪我をしたらしく、戦時中は陸上勤務となり、佐世保にいた。そこで父とその妹と弟が生まれている。祖父の乗っていた艦は終戦近くになって沈没した。しかしその乗組員のほとんどは駆逐艦に救われたという(艦これではかわいらしい大正ロマン娘である)。私も祖父の葬式の時にやってきた祖父の部下の人たちにあっているのだが、彼らはその救われた方なのであろう。少なくとも何人かはいたはずだと思う。祖父の最終階級は兵曹長。祖母は「どの兵隊さんもお祖父さんに敬礼をするので不思議に思ったが、聞いてみたらお祖父さんは兵隊さんの中で一番偉かったんだと」と言っていた。兵曹長は下士官の最高位である。
祖父は戦後、故郷に土地を買い(元々分家すると実家が土地代を出資するか、元の土地の一部を分けるのが風習であった)、細々と農家を営んでいた。子供が好きだったとかで、老後も近くにある小学校(祖父(母方も)も父も母も私の従兄弟もその学校を出ている)で、子供たちにいろいろと話をしていたので、土地の私の世代の人は祖父をよく知っているらしい。
父方の祖母はやはり地主の出であろう。子供の頃に祖母の実家に何度か行ったが、部屋が沢山ある大きな家だった。
その家に、母方の祖母の兄が婿入りしている。つまり、父方の祖母から見ると、母は義理の弟の姪なのである。元々親戚なのだ。血は繋がってはいないが。
そのせいか、祖母と母の仲が悪かったという様子は見たことがない。もともと身内なのである。

農地改革は、祖父祖母たちの先祖代々の土地を分割したのだろう。今となっては皆が細々と土地で作物を育てているが、後継者たちはみな私のように他所に行き、主のいない土地が増えてきているという。そして所有者がなくなった土地には家が生えてきている。
それでも、残さなければならない家もあるのだそうだ。そのため、母方の祖母の実家は養子をとったという。母方の家には従弟がおり、従弟にも子供がいる。こちらの家はまだ続いていくのだろう。室町時代には城主だった人の子孫だという家系伝説がある。本当かどうかは知らないが。
父方の祖父の家系は途絶えかけている。特に私の責任で。それにしたところで、こちらの従兄妹の誰でもいいから子供を作ればいいのに、まだだれもいないということだそうだ。

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「毎々お世話になっております。仕様書を頂きたく。」「拝承」 -- ある会社の日常

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