パスワードを忘れた? アカウント作成
13892467 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: まどマギ テレビと映画の違い 2

日記 by gunwithoccasionalmus

まどかマギカのテレビ版と映画版では違いは大小、非常に多いが、筆者が考える重大な違いは
(4話から9話まで)
5話
・さやかの契約シーン。テレビ版ではしっかり描かれ、印象も明るい。映画版では簡略化されお渡し会の場面に組み込まれた。
土手でのさやかとまどかの会話。絵もセリフもおそらくかなり違う、全く別の印象。映画版のBGMはさやかのテーマで、まどか契約時とたぶん同じアレンジ。テレビ版は明るくウソをついているようには見えず、BGMもさやかのテーマではない。
バイオリンお渡し会の印象がかなり違う。映画版のほうがかなり暗い。BGMはどちらもさやかのテーマ。
7話
・灯台の魔女との戦いの場面。映画ではずっと禍々しくなっていて、さやかのテーマのアレンジも全く違い、ほとんど別の曲。
8話
仁美の告白の盗み聞き。さやかのテーマのアレンジが、落ち着いたテレビ版に比べ、映画では悲壮感があふれている。
駅のベンチ。ここも全く違う。テレビ版のBGMはさやかのテーマの落ち着いたアレンジだが、映画版は悲壮感をあおる。
先を覗いてみたところ
11話
まどかの契約シーンのBGMが違う。テレビ版ではよくわからない曲だが、映画ではさやかのテーマ。

中くらいなのは
全般
・映画版にある椅子の演出がテレビ版にはない。
4話
・さやかのモノローグは映画にはない。これはホストの会話への伏線になっていた。
5話
・展望台での杏子とキュゥべえの場面。映画では望遠鏡でお渡し会を覗いていたが、テレビでは望遠鏡自体がない。

灯台の魔女の場面は、さやかが呪いモードに転換する場面だ。長い場面なので具体的な変更箇所までは把握できていないが、さやかがまどかをなじる雨のバス停もかなり違う。まどかの契約シーンを別とすれば、土手の場面の変更が決定的で、ここで悲劇の主人公のさやかのまま、ウソつき属性が付加された。ここやお渡し会を最重視しているのは世界でも筆者くらいのものだろうから、監督もそうだとわかったのは非常に心強い。

劇場版魔法少女まどか☆マギカにおける呪いとは、「わたしはこの人が大好きなのに、この人がわたしを苦しめる」という認識・感情のことだった。まどかもほむらのことをそう思っていた。自分が不幸になることであって、相手が不幸になることを願うことではありません。
こういう記述は常識から外れたものではないが、およそ呪いの辞書的定義からは遠いものだし、実際で作品で描かれているものは、筆者がこうやって言語化して死ぬ前のものです。

テレビシリーズにおける「呪い」は「誰かの幸せを祈った分、ほかの誰かを呪わずにはいられない」という設定以上のものではなかったように思います。筆者はテレビシリーズのまどかが誰を呪って魔女になったのかずっとわかりませんでした。もしかするとあれは「誰かの幸せを~」という設定、視聴者の談義の対象となる外部の論理でを物語を動かしたのかもしれません。映画の監督もたぶん同じ不満を持ち、まどかが「はっきりと特定できる誰か」を呪って魔女化させることを企んだのでしょう。そのために「大切な人にウソをつくと、その人を呪ってしまう」「まどかはウソつき」「まどかはほむらが大切」→「まどかはほむらを呪う」という内部の論理を構築したのです。人を呪うというのは具体的にはどういう状態なのかは、さやかで描いていますから、結局「まどかはほむらが大好きだが、彼女に苦しめられている」とまどかが認識している、ということになります。彼女が迷惑がっているのは見れば明らかですが、まどかの愛や苦しみの大きさを、こういう仕掛けを通じて最終的に巨大な魔女のビジュアルで表現するのがアニメの真骨頂です。
まどかにウソをつかせるために、監督はテレビシリーズの表現を再利用しました。重要な「まどかの願いに母親が応えられなかった」場面は、テレビシリーズにもあり、しかも全く何の変更もないようです。だがテレビではこの場面は「まどかを引き留めようとしたが、彼女を信じて送り出すことにした」ようにしか解釈できないのです。おもしろいトリックです。
「誰かの幸せを~」はおもしろい設定です。でも、誰かや他の誰かというのがどの人のことか描かれなければ、それは外部の論理でしかありません。なぜなら人は漠然と誰かを呪うことはできないからです。さやかが具体的に誰の幸せを祈って誰を呪ったのかわからなければ、彼女の心を知ることは出来ません。映画ではさやかをウソつきにすることによって、この設定をなかったことにしています。さやかの描写から導ける仕組みは「大切な人にウソをつくと、その人を呪うことになる」です。でも、ウソをつけば後で苦しむことになるのは、誰だって視聴者だってそうです。さやかは自分に向き合えなかったのです。魔法少女の仕組みなんて最初からありませんでした。

奇跡ってのはタダじゃないんだ。希望を祈ればそれと同じ分だけの絶望が撒き散らされる。そうやって差し引きをゼロにして世の中のバランスは成り立ってるんだよ。

これも杏子が言っているだけ、悪人の彼女の人生観です。魔法少女とは、関係ありません。
(これも杏子の人生観にすぎないということにするため、映画では杏子を悪人にしています。テレビシリーズでは彼女の人物像は結構ボケています。)

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • > しているのは世界でも筆者くらいのものだろうから、監督もそうだとわかったのは非常に心強い。

    そこでもう少しだけ謙虚になれるともっと良いのに。
    あなたの他にもそういう解釈している人は、もっと世にはいるのかもしれないよ?少なくともあなたがそう解釈できたのですから。
    そして「監督もそうだ」というのは、ちょっと勇み足ですね。解釈の一つでしかないのだから。しかも少数派の解釈なのであればなおさら。スタッフコメンタリーでも出れば別ですが。
    「この作品は○○を××だと考えると、こんな読み解き方ができる!(あくまで解釈の一つとして)」くらいの謙虚さが欲しいです。

    • by Anonymous Coward

      あ、それは解釈ではなくて、どこに着目しているか、ということです。

      > ここやお渡し会を最重視しているのは世界でも筆者くらいのものだろうから、監督もそうだとわかったのは非常に心強い。

      ほかの視聴者でもここを重視している人はいるかもしれませんね。でもここを「最」重視するとなると思い入れの問題で、さやかのファンだとほんとキツいですよ。ウソつきになるだけでなく、杏子の相手もほむらになるので全く救いがない。
      監督がここを重視したのは劇場版で大きく変えたことから事実でしょうし、さやかが一番変わったのだから最重視してたんじゃないかなと思います。

typodupeerror

コンピュータは旧約聖書の神に似ている、規則は多く、慈悲は無い -- Joseph Campbell

読み込み中...