Mc.Nの日記: あけおめ
ことよろ
つか明けちゃったよww。
日記の編集画面に行かないのどゆこと?
もうねお参りに行ってくるYO!
じゃあの!
nitonitoさんのトモダチの日記。 アナウンス:スラドとOSDNは受け入れ先を募集中です。
ことよろ
つか明けちゃったよww。
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もうねお参りに行ってくるYO!
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コトヨロ(KOTOYORO)
ことよろ
今年は一発チャレンジ。上手くいくかな?
ことよろ
残念ながら0時ピッタリの投稿はできず。何回か見直しながら投稿の準備をしてたらなんかボットを疑われたらしい。他のブラウザからログインすることで回避できました。流石クソサイト。
また来年はちゃんと投稿したい。それがこのサイトの唯一の存在意義。
ことよろ間に合うか?
ことよろ以外言うことがない。
つかね、折角このコメント用意してたのでボット扱いされるとかひどすぎだ。
去年はFacebookもアカウント作った2日目にブロックされるしろくでもねえや。
ホント、ひどい話やで。
https://shujisado.com/2017/07/18/13343027/へ移転
LinuxWorldの基調講演という場で華々しく発表されたAndover.netの買収はオープンソースコミュニティへは大きなインパクトを与えたが、市場の反応はその逆だった。ハードウェア事業とはかけ離れた事業に大きく投資する意味を当時では見出すことは難しいことは容易に想像できる。そのため、VA Linux社はまた即座に行動しなければなかった。
このあたりからVA Linux社の歯車が狂ったように私は考えているが、この2000年2月から崩壊までのVA Linux社の行動を追う。
3月に入り、VA Linux社は上場後初めての四半期決算の発表を行う。売上はわずかながらのとうとう2,000万ドルを越え、粗利も増加し、1,000万ドルの損失を出しながらも成長率を加味すれば割と明るい決算だったように思う。
ただ、これも市場の大き過ぎる期待に応えるものではなかった。
Andover.net買収による市場の反応がどこまで影響したのかは分からないが、VA Linux社は自社のハードウェアビジネスに「即効的」に寄与すると思われる企業の買収に乗り出した。ここで再度 SGI社の買収を検討したのかどうかは正確には分からないが、おそらくAndover.netの合併作業で数カ月消耗することが分かっていたので、このタイミングでは短期でディールを完了させることができる買収を優先したと思われる。つまり、SGI社の選択肢は消えていた。
ここで浮上したのがIntelとSPARCの2ラインのラックマウントサーバーの製造会社であるTruSolutions社とハイエンドNASの製造を手がけるNetAttach社であり、Andover.net買収のわずか一ヶ月後の3月15日に VA Linux社は両社の買収を発表する。180万株の株式(2億ドル相当)と2,000万ドルの現金が両社の買収のために注ぎ込まれた。その2億ドルがほぼそのままのれんとしてバランスシートに計上され、また両社の100名弱の従業員とサンディエゴ、サンタクララの拠点がVA Linux社の所属となった。
この両社の買収は一見VA Linux社のハードウェアビジネスを強化するように見えた。
TruSolutions社は SPARCラックマウントサーバーの製造で現地では知られていたが、2000年当時ではSPARCよりもIntelサーバーにやや傾倒しており、VA社および他の大手ベンダーと比較してもより集積度の高い設計の1Uラックマウントサーバーの製造を行っていた。この頃には薄型ラックマウントサーバーに大手ハードウェアベンダーも本気を出しつつあり、VA Linux製品のハードウェアの優位性がやや縮まっていたことからTruSolutions社の買収は正解に見えた。
NetAttach社は特に売上も上げていない状況だったが、NASストレージの市場は拡大が見込め、またVA Linux社にはNFS for Linux、Sambaのコア開発者が所属していたこともあり、VA社の製品ポートフォリオにNASが加わることも正解に見えた。
結論を先に書けば、私としてはこの両社の買収はサッカーの世界でよく使われるパニックバイであったように捉えている。
TruSolutionsのIAサーバーは確かに当時のVA社よりは一歩進んでいた。しかし、VA社と同じように汎用パーツの集まりに過ぎず、1U製品の設計を買ったということにしてはかなり高額な買収だった。また、VA社はSynnex社との契約により、全ての製造をSynnex社内に構築したVA Linux専用の施設にて製造を行っており、TruSolutionsのサンディエゴの拠点が完全に無駄な資産となってしまった。これに加え、従業員のコストがのしかかることになってしまった。NetAttach社に関しても、ほぼ同様の理由で製品、施設、従業員と全てが二重投資のような状況になってしまっていた。これで売上面で寄与があればまだ良かったが、NetAttach社はまだ売上がない状況であったし、TruSolutions社にしても非常に小さな売上しかなく、その面でも期待はできなかった。
この買収は完全に無駄であったとは言えないが、確実にVA社の体力を削ることになったのは間違いないだろう。
TruSolutions社とNetAttach社の買収発表の数日前となる3月10日、NASDAQ総合指数は終値ベースで過去最高値となる5048.62を記録した。これがドットコムバブルのピークとなり、2002年の終わり頃までの2年以上の間、NASDAQ市場は一直線に下降を続けた。ピークを打った3月に関しては楽観的な空気がまだ支配していたものの、4月になる下落がさらに鮮明になると少しずつ市場に混乱が広がっていたように記憶している。
このNASDAQ市場の壊滅的な下落の開始により、VA Linux社をはじめとするLinux関連各社の株価は4月にはほぼIPO価格付近にまで下がった。
市場は混乱が広がりつつあったが、VA社の内部は相変わらず楽観的かつ強気な見方が支配していた。これは足元の業績がまだ大きな拡大成長を遂げていることが分かっていたからである。
先に述べた2000年第2四半期の決算では売上は2,000万ドルだったが、次の4月末までの第3四半期の決算では3,500万ドルにまで急激に増加した。粗利も増加し、先の二社の買収関連費用を差し引けば600万ドル程度にまで損失が減った。オープンソース/Linux市場および自社の製品ポートフォリオの拡大により、この勢いはさらに続くものと見込めたし、VA社には1億2000万ドルの現金が残されていたことも市場の動揺と自社は無縁であるとVA社の経営陣に思わせることにつながった。
しかし、3月の買収時にはまだ100ドルの株価が付いていたが、4月にはIPO価格と同等になってなったという事実は非常に大きな問題を発生させていた。もはや大規模な株式による買収や市場からの資金調達が困難になったということである。
6月に合併が完了する予定のAndover.netがVA Linux社の本業であるハードウェアビジネスに大きく寄与することがないことは明らかだったので、VA社はこの時点で残された資産のみを使っての成長を達成することを求められることになったと言える。
次の2000年7月末までの第4四半期には前回触れたAndoover.net社の合併が完了し、即座にAndover.net社はOpen Source Development Network社に改名され、VA社の子会社となった。この頃にはバナー広告の販売も安定し始め、またThinkGeek.comでの物販もわずかながらも数字を出すようになり、OSDN全体では500万ドル程度の四半期売上を計上できるようになっていた。
本体のVA Linux社については、株式市場が相変わらず下降を続けながらも、サーバー製品は好調な売上を見せていた。第4四半期(2000年7月期)の売上はとうとう5,100万ドルに達した。年間では1億2000万ドルの売上となり、この瞬間、VA Linux社はLinux/オープンソース業界で初めての1億ドルの売上を越える会社となった。
この勢いのまま次の第1四半期(2000年10月期)には売上が5,600万ドルに達し、粗利は1,260万ドルとこのままの勢いであれば黒字化も遠くはないし、まだまだ成長できると誰もが信じていた。
この高度の成長を支えるため、7月には手狭となっていたサニーベールの社屋からサンフランシスコ湾の対岸に位置するフリーモントに本社オフィスを移転した。VA Linux社連結全体としては2000年夏の段階で500名の社員を抱えるようになっていたが、OSDN(Andover)やTruSolutionsの社員は独自のオフィスを構えていたので、フリーモントに引っ越したのは200名ほどであったのだが、フリーモントの新社屋は1,000名以上の従業員を収容できるスペースがあった。つまり、VA社の経営陣はまだまだ「VA Linuxの成長は止まらない」と、この時点で考えていた。
また、同時期の夏の間にイギリス、ドイツ、フランス、オランダ、ドイツ、スイスといった欧州の主要国にVA Linux社のセールスとサポートの拠点を設置し、オランダでは当時のDebian ProjectのリーダーであるWichert Akkermanが雇用された。私の記憶の中では、彼は獅子奮迅の働きで欧州までの製品の通関と域内でのサポートの面倒を見ており、米国側の様々な不備をCEOのLarryに対して遠慮なくぶつけていたのを思い出すが、拠点の拡大に人が追いつけない状況だったということだろう。
欧州から少し遅れ、シリーズB投資ラウンドに参加していた住友商事は満を持して、9月にVA Linux Systems Japan社を日米での合弁方式で設立する。9月に設立はしたものの欧州で既に混乱が見られたように米国側の戦線拡大路線に人が追いつかず、人がアサインできないために結局社長は住友商事の投資時からの担当者がそのまま就任することになった。また、製品の出荷、通関フローに問題があり、まともに営業を開始したのは2000年も暮れに迫る12月になってからだったと記憶している。このあたりからの日本の歴史はいずれ書くことにする。
さらにこの2000年秋頃には1000万ドル(現金は300万ドル)程度を投じ、ごく小さな企業を4社買収した。ハードウェア以外のサポートやプロフェッショナル事業を強化するためにヘルプデスク施設、マネージドサービス部隊、幾つかのソフトウェア資産を取得した。
この頃、株式市場は既に崩壊が鮮明になっていたし、VA社自身は徐々に巨額の買収で発生したのれんの償却が財務諸表を痛めていたものの、VA社の本業のハードウェアビジネスはまだ高度の成長を継続できており、戦線拡大も正当化されていた。
しかし、株式市場の崩壊はVA Linux社の顧客の中心であるドットコム企業を徐々に蝕んでいた。
2000年も年末が近づいたVA社の第2四半期頃、株式市場の低迷はほぼIT関連銘柄全てに波及し、不況が鮮明になりつつあった。VA社の株価は11月に入るとIPO価格を一気に下回るようになり、もはや小さな買収案件すら実行するのは難しい状況になった。あたりを見渡せば資金の供給が途切れたドットコム企業が破綻するケースが目につくようになってきており、足下のハードウェアビジネスのセールスも苦戦の傾向が出てきていた。
そして年が開けた第2四半期(2001年1月期)の決算にて衝撃的な数字が出る。売上がとうとう減収の4200万ドル、しかも粗利がマイナスの700万ドル、販管費等にほぼ増減はなかったものの秋に行った買収費用とのれん償却を合わせ7500万ドルの損失となった。売上の確保のために大幅のディスカウントを営業部隊が敢行しながらも、そもそも売り先がどんどんと細っていく状況なのは明らかだった。ドットコム企業の人気に頼っていたVA社は他の大手ベンダーのような多彩な販路も値下げに耐える資金力もない。他社もドットコム崩壊の影響で売上確保に走る中、競り負けるのは当然の流れであった。そして、株価はもはや期待できず、保有する現金も目減りの傾向がはっきりしてきていた。
VA Linux社の経営陣はパニックに陥った。
VA Linux社の行動は売上の急成長で正当化されていたが、その前提が崩れたため至急の措置が必要だった。(なお、映画「Revolution OS」の話題の時に触れた最初の試写会はちょうどこの時期のことである。当日はおそらく経営幹部はこの状況を把握していたのだろう。)
そして、2月末までにリストラ案がまとめられ、即座に実行された。10ヶ月前に買収したTruSolutions社のサンディエゴ施設は閉鎖され、そこで働く全従業員が解雇となった。また、ほんの数ヶ月前に買収したばかりの4社の資産と従業員も全てリストラ対象となり、ヘルプデスク施設、マネージドサービス部隊、ソフトウェア資産などの得たばかりの資産は全て手放された。従業員の解雇は全従業員の20%にあたる110名に上り、リストラ費用として4340万ドルが計上された。
この時のリストラはVA Linux社のフリーモントの本社部隊と子会社のOSDN社の従業員には影響せず、パニックバイの項でも述べたような二重の投資となっていた部分を取り除くものだった。本社従業員には及ばないことから士気にも過度に影響せず、販売管理費を必要なレベルにまで圧縮できるという算段だったと思う。
しかし、このリストラによって新規のサーバー製品の開発計画が大幅に縮小されたため、売上のほとんどを稼ぐハードウェアビジネスの今後が一気に不透明になってしまった。特に1Uラックマウント製品の計画が明らかに遅延し始めた。また、粗利がマイナスになるというまるで100ドル札をつけて製品を売っているような状況を根本的に脱する手段は特になく、クラスタおよびストレージ管理、リモート監視といった機能を強化したり、プロフェッショナルサービスの販売を拡充するといった方策を取ったり、OSS開発者ではなくハードウェアビジネスの営業経験が長い幹部クラスの人材採用を強化する方向に舵を切った。この頃、ハードウェア製品に頼らないビジネスとしてSourceForge.netを動作させているAlexandriaコードを社内開発に活用するSourceForge OnSite、そしてVA社のOSS開発者陣が加わる受諾開発にも急遽乗り出した。
110名のリストラ発表の直後となる3月7日、1999年の年末商戦の覇者であり、当時のEコマース業界の雄であったeToys.comが破綻した。Amazon.comとToys “R” Usが組んだ連合に対抗して流通および配送関連に巨額の設備投資を行っていたが、2000年の年末商戦で想定よりもはるかに低いビジターしか獲得できず、Amazon + Toys“R”Usに後塵を拝することになった結果、資金ショートを起こしたのである。eToys.comは中身のないドットコム企業ではなかったが、一つ想定がずれれば即座に資金が枯渇する当時のドットコム不況の状況を象徴する出来事だった。
eToys.comはAkamaiのような大口とまではいかないもののVA Linux社の重要な顧客の内の一社であり、その破綻は社内の士気に相当の影響を及ぼしたと思う。
前項でのリストラや細かな施策を実施し、業績が好転することをVA社は願った。新しく意欲的な設計、デュアルPentium III、4GBメモリー、2台のホットスワップHDDの1Uサーバーもこの5月初頭に発表した。また、第3四半期の決算発表の直前の5月30日にはLinuxWorld TokyoのためにCEOのLarryや何人かのOSS開発者、Slashdot.orgのCmdrTacoとHemosらが来日していたが、当時はまだ将来への希望を失わず、更なるハードウェアの新製品や新サービスにも前向きで、欧州と日本でのビジネス拡大にも意欲的だったことを記憶している。
そしてLinuxWorld Tokyoの直後に第3四半期(2001年4月期)の結果が出た。これはさらに衝撃的なものであった。
売上は2000万ドルに留まり、IPO直後の数字にまで戻ってしまった。しかも粗利は500万ドルのマイナスに沈み、先述のリストラ費用の4340万ドルやのれん償却を含めると1億ドルの損失となった。保有する現金は6000万ドル台にまで縮小し、IPO時から半減していた。
まわりを見渡せばベイエリアに失業者が溢れだし、ドットコムの破綻が続いていた。このような状況ではもはや以前の売上水準に戻すことは困難に思われたし、何よりも黒字化を見通すのは絶望的だった。何しろ売り先がないのである。そこで、数カ月前のリストラのような策ではなく、現金が溶け続けることを完全に止めることが取締役会に求められた。
この頃、CEOのLarryから日本側に在庫を購入して欲しい旨の電話があったことをうっすらと記憶しているが、Larryは最後まで祖業であり圧倒的なメインビジネスであるハードウェア事業を守るために抵抗はしていたのだろう。
2000年6月、VA Linux Systems社は、Linuxハードウェアビジネスから撤退を決めた。
この時期になったのはちょうど7月末が彼らの年度末になり、新しい施策で株主総会に挑みたいという事情があったのだろう。7月10日がハードウェア製品受注の最終日と設定され、全てのハードウェア出荷は7月28日までに完了された。この撤退の決定によりハードウェア製品に関わる160人の従業員が解雇となり、本社とOSDN社以外の米国および欧州の営業サポート拠点は全て閉鎖された。2000年度全体ではリストラ費用として1億1000万ドル、のれんと株式報酬の償却で1億6000万ドル、減損処理で1億6000万ドルがそれぞれ計上され、合わせて4億3000万ドルが消えた。
ハードウェアビジネスから撤退したVA Linux社には、Linux/OSSのプロフェッショナルサービス、受諾開発、そしてOSDN社の事業が残された。そして、数カ月前に場当たり的に開始したばかりのSourceForge OnSiteサービスを今後のメインビジネスとすることにした。祖業であるハードウェアビジネスが消滅し、売上は激減することになったが、とりあえず数年単位で資金の枯渇を心配しなくても良いレベルにまで販管費が削減され、会社の消滅だけは避けられた。
(参考) VA Linux社の四半期売上、粗利の推移 (単位:千米ドル) 売上 粗利 1999.10 14,848 1,961 2000.1 20,191 2,835 2000.4 34,595 6,156 2000.7 50,662 11,163 2000.10 56,062 12,612 2001.1 42,513 (7,147) 2001.4 20,334 (4,795) 2001.7 15,981 (19,883)
ここからは少し日本、VA Linux Systems Japan社からの視点で書いておく。
6月のハードウェアビジネス撤退の一報は一般へのアナウンスのしばらく前にLarryから日本側へも届いたのは記憶にある。
日本側の合弁を主導する住友商事側には住商エレクトロニクスおよび住商情報システムという大きな子会社が存在しており、そこからいくらでも他社製のサーバーを調達できることから汎用的なパーツで構成されるIAサーバーに魅力を感じることはなかったし、LinuxのエキスパートがOSを組み込んだサーバーというものには魅力を感じていたが、ハードウェアはVA Linux製でなくても構わないことであった。住友商事はVA Linux社のLinuxとオープンソースの専門性に投資していたのである。
Larryからの一報でつい数週間前にLinuxWorld Tokyoで大々的にVAサーバー製品をお披露目していた日本側には非常に大きな動揺が走ったことは記憶にあるが、他の合弁パートナーに関しても基本的にわざわざ米国から船便か航空便で輸入しなければならない単なるIAサーバーには大きな関心はなく、VA社のカーネルレベルからの専門性を買っていた。
このような状況であったため、日本側では営業活動を開始した直後に撤退を突きつけられたというタイミングに憤り、そして将来への不安を感じてはいたものの、VA Linux社が誇るオープンソース開発者陣が基本的に全て残され、ソフトウェアビジネスを中心に持っていくという決定は割とすんなり受け入れていた。大雨過ぎるというか台風という気もするが、雨が降った後に地固まる的な捉え方もしていた。
そのため、今後のLinux/OSSのプロフェッショナルサービスやOSDN社の事業の連携を話し合うことが重要と考え、8月末のサンフランシスコのLinuxWorld開催に合わせ、フリーモントのオフィスをVA Japan社のメンバーが訪問することになった。そのメンバーに私も当然含めれていた。既に日本ではSlashdot Japanが開始され、次はVA社のLinux/OSS開発者陣のナレッジをどのように日本で展開するべきなのか?ということを私は考えていたし、そもそも単純に開発者陣にまた会うことを楽しみにしていた。
オフィスに到着後、一人の幹部社員が入り口まで迎えに来て、そして何故かまっすぐに一番奥の会議室へ通された。1000人以上のの社員を収容できる社屋はほとんどが空っぽで、数十人のOSS開発者陣が一角に固まっていた。Ted Ts'oやJeremy Allisonらのデスクがあるのはすぐに分かったが、まっすぐに会議室へ通されたため誰とも話すことはできなかった。遠目だがTed Ts'oのデスクに4月に開催された第一回目のLinux Kernel Summitの看板が飾られているのは見えた。
会議室にて着席早々、自己紹介すら行う前に幹部社員は「来週、オープンソースのプロフェッショナルサービスから撤退し、あそこにいる連中は全員解雇される」と我々に告げた。
何を言われたのか最初はうまく理解できなかった。日本側には全くの想定外のことだったので何度か詳細を聞き直したが、そもそも説明している幹部社員自身も解雇が決定していることを知り、それ以上聞くのをやめた。当日残っていたOSS開発者陣はその決定を知らないので一切声をかけないでほしいと要請されたため、我々は誰とも話さずに早々に社屋から離れ、翌日にはコーナーストーンのVA Linux社がぽっかりと消えたLinuxWorldをほんの少しだけ確認し、そして帰国した。
日本側は後から気付くことになるが、ようはハードウェアビジネスからの撤退ではなく、VA Linux社の既存ビジネスから全て撤退するということが規定路線だったのである。しかし、CEOのLarryも取締役の一員である ESRもその決断をすることを強くためらったのだろう。Larryが心血を注いで集めた数十人のOSS開発者陣は一時的にプロフェッショナルサービス部門として残され、そこで大きなビジネスの獲得ができれば残されるし、 大手ベンダーへ部門売却でもできればさらに良いとでも考えていたようだ。Larryは自分が作り上げたオープンソースのチームだけは壊したくなかったのだろうが、これは当時の情勢下では宝くじを当てに行くようなものであった。
翌週の2001年9月3日、プロフェッショナルサービス部門で残されていた数十人のOSS開発者は全員解雇された。
1998年2月3日のVA社でのオープンソース誕生から3年7ヶ月、IPOからは1年9ヶ月、最初のリストラからは7ヶ月の時間が経過していた。VA Linux社の本社の事業はこれでほぼ空っぽとなり、ボストンに本拠を構えていた 子会社のOSDN社を管理するだけのような上場会社になってしまった。
この翌週の9月14日にはLinux Kernel ConferenceをVA Japan社側で企画し、デスクだけを遠目に見かけたTed Ts'oを招聘済みだったのだが、彼はこのような状況でも東京へ来ると言っていた。しかし、9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、彼はボストンから動けなくなってしまった。この一連の出来事は日本側にとっては彼らとの別離を実感させられ、独自のビジネスを決断する一つのきっかけとなった。
話をVA社本体へ戻すと、SourceForge Onsiteのビジネスは形式上残されており、子会社のOSDN社が保有するSourceForge.netというブランドを活用しつつ、一から作り直してエンタープライズ向けのプロプライエタリ製品に仕上げ、Rationalのような製品ラインに持っていくという計画が示された。OSS開発者の代わりにVA社にはJava系のプロプライエタリ製品の開発が長い人材の採用を開始した。
そう、オープンソースの生みの親であるVA Linux Systems社はここで完全にオープンソースを否定したのである。
これらの一連のVA Linux社のハードウェアを捨て、オープンソースからプロプライエタリという大胆な業態変更を見届け、Eric Raymondは翌年の2002年4月に取締役を退任した。彼はそれ以降、民間の営利企業への所属はせず、一人のハッカーとして過ごしている。
創業者のLarry Augustinも翌年の2002年7月末期でCEO職を退任した。これでVA Linux社には社名の"A"もいなくなり、Linuxどころかオープンソースと関わりが薄い者だけがごくわずかに残された。その後のLarryは、シリコンバレーのとあるベンチャーキャピタルのパートナーとなり、DotNetNuke、JBoss、XenSource、SpringSource、Pentaho、DeviceVM、Compiere、FonalityといったOSS関連企業へ投資し、そのような縁からShgerCRMのCEOとなり、今に至っている。
2001年6月と9月で解雇された大勢のVA自慢のUberGeeksたちは、Rastermanなどのように出身国や田舎に帰った者、そのまま引退した者、Ted Ts'oなどのように大手ベンダーのLinuxセンターような部署に就職した者、Chris DiBonaなどのように当時は謎の検索サービス会社だったGoogleに入社した者あたりに分けられる。SVLUGの幹部陣だったVA社のメンバーの多くはいつの間にかGoogleに入社し、SVLUGコミュニティやVA Linuxが支援していた多くのOSSプロジェクトのインフラはいつの間にかGoogleが支援するようになった。そして、いつの間にか彼らはGoogle Code、Google Summer of Codeといったプロジェクトを主導するようになった。
また、オーストラリアに帰ったはずのRastermanとSimon Hormsの両名は何故かいつの間にか日本へ渡り、VA Linux Systems Japan社へ入社する。これは日本側がオープンソースを諦めていなかったことを聞きつけたからである。
VA Linux社はこの時点で本体には実質何の事業も残されていなかったが、子会社のOSDN社の存在があったし、また会社は存続しており、現金も6000万ドル程度残されていた。これを崩壊と表現するのは正しくないのかもしれないが、祖業であるLinuxハードウェアビジネスも自身が作り出したオープンソースビジネスも全てから撤退し、バランスシートには6億ドルの累積損失としてその傷跡が残されたという事実からすれば、VA Linux社はこの時点で崩壊したと捉えて良いと私は思っている。
さて、このVA Linux社は何故崩壊したのだろうか?
当時はいろいろ言われた記憶がある。OSS開発者を甘やかしすぎた、マーケティングで金を使いすぎたといったあたりは最も頻繁に聞かされ、うんざりさせられた言説である。当時のVA社の社員からもそんな話をされたことがあるので、OSS関係者とそうでない者の間に何らかの軋轢があったということは事実なのだろうし、割と稟議がザルだった記憶はある。何しろ私のニューヨークへの出張時のホテルの費用を彼らは勝手に支払っていたこともあるぐらいだ。ただし、それと崩壊は全く結びつかないと考える。
VA Linux社はたった10名規模の会社の時代に生み出したオープンソースという言葉のブランド一本でのし上がってきた会社である。最初からオープンソースの会社であることを理解して入ってきた社員がほとんどであったし、OSS開発者らと待遇の面で明確な差があったということも私には記憶にない。OSSプロジェクトへの所属は会社として奨励されたし、インフラで困っているOSSプロジェクトがあればサッとサーバーと回線を提供し、遠くのイベントにOSS開発者が行きたいと言えばサッと旅費が出た。
ただ、それだけのことである。
現代の進んでいる会社ではこれは普通のことであるし、実際にこのような費用でVA社が傾いた形跡は全くない。2001年にはVA社としては最大となる1800万ドルの研究開発費を投じているが、ハードウェア開発がその多くを占めており、総額としてもVA社を崩壊させる要因の一つとは全く思えない。オープンソースに集中し過ぎて開発者が本業に集中しなかったという論も多かったが、あまりにも開発者を馬鹿にした論で論考する必要もないだろう。
マーケティング費用に関しても、VA社はLinuxWorld Expoには多大な予算を投じてはいたが、それ以外はさほど大きな予算を投じることはなかったように記憶している。IPOまではVAらしくオープンソース活動をこなしていれば勝手にメディアが注目してくれたし、OSDN社という存在ができてからは広告費もかけずに済むようになった。
つまり、VA社の崩壊とOSS開発者やマーケティング費用はリンクしない。当時はオープンソースという言葉自体がVA社の内外で強く否定されていたので分かりやすいスケープゴートにされていたのだろう。大したコストが かからないLinu/OSSのプロフェッショナルサービスの部隊を解雇してしまったのは、株主を中心とした方面からのオープンソース否定論に耐えられなかったのだと私は考えている。
VA Linux社の崩壊の要因として最もそれらしく聞こえるのは、IAサーバーの販売に頼るハードウェア偏重のビジネスモデルが原因との論である。
1999年あたりまではそもそも薄型のラックマウント型サーバーでLinuxをプリインストールして出荷する大手ベンダーは存在しなかったので、ある意味VA Linux社の独壇場だった。IPO直前あたりから世間のLinux熱が上昇し、それに押されるようにDellを皮切りにLinuxモデルを出荷するようになり、2000年はLinux市場自体は急激に拡大したものの、VA Linux社にとってはDell, HP, Compaq, Sun, IBMといった強力な競合が出現するという状況になった。そして、バブル崩壊の影響が出始めLinux市場も一時的に冷え込んだ時、より後退が深刻な商用UNIXラインを持つような大手ベンダーは相対的に安価となるLinuxサーバーに注力せざるを得なくなり、結果的にLinuxサーバー市場は会社規模が大手よりもはるかに小さく、そしてプリインストールのOSに対してより大きな手間をかけるVA Linux社には耐え切れない価格競争の場になった。
2001年1月期あたりからの「100ドル札を付けてサーバーを売る」と私が表現したのは正にこのような状況を指している。
CEOのLarryはIPO直前あたりに「当社はSunの性能のマシンをDellの価格で売る」とよく言っていた。それが一年後にはDellの性能のマシンをSunの価格で売るということを強いられてしまったことは事実であり、ハードウェアビジネスのがVA社を傾かせたというのは確かなことである。
ただ、オープンソース誕生の会議に出席していたVA社の幹部の一人であったSam Ockmanが1998年に独立し、ほぼ全てのシステムでVA Linux社を模したPenguin Computing社が、この2017年の段階でも当時に近いハードウェアビジネスを展開し、HPC市場では存在感を発揮していることや、VA Linux社のハードウェア撤退時にラックマウント製品の設計を買い取ったCalifornia Digital社がLinuxサーバーを10年以上売り続けたことを考えると、Linuxのハードウェアビジネスモデルでもやり方次第だったのではないかと思う。ハードウェアビジネスだけを考えれば、生産設備や製品ポートフォリオの抑制等の手段が考えられただろう。
また、VA Linux社は受諾開発とプロフェッショナルサービスのチームも2000年には拡大させており、ハードウェアが収縮していったとしても、オープンソースのソフトウェアビジネスに軸足を徐々に移すということもあり得たはずである。実際、大株主の一社である住友商事はIAサーバーではなく、オープンソースのソフトウェアビジネスに将来的に移行することに期待し、忠告も行っていた。また、CEOのLarryは前述の「Sunの性能でDellの価格」という言葉以外に「VA LinuxはハードウェアではなくLinuxとオープンソースの専門性を売っている」という発言も好んでしていた。彼自身、いずれハードウェアよりもオープンソースソフトウェア主体のビジネスになっていくことは想定していたと私は考えている。
これが許されなかったのは、当時のドットコム不況によりとにかく結果が読めない支出が嫌われ、保有資金を防衛することが望まれたためであるが、そこまでの財務状況を作り出したのは本業のビジネスではなく、IPO後の買収だと考えている。
特に私がパニックバイと称したTruSolutions社とNetAttach社の買収は明確な失敗だったし、これがなければVA Linux社のビジネスは少なくとも延命していただろうと思っている。この買収では株式以外に貴重な2000万ドルの現金が支払われ、販売網は基本的にはvalinux.comのWebだけであるにも関わらず、それでいて設備も人材も二重に投資する状況になってしまった。1UとNAS用のハードの設計だけが本当に必要だったものであったが、冷静に考えればそれ以外の資産が全て不良債権化することは明らかだった。この買収には巨額ののれん代も計上されたため、この償却でも行き詰まることになった。
そして、そもそもこの二社を買収することになったのは、その一ヶ月前のAndover.netの買収の評判が芳しくなかったことが契機だと私は考えている。ESRが自賛しているように最終的に残ったOSDN社はAndover.net社そのものであるので買収が失敗だったとは言えないのだが、VA Linux社のLinux/オープンソースビジネスを発展させていくという観点からは失敗だった。
IPOの直後にAndover.net社ではなく、SuSEやSGI、もしくはその他のVA Linux社の本業を補完する企業を買うのが正解だったのかもしれないし、株主からの圧力があったとしてもそこはVA Linuxとしての本業に集中するべきだったのかもしれない。それでも、おそらくはドットコムバブル崩壊後の不況により、いずれハードウェアビジネスは試練を迎えていたと思うが、これらの買収が現実とは異なる判断であった場合、たった1年後に無様な醜態を晒すことはなかった可能性の方が高かっただろう。
次回は空っぽになったVA Linux社のその後をできれば終焉まで書く。
その次にVA Japan社についてでも少しだけ書いて、一連のシリーズは終了させようと思う。
1999年12月9日、VA Linux社は驚異的なIPOを成し遂げたが、直近四半期の売上は1,700万ドル、資産もほとんどがIPOで得た現金であり、1億5000万ドル程度の規模でしかなかった。 100億ドルに迫る時価総額をとうてい正当化しそうもないのは明らかであった。そのため、ある程度の調整が入ることは仕方がないとしても、このあまりにも高過ぎる評価を維持するために即座に行動を起こすことがVA Linux社の取締役会へ求められた。足下のハードウェア事業についてはさらに引き続き高い成長を見せていることは分かっていたが、今は手元に現金と驚異的な評価が付いた株式がある。必然的にこれを効率的に使用して企業買収を行い、VA Linux社の価値を高めなければならなかった。
ということで、VA Linux社は企業買収へ動き出す。
取締役会での議論に詳細については私が知る由もないが、Eric Raymondが2014年に当時を述懐した短めのブログ記事からは興味深い事実が浮かび上がってくる。この記事とVA社からのSECへの提出書類を合わせて時系列を推測すると、IPO直後の1999年12月中旬以降に開催された取締役会にて企業買収を進める方針が出され、さらに年明けの2000年1月12日の取締役会にて4社に買収ターゲット企業が絞られ、それぞれ検討がなされたということが分かってくる。
その4社とは、Silicon Graphics (SGI)、SuSE、Andover.net、そして確証はないがおそらくLinuxcareだったと思われる。
ESRの述懐が正しいとは限らないが、ここでその4社の案を2000年1月12日の取締役会の段階として考察してみよう。
ITおじさんであれば知っているが今どきの界隈の人は知らない方のSGIである。グラフィックス用のUNIXワークステーションで一世を風靡したSGI社は、90年代にはRISC CPUの開発で知られるMIPSとスパコンの世界で高名なCray Researchを吸収し、UNIX系ベンダーの名門の一角として君臨していた。ただ、90年代の中頃以降から成長の踊り場に達し、97年の36億ドルの売上をピークに売上も急激な下降線に向かう。1998年にItaniumアーキテクチャへ移行することを決定してからは特に事業の歯車が狂いだしたことは印象として強く残っているだろう。
SGI社は1998年にもリストラを断行していたが、1999年秋には追加で1,000以上のポジションの廃止や一部製品ラインのキャンセルなどを含む大規模なリストラを実施していた。この2000年初頭の時期にはMIPSとCrayはお荷物と見なされており、SGI本体から切り離すことも急務だった。(実際、3月にCrayをバーゲン価格で売却し、6月にはMIPSをスピンアウトさせている。)
SGI社とVA Linux社との関係は、Trillian Project(後のIA-64 Linux Project)として当時知られていたItaniumへのLinux移植プロジェクトからである。この結成当初のメンバーは、Cygnus、HP、IBM、Intel、SGI、そしてVA Linuxであり、VA社がプロジェクトのリードを務めていた。Itaniumに会社の命運を賭けてしまっていたSGI社としては、VA Linux社と否応なく関係していくことになる。これが契機なのかは知らないが1999年6月のVA Linux社のシリーズBラウンドにはSGI社も出資し、秋には先に一度触れたDebianのパッケージ製品を共同で出荷することにもなる。
SGI社には大企業、政府系機関、研究機関といった顧客からの根強い支持があり、膨大なエンジニアリング資産もあった。ドットコム系企業とオープンソース支持者からの熱狂的な人気に頼っていたVA Linux社としては自社にはないリソースを手に入れることができる理想的な相手であることは間違いなく、SGI社からしてもこのまま独立系のUNIX企業として縮小を続けていくよりも、Linuxサーバーで勢いにのるVA Linux社と一緒になることに賭けるという見方もあったようだ。実際、VA社のIPO直後から2000年3月にかけては何度かメディアでVA Linux社によるSGI社の買収の噂が報じられているし、Crayの売却後は噂に拍車がかかっている。
このマッチングの問題点としては、当時の時価総額ベースではVA社による買収は可能ではあるが、あまりにも事業と組織の規模が違い過ぎることである。ちょうど二日前の1月10日にはあのAOLとタイムワーナーの合併が発表されているのだが、98年度売上高48億ドル、従業員数12,100人のAOLが、売上高268億ドル、従業員数67,500人のタイムワーナーを事実上買収したというケースよりもさらに規模の差が大きい買収となる。VA社の当時の直前四半期売上は1,700万ドルで従業員は200人、SGI社は売上が5億ドルで従業員は8,000人である。VA社が四半期毎に倍々で成長していく見込みだったのに対し、SGI社はさらに縮小を続けることが明確だったという状況であるにせよ、この規模の差は大きすぎるだろう。また、この時点ではMIPSとCrayの引き離しが完了していないこともネックだったと思われる。
どこまで検討が進んでいたのかは分かりかねるが、結果としてこのSGI案はこの場では見送られることになる。仮にVA LinuxとSGIのマッチングができていれば、ESRが新会社の取締役で残ることも考えられ、SGIの膨大なソフトウェア資産がバザール理論に乗せられ、特に既存ビジネスに対して何の考慮もなくオープンソース化してしまうという未来もあったかもしれない。
なお、SGIは縮小を続け、2006年にChapter 11を申請して破綻、再起後の2009年にも再度Chapter 11で破綻、その後紆余曲折ありながらも現在はHewlett Packard Enterprise社の子会社として存続している。
会社規模やビジネスの補完性で考えると割と考えられるマッチングがSuSE案である。当時としては間違いなくLinuxディストリビューション界隈ではRed Hatと並び立つ存在であり、明確なところは分からないが、組織および事業規模もIPO直前のRed Hat社と大差なかったと考えられている。本拠であるドイツを中心にヨーロッパ諸国ではSuSEがRed Hatよりも人気があるディストリビューションであり、また当時はディストリビューションを一社で独占することへの警戒心もあり、それがSuSEを推す原動力の一つにもなっていたと思う。
VA Linux社とはCEOのLarry自身が割とSuSEのメンバーとも交流があったようであり、1998年のオープンソース誕生の会議の際にもSuSEへの連絡を行っている。1999年の11月にはVA Linux社はSuSEとの提携を強化し、VAサーバーでのSuSEのプリインストールモデルも出している。
当時は既にRed HatがIPOを果たし、Cygnusまでも吸収するという状況になっていたが、VA Linux社としてはSuSEを取り込むことでRed Hatへの対抗軸も作れるし、自社で自由にできるディストリビューションを手に入れることができるというメリットがある。SuSEとしても大市場である北米でのビジネスを強化する機会を得るというメリットがある。
このマッチングの懸念点としては、VA LinuxとしてはDebianをRed Hatに次ぐ第二の選択肢として推しており、自社でJoey Hessらを筆頭にDebian開発者を抱えているのに、さらにもう一つのディストリビューションを抱えることになってしまうというエンジニアリングリソースの問題があること。さらにVA Linux社はヨーロッパ圏にも進出の準備を既に行っていたが、ほとんどの売上が北米であるのは明らかであり、ドイツを中心とするSuSEを取り込んでもシナジーを見込めるのはかなり先のことになること。また、事業規模としては割と小さく、買収効果も限られることからその時点でVA Linux社が取るべき選択肢には見えなかったとも思われる。
結果的にSuSE案は見送りとなる。先に触れたESRの述懐記事ではSuSEを選ばなかった理由として、ドイツとアメリカの文化的な差異の面を挙げている。よくあるステレオタイプ的なドイツ人とアメリカ人の差異を挙げ、ダイムラー・クライスラーがその悪例と言っている。私は当時の取締役会のメンバー、特にSequoia CapitalのDouglas Leoneがそのような理由だけで判断するとは全く思っていないが、まだ両社共に本国だけの売上で精一杯の状況で合併効果を見出すのは難しかったのではないかと思っている。
このマッチングが実現していれば、米国内においてRed Hatだけを見ていればいいという雰囲気を牽制できたかもしれないし、VA Linuxがディストリビューションの会社として残るという未来もあったのかもしれない。
ESRの記事では "Linux service business"としか書かれていないのでLinuxcareが最終候補だったのかは実際のところよく分からないのだが、当時の状況やVA Linux社のメンバーの関係性から考えるとおそらくLinuxcareだったのだと推測する。そうでなかったとしても、4社に絞る過程のどこかで検討はしていた会社だろうとは想像がつくので、一応ここで挙げておく。
Linuxcareは当時としては珍しいLinuxとオープンソース専門のサポートサービスの会社として立ち上げられた。法人の立ち上げ後即座にLinuxバブルに乗って3,800万ドルの資金を調達し、ごく小さな同業の会社を買収したりしていたが、合わせてもまだ50万ドル程度の売上しかなく、それでいて100名弱の社員を抱え、年間で1,000万ドル以上の損失を出すことが明確になっていた。
VA Linux社としてはメンバーに知り合いも多く含まれ、来たるべくハードウェアベンダーの巨人達との戦いに備えて、サポート事業を強化したいという思惑もあったかと思う。ただ、まだ立ち上がったばかりのLinuxサポートビジネスの現状はVA Linux社自身もよく分かっていたのだろう。Linuxcareの数字は当時派手に喧伝されていた評判とは異なる酷さではあるが、同業他社はこれよりも小さいものがほとんどであり、おそらく真剣な検討はされなかったと思われる。
なお、Linuxcare社はこの直後の1月19日にIPOを申請する。しかし、IPO直前の4月中旬にIPO申請を撤回する。株式バブルがピークを越えたという市況の変化もあるが、その前にLinuxOneとまではいかないもののほぼ同然と言える内容のIPOを許すべきかという問題もあったし、そもそも社内が崩壊していたという話も聞いたことがある。これも当時のバブルを示す一つの出来事である。
最後はIPOバブルの話題でVA Linux社の前日にIPOを果たしたことで触れているAndover.net社の案であるが、この案は実はVA Linux社から声をかけたものではない。Andover.netに出資し、さらにOpenIPOによってIPOへと導いた投資銀行であるWR Hambrecht + Co社がVA Linux社への売却を発案し、それを1月7日にAndover.net社側へ提案、さらに1月12日のVA社の取締役会当日にCEOであるLarryの下へWR社とAndover社両社揃って持ち込んできた案件なのである。
ということで、時間的な制約からVA社側でAndover.netをあまり精査したとも思えないし、そもそも当初は買収候補として考えられていたとも思えない。SGI、SuSE、LinuxcareはどれもVA Linux社のLinuxハードウェアビジネスを補完する存在と考えることができたが、Webメディアの企業であるAndover.netの場合は全くそうではないからである。むしろ、ハードウェア会社がメディアを保有することによるメディア事業へのデメリットの方が先に思い浮かぶ。
ただ、VA社はこの時点においてLinux.com、Themes.org、SourceForge.netというコミュニティ向けのWebサイトを運営しており、VA社のオープンソースブランドを向上させるためとは言いつつも、人気が上がるにつれてコストが上昇し、非営利で運営することが困難になりつつあったという事情があった。Andover.net社側としても、オープンソース関連サイトの50%以上のトラフィックを独占していると自称しつつも、その多くのトラフィックはSlashdot.org由来のものであり、オープンソース関連のメディア群を支配しているとは言い難い状況であった。そのため、オープンソース関連メディアの確固たるトップ企業として君臨していくためにVA社の3つのサイトと一体化することは大きなメリットがあった。
現在からは考えにくいが、Red Hat社がIPO時にポータル戦略を掲げていたように、当時のオープンソースビジネスとしてはポータルを押さえ、そこから広告等で収益を出すという考え方は割と違和感なく実現性があるものと受け入れられていた。Andover.netの収益は前回記事でも触れたようにVA社から見ても些細なものであったが、Yahoo!の全盛期であるこの頃だとオープンソース界のYahoo!を実現できるというのは大きな可能性を感じさせるものであったのだろう。
とは言いつつも、Andover.netの買収はVA社の本業であるLinuxシステムの販売には直接的な寄与はしないことは明らかだった。
先ず結果を書けば、この2000年1月12日の取締役会でAndover.net社の買収を目指すことが決議された。
Andover.net社以外の三社がどの程度まで検討が進んでいたのかは分からないが、SGIに関してはリストラの進捗への懸念もあったし、SuSEは当時のRed Hatと大差ないとされる評価を受けていた状況であれば交渉は困難になることが予想された。Linuxcareなどはおそらく買収効果を見込むことが難しいとハナから考えていただろう。この3社の買収候補のいずれも買収を進める過程からの困難が予想され、ESRの記事でも「The other board members argued back and forth but were unable to reach a resolution.」となかなか決議に達することができなかったと書かれている。
Andover.netの買収の決定は長らくCEOのLarry Augustinの単なる趣味でSlashdot.orgが欲しかっただけと世間では言われていたが、ESRの記事ではAndover.netの買収はESR自身が決めたと書かれている。当時から14年も経過してからの述懐なので事実と捉えるには心許ないが、Larryの趣味説よりは信憑性が高いと私は考えている。当日に一度Andover.net側からの提案を受けただけのLarryが押し通せば、おそらく他の取締役会のメンバーが再考を促していたと思われるからである。
ESRの記事の流れとしては議論が硬直した後、彼は下記のように主張したらしい。
So I stood up and reminded everybody about the compatibility issue and made the case that our first acquisition needed to above all be an easy one. Then I said “At Linux conferences, think about which of these crews our people puppy-pile with on the beanbag chairs.” Light began to dawn on several faces. “The Slashdot guys. It has to be Andover, ” I said.
ようするに、買収の失敗は企業文化の不一致から引き起こされるものであり、「Linuxイベントでビーズソファに寝そべって寄り集まっている連中は誰だ? Slashdotの連中だろ?」と言って、Andover.netであればVA社と企業文化的に一致すると主張したわけである。それに対し、Sequoia CapitalのDouglas Leoneが「There’s a lot of wisdom in that.」と言って決定されたと書かれているのだが、これに関してはホンマかいな?と思うものの、Andover.netであれば買収後の事業の再構成も比較的単純に済むし、広告という全く異なるラインからの収入が見込め、さらに当時の感覚からすればネットビジネスの将来性も感じられることで同意に至ったのではないかと思う。まあ、この時点ではある意味で余裕があったので、買えるものからどんどん買っていけばいいとしか思ってなかったのかもしれないのだが。
1月12日の取締役会でAndover.netの買収方針を決議した後、即座にNDAの締結、デューデリ実施、諸条件の交渉が行われ、2月2日に両社の取締役会が株式交換の比率も承認し、翌2月3日、New Yorkで開催中のLinuxWorld Expoの基調講演内でCEOのLarryがAndover.netとの合併を発表した。この時のLinuxWorldのフロア内の反応はVAは一体何を考えているのか?と不思議がるものが多かったように思うが、CEOのLarryはこれでオープンソース界のYahoo!が出来上がると得意満面だった。
その後、この合併は当初案では現金を含む内容だったが後に株式のみに変更され、6月7日に合併が完了した。Freshmeat.netではSourceForge.netに対抗してServer51というオープンソースプロジェクトのホスティング機能を追加し、さらにSlashdot.orgではSlashcodeの商用化も計画され、双方共にVA Linuxとの合併のアナウンス直前に発表されていたが、この合併によって全てキャンセルされた。さらに合併により、Andover.net社が保有していたWindows系および技術色が薄いIT情報系の幾つかのサイトは非オープンソースであるという理由で閉鎖された。
合併はVA Linux社が子会社を新規で立ち上げ、その子会社とAndover.net社が合併する形式が取られ、そのためAnoover.netはそのままVA Linux社の子会社という立場になった。そして、VA Linux社側からLinux.com、Themes.org、そしてSourceForge.netが移管され、Slashdot.org、Freshmeat.net、ThinkGeek.comなどと共にオープンソース系のネットワークを構成することになる。そのネットワークと新生Andover.net社は8月にOpen Source Development Network (OSDN)と改名された。
Andover.netはIPO直後でまだ多くの現金を保有しており、株式の評価もまだ高かったことから2億5000万ドルののれんが計上され、VA社のバランスシートは大きく増大した。一方、Andover.netの多くのサイトはまだ収益化の途上であり、メディアビジネスの性格上大きな成長を見せるとは当時からも思われていなかった。実際、買収発表後のAndover.netの最後の四半期決算は280万ドルという小さな売上であり、当時のVA社の連結業績に与えるインパクトは微々たるものであることは明らかだった。正直なところ、この買収はVA Linux社のビジネスにとってプラスであったとは言い難い。
ESRの述懐では、Andover.netを買収するという自分の決断でドットコムバブル崩壊を乗り越えて生き残ることができたと自画自賛している。確かに法人としてのVA社からすればESRの視点で正しいのかもしれないが、おそらくAndover.netの各サイトは単独でバブル崩壊に遭遇したとしても普通に生き残っただろうと思われ、合併によってサイトの閉鎖や幾つかの挑戦的なプロジェクトをキャンセルさせられてることを考えると、Andover.netにとってはこの合併は受難だったのかもしれない。
また、この合併発表後の市場の反応は割と冷ややかなものであり、VA社は合併作業に忙殺されながらも次の本業強化のための買収ターゲットを早急に探さざるを得なくなる。資金と時間をAndover.netの案件で ロスしつつもまだVA社の経営陣は強気の攻めの姿勢だったが、バブルの崩壊はすぐそこに迫ってきていた。
次回、(今度こそ)バブル崩壊とVA Linuxの崩壊。
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例によって一回脱線し、既に何度か言及している「Revolution OS」という映画について書いておく。
Revolution OSは、Richard Stallmanが開始したフリーソフトウェア運動とGNUの誕生からLinuxカーネル、伽藍とバザール、オープンソースの誕生、そしてVA LinuxのIPOまでの歴史とそれに関連する思想をまとめたドキュメンタリー映画である。私がこの一連のVAの歴史において触れてきた人物、RMS、ESR、Linus Torvalds、Bruce Perens、CygnusとしてMichael Tiemann、VA LinuxのCEOのLarry Augustinらのインタビューから主に構成されている。また、SVLUGでのインストールフェスタの模様、Microsoftのオフィスへ突撃をかましたWindows Refund Dayでのデモ行進、LinuxWorld Expoのステージ上で演説するRMSから聴衆の目線を奪い取るLinusの娘達、IPO直後のVA社のオフィスといった歴史的なシーンも含まれている。
このRevolution OSは、フリーソフトウェアおよびオープンソースの思想が分かりやすくうまく構成され、その面での評価も割と高いのだが、Red HatとVA LinuxのIPOでストーリーがエンディングに向かうのは日本人には少し違和感があるかもしれない。
実はこの映画は1999年6月、VA Linux社の創業間もない頃からの古参の幹部社員であるDouglas Boneがスタンフォード大学時代の友人でハリウッドの映画業界で働いていたJ.T.S. MooreにLinuxのドキュメンタリー映画を作ってみないかと要請したところから開始されている。彼もこの業界を代表する人々の個性と思想が良い題材だと思ったのだろう。撮影は7月から開始され、VA Linux社のIPO直後あたりで全ての撮影を終了した。Michael TiemannがCygnusの立場で語っているのはそのためである。つまり、撮影期間から考えるとVA LinuxのIPOで終えるのは座りがちょうど良かったし、インストールフェスタ、Windows Refund Day、LinuxWorld Expoのシーンは全てVA社のメンバーの手引きによるものだろうから、VAを中心に描かれるのはある程度仕方がないことだろう。私から見ればRevolution OSはVA Linuxの歴史そのものを描いているのである。
私が書いているVA社の歴史は現時点でこのRevolution OSと全く同じ時期まで書かれている。一連の長話を読んだ奇特な方が改めてこのRevolution OSを観ると、何故VA社のLarryがLinuxWorld ExpoでLinusを呼び出す役回りだったのかとか、Larryが何故 Red Hatの株価を気にしていたのかとか、SVLUGがほぼVA Linuxだったとか、細かいところのかなりどうでもいい部分への理解が進むかもしれない。
Revolution OSの脚本、監督、撮影、編集は全てJ.T.S. Mooreが一人で行った。そのためかもしくは資金不足かで完成は割と遅れ、初の試写会は2001年2月1日、LinuxWorld Expo New Yorkの開催日にタイムズスクエアにほど近いAMC Empire 25という劇場を貸し切って行われた。この試写会はVA Linux社の当時の子会社であったOSDN社(現在の日本のOSDN社のことではない)の主催によるもので、当日は私も招待されていた。日本人は私と当時の同僚の二人だけで、あとはVA Linux社の社員、そして様々なオープンソースプロジェクトの関係者で全席埋まっていた。
オープンソース誕生からの経緯も理解していた私にはVA Linux社の宣伝映画のように見えなくもなかったが、私にはこの映画が日本でのフリーソフトウェアおよびオープンソースへの理解に役立つと直感した。そのため、試写の終了後のパーティにてJ.T.S. Mooreに駆け寄り、日本でRevolution OSを上映させてほしいと要請した。その場では割と良い方向で話が進んだが、帰国後の交渉中に字幕作成、上映館確保費用や報酬の問題、配給のミラマックスとの調整の問題等いろいろ条件が我々には厳しいということが分かり、いったんペンディングとなった。そして、そのうちVA Linux社に大きなマイナスの変化が起きた時、VA Linux Systems Japan社としては米国にVA Linuxという存在があったことを一切無視することを私が決め、私の手によるRevolution OSの上映計画は完全に消えた。
その後、Revolution OSは各地の映画祭やO'Reilly Open Source Conventionといった世界各地のオープンソースイベントで上映された後、DVD化されてOSDN社傘下のThinkGeek.comにて販売された。もはやバブル当時のことも忘れ去られつつあった2003年、日経BPの音頭でRevolution OSの日本語字幕のプロジェクトが起こされ、日本でもDVDが販売されている。
ところで、今振り返ると、2001年2月1日の試写会の際、私はオープンソースの素晴らしい教材に出会えたことでテンションが高まっていたが、劇場内は「今の株価は5ドルだろ!」といった軽口や笑い声が飛び交いながらもどこか落ち着いた雰囲気であった。会場内の人々にはたった1年前までの自分達が起こしてきた出来事の映像であったわけだが、さらにもっと遠い過去のノスタルジーに浸るような雰囲気であった。試写の後のパーティもVA社にしてはやけにもの静かであり、おかげで交渉後は早々にホテルへ切り上げた記憶も残っている。
この数カ月後、VA Linuxは崩壊する。
今思えばその場にいた皆がそれを既に感じ取っていたのではないかと思う。
次回は出来ればその崩壊まで。
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LinuxOneの騒動でまだコミュニティがごたついていた1999年10月8日、とうとうVA Linux Systems社がIPOを申請した。Red Hatの後に何故か間に3社が挟まれ、それぞれ印象的な結果を残したが、市場はとうとう本命がやってきたと騒ぎ始めた。
この時、Red Hatの株価は86ドル。
NASDAQ総合指数は2,800程度でこの半年前と比較すると300ほどの上昇であり、市場は当時としてはまだゆるやかな上昇の途中だった。
VA Linux社のIPOの計画はRed Hatのものと規模はさほど変わらない。全体の10%ほどに当たる440万株の新規発行で一株13ドルの価格が設定され、6,500万ドルを調達するものだった。直近1年間は売上1,770万ドル、損失1,450万ドルであり、四半期毎では売上が240万ドル、320万ドル、430万ドル、780万ドルと急成長を遂げていたものの、彼らが目標としていた5年以内での10億ドルの売上に達成を見越したハードウェアビジネスを支えるために必要な設備投資やブランディングにかかる経費が継続することが見込まれ、Red Hatと比較すれば成長速度は上回っていても株価として評価するにはやや下と見るべき存在とするのが妥当だったと思う。Red Hatと異なり、ラックマウントサーバーという今後需要が増大すると見込まれるハードウェアを製品として抱え、既にこの領域ではDell、HP、Compaqなどと激しいシェア争いをしていたという点から大きな評価をする向きもあったが、まだ様子見の空気も強かった。
IPO申請直後の10月12日、VA Linux社はO'Reilly、SGIと組み、CD-ROMと書籍をバンドルしたDebianのリアルなパッケージ製品を発表した。製品とは言ってもO'Reillyの書籍付きで19ドルという破格値で、かつ利益は全てオープンソースの誕生の件でも出てきたSoftware in the Public Interest (SPI)へ寄付するというものだった。当時は大手ではVA社だけがDebianサーバーを出荷し、ある意味ではDebianはVA社の象徴の一つでもあった。しかし、当時はDebianそのものが全く市場に響かない存在である。このタイミングでそれを出してしまう空気の読まなさというか裏表のなさがLarryが率いていたVA社らしいとも言えるので一応ここに書いておくことにする。
この10月にはRed HatがRed Hat Linux 6.1をリリースし、Compaqとのサポート契約が発表された。
11月に入り、にわかに空気が動き出す。Red HatはOracleとの協力を拡大し、11月5日にはCobalt Networks社が前回記事に書いたようにRed Hatを越える驚異的なIPOを達成した。Cobalt社は同社の株式の18%を占める500万株から無事に1億1000万ドルを調達し、さらに22ドルの公開価格が128ドルまで上昇したのである。同じハードウェア主体のVA社への注目がさらに高まることになる。
ちょうどこの頃、3回目の司法省によるMicrosoft独占禁止法訴訟が佳境にさしかかりつつあり、Thomas Jackson判事がMicrosoftの商行為に対して独占との事実認定を行った。この訴訟は翌年にMicrosoftを2分割する判決が出されることになるが、この一連の訴訟から発生するさざ波が、生まれたばかりのLinux市場をさらに揺り動かしていた。当時でも4,000億ドルという途方も無い時価総額であり、PC市場の独占企業が分割という流れに向かっていたのだから無理のないことではある。
11月15日、Red Hat社がCygnus Solutions社と合併するというアナウンスが出された。当時はCygnusがオープンソース業界の最強の会社と見なされており、売上規模もまだRed Hatよりかなり大きく、事業は成熟し、圧倒的な開発者陣を揃えていた。そのCygnusと合併するというニュースは、安定したキャッシュフローをRed Hatが獲得したと見なされ、市場には安心材料となった。高騰する株価を納得させるための行動をRed Hatが取っていないとする向きもこれでいったん止むことになる。
この時期、Red Hatの株価は100ドルを越えた。
この同日、VA Linux社はS-1上場申請書を更新し、10月末までの四半期の業績を反映させた。前の四半期(7月末)の売上は780万ドルでこれも急激な増加だったが、さらに1,480万ドルに倍増した。この内 240万ドルはAkamai Technologies社からの売上である。売上総利益は3四半期マイナスを記録していたが、これで200万ドルのプラスに振れ、このペースでいけば高度成長を継続しつつ、黒字化を早期に達成できるような空気も漂ってきた。ドットコムのバブルに乗ったネット企業が次々にVA Linuxのサーバーを買うだろうという確信的な空気も増していた。
11月23日、一通のメールが様々なオープンソースコミュニティに属する人々に配信された。VA Linux社のChris Dibona名義でドイツ銀行から送られたものである(全文有り)。ようはRed Hatが行った開発者へのIPO価格での購入オファーと同じことである。Debian、KDE、GNOME、GTK+、Python、GIMPといったメジャーなプロジェクトへの貢献者、VA社の社員による推薦、そして11GBのソースコードとHOWTO文書のアーカイブから名前を拾い上げられた者たちへ一斉にIPO価格でのVA Linux株の購入がオファーされた。購入可能株数は100株(確か50株ほど後に増量された)だったが、既にRed HatとCobaltが株価の大幅な上昇を見せていたことから、1,300ドルの投資がすぐに何倍にもなるという確信的な空気が出来上がっていた。なお、VA社からのオファーは米国外でも幾つかの国で有効であり、日本は国内法により50人までと制限されていたが、Debianを中心にオファーが届いた者も多かったと思う。米国外からの購入が可能ということもありVA社のオファーは世界的に大きな話題になった。多くの開発者が株の取得を考え、最終的に352,000株がコミュニティへ分配された。
この日、Red Hatの株価は140ドルを越えた。
12月に入ると、Red Hatの株価はとうとう200ドルを越えた。徐々に説明が付かない状況だと見る向きが出てきていた。
12月7日、市況の変化を踏まえ、VA LinuxのIPO価格が23ドルに引き上げられた。
12月8日、Andover.netのOpenIPOプロセスによるIPOが行われた。18ドルの価格でオークションが完了し、公開初日の終値は63ドルまで上昇した。Andover.netは発行済株式の25%以上になる400万株を売り出していたが、初日の取引は800万株を超え、Linux/オープンソース銘柄の人気がもはや疑いの余地がないものとなっていた。
この日、DellとのPowerEdgeラインでの提携を数日前に発表していたRed Hatの株価は、270ドルを越え、一時302ドルの高値が付いた。この記録がRed Hat株価の史上最高値であり、17年経過して100倍以上の規模となった現在のRed Hatでもまだ当分は届きそうもない数字である。
さらに同日、前日に約2倍に引き上げられたVA LinuxのIPO価格がさらに30ドルに引き上げられた。
そして、12月9日がやってきた。
VA Linux社CEOのLarry Augustinは自社のIPOを見届けるためにサンフランシスコのクレディ・スイス証券の支店に出向いていた。自分の家族、数名の社員、そしてLinux作者、Linus Torvaldsの家族一同も招待し、取引開始を待っていた。クレディ・スイス側は投資家からの入札状況からその頃には既に何が起きるのかは分かっていたが、Larryはあまり自社の株が置かれている状況を分かっていなかったようだ。Larryは、1年半前の「オープンソースの発明」の時にはまだ小さなPCショップのような規模の企業を経営し、コミュニティメンバーを過ごすことを好んでいた男である。自分が置かれている状況の把握に時間がかかるのは無理もないことだった。このIPOを振り返るインタビューが映画「Revolution OS」の一場面として出てくるが、映画の姿がそのままのLarryである。
正午過ぎに遅れて取引が開始された直後、VA Linux株は299ドルの初値を記録した。この瞬間、VA Linux社の時価総額は100億ドルを越えた。
その直後、320ドルの高値を付けた。この時、シリーズBラウンドに参加した日本の住友商事の当時の時価総額を越えた。
その後、株価は乱高下し、終値は239.25ドルで取引を終了した。690%の初日の上昇は、現在も未だに破られていないNASDAQ市場の最高記録となっている。
なお、この時、NASDQ総合指数は3,600を超え、二ヶ月で800ポイント上昇という異次元の世界に入っていた。
取引を見届けたLarryは自社へ戻り、社員を集め、投資家に説明したプレゼンを紹介した後、ささやかなパーティを開いた。そこに集まっていた多くの社員は自分が持っていたオプションの資産価値が高級車や家が買える値段になっていることに浮かれていた。また、この会社がさらに大きく成長していくものと皆が確信していた。
CEOのLarryの名目資産はこの時16億ドルを超え、John "Maddog" Hallは 7億ドル、そして取締役の一人であるEric Raymondの持ち株の価値は4100万ドルに達した。VAのIPO直前にSambaのプロジェクトリーダーの一人であるJeremy AllisonがVA社に入社しており、12月17日のLinux Conference '99 (横浜)のために来日していたが、そこでJeremyは「シリコンバレーで家を買う必要があったがSGIにいては買えないのでVAに移った。VAはSVLUGそのものでほぼ全員がVA社員だから、以前から自分もずっとVAにいるようなものだったしね。」ということをメディアに話していたが、多くの社員も同じ感覚だったのだろう。
また、SlashdotにはESRが投稿した「Surprised By Wealth」という記事が残されているが、彼は活動を変えるつもりはないし、たくさんのものは欲しくないとしつつも携帯電話、インターネット接続、フルート、そして銃ぐらいは買うことをほのめかし、
「So it's not strictly true that I'm wealthy right now. I will be wealthy in six months, unless VA or the U.S. economy craters before then. I'll bet on VA; I'm not so sure about the U.S. economy :-).」
という軽口も叩いている。「VA社と米国経済がそれまでに崩壊していない限り、私は6ヶ月後に裕福になるでしょう。私はVAに賭ける。私は米国経済についてはよく分かりませんけどね :-) 」という感じだろうか。今見るとまさに死亡フラグのようにしか見えないが、米国経済はダメでもVAは安泰だと信じていたのだろう。結局どちらも死亡するのだが。
VA Linux社のIPOは無事に成功し、30ドルへと直前で価格変更を行ったため、予定よりも多い1億3000万ドルの資金調達に成功した。この時点ではVA Linuxの未来は明るいものが待っており、オープンソースのリーダー企業として相応しい成長を遂げるという期待感に満ちあふれていた。しかしながら、急成長しているとは言いつつも直近四半期の売上は1,480万ドルであり、利益は出ていない。そんな会社でかつ、ハードウェア主体という小回りが効きにくいビジネスで100億ドルの時価総額というのはあまりにも荷が重い評価であった。
それにしても何故、ここまでRed Hat、Cobalt、Andover.net、VA Linuxの一連のIPOは異常な高騰を見せたのだろうか? 1999年夏から2000年3月10日までの期間はドットコムバブル最後の株価の異常な上昇期間であり、NASDAQ総合指数は2,600あたりから3月10日の5,132に向けてバブル最期の輝きとなる一直線のうなぎ上りを見せていた。その途上で単純に新規性のあるワードであるLinuxとオープンソースに投機的な資金が流れ込んだだけかもしれない。
また、当時はMicrosoftへの独占禁止法訴訟の最中であり、会社の2分割が取りざたされていた時期である。ESRの「伽藍とバザール」を多くの人々がGNU HurdではなくMicrosoftとLinuxの比較だと捉えたように、 多くの人々がMicrosoftの代替としてLinuxを捉え、期待をかけていたということもあるだろう。それは目標の一つとしては正しいが、少なくとも上場した4社のメインビジネスはMicrosoftのメインビジネスであるデスクトップOSおよびアプリケーションソフトと張り合うようなものではなかった。VA Linuxが張り合っていたのは元々Sunが支配していた市場であったが、LinuxとWindows 98が比較され、VA Linuxは悪の帝国を打倒するヒッピー集団を率いるヒーロー的存在だと祭り上げられていたようにも感じる。証券会社側の手法や当時のコミュニティの異常な高揚などの細かな要因もあるとは思うが、このあたりの現実よりも過大な期待が異常な高騰を生み出したのではないかとないかと考える。
なお、この後、VA Linuxを含むLinux/オープンソース株は全面安が続き、冬の間はやや持ちこたえたものの3月10日にNASDAQ総合指数が5,132のピークを迎えた後に急激に下落していくのに合わせ、4月にはVA Linux、Red Hat(二分割を12月中に実施)の株は50ドル近辺にまで落ち込む。さらに2000年12月までには両社共に10ドル以下にまで下落し、株式のバブルは消滅した。
2000年3月にはMicrosoftとの訴訟を解決し、新たに資産を引き継いで再設立されたCaldera Systems社がIPOを果たすが、もはやかつての熱狂はそこにはなかった。このCaldera Systems(後にSCO Groupに改名)が生き残りをかけて取得したSanta Cruz Operation社からの事業に含まれていたとされていたUNIX資産(最終的にNovellに権利があると事実上確定している)が後にあのSCO UNIX訴訟問題へつながっていくことになる。
これ以降、Linux/オープンソース関連ビジネスのIPOは途絶えることになる。
次回はIPOを果たした後、事業の急拡大に挑むVA Linux社の行動を書いていく。
「科学者は100%安全だと保証できないものは動かしてはならない」、科学者「えっ」、プログラマ「えっ」