kazekiriの日記: ドットコムバブルの終焉とVA Linux Systemsの崩壊
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LinuxWorldの基調講演という場で華々しく発表されたAndover.netの買収はオープンソースコミュニティへは大きなインパクトを与えたが、市場の反応はその逆だった。ハードウェア事業とはかけ離れた事業に大きく投資する意味を当時では見出すことは難しいことは容易に想像できる。そのため、VA Linux社はまた即座に行動しなければなかった。
このあたりからVA Linux社の歯車が狂ったように私は考えているが、この2000年2月から崩壊までのVA Linux社の行動を追う。
パニックバイ
3月に入り、VA Linux社は上場後初めての四半期決算の発表を行う。売上はわずかながらのとうとう2,000万ドルを越え、粗利も増加し、1,000万ドルの損失を出しながらも成長率を加味すれば割と明るい決算だったように思う。
ただ、これも市場の大き過ぎる期待に応えるものではなかった。
Andover.net買収による市場の反応がどこまで影響したのかは分からないが、VA Linux社は自社のハードウェアビジネスに「即効的」に寄与すると思われる企業の買収に乗り出した。ここで再度 SGI社の買収を検討したのかどうかは正確には分からないが、おそらくAndover.netの合併作業で数カ月消耗することが分かっていたので、このタイミングでは短期でディールを完了させることができる買収を優先したと思われる。つまり、SGI社の選択肢は消えていた。
ここで浮上したのがIntelとSPARCの2ラインのラックマウントサーバーの製造会社であるTruSolutions社とハイエンドNASの製造を手がけるNetAttach社であり、Andover.net買収のわずか一ヶ月後の3月15日に VA Linux社は両社の買収を発表する。180万株の株式(2億ドル相当)と2,000万ドルの現金が両社の買収のために注ぎ込まれた。その2億ドルがほぼそのままのれんとしてバランスシートに計上され、また両社の100名弱の従業員とサンディエゴ、サンタクララの拠点がVA Linux社の所属となった。
この両社の買収は一見VA Linux社のハードウェアビジネスを強化するように見えた。
TruSolutions社は SPARCラックマウントサーバーの製造で現地では知られていたが、2000年当時ではSPARCよりもIntelサーバーにやや傾倒しており、VA社および他の大手ベンダーと比較してもより集積度の高い設計の1Uラックマウントサーバーの製造を行っていた。この頃には薄型ラックマウントサーバーに大手ハードウェアベンダーも本気を出しつつあり、VA Linux製品のハードウェアの優位性がやや縮まっていたことからTruSolutions社の買収は正解に見えた。
NetAttach社は特に売上も上げていない状況だったが、NASストレージの市場は拡大が見込め、またVA Linux社にはNFS for Linux、Sambaのコア開発者が所属していたこともあり、VA社の製品ポートフォリオにNASが加わることも正解に見えた。
結論を先に書けば、私としてはこの両社の買収はサッカーの世界でよく使われるパニックバイであったように捉えている。
TruSolutionsのIAサーバーは確かに当時のVA社よりは一歩進んでいた。しかし、VA社と同じように汎用パーツの集まりに過ぎず、1U製品の設計を買ったということにしてはかなり高額な買収だった。また、VA社はSynnex社との契約により、全ての製造をSynnex社内に構築したVA Linux専用の施設にて製造を行っており、TruSolutionsのサンディエゴの拠点が完全に無駄な資産となってしまった。これに加え、従業員のコストがのしかかることになってしまった。NetAttach社に関しても、ほぼ同様の理由で製品、施設、従業員と全てが二重投資のような状況になってしまっていた。これで売上面で寄与があればまだ良かったが、NetAttach社はまだ売上がない状況であったし、TruSolutions社にしても非常に小さな売上しかなく、その面でも期待はできなかった。
この買収は完全に無駄であったとは言えないが、確実にVA社の体力を削ることになったのは間違いないだろう。
株式市場の崩壊
TruSolutions社とNetAttach社の買収発表の数日前となる3月10日、NASDAQ総合指数は終値ベースで過去最高値となる5048.62を記録した。これがドットコムバブルのピークとなり、2002年の終わり頃までの2年以上の間、NASDAQ市場は一直線に下降を続けた。ピークを打った3月に関しては楽観的な空気がまだ支配していたものの、4月になる下落がさらに鮮明になると少しずつ市場に混乱が広がっていたように記憶している。
このNASDAQ市場の壊滅的な下落の開始により、VA Linux社をはじめとするLinux関連各社の株価は4月にはほぼIPO価格付近にまで下がった。
市場は混乱が広がりつつあったが、VA社の内部は相変わらず楽観的かつ強気な見方が支配していた。これは足元の業績がまだ大きな拡大成長を遂げていることが分かっていたからである。
先に述べた2000年第2四半期の決算では売上は2,000万ドルだったが、次の4月末までの第3四半期の決算では3,500万ドルにまで急激に増加した。粗利も増加し、先の二社の買収関連費用を差し引けば600万ドル程度にまで損失が減った。オープンソース/Linux市場および自社の製品ポートフォリオの拡大により、この勢いはさらに続くものと見込めたし、VA社には1億2000万ドルの現金が残されていたことも市場の動揺と自社は無縁であるとVA社の経営陣に思わせることにつながった。
しかし、3月の買収時にはまだ100ドルの株価が付いていたが、4月にはIPO価格と同等になってなったという事実は非常に大きな問題を発生させていた。もはや大規模な株式による買収や市場からの資金調達が困難になったということである。
6月に合併が完了する予定のAndover.netがVA Linux社の本業であるハードウェアビジネスに大きく寄与することがないことは明らかだったので、VA社はこの時点で残された資産のみを使っての成長を達成することを求められることになったと言える。
継続する成長と戦線拡大
次の2000年7月末までの第4四半期には前回触れたAndoover.net社の合併が完了し、即座にAndover.net社はOpen Source Development Network社に改名され、VA社の子会社となった。この頃にはバナー広告の販売も安定し始め、またThinkGeek.comでの物販もわずかながらも数字を出すようになり、OSDN全体では500万ドル程度の四半期売上を計上できるようになっていた。
本体のVA Linux社については、株式市場が相変わらず下降を続けながらも、サーバー製品は好調な売上を見せていた。第4四半期(2000年7月期)の売上はとうとう5,100万ドルに達した。年間では1億2000万ドルの売上となり、この瞬間、VA Linux社はLinux/オープンソース業界で初めての1億ドルの売上を越える会社となった。
この勢いのまま次の第1四半期(2000年10月期)には売上が5,600万ドルに達し、粗利は1,260万ドルとこのままの勢いであれば黒字化も遠くはないし、まだまだ成長できると誰もが信じていた。
この高度の成長を支えるため、7月には手狭となっていたサニーベールの社屋からサンフランシスコ湾の対岸に位置するフリーモントに本社オフィスを移転した。VA Linux社連結全体としては2000年夏の段階で500名の社員を抱えるようになっていたが、OSDN(Andover)やTruSolutionsの社員は独自のオフィスを構えていたので、フリーモントに引っ越したのは200名ほどであったのだが、フリーモントの新社屋は1,000名以上の従業員を収容できるスペースがあった。つまり、VA社の経営陣はまだまだ「VA Linuxの成長は止まらない」と、この時点で考えていた。
また、同時期の夏の間にイギリス、ドイツ、フランス、オランダ、ドイツ、スイスといった欧州の主要国にVA Linux社のセールスとサポートの拠点を設置し、オランダでは当時のDebian ProjectのリーダーであるWichert Akkermanが雇用された。私の記憶の中では、彼は獅子奮迅の働きで欧州までの製品の通関と域内でのサポートの面倒を見ており、米国側の様々な不備をCEOのLarryに対して遠慮なくぶつけていたのを思い出すが、拠点の拡大に人が追いつけない状況だったということだろう。
欧州から少し遅れ、シリーズB投資ラウンドに参加していた住友商事は満を持して、9月にVA Linux Systems Japan社を日米での合弁方式で設立する。9月に設立はしたものの欧州で既に混乱が見られたように米国側の戦線拡大路線に人が追いつかず、人がアサインできないために結局社長は住友商事の投資時からの担当者がそのまま就任することになった。また、製品の出荷、通関フローに問題があり、まともに営業を開始したのは2000年も暮れに迫る12月になってからだったと記憶している。このあたりからの日本の歴史はいずれ書くことにする。
さらにこの2000年秋頃には1000万ドル(現金は300万ドル)程度を投じ、ごく小さな企業を4社買収した。ハードウェア以外のサポートやプロフェッショナル事業を強化するためにヘルプデスク施設、マネージドサービス部隊、幾つかのソフトウェア資産を取得した。
この頃、株式市場は既に崩壊が鮮明になっていたし、VA社自身は徐々に巨額の買収で発生したのれんの償却が財務諸表を痛めていたものの、VA社の本業のハードウェアビジネスはまだ高度の成長を継続できており、戦線拡大も正当化されていた。
しかし、株式市場の崩壊はVA Linux社の顧客の中心であるドットコム企業を徐々に蝕んでいた。
急激な暗転
2000年も年末が近づいたVA社の第2四半期頃、株式市場の低迷はほぼIT関連銘柄全てに波及し、不況が鮮明になりつつあった。VA社の株価は11月に入るとIPO価格を一気に下回るようになり、もはや小さな買収案件すら実行するのは難しい状況になった。あたりを見渡せば資金の供給が途切れたドットコム企業が破綻するケースが目につくようになってきており、足下のハードウェアビジネスのセールスも苦戦の傾向が出てきていた。
そして年が開けた第2四半期(2001年1月期)の決算にて衝撃的な数字が出る。売上がとうとう減収の4200万ドル、しかも粗利がマイナスの700万ドル、販管費等にほぼ増減はなかったものの秋に行った買収費用とのれん償却を合わせ7500万ドルの損失となった。売上の確保のために大幅のディスカウントを営業部隊が敢行しながらも、そもそも売り先がどんどんと細っていく状況なのは明らかだった。ドットコム企業の人気に頼っていたVA社は他の大手ベンダーのような多彩な販路も値下げに耐える資金力もない。他社もドットコム崩壊の影響で売上確保に走る中、競り負けるのは当然の流れであった。そして、株価はもはや期待できず、保有する現金も目減りの傾向がはっきりしてきていた。
VA Linux社の経営陣はパニックに陥った。
VA Linux社の行動は売上の急成長で正当化されていたが、その前提が崩れたため至急の措置が必要だった。(なお、映画「Revolution OS」の話題の時に触れた最初の試写会はちょうどこの時期のことである。当日はおそらく経営幹部はこの状況を把握していたのだろう。)
そして、2月末までにリストラ案がまとめられ、即座に実行された。10ヶ月前に買収したTruSolutions社のサンディエゴ施設は閉鎖され、そこで働く全従業員が解雇となった。また、ほんの数ヶ月前に買収したばかりの4社の資産と従業員も全てリストラ対象となり、ヘルプデスク施設、マネージドサービス部隊、ソフトウェア資産などの得たばかりの資産は全て手放された。従業員の解雇は全従業員の20%にあたる110名に上り、リストラ費用として4340万ドルが計上された。
この時のリストラはVA Linux社のフリーモントの本社部隊と子会社のOSDN社の従業員には影響せず、パニックバイの項でも述べたような二重の投資となっていた部分を取り除くものだった。本社従業員には及ばないことから士気にも過度に影響せず、販売管理費を必要なレベルにまで圧縮できるという算段だったと思う。
しかし、このリストラによって新規のサーバー製品の開発計画が大幅に縮小されたため、売上のほとんどを稼ぐハードウェアビジネスの今後が一気に不透明になってしまった。特に1Uラックマウント製品の計画が明らかに遅延し始めた。また、粗利がマイナスになるというまるで100ドル札をつけて製品を売っているような状況を根本的に脱する手段は特になく、クラスタおよびストレージ管理、リモート監視といった機能を強化したり、プロフェッショナルサービスの販売を拡充するといった方策を取ったり、OSS開発者ではなくハードウェアビジネスの営業経験が長い幹部クラスの人材採用を強化する方向に舵を切った。この頃、ハードウェア製品に頼らないビジネスとしてSourceForge.netを動作させているAlexandriaコードを社内開発に活用するSourceForge OnSite、そしてVA社のOSS開発者陣が加わる受諾開発にも急遽乗り出した。
ハードウェアビジネスからの撤退
110名のリストラ発表の直後となる3月7日、1999年の年末商戦の覇者であり、当時のEコマース業界の雄であったeToys.comが破綻した。Amazon.comとToys “R” Usが組んだ連合に対抗して流通および配送関連に巨額の設備投資を行っていたが、2000年の年末商戦で想定よりもはるかに低いビジターしか獲得できず、Amazon + Toys“R”Usに後塵を拝することになった結果、資金ショートを起こしたのである。eToys.comは中身のないドットコム企業ではなかったが、一つ想定がずれれば即座に資金が枯渇する当時のドットコム不況の状況を象徴する出来事だった。
eToys.comはAkamaiのような大口とまではいかないもののVA Linux社の重要な顧客の内の一社であり、その破綻は社内の士気に相当の影響を及ぼしたと思う。
前項でのリストラや細かな施策を実施し、業績が好転することをVA社は願った。新しく意欲的な設計、デュアルPentium III、4GBメモリー、2台のホットスワップHDDの1Uサーバーもこの5月初頭に発表した。また、第3四半期の決算発表の直前の5月30日にはLinuxWorld TokyoのためにCEOのLarryや何人かのOSS開発者、Slashdot.orgのCmdrTacoとHemosらが来日していたが、当時はまだ将来への希望を失わず、更なるハードウェアの新製品や新サービスにも前向きで、欧州と日本でのビジネス拡大にも意欲的だったことを記憶している。
そしてLinuxWorld Tokyoの直後に第3四半期(2001年4月期)の結果が出た。これはさらに衝撃的なものであった。
売上は2000万ドルに留まり、IPO直後の数字にまで戻ってしまった。しかも粗利は500万ドルのマイナスに沈み、先述のリストラ費用の4340万ドルやのれん償却を含めると1億ドルの損失となった。保有する現金は6000万ドル台にまで縮小し、IPO時から半減していた。
まわりを見渡せばベイエリアに失業者が溢れだし、ドットコムの破綻が続いていた。このような状況ではもはや以前の売上水準に戻すことは困難に思われたし、何よりも黒字化を見通すのは絶望的だった。何しろ売り先がないのである。そこで、数カ月前のリストラのような策ではなく、現金が溶け続けることを完全に止めることが取締役会に求められた。
この頃、CEOのLarryから日本側に在庫を購入して欲しい旨の電話があったことをうっすらと記憶しているが、Larryは最後まで祖業であり圧倒的なメインビジネスであるハードウェア事業を守るために抵抗はしていたのだろう。
2000年6月、VA Linux Systems社は、Linuxハードウェアビジネスから撤退を決めた。
この時期になったのはちょうど7月末が彼らの年度末になり、新しい施策で株主総会に挑みたいという事情があったのだろう。7月10日がハードウェア製品受注の最終日と設定され、全てのハードウェア出荷は7月28日までに完了された。この撤退の決定によりハードウェア製品に関わる160人の従業員が解雇となり、本社とOSDN社以外の米国および欧州の営業サポート拠点は全て閉鎖された。2000年度全体ではリストラ費用として1億1000万ドル、のれんと株式報酬の償却で1億6000万ドル、減損処理で1億6000万ドルがそれぞれ計上され、合わせて4億3000万ドルが消えた。
ハードウェアビジネスから撤退したVA Linux社には、Linux/OSSのプロフェッショナルサービス、受諾開発、そしてOSDN社の事業が残された。そして、数カ月前に場当たり的に開始したばかりのSourceForge OnSiteサービスを今後のメインビジネスとすることにした。祖業であるハードウェアビジネスが消滅し、売上は激減することになったが、とりあえず数年単位で資金の枯渇を心配しなくても良いレベルにまで販管費が削減され、会社の消滅だけは避けられた。
(参考) VA Linux社の四半期売上、粗利の推移 (単位:千米ドル) 売上 粗利 1999.10 14,848 1,961 2000.1 20,191 2,835 2000.4 34,595 6,156 2000.7 50,662 11,163 2000.10 56,062 12,612 2001.1 42,513 (7,147) 2001.4 20,334 (4,795) 2001.7 15,981 (19,883)
さらば、オープンソース
ここからは少し日本、VA Linux Systems Japan社からの視点で書いておく。
6月のハードウェアビジネス撤退の一報は一般へのアナウンスのしばらく前にLarryから日本側へも届いたのは記憶にある。
日本側の合弁を主導する住友商事側には住商エレクトロニクスおよび住商情報システムという大きな子会社が存在しており、そこからいくらでも他社製のサーバーを調達できることから汎用的なパーツで構成されるIAサーバーに魅力を感じることはなかったし、LinuxのエキスパートがOSを組み込んだサーバーというものには魅力を感じていたが、ハードウェアはVA Linux製でなくても構わないことであった。住友商事はVA Linux社のLinuxとオープンソースの専門性に投資していたのである。
Larryからの一報でつい数週間前にLinuxWorld Tokyoで大々的にVAサーバー製品をお披露目していた日本側には非常に大きな動揺が走ったことは記憶にあるが、他の合弁パートナーに関しても基本的にわざわざ米国から船便か航空便で輸入しなければならない単なるIAサーバーには大きな関心はなく、VA社のカーネルレベルからの専門性を買っていた。
このような状況であったため、日本側では営業活動を開始した直後に撤退を突きつけられたというタイミングに憤り、そして将来への不安を感じてはいたものの、VA Linux社が誇るオープンソース開発者陣が基本的に全て残され、ソフトウェアビジネスを中心に持っていくという決定は割とすんなり受け入れていた。大雨過ぎるというか台風という気もするが、雨が降った後に地固まる的な捉え方もしていた。
そのため、今後のLinux/OSSのプロフェッショナルサービスやOSDN社の事業の連携を話し合うことが重要と考え、8月末のサンフランシスコのLinuxWorld開催に合わせ、フリーモントのオフィスをVA Japan社のメンバーが訪問することになった。そのメンバーに私も当然含めれていた。既に日本ではSlashdot Japanが開始され、次はVA社のLinux/OSS開発者陣のナレッジをどのように日本で展開するべきなのか?ということを私は考えていたし、そもそも単純に開発者陣にまた会うことを楽しみにしていた。
オフィスに到着後、一人の幹部社員が入り口まで迎えに来て、そして何故かまっすぐに一番奥の会議室へ通された。1000人以上のの社員を収容できる社屋はほとんどが空っぽで、数十人のOSS開発者陣が一角に固まっていた。Ted Ts'oやJeremy Allisonらのデスクがあるのはすぐに分かったが、まっすぐに会議室へ通されたため誰とも話すことはできなかった。遠目だがTed Ts'oのデスクに4月に開催された第一回目のLinux Kernel Summitの看板が飾られているのは見えた。
会議室にて着席早々、自己紹介すら行う前に幹部社員は「来週、オープンソースのプロフェッショナルサービスから撤退し、あそこにいる連中は全員解雇される」と我々に告げた。
何を言われたのか最初はうまく理解できなかった。日本側には全くの想定外のことだったので何度か詳細を聞き直したが、そもそも説明している幹部社員自身も解雇が決定していることを知り、それ以上聞くのをやめた。当日残っていたOSS開発者陣はその決定を知らないので一切声をかけないでほしいと要請されたため、我々は誰とも話さずに早々に社屋から離れ、翌日にはコーナーストーンのVA Linux社がぽっかりと消えたLinuxWorldをほんの少しだけ確認し、そして帰国した。
日本側は後から気付くことになるが、ようはハードウェアビジネスからの撤退ではなく、VA Linux社の既存ビジネスから全て撤退するということが規定路線だったのである。しかし、CEOのLarryも取締役の一員である ESRもその決断をすることを強くためらったのだろう。Larryが心血を注いで集めた数十人のOSS開発者陣は一時的にプロフェッショナルサービス部門として残され、そこで大きなビジネスの獲得ができれば残されるし、 大手ベンダーへ部門売却でもできればさらに良いとでも考えていたようだ。Larryは自分が作り上げたオープンソースのチームだけは壊したくなかったのだろうが、これは当時の情勢下では宝くじを当てに行くようなものであった。
翌週の2001年9月3日、プロフェッショナルサービス部門で残されていた数十人のOSS開発者は全員解雇された。
1998年2月3日のVA社でのオープンソース誕生から3年7ヶ月、IPOからは1年9ヶ月、最初のリストラからは7ヶ月の時間が経過していた。VA Linux社の本社の事業はこれでほぼ空っぽとなり、ボストンに本拠を構えていた 子会社のOSDN社を管理するだけのような上場会社になってしまった。
この翌週の9月14日にはLinux Kernel ConferenceをVA Japan社側で企画し、デスクだけを遠目に見かけたTed Ts'oを招聘済みだったのだが、彼はこのような状況でも東京へ来ると言っていた。しかし、9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、彼はボストンから動けなくなってしまった。この一連の出来事は日本側にとっては彼らとの別離を実感させられ、独自のビジネスを決断する一つのきっかけとなった。
話をVA社本体へ戻すと、SourceForge Onsiteのビジネスは形式上残されており、子会社のOSDN社が保有するSourceForge.netというブランドを活用しつつ、一から作り直してエンタープライズ向けのプロプライエタリ製品に仕上げ、Rationalのような製品ラインに持っていくという計画が示された。OSS開発者の代わりにVA社にはJava系のプロプライエタリ製品の開発が長い人材の採用を開始した。
そう、オープンソースの生みの親であるVA Linux Systems社はここで完全にオープンソースを否定したのである。
UberGeeksのその後
これらの一連のVA Linux社のハードウェアを捨て、オープンソースからプロプライエタリという大胆な業態変更を見届け、Eric Raymondは翌年の2002年4月に取締役を退任した。彼はそれ以降、民間の営利企業への所属はせず、一人のハッカーとして過ごしている。
創業者のLarry Augustinも翌年の2002年7月末期でCEO職を退任した。これでVA Linux社には社名の"A"もいなくなり、Linuxどころかオープンソースと関わりが薄い者だけがごくわずかに残された。その後のLarryは、シリコンバレーのとあるベンチャーキャピタルのパートナーとなり、DotNetNuke、JBoss、XenSource、SpringSource、Pentaho、DeviceVM、Compiere、FonalityといったOSS関連企業へ投資し、そのような縁からShgerCRMのCEOとなり、今に至っている。
2001年6月と9月で解雇された大勢のVA自慢のUberGeeksたちは、Rastermanなどのように出身国や田舎に帰った者、そのまま引退した者、Ted Ts'oなどのように大手ベンダーのLinuxセンターような部署に就職した者、Chris DiBonaなどのように当時は謎の検索サービス会社だったGoogleに入社した者あたりに分けられる。SVLUGの幹部陣だったVA社のメンバーの多くはいつの間にかGoogleに入社し、SVLUGコミュニティやVA Linuxが支援していた多くのOSSプロジェクトのインフラはいつの間にかGoogleが支援するようになった。そして、いつの間にか彼らはGoogle Code、Google Summer of Codeといったプロジェクトを主導するようになった。
また、オーストラリアに帰ったはずのRastermanとSimon Hormsの両名は何故かいつの間にか日本へ渡り、VA Linux Systems Japan社へ入社する。これは日本側がオープンソースを諦めていなかったことを聞きつけたからである。
考察
VA Linux社はこの時点で本体には実質何の事業も残されていなかったが、子会社のOSDN社の存在があったし、また会社は存続しており、現金も6000万ドル程度残されていた。これを崩壊と表現するのは正しくないのかもしれないが、祖業であるLinuxハードウェアビジネスも自身が作り出したオープンソースビジネスも全てから撤退し、バランスシートには6億ドルの累積損失としてその傷跡が残されたという事実からすれば、VA Linux社はこの時点で崩壊したと捉えて良いと私は思っている。
さて、このVA Linux社は何故崩壊したのだろうか?
当時はいろいろ言われた記憶がある。OSS開発者を甘やかしすぎた、マーケティングで金を使いすぎたといったあたりは最も頻繁に聞かされ、うんざりさせられた言説である。当時のVA社の社員からもそんな話をされたことがあるので、OSS関係者とそうでない者の間に何らかの軋轢があったということは事実なのだろうし、割と稟議がザルだった記憶はある。何しろ私のニューヨークへの出張時のホテルの費用を彼らは勝手に支払っていたこともあるぐらいだ。ただし、それと崩壊は全く結びつかないと考える。
VA Linux社はたった10名規模の会社の時代に生み出したオープンソースという言葉のブランド一本でのし上がってきた会社である。最初からオープンソースの会社であることを理解して入ってきた社員がほとんどであったし、OSS開発者らと待遇の面で明確な差があったということも私には記憶にない。OSSプロジェクトへの所属は会社として奨励されたし、インフラで困っているOSSプロジェクトがあればサッとサーバーと回線を提供し、遠くのイベントにOSS開発者が行きたいと言えばサッと旅費が出た。
ただ、それだけのことである。
現代の進んでいる会社ではこれは普通のことであるし、実際にこのような費用でVA社が傾いた形跡は全くない。2001年にはVA社としては最大となる1800万ドルの研究開発費を投じているが、ハードウェア開発がその多くを占めており、総額としてもVA社を崩壊させる要因の一つとは全く思えない。オープンソースに集中し過ぎて開発者が本業に集中しなかったという論も多かったが、あまりにも開発者を馬鹿にした論で論考する必要もないだろう。
マーケティング費用に関しても、VA社はLinuxWorld Expoには多大な予算を投じてはいたが、それ以外はさほど大きな予算を投じることはなかったように記憶している。IPOまではVAらしくオープンソース活動をこなしていれば勝手にメディアが注目してくれたし、OSDN社という存在ができてからは広告費もかけずに済むようになった。
つまり、VA社の崩壊とOSS開発者やマーケティング費用はリンクしない。当時はオープンソースという言葉自体がVA社の内外で強く否定されていたので分かりやすいスケープゴートにされていたのだろう。大したコストが かからないLinu/OSSのプロフェッショナルサービスの部隊を解雇してしまったのは、株主を中心とした方面からのオープンソース否定論に耐えられなかったのだと私は考えている。
VA Linux社の崩壊の要因として最もそれらしく聞こえるのは、IAサーバーの販売に頼るハードウェア偏重のビジネスモデルが原因との論である。
1999年あたりまではそもそも薄型のラックマウント型サーバーでLinuxをプリインストールして出荷する大手ベンダーは存在しなかったので、ある意味VA Linux社の独壇場だった。IPO直前あたりから世間のLinux熱が上昇し、それに押されるようにDellを皮切りにLinuxモデルを出荷するようになり、2000年はLinux市場自体は急激に拡大したものの、VA Linux社にとってはDell, HP, Compaq, Sun, IBMといった強力な競合が出現するという状況になった。そして、バブル崩壊の影響が出始めLinux市場も一時的に冷え込んだ時、より後退が深刻な商用UNIXラインを持つような大手ベンダーは相対的に安価となるLinuxサーバーに注力せざるを得なくなり、結果的にLinuxサーバー市場は会社規模が大手よりもはるかに小さく、そしてプリインストールのOSに対してより大きな手間をかけるVA Linux社には耐え切れない価格競争の場になった。
2001年1月期あたりからの「100ドル札を付けてサーバーを売る」と私が表現したのは正にこのような状況を指している。
CEOのLarryはIPO直前あたりに「当社はSunの性能のマシンをDellの価格で売る」とよく言っていた。それが一年後にはDellの性能のマシンをSunの価格で売るということを強いられてしまったことは事実であり、ハードウェアビジネスのがVA社を傾かせたというのは確かなことである。
ただ、オープンソース誕生の会議に出席していたVA社の幹部の一人であったSam Ockmanが1998年に独立し、ほぼ全てのシステムでVA Linux社を模したPenguin Computing社が、この2017年の段階でも当時に近いハードウェアビジネスを展開し、HPC市場では存在感を発揮していることや、VA Linux社のハードウェア撤退時にラックマウント製品の設計を買い取ったCalifornia Digital社がLinuxサーバーを10年以上売り続けたことを考えると、Linuxのハードウェアビジネスモデルでもやり方次第だったのではないかと思う。ハードウェアビジネスだけを考えれば、生産設備や製品ポートフォリオの抑制等の手段が考えられただろう。
また、VA Linux社は受諾開発とプロフェッショナルサービスのチームも2000年には拡大させており、ハードウェアが収縮していったとしても、オープンソースのソフトウェアビジネスに軸足を徐々に移すということもあり得たはずである。実際、大株主の一社である住友商事はIAサーバーではなく、オープンソースのソフトウェアビジネスに将来的に移行することに期待し、忠告も行っていた。また、CEOのLarryは前述の「Sunの性能でDellの価格」という言葉以外に「VA LinuxはハードウェアではなくLinuxとオープンソースの専門性を売っている」という発言も好んでしていた。彼自身、いずれハードウェアよりもオープンソースソフトウェア主体のビジネスになっていくことは想定していたと私は考えている。
これが許されなかったのは、当時のドットコム不況によりとにかく結果が読めない支出が嫌われ、保有資金を防衛することが望まれたためであるが、そこまでの財務状況を作り出したのは本業のビジネスではなく、IPO後の買収だと考えている。
特に私がパニックバイと称したTruSolutions社とNetAttach社の買収は明確な失敗だったし、これがなければVA Linux社のビジネスは少なくとも延命していただろうと思っている。この買収では株式以外に貴重な2000万ドルの現金が支払われ、販売網は基本的にはvalinux.comのWebだけであるにも関わらず、それでいて設備も人材も二重に投資する状況になってしまった。1UとNAS用のハードの設計だけが本当に必要だったものであったが、冷静に考えればそれ以外の資産が全て不良債権化することは明らかだった。この買収には巨額ののれん代も計上されたため、この償却でも行き詰まることになった。
そして、そもそもこの二社を買収することになったのは、その一ヶ月前のAndover.netの買収の評判が芳しくなかったことが契機だと私は考えている。ESRが自賛しているように最終的に残ったOSDN社はAndover.net社そのものであるので買収が失敗だったとは言えないのだが、VA Linux社のLinux/オープンソースビジネスを発展させていくという観点からは失敗だった。
IPOの直後にAndover.net社ではなく、SuSEやSGI、もしくはその他のVA Linux社の本業を補完する企業を買うのが正解だったのかもしれないし、株主からの圧力があったとしてもそこはVA Linuxとしての本業に集中するべきだったのかもしれない。それでも、おそらくはドットコムバブル崩壊後の不況により、いずれハードウェアビジネスは試練を迎えていたと思うが、これらの買収が現実とは異なる判断であった場合、たった1年後に無様な醜態を晒すことはなかった可能性の方が高かっただろう。
次回は空っぽになったVA Linux社のその後をできれば終焉まで書く。
その次にVA Japan社についてでも少しだけ書いて、一連のシリーズは終了させようと思う。