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日記

kazekiriの日記: ドットコムバブルの終焉とVA Linux Systemsの崩壊

日記 by kazekiri

https://shujisado.com/2017/07/18/13343027/へ移転

LinuxWorldの基調講演という場で華々しく発表されたAndover.netの買収はオープンソースコミュニティへは大きなインパクトを与えたが、市場の反応はその逆だった。ハードウェア事業とはかけ離れた事業に大きく投資する意味を当時では見出すことは難しいことは容易に想像できる。そのため、VA Linux社はまた即座に行動しなければなかった。

このあたりからVA Linux社の歯車が狂ったように私は考えているが、この2000年2月から崩壊までのVA Linux社の行動を追う。

パニックバイ

3月に入り、VA Linux社は上場後初めての四半期決算の発表を行う。売上はわずかながらのとうとう2,000万ドルを越え、粗利も増加し、1,000万ドルの損失を出しながらも成長率を加味すれば割と明るい決算だったように思う。

ただ、これも市場の大き過ぎる期待に応えるものではなかった。

Andover.net買収による市場の反応がどこまで影響したのかは分からないが、VA Linux社は自社のハードウェアビジネスに「即効的」に寄与すると思われる企業の買収に乗り出した。ここで再度 SGI社の買収を検討したのかどうかは正確には分からないが、おそらくAndover.netの合併作業で数カ月消耗することが分かっていたので、このタイミングでは短期でディールを完了させることができる買収を優先したと思われる。つまり、SGI社の選択肢は消えていた。

ここで浮上したのがIntelとSPARCの2ラインのラックマウントサーバーの製造会社であるTruSolutions社とハイエンドNASの製造を手がけるNetAttach社であり、Andover.net買収のわずか一ヶ月後の3月15日に VA Linux社は両社の買収を発表する。180万株の株式(2億ドル相当)と2,000万ドルの現金が両社の買収のために注ぎ込まれた。その2億ドルがほぼそのままのれんとしてバランスシートに計上され、また両社の100名弱の従業員とサンディエゴ、サンタクララの拠点がVA Linux社の所属となった。

この両社の買収は一見VA Linux社のハードウェアビジネスを強化するように見えた。

TruSolutions社は SPARCラックマウントサーバーの製造で現地では知られていたが、2000年当時ではSPARCよりもIntelサーバーにやや傾倒しており、VA社および他の大手ベンダーと比較してもより集積度の高い設計の1Uラックマウントサーバーの製造を行っていた。この頃には薄型ラックマウントサーバーに大手ハードウェアベンダーも本気を出しつつあり、VA Linux製品のハードウェアの優位性がやや縮まっていたことからTruSolutions社の買収は正解に見えた。

NetAttach社は特に売上も上げていない状況だったが、NASストレージの市場は拡大が見込め、またVA Linux社にはNFS for Linux、Sambaのコア開発者が所属していたこともあり、VA社の製品ポートフォリオにNASが加わることも正解に見えた。

結論を先に書けば、私としてはこの両社の買収はサッカーの世界でよく使われるパニックバイであったように捉えている。

TruSolutionsのIAサーバーは確かに当時のVA社よりは一歩進んでいた。しかし、VA社と同じように汎用パーツの集まりに過ぎず、1U製品の設計を買ったということにしてはかなり高額な買収だった。また、VA社はSynnex社との契約により、全ての製造をSynnex社内に構築したVA Linux専用の施設にて製造を行っており、TruSolutionsのサンディエゴの拠点が完全に無駄な資産となってしまった。これに加え、従業員のコストがのしかかることになってしまった。NetAttach社に関しても、ほぼ同様の理由で製品、施設、従業員と全てが二重投資のような状況になってしまっていた。これで売上面で寄与があればまだ良かったが、NetAttach社はまだ売上がない状況であったし、TruSolutions社にしても非常に小さな売上しかなく、その面でも期待はできなかった。

この買収は完全に無駄であったとは言えないが、確実にVA社の体力を削ることになったのは間違いないだろう。

株式市場の崩壊

TruSolutions社とNetAttach社の買収発表の数日前となる3月10日、NASDAQ総合指数は終値ベースで過去最高値となる5048.62を記録した。これがドットコムバブルのピークとなり、2002年の終わり頃までの2年以上の間、NASDAQ市場は一直線に下降を続けた。ピークを打った3月に関しては楽観的な空気がまだ支配していたものの、4月になる下落がさらに鮮明になると少しずつ市場に混乱が広がっていたように記憶している。

このNASDAQ市場の壊滅的な下落の開始により、VA Linux社をはじめとするLinux関連各社の株価は4月にはほぼIPO価格付近にまで下がった。

市場は混乱が広がりつつあったが、VA社の内部は相変わらず楽観的かつ強気な見方が支配していた。これは足元の業績がまだ大きな拡大成長を遂げていることが分かっていたからである。

先に述べた2000年第2四半期の決算では売上は2,000万ドルだったが、次の4月末までの第3四半期の決算では3,500万ドルにまで急激に増加した。粗利も増加し、先の二社の買収関連費用を差し引けば600万ドル程度にまで損失が減った。オープンソース/Linux市場および自社の製品ポートフォリオの拡大により、この勢いはさらに続くものと見込めたし、VA社には1億2000万ドルの現金が残されていたことも市場の動揺と自社は無縁であるとVA社の経営陣に思わせることにつながった。

しかし、3月の買収時にはまだ100ドルの株価が付いていたが、4月にはIPO価格と同等になってなったという事実は非常に大きな問題を発生させていた。もはや大規模な株式による買収や市場からの資金調達が困難になったということである。

6月に合併が完了する予定のAndover.netがVA Linux社の本業であるハードウェアビジネスに大きく寄与することがないことは明らかだったので、VA社はこの時点で残された資産のみを使っての成長を達成することを求められることになったと言える。

継続する成長と戦線拡大

次の2000年7月末までの第4四半期には前回触れたAndoover.net社の合併が完了し、即座にAndover.net社はOpen Source Development Network社に改名され、VA社の子会社となった。この頃にはバナー広告の販売も安定し始め、またThinkGeek.comでの物販もわずかながらも数字を出すようになり、OSDN全体では500万ドル程度の四半期売上を計上できるようになっていた。

本体のVA Linux社については、株式市場が相変わらず下降を続けながらも、サーバー製品は好調な売上を見せていた。第4四半期(2000年7月期)の売上はとうとう5,100万ドルに達した。年間では1億2000万ドルの売上となり、この瞬間、VA Linux社はLinux/オープンソース業界で初めての1億ドルの売上を越える会社となった。

この勢いのまま次の第1四半期(2000年10月期)には売上が5,600万ドルに達し、粗利は1,260万ドルとこのままの勢いであれば黒字化も遠くはないし、まだまだ成長できると誰もが信じていた。

この高度の成長を支えるため、7月には手狭となっていたサニーベールの社屋からサンフランシスコ湾の対岸に位置するフリーモントに本社オフィスを移転した。VA Linux社連結全体としては2000年夏の段階で500名の社員を抱えるようになっていたが、OSDN(Andover)やTruSolutionsの社員は独自のオフィスを構えていたので、フリーモントに引っ越したのは200名ほどであったのだが、フリーモントの新社屋は1,000名以上の従業員を収容できるスペースがあった。つまり、VA社の経営陣はまだまだ「VA Linuxの成長は止まらない」と、この時点で考えていた。

また、同時期の夏の間にイギリス、ドイツ、フランス、オランダ、ドイツ、スイスといった欧州の主要国にVA Linux社のセールスとサポートの拠点を設置し、オランダでは当時のDebian ProjectのリーダーであるWichert Akkermanが雇用された。私の記憶の中では、彼は獅子奮迅の働きで欧州までの製品の通関と域内でのサポートの面倒を見ており、米国側の様々な不備をCEOのLarryに対して遠慮なくぶつけていたのを思い出すが、拠点の拡大に人が追いつけない状況だったということだろう。

欧州から少し遅れ、シリーズB投資ラウンドに参加していた住友商事は満を持して、9月にVA Linux Systems Japan社を日米での合弁方式で設立する。9月に設立はしたものの欧州で既に混乱が見られたように米国側の戦線拡大路線に人が追いつかず、人がアサインできないために結局社長は住友商事の投資時からの担当者がそのまま就任することになった。また、製品の出荷、通関フローに問題があり、まともに営業を開始したのは2000年も暮れに迫る12月になってからだったと記憶している。このあたりからの日本の歴史はいずれ書くことにする。

さらにこの2000年秋頃には1000万ドル(現金は300万ドル)程度を投じ、ごく小さな企業を4社買収した。ハードウェア以外のサポートやプロフェッショナル事業を強化するためにヘルプデスク施設、マネージドサービス部隊、幾つかのソフトウェア資産を取得した。

この頃、株式市場は既に崩壊が鮮明になっていたし、VA社自身は徐々に巨額の買収で発生したのれんの償却が財務諸表を痛めていたものの、VA社の本業のハードウェアビジネスはまだ高度の成長を継続できており、戦線拡大も正当化されていた。

しかし、株式市場の崩壊はVA Linux社の顧客の中心であるドットコム企業を徐々に蝕んでいた。

急激な暗転

2000年も年末が近づいたVA社の第2四半期頃、株式市場の低迷はほぼIT関連銘柄全てに波及し、不況が鮮明になりつつあった。VA社の株価は11月に入るとIPO価格を一気に下回るようになり、もはや小さな買収案件すら実行するのは難しい状況になった。あたりを見渡せば資金の供給が途切れたドットコム企業が破綻するケースが目につくようになってきており、足下のハードウェアビジネスのセールスも苦戦の傾向が出てきていた。

そして年が開けた第2四半期(2001年1月期)の決算にて衝撃的な数字が出る。売上がとうとう減収の4200万ドル、しかも粗利がマイナスの700万ドル、販管費等にほぼ増減はなかったものの秋に行った買収費用とのれん償却を合わせ7500万ドルの損失となった。売上の確保のために大幅のディスカウントを営業部隊が敢行しながらも、そもそも売り先がどんどんと細っていく状況なのは明らかだった。ドットコム企業の人気に頼っていたVA社は他の大手ベンダーのような多彩な販路も値下げに耐える資金力もない。他社もドットコム崩壊の影響で売上確保に走る中、競り負けるのは当然の流れであった。そして、株価はもはや期待できず、保有する現金も目減りの傾向がはっきりしてきていた。

VA Linux社の経営陣はパニックに陥った。

VA Linux社の行動は売上の急成長で正当化されていたが、その前提が崩れたため至急の措置が必要だった。(なお、映画「Revolution OS」の話題の時に触れた最初の試写会はちょうどこの時期のことである。当日はおそらく経営幹部はこの状況を把握していたのだろう。)

そして、2月末までにリストラ案がまとめられ、即座に実行された。10ヶ月前に買収したTruSolutions社のサンディエゴ施設は閉鎖され、そこで働く全従業員が解雇となった。また、ほんの数ヶ月前に買収したばかりの4社の資産と従業員も全てリストラ対象となり、ヘルプデスク施設、マネージドサービス部隊、ソフトウェア資産などの得たばかりの資産は全て手放された。従業員の解雇は全従業員の20%にあたる110名に上り、リストラ費用として4340万ドルが計上された。

この時のリストラはVA Linux社のフリーモントの本社部隊と子会社のOSDN社の従業員には影響せず、パニックバイの項でも述べたような二重の投資となっていた部分を取り除くものだった。本社従業員には及ばないことから士気にも過度に影響せず、販売管理費を必要なレベルにまで圧縮できるという算段だったと思う。

しかし、このリストラによって新規のサーバー製品の開発計画が大幅に縮小されたため、売上のほとんどを稼ぐハードウェアビジネスの今後が一気に不透明になってしまった。特に1Uラックマウント製品の計画が明らかに遅延し始めた。また、粗利がマイナスになるというまるで100ドル札をつけて製品を売っているような状況を根本的に脱する手段は特になく、クラスタおよびストレージ管理、リモート監視といった機能を強化したり、プロフェッショナルサービスの販売を拡充するといった方策を取ったり、OSS開発者ではなくハードウェアビジネスの営業経験が長い幹部クラスの人材採用を強化する方向に舵を切った。この頃、ハードウェア製品に頼らないビジネスとしてSourceForge.netを動作させているAlexandriaコードを社内開発に活用するSourceForge OnSite、そしてVA社のOSS開発者陣が加わる受諾開発にも急遽乗り出した。

ハードウェアビジネスからの撤退

110名のリストラ発表の直後となる3月7日、1999年の年末商戦の覇者であり、当時のEコマース業界の雄であったeToys.comが破綻した。Amazon.comとToys “R” Usが組んだ連合に対抗して流通および配送関連に巨額の設備投資を行っていたが、2000年の年末商戦で想定よりもはるかに低いビジターしか獲得できず、Amazon + Toys“R”Usに後塵を拝することになった結果、資金ショートを起こしたのである。eToys.comは中身のないドットコム企業ではなかったが、一つ想定がずれれば即座に資金が枯渇する当時のドットコム不況の状況を象徴する出来事だった。

eToys.comはAkamaiのような大口とまではいかないもののVA Linux社の重要な顧客の内の一社であり、その破綻は社内の士気に相当の影響を及ぼしたと思う。

前項でのリストラや細かな施策を実施し、業績が好転することをVA社は願った。新しく意欲的な設計、デュアルPentium III、4GBメモリー、2台のホットスワップHDDの1Uサーバーもこの5月初頭に発表した。また、第3四半期の決算発表の直前の5月30日にはLinuxWorld TokyoのためにCEOのLarryや何人かのOSS開発者、Slashdot.orgのCmdrTacoとHemosらが来日していたが、当時はまだ将来への希望を失わず、更なるハードウェアの新製品や新サービスにも前向きで、欧州と日本でのビジネス拡大にも意欲的だったことを記憶している。

そしてLinuxWorld Tokyoの直後に第3四半期(2001年4月期)の結果が出た。これはさらに衝撃的なものであった。

売上は2000万ドルに留まり、IPO直後の数字にまで戻ってしまった。しかも粗利は500万ドルのマイナスに沈み、先述のリストラ費用の4340万ドルやのれん償却を含めると1億ドルの損失となった。保有する現金は6000万ドル台にまで縮小し、IPO時から半減していた。

まわりを見渡せばベイエリアに失業者が溢れだし、ドットコムの破綻が続いていた。このような状況ではもはや以前の売上水準に戻すことは困難に思われたし、何よりも黒字化を見通すのは絶望的だった。何しろ売り先がないのである。そこで、数カ月前のリストラのような策ではなく、現金が溶け続けることを完全に止めることが取締役会に求められた。

この頃、CEOのLarryから日本側に在庫を購入して欲しい旨の電話があったことをうっすらと記憶しているが、Larryは最後まで祖業であり圧倒的なメインビジネスであるハードウェア事業を守るために抵抗はしていたのだろう。

2000年6月、VA Linux Systems社は、Linuxハードウェアビジネスから撤退を決めた。

この時期になったのはちょうど7月末が彼らの年度末になり、新しい施策で株主総会に挑みたいという事情があったのだろう。7月10日がハードウェア製品受注の最終日と設定され、全てのハードウェア出荷は7月28日までに完了された。この撤退の決定によりハードウェア製品に関わる160人の従業員が解雇となり、本社とOSDN社以外の米国および欧州の営業サポート拠点は全て閉鎖された。2000年度全体ではリストラ費用として1億1000万ドル、のれんと株式報酬の償却で1億6000万ドル、減損処理で1億6000万ドルがそれぞれ計上され、合わせて4億3000万ドルが消えた。

ハードウェアビジネスから撤退したVA Linux社には、Linux/OSSのプロフェッショナルサービス、受諾開発、そしてOSDN社の事業が残された。そして、数カ月前に場当たり的に開始したばかりのSourceForge OnSiteサービスを今後のメインビジネスとすることにした。祖業であるハードウェアビジネスが消滅し、売上は激減することになったが、とりあえず数年単位で資金の枯渇を心配しなくても良いレベルにまで販管費が削減され、会社の消滅だけは避けられた。

(参考) VA Linux社の四半期売上、粗利の推移 (単位:千米ドル)

          売上    粗利
1999.10  14,848    1,961
2000.1   20,191    2,835
2000.4   34,595    6,156
2000.7   50,662   11,163
2000.10  56,062   12,612
2001.1   42,513   (7,147)
2001.4   20,334   (4,795)
2001.7   15,981  (19,883)

さらば、オープンソース

ここからは少し日本、VA Linux Systems Japan社からの視点で書いておく。

6月のハードウェアビジネス撤退の一報は一般へのアナウンスのしばらく前にLarryから日本側へも届いたのは記憶にある。

日本側の合弁を主導する住友商事側には住商エレクトロニクスおよび住商情報システムという大きな子会社が存在しており、そこからいくらでも他社製のサーバーを調達できることから汎用的なパーツで構成されるIAサーバーに魅力を感じることはなかったし、LinuxのエキスパートがOSを組み込んだサーバーというものには魅力を感じていたが、ハードウェアはVA Linux製でなくても構わないことであった。住友商事はVA Linux社のLinuxとオープンソースの専門性に投資していたのである。

Larryからの一報でつい数週間前にLinuxWorld Tokyoで大々的にVAサーバー製品をお披露目していた日本側には非常に大きな動揺が走ったことは記憶にあるが、他の合弁パートナーに関しても基本的にわざわざ米国から船便か航空便で輸入しなければならない単なるIAサーバーには大きな関心はなく、VA社のカーネルレベルからの専門性を買っていた。

このような状況であったため、日本側では営業活動を開始した直後に撤退を突きつけられたというタイミングに憤り、そして将来への不安を感じてはいたものの、VA Linux社が誇るオープンソース開発者陣が基本的に全て残され、ソフトウェアビジネスを中心に持っていくという決定は割とすんなり受け入れていた。大雨過ぎるというか台風という気もするが、雨が降った後に地固まる的な捉え方もしていた。

そのため、今後のLinux/OSSのプロフェッショナルサービスやOSDN社の事業の連携を話し合うことが重要と考え、8月末のサンフランシスコのLinuxWorld開催に合わせ、フリーモントのオフィスをVA Japan社のメンバーが訪問することになった。そのメンバーに私も当然含めれていた。既に日本ではSlashdot Japanが開始され、次はVA社のLinux/OSS開発者陣のナレッジをどのように日本で展開するべきなのか?ということを私は考えていたし、そもそも単純に開発者陣にまた会うことを楽しみにしていた。

オフィスに到着後、一人の幹部社員が入り口まで迎えに来て、そして何故かまっすぐに一番奥の会議室へ通された。1000人以上のの社員を収容できる社屋はほとんどが空っぽで、数十人のOSS開発者陣が一角に固まっていた。Ted Ts'oやJeremy Allisonらのデスクがあるのはすぐに分かったが、まっすぐに会議室へ通されたため誰とも話すことはできなかった。遠目だがTed Ts'oのデスクに4月に開催された第一回目のLinux Kernel Summitの看板が飾られているのは見えた。

会議室にて着席早々、自己紹介すら行う前に幹部社員は「来週、オープンソースのプロフェッショナルサービスから撤退し、あそこにいる連中は全員解雇される」と我々に告げた。

何を言われたのか最初はうまく理解できなかった。日本側には全くの想定外のことだったので何度か詳細を聞き直したが、そもそも説明している幹部社員自身も解雇が決定していることを知り、それ以上聞くのをやめた。当日残っていたOSS開発者陣はその決定を知らないので一切声をかけないでほしいと要請されたため、我々は誰とも話さずに早々に社屋から離れ、翌日にはコーナーストーンのVA Linux社がぽっかりと消えたLinuxWorldをほんの少しだけ確認し、そして帰国した。

日本側は後から気付くことになるが、ようはハードウェアビジネスからの撤退ではなく、VA Linux社の既存ビジネスから全て撤退するということが規定路線だったのである。しかし、CEOのLarryも取締役の一員である ESRもその決断をすることを強くためらったのだろう。Larryが心血を注いで集めた数十人のOSS開発者陣は一時的にプロフェッショナルサービス部門として残され、そこで大きなビジネスの獲得ができれば残されるし、 大手ベンダーへ部門売却でもできればさらに良いとでも考えていたようだ。Larryは自分が作り上げたオープンソースのチームだけは壊したくなかったのだろうが、これは当時の情勢下では宝くじを当てに行くようなものであった。

翌週の2001年9月3日、プロフェッショナルサービス部門で残されていた数十人のOSS開発者は全員解雇された。

1998年2月3日のVA社でのオープンソース誕生から3年7ヶ月、IPOからは1年9ヶ月、最初のリストラからは7ヶ月の時間が経過していた。VA Linux社の本社の事業はこれでほぼ空っぽとなり、ボストンに本拠を構えていた 子会社のOSDN社を管理するだけのような上場会社になってしまった。

この翌週の9月14日にはLinux Kernel ConferenceをVA Japan社側で企画し、デスクだけを遠目に見かけたTed Ts'oを招聘済みだったのだが、彼はこのような状況でも東京へ来ると言っていた。しかし、9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、彼はボストンから動けなくなってしまった。この一連の出来事は日本側にとっては彼らとの別離を実感させられ、独自のビジネスを決断する一つのきっかけとなった。

話をVA社本体へ戻すと、SourceForge Onsiteのビジネスは形式上残されており、子会社のOSDN社が保有するSourceForge.netというブランドを活用しつつ、一から作り直してエンタープライズ向けのプロプライエタリ製品に仕上げ、Rationalのような製品ラインに持っていくという計画が示された。OSS開発者の代わりにVA社にはJava系のプロプライエタリ製品の開発が長い人材の採用を開始した。

そう、オープンソースの生みの親であるVA Linux Systems社はここで完全にオープンソースを否定したのである。

UberGeeksのその後

これらの一連のVA Linux社のハードウェアを捨て、オープンソースからプロプライエタリという大胆な業態変更を見届け、Eric Raymondは翌年の2002年4月に取締役を退任した。彼はそれ以降、民間の営利企業への所属はせず、一人のハッカーとして過ごしている。

創業者のLarry Augustinも翌年の2002年7月末期でCEO職を退任した。これでVA Linux社には社名の"A"もいなくなり、Linuxどころかオープンソースと関わりが薄い者だけがごくわずかに残された。その後のLarryは、シリコンバレーのとあるベンチャーキャピタルのパートナーとなり、DotNetNuke、JBoss、XenSource、SpringSource、Pentaho、DeviceVM、Compiere、FonalityといったOSS関連企業へ投資し、そのような縁からShgerCRMのCEOとなり、今に至っている。

2001年6月と9月で解雇された大勢のVA自慢のUberGeeksたちは、Rastermanなどのように出身国や田舎に帰った者、そのまま引退した者、Ted Ts'oなどのように大手ベンダーのLinuxセンターような部署に就職した者、Chris DiBonaなどのように当時は謎の検索サービス会社だったGoogleに入社した者あたりに分けられる。SVLUGの幹部陣だったVA社のメンバーの多くはいつの間にかGoogleに入社し、SVLUGコミュニティやVA Linuxが支援していた多くのOSSプロジェクトのインフラはいつの間にかGoogleが支援するようになった。そして、いつの間にか彼らはGoogle Code、Google Summer of Codeといったプロジェクトを主導するようになった。

また、オーストラリアに帰ったはずのRastermanとSimon Hormsの両名は何故かいつの間にか日本へ渡り、VA Linux Systems Japan社へ入社する。これは日本側がオープンソースを諦めていなかったことを聞きつけたからである。

考察

VA Linux社はこの時点で本体には実質何の事業も残されていなかったが、子会社のOSDN社の存在があったし、また会社は存続しており、現金も6000万ドル程度残されていた。これを崩壊と表現するのは正しくないのかもしれないが、祖業であるLinuxハードウェアビジネスも自身が作り出したオープンソースビジネスも全てから撤退し、バランスシートには6億ドルの累積損失としてその傷跡が残されたという事実からすれば、VA Linux社はこの時点で崩壊したと捉えて良いと私は思っている。

さて、このVA Linux社は何故崩壊したのだろうか?

当時はいろいろ言われた記憶がある。OSS開発者を甘やかしすぎた、マーケティングで金を使いすぎたといったあたりは最も頻繁に聞かされ、うんざりさせられた言説である。当時のVA社の社員からもそんな話をされたことがあるので、OSS関係者とそうでない者の間に何らかの軋轢があったということは事実なのだろうし、割と稟議がザルだった記憶はある。何しろ私のニューヨークへの出張時のホテルの費用を彼らは勝手に支払っていたこともあるぐらいだ。ただし、それと崩壊は全く結びつかないと考える。

VA Linux社はたった10名規模の会社の時代に生み出したオープンソースという言葉のブランド一本でのし上がってきた会社である。最初からオープンソースの会社であることを理解して入ってきた社員がほとんどであったし、OSS開発者らと待遇の面で明確な差があったということも私には記憶にない。OSSプロジェクトへの所属は会社として奨励されたし、インフラで困っているOSSプロジェクトがあればサッとサーバーと回線を提供し、遠くのイベントにOSS開発者が行きたいと言えばサッと旅費が出た。

ただ、それだけのことである。

現代の進んでいる会社ではこれは普通のことであるし、実際にこのような費用でVA社が傾いた形跡は全くない。2001年にはVA社としては最大となる1800万ドルの研究開発費を投じているが、ハードウェア開発がその多くを占めており、総額としてもVA社を崩壊させる要因の一つとは全く思えない。オープンソースに集中し過ぎて開発者が本業に集中しなかったという論も多かったが、あまりにも開発者を馬鹿にした論で論考する必要もないだろう。

マーケティング費用に関しても、VA社はLinuxWorld Expoには多大な予算を投じてはいたが、それ以外はさほど大きな予算を投じることはなかったように記憶している。IPOまではVAらしくオープンソース活動をこなしていれば勝手にメディアが注目してくれたし、OSDN社という存在ができてからは広告費もかけずに済むようになった。

つまり、VA社の崩壊とOSS開発者やマーケティング費用はリンクしない。当時はオープンソースという言葉自体がVA社の内外で強く否定されていたので分かりやすいスケープゴートにされていたのだろう。大したコストが かからないLinu/OSSのプロフェッショナルサービスの部隊を解雇してしまったのは、株主を中心とした方面からのオープンソース否定論に耐えられなかったのだと私は考えている。

VA Linux社の崩壊の要因として最もそれらしく聞こえるのは、IAサーバーの販売に頼るハードウェア偏重のビジネスモデルが原因との論である。

1999年あたりまではそもそも薄型のラックマウント型サーバーでLinuxをプリインストールして出荷する大手ベンダーは存在しなかったので、ある意味VA Linux社の独壇場だった。IPO直前あたりから世間のLinux熱が上昇し、それに押されるようにDellを皮切りにLinuxモデルを出荷するようになり、2000年はLinux市場自体は急激に拡大したものの、VA Linux社にとってはDell, HP, Compaq, Sun, IBMといった強力な競合が出現するという状況になった。そして、バブル崩壊の影響が出始めLinux市場も一時的に冷え込んだ時、より後退が深刻な商用UNIXラインを持つような大手ベンダーは相対的に安価となるLinuxサーバーに注力せざるを得なくなり、結果的にLinuxサーバー市場は会社規模が大手よりもはるかに小さく、そしてプリインストールのOSに対してより大きな手間をかけるVA Linux社には耐え切れない価格競争の場になった。

2001年1月期あたりからの「100ドル札を付けてサーバーを売る」と私が表現したのは正にこのような状況を指している。

CEOのLarryはIPO直前あたりに「当社はSunの性能のマシンをDellの価格で売る」とよく言っていた。それが一年後にはDellの性能のマシンをSunの価格で売るということを強いられてしまったことは事実であり、ハードウェアビジネスのがVA社を傾かせたというのは確かなことである。

ただ、オープンソース誕生の会議に出席していたVA社の幹部の一人であったSam Ockmanが1998年に独立し、ほぼ全てのシステムでVA Linux社を模したPenguin Computing社が、この2017年の段階でも当時に近いハードウェアビジネスを展開し、HPC市場では存在感を発揮していることや、VA Linux社のハードウェア撤退時にラックマウント製品の設計を買い取ったCalifornia Digital社がLinuxサーバーを10年以上売り続けたことを考えると、Linuxのハードウェアビジネスモデルでもやり方次第だったのではないかと思う。ハードウェアビジネスだけを考えれば、生産設備や製品ポートフォリオの抑制等の手段が考えられただろう。

また、VA Linux社は受諾開発とプロフェッショナルサービスのチームも2000年には拡大させており、ハードウェアが収縮していったとしても、オープンソースのソフトウェアビジネスに軸足を徐々に移すということもあり得たはずである。実際、大株主の一社である住友商事はIAサーバーではなく、オープンソースのソフトウェアビジネスに将来的に移行することに期待し、忠告も行っていた。また、CEOのLarryは前述の「Sunの性能でDellの価格」という言葉以外に「VA LinuxはハードウェアではなくLinuxとオープンソースの専門性を売っている」という発言も好んでしていた。彼自身、いずれハードウェアよりもオープンソースソフトウェア主体のビジネスになっていくことは想定していたと私は考えている。

これが許されなかったのは、当時のドットコム不況によりとにかく結果が読めない支出が嫌われ、保有資金を防衛することが望まれたためであるが、そこまでの財務状況を作り出したのは本業のビジネスではなく、IPO後の買収だと考えている。

特に私がパニックバイと称したTruSolutions社とNetAttach社の買収は明確な失敗だったし、これがなければVA Linux社のビジネスは少なくとも延命していただろうと思っている。この買収では株式以外に貴重な2000万ドルの現金が支払われ、販売網は基本的にはvalinux.comのWebだけであるにも関わらず、それでいて設備も人材も二重に投資する状況になってしまった。1UとNAS用のハードの設計だけが本当に必要だったものであったが、冷静に考えればそれ以外の資産が全て不良債権化することは明らかだった。この買収には巨額ののれん代も計上されたため、この償却でも行き詰まることになった。

そして、そもそもこの二社を買収することになったのは、その一ヶ月前のAndover.netの買収の評判が芳しくなかったことが契機だと私は考えている。ESRが自賛しているように最終的に残ったOSDN社はAndover.net社そのものであるので買収が失敗だったとは言えないのだが、VA Linux社のLinux/オープンソースビジネスを発展させていくという観点からは失敗だった。

IPOの直後にAndover.net社ではなく、SuSEやSGI、もしくはその他のVA Linux社の本業を補完する企業を買うのが正解だったのかもしれないし、株主からの圧力があったとしてもそこはVA Linuxとしての本業に集中するべきだったのかもしれない。それでも、おそらくはドットコムバブル崩壊後の不況により、いずれハードウェアビジネスは試練を迎えていたと思うが、これらの買収が現実とは異なる判断であった場合、たった1年後に無様な醜態を晒すことはなかった可能性の方が高かっただろう。

次回は空っぽになったVA Linux社のその後をできれば終焉まで書く。
その次にVA Japan社についてでも少しだけ書いて、一連のシリーズは終了させようと思う。

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日記

kazekiriの日記: 何故、VA LinuxはAndoverを買ったのか?

日記 by kazekiri
http://shujisado.com/2017/07/05/613354/へ移転。

1999年12月9日、VA Linux社は驚異的なIPOを成し遂げたが、直近四半期の売上は1,700万ドル、資産もほとんどがIPOで得た現金であり、1億5000万ドル程度の規模でしかなかった。 100億ドルに迫る時価総額をとうてい正当化しそうもないのは明らかであった。そのため、ある程度の調整が入ることは仕方がないとしても、このあまりにも高過ぎる評価を維持するために即座に行動を起こすことがVA Linux社の取締役会へ求められた。足下のハードウェア事業についてはさらに引き続き高い成長を見せていることは分かっていたが、今は手元に現金と驚異的な評価が付いた株式がある。必然的にこれを効率的に使用して企業買収を行い、VA Linux社の価値を高めなければならなかった。

ということで、VA Linux社は企業買収へ動き出す。

取締役会での議論に詳細については私が知る由もないが、Eric Raymondが2014年に当時を述懐した短めのブログ記事からは興味深い事実が浮かび上がってくる。この記事とVA社からのSECへの提出書類を合わせて時系列を推測すると、IPO直後の1999年12月中旬以降に開催された取締役会にて企業買収を進める方針が出され、さらに年明けの2000年1月12日の取締役会にて4社に買収ターゲット企業が絞られ、それぞれ検討がなされたということが分かってくる。

その4社とは、Silicon Graphics (SGI)、SuSE、Andover.net、そして確証はないがおそらくLinuxcareだったと思われる。

ESRの述懐が正しいとは限らないが、ここでその4社の案を2000年1月12日の取締役会の段階として考察してみよう。

Silicon Graphics (SGI)案

ITおじさんであれば知っているが今どきの界隈の人は知らない方のSGIである。グラフィックス用のUNIXワークステーションで一世を風靡したSGI社は、90年代にはRISC CPUの開発で知られるMIPSとスパコンの世界で高名なCray Researchを吸収し、UNIX系ベンダーの名門の一角として君臨していた。ただ、90年代の中頃以降から成長の踊り場に達し、97年の36億ドルの売上をピークに売上も急激な下降線に向かう。1998年にItaniumアーキテクチャへ移行することを決定してからは特に事業の歯車が狂いだしたことは印象として強く残っているだろう。

SGI社は1998年にもリストラを断行していたが、1999年秋には追加で1,000以上のポジションの廃止や一部製品ラインのキャンセルなどを含む大規模なリストラを実施していた。この2000年初頭の時期にはMIPSとCrayはお荷物と見なされており、SGI本体から切り離すことも急務だった。(実際、3月にCrayをバーゲン価格で売却し、6月にはMIPSをスピンアウトさせている。)

SGI社とVA Linux社との関係は、Trillian Project(後のIA-64 Linux Project)として当時知られていたItaniumへのLinux移植プロジェクトからである。この結成当初のメンバーは、Cygnus、HP、IBM、Intel、SGI、そしてVA Linuxであり、VA社がプロジェクトのリードを務めていた。Itaniumに会社の命運を賭けてしまっていたSGI社としては、VA Linux社と否応なく関係していくことになる。これが契機なのかは知らないが1999年6月のVA Linux社のシリーズBラウンドにはSGI社も出資し、秋には先に一度触れたDebianのパッケージ製品を共同で出荷することにもなる。

SGI社には大企業、政府系機関、研究機関といった顧客からの根強い支持があり、膨大なエンジニアリング資産もあった。ドットコム系企業とオープンソース支持者からの熱狂的な人気に頼っていたVA Linux社としては自社にはないリソースを手に入れることができる理想的な相手であることは間違いなく、SGI社からしてもこのまま独立系のUNIX企業として縮小を続けていくよりも、Linuxサーバーで勢いにのるVA Linux社と一緒になることに賭けるという見方もあったようだ。実際、VA社のIPO直後から2000年3月にかけては何度かメディアでVA Linux社によるSGI社の買収の噂が報じられているし、Crayの売却後は噂に拍車がかかっている。

このマッチングの問題点としては、当時の時価総額ベースではVA社による買収は可能ではあるが、あまりにも事業と組織の規模が違い過ぎることである。ちょうど二日前の1月10日にはあのAOLとタイムワーナーの合併が発表されているのだが、98年度売上高48億ドル、従業員数12,100人のAOLが、売上高268億ドル、従業員数67,500人のタイムワーナーを事実上買収したというケースよりもさらに規模の差が大きい買収となる。VA社の当時の直前四半期売上は1,700万ドルで従業員は200人、SGI社は売上が5億ドルで従業員は8,000人である。VA社が四半期毎に倍々で成長していく見込みだったのに対し、SGI社はさらに縮小を続けることが明確だったという状況であるにせよ、この規模の差は大きすぎるだろう。また、この時点ではMIPSとCrayの引き離しが完了していないこともネックだったと思われる。

どこまで検討が進んでいたのかは分かりかねるが、結果としてこのSGI案はこの場では見送られることになる。仮にVA LinuxとSGIのマッチングができていれば、ESRが新会社の取締役で残ることも考えられ、SGIの膨大なソフトウェア資産がバザール理論に乗せられ、特に既存ビジネスに対して何の考慮もなくオープンソース化してしまうという未来もあったかもしれない。

なお、SGIは縮小を続け、2006年にChapter 11を申請して破綻、再起後の2009年にも再度Chapter 11で破綻、その後紆余曲折ありながらも現在はHewlett Packard Enterprise社の子会社として存続している。

SuSE案

会社規模やビジネスの補完性で考えると割と考えられるマッチングがSuSE案である。当時としては間違いなくLinuxディストリビューション界隈ではRed Hatと並び立つ存在であり、明確なところは分からないが、組織および事業規模もIPO直前のRed Hat社と大差なかったと考えられている。本拠であるドイツを中心にヨーロッパ諸国ではSuSEがRed Hatよりも人気があるディストリビューションであり、また当時はディストリビューションを一社で独占することへの警戒心もあり、それがSuSEを推す原動力の一つにもなっていたと思う。

VA Linux社とはCEOのLarry自身が割とSuSEのメンバーとも交流があったようであり、1998年のオープンソース誕生の会議の際にもSuSEへの連絡を行っている。1999年の11月にはVA Linux社はSuSEとの提携を強化し、VAサーバーでのSuSEのプリインストールモデルも出している。

当時は既にRed HatがIPOを果たし、Cygnusまでも吸収するという状況になっていたが、VA Linux社としてはSuSEを取り込むことでRed Hatへの対抗軸も作れるし、自社で自由にできるディストリビューションを手に入れることができるというメリットがある。SuSEとしても大市場である北米でのビジネスを強化する機会を得るというメリットがある。

このマッチングの懸念点としては、VA LinuxとしてはDebianをRed Hatに次ぐ第二の選択肢として推しており、自社でJoey Hessらを筆頭にDebian開発者を抱えているのに、さらにもう一つのディストリビューションを抱えることになってしまうというエンジニアリングリソースの問題があること。さらにVA Linux社はヨーロッパ圏にも進出の準備を既に行っていたが、ほとんどの売上が北米であるのは明らかであり、ドイツを中心とするSuSEを取り込んでもシナジーを見込めるのはかなり先のことになること。また、事業規模としては割と小さく、買収効果も限られることからその時点でVA Linux社が取るべき選択肢には見えなかったとも思われる。

結果的にSuSE案は見送りとなる。先に触れたESRの述懐記事ではSuSEを選ばなかった理由として、ドイツとアメリカの文化的な差異の面を挙げている。よくあるステレオタイプ的なドイツ人とアメリカ人の差異を挙げ、ダイムラー・クライスラーがその悪例と言っている。私は当時の取締役会のメンバー、特にSequoia CapitalのDouglas Leoneがそのような理由だけで判断するとは全く思っていないが、まだ両社共に本国だけの売上で精一杯の状況で合併効果を見出すのは難しかったのではないかと思っている。

このマッチングが実現していれば、米国内においてRed Hatだけを見ていればいいという雰囲気を牽制できたかもしれないし、VA Linuxがディストリビューションの会社として残るという未来もあったのかもしれない。

Linuxcare案

ESRの記事では "Linux service business"としか書かれていないのでLinuxcareが最終候補だったのかは実際のところよく分からないのだが、当時の状況やVA Linux社のメンバーの関係性から考えるとおそらくLinuxcareだったのだと推測する。そうでなかったとしても、4社に絞る過程のどこかで検討はしていた会社だろうとは想像がつくので、一応ここで挙げておく。

Linuxcareは当時としては珍しいLinuxとオープンソース専門のサポートサービスの会社として立ち上げられた。法人の立ち上げ後即座にLinuxバブルに乗って3,800万ドルの資金を調達し、ごく小さな同業の会社を買収したりしていたが、合わせてもまだ50万ドル程度の売上しかなく、それでいて100名弱の社員を抱え、年間で1,000万ドル以上の損失を出すことが明確になっていた。

VA Linux社としてはメンバーに知り合いも多く含まれ、来たるべくハードウェアベンダーの巨人達との戦いに備えて、サポート事業を強化したいという思惑もあったかと思う。ただ、まだ立ち上がったばかりのLinuxサポートビジネスの現状はVA Linux社自身もよく分かっていたのだろう。Linuxcareの数字は当時派手に喧伝されていた評判とは異なる酷さではあるが、同業他社はこれよりも小さいものがほとんどであり、おそらく真剣な検討はされなかったと思われる。

なお、Linuxcare社はこの直後の1月19日にIPOを申請する。しかし、IPO直前の4月中旬にIPO申請を撤回する。株式バブルがピークを越えたという市況の変化もあるが、その前にLinuxOneとまではいかないもののほぼ同然と言える内容のIPOを許すべきかという問題もあったし、そもそも社内が崩壊していたという話も聞いたことがある。これも当時のバブルを示す一つの出来事である。

Andover.net案

最後はIPOバブルの話題でVA Linux社の前日にIPOを果たしたことで触れているAndover.net社の案であるが、この案は実はVA Linux社から声をかけたものではない。Andover.netに出資し、さらにOpenIPOによってIPOへと導いた投資銀行であるWR Hambrecht + Co社がVA Linux社への売却を発案し、それを1月7日にAndover.net社側へ提案、さらに1月12日のVA社の取締役会当日にCEOであるLarryの下へWR社とAndover社両社揃って持ち込んできた案件なのである。

ということで、時間的な制約からVA社側でAndover.netをあまり精査したとも思えないし、そもそも当初は買収候補として考えられていたとも思えない。SGI、SuSE、LinuxcareはどれもVA Linux社のLinuxハードウェアビジネスを補完する存在と考えることができたが、Webメディアの企業であるAndover.netの場合は全くそうではないからである。むしろ、ハードウェア会社がメディアを保有することによるメディア事業へのデメリットの方が先に思い浮かぶ。

ただ、VA社はこの時点においてLinux.com、Themes.org、SourceForge.netというコミュニティ向けのWebサイトを運営しており、VA社のオープンソースブランドを向上させるためとは言いつつも、人気が上がるにつれてコストが上昇し、非営利で運営することが困難になりつつあったという事情があった。Andover.net社側としても、オープンソース関連サイトの50%以上のトラフィックを独占していると自称しつつも、その多くのトラフィックはSlashdot.org由来のものであり、オープンソース関連のメディア群を支配しているとは言い難い状況であった。そのため、オープンソース関連メディアの確固たるトップ企業として君臨していくためにVA社の3つのサイトと一体化することは大きなメリットがあった。

現在からは考えにくいが、Red Hat社がIPO時にポータル戦略を掲げていたように、当時のオープンソースビジネスとしてはポータルを押さえ、そこから広告等で収益を出すという考え方は割と違和感なく実現性があるものと受け入れられていた。Andover.netの収益は前回記事でも触れたようにVA社から見ても些細なものであったが、Yahoo!の全盛期であるこの頃だとオープンソース界のYahoo!を実現できるというのは大きな可能性を感じさせるものであったのだろう。

とは言いつつも、Andover.netの買収はVA社の本業であるLinuxシステムの販売には直接的な寄与はしないことは明らかだった。

買収先の決定

先ず結果を書けば、この2000年1月12日の取締役会でAndover.net社の買収を目指すことが決議された。

Andover.net社以外の三社がどの程度まで検討が進んでいたのかは分からないが、SGIに関してはリストラの進捗への懸念もあったし、SuSEは当時のRed Hatと大差ないとされる評価を受けていた状況であれば交渉は困難になることが予想された。Linuxcareなどはおそらく買収効果を見込むことが難しいとハナから考えていただろう。この3社の買収候補のいずれも買収を進める過程からの困難が予想され、ESRの記事でも「The other board members argued back and forth but were unable to reach a resolution.」となかなか決議に達することができなかったと書かれている。

Andover.netの買収の決定は長らくCEOのLarry Augustinの単なる趣味でSlashdot.orgが欲しかっただけと世間では言われていたが、ESRの記事ではAndover.netの買収はESR自身が決めたと書かれている。当時から14年も経過してからの述懐なので事実と捉えるには心許ないが、Larryの趣味説よりは信憑性が高いと私は考えている。当日に一度Andover.net側からの提案を受けただけのLarryが押し通せば、おそらく他の取締役会のメンバーが再考を促していたと思われるからである。

ESRの記事の流れとしては議論が硬直した後、彼は下記のように主張したらしい。

So I stood up and reminded everybody about the compatibility issue and made the case that our first acquisition needed to above all be an easy one. Then I said “At Linux conferences, think about which of these crews our people puppy-pile with on the beanbag chairs.” Light began to dawn on several faces. “The Slashdot guys. It has to be Andover, ” I said.

ようするに、買収の失敗は企業文化の不一致から引き起こされるものであり、「Linuxイベントでビーズソファに寝そべって寄り集まっている連中は誰だ? Slashdotの連中だろ?」と言って、Andover.netであればVA社と企業文化的に一致すると主張したわけである。それに対し、Sequoia CapitalのDouglas Leoneが「There’s a lot of wisdom in that.」と言って決定されたと書かれているのだが、これに関してはホンマかいな?と思うものの、Andover.netであれば買収後の事業の再構成も比較的単純に済むし、広告という全く異なるラインからの収入が見込め、さらに当時の感覚からすればネットビジネスの将来性も感じられることで同意に至ったのではないかと思う。まあ、この時点ではある意味で余裕があったので、買えるものからどんどん買っていけばいいとしか思ってなかったのかもしれないのだが。

買収の発表とその後

1月12日の取締役会でAndover.netの買収方針を決議した後、即座にNDAの締結、デューデリ実施、諸条件の交渉が行われ、2月2日に両社の取締役会が株式交換の比率も承認し、翌2月3日、New Yorkで開催中のLinuxWorld Expoの基調講演内でCEOのLarryがAndover.netとの合併を発表した。この時のLinuxWorldのフロア内の反応はVAは一体何を考えているのか?と不思議がるものが多かったように思うが、CEOのLarryはこれでオープンソース界のYahoo!が出来上がると得意満面だった。

その後、この合併は当初案では現金を含む内容だったが後に株式のみに変更され、6月7日に合併が完了した。Freshmeat.netではSourceForge.netに対抗してServer51というオープンソースプロジェクトのホスティング機能を追加し、さらにSlashdot.orgではSlashcodeの商用化も計画され、双方共にVA Linuxとの合併のアナウンス直前に発表されていたが、この合併によって全てキャンセルされた。さらに合併により、Andover.net社が保有していたWindows系および技術色が薄いIT情報系の幾つかのサイトは非オープンソースであるという理由で閉鎖された。

合併はVA Linux社が子会社を新規で立ち上げ、その子会社とAndover.net社が合併する形式が取られ、そのためAnoover.netはそのままVA Linux社の子会社という立場になった。そして、VA Linux社側からLinux.com、Themes.org、そしてSourceForge.netが移管され、Slashdot.org、Freshmeat.net、ThinkGeek.comなどと共にオープンソース系のネットワークを構成することになる。そのネットワークと新生Andover.net社は8月にOpen Source Development Network (OSDN)と改名された。

考察

Andover.netはIPO直後でまだ多くの現金を保有しており、株式の評価もまだ高かったことから2億5000万ドルののれんが計上され、VA社のバランスシートは大きく増大した。一方、Andover.netの多くのサイトはまだ収益化の途上であり、メディアビジネスの性格上大きな成長を見せるとは当時からも思われていなかった。実際、買収発表後のAndover.netの最後の四半期決算は280万ドルという小さな売上であり、当時のVA社の連結業績に与えるインパクトは微々たるものであることは明らかだった。正直なところ、この買収はVA Linux社のビジネスにとってプラスであったとは言い難い。

ESRの述懐では、Andover.netを買収するという自分の決断でドットコムバブル崩壊を乗り越えて生き残ることができたと自画自賛している。確かに法人としてのVA社からすればESRの視点で正しいのかもしれないが、おそらくAndover.netの各サイトは単独でバブル崩壊に遭遇したとしても普通に生き残っただろうと思われ、合併によってサイトの閉鎖や幾つかの挑戦的なプロジェクトをキャンセルさせられてることを考えると、Andover.netにとってはこの合併は受難だったのかもしれない。

また、この合併発表後の市場の反応は割と冷ややかなものであり、VA社は合併作業に忙殺されながらも次の本業強化のための買収ターゲットを早急に探さざるを得なくなる。資金と時間をAndover.netの案件で ロスしつつもまだVA社の経営陣は強気の攻めの姿勢だったが、バブルの崩壊はすぐそこに迫ってきていた。

次回、(今度こそ)バブル崩壊とVA Linuxの崩壊。

次回:ドットコムバブルの終焉とVA Linux Systemsの崩壊

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kazekiriの日記: 映画「Revolution OS」について

日記 by kazekiri

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例によって一回脱線し、既に何度か言及している「Revolution OS」という映画について書いておく。

Revolution OSは、Richard Stallmanが開始したフリーソフトウェア運動とGNUの誕生からLinuxカーネル、伽藍とバザール、オープンソースの誕生、そしてVA LinuxのIPOまでの歴史とそれに関連する思想をまとめたドキュメンタリー映画である。私がこの一連のVAの歴史において触れてきた人物、RMS、ESR、Linus Torvalds、Bruce Perens、CygnusとしてMichael Tiemann、VA LinuxのCEOのLarry Augustinらのインタビューから主に構成されている。また、SVLUGでのインストールフェスタの模様、Microsoftのオフィスへ突撃をかましたWindows Refund Dayでのデモ行進、LinuxWorld Expoのステージ上で演説するRMSから聴衆の目線を奪い取るLinusの娘達、IPO直後のVA社のオフィスといった歴史的なシーンも含まれている。

このRevolution OSは、フリーソフトウェアおよびオープンソースの思想が分かりやすくうまく構成され、その面での評価も割と高いのだが、Red HatとVA LinuxのIPOでストーリーがエンディングに向かうのは日本人には少し違和感があるかもしれない。

実はこの映画は1999年6月、VA Linux社の創業間もない頃からの古参の幹部社員であるDouglas Boneがスタンフォード大学時代の友人でハリウッドの映画業界で働いていたJ.T.S. MooreにLinuxのドキュメンタリー映画を作ってみないかと要請したところから開始されている。彼もこの業界を代表する人々の個性と思想が良い題材だと思ったのだろう。撮影は7月から開始され、VA Linux社のIPO直後あたりで全ての撮影を終了した。Michael TiemannがCygnusの立場で語っているのはそのためである。つまり、撮影期間から考えるとVA LinuxのIPOで終えるのは座りがちょうど良かったし、インストールフェスタ、Windows Refund Day、LinuxWorld Expoのシーンは全てVA社のメンバーの手引きによるものだろうから、VAを中心に描かれるのはある程度仕方がないことだろう。私から見ればRevolution OSはVA Linuxの歴史そのものを描いているのである。

私が書いているVA社の歴史は現時点でこのRevolution OSと全く同じ時期まで書かれている。一連の長話を読んだ奇特な方が改めてこのRevolution OSを観ると、何故VA社のLarryがLinuxWorld ExpoでLinusを呼び出す役回りだったのかとか、Larryが何故 Red Hatの株価を気にしていたのかとか、SVLUGがほぼVA Linuxだったとか、細かいところのかなりどうでもいい部分への理解が進むかもしれない。

Revolution OSの脚本、監督、撮影、編集は全てJ.T.S. Mooreが一人で行った。そのためかもしくは資金不足かで完成は割と遅れ、初の試写会は2001年2月1日、LinuxWorld Expo New Yorkの開催日にタイムズスクエアにほど近いAMC Empire 25という劇場を貸し切って行われた。この試写会はVA Linux社の当時の子会社であったOSDN社(現在の日本のOSDN社のことではない)の主催によるもので、当日は私も招待されていた。日本人は私と当時の同僚の二人だけで、あとはVA Linux社の社員、そして様々なオープンソースプロジェクトの関係者で全席埋まっていた。

オープンソース誕生からの経緯も理解していた私にはVA Linux社の宣伝映画のように見えなくもなかったが、私にはこの映画が日本でのフリーソフトウェアおよびオープンソースへの理解に役立つと直感した。そのため、試写の終了後のパーティにてJ.T.S. Mooreに駆け寄り、日本でRevolution OSを上映させてほしいと要請した。その場では割と良い方向で話が進んだが、帰国後の交渉中に字幕作成、上映館確保費用や報酬の問題、配給のミラマックスとの調整の問題等いろいろ条件が我々には厳しいということが分かり、いったんペンディングとなった。そして、そのうちVA Linux社に大きなマイナスの変化が起きた時、VA Linux Systems Japan社としては米国にVA Linuxという存在があったことを一切無視することを私が決め、私の手によるRevolution OSの上映計画は完全に消えた。

その後、Revolution OSは各地の映画祭やO'Reilly Open Source Conventionといった世界各地のオープンソースイベントで上映された後、DVD化されてOSDN社傘下のThinkGeek.comにて販売された。もはやバブル当時のことも忘れ去られつつあった2003年、日経BPの音頭でRevolution OSの日本語字幕のプロジェクトが起こされ、日本でもDVDが販売されている。

ところで、今振り返ると、2001年2月1日の試写会の際、私はオープンソースの素晴らしい教材に出会えたことでテンションが高まっていたが、劇場内は「今の株価は5ドルだろ!」といった軽口や笑い声が飛び交いながらもどこか落ち着いた雰囲気であった。会場内の人々にはたった1年前までの自分達が起こしてきた出来事の映像であったわけだが、さらにもっと遠い過去のノスタルジーに浸るような雰囲気であった。試写の後のパーティもVA社にしてはやけにもの静かであり、おかげで交渉後は早々にホテルへ切り上げた記憶も残っている。

この数カ月後、VA Linuxは崩壊する。
今思えばその場にいた皆がそれを既に感じ取っていたのではないかと思う。

次回は出来ればその崩壊まで。

次回:何故、VA LinuxはAndoverを買ったのか?

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kazekiriの日記: VA LinuxのIPO:13ドル、23ドル、30ドル、そして 300ドルへ

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LinuxOneの騒動でまだコミュニティがごたついていた1999年10月8日、とうとうVA Linux Systems社がIPOを申請した。Red Hatの後に何故か間に3社が挟まれ、それぞれ印象的な結果を残したが、市場はとうとう本命がやってきたと騒ぎ始めた。

この時、Red Hatの株価は86ドル

NASDAQ総合指数は2,800程度でこの半年前と比較すると300ほどの上昇であり、市場は当時としてはまだゆるやかな上昇の途中だった。

ゆるらかに動く10月

VA Linux社のIPOの計画はRed Hatのものと規模はさほど変わらない。全体の10%ほどに当たる440万株の新規発行で一株13ドルの価格が設定され、6,500万ドルを調達するものだった。直近1年間は売上1,770万ドル、損失1,450万ドルであり、四半期毎では売上が240万ドル、320万ドル、430万ドル、780万ドルと急成長を遂げていたものの、彼らが目標としていた5年以内での10億ドルの売上に達成を見越したハードウェアビジネスを支えるために必要な設備投資やブランディングにかかる経費が継続することが見込まれ、Red Hatと比較すれば成長速度は上回っていても株価として評価するにはやや下と見るべき存在とするのが妥当だったと思う。Red Hatと異なり、ラックマウントサーバーという今後需要が増大すると見込まれるハードウェアを製品として抱え、既にこの領域ではDell、HP、Compaqなどと激しいシェア争いをしていたという点から大きな評価をする向きもあったが、まだ様子見の空気も強かった。

IPO申請直後の10月12日、VA Linux社はO'Reilly、SGIと組み、CD-ROMと書籍をバンドルしたDebianのリアルなパッケージ製品を発表した。製品とは言ってもO'Reillyの書籍付きで19ドルという破格値で、かつ利益は全てオープンソースの誕生の件でも出てきたSoftware in the Public Interest (SPI)へ寄付するというものだった。当時は大手ではVA社だけがDebianサーバーを出荷し、ある意味ではDebianはVA社の象徴の一つでもあった。しかし、当時はDebianそのものが全く市場に響かない存在である。このタイミングでそれを出してしまう空気の読まなさというか裏表のなさがLarryが率いていたVA社らしいとも言えるので一応ここに書いておくことにする。

この10月にはRed HatがRed Hat Linux 6.1をリリースし、Compaqとのサポート契約が発表された。

にわかにざわつく11月

11月に入り、にわかに空気が動き出す。Red HatはOracleとの協力を拡大し、11月5日にはCobalt Networks社が前回記事に書いたようにRed Hatを越える驚異的なIPOを達成した。Cobalt社は同社の株式の18%を占める500万株から無事に1億1000万ドルを調達し、さらに22ドルの公開価格が128ドルまで上昇したのである。同じハードウェア主体のVA社への注目がさらに高まることになる。

ちょうどこの頃、3回目の司法省によるMicrosoft独占禁止法訴訟が佳境にさしかかりつつあり、Thomas Jackson判事がMicrosoftの商行為に対して独占との事実認定を行った。この訴訟は翌年にMicrosoftを2分割する判決が出されることになるが、この一連の訴訟から発生するさざ波が、生まれたばかりのLinux市場をさらに揺り動かしていた。当時でも4,000億ドルという途方も無い時価総額であり、PC市場の独占企業が分割という流れに向かっていたのだから無理のないことではある。

11月15日、Red Hat社がCygnus Solutions社と合併するというアナウンスが出された。当時はCygnusがオープンソース業界の最強の会社と見なされており、売上規模もまだRed Hatよりかなり大きく、事業は成熟し、圧倒的な開発者陣を揃えていた。そのCygnusと合併するというニュースは、安定したキャッシュフローをRed Hatが獲得したと見なされ、市場には安心材料となった。高騰する株価を納得させるための行動をRed Hatが取っていないとする向きもこれでいったん止むことになる。

この時期、Red Hatの株価は100ドルを越えた。

この同日、VA Linux社はS-1上場申請書を更新し、10月末までの四半期の業績を反映させた。前の四半期(7月末)の売上は780万ドルでこれも急激な増加だったが、さらに1,480万ドルに倍増した。この内 240万ドルはAkamai Technologies社からの売上である。売上総利益は3四半期マイナスを記録していたが、これで200万ドルのプラスに振れ、このペースでいけば高度成長を継続しつつ、黒字化を早期に達成できるような空気も漂ってきた。ドットコムのバブルに乗ったネット企業が次々にVA Linuxのサーバーを買うだろうという確信的な空気も増していた。

11月23日、一通のメールが様々なオープンソースコミュニティに属する人々に配信された。VA Linux社のChris Dibona名義でドイツ銀行から送られたものである(全文有り)。ようはRed Hatが行った開発者へのIPO価格での購入オファーと同じことである。Debian、KDE、GNOME、GTK+、Python、GIMPといったメジャーなプロジェクトへの貢献者、VA社の社員による推薦、そして11GBのソースコードとHOWTO文書のアーカイブから名前を拾い上げられた者たちへ一斉にIPO価格でのVA Linux株の購入がオファーされた。購入可能株数は100株(確か50株ほど後に増量された)だったが、既にRed HatとCobaltが株価の大幅な上昇を見せていたことから、1,300ドルの投資がすぐに何倍にもなるという確信的な空気が出来上がっていた。なお、VA社からのオファーは米国外でも幾つかの国で有効であり、日本は国内法により50人までと制限されていたが、Debianを中心にオファーが届いた者も多かったと思う。米国外からの購入が可能ということもありVA社のオファーは世界的に大きな話題になった。多くの開発者が株の取得を考え、最終的に352,000株がコミュニティへ分配された。

この日、Red Hatの株価は140ドルを越えた。

狂乱の12月

12月に入ると、Red Hatの株価はとうとう200ドルを越えた。徐々に説明が付かない状況だと見る向きが出てきていた。

12月7日、市況の変化を踏まえ、VA LinuxのIPO価格が23ドルに引き上げられた。

12月8日、Andover.netのOpenIPOプロセスによるIPOが行われた。18ドルの価格でオークションが完了し、公開初日の終値は63ドルまで上昇した。Andover.netは発行済株式の25%以上になる400万株を売り出していたが、初日の取引は800万株を超え、Linux/オープンソース銘柄の人気がもはや疑いの余地がないものとなっていた。

この日、DellとのPowerEdgeラインでの提携を数日前に発表していたRed Hatの株価は、270ドルを越え、一時302ドルの高値が付いた。この記録がRed Hat株価の史上最高値であり、17年経過して100倍以上の規模となった現在のRed Hatでもまだ当分は届きそうもない数字である。

さらに同日、前日に約2倍に引き上げられたVA LinuxのIPO価格がさらに30ドルに引き上げられた。

そして、12月9日がやってきた。

VA Linux社CEOのLarry Augustinは自社のIPOを見届けるためにサンフランシスコのクレディ・スイス証券の支店に出向いていた。自分の家族、数名の社員、そしてLinux作者、Linus Torvaldsの家族一同も招待し、取引開始を待っていた。クレディ・スイス側は投資家からの入札状況からその頃には既に何が起きるのかは分かっていたが、Larryはあまり自社の株が置かれている状況を分かっていなかったようだ。Larryは、1年半前の「オープンソースの発明」の時にはまだ小さなPCショップのような規模の企業を経営し、コミュニティメンバーを過ごすことを好んでいた男である。自分が置かれている状況の把握に時間がかかるのは無理もないことだった。このIPOを振り返るインタビューが映画「Revolution OS」の一場面として出てくるが、映画の姿がそのままのLarryである。

正午過ぎに遅れて取引が開始された直後、VA Linux株は299ドルの初値を記録した。この瞬間、VA Linux社の時価総額は100億ドルを越えた。

その直後、320ドルの高値を付けた。この時、シリーズBラウンドに参加した日本の住友商事の当時の時価総額を越えた。

その後、株価は乱高下し、終値は239.25ドルで取引を終了した。690%の初日の上昇は、現在も未だに破られていないNASDAQ市場の最高記録となっている。

なお、この時、NASDQ総合指数は3,600を超え、二ヶ月で800ポイント上昇という異次元の世界に入っていた。

取引を見届けたLarryは自社へ戻り、社員を集め、投資家に説明したプレゼンを紹介した後、ささやかなパーティを開いた。そこに集まっていた多くの社員は自分が持っていたオプションの資産価値が高級車や家が買える値段になっていることに浮かれていた。また、この会社がさらに大きく成長していくものと皆が確信していた。

CEOのLarryの名目資産はこの時16億ドルを超え、John "Maddog" Hallは 7億ドル、そして取締役の一人であるEric Raymondの持ち株の価値は4100万ドルに達した。VAのIPO直前にSambaのプロジェクトリーダーの一人であるJeremy AllisonがVA社に入社しており、12月17日のLinux Conference '99 (横浜)のために来日していたが、そこでJeremyは「シリコンバレーで家を買う必要があったがSGIにいては買えないのでVAに移った。VAはSVLUGそのものでほぼ全員がVA社員だから、以前から自分もずっとVAにいるようなものだったしね。」ということをメディアに話していたが、多くの社員も同じ感覚だったのだろう。

また、SlashdotにはESRが投稿した「Surprised By Wealth」という記事が残されているが、彼は活動を変えるつもりはないし、たくさんのものは欲しくないとしつつも携帯電話、インターネット接続、フルート、そして銃ぐらいは買うことをほのめかし、

「So it's not strictly true that I'm wealthy right now. I will be wealthy in six months, unless VA or the U.S. economy craters before then. I'll bet on VA; I'm not so sure about the U.S. economy :-).」

という軽口も叩いている。「VA社と米国経済がそれまでに崩壊していない限り、私は6ヶ月後に裕福になるでしょう。私はVAに賭ける。私は米国経済についてはよく分かりませんけどね :-) 」という感じだろうか。今見るとまさに死亡フラグのようにしか見えないが、米国経済はダメでもVAは安泰だと信じていたのだろう。結局どちらも死亡するのだが。

その後

VA Linux社のIPOは無事に成功し、30ドルへと直前で価格変更を行ったため、予定よりも多い1億3000万ドルの資金調達に成功した。この時点ではVA Linuxの未来は明るいものが待っており、オープンソースのリーダー企業として相応しい成長を遂げるという期待感に満ちあふれていた。しかしながら、急成長しているとは言いつつも直近四半期の売上は1,480万ドルであり、利益は出ていない。そんな会社でかつ、ハードウェア主体という小回りが効きにくいビジネスで100億ドルの時価総額というのはあまりにも荷が重い評価であった。

それにしても何故、ここまでRed Hat、Cobalt、Andover.net、VA Linuxの一連のIPOは異常な高騰を見せたのだろうか? 1999年夏から2000年3月10日までの期間はドットコムバブル最後の株価の異常な上昇期間であり、NASDAQ総合指数は2,600あたりから3月10日の5,132に向けてバブル最期の輝きとなる一直線のうなぎ上りを見せていた。その途上で単純に新規性のあるワードであるLinuxとオープンソースに投機的な資金が流れ込んだだけかもしれない。

また、当時はMicrosoftへの独占禁止法訴訟の最中であり、会社の2分割が取りざたされていた時期である。ESRの「伽藍とバザール」を多くの人々がGNU HurdではなくMicrosoftとLinuxの比較だと捉えたように、 多くの人々がMicrosoftの代替としてLinuxを捉え、期待をかけていたということもあるだろう。それは目標の一つとしては正しいが、少なくとも上場した4社のメインビジネスはMicrosoftのメインビジネスであるデスクトップOSおよびアプリケーションソフトと張り合うようなものではなかった。VA Linuxが張り合っていたのは元々Sunが支配していた市場であったが、LinuxとWindows 98が比較され、VA Linuxは悪の帝国を打倒するヒッピー集団を率いるヒーロー的存在だと祭り上げられていたようにも感じる。証券会社側の手法や当時のコミュニティの異常な高揚などの細かな要因もあるとは思うが、このあたりの現実よりも過大な期待が異常な高騰を生み出したのではないかとないかと考える。

なお、この後、VA Linuxを含むLinux/オープンソース株は全面安が続き、冬の間はやや持ちこたえたものの3月10日にNASDAQ総合指数が5,132のピークを迎えた後に急激に下落していくのに合わせ、4月にはVA Linux、Red Hat(二分割を12月中に実施)の株は50ドル近辺にまで落ち込む。さらに2000年12月までには両社共に10ドル以下にまで下落し、株式のバブルは消滅した。

2000年3月にはMicrosoftとの訴訟を解決し、新たに資産を引き継いで再設立されたCaldera Systems社がIPOを果たすが、もはやかつての熱狂はそこにはなかった。このCaldera Systems(後にSCO Groupに改名)が生き残りをかけて取得したSanta Cruz Operation社からの事業に含まれていたとされていたUNIX資産(最終的にNovellに権利があると事実上確定している)が後にあのSCO UNIX訴訟問題へつながっていくことになる。

これ以降、Linux/オープンソース関連ビジネスのIPOは途絶えることになる。

次回はIPOを果たした後、事業の急拡大に挑むVA Linux社の行動を書いていく。

次回:映画「Revolution OS」について

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日記

kazekiriの日記: Red Hat、Cobalt、Andover、そしてLinuxOne?のIPO 6

日記 by kazekiri

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1999年、シリコンバレー周辺地域はバブルに浮かれていた。インターネットが少しずつ利用を広げる内にインターネットが世界を一変させるという過度な期待が先行するようになり、また当時の金融政策の影響もあって、利益の裏付けどころか製品およびサービスすら存在しないプレゼン一枚だけであってもネット関連というだけで莫大な資金調達が可能になり、黒字が全く見込まれなくても株式公開が行われるという状況になっていた。.comというドメインサフィックスからそれらのベンチャーはドットコム企業とも呼ばれていたが、このネットベンチャーに投下される資金による設備投資によってIT関連機器とサービスへの需要が爆発し、古参のシリコンバレー企業の株式も高騰していった。また、加熱するネット企業の起業により極度の人材不足が発生し、人材確保のためにおしゃれな社屋とオフィス家具、レクリエーション用の設備、無料の豪華ランチといったものが浸透し始め、また大量に流入する起業家、投資家、開発者、その他の人々によって周辺地域の経済を加熱させていた。

今のサンフランシスコと全く変わらないという声が聞こえてきそうだ。しかし、当時のネット人口は現在の数十分の一程度であり、人々はYahoo!ディレクトリと群雄割拠の検索エンジンを頼りに中身のないサイトを巡るネットサーフィンを行っていた時代である。近年も莫大なベンチャー投資がサンフランシスコとシリコンバレー周辺地域に注がれるようになってきているが、バブル状態だと言われることもある現在と同規模の投資が1999年から2000年に かけての時期にも行われていたことは驚きでしかない。つい最近、とうとうS&P IT指数がドットコムバブル期の高値を越えたが、この推移を見れば、当時の異常さが分かってくるのではないだろうか。

現在のユニコーン企業の異常さは他に語るべき人がいると思うので、ここでは当時のドットコムバブルという時代背景を踏まえ、オープンソース関連のIPO(新規株式公開)を追っていく。

先陣を切るRed Hat

1999年、ドットコムバブルの風に吹かれ、生まれたばかりのLinux/オープンソース関連企業にもIPOを目指す機運が出てきていたが、その先陣はRed Hat社が務めることになる。

Red Hatは1994年にMarc Ewingが作成したLinuxディストリビューションであるが、翌年にはごく小さなソフトウェア販売の会社を経営していたBob Youngがそれを商標権ごと買い取った。このあたりが現在のRed Hat社の起源である。当時としてはそれなりに使いやすいパッケージシステムを備えており、1996年に出されたRed Hat 4.0以降は北米を中心に世界的にもメジャーな存在になっていたと思う。日本では日本語環境のための追加パッケージであるJEがSlackware用であり、JEの後継プロジェクトであるPJEが1997年にRed Hat対応を行うまではシェアは抑えられていたが、それ以降は標準的な地位になったと言って良いだろう。欧州ではSuSEが勢力を伸ばしていたが、Red Hatの影響を受けてその構造を取り入れており、また1998年に出現したMandrakeは元々はRed Hatをベースにしたものであった。北米でもNovellの混乱から生まれたCaldera社がIPXベースのネットワークOSとも言えるようなCaldera Network Desktopを出していたが、これもRed Hatをベースにしていたように思う。このようにRed Hatの影響を受けた多くのディストリビューションも出現し、シェアが最大というだけでなくLinuxディストリビューションのリファレンス実装的な側面も出てきており、業界の先頭を走る存在だと見なされるようになっていた。なお、現在ではメジャーの一角とも言えるDebianは、Wichert Akkermanがリーダーの時代の1999年にリリースされたDebian 2.1(Slink)でやっとAPTが含まれたという状況であり、フリーソフトウェア支持者からは熱狂的な支持があったが、"一般的"なLinuxユーザーが使用できるものという空気はそれまではさほどなかった。

ビジネスの状況としては、1996年2月度までのRed Hat社の売上は100万ドル以下であり、赤字体質であったが、前述のRed Hat 4.0あたりからは売上が急増するようになり収支が拮抗してきた。そして、1997年に米国有数のメディアコングロマリットであるLandmark Media Enterprises社を率いる富豪のFrank Batten一族から最初の投資を得ることになる。この後、1998年の夏頃にCaldera社との合併の噂が流れるといった外部から見るとごたついていると思われていた時期もあったが、1998年9月と1999年2月から4月にBatten一族、IntelならびにBenchmark CapitalとGreylockという有名なベンチャーキャピタルが加わった追加投資を相次いで行い、それらを通してIBM、Compaq、Oracle、Novell、Netscape、SAPあたりも少数ではあるがRed Hatの株主に加わることになった。この時期の売上は1998年度が500万ドル、1999年度に1,000万ドルとなり、大きな赤字も出さずに獲得した投資を着実に事業の拡大へつなげられていたように思う。

彼らはLinuxディストリビューションという枠内では既に支配的な地位だと見なされており、オープンソースムーブメントに乗ってLinux採用が勢いを増していく中、Red HatはIPOを目指すことになる。インターネットが一般にまで広まれば無料でネットから手に入れることができるOSでどうやって利益を出していくのだ?という素朴な疑問も根強くあったわけだが、SuSEやMandrakeのような手法を北米の大資本が使えば容易にトップの地位をひっくり返される可能性もあったし、そもそも当時の空気の中では業界のナンバー1起業がIPOを目指さないという選択はなかっただろう。1999年6月、Red HatはIPOを申請した。

1999年夏頃にはIPOバブルの行き過ぎが懸念されるようになっており、芳しくない結果となるネット関連のIPOも出てきていたが、最初のLinux企業の株式公開はオープンソースムーブメントの熱狂に乗って大きなトピックになろうとしていた。公開日の8月11日に向けて徐々に投資家からの人気が高まっていることが明らかになってきており、さらにオープンソース開発者らにIPO価格での購入権をオファーするという行為の話題性も人気の高まりに寄与していた。

なお、Red HatはLinuxカーネルやその他のソフトウェアの開発者、パッケージ、マニュアルへの貢献者らの5,000人程度にIPO価格での購入をオファーしたとのことだが、このような試みがそもそも過去になかったため、オファーメールがスパム扱いされたり、オファーを受けても指定されたE*Trade社のシステムから参加する資格がないと閉め出される者が続出する(Slashdot)という事態も発生し、一部のコミュニティがカオス状態に陥った。(お前はVA社のボードメンバーとしてオプションを持ってるだろ!と言いたくなるが、)Eric Raymondまでもが E*Tradeのシステムから排除され、混乱に拍車をかけることになる。運良くE*Tradeシステムでの手続きを通過していた者も、人気の高まりを受けて公開日直前にRed HatがIPO価格を10-12ドルから12-14ドルへ引き上げたことで悲劇を招くことになる。価格変更によりE*Tradeシステムでの再確認が必要になったのだが、8月11日の公開日はLinuxWorld Expoの開催日であったためその連絡に気が付かない者が出てきたのである。オープンソースムーブメントに関するドキュメンタリー映画「Revolution OS」ではRed HatのIPO当日のLinuxWorld Expoのフロアのシーンが出てくるが、VA社CEOのLarryが自社で設置したEmail Gardenにて来場者にRed Hatの株価を尋ね、嬉しそうにみんなRed Hatの株価をチェックしていると言っているのは、このような背景もあったからである。なお、最終的には1,000人以上の者がIPO価格でのRed Hat株の取得ができたようだが、しばらく印象が悪さがつきまとうことになった。

何はともあれRed HatのIPOは8月11日に無事に行われ、初値は48.50ドル、終値は52ドルで取引を終え、Red Hatは1億ドル近い資金を得ることになった。LinuxWorld Expoが終了する週末までに80ドル台にまで株価は上昇し、販売価格の5倍に達するという大成功を見せたのである。

Red HatのIPOの成功によりVA社は以下のような知見と感覚を得た。

  • 人々はLinuxとオープンソースムーブメントが市場へ出て行くことを歓迎している。
  • オープンソースコミュニティは自分達が金銭的にも報われることは悪いことではないと考えている。
  • VA LinuxはRed Hatよりもうまくコミュニティへ還元しなければならない。

この時点で市場は次のIPOとしてVA Linux社がすぐにでも来ることを予測していた。そして、それがLinux株の本命になるという期待もかけていた。

意外な伏兵、Cobalt Networks

1999年9月、Red Hatの株価は100ドルを超えるようになり、そろそろVA社の番だと市場が思っていた頃、意外な会社がLinux IPOの二番手としてIPOを申請した。Cobalt Networks社である。

Cobalt社は1996年に創業したローコストなサーバーアプライアンス製品を製造販売していた企業である。日本ではよく売れたのでCobalt QubeとCobalt RaQという製品を覚えている人も多いだろう。MIPS R5000系のチップのマシンにRed Hat Linuxが組み合わされ、サーバーアプリケーションの設定が容易になる特徴的なUIが搭載されていた。また、何よりも鮮やかなコバルトブルーの筐体が目を引く製品だった。

最初の製品となるCobalt Qubeは1998年に出荷であり、つまりそれまでは売上はなかった。売上を計上したのはIPO前の6四半期だけであったが、IPO前の1年間では100万、200万、260万、500万ドルと四半期売上を伸ばしていた。 このほとんどの売上はパートナー会社からの間接販売であり、海外売上が非常に多く、全体の30%近くを日本の売上が占めていた。その多くは日商エレクトロニクス社の販売によるものである。事業活動も製品の完成以降は販売網の構築に注力していたように見受けられ、オープンソース企業というよりも当時の新興のネットワーク機器の会社により近かったかもしれない。

このように書くと順調なビジネスには見えてくるが、IPO申請時期までに2,000万ドル以上の損失を記録しており、売上の数字よりも多くの損失を出し続けるような状態であり、通常であれば将来を見通しにくかった。Cobalt社は1996年から1999年にかけて3回の投資ラウンドをこなし、総額で4,800万ドルの資金を得ていたが、当時の残存のキャッシュや幅の広がりを考えにくいビジネス形態を考えるとこのタイミングでIPOするのが投資家には最善だったのだろう。

ともあれ、Red Hatの余韻が残る市場ではドットコム企業ともオープンソース企業とも取れるCobalt社のIPOは非常に人気が高まり、16ドルの当初価格から直前に22ドルにまで引き上げられ、11月5日の公開日には128ドルで取引を 終えるというRed Hat社を越える大成功を見せた。

CobaltのIPOの成功によりVA社とクレディスイス証券は以下のような感覚を覚えた。

  • 同じハードウェア会社のCobaltが成功したのだから、VAはさらにもっと大きな成功ができるに違いない。

なお、2000年9月にSun Microsystems社によるCobalt社の買収が発表され、Cobalt社はわずか1年だけを上場会社として過ごし消滅した。1億ドルの資金を調達して上場後もさほど変わらないペースで損失を計上し続け、一度も黒字化を見通すことはなかったが、20億ドルという金額での売却は投資家と経営幹部には大成功と言えるのだろう。さらに悪化し続けた当時の市況を考えると、ここしかない時期にIPOを果たし、ここしかないタイミングで売り抜けたとも言える。Sun社で立ち上げられたCobalt社の製品ラインは2003年、早々に廃止されることになるが、1998年の当初からCobalt社を支え続けていた日本のファンによって一部のツールがオープンソースとして残った。

え?マジで?、Andover.net

Cobalt社がIPOを申請した翌週、早くも3社目のLinux/オープンソース関連?の会社のIPOが申請された。VA社ではなく、Andover.net社である。これを予測していた者がいたという記憶は私にはない。

Andover.netは1992年に創業し、1996年まではごく零細なソフトウェア販売業の会社だったようだ。1997年から全面的にWebメディアにビジネスを移行し、主にWindows系の(自由ではないほうの)フリーウェアの情報やIT系ニュースサイトを運営していた。転換社債の発行で資金を調達し、少しずつサイトの拡大と運営サイトを増やしていったが、どれもが個人サイトの域を出るような規模のものではなく、Andover.netという名を知る者はほぼいなかった。

1999年にAndover.netは自社でメディアを育てるのではなく、転換社債を元手に既に成長しているサイトを買収する方向に舵を切った。そして6月にSlashdot.orgを買収することに成功してしまう。オープンソースに関わるあらゆる歴史的な出来事が何故かSlashdot.org上で議論されてしまうという流れになっていたことから、そのムーブメントに乗ってサイトが成長してしまい、それによってサイト運営が創業者のRob MaldaとJeff Batesの手に負えなくなっていたというタイミングが重なったことで、Andover.netは自社の小さなメディアを凌駕する規模のサイトを獲得することに成功したのである。

この勢いでAndover.net社は、同月にGIFアニメ、アイコン、クリップアートなどの販売とオンライン上でのGIF製作ツールなどのサービスを提供していたAnimation Factoryというサイト群を買収し、8月には主にオープンソースソフトウェアの更新情報サイトであるFreshmeat.netを買収、10月にはLinux/オープンソース関連のネタにフォーカスしたグッズを販売するThinkGeek.comを買収した。この数カ月間の買収が事実上のAndover.netのビジネスの全容に近いものになるわけだが、この一連の買収劇の最中である9月16日にIPOを申請したのである。

つい3ヶ月前までほぼ無名の会社であったため、誰もが驚くIPO申請ではあった。しかし、800万ドル程度の累損があったものの、既にそこそこの規模に成長しているメディアとEコマースのサイトを取得していたことで、広告市場が崩壊しない限りは安定したキャッシュフローが得られることが確実であるのは良い材料だった。また、何よりもSlashdot.orgを買収したことでオープンソースというムーブメントがあることを知ってしまった経営幹部は、Andover.netが「Linux/オープンソース関連情報Webサイトの訪問者の50%を握るリーダー企業である」というメッセージをしきりに流すようになっていた。この言説はコミュニティ層であればそのままスルーしてしまうが、当時の市場には良く響いた。何故ならRed HatがIPO時に明らかにしていたビジネス戦略の内、割と具体的な内容が書かれていたのはredhat.comのポータル化による広告戦略ぐらいだったからである。そのため、Red Hatのポータル戦略はSlashdot.org、Freshmeat、Linux.comよりもはるかに小さなページビューしか獲得できていないのにうまくいくわけがないと批判する向きもあったのだが、Andover.netのIPOに際しては逆にそれが追い風となって作用した。オープンソースビジネスが何であるのかという問いへの回答がまだ市場に対してなされていなかった時代だからこそ、単なる小さなWebメディア企業がLinux/オープンソース関連株になったのである。

Andover.netのIPOは、OpenIPOネットワークを介したダッチオークション形式で行われた。稀な手法であるが、投資とはあまり縁もない多数の個人も株を欲しがるという読みもあったのだろう。当時としては多い発行済株式の25%が売りに出され、12月8日に18ドルでオークションは完了し、公開初日の終値は63ドルまで上昇した。Andover.netは無事に5,000万ドルを越える資金を手に入れることになった。

Andover.netのIPOの成功によってVA社とクレディスイスは以下のような感覚を覚えた。

  • Andover.netのメディアよりもよりオープンソースの本質に近いメディアを運営しているのだから、VAは当然のように大きな成功を果たすだろう。

一体何が起きている!?、LinuxOne

Andover.netによるIPO申請の翌週9月22日、早くも4社目のLinux企業?によるIPOが申請された。今度もVA社ではなく、LinuxOneという企業からであった。誰も知らない会社だった。

S-1申請書によれば、LinuxOneは当年の3月に設立したらしい。キャッシュは150,000ドルほどが残っているらしいが、売上はゼロであり、販管費の計上はない。従業員が10名と書かれていたが、事業の形跡が伺えないものであった。彼らの主張によれば申請当月の9月にLinuxOneというLinuxディストリビューションを公開したということだったが、同社のwebサイトから辿れるFTPスペースに置いてあったのは確かRedHat Linuxそのものだったようなかすかな記憶があるが、Mandrakeだったかもしれない。ともかく彼らのディストリビューションではないことは明らかだった。Webサイトについても当初はごくわずかな書き込みが存在したことは記憶にあるが、数日後にはコンテンツ全て消されていた。

全く実態がないようにしか見えない会社ではあったが、LinuxOneは「自社のディストロが世界で最も人気のあるディストロになることを信じている」と申請書では明記していた。また、LinuxOneのIPOの計画は300万株を一株8ドルで公開するというものであったが、「公開価格は、当社が約2,300万ドルを調達するために任意に設定したものであり、資産、収益、簿価、その他の価値基準とは何ら関係がありません」と堂々と書かれていたのも味わい深いものであった。さらに、S-1申請書の戦略面等についての多くの箇所がRed Hatの申請書をそのまま拝借しているようであり、やる気のなさが垣間見えるものであった。

当然のようにLinuxOneのIPO申請にはあちこちで論争が発生し、それ以上のプロセスを進むことはなかったが、一歩間違えばほぼ実績がないビジネスであってもIPOが可能であることを示した事案だった。何しろ他のどの会社も直前で赤字を計上し、今後もビジネス拡大のために赤字を継続するという前提でIPOを達成したわけである。

ともかく、この事件はLinux/オープンソースバブルの一つのネタとして象徴的に語られることになった。

そして絶頂へ

LinuxOneの騒動でまだコミュニティがごたついていた10月8日、とうとうVA Linux Systems社がIPOを申請した。Red Hatの後に何故か間に3社が挟まれ、それぞれ印象的な結果を残したが、市場はとうとう本命がやってきたと騒ぎ始めた。

長くなったので次回へ。

次回:VA LinuxのIPO:13ドル、23ドル、30ドル、そして 300ドルへ

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kazekiriの日記: バブル期までのLinuxイベント

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SNSのTLをだらだらと眺めていると何やらイベントらしき写真が流れてきた。Open Source Summit Japanというイベントが開催中らしい。今時にオープンソースイベントか!と若干心が踊りつつ、アクセスしてみると、

LinuxCon, ContainerCon and CloudOpen become the Open Source Summit beginning in 2017.

あぁ、Linux Foundationが幾つかの自前イベントをマージさせただけか、と落胆することになった。Linux、コンテナ、クラウドの三要素でその名前はちょっとないだろう。まあ、多くの日本人がこういった場で話しているのは喜ばしいことではあるか...。

と、そんな経緯から、以前は毎年動向をチェックしていたLinuxとオープンソース関連のイベントの現在をだらだらとチェックしてまわっていたのだが、悲しいことに既に有名なイベントの多くは毎年の開催を停止してしまっているようだ。Linux界の三大カンファレンスの中で現在も変わらずに開催を続けているのは、オーストラリアのLinux.conf.auだけである。最も古くから開催されていたドイツのLinux Kongressは2010年、Ottawa Linux Symposiumは2014年が最後の開催となっている。ただ、O’Reilly社主催のOpen Source Convention(OSCON)については、Linux.conf.auと同様に昔のままのような空気を保っているように見える。OSCONは、ESRが北米で初の「伽藍とバザール」の講演を行ったことでも触れたPerl Conferenceから発展したイベントであり、1999年の開催からPerl以外の様々なオープンソースソフトウェアのトピックを扱う現在の形になっている。O'Reilly社のネットワークを活かして様々なオープンソース開発者が集まり、そこで新しいプロジェクトは発表されることも珍しくはなかった。様々なオープンソース開発者が直に出会うことで新しい何かが生まれるのである。私の記憶ではOpenOfiice.orgの発表もOSCONだったように思う。

カンファレンスはこんなところとして、展示会中心のイベントとなるともはや現在も残っているものはほぼないように思う。ここで歴史を振り返ってみると、Linux系としては最古のLinux展示会は、ドイツのLinuxTagと米国のAtlanta Linux Showcaseあたりではないかと思うが、どちらも1996年が初開催であり、地元のLinuxユーザ会の有志が立ち上げたコミュニティイベントである。双方共に当初は非常に牧歌的な草の根イベントであったようだが、1998年あたりからは参加者と出展者が激増するようになったようだ。LinuxTagでは運営組織が新たに作られ、Linux Showcaseはユーザー会ではなくLinux InternationalとUSENIXが運営に関わるようになった。ただ、どちらもボランタリーのイベントの空気をそのまま残していた。

このあたりのイベントへの参加者の熱気、そして1998年からのオープンソースのムーブメントが重なったことは、IT分野のメディアとイベント運営企業として知られていたIDG社のCEOのPatrick McGovernの目に止まることになる。IDGはMacWorldでよく知られていたように、後ろにWorldを付けた雑誌、Web、イベントを手広く開催していたが、このIDGが商業ベースとしては初と言えるLinuxとオープンソース専門展示会であるLinuxWorld Conference & Expoの計画を立てたのである。

ただ、IDGとしては正直なところLinuxコミュニティという得体の知れない存在にどう対処すればいいのか分からなかったのだろう。Linux InternatinalとSVLUGの重鎮であり、コミュニティにどっぷり浸かっているように彼らからは見えたVA社CEOのLarry Augustinに最終的に相談することになる。最初は気乗りしなかったという彼の言葉を聞いたこともあるが、同時期にSVLUGがLinux関連のカンファレンスを計画していたこともあり、どうせなら一緒にして派手にやるかとでもなったのではないだろうか。

1999年3月に第1回目がSan Joseで開催されたLinuxWorldは、彼と周辺のコミュニティの感覚がそのまま取り入れられ、企業ブース、技術講演といった基本要素に加え、オープンソースコミュニティ用のブースやSVLUGのミーティングがセットになったイベントとなった。基調講演は当然のようにLinus Torvaldsが行い、Linusの呼び出し役をLarryが務め、途中からはLinusの娘が乱入するというその後何回かの定番となるスタイルもここで出来上がった。LarryはこのLinuxWorldの事実上のホスト役としてメディアに追われ、ESR、Linusと共にその時々の業界の動向について記者会見も行うという流れにもなっていた。展示フロアでは多くの企業ブースと共にFSF、Debian、GNOME、FreeBSDといったプロジェクトの面々がブースを構え、RMS、Miguel de Icaza、Jordan Hubbardといった面々が黙々とキーボードに向かい、ESRやBruce Perensがフロアを歩きまわり、Debianの連中はこんなマシンでDebianを動かしたと自慢し、Slashdot Guyはいつものようにふざけていた。また、ドットコムバブル期らしく、毎日のようにどこかの企業やコミュニティ主催のパーティが開催され、それをハシゴするのも定番のようになっていた。

LinuxWorldはその後、夏にSan Francisco、冬にNew Yorkと年二回開催されていくことになり、VA社はこのような経緯からコーナーストーンスポンサーというポジションに置かれることが予め決まっていた。コーナーストーンとは礎石のことである。コーナーストーンスポンサーであるVA社のブースは正面入り口前に最大規模で置かれ、コミュニティ用のブーススペースや来場者用のメールサービスコーナーのホスト、技術講演の選定役といったことを行う流れだった。

まさにLinuxWorldではVA社が主役だったわけだが、2001年8月のLinuxWorld、入り口にはいつものようにVA社のタワーが建っているものの特に展示物や人員の配置はなく、正面入り口前なのにまるで通路のようになっており、そこを来場者がブースなぞ何も存在しないかの如くその奥にある他社のブースへと向かって歩いていた。そう、礎石が消えたのである...。

懐かし話はここまでにして強引に話を戻し、次回こそIPOから。

次回:Red Hat、Cobalt、Andover、そしてLinuxOne?のIPO

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日記

kazekiriの日記: オープンソースバブルへの道、VA ResearchからVA Linuxへ

日記 by kazekiri

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オープンソースという言葉がVA Research社のオフィスで誕生して以降、VAを取り巻くビジネス環境は激変することになった。 創業からの数年間は成長とは言っても微々たるものであり、200万ドル程度の年商、つまり当時の秋葉原の小さな雑居ビルに入居していた多くのショップブランドのPCショップよりも小さいような規模であったわけだが、オープンソースというキーワードが突然脚光を浴びてからは、四半期毎に売上が倍増していくような急成長のペースに乗った。

ヒト・モノ・カネといった個別の内容に分けて1998年から1999年にかけてVA社に何が起きていたかを記していく。

ベンチャーキャピタルからの投資

VA社のCEOのLarryはよくSun Microsystems社のビジネスとの比較を好んでしていたような記憶がある。Sunが高価なSPARCのSolarisマシンをあれだけの規模で売っているのだから、同等性能のIntelアーキテクチャのLinuxマシンを安価で出せば必ず市場はひっくり返るはずだと。その見立ては未来人である我々から見れば正しいし、彼はそれを実現するためにLinux Internationalを通じてLinux関連企業の輪を育て、SVLUG等のユーザ会の会合には10人しか人がいなくても足を運んでユーザーコミュニティの拡大にも注力していた。そして少しずつ着実に利益を重ねていたが、ハードベンダーとして成長に必要な設備、人材、資金が欠けていたことは前回までに触れていた通りである。

Larryはベイエリアの有力なベンチャーキャピタルを回り、自身のビジネスを説明していたが、VA社が自社製品に搭載するフリーソフトウェアの開発をコントロールするような権限を持っているように見えないこと、そしてそもそもフリーソフトウェアをビジネス化するのは特定の領域を除いて困難であるとの当時の一般的な認識から、VA社へ投資しようとする投資家は存在しなかった。

そこへ1998年2月からのオープンソースの波が発生することになる。

オープンソースの誕生以降、オープンソース、バザールモデル、そしてLinuxの三点がセットとなり、急激にメディアでそのムーブメントが取り上げられるようになった。その注目はLinusを中心としたオープンソース開発者だけでなく、やがてLinuxビジネス関連の企業にも注がれるようになった。今まで全く見向きもしなかった層からもにわかにアプローチがかかるようになったのである。これは当初のオープンソース誕生の会議の場にいた者達が企図していたものではあったが、予想をはるかに越える成果をもたらしたのではないかと私は考えている。

その流れの中で1998年10月、VA社としては待望のSequoia CapitalとIntelからの合わせて540万ドルの出資が実現した。オープンソースの流れの中でLinux企業にもスポットライトが当たりつつあったが、Sequoiaとしてはその中でもシリコンバレーのLinuxコミュニティで特異なポジションを築いていたVA社が、ブームとは言えどもやはり彼らからは得体の知れないオープンソースコミュニティという存在を牽引するコアになれるという期待があったのだろう。Sequoiaというシリコンバレーを代表するベンチャーキャピタルの後ろ盾を得たVA社は、この投資をきっかけに他の懸案事項に対して急速に動いていくことなる。

なお、Sequoia Capitalの取りまとめにより、翌1999年6月にはIntel、SGI、そして日本の住友商事などが参加する形で総額2,500万ドルの追加出資が行われた。ここから派生していくことになる日本側の歴史は現法人に影響しない程度でいずれ書くかもしれない。

コミュニティからの人材結集

オープンソースという言葉が受容されていくにつれ、そのビジネスを推進していくためにはコミュニティとの距離感が重要だという認識が業界内や投資家層では少しずつ強まっていった。一般的なプロプライエタリのビジネスであれば、開発は全て自社でコントロールできるが、オープンソースの場合はそうとは限らないからである。

VA社の従業員は歴史的にSVLUGのコアメンバーが多く含まれ、98年当時としては特異なポジションの会社ではあったが、十名そこそこの会社規模からしても当然のようにLinuxカーネルやその他のオープンソースソフトウェアへ影響を及ぼすような能力はなかった。

そのような中、1998年7月、Leonard Zubkoffという男をVA社へCTOとして入社させることに成功した。私が知っている中では最初の名が知れたオープンソース開発者の獲得である。ZubkoffはLucid社で Lucid Common LispやLucid Emacsの開発にも関わっていたと聞くが、一般的には当時のLinuxのMylex(BusLogic) SCSI/RAIDドライバを含むSCSIサブシステムへの貢献で知られているかもしれない。Zubkoffの入社は、VA社のハードウェア製品に対して自社でメンテナンス可能という安心感を顧客と投資家に与えることになる。これは先述の10月に実現するSequoiaからの出資にもつながったのではないかと私は考えている。実際、このポイントが翌年の追加出資に加わった住友商事側の評価点の一つであったことは事実である。

そして、98年10月にはオープンソース運動の立役者の一人であり2月のオープンソース誕生の会議の出席メンバーでもあるEric RaymondがVA社にボードメンバーつまり取締役として加わった。オープンソース運動開始以降、ESRが営利企業に関わるのは現時点でこのVA社だけである。CEOのLarryはコミュニティとの距離をなるべく近く取ることを日頃から強く意識していたが、オープンソースへの注目が集まるにつれカリスマ性を日増しに増していたESRを取り込むのが一番てっとり早いと考えたのだろう。ESR自身も自分の理論を試しつつ、オープンソースコミュニティのコア的な企業が必要だと考えたのではないかと思う。

ESR加入後のVA社はオープンソース第一主義を徹底するようになり、またバザール的な思考が社内を支配するようになった。会社の全てのシステムはオープンソース化され、そしてバザール的な管理、運用がされるようになった。

そして、当然ながら外部からの注目をにわかに集めるようになり、既に必要な投資を集めていたこともあって人材が加速度的に集まるようになっていった。1999年の初夏あたりまでにはLinuxカーネルのファイルシステム周辺の開発で知られるTheodore Ts'o、BinutilsとNFSのメンテナであったH.J. Lu、EnlightenmentとGNOME、X関連の幾つかのプロジェクトで知られていたCarsten Haitzler(Rastermanとして知られる)、Geoff Harrison、DebianのコアメンバーであるJoey Hess、Sean Perry、そしてLinux InternationalのJon 'maddog' HallがVA社へ入社した。99年夏までの1年間に150名ほどがVA社へ入社したが、この内の半分程度は何らかのオープンソースプロジェクト、もしくはコミュニティに属する者で占められ、管理、財務、営業といった部門を除けば大半がコミュニティ系の人材という状況であった。

オープンソースのコアWebサイトの出現

CEOのLarryはオープンソースがソフトウェア業界に革命を起こしていることを固く信じていたし、VAがオープンソースビジネスを主導し、コミュニティと一体化することを望んでいたように私は感じていたが、98年から99年にかけての半年間の人材の結集はそれを内外に印象付けることになった。このLarryの感覚は思いがけない成果も引き出すことになった。1999年3月、売りに出されていたLinux.comドメインを応募価格が低かったのにも関わらず獲得することに成功したのである。

Linux.comドメインは元々オランダ人のFred van Kempenが1994年以降保持していたが、1998年からのオープンソース運動が高まりを受けてLinuxが急速にビジネス化されていくことを感じ、Linux.comドメインの売却に動いていた。このドメインに対して複数の応募があり、最高の価格は500万ドルだったと言われている。(当時の噂ではMicrosoftも入札したとも言われていたが、まあ... それだけ注目されていたということだろう。)

VA社はこの数ヶ月前に540万ドルの投資を獲得していたが、当然それに張り合う金額を出せるわけがなく、VA社の入札価格は100万ドルだったと言われている。ただ、VA社はLinux.comを自社製品の宣伝には使用せず、コミュニティ自身が運営するサイトとする提案を同時に行った。VAの提案にはLinux Journal、Slashdot、FreshmeatといったLinux関連メディアや何人かのコミュニティ人材を登用したLinux.com運営のための諮問委員会を立ち上げることも含まれており、Kempen氏がその委員会のメンバーに加わるというものだった。Kempen氏はこの提案を受諾し、VA社は5月までにフルタイムの担当数名と数十人のボランティアが運営するコミュニティサイトとしてのLinux.comを立ち上げた。このドメインの取得で自社製品のゲートウェイにすることを望んでいた他の業者を押しのけたことは、VA社のコミュニティからの信頼を高めることに繋がったと私は考えている。

このLinux.comの開始の直前には、X用のWindow Managerのテーマや画像等のリポジトリサイトとして当時はコアなファンが多かったThemes.orgがVA社の運営サイトになっていた。元々は個人のプロジェクトだったはずのサイトだが、この時期の人材流入でいつの間にかサイトの創始者がVA社の所属になっていたためである。この時期は他にも多くのオープンソースプロジェクトがVA社のホスティング支援を続々と受けるようになっていたが、それらのプロジェクトおよびVA社の社員が関わる数多くのオープンソースプロジェクトを一つの場に集約して支援するという発想が出てきた。この発想の元で一つのサイトの開発が99年夏頃から開始され、11月に正式に運営が開始されることになる。これがSourceForge.netである。初期のSourceForge.netではWebホスティング、フォーラム、バグトラッカー、メーリングリスト、CVS、Anonymous FTPが提供され、99年末までにSourceForge.netには1,000程度のプロジェクトが収容された。

Linux.com、Themes.org、SourceForge.netはそれぞれにVA社の選任のスタッフが配属されていたが、基本的にコミュニティが参加可能なサイトとして運営され、当時は広告が販売されるということもなかった。全てVA Research社がオープンソースコミュニティと共にあることを内外に示すために存在していたのである。当時はYahoo!の影響もあり、ポータル戦略がオープンソースビジネスにも有り得るとする向きもあり、ビジネスモデルの構築に苦労していたRed Hat社もそれに向けて動いていた。また、ボストンの零細なIT情報サイトの会社であったAndover.netが、(不思議な話であるが)当時は最大のオープンソース関連サイトと目されていたSlashdot.orgとリリース情報サイトのFreshmeat.netを立て続けに買収し、世界最大のLinuxとオープンソース関連ネットワークであると売り出していた。そのような中でVA社のサイトは規模的にはAndover.net社のネットワークに準じる二番手のネットワークであったが、営利ではないことはやはり特異であった。

VA社のビジネスの変化

当時のVA社のハードウェア製品はいわゆるショップブランドPCと変わりはない。標準的なパーツを調達し、自社内でそれらを組み立て、そして自社で少々の調整を行ったLinux OSをインストールして出荷するという具合である。NECの製品にLinuxをインストールしただけのLinuxラップトップも販売していたが、基本的には全てタワー型のPCを自社で組み立てるというモデルであった。

オープンソースの誕生以降、それまではLinuxをよく知る層にだけ売れていたVA製品が急激にシリコンバレーを中心とした様々な企業から引き合いがくるようになり、売上が増大していった。自信を深めたVA社は98年の秋までに必要な資金と人材を確保し、ドッコトムバブルに沸く業界で需要の増大が見込まれていたデータセンター用途のラックマウント型サーバーを製品ラインナップに加えた。 VArServer 500と名付けられたこのサーバーは、2Uモデルで350MHz Pentium II、128MB RAM、9GB Diskという最小構成では3,000ドルを切る値付けがされていたが、この2UのLinuxサーバーは価格競争力もあり、一般的なPCサーバーベンダーではまだLinux対応がされていない98年当時としては画期的な製品だったのだろう。VA社としては驚異的な売上を記録し、自社でのハード組み立てが需要に追いつかない状況になった。そのため、翌1999年3月までにはIntelのプロバイダとしても知られているSYNNEX社と契約し、VA社はハードウェアの製造を全面的にSYNNEX社に委託することにした。

SYNNEXにハードの製造を任せて自社ではハード面は設計のみに注力できるようになった結果、VA社はどんどん集まってくるコミュニティ人材のリソースをソフトウェア面に偏重していくことになる。VA社は自社ハードウェア製品のためにLinuxシステムのパフォーマンス、信頼性、スケーラビリティを向上させるためのプロジェクトに人材を投入していった。ただ、VA社は全てをオープンソースコミュニティと共にバザールで開発ということが基本的なモットーであったため、ハードウェア製品の差別化にはつながっていなかった。

このあたりの差別化のためか。99年夏には前項で書いたようなオープンソース開発者のリソースを活用したサポートとプロフェッショナルサービスの事業を正式に開始することになる。この頃のCEOのLarryは、「VA社はLinuxとオープンソースの専門的な知識と経験と売っている」ということをよく話していた記憶があるが、彼自身もVA社の製品のハード面の競争力や自社に集まる人材をよく理解していたのだろう。ただ、それに反してVA社の知名度がどんどん向上するにつれ、製品として分かりやすいラックマウント型のサーバーが売上の大半を占めるようになっていった。

IPOに向けてVA Linux Systems時代へ

1999年5月、VA ResearchはVA Linux Systemsと社名を変更する。会社の製品が何であるのかをはっきりさせ、またLinuxというワードを入れるほうがビジネス的に有利だと判断がどこかにあったのだろう。前項までの流れの中、昔を覚えている人達のVA社の記憶はおそらくこの時期からのVA Linux Systems時代であると思うが、「Linuxとオープンソースの専門的な知識と経験」を売ると言っている会社の名前としては若干の矛盾を抱えていると私は考えていた。

ただ、幾つか不安な点が出てきつつも1997年度7月期でVA社は270万ドルの売上でしかなかったものが、1998年度には550万ドル、1999年度は1770万ドルと売上を拡大させ、ヒト・モノ・カネが集まり、シリコンバレー周辺のドットコムバブルがどんどん膨らむ中、にわかに株式公開の機運が高まっていった。

1998年のオープンソース誕生からわずか1年半分の出来事しか書けていないが長くなったので終了。 次回、IPOバブルと崩壊(仮)。

次回:バブル期までのLinuxイベント

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日記

kazekiriの日記: ソースウェアムーブメントになっていたかもしれない話

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VA社からは完全にずれるが、ソースウェア(Sourceware)という語についてもう20年近く心の奥底で気になっていたので供養として書いておく。

オープンソース受容へと動いたFreeware Summitにおいて、Cygnus Solutions創業者のMichael Tiemannがソースウェアという語句を提案していたことは前回の記事にて触れたが、この語は投票で敗れ、そのまま忘れ去られたというわけではない。現在もGDB、Binutils、CygwinといったCygnus社の影響が強かったフリーソフトウェアをホストするsourceware.orgのホスト名として残っている。

Cygnus Solutionsは、98年当時において最も成長を遂げていたフリーソフトウェア企業であり、GDB、GCC等のカスタマイズ、機能改善、バグ修正といったサポートをCygnusから受けていた日本の大手企業も多かったと思う。また、CygnusにはGNU開発系ツールの原作者が多く在籍し、特に組み込み市場では大きな影響力があったが、ニッチで地味な市場の特性の影響なのか、Michael TiemannとJohn Gilmoreという生粋のハッカーが経営することからの影響なのか、知る人ぞ知るといった会社であった。

Michael TiemannはGNUの信奉者であり、GNUプロジェクトに深く関わっていることからRMSの代役的な立場でFreeware Summitに招聘されたのだと思うが、彼はそこでフリーソフトウェアではなくソースウェアを新しい語として提案した。オープンソースという言葉の推進を開始した者達の動機を彼自身はよく理解し、フリーという語が抱える問題を本気で解決したかったのだろう。また同時にオープンが抱える曖昧さや一部の企業が背後に存在することも気になっていたのではないだろうか。残念ながらその場では全くと言っていいほど支持を得ることはできなかったわけだが、CygnusのGDB、GCCのビジネスはまさにソースコードレベルのサポートを販売していたわけでソースウェアという語は意外としっくりとくるものである。当時のCygnusよりもずっと規模が小さいLinuxディストロ系の会社は箱を売って日銭を稼ぎ、VA社は有り触れたPCを売っていたわけであるが、既にフリーソフトウェアのソースコードの改善をそれなりに大きなビジネスに変えていたCygnusによるソースウェアのほうが現在のおいて一般的にイメージされるオープンソースビジネスを表現する語として相応しいと思う時もある。まあ、地味だし、分かりにくいけれども。

なお、Freeware Summitの際、Michael Tiemannは業界全体の結束が重要だと唱え、オープンソースを使用していくことも同意した。また、オープンソースの歴史をまとめたO'Reilly社のOpen Sources: Voices from the Open Source Revolutionに一章を寄稿している他、オープンソース運動をテーマにしたドキュメンタリー映画のRevolution OSにも出演、さらにESRの後のOpen Source InitiativeのPresidentとしての活動も行っている等、オープンソースの普及に精力的に努めているが、その一方で先に触れたsourceware.orgの前身となるsourceware.cygnus.comを立ち上げ、そのFAQにはこう書き記していた。

A: Sourceware? Is that like Open Source-TM? Like Free Software?
Q: Yes. It's so much like them that we have our own term for it. Sourceware-TM is the Official Nomenclature around Cygnus, but it's just another word for libre software. Groovy, eh?

ソースウェアを使い続けたのはビジネス的にオープンソースという語が失敗した時の保険だったのかもしれないし、感情的なものを含めて他の意味があったのかもしれない。何となく黒歴史のような気もしていたので本人どころか当時のCygnus関係者にも聞いたことはないのだが、彼はずっとフリー(自由)にこだわりを持っていたからこそ、ソースウェアを使い続けたのだと私は解釈することにしている。

なお、当時のVA社よりもMichael TiemannとJohn Gilmoreが率いるCygnusのほうがハッカーからの信頼は高いはずであり、それを考えるとタイミングが一歩狂えばオープンソースではなく彼らが推すソースウェアが代替として使われるという可能性も実はあったのかもしれない。もしソースウェアが先に浸透していたとしたら、 「ソースウェアムーブメントに乗ってソースウェア的な手法でソースウェア化しました」などというフレーズも一般に溢れるようになっていたのかもしれない。(いや、ないか...。)

1997年にGCC等のビジネスでの成長の踊り場を迎えていたCygnusは、ベンチャーキャピタルからの投資を入れ、eCosという新規開発のOSでRTOS市場に進出することになるが、これは期待よりはうまくいかなかったのだろう。1999年にCygnusはIPOで潤沢な資金を確保していたRed Hatと合併することになった。Cygnusの社名はその後消滅したが、多くのGNU関連ツール、フリーソフトウェアの基盤を握る優れた人材、そしてIPO時には確固たるものを持っていなかったオープンソースのビジネスモデルをRed Hatにもたらした。そして、ソースウェアはそのサイト名とURLだけに残されている。

次こそオープンソースバブルへ。

次回:オープンソースバブルへの道、VA ResearchからVA Linuxへ

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日記

kazekiriの日記: オープンソースの誕生

日記 by kazekiri

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VA Researchの歴史においてオープンソースは外せない話題であるが、特に1998年の2月から4月までの期間はVAを抜きにしてもオープンソースにとって極めて重要な出来事が多いのでやや詳細に書いていく。現在、一般的にオープンソースの誕生は下記のように説明されることが多いのではないかと思う。

「Netscapeブラウザのソースコード公開計画の公表を受け、1998年2月にLinuxとフリーソフトウェアの開発者、コミュニティリーダーらがシリコンバレーに結集し、フリーソフトウェアに替わる用語としてオープンソースという言葉を生み出し、その定義を定め、オープンソースという商標を管理する組織を作った。Linus Torvaldsなどの著名なハッカーがそれに対して賛同し、一般に広まった。」

特にフェイクが含まれているわけでもないし、大概これで問題ないようには思うのだが、何故、この言葉を生み出す必要があったのか?という疑問が湧いてくる気がするし、何故この言葉は意味がゆらぐことがあるのか?といった割とあった疑問を解消するものでもない。また、まるで一夜にでオープンソースという言葉をコミュニティや業界が受け入れたかのような印象を与えるだろう。これらの回答を全て示すわけではないが、疑問への若干のヒントになると思われるので、時系列順にVAの視点を交えつつ書いておく。(他の主要人物からの視点は、O'ReillyのOpen SourcesやRMSの伝記等、既に刊行済の幾つかの書籍を読むほうが良いかもしれない。)

オープンソースという言葉の誕生

前回も書いたように、1997年頃にはVA Research社のLinuxワークステーションとサーバーはシリコンバレーを中心に受け入れられつつあったが、ドットコムバブルで発生していたインターネットサーバーの大きな需要に食い込むまでには全く至ってなかった。ソフトウェア面の信頼はLinuxユーザーコミュニティに近い層からは割とあったわけだが、そこから離れれば全くないに等しく、無料のOSで商売になるわけがないと言われていた。また、ハードウェアでビジネスを進めていくためには、生産設備、人員、サポート体制等のインフラ的な面への大きな投資が必要であったが、投資を得ようにも有力なベンチャーキャピタルは、フリーソフトウェアという無料でかつ共産主義的なイメージを持つソフトウェアに頼るVAのビジネスには極めて懐疑的であった。VA社はこのような逆風を取り除く必要に迫られていた。

そのような状況において1998年1月22日、Netscape Communications社がNetscape Communicatorのソースコードを修正と再配布可能なライセンスで無償公開する計画を発表した。現在のMozillaとFirefoxにつながっていくことになる決定である。

IEに遅れを取りつつあったとは言え、当時のシェア二位のWebブラウザのソースコードが公開されるというニュースのインパクトは大きく、VA社内はこのニュースに沸き立ち、まだ公開もされていないのにこの流れにどう乗るかという機運に包まれていたようだ。そこへ一人の男がマウンテンビューのVA社オフィスへ訪問してくることになった。Eric Raymond(ESR)である。

Eric Raymondはこの前年に「伽藍とバザール」を発表し、フリーソフトウェアコミュニティの中では一躍時の人となっていた。どのような経緯でEric RaymondがVA Researchを訪れることになったのかは私は知らないが、彼はNetscapeの決定を受けて、それを支援するためにわざわざペンシルバニアからシリコンバレーに来ていたようで、そのついでにフリーソフトウェア関連のビジネスを行う企業をできるだけ訪れようとしていたようだ。Ericを迎えるVA社側はCEOのLarry Augustin、VAのマーケティング担当でありSVLUG会長でもあったSam Ockman、業界団体のLinux Internationalを代表するという名目でJohn "maddog" Hall、外部の有識者的な枠?でナノテクノロジー関連のシンクタンクであるForesight InstituteからTodd Anderson、Christine Petersonの二人がESRを迎えての会合に招聘されていた。また、電話でSUSEなどの企業の人間も何人か会議には加わっていたようだ。フリーソフトウェアを贔屓にしていたことは確かのようだが特にコミュニティのリーダーでもないForesight Instituteの人間が何故招聘されていたのかは私には分からない。ただ、VAのCEOであるLarryとしてはこのタイミングでフリーソフトウェアへの逆風が吹くビジネス環境を一気にひっくり返すようなアイディアをなるべく広い視野で募りたかったのだろう。この二人の招聘の判断は結果的に非常に重要な意味を持つことになる。

ESRをVA Researchのオフィスに迎えての会合は1998年2月3日に行われた。会合のテーマは、Netscapeの決定を受けてフリーソフトウェアに注目が集まっている間に同調する企業の出現をどのように促すべきか、そして今回の決定をフリーソフトウェアの業界全体がどのように利用すべきか、というもので、ブレインストーミングのような形式の会合だったようである。この会合の冒頭、VAが直面していたフリーソフトウェアに対する印象、特に大企業の幹部層からのイメージが極度に悪いことへの不満がVA側から出された。当時のVAからすれば、FSFから発せられるフリーソフトウェアのイメージも単純な無料という意味のフリーも彼らのハードウェアビジネスにとってはマイナスであったことは間違いなかっただろう。

この不満に対する議論の中、Foresight InstituteのChristine Peterson女史がフリーソフトウェアという言葉の代替となる用語として「オープンソース」という言葉を代替することをさりげなく提案した。これがオープンソースの誕生である。

フリーソフトウェアへの逆風をいかにして克服すべきかという問いに対して、オープンソースという言葉に置き換えるという発想は他の参加者にとって青天の霹靂だったと思われる。コミュニティから少し離れた立場の人間だったからこそ生まれた発想だったのかもしれない。Christine Peterson自身は会合の数日前からそのようなアイディアを持っていたと聞くが、彼女はこの造語がとても受け入れられるものとは思っていなかったらしい。しかしながら、フリーソフトウェアという言葉に強い忌避感があることを様々な局面で受けていたVAの面々にとっては、非常に新鮮でかつ根本的な解決策に思えた。FSFを中心としたフリーソフトウェアからLinuxを中心としたムーブメントであるオープンソースに置き換えることで、無料のソフトウェアではなく、最新の開発手法であることを印象付けることが可能であるように見えたのである。

この日の内にVA Researchと会議の参加者らはLinuxをショーケースとしてオープンソースという旗印の下でビジネスを推進し、その言葉を広めていくことを決めた。そして、フリーソフトウェアの思想、カルチャーよりもLinuxの開発手法の先進性をアピールして、オープンソースの優位性を唱えていくという方針を立てた。この時点でのオープンソースはIT業界にはびこる様々なバズワードと変わらない。しかし、VAがその時点で幾つかのコミュニティに対して大きな影響力を持っていたこと、そしてその場にESRがいたことはこの言葉の浸透に大きな意味があった。さらに、その場でLinux作者のLinus Torvaldsに電話で連絡を取り、オープンソースに対して賛同を得たこともその後に大きな影響を与えた。かなり話が飛ぶが、この後のVA社のIPO時において、オープンソースの生みの親であると株式市場から見なされていたのはこのような経緯もあったからである。

オープンソースの定義の誕生

2月3日のVAでの会合はESRにとっても非常に有意義だったようで、彼は即座にその言葉を使った運動を進めることにした。

ESRは80年代にはEmacsの開発で貢献したりとGNUプロジェクトに近い立場であったが、Richard Stallman (RMS)の開発から組織運営に至るまでの厳格かつ妥協を知らないやり方に不満を抱き、袂を分かった一人でもあった。 1997年に彼が発表した伽藍とバザールは暗にGNU HurdとLinuxの開発体制を比較したものと見なされているが、これはVAにおける会合以前から彼がFSFからLinuxへスポットライトをずらすことを考えていたとも言える。

FSFの教条的なイメージを排し、彼の提唱したバザールモデルの象徴であるLinuxを押し立てて新時代の開発手法をアピールし、今までフリーソフトウェアを受け入れてこなかったスーツ層に訴え、フリーソフトウェアをソフトウェアビジネスの世界に受け入れさせる。この考えに対してVA社で出たオープンソースという言葉での置き換えというアイディアはうまくマッチするように思えたのだろう。

ESRはVAでの会合の直後から行動を開始し、数日以内には、何人かのフリーソフトウェア業界の著名な開発者とTim O'Reillyを含むビジネスパーソンにも同様に連絡を取った。この中で最も重要な意味を持っていた人間はDebian Projectのリーダーを務めていたBruce Perensだった。

Debian Projectは前年の1997年にDebian社会契約(Debian Social Contract)とDebianフリーソフトウェアガイドライン(Debian Free Software Guidelines, DFSG)という文書を公表していたが、そのドラフトを作成したのがBruce Perensである。Debianは元来からフリー(自由)な構成要素だけを利用することを志向していたが、このDebian社会契約は社会契約という形でそれを改めて宣言した文書である。この思想において、何がフリーであるのかという点を明確にするためにその条件を書いたものがDebianフリーソフトウェアガイドラインであるが、ESRはこのDFSGの存在をよく知っていたようで、この文書がオープンソースという新しい言葉を定義するために丁度良い文書だと考えついたのである。

ESRから相談を受けたBruce Perensはオープンソースのアイディアに賛同し、DFSGからDebian特有のタームを外して、オープンソースの定義(Open Source Definition、OSD)という文書を再作成した。この時点でオープンソースという言葉の定義が一応決定されたということになる。さらにPerensはオープンソースのマークを作成し、オープンソースという言葉と共に商標登録することを思いつき即座に実行した。そして、定義となるOSDと商標を管理する場としてopensource.orgドメインを取得した。

(なお、この商標登録とドメイン取得は、PerensがDebian Projectの金銭面や法的基盤を整えるために97年に設立していたSoftware in the Public Interest(SPI)という非営利法人にて行っていた。2006年まで続くopensource.orgドメインのSPIとOSIによる帰属問題の係争はここに端を発している。)

その後、ESRとPerensが中心となり、他に何名かを加えて、OSDと商標を管理するための組織である現在のOpen Source Initiativeの前身となるグループを2月末までに立ち上げた。

この流れで重要なのは、様々な信条を取り除いた上で理想とするフリー(自由)を定義したDFSGという文書からオープンソースという言葉の定義を拝借したことで、このような条件を満たすものをオープンソースと呼ぶとしたことであり、少なくともOSIという枠組みの中では開発手法や文化、政治信条的なものは含まれていないということである。Bruce PerensとしてはDebianでも社会契約とDFSGを切り分けたように、オープンソースから思想を排したほうがフリーソフトウェアの思想を売り込むために有利になると判断したのではないかと私は思っている。それを示すように、初期のopensource.orgにはESRがハロウィン文書を含む雑多な文書を置こうとしていたが、逆にPerensはそういったものを排除するように動いている。

オープンソースという言葉の受容

1998年の2月末までにはOSIの枠組みは完成しつつあったが、オープンソースという言葉の受容に関しては開発者やユーザーコミュニティでは賛否両論であった。2月8日にESR自身が「Goodbye, "free software"; hello, "open source"」という文書を発表し、各所のNewsGroup、ML、そして当時は生まれて間もないLWN.netSlashdotといったメディアに掲載されて議論を呼び、好意的な意見が割と多かったものの激しい嫌悪を示す者も少なくはなかったように記憶している。

ここでESRが早期にTim O'Reillyと連絡を取り合っていたことが意味を持つことになる。

彼が率いるO'Reilly社は当時でも様々なフリーソフトウェアやインターネット関連の技術書籍で知られていたが、Perl Conferenceというイベントも開催していた。Tim O'Reillyは97年のPerl ConferenceにESRを招聘し、伽藍とバザールに関しての講演を要請していた縁からESRとは周知の関係であり、ESRの考え方の良き理解者でもあった。また、O'Reillyはそのビジネスの関係上、Perl、Python、Tclといった言語、Apache、Sendmail、BINDといったインターネットの要素技術の関係者とも近く、フリーソフトウェアという言葉へのビジネス界隈からの忌避感をよく理解していたことから、ESRから知らされたオープンソースのアイディアを好意的に捉えていた。

O'Reillyは4月7日に彼の人脈を使って代表的なフリーソフトウェアの作者らを集める「Freeware Summit」と題した会議を開催する計画を立てた。O'Reillyとしてはフリーソフトウェアの界隈にスポットライトが当たっているこのタイミングで既にインターネットの様々な領域を支えているフリーな要素技術にも注目を集めたかったのだろう。フリーソフトウェアサミットともオープンソースサミットとも冠することがなかった意図は正確には分からないが、招聘予定者らの立場をそれぞれ忖度していった結果だと思われる。

サミットの出席者はサミット後の記者会見出席者のログにて確認できるが、司会役のTim O'Reillyの他、ESR、Linus Torvalds、Brian Behlendorf (Apache)、Larry Wall (Perl)、Guido Van Rossum (Python)、Eric Allman (Sendmail)らがいた。また、電子フロンティア財団(EFF)とGNU製品のサポートを行っていたCygnus Solutions社の創設者でもあるJohn Gilmore、(このリストには掲載されていないが)同じくCygnus Solutions社の創設者であるMichael Tiemannが招聘されていた。

サミット会合ではまず彼らが自身のプロジェクトでの体験を共有し、何故フリーなプロジェクトが成功したのかを話し合っていたようだ。この内容については、Guido van RossumによるPython newsgroupへの投稿が参考になるだろう。最終的に議論は、フリーソフトウェアという言葉が抱える逆風の問題に誘導され、新しい言葉を出し合った。その案の中にはfree softwareを使い続けるもの、また"freed software"という言葉もあったようだが、これらは支持を得ることはなかった。そのような中、Cygnus社のMichael TiemannがSourceware(ソースウェア)を提案し、その後にESRが提案したオープンソースと共に参加者による投票が行われた。投票の結果、15人中9人がオープンソースに投票したとRMSの伝記であるFree as in Freedomの11章には書かれている。私自身は総数が18人と聞いたことがあるのでこの数字が正確なのかは断言しかねるが、少なくともオープンソースに過半の支持が集まったことは確かなようである。

この結果を受け、その場の全員が結束して今後は基本的にオープンソースという語を使っていくことで同意し、サミット後に行われた記者会見でそれが公表された。既にVA Research社、Netscape社がオープンソースという語を使い始めており、さらにO'Reilly社が続くことになった。それに対してLinusを始めとするフリーソフトウェア界の著名開発者がその語を使っていくことを公に宣言した。この事実は非常に大きく、その後の様々な報道でオープンソースという言葉が使用されるようになり、一般にも次第に浸透していった。

なお、ここで興味深いのはオープンソースの定義というものに大きく触れることはなく、それぞれが推進するフリーソフトウェアの開発モデルの優位性等を話し合うことで、オープンソースが開発モデルやカルチャーのように扱われている面があることである。

まとめ

オープンソースの誕生はその語句の誕生、定義付け、受容といった三つの段階があったわけだが、面白いことにその三つの段階は全て異なる場所で異なるメンバーによって起こされたものである。VA社のオフィスでオープンソースという言葉を編み出したのはChristine PetersonとVAの面々と仲間内のビジネスパーソンであり、定義を生み出して実際に商標化まで行ったのは「フリー」の信奉者であるDebian ProjectのBruce Perens、そして主要開発者を集めてオープンソース受容の流れを演出したのはTim O'Reillyである。それぞれの段階での思惑はそれぞれの立場から微妙に異なるものの、共通するのは 様々なフリーソフトウェアが起こしていたムーブメントを如何にしてさらに広い世界へ売り込んでいくかということであり、この段階全てに参加していた唯一の人間であるESRは全てをうまく飲み込み、 このムーブメントを煽り続けるスポークスマンを演じていたと言える。

一方、伽藍とバザールを書き下ろして以降のESRは反FSF的なイメージで捉えられることもあったし、O'Reillyに関してもフリーソフトウェアのマニュアルはフリーでなければいけないというRMSの主張と闘っていたという経緯もあり、オープンソースをフリーソフトウェアと対立する概念として見る向きもあった。Freeware Summitの参加者にしても既にオープンソースに賛同していた者とO'Reillyとの関係が深い者を恣意的に選び、RMSが不参加だった穴に対してJohn GilmoreとMichael TiemannにGNUの論理を語らせて両陣営のバランスを取ったように見せかけた出来レースだったとも言えなくもない。このあたりからオープンソースとバザール的手法との混同、ビジネス寄り等といったような批判、またフリーの自由か無料かといった揺らぎと同様のオープンの意味の揺らぎが発生した一因であったように思うこともある。しかしながら、オープンソースの発明によってフリーソフトウェアの開発者、企業への注目がより集まったのは確かであり、結果として以前よりは自由な世界になったとは言えるのではないだろうか。

次回、VAとオープンソースバブル(仮)。

次回:ソースウェアムーブメントになっていたかもしれない話

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kazekiriの日記: オープンソースの源流、VAリサーチ社の黎明期 1

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昔々、VA Researchという会社がシリコンバレーにあった。この社名を知っている人は日本ではほとんど存在しないが、この会社はVA Linux Systemsと名を変え、その後に歴史的な株式公開を果たして上場会社となったことでわずかに記憶が残っている人達もいることだろう。さらにこの会社はVA Software、SourceForge、Geeknetと名称を変更し続け、2015年に最後まで残った事業がゲームビデオゲームの小売で最大手となるGameStop社に買収され、独立企業としての生涯を終えた。

今となっては歴史から抹殺されているが、このVA Research社がオープンソースという言葉や運動に影響を与えたことは間違いなく、(傍系はまだ存在するが)直系となる企業はもはや存在していないので、いずれ私の記憶までも曖昧になる前にこの会社の歴史をまとめておこうと思う。私がVAに関わる以前の歴史については、人伝に聞いたもの、VAの社内ML等を漁って知っていたもの、様々な書籍や公開文書から知ったものを書き連ねていくが、大筋的には既に公にされている歴史と差異は少ないと思うので大発見のようなものはないだろうし、既にこのあたりのことに興味がある人はほぼ存在しないと思っていたのだが、以前にあったオープンソース歴史研究会の件から黎明期のオープンソースの歴史を発掘したいという奇特な人がまた現れるかもしれないなということで書きなぐることにした。

起源

VA Research社はLarry AugustinとJames Veraが1993年に共同で創業した。二人の名前の頭文字からVAという社名になっている。モロにHP社のパクリである。二人はスタンフォード大学で知り合ったらしく、 Yahoo!創業者のJerry Yangとも近い関係であったらしい。Yahoo!の創業に誘われたが、それを断って二人でVAを創業したという話は何度も定番のネタとして聞いたのである程度は本当のことなのだろう。ただ、共同創業者のJames Veraについてはそれ以上の話を聞くことは一度もなかった。つまり、相当早い時期にVAはAだけの会社になっていた。

93年から94年にかけての事業活動は大学での伝手でホワイトボックスPCにLinuxなどのフリーなPC UNIXをインストールして売り歩いていたとも聞くが不明瞭な部分も多くよく分からない。カリフォルニアの会社法人として登記したと思われる1995年1月以降のVA Research社の事業は、Linux OSをプリインストールしたPCの製造と販売であることははっきりしている。大学時代の体験からそのままLinuxプリインストールPCという考えに行き着いたように聞いたことを記憶しているが、Linuxカーネルは1994年に1.0、1995年に1.2、1996年に2.0がリリースというペースであり、コアな技術者層においてのLinuxの浸透とVAの創業時期はうまく重なっている。このようなタイミングが良かったのか、VA ResearchのLinuxプリインストールPCはシリコンバレー周辺で安価なUNIXワークステーションを求めていた技術者、研究者に受け入れられ、割と早い時期に事業が軌道に乗った。VAのLinuxワークステーションはハードとして有り触れたパーツで構成され、特筆すべき点は特になかったが、Red HatやDebian等がハードに合わせて若干の調整がされており、そのサポートもされるという点で当時としては画期的だった。90年代に秋葉原で異彩を放っていたぷらっとホームに割と近い存在だったのかもしれない。

他にVAのLinux PCが受け入れられた理由としては、CEOのLarry Augustinのパーソナリティや社員の人脈に依るところも大きかったと思われる。Larryは、ビジネスの話題になると死んだ魚の目になるが、ハックやコミュニティ、テクニカルな話題になるとイキイキとした目になる分かりやすい男で、ちょっとしたパッチを送ってマージされたという話や日本人のDebian開発者らに囲まれて「Everyday apt-get! apt-get!」と相互に叫んでいた話など、嬉しそうに話していたことを思い出す。当時のシリコンバレーにおいてもLinuxのサポートができ、かつフリーソフトウェアコミュニティの匂いがする会社というのは珍しい存在であり、技術者からの親近感が当時のUNIX系ベンダーの巨人的な会社よりはあったのかもしれない。

着実な歩みとジレンマ

VAはいつの間にかシリコンバレー一帯をカバーするLinuxユーザのコミュニティであるSilicon Valley Linux User Group (SVLUG) に浸透していった。日本でLinux User Groupと言うと、かつてogochanが率いたJLUGを思い浮かべる人が年寄り世代には多いと思うが、SVLUGはJLUGのようなオンライン中心の組織ではなく、それよりもさらに過去に遡るかつてのJUS (日本UNIXユーザ会)に近いと思って頂いたほうが良い。SVLUGは元々はSilicon Valley Computer Societyという組織のPC UNIXを扱う一部門だったようで、80年代からMinixやXenix等のトピックを扱っていたようだ。*BSD時代を経て、この頃には急速にLinuxに傾倒するようになってほとんどのメンバーがLinuxを使用するようになり、独立したLinux User Groupとなったらしい。SVLUGのメンバーだから社員になったのか、VAの社員だったからSVLUGのメンバーになっていったのか、どっちが先なのかは分からないが、1997年あたりにはSVLUGのコアメンバーの多くがVAの社員となっており、SVCSからの独立もVA系の社員に依るところが大きかったようだ。

このあたりのSVLUGのコアメンバーのVA社員には、後にHPC界隈ではそこそこの知名度のあるPenguin Computingを創業したSam Ockman、Director of Open Sourceの肩書きでSummer of Code、Google Code、その他多くのGoogleのオープンソースプロジェクトに関わり続けているChris Dibonaらがいる。VA時代のChrisはWindowsバンドルPCのWindowsライセンスの返金を求めるWindows Refund Dayのデモ行進を率いたことや、オープンソースの歴史をまとめたオライリーの「Open Sources」を書いたことでも知られていたが、今はそれらの業績に対してVAという名称はあまり出していないようだ。彼には黒歴史なのだろう。

SVLUGのミーティング等を活動を通じてVAの名前がユーザーコミュニティに浸透していったという側面もあるが、VAはLinux Internationalという業界団体を通じて当時生まれたばかりでごく小さな零細企業しか存在していなかったLinuxビジネス業界の中でリーダー的な地位を持つと見なされるようにもなっていた。Linux Internationalがどのような経緯で作られたのかは知らないが、当時のLinuxコミュニティの有名人であったDECのJon "maddog" Hall (DEC AlphaへのLinuxの移植をLinusに要請したことや立派な白髭の風貌を覚えている人は多いだろう)がトップを務めており、今のLinux Foundationが行っているようなマーケティング活動やプロジェクト支援活動といった事業を当時の業界規模のレベルで行っていた。97年ぐらいからはLinux InternationalにおいてのVA社員の比率は非常に高くなっており、Jon "maddog" Hall 自身も99年にはVAに移籍している。

当時はWindowsの全盛期であったが、同時にインターネットバブル(ドットコムバブル)の最中でもあり、シリコンバレーには旧来からのITベンダーだけでなく様々なドットコムベンチャー、技術者、投資家が集まってきていた。それにより、インターネットサーバーや開発用のワークステーション用途での安価なUNIXマシンの需要は大きく、フリーなPC UNIXへの期待は日増しに増していくという状況であった。CEOであるLarryを中心にSVLUGやLinux Internationalといった団体、もしくはオンラインの開発コミュニティに割と近い位置にいたVAは、これらのITベンチャーに関わる技術者からの支持を受けやすかったのだと思われる。

また、シリコンバレー周辺にはLinux専業の会社はあまり存在していなかったのも幸いだったのだろう。歴史的な経緯から*BSDに近い会社は当時もそこそこ存在していたと思うが、RedHatはノースカロライナの会社であるし、他のLinuxディストリビューターもシリコンバレーの会社ではなかった。当時はLinuxの中ではRedHatが割とシェアを伸ばしつつある状況ではあったが、VAは基本的にディストリビューションに中立であったこともいろいろと好みが煩いエンジニア層を相手にするのは都合が良かったのだろう。

1997年頃までにVA Researchは200-300万ドルの年間売上と10数名程度の社員を抱えるまでに成長し、少ないものの着実に利益を重ねていた。ただ、当時のインターネットバブルに沸く他の商用UNIXベンダーやMicrosoftといったIT業界の巨人らなどと比べれば蟻のような存在であったことは間違いなく、単なるPCにLinuxを入れただけの製品で勝負していくには限界が見えていた。インターネットサーバー用途ではLinuxに巨大な潜在的需要があることは誰もが理解していたが、その分野は当時はSun, IBM, HP, Dellといった大手UNIXベンダー、PCベンダーと直接的に競合する分野であった。それでも、次の成長へ向かうためにサーバー分野に本格的に進出する必要があった。

ハードウェアに特筆すべき点が特になく、あくまでIAのハードとLinuxディストリビューションの組み合わせのLinuxシステムで勝負しようとしていたVA Researchにとっては、サーバーハードの設計、開発、保守のための設備、人員への投資が必要であり、さらにその上に搭載するLinux OSのために優れた人材をさらにかき集める必要があった。それと同時に、LinuxしかウリがないVAにとっては、Linuxとフリーソフトウェアへの逆風を解消することも急務であった。当時のLinuxは技術者の趣味の延長で採用されるというケースが多く、商用UNIXや*BSDよりも確実に信頼性が落ち、それらとの間には超えられない壁が存在するものと見なす向きも強かったと思う。また、Linuxディストリビューションはネットが通じていれば無料で手に入るOSであるという意識が強く、無料で拾ってきたOSを搭載したシステムを売っているというレッテルとも闘う必要があった。

これらの課題を全て解消し、大手ベンダーと張り合っていく成長ステージに乗るためには多くの投資が必要であったが、このLinuxとフリーソフトウェアへの一般からのマイナスイメージはVAの資金調達にも逆風であり、なかなか良い投資を得ることができなかった。フリーソフトウェアと言えばFSFであるが、当時によくあった共産主義的なレッテルもVAには良い影響も与えなかった。そのため、このマイナスイメージを改善することが急務であったが、逆風の原因となるフリーソフトウェアそのものに頼っていたVAにとっては解決が難しい課題でもあった。

そして1998年を迎える。次回、VAの歴史という本筋からはずれるが「オープンソースの誕生」。

次回:オープンソースの誕生

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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie

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