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日記

kazekiriの日記: ソースウェアムーブメントになっていたかもしれない話

日記 by kazekiri

VA社からは完全にずれるが、ソースウェア(Sourceware)という語についてもう20年近く心の奥底で気になっていたので供養として書いておく。

オープンソース受容へと動いたFreeware Summitにおいて、Cygnus Solutions創業者のMichael Tiemannがソースウェアという語句を提案していたことは前回の記事にて触れたが、この語は投票で敗れ、そのまま忘れ去られたというわけではない。現在もGDB、Binutils、CygwinといったCygnus社の影響が強かったフリーソフトウェアをホストするsourceware.orgのホスト名として残っている。

Cygnus Solutionsは、98年当時において最も成長を遂げていたフリーソフトウェア企業であり、GDB、GCC等のカスタマイズ、機能改善、バグ修正といったサポートをCygnusから受けていた日本の大手企業も多かったと思う。また、CygnusにはGNU開発系ツールの原作者が多く在籍し、特に組み込み市場では大きな影響力があったが、ニッチで地味な市場の特性の影響なのか、Michael TiemannとJohn Gilmoreという生粋のハッカーが経営することからの影響なのか、知る人ぞ知るといった会社であった。

Michael TiemannはGNUの信奉者であり、GNUプロジェクトに深く関わっていることからRMSの代役的な立場でFreeware Summitに招聘されたのだと思うが、彼はそこでフリーソフトウェアではなくソースウェアを新しい語として提案した。オープンソースという言葉の推進を開始した者達の動機を彼自身はよく理解し、フリーという語が抱える問題を本気で解決したかったのだろう。また同時にオープンが抱える曖昧さや一部の企業が背後に存在することも気になっていたのではないだろうか。残念ながらその場では全くと言っていいほど支持を得ることはできなかったわけだが、CygnusのGDB、GCCのビジネスはまさにソースコードレベルのサポートを販売していたわけでソースウェアという語は意外としっくりとくるものである。当時のCygnusよりもずっと規模が小さいLinuxディストロ系の会社は箱を売って日銭を稼ぎ、VA社は有り触れたPCを売っていたわけであるが、既にフリーソフトウェアのソースコードの改善をそれなりに大きなビジネスに変えていたCygnusによるソースウェアのほうが現在のおいて一般的にイメージされるオープンソースビジネスを表現する語として相応しいと思う時もある。まあ、地味だし、分かりにくいけれども。

なお、Freeware Summitの際、Michael Tiemannは業界全体の結束が重要だと唱え、オープンソースを使用していくことも同意した。また、オープンソースの歴史をまとめたO'Reilly社のOpen Sources: Voices from the Open Source Revolutionに一章を寄稿している他、オープンソース運動をテーマにしたドキュメンタリー映画のRevolution OSにも出演、さらにESRの後のOpen Source InitiativeのPresidentとしての活動も行っている等、オープンソースの普及に精力的に努めているが、その一方で先に触れたsourceware.orgの前身となるsourceware.cygnus.comを立ち上げ、そのFAQにはこう書き記していた。

A: Sourceware? Is that like Open Source-TM? Like Free Software?
Q: Yes. It's so much like them that we have our own term for it. Sourceware-TM is the Official Nomenclature around Cygnus, but it's just another word for libre software. Groovy, eh?

ソースウェアを使い続けたのはビジネス的にオープンソースという語が失敗した時の保険だったのかもしれないし、感情的なものを含めて他の意味があったのかもしれない。何となく黒歴史のような気もしていたので本人どころか当時のCygnus関係者にも聞いたことはないのだが、彼はずっとフリー(自由)にこだわりを持っていたからこそ、ソースウェアを使い続けたのだと私は解釈することにしている。

なお、当時のVA社よりもMichael TiemannとJohn Gilmoreが率いるCygnusのほうがハッカーからの信頼は高いはずであり、それを考えるとタイミングが一歩狂えばオープンソースではなく彼らが推すソースウェアが代替として使われるという可能性も実はあったのかもしれない。もしソースウェアが先に浸透していたとしたら、 「ソースウェアムーブメントに乗ってソースウェア的な手法でソースウェア化しました」などというフレーズも一般に溢れるようになっていたのかもしれない。(いや、ないか...。)

1997年にGCC等のビジネスでの成長の踊り場を迎えていたCygnusは、ベンチャーキャピタルからの投資を入れ、eCosという新規開発のOSでRTOS市場に進出することになるが、これは期待よりはうまくいかなかったのだろう。1999年にCygnusはIPOで潤沢な資金を確保していたRed Hatと合併することになった。Cygnusの社名はその後消滅したが、多くのGNU関連ツール、フリーソフトウェアの基盤を握る優れた人材、そしてIPO時には確固たるものを持っていなかったオープンソースのビジネスモデルをRed Hatにもたらした。そして、ソースウェアはそのサイト名とURLだけに残されている。

次こそオープンソースバブルへ。

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日記

kazekiriの日記: オープンソースの誕生

日記 by kazekiri

VA Researchの歴史においてオープンソースは外せない話題であるが、特に1998年の2月から4月までの期間はVAを抜きにしてもオープンソースにとって極めて重要な出来事が多いのでやや詳細に書いていく。現在、一般的にオープンソースの誕生は下記のように説明されることが多いのではないかと思う。

「Netscapeブラウザのソースコード公開計画の公表を受け、1998年2月にLinuxとフリーソフトウェアの開発者、コミュニティリーダーらがシリコンバレーに結集し、フリーソフトウェアに替わる用語としてオープンソースという言葉を生み出し、その定義を定め、オープンソースという商標を管理する組織を作った。Linus Torvaldsなどの著名なハッカーがそれに対して賛同し、一般に広まった。」

特にフェイクが含まれているわけでもないし、大概これで問題ないようには思うのだが、何故、この言葉を生み出す必要があったのか?という疑問が湧いてくる気がするし、何故この言葉は意味がゆらぐことがあるのか?といった割とあった疑問を解消するものでもない。また、まるで一夜にでオープンソースという言葉をコミュニティや業界が受け入れたかのような印象を与えるだろう。これらの回答を全て示すわけではないが、疑問への若干のヒントになると思われるので、時系列順にVAの視点を交えつつ書いておく。(他の主要人物からの視点は、O'ReillyのOpen SourcesやRMSの伝記等、既に刊行済の幾つかの書籍を読むほうが良いかもしれない。)

オープンソースという言葉の誕生

前回も書いたように、1997年頃にはVA Research社のLinuxワークステーションとサーバーはシリコンバレーを中心に受け入れられつつあったが、ドットコムバブルで発生していたインターネットサーバーの大きな需要に食い込むまでには全く至ってなかった。ソフトウェア面の信頼はLinuxユーザーコミュニティに近い層からは割とあったわけだが、そこから離れれば全くないに等しく、無料のOSで商売になるわけがないと言われていた。また、ハードウェアでビジネスを進めていくためには、生産設備、人員、サポート体制等のインフラ的な面への大きな投資が必要であったが、投資を得ようにも有力なベンチャーキャピタルは、フリーソフトウェアという無料でかつ共産主義的なイメージを持つソフトウェアに頼るVAのビジネスには極めて懐疑的であった。VA社はこのような逆風を取り除く必要に迫られていた。

そのような状況において1998年1月22日、Netscape Communications社がNetscape Communicatorのソースコードを修正と再配布可能なライセンスで無償公開する計画を発表した。現在のMozillaとFirefoxにつながっていくことになる決定である。

IEに遅れを取りつつあったとは言え、当時のシェア二位のWebブラウザのソースコードが公開されるというニュースのインパクトは大きく、VA社内はこのニュースに沸き立ち、まだ公開もされていないのにこの流れにどう乗るかという機運に包まれていたようだ。そこへ一人の男がマウンテンビューのVA社オフィスへ訪問してくることになった。Eric Raymond(ESR)である。

Eric Raymondはこの前年に「伽藍とバザール」を発表し、フリーソフトウェアコミュニティの中では一躍時の人となっていた。どのような経緯でEric RaymondがVA Researchを訪れることになったのかは私は知らないが、彼はNetscapeの決定を受けて、それを支援するためにわざわざペンシルバニアからシリコンバレーに来ていたようで、そのついでにフリーソフトウェア関連のビジネスを行う企業をできるだけ訪れようとしていたようだ。Ericを迎えるVA社側はCEOのLarry Augustin、VAのマーケティング担当でありSVLUG会長でもあったSam Ockman、業界団体のLinux Internationalを代表するという名目でJohn "maddog" Hall、外部の有識者的な枠?でナノテクノロジー関連のシンクタンクであるForesight InstituteからTodd Anderson、Christine Petersonの二人がESRを迎えての会合に招聘されていた。また、電話でSUSEなどの企業の人間も何人か会議には加わっていたようだ。フリーソフトウェアを贔屓にしていたことは確かのようだが特にコミュニティのリーダーでもないForesight Instituteの人間が何故招聘されていたのかは私には分からない。ただ、VAのCEOであるLarryとしてはこのタイミングでフリーソフトウェアへの逆風が吹くビジネス環境を一気にひっくり返すようなアイディアをなるべく広い視野で募りたかったのだろう。この二人の招聘の判断は結果的に非常に重要な意味を持つことになる。

ESRをVA Researchのオフィスに迎えての会合は1998年2月3日に行われた。会合のテーマは、Netscapeの決定を受けてフリーソフトウェアに注目が集まっている間に同調する企業の出現をどのように促すべきか、そして今回の決定をフリーソフトウェアの業界全体がどのように利用すべきか、というもので、ブレインストーミングのような形式の会合だったようである。この会合の冒頭、VAが直面していたフリーソフトウェアに対する印象、特に大企業の幹部層からのイメージが極度に悪いことへの不満がVA側から出された。当時のVAからすれば、FSFから発せられるフリーソフトウェアのイメージも単純な無料という意味のフリーも彼らのハードウェアビジネスにとってはマイナスであったことは間違いなかっただろう。

この不満に対する議論の中、Foresight InstituteのChristine Peterson女史がフリーソフトウェアという言葉の代替となる用語として「オープンソース」という言葉を代替することをさりげなく提案した。これがオープンソースの誕生である。

フリーソフトウェアへの逆風をいかにして克服すべきかという問いに対して、オープンソースという言葉に置き換えるという発想は他の参加者にとって青天の霹靂だったと思われる。コミュニティから少し離れた立場の人間だったからこそ生まれた発想だったのかもしれない。Christine Peterson自身は会合の数日前からそのようなアイディアを持っていたと聞くが、彼女はこの造語がとても受け入れられるものとは思っていなかったらしい。しかしながら、フリーソフトウェアという言葉に強い忌避感があることを様々な局面で受けていたVAの面々にとっては、非常に新鮮でかつ根本的な解決策に思えた。FSFを中心としたフリーソフトウェアからLinuxを中心としたムーブメントであるオープンソースに置き換えることで、無料のソフトウェアではなく、最新の開発手法であることを印象付けることが可能であるように見えたのである。

この日の内にVA Researchと会議の参加者らはLinuxをショーケースとしてオープンソースという旗印の下でビジネスを推進し、その言葉を広めていくことを決めた。そして、フリーソフトウェアの思想、カルチャーよりもLinuxの開発手法の先進性をアピールして、オープンソースの優位性を唱えていくという方針を立てた。この時点でのオープンソースはIT業界にはびこる様々なバズワードと変わらない。しかし、VAがその時点で幾つかのコミュニティに対して大きな影響力を持っていたこと、そしてその場にESRがいたことはこの言葉の浸透に大きな意味があった。さらに、その場でLinux作者のLinus Torvaldsに電話で連絡を取り、オープンソースに対して賛同を得たこともその後に大きな影響を与えた。かなり話が飛ぶが、この後のVA社のIPO時において、オープンソースの生みの親であると株式市場から見なされていたのはこのような経緯もあったからである。

オープンソースの定義の誕生

2月3日のVAでの会合はESRにとっても非常に有意義だったようで、彼は即座にその言葉を使った運動を進めることにした。

ESRは80年代にはEmacsの開発で貢献したりとGNUプロジェクトに近い立場であったが、Richard Stallman (RMS)の開発から組織運営に至るまでの厳格かつ妥協を知らないやり方に不満を抱き、袂を分かった一人でもあった。 1997年に彼が発表した伽藍とバザールは暗にGNU HurdとLinuxの開発体制を比較したものと見なされているが、これはVAにおける会合以前から彼がFSFからLinuxへスポットライトをずらすことを考えていたとも言える。

FSFの教条的なイメージを排し、彼の提唱したバザールモデルの象徴であるLinuxを押し立てて新時代の開発手法をアピールし、今までフリーソフトウェアを受け入れてこなかったスーツ層に訴え、フリーソフトウェアをソフトウェアビジネスの世界に受け入れさせる。この考えに対してVA社で出たオープンソースという言葉での置き換えというアイディアはうまくマッチするように思えたのだろう。

ESRはVAでの会合の直後から行動を開始し、数日以内には、何人かのフリーソフトウェア業界の著名な開発者とTim O'Reillyを含むビジネスパーソンにも同様に連絡を取った。この中で最も重要な意味を持っていた人間はDebian Projectのリーダーを務めていたBruce Perensだった。

Debian Projectは前年の1997年にDebian社会契約(Debian Social Contract)とDebianフリーソフトウェアガイドライン(Debian Free Software Guidelines, DFSG)という文書を公表していたが、そのドラフトを作成したのがBruce Perensである。Debianは元来からフリー(自由)な構成要素だけを利用することを志向していたが、このDebian社会契約は社会契約という形でそれを改めて宣言した文書である。この思想において、何がフリーであるのかという点を明確にするためにその条件を書いたものがDebianフリーソフトウェアガイドラインであるが、ESRはこのDFSGの存在をよく知っていたようで、この文書がオープンソースという新しい言葉を定義するために丁度良い文書だと考えついたのである。

ESRから相談を受けたBruce Perensはオープンソースのアイディアに賛同し、DFSGからDebian特有のタームを外して、オープンソースの定義(Open Source Definition、OSD)という文書を再作成した。この時点でオープンソースという言葉の定義が一応決定されたということになる。さらにPerensはオープンソースのマークを作成し、オープンソースという言葉と共に商標登録することを思いつき即座に実行した。そして、定義となるOSDと商標を管理する場としてopensource.orgドメインを取得した。

(なお、この商標登録とドメイン取得は、PerensがDebian Projectの金銭面や法的基盤を整えるために97年に設立していたSoftware in the Public Interest(SPI)という非営利法人にて行っていた。2006年まで続くopensource.orgドメインのSPIとOSIによる帰属問題の係争はここに端を発している。)

その後、ESRとPerensが中心となり、他に何名かを加えて、OSDと商標を管理するための組織である現在のOpen Source Initiativeの前身となるグループを2月末までに立ち上げた。

この流れで重要なのは、様々な信条を取り除いた上で理想とするフリー(自由)を定義したDFSGという文書からオープンソースという言葉の定義を拝借したことで、このような条件を満たすものをオープンソースと呼ぶとしたことであり、少なくともOSIという枠組みの中では開発手法や文化、政治信条的なものは含まれていないということである。Bruce PerensとしてはDebianでも社会契約とDFSGを切り分けたように、オープンソースから思想を排したほうがフリーソフトウェアの思想を売り込むために有利になると判断したのではないかと私は思っている。それを示すように、初期のopensource.orgにはESRがハロウィン文書を含む雑多な文書を置こうとしていたが、逆にPerensはそういったものを排除するように動いている。

オープンソースという言葉の受容

1998年の2月末までにはOSIの枠組みは完成しつつあったが、オープンソースという言葉の受容に関しては開発者やユーザーコミュニティでは賛否両論であった。2月8日にESR自身が「Goodbye, "free software"; hello, "open source"」という文書を発表し、各所のNewsGroup、ML、そして当時は生まれて間もないLWN.netSlashdotといったメディアに掲載されて議論を呼び、好意的な意見が割と多かったものの激しい嫌悪を示す者も少なくはなかったように記憶している。

ここでESRが早期にTim O'Reillyと連絡を取り合っていたことが意味を持つことになる。

彼が率いるO'Reilly社は当時でも様々なフリーソフトウェアやインターネット関連の技術書籍で知られていたが、Perl Conferenceというイベントも開催していた。Tim O'Reillyは97年のPerl ConferenceにESRを招聘し、伽藍とバザールに関しての講演を要請していた縁からESRとは周知の関係であり、ESRの考え方の良き理解者でもあった。また、O'Reillyはそのビジネスの関係上、Perl、Python、Tclといった言語、Apache、Sendmail、BINDといったインターネットの要素技術の関係者とも近く、フリーソフトウェアという言葉へのビジネス界隈からの忌避感をよく理解していたことから、ESRから知らされたオープンソースのアイディアを好意的に捉えていた。

O'Reillyは4月7日に彼の人脈を使って代表的なフリーソフトウェアの作者らを集める「Freeware Summit」と題した会議を開催する計画を立てた。O'Reillyとしてはフリーソフトウェアの界隈にスポットライトが当たっているこのタイミングで既にインターネットの様々な領域を支えているフリーな要素技術にも注目を集めたかったのだろう。フリーソフトウェアサミットともオープンソースサミットとも冠することがなかった意図は正確には分からないが、招聘予定者らの立場をそれぞれ忖度していった結果だと思われる。

サミットの出席者はサミット後の記者会見出席者のログにて確認できるが、司会役のTim O'Reillyの他、ESR、Linus Torvalds、Brian Behlendorf (Apache)、Larry Wall (Perl)、Guido Van Rossum (Python)、Eric Allman (Sendmail)らがいた。また、電子フロンティア財団(EFF)とGNU製品のサポートを行っていたCygnus Solutions社の創設者でもあるJohn Gilmore、(このリストには掲載されていないが)同じくCygnus Solutions社の創設者であるMichael Tiemannが招聘されていた。

サミット会合ではまず彼らが自身のプロジェクトでの体験を共有し、何故フリーなプロジェクトが成功したのかを話し合っていたようだ。この内容については、Guido van RossumによるPython newsgroupへの投稿が参考になるだろう。最終的に議論は、フリーソフトウェアという言葉が抱える逆風の問題に誘導され、新しい言葉を出し合った。その案の中にはfree softwareを使い続けるもの、また"freed software"という言葉もあったようだが、これらは支持を得ることはなかった。そのような中、Cygnus社のMichael TiemannがSourceware(ソースウェア)を提案し、その後にESRが提案したオープンソースと共に参加者による投票が行われた。投票の結果、15人中9人がオープンソースに投票したとRMSの伝記であるFree as in Freedomの11章には書かれている。私自身は総数が18人と聞いたことがあるのでこの数字が正確なのかは断言しかねるが、少なくともオープンソースに過半の支持が集まったことは確かなようである。

この結果を受け、その場の全員が結束して今後は基本的にオープンソースという語を使っていくことで同意し、サミット後に行われた記者会見でそれが公表された。既にVA Research社、Netscape社がオープンソースという語を使い始めており、さらにO'Reilly社が続くことになった。それに対してLinusを始めとするフリーソフトウェア界の著名開発者がその語を使っていくことを公に宣言した。この事実は非常に大きく、その後の様々な報道でオープンソースという言葉が使用されるようになり、一般にも次第に浸透していった。

なお、ここで興味深いのはオープンソースの定義というものに大きく触れることはなく、それぞれが推進するフリーソフトウェアの開発モデルの優位性等を話し合うことで、オープンソースが開発モデルやカルチャーのように扱われている面があることである。

まとめ

オープンソースの誕生はその語句の誕生、定義付け、受容といった三つの段階があったわけだが、面白いことにその三つの段階は全て異なる場所で異なるメンバーによって起こされたものである。VA社のオフィスでオープンソースという言葉を編み出したのはChristine PetersonとVAの面々と仲間内のビジネスパーソンであり、定義を生み出して実際に商標化まで行ったのは「フリー」の信奉者であるDebian ProjectのBruce Perens、そして主要開発者を集めてオープンソース受容の流れを演出したのはTim O'Reillyである。それぞれの段階での思惑はそれぞれの立場から微妙に異なるものの、共通するのは 様々なフリーソフトウェアが起こしていたムーブメントを如何にしてさらに広い世界へ売り込んでいくかということであり、この段階全てに参加していた唯一の人間であるESRは全てをうまく飲み込み、 このムーブメントを煽り続けるスポークスマンを演じていたと言える。

一方、伽藍とバザールを書き下ろして以降のESRは反FSF的なイメージで捉えられることもあったし、O'Reillyに関してもフリーソフトウェアのマニュアルはフリーでなければいけないというRMSの主張と闘っていたという経緯もあり、オープンソースをフリーソフトウェアと対立する概念として見る向きもあった。Freeware Summitの参加者にしても既にオープンソースに賛同していた者とO'Reillyとの関係が深い者を恣意的に選び、RMSが不参加だった穴に対してJohn GilmoreとMichael TiemannにGNUの論理を語らせて両陣営のバランスを取ったように見せかけた出来レースだったとも言えなくもない。このあたりからオープンソースとバザール的手法との混同、ビジネス寄り等といったような批判、またフリーの自由か無料かといった揺らぎと同様のオープンの意味の揺らぎが発生した一因であったように思うこともある。しかしながら、オープンソースの発明によってフリーソフトウェアの開発者、企業への注目がより集まったのは確かであり、結果として以前よりは自由な世界になったとは言えるのではないだろうか。

次回、VAとオープンソースバブル(仮)。

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日記

kazekiriの日記: オープンソースの源流、VAリサーチ社の黎明期 1

日記 by kazekiri

昔々、VA Researchという会社がシリコンバレーにあった。この社名を知っている人は日本ではほとんど存在しないが、この会社はVA Linux Systemsと名を変え、その後に歴史的な株式公開を果たして上場会社となったことでわずかに記憶が残っている人達もいることだろう。さらにこの会社はVA Software、SourceForge、Geeknetと名称を変更し続け、2015年に最後まで残った事業がゲームビデオゲームの小売で最大手となるGameStop社に買収され、独立企業としての生涯を終えた。

今となっては歴史から抹殺されているが、このVA Research社がオープンソースという言葉や運動に影響を与えたことは間違いなく、(傍系はまだ存在するが)直系となる企業はもはや存在していないので、いずれ私の記憶までも曖昧になる前にこの会社の歴史をまとめておこうと思う。私がVAに関わる以前の歴史については、人伝に聞いたもの、VAの社内ML等を漁って知っていたもの、様々な書籍や公開文書から知ったものを書き連ねていくが、大筋的には既に公にされている歴史と差異は少ないと思うので大発見のようなものはないだろうし、既にこのあたりのことに興味がある人はほぼ存在しないと思っていたのだが、以前にあったオープンソース歴史研究会の件から黎明期のオープンソースの歴史を発掘したいという奇特な人がまた現れるかもしれないなということで書きなぐることにした。

起源

VA Research社はLarry AugustinとJames Veraが1993年に共同で創業した。二人の名前の頭文字からVAという社名になっている。モロにHP社のパクリである。二人はスタンフォード大学で知り合ったらしく、 Yahoo!創業者のJerry Yangとも近い関係であったらしい。Yahoo!の創業に誘われたが、それを断って二人でVAを創業したという話は何度も定番のネタとして聞いたのである程度は本当のことなのだろう。ただ、共同創業者のJames Veraについてはそれ以上の話を聞くことは一度もなかった。つまり、相当早い時期にVAはAだけの会社になっていた。

93年から94年にかけての事業活動は大学での伝手でホワイトボックスPCにLinuxなどのフリーなPC UNIXをインストールして売り歩いていたとも聞くが不明瞭な部分も多くよく分からない。カリフォルニアの会社法人として登記したと思われる1995年1月以降のVA Research社の事業は、Linux OSをプリインストールしたPCの製造と販売であることははっきりしている。大学時代の体験からそのままLinuxプリインストールPCという考えに行き着いたように聞いたことを記憶しているが、Linuxカーネルは1994年に1.0、1995年に1.2、1996年に2.0がリリースというペースであり、コアな技術者層においてのLinuxの浸透とVAの創業時期はうまく重なっている。このようなタイミングが良かったのか、VA ResearchのLinuxプリインストールPCはシリコンバレー周辺で安価なUNIXワークステーションを求めていた技術者、研究者に受け入れられ、割と早い時期に事業が軌道に乗った。VAのLinuxワークステーションはハードとして有り触れたパーツで構成され、特筆すべき点は特になかったが、Red HatやDebian等がハードに合わせて若干の調整がされており、そのサポートもされるという点で当時としては画期的だった。90年代に秋葉原で異彩を放っていたぷらっとホームに割と近い存在だったのかもしれない。

他にVAのLinux PCが受け入れられた理由としては、CEOのLarry Augustinのパーソナリティや社員の人脈に依るところも大きかったと思われる。Larryは、ビジネスの話題になると死んだ魚の目になるが、ハックやコミュニティ、テクニカルな話題になるとイキイキとした目になる分かりやすい男で、ちょっとしたパッチを送ってマージされたという話や日本人のDebian開発者らに囲まれて「Everyday apt-get! apt-get!」と相互に叫んでいた話など、嬉しそうに話していたことを思い出す。当時のシリコンバレーにおいてもLinuxのサポートができ、かつフリーソフトウェアコミュニティの匂いがする会社というのは珍しい存在であり、技術者からの親近感が当時のUNIX系ベンダーの巨人的な会社よりはあったのかもしれない。

着実な歩みとジレンマ

VAはいつの間にかシリコンバレー一帯をカバーするLinuxユーザのコミュニティであるSilicon Valley Linux User Group (SVLUG) に浸透していった。日本でLinux User Groupと言うと、かつてogochanが率いたJLUGを思い浮かべる人が年寄り世代には多いと思うが、SVLUGはJLUGのようなオンライン中心の組織ではなく、それよりもさらに過去に遡るかつてのJUS (日本UNIXユーザ会)に近いと思って頂いたほうが良い。SVLUGは元々はSilicon Valley Computer Societyという組織のPC UNIXを扱う一部門だったようで、80年代からMinixやXenix等のトピックを扱っていたようだ。*BSD時代を経て、この頃には急速にLinuxに傾倒するようになってほとんどのメンバーがLinuxを使用するようになり、独立したLinux User Groupとなったらしい。SVLUGのメンバーだから社員になったのか、VAの社員だったからSVLUGのメンバーになっていったのか、どっちが先なのかは分からないが、1997年あたりにはSVLUGのコアメンバーの多くがVAの社員となっており、SVCSからの独立もVA系の社員に依るところが大きかったようだ。

このあたりのSVLUGのコアメンバーのVA社員には、後にHPC界隈ではそこそこの知名度のあるPenguin Computingを創業したSam Ockman、Director of Open Sourceの肩書きでSummer of Code、Google Code、その他多くのGoogleのオープンソースプロジェクトに関わり続けているChris Dibonaらがいる。VA時代のChrisはWindowsバンドルPCのWindowsライセンスの返金を求めるWindows Refund Dayのデモ行進を率いたことや、オープンソースの歴史をまとめたオライリーの「Open Sources」を書いたことでも知られていたが、今はそれらの業績に対してVAという名称はあまり出していないようだ。彼には黒歴史なのだろう。

SVLUGのミーティング等を活動を通じてVAの名前がユーザーコミュニティに浸透していったという側面もあるが、VAはLinux Internationalという業界団体を通じて当時生まれたばかりでごく小さな零細企業しか存在していなかったLinuxビジネス業界の中でリーダー的な地位を持つと見なされるようにもなっていた。Linux Internationalがどのような経緯で作られたのかは知らないが、当時のLinuxコミュニティの有名人であったDECのJon "maddog" Hall (DEC AlphaへのLinuxの移植をLinusに要請したことや立派な白髭の風貌を覚えている人は多いだろう)がトップを務めており、今のLinux Foundationが行っているようなマーケティング活動やプロジェクト支援活動といった事業を当時の業界規模のレベルで行っていた。97年ぐらいからはLinux InternationalにおいてのVA社員の比率は非常に高くなっており、Jon "maddog" Hall 自身も99年にはVAに移籍している。

当時はWindowsの全盛期であったが、同時にインターネットバブル(ドットコムバブル)の最中でもあり、シリコンバレーには旧来からのITベンダーだけでなく様々なドットコムベンチャー、技術者、投資家が集まってきていた。それにより、インターネットサーバーや開発用のワークステーション用途での安価なUNIXマシンの需要は大きく、フリーなPC UNIXへの期待は日増しに増していくという状況であった。CEOであるLarryを中心にSVLUGやLinux Internationalといった団体、もしくはオンラインの開発コミュニティに割と近い位置にいたVAは、これらのITベンチャーに関わる技術者からの支持を受けやすかったのだと思われる。

また、シリコンバレー周辺にはLinux専業の会社はあまり存在していなかったのも幸いだったのだろう。歴史的な経緯から*BSDに近い会社は当時もそこそこ存在していたと思うが、RedHatはノースカロライナの会社であるし、他のLinuxディストリビューターもシリコンバレーの会社ではなかった。当時はLinuxの中ではRedHatが割とシェアを伸ばしつつある状況ではあったが、VAは基本的にディストリビューションに中立であったこともいろいろと好みが煩いエンジニア層を相手にするのは都合が良かったのだろう。

1997年頃までにVA Researchは200-300万ドルの年間売上と10数名程度の社員を抱えるまでに成長し、少ないものの着実に利益を重ねていた。ただ、当時のインターネットバブルに沸く他の商用UNIXベンダーやMicrosoftといったIT業界の巨人らなどと比べれば蟻のような存在であったことは間違いなく、単なるPCにLinuxを入れただけの製品で勝負していくには限界が見えていた。インターネットサーバー用途ではLinuxに巨大な潜在的需要があることは誰もが理解していたが、その分野は当時はSun, IBM, HP, Dellといった大手UNIXベンダー、PCベンダーと直接的に競合する分野であった。それでも、次の成長へ向かうためにサーバー分野に本格的に進出する必要があった。

ハードウェアに特筆すべき点が特になく、あくまでIAのハードとLinuxディストリビューションの組み合わせのLinuxシステムで勝負しようとしていたVA Researchにとっては、サーバーハードの設計、開発、保守のための設備、人員への投資が必要であり、さらにその上に搭載するLinux OSのために優れた人材をさらにかき集める必要があった。それと同時に、LinuxしかウリがないVAにとっては、Linuxとフリーソフトウェアへの逆風を解消することも急務であった。当時のLinuxは技術者の趣味の延長で採用されるというケースが多く、商用UNIXや*BSDよりも確実に信頼性が落ち、それらとの間には超えられない壁が存在するものと見なす向きも強かったと思う。また、Linuxディストリビューションはネットが通じていれば無料で手に入るOSであるという意識が強く、無料で拾ってきたOSを搭載したシステムを売っているというレッテルとも闘う必要があった。

これらの課題を全て解消し、大手ベンダーと張り合っていく成長ステージに乗るためには多くの投資が必要であったが、このLinuxとフリーソフトウェアへの一般からのマイナスイメージはVAの資金調達にも逆風であり、なかなか良い投資を得ることができなかった。フリーソフトウェアと言えばFSFであるが、当時によくあった共産主義的なレッテルもVAには良い影響も与えなかった。そのため、このマイナスイメージを改善することが急務であったが、逆風の原因となるフリーソフトウェアそのものに頼っていたVAにとっては解決が難しい課題でもあった。

そして1998年を迎える。次回、VAの歴史という本筋からはずれるが「オープンソースの誕生」。

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日記

kazekiriの日記: Ian Murdockが亡くなった件

日記 by kazekiri

Ian Murdockが亡くなったそうです。Ars Technica、The Register、TechCrunch あたりで記事になっているので本当のことなのでしょう。

Debianのプロジェクトリーダーと言えば、二代目となるBruce Perens が良くも悪くも目立つ存在であり、大きな政治力で1998年からのオープンソース運動を牽引したことで知られています。しかしながら、Debianの思想、組織、技術の全ての面においてIanがリーダーだった頃にその骨格が既に作られていたことは事実であり、Ianがその形成に重要な影響を与えたことは間違いないことです。また、Debian Projectという存在がなければ、オープンソース運動が思想的に開始できていたか怪しいですし、開始できていたにしてもDebianという牽引車がなければただの一過的なバズワードで終わっていた可能性もあるでしょう。彼が立ち上げたDebianが後世に与えた影響は計り知れないものがあります。

そのような彼と私にはちょっとした因縁がありました。2005年の夏に突然出てきたDebian Common Core Alliance(DCCA)という構想に絡んでのことです。このDCCAは、Ianと彼が経営していたProgeny Linux Systemsが主導していました。DCCAの当初のお題目としては、エンタープライズ向けのDebianの共通サブセットを定義、開発するといったものだった記憶がありますが、DCCAのメンバーは(Ubuntu以外の)世界の主要なDebian系ベンダーを名を連ね、Debian Projectとは別の企業コンソーシアム形式の組織で運営するというものでした。何故かこのDCCA初期メンバーに我々の前身でもあるVA Linux Systems Japanが我々の与り知らぬところで加わることになっており、また、ボランティアベースであるDebian Projectとは違うDebianを企業コンソーシアムで作るというアイディアが当時のVA Japanには全く受け入れられる考え方ではありませんでしたので、結果的にIanのProgenyと我々のVA Japanが激しく対立することになってしまったのです。その余波をeWeekの記事ITmediaなどで今も見ることができます。結果としては、Debianのコミュニティ内部、企業間、そしてメディアを通じて反DCCA側が一方的にやり込める形になり、DCCAは何とか船出はしたもののすぐに忘れ去られる形になりました。

この騒動は、構想を止めたという一点ではVA Japanの勝ちとも言えたのかもしれませんが、我々を含めたDebian界隈にとっては余計なパワーを消費しただけでしたので何とも言えない苦い記憶となっています。また、当時はあまりにも急な出来事で何故 Ianがこのような無謀な構想を進めたのかを考えることもありませんでしたが、今から思えば Debianの組織の肥大化、リリースの遅さ、Debian系ベンダーの規模の小ささと技術力のなさ、Ubuntuになびく開発者、Progenyのビジネス状況などを総合的に見た結果の判断だったのだろうなと思います。ただ、Debianの創始者であるという意識が強すぎて、自分が作ったはずの民主的組織の感覚からずれたことが問題だったのでしょう。

この騒動の1年ほどの後、Ianが作ったProgenyは廃業となりました。我々はOSDNになってからもずっとDebianの信奉者であり、ProgenyとVA Japanは同じようにドットコム崩壊をくぐり抜け、かなり似通った思考を持っていました。それだけに廃業時にはひどく残念に思いましたし、事前に相談があれば当時の VA JapanとProgenyであれば面白い取り組みができたのではないかと思う時もあります。ProgenyはDebianの創始者が作った純粋なオープンソースの会社であり、それを失うことは業界には損失でした。彼らのような会社こそ残ってほしいと思っていましたが、うまくはいかないものです。

Progeny廃業後のIanが Sunで働き、OpenSolarisに関わっていたことなどは人伝で知ってはいますが、Progeny以降の彼とは全く関わりがありませんし、Progenyに関してはほとんど書く人もいないでしょうから、以前からどこかに歴史として残しておこうと思っていた黒歴史の一つであるDCCAに絡めて書いてみました。オープンソース界隈には本物が少なくなっていると感じる昨今、彼のような本物がいなくなるというのは寂しく感じます。本当に。

12595908 journal
日記

kazekiriの日記: オープンソース歴史研究会とやらに出てきます

日記 by kazekiri

今年は随分と事件が重なったおかげで、日記も随分と間隔が空いてしまいました。日付を見ればいつ頃に事件が起きたのか分かるというのも何とも自分で間抜けに思えるわけですが、いろいろと区切りが付いた過去を振り返っておこうかなという気分になっております。

そんな時にちょうどよくmhattaこと八田先生から「オープンソース歴史研究会」(https://atnd.org/events/72275)という場に呼びつけられました。来いと言われただけで詳しくは聞いていませんが、おそらく中央大の飯尾先生がオープンソースの創世記の歴史でもまとめようとしているのでしょう。学生さん達の前で八田先生から当時のことについて事情聴取されるようです。

プログラムには「ビジネスの視点から」と書かれていて、そんなの聞いてませんけど状態ですが、オープンソースという言葉と運動が開始された事情を知っている日本人は他にいるような気がしませんし、幾つかの出来事を近くで見てきたことは事実なので、聞かれたことはペラペラと話していこうかと思っています。もうほとんどのことは喋っても迷惑がかからないでしょうし。

案内を見る限りは一般の方も参加できるっぽいので、興味があればご参加をどうぞ。

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日記

kazekiriの日記: 懲戒処分 2

日記 by kazekiri

先月には調査委員会による科学としての決着、そして今日は理研という組織としての決着となりました。直前に記者会見の案内がきましたが、今回もスルーにて対応。

その内容についての感想は特にないわけですが、一連のkaho日記が最初に出たのは3/5、その騒動から何や何や?と勉強しだして会見に出席したのが3/14... と振り返るともう随分と月日が経っているものです。その流れから理研内も含めて発生生物学系の優秀な科学者の奮闘もうかがい知ることもできまして、非常に良い刺激を受けた一年であったと思います。

これからは刑事になるのかはわかりませんが、法的な決着に向けてはまだ何年もかかるでしょう。ただ、まあこれで科学者の方々の役割はこれでいったん区切りだと思うとちょっと嬉しくなります。

[追記] どうやら妙に連絡が遅れたのは、そもそも会見の予定がなくてプレスリリース投げ込みで済ませようとしていたからのようで。これで区切りだというのに先が思いやられる...。

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日記

kazekiriの日記: 降り立ったことはないけど高崎について

日記 by kazekiri

私の実家は富山なわけですが、小さな頃は北陸民が東京方面に出ようとしますと、上越線か信越線経由のどちらかになりました。どちらも険しい山岳地帯であり、上越線であれば清水トンネル、信越線であれば碓氷峠という関東平野に抜けるためのシンボリックな関門が待ち構えています。そしてやっとのこさ関東平野へ抜け、最初に到着する大きな駅がどちらを経由の場合も高崎駅となります。

上越線も信越線も起点がそもそも高崎ですし、関東平野に抜けてもうトンネルがない平地だという解放感、あとは(北陸基準では)大都会の街並みということもありまして、高崎駅に到着しますともう東京まで着いたかのような感覚になり、非常にワクワクした気持ちになったものです。

で、つい先日、性懲りもなくまた越後湯沢に行ってきたのですが、その帰りの新幹線で高崎駅を通過する際、「高崎まで来ると下界に降りてきた感じがして残念な気分になる」といった話を嫁様にしました。考えると軽井沢方面から新幹線で高崎駅に着いた時も同じことを言っていた気がします。まあ碓氷峠を新幹線で一気に下る感覚は確かに下界にまっしぐらという感じではありますし、大清水、中山という長大トンネルを抜ける上越新幹線も別世界に出て行くようなものですが、最近では毎回高崎駅までくると残念な気分になります。

もう東京に住みついてからはそれなりに経ちますが、基本的に北信越方面へ出る場合は帰省かレジャーなわけでして非日常の世界であります。まあ、その非日常のフワフワした感覚が高崎駅で現実に引き戻されるので残念な気分になるのでしょう。高崎まで来ますともはや車窓から見える風景も東京とあまり変わりなくなりますし。

高崎のことは車内販売のだるま弁当と車窓から見える高崎観音ぐらいしか知りませんし、そもそも高崎の地へ降り立ったことすらありません。そんな私が、昔は到着するだけでワクワクした場所だったのに、今では残念になる場所と勝手なことを言い放っているのも高崎にとってはいい迷惑だろうなと思った次第です。高崎の人にはごめんなさいな話。

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日記

kazekiriの日記: 俺氏、はじめてのWindows Update 4

日記 by kazekiri

随分と昔の話になりますが、私はそれなりの数の計算機やらネットワークやらの管理をやっていた時代もありました。サーバーの主力はLinuxを含むUNIX系マシンでしたが、ネットワーク全体の台数的にはWindowsマシンが圧倒的でWindows95とNT4.0がそれなりにありました。それ以降オープンソース運動だとか... まあいろいろあって今に至るわけですが、私のWindowsの経験はそこでぷっつりと途切れています。つまり、それ以降のWindows OSのことは正直なところ伝聞でしか知りませんし、興味も特にないので知らないことが多くあります。

しかしながら、何故か私の机の隣にはWindows Vistaマシンが置いてあります。弊社の業務的にも出自的にもまあWindowsマシンは必要ないので基本的にはなくてもよいわけですが、以前に在籍していた経理の社員が使っていたPCをそのまま置いているのです。今となってはWindowsでしかできない処理は弊社的には存在しないわけですが、まあ全くWindowsを置かないというのも... ということで最低限の経理処理ぐらいをそこでこなしています。

で、まあふと随分と放置していることも気になりまして、(私としては)はじめてのWindows Updateというのをやってみました。それだけの話ですが、私的にはapt-get updateだけでいいやと思わされました。

11882390 journal
日記

kazekiriの日記: ねぎしの初音 3

日記 by kazekiri

会社近くの台東区谷中には初音と名の付く施設や店舗が多数あります。現在ではもう残ってないようですが、谷中の領域には元々 谷中初音町という町名が存在していたらしく、今でもその旧町名に愛着のある人が多いからということでしょう。初音町の領域は寛永寺の裏手にあたり、江戸時代から寺が多いところでもありますから、旧町名を大事にする感覚が分かるような気がします。数年前にはその町名からある筋の聖地となっていた.... ということはさすがにないでしょう。

その初音町からすぐ近くの鶯谷駅を通り過ぎると、根岸という町域にたどり着きます。その根岸にちょっとした小料理も出す実に昭和的なおにぎり屋があるのですが、そのおにぎり屋の名前は「はつね」であり、表のひさしには地名も入れて「ねぎし はつね」と書かれています。しかも、色は見事なネギグリーンだったりします。

このおにぎり屋の前は何度か通っているのですが、初音、ネギ、グリーンが揃っていることに何故か今日気がつきました。だから何?という話でしかないですが、殺伐と脱力のニュースが続いておりますので、ほのぼのニュースということで。

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日記

kazekiriの日記: 元理研研究者が小保方氏をES細胞窃盗で刑事告発するとか

日記 by kazekiri

ES細胞の窃盗ということで理研OBが小保方氏を刑事告発すると、ジャーナリストの津田哲也氏がTwitterで明かしています。詳細は明日発売のフライデーというのは気になるところですが、告発状の作成を担当したという飯田橋総合法務オフィスのTwitterアカウントもその旨を肯定している流れなので、刑事告発自体はされるのだと思います。

まあ、理研調査委員会の最終報告は既に出ており、それでいて誰が若山研などにあったES細胞を持ち込んだのかは明らかにされなかったわけですので、理研にはこれ以上の追求は不可能なように思います。ということで、真相の完全解明を行う必要があると判断されれば、まあ警察が動く可能性もゼロではないのかなぁとも思ったりもしましたが、どうなんでしょうね...? 個人的には懲戒委員会の結果を待ってもいいんじゃないかとも思ってますが、ES細胞そのものの他に研究費の問題もあるのでいろいろ動いてくるのでしょうね。

私はkaho日記を読んでから科学的興味でこの問題に入ったわけですが、随分とおかしなところまできてしまったものです。

受理されるのかも分かりませんが、まあ一応書いておきます。

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一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy

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